-後漢 > 『資治通鑑』前漢の元帝期を抄訳する

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前48、元帝が即位、王政君が皇后となる

前48年春、王政君が皇后、許嘉が陽平侯に

孝元皇帝上初元元年(癸酉,公元前四八年) 春,正月,辛丑,葬孝宣皇帝於杜陵;赦天下。

元帝の上。初元元年(癸酉、紀元前48年)。

荀悦はいう。元帝は諱を「奭」という。「盛=セイ」という。
応劭はいう。『諡法』によると、義をおこない、民をよろこばす者を「元」という。
ぼくは思う。王莽のために、『資治通鑑』をここから始めた。王莽は、前45年に生まれる。いま王莽が生まれる3年前である。ずっと王莽の禅譲には、おばの「王元太后」がつきまとう。その「元」帝が、いま誕生した。

春正月、辛丑、宣帝を杜陵に葬り、天下を赦す。

臣瓚はいう。崩じてから葬るまで、28日。杜陵は長安の南50里にある。


三月,丙午,立皇后王氏,封後父禁為陽平候。
以三輔、太常、郡國公田及苑可省者振業貧民;貲不滿千錢者,賦貸種、食。
封外祖父平恩戴侯同產弟子中常侍許嘉為平恩侯。

3月、丙午、皇后に王氏を立てる。皇后の父・王禁を陽平候とする。

『恩沢侯表』はいう。陽平侯の食邑は、東郡にある。
ぼくは補う。王禁は、王莽の祖父である。いよいよ「前漢末が始まる」という雰囲気がたっぷりである。これが『資治通鑑』第28、漢紀20である。

三輔、太常、郡國の公田および苑のうち、省いたものを、貧民に振業した。

胡三省はいう。太常は、もろもろの陵邑をつかさどる、ゆえにまた太常にも「公田および苑」があるのだ。
顔師古はいう。「振業」とは、これを振るい起こし、生業をなさせること。
ぼくは思う。国家が管理する田地を、貧民に再分配したのだろう。

資産が1千銭に満たない者には、種籾と食糧を、賦与/貸与した。

『漢辞海』はいう。【貲】シ。財産、たから。食糧、材料、もと。費用、租税。漢代では、未成年者に対する人頭税。六朝では、1戸ごとに納めさせた絹などの実物税。
ぼくは思う。「未成年の人頭税が1千銭に満たない者」ではなかろう資産に応じて、人頭税の金額が決まるのなら、そういう意味にもなろうが。それって「人頭税」じゃなくて、資産税とか所得税のたぐいだ。
賈公彦はいう。「種、食」とは、種子もしくは食用にするもの。ぼくは思う。穀物の果実は、種子であり、食用にもなる。

元帝の外祖父である平恩戴侯の同母弟の子・中常侍の許嘉を平恩侯とする。

文頴はいう。「戴侯」とは許広漢のこと。『諡法』によると、礼にのっとり、誤りのない者を「戴」という。
ぼくは思う。「誤がない」としたのは「愆ぜず」である。『漢辞海』はいう。【愆】こえる、すぎる、あやまつ、たがう、なくす、うしなう、病む。
ヤフーの掲示板はいう。ATOKでは、unicodeでの入力は、文字パレットでおこなう。「ctrl + F11」を押し、「Unicode表」のシートを選び、「コード」の欄に数値を入力する。ぼくは思う。この方法で『漢辞海』で調べた、上記の「愆」を取得した。
文頴はいう。許広漢は、さきに腐刑に座し、後嗣をのこさずに薨じた。許嘉に封爵をつがせた。
『百官表』はいう。侍中と中常侍は、どちらも加官である。前漢期は士人を中常侍に参用し、後漢期は宦官を中常侍とした。


夏,六月,以民疾疫,令太官損膳,減樂府員,省苑馬,以振困乏。
秋,九月,關東郡、國十一大水,饑,或人相食;轉旁郡錢谷以相救。

夏6月、人民は疾疫した。太官は膳をそこない、楽府の定員をへらし、苑馬をはぶき、困乏した者に振給した。

胡三省はいう。楽府の定員は、おおいとき829名である。武帝がたてた。
『漢官儀』はいう。牧師諸苑は36箇所ある。北辺と西辺にわけて設置され、30万匹の馬をやしなう。

秋9月、関東の郡国11で、大水と飢饉がある。人が食いあう。周辺の郡国から、金銭と穀物を転用し、救済させた。

前48年、諫大夫の貢禹が、費用の削減いう

上素聞琅邪王吉、貢禹皆明經潔行,遣使者征之。吉道病卒。禹至,拜為諫大夫。上數虛已問以政事,禹奏言:

元帝は、もとより琅邪の王吉、貢禹が、明經で潔行だと聞いており、使者をやって徵した。王吉は道中で病死した。貢禹は長安にきて、諫大夫となる。元帝は、おのれを虚しくして、しばしば貢禹に政事を問うた。貢禹は元帝に上奏した。

『姓譜』はいう。「貢」姓は、孔子の弟子・子貢の子孫である。
『易』咸卦はいう。君子は、虚をもって人を受ける。師古はいう。おのれを虚しくするとは、アドバイスを聞いて受けることである。


「古者人君節儉,什一而稅,亡它賦役,故家給人足。高祖、孝文、孝景皇帝,宮女不過十餘人,廄馬百餘匹。後世爭為奢侈,轉轉益甚;臣下亦相放效。臣愚以為如太古難,宜少放古以自節焉。方今宮室已定,無可奈何矣;其餘盡可減損。故時齊三服官,輸物不過十笥;方今齊三服官,作工各數千人,一歲費數巨萬,廄馬食粟將萬匹。武帝時,又多取好女至數千人,以填後宮。及棄天下,多藏金錢、財物,鳥獸、魚鱉凡百九十物;又皆以後宮女置於園陵。至孝宣皇帝時,陛下惡有所言,群臣亦隨故事,甚可痛也!故使天下承化,取女皆大過度,諸侯妻妾或至數百人,豪富吏民畜歌者至數十人,是以內多怨女,外多曠夫。及眾庶葬埋,皆虛地上以實地下。其過自上生,皆在大臣循故事之罪也。唯陛下深察古道,從其儉者。大減損乘輿服御器物,三分去二;擇後宮賢者,留二十人,餘悉歸之,及諸陵園女無子者,宜悉遣;廄馬可無過數十匹,獨捨長安城南苑地,以為田獵之囿。方今天下饑饉,可無大自損減以救之稱天意乎!天生聖人,蓋為萬民,非獨使自娛樂而已也。」
天子納善其言,下詔,令諸宮館希御幸者勿繕治;太僕減谷食馬;水衡省肉食獸。

貢禹はいう。「古代の人君は節倹して、10分の1税しかとらない。高祖、文帝、景帝のとき、宮女は10余人を過ぎない(後略)」と。

ぼくは思う。定型的な議論なので、先にゆきます。司馬光が論評しているけど、とりあえず飛ばします。

元帝は、貢禹の意見をきく。元帝が訪問する宮館で、修繕を行わせない。太僕は、穀物を食べさせる馬を減らし、水衡は肉を食べさせる獣を減らす。

胡三省はいう。太僕は馬をつかさどる。
『漢旧儀』はいう。天子には、6つの厩がある。それぞれ馬が1万いる。水衡都尉は、上林苑をつかさどる。禽獣は上林苑にいる。
師古はいう。「減」はへらし、「省」はなくすこと。


前48年、呼韓邪に穀物をあたえ、戊己校尉をおく

匈奴呼韓邪單于復上書,言民眾困乏。詔雲中、五原郡轉谷二萬斛以給之。
是歲,初置戊己校尉,使屯田車師故地。

匈奴の呼韓邪単于が、ふたたび上書した。「匈奴の民衆がした」という。雲中と五原にから、穀物2万石を匈奴に転用して、給付してあげた。

ぼくは思う。王莽を理解するなら、匈奴の関係がキモ。『漢書』匈奴伝とあわせて、この元帝初の救済が、どういう文脈にあるのか、把握すべきだなあ。

この歳、はじめて戊己校尉をおく。車師の故地で屯田させる。

師古はいう。戊己校尉は、西域を鎮安する。さだまった治所はない。甲乙のように「戊己」というのは、方位をあらわす。宣帝の元康2年、車師の地は、匈奴に与えられた。いま匈奴が前漢になつくので、車師の故地で屯田ができる。

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前47、儒家の蕭望之が、宦官の石顕に敗れる

春、儒者の蕭望之が、官職を失う

孝元皇帝上初元二年(甲戌,公元前四七年)
春,正月,上行幸甘泉,郊泰畤。樂陵侯史高以外屬領尚書事,前將軍蕭望之、光祿大夫周堪為之副。望之名儒,與堪皆以師傅舊恩,天子任之,數宴見,言治亂,陳王事。望之選白宗室明經有行散騎、諫大夫劉更生給事中,與侍中金敞並拾遺左右。四人同心謀議,勸導上以古制,多所欲匡正;上甚鄉納之。史高充位而已,由此與望之有隙。

元帝の初元2年。春正月、元帝は甘泉に行幸し、泰畤を郊する。樂陵侯の史高は、外戚として尚書事を領する。

ぼくは補う。史高は、宣帝の祖母である史氏の兄の子。

前將軍の蕭望之、光祿大夫の周堪は、史高の副官である。蕭望之は名儒である。周堪は、元帝の師傅であり旧恩があるから、元帝から信任された。しばしば周堪は宴席にでて、治乱と王者のことをいう。
蕭望之は「宗室であり、明経で行いが正しい、散騎・諫大夫の劉更生を給事中にせよ」という。

『百官表』はいう。散騎とは、加官である。騎馬にて、乗輿車と並走する。師古はいう。「騎」して散従する。つねに設置される官職でない。給事中とは、禁中に給事する。

劉更正は、侍中の金敞とともに、左右にいる。
蕭望之、周堪、劉更正、金敞の4名は、心を同じくして謀議し、元帝に「古代の制度にもどせ」という。修正すべき点がおおい。元帝は、制度の変更をみとめた。史高は、官位が高いだけで実権がない。史高は、蕭望之たちと対立した。

ぼくは思う。外戚と実務官僚の対立である。


中書令弘恭、僕射石顯,自宣帝時久典樞機,明習文法;帝即位多疾,以顯久典事,中人無外黨,精專可信任,遂委以政,事無小大,因顯白決,貴幸傾朝,百僚皆敬事顯。顯為人巧慧習事,能深得人主微指,內深賊,持詭辯,以中傷人,忤恨睚眥,輒被以危法;亦與車騎將軍高為表裡,議論常獨持故事,不從望之等。

中書令の弘恭、僕射の石顕は、宣帝期から枢機をつかさどり、法制度にくわしい。弘恭と石顕は宦官であり、親族がいないから、宣帝から信任された。宣帝は病気がちだったので、石顕が実務をしきる。石顕がすべてを決裁した。百官は石顕になびく。石顕は、法をまげて処罰をやる。石顕は、外戚の車騎将軍の史高とぶつかり、蕭望之の意見をみとめない。

ぼくは思う。あらたな元帝の側近である官僚と、まえの宣帝が信任した石顕。こうして、対立のキャラクターが集まってくる。いつものことだな。


望之等患苦許、史放縱,又疾恭、顯擅權,建白以為:「中書政本,國家樞機,宜以通明公正處之。武帝游宴後庭,故用宦者,非古制也。宜罷中書宦官,應古不近刑人之義。」由是大與高、恭、顯忤。上初即位,謙讓,重改作,議久不定,出劉更生為宗正。

蕭望之らは、外戚の許氏や史高、宣帝期の執政者である弘恭や石顕を、批判した。「中書は、国家の枢機である。公正な判断をすべきだ。だが武帝が中書に宦官をもちいた。これは古制とちがう。中書から、宦官の弘恭や石顕をのぞけ」と。
蕭望之は、いよいよ外戚や宦官と対立した。元帝は即位したばかりなので、議論を(蕭望之への合意すると)決定できない。劉更正をだして、宗正とした。

ぼくは思う。元帝期は、こんな葛藤から始まったのか。そういえば、『漢書』元帝紀は未読だった。『資治通鑑』のほうを、さきに着手してしまったのか。元帝期は16年あります。
胡三省はいう。散騎、給事中は、中朝の官である。宗正は、外朝の官である。ゆえに劉更正を「だす」というのだ。


望之、堪數薦名儒、茂材以備諫官,會稽鄭朋陰欲附望之,上書言車騎將軍高遣客為奸利郡國,及言許、史弟子罪過。章視周堪,堪白:「令朋待詔金馬門。」朋奏記望之曰:「今將軍規撫,雲若管、晏而休,遂行日昃,至周、召乃留乎?若管、晏而休,則下走將歸延陵之皋,沒齒而已矣。如將軍興周、召之遺業,親日昊之兼聽,則下走其庶幾願竭區區奉萬分之一!」望之始見朋,接待以意;後知其傾邪,絕不與通。朋,楚士,怨恨,更求入許、史,推所言許、史事,曰:「皆周堪、劉更生教我;我關東人,何以知此!」於是侍中許章白見朋。朋出,揚言曰:「我見言前將軍小過五,大罪一。」待詔華龍行污穢,欲入堪等,堪等不納,亦與朋相結。

蕭望之と周堪は、名儒である。才能ある者を、諫官におく。会稽の鄭朋は、ひそかに蕭望之の派閥につきたいので、上書した。「車騎将軍の史高は、食客に郡国で奸利をむさぼらせている。外戚の許氏と史氏の子弟にも罪過がある」と。
元帝は周堪に、鄭朋の文書をみせた。周堪は「鄭朋を金馬門にしよう」という。鄭朋は蕭望之に決起をうながす。

ぼくは思う。詳細な事件の経過には、あんまり興味がない。けっきょくは、元帝に近い儒者・蕭望之たちが敗れる。


恭、顯令二人告望之等謀欲罷車騎將軍,疏退許、史狀,候望之出休日,令朋、龍上之。事下弘恭問狀,望之對曰:「外戚在位多奢淫,欲以匡正國家,非為邪也。」恭、顯奏:「望之、堪、更生朋黨相稱舉,數譖訴大臣,毀離親戚,欲以專擅權勢。為臣不忠,誣上不道,請謁者召致廷尉。」時上初即位,不省召致廷尉為下獄也,可其奏。後上召堪、更生,曰:「系獄。」上大驚曰:「非但廷尉問邪!」以責恭、顯,皆叩頭謝。上曰:「令出視事。」恭、顯因使史高言:「上新即位,未以德化聞於天下,而先驗師傅。即下九卿、大夫獄,宜因決免。」於是制詔丞相、御史:「前將軍望之,傅朕八年,無它罪過。今事久遠,識忘難明,其赦望之罪,收前將軍、光祿勳印綬;及堪、更生皆免為庶人。」

蕭望之は前将軍と光禄勲の印綬を没収された。周堪と劉更正は、官職を免じて庶人となった。

ぼくは思う。元帝初に、こういう事件が起きた、と把握できたので、今日のところは充分でした。あくまで王莽のところに行きたいので。
ぼくは思う。王莽は、外戚であり、儒家官僚でもある。いま、宦官の弘恭と石顕が勝ってしまった。王莽のとき、宦官の強者はいなかったのだろうか。出てきた記憶がない。


二月,丁巳,立弟竟為清河王。
戊午,隴西地震,敗城郭、屋室,壓殺人眾。
三月,立廣陵厲王子霸為王。
詔罷黃門乘輿狗馬,水衡禁囿、宜春下苑、少府佽飛外池、嚴□池田假與貧民。又詔赦天下,舉茂材異等、直言極諫之士。

2月丁巳、元帝の弟・劉竟を清河王とする。

荀悦『漢紀』では、劉「寛」とする。

2月戊午、隴西で地震あり。城郭、屋室がこわれ、衆人が圧死した。
3月、廣陵厲王の子・劉霸を、広陵王とする。

胡三省はいう。宣帝の五鳳4年、広陵厲王の劉胥は、罪により自殺して、国が除かれた。

元帝は詔して、黄門での乗輿・狗馬を辞めさせた。水衡の属官も、費用を節約して、貧民にほどこす。

ぼくは思う。宮殿のなかで、なにを節約して費用を捻出したのか、胡三省が注釈している。中華書局版の899頁。

天下赦して、茂才、直言、極諫の士人を挙げさせる。

夏、のちの成帝が皇太子となる

夏,四月,丁巳,立子驁為皇太子。待詔鄭朋薦太原太守張敞,先帝名臣,宜傅輔皇太子。上以問蕭望之,望之以為敞能吏,任治煩亂,材輕,非師傅之器。天子使使者征敞,欲以為左馮翊,會病卒。
詔賜蕭望之爵關內侯,給事中,朝朔望。關東饑,齊地人相食。

夏4月丁巳、太子の劉驁を皇太子とする。

胡三省はいう。「驁」は、五到の翻。つまり「ゴウ」。
ぼくは思う。劉驁は、王皇后の子である。のちの成帝。これにより、王莽が登場する準備がととのう。

待詔の鄭朋が、太原太守の張敞を薦めた。張敞は宣帝期の名臣だから、皇太子の傅輔とせよと。

『漢辞海』はいう。【待詔】詔がくだるのを待つ。揚雄『甘泉賦』にある。または、才能が認められて天子に召し出され、諮問に備えた者。はじめは正式の官職ではなかった。
ぼくは2つめの意味でとりました。

元帝は、蕭望之に(張敞の採用を)問うた。蕭望之はいう。「張敞は能吏だが、任治は煩乱であり、才能がかるい。師傅の器量はない」と。元帝は使者に張敞をめさせ、左馮翊にしようとした。たまたま張敞が病没した。
蕭望之を関内侯、給事中とした。新月と満月のとき(月2回)蕭望之に朝見させた。

ぼくは思う。儒家官僚は、ちゃんと生きてる。政争の決着には、もうちょっと時間がかかる。年内に完結するけど。
『考異』はいう。『漢書』元帝紀では、蕭望之を月2回こさせる詔は、この歳の冬にある。劉向伝では「さきに(宦官の)弘恭が(儒家の)蕭望之らを官獄につなぐ。3月におおきな地震があった」という。蕭望之が官職をなくしたのは、3月より前のはずだ。また劉向伝で「夏に客星が昴の分野にでる。元帝は感悟して、蕭望之を関内侯にした」とある。蕭望之伝では「(官職をなくして)数ヶ月して、関内侯となる」とある。『漢書』元帝紀では、蕭望之は同年の12月に死ぬ。ゆえに『資治通鑑』は、蕭望之を関内侯にする詔を、このあたりに置いた。

関東で飢饉があり、斉地で人が食いあう。

秋、儒家官僚が官職に復帰する

秋,七月,己酉,地復震。
上復征周堪、劉更生,欲以為諫大夫;弘恭、石顯白,皆以為中郎。

秋7月己酉、また地震あり。

『考異』はいう。劉向伝では、また冬に地震がある。元帝紀では、この月の詔で「1年以内に、また揺れた」とある。『漢紀』では7月己酉に地震がある。いま『資治通鑑』は、『漢紀』に従う。

ふたたび元帝は、周堪と劉更正をめして、諫大夫にしたい。弘恭と石顯が(諫大夫に反対するので)周堪と劉更正を中郎とする。

上器重蕭望之不已,欲倚以為相;恭、顯及許、史子弟、侍中、諸曹皆側目於望之等。更生乃使其外親上變事,言「地震殆為恭等,不為三獨夫動。臣愚以為宜退恭、顯以章蔽善之罰,進望之等以通賢者之路。如此,則太平之門開,災異之願塞矣。」書奏,恭、顯疑其更生所為,白請考奸詐,辭果服;遂逮更生系獄,免為庶人。

元帝は、蕭望之を重んじており、宰相にしたい。宦官の弘恭と石顕、外戚の許氏と史氏の子弟、侍中や諸曹らは、蕭望之らに側目(注意して着目)する。
劉更正は、母系家族に「地震は弘恭らのせいだ。蕭望之を用いれば、地震はやむ」と上言させた。弘恭と石顕は、劉更正のしわざと疑い、劉更正を系獄して、官職を免じて庶人とする。

ぼくは思う。「外親」すなわち母系家族をつかうことで、文書の出所を、わからなくする作戦だったのだろうか。姓が変わるから、意見すると気づかないと思ったのか。


冬、蕭望之が服毒して自殺する

會望之子散騎、中郎伋亦上書訟望之前事,事下有司,復奏:「望之前所坐明白,無譖訴者,而教子上書,稱引亡辜之詩,失大臣體,不敬,請逮捕。」弘恭、石顯等知望之素高節,不詘辱,建白:「望之前幸得不坐,復賜爵邑,不悔過服罪,深懷怨望,教子上書,歸非於上,自以托師傅,終必不坐,非頗屈望之於牢獄,塞其怏怏心,則聖朝無以施恩厚。」上曰:「蕭太傅素剛,安肯就吏!」顯等曰:「人命至重,望之所坐,語言薄罪,必無所憂。」上乃可其奏。

蕭望之の子は、散騎、中郎の蕭伋である。蕭伋は、同年春の蕭望之の案件について、また(父の蕭望之は無罪だと)上書した。元帝は有司に、蕭望之の案件を検討させた。弘恭と石顕らは「蕭望之は(蕭望之を免官した)元帝の判断が誤りだと考え、子の蕭伋に上書までさせた」と、蕭望之を中傷した。

ぼくは思う。ちゃんとやるなら、『漢書』蕭望之伝を軸にして読み直したい。まずはダイジェストとして、話題の確認だけ。
ぼくは思う。蕭望之は、宣帝期から活躍しており、霍光の子弟を廃したあたりから、重用されているみたい。けっこうな主役級の人物だったのに、知らなかった。また、いま原文どおり「劉更正」と書いていたが、これは劉向のことだった。王莽の1世代前に、こういう儒家の大物たちが出そろって、政争をやってた。


冬,十二月,顯等封詔以付謁者,敕令召望之手付。因令太常急發執金吾車騎馳圍其第。使都至,召望之。望之以問門下生魯國硃雲,雲者,好節士,勸望之自裁。於是望之仰天歎曰:「吾嘗備位將相,年逾六十矣,老入牢獄,苟求生活,不亦鄙乎!」字謂雲曰:「游,趣和藥來,無久留我死!」竟飲鳩自殺。天子聞之驚,拊手曰:「曩固疑其不就牢獄,果然殺吾賢傅!」是時,太官方上晝食,上乃卻食,為之涕泣,哀動左右。於是召顯等責問以議不詳,皆免冠謝,良久然後已。上追念望之不忘,每歲時遣使者祠祭望之塚,終帝之世。
是歲,弘恭病死,石顯為中書令。

冬12月、蕭望之は牢獄に入れられるのを嫌い、服毒して自殺した。元帝はがっかりした。元帝は毎年、蕭望之を祭った。
この歳(宦官の)弘恭が病死した。石顕が中書令となる。

ぼくは思う。元帝が不本意ながら、宦官が勝利した。元帝は皇太子のころ、父の宣帝から「儒家を好きすぎる。前漢を滅ぼしかねない」と心配された人。王莽が誕生する時期、まだ儒家の政治力は万全ではないが、「儒家が皇帝に信頼されて、政事をみる」という準備ができた。


武帝が獲得した南越を放棄する

初,武帝灰南越,開置珠崖、儋耳郡,在海中洲上,吏卒皆中國人,多侵陵之。其民亦暴惡,自以阻絕,數犯吏禁,率數年壹反,殺吏;漢輒發兵擊定之。二十餘年間,凡六反。至宣帝時,又再反。上即位之明年,珠崖山南縣反,發兵擊之。諸縣更叛,連年不定。上博謀於群臣,欲大發軍。待詔賈捐之曰:

武帝のときに南越を滅ぼし、珠崖郡と儋耳郡をおいた。吏卒は漢族とした。もと南越の反乱がつづく。元帝の即位した翌年、珠崖の山南県がそむく。元帝は大軍を発しようと考えた。待詔の賈捐はいう。

「臣聞堯、舜、禹之聖德,地方不過數千里,西被流沙,東漸於海,朔南暨聲教,言欲與聲教則治之,不欲與者不強治也。故君臣歌德,含氣之物各得其宜。武丁、成王、殷、周之大仁也,然地東不過江、黃,西不過氐、羌,南不過蠻荊,北不過朔方,是以頌聲並作,視聽之類鹹樂其生,越裳氏重九譯而獻,此非兵革之所能致也。以至於秦,興兵遠攻,貪外虛內而天下潰畔。孝文皇帝偃武行文,當此之時,斷獄數百,賦役輕簡。孝武皇帝厲兵馬以攘四夷,天下斷獄萬數,賦煩役重,寇賊並起,軍旅數發,父戰死於前,子斗傷於後,女子乘亭障,孤兒號於道,老母、寡婦飲泣巷哭,是皆廓地泰大,征伐不休之故也。今關東民眾久困,流離道路。人情莫親父母,莫樂夫婦;至嫁妻賣子,法不能禁,義不能止,此社稷之憂也。今陛下不忍悁悁之忿,欲驅士眾擠之大海之中,快心幽冥之地,非所以救助饑饉,保全元元也。詩云:『蠢爾蠻荊,大邦為讎。』言聖人起則後服,中國衰則先畔,自古而患之,何況乃復其南方萬里之蠻乎!駱越之人,父子同川而浴,相習以鼻飲,與禽獸無異,本不足郡縣置也。顓顓獨居一海之中,霧露氣濕,多毒草、蟲蛇、水土之害;人未見虜,戰士自死。又非獨珠崖有珠、犀、玳瑁也。棄之不足惜,不擊不損威。其民譬猶魚鱉,何足貪也!臣竊以往者羌軍言之,暴師曾未一年,兵出不逾千里,費四十餘萬萬;大司農錢盡,乃以少府禁錢續之。夫一隅為不善,費尚如此,況於勞師遠攻,亡士毋功乎!求之往古則不合,施之當今又不便,臣愚以為非冠帶之國,《禹貢》所及,《春秋》所治,皆可且無以為。願遂棄珠崖,專用恤關東為憂。」

賈捐はいう。「堯舜禹のとき、領土は数千里にすぎない。南越はとおいから、むりに併合するのはむずかしい。『禹貢』『春秋』で、南越を領土とカウントされていない。珠崖郡は放棄して、大軍を発すのは辞めなさい」と。

ぼくは思う。この中身をちゃんと読んだら、もちろんおもしろそう。後漢のとき、「涼州を放棄せよ」という議論がでたら、猛反対にあった。だが南越については、いまいち愛着もなさそう。南越を放棄したことで、なしくずし的に漢土が侵攻にさらされる、、ということもなさそう。南越と涼州は、同じく辺境だが、領土の意識においても、戦術の価値においても、同じでない。


上以問丞相、御史。御史大夫陳萬年以為當擊,丞相於定國以為:「前日興兵擊之連年,護軍都尉、校尉及丞凡十一人,還者二人,卒士及轉輸死者萬人以上,費用三萬萬餘,尚未能盡降。今關東困乏,民難搖動,捐之議是,」
上從之。捐之,賈誼曾孫也。

元帝は、丞相や御史に問うた。御史大夫の陳萬年は、南越を攻撃しろという。丞相の于定國はいう。「南越を攻めるには、兵士も物資も損耗がはげしい。賈捐が正しいと思う」と。
元帝は出兵をやめた。賈捐とは、賈誼の曾孫である。130616

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前46、南越の珠崖郡を廃止する

春、珠崖郡の放棄を詔する

孝元皇帝上初元三年(乙亥,公元前四六年)
春,詔曰:「珠崖虜殺吏民,背畔為逆。今廷議者或言可擊,或言可守,或欲棄之,其指各殊。朕日夜惟思議者之言,羞威不行,則欲誅之;狐疑辟難,則守屯田;通於時變,則憂萬民。夫萬民之飢餓與遠蠻之不討,危孰大焉?且宗廟之祭,凶年不備,況乎辟不嫌之辱哉!今關東大困,倉庫空虛,無以相贍,又以動兵,非特勞民,凶年隨之。其罷珠崖郡,民有慕義欲內屬,便處之;不欲,勿強。」

春、元帝は詔した。「珠崖の異民族は、吏民を殺した。いま関東は飢饉であり、倉庫がカラである。珠崖に出兵したら、国力がつかれる。珠崖郡の設置をやめる。いま珠崖郡にいる者のうち、前漢に帰属したい者は、移住の便宜をはかれ。ただし前漢への帰属を、欲するな、強いるな」と。

夏、貢禹が節約をいい、周堪が光禄勲に

夏,四月,乙末晦,茂陵白鶴館災;赦天下。夏,旱。
立長沙煬王弟宗為王。

夏4月乙末みそか、茂陵の白鶴館で火災。天下を赦した。夏、日照した。
長沙煬王の弟・劉宗を、長沙王とした。

長沙煬王の劉旦は、長沙定王の劉発の玄孫である。初元元年に薨じて、後嗣がないから、弟に爵位をつがせた。『諡法』はいう。内をこのみ、礼を遠ざける者を「煬」という。礼を去り、衆を遠ざける者を「煬」という。
ぼくは思う。隋帝は、こういう意味で「煬帝」と呼ばれるのね。


長信少府貢禹上言:「諸離宮及長樂宮衛,可減其太半以寬繇役。」六月,詔曰:「朕惟烝庶之饑寒,遠離父母妻子,勞於非業之作,衛於不居之宮,恐非所以佐陰陽之道也。其罷甘泉、建章宮衛,令就農。百宮各省費。條奏,毋有所諱。」

長信少府の貢禹が上言した。

ぼくは補う。これは元帝がまねいた儒家の賢人。

「離宮と長樂宮の護衛は、大半を減らして、労役をゆるめろ」と。
6月に詔した。「甘泉と建章宮の護衛をやめさせ、帰農させる。百宮は費用をへらせ。なんでも上奏しろ」と。

是歲,上復擢周堪為光祿勳,堪弟子張猛為光祿大夫、給事中,大見信任。

この歳、元帝は周堪を光禄勲にした。周堪の弟子の張猛を光禄大夫、給事中とした。周堪らは、おおいに信任された。130616

胡三省はいう。張猛は、あの張騫の孫である。 ぼくは思う。大人物の(こだわりの強そうな)蕭望之は、慎重にキャラクタを分析しないと、何も言えなさそう。だが元帝が、儒家官僚の登用に意欲があり、それを完全には妨げられていないことは確認できる。

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前45、王莽が誕生する

孝元皇帝上初元四年(丙子,公元前四五年)
春,正月,上行幸甘泉,效泰畤。三月,行幸河東,祠后土;赦汾陰徒。

春正月、元帝は甘泉に行幸し、泰畤を效する。
3月、河東に行幸して、后土を祠る。汾陰の徒(囚人)を赦す。130616

胡三省はいう。「徒」とは、罪があり、作(労役刑)にある者。
ぼくは思う。たったの24字。王莽が生まれた紀元前45年の『資治通鑑』は、ほんとに短い。「春正月,上行幸甘泉,效泰畤。三月,行幸河東,祠后土;赦汾陰徒」だけ。ところで『資治通鑑』で最短の年の記事って、何文字なんだろう。紀元前382年は「日有食之,既」の5文字だが、もっと短いのあるのかな。
ぼくは思う。紀元前337年は「韓申不害卒」で、こちらも5文字。これ以上は短くならないのか。いま中国語の維基百科を見てたら、年の記事が欠落してるから、他から補ったようなものもあるようだ。これなら0字だけど、それじゃあおもしろくない。

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前44、貢禹が御史大夫、郅支単于が殺略

夏、博士の弟子の定員を撤廃する

孝元皇帝上初元五年(丁丑,公元前四四年)
春,正月,以周子南君為周承休侯。三月,上行幸雍,祠五畤。
夏,四月,有星孛於參。

春正月、周子南君を、周承休侯とする。

文頴はいう。姫延である。祖父は姫嘉である。周家の後裔である。武帝の元鼎4年、周子南君に封じて、周家の祭祀をさせた。
師古はいう。承休侯国は、頴川郡にある。
ぼくは思う。王莽のが「二王の後」を始めたのではない。整備したのか。

3月、元鼎は雍に行幸して、五畤を祠る。
夏4月、星孛が参の分野にある。

胡三省によると、『漢書』天文志もみよ。


上用諸儒貢禹等之言,詔太官毋日殺,所具各減半;乘輿秣馬,無乏正事而已。罷角抵、上林宮館希御幸者、齊三服官、北假田官、鹽鐵官、常平倉。博士弟子毋置員,以廣學者。令民有能通一經者。皆復。省刑罰七十餘事。

元帝は、諸儒の貢禹の発言をもちい、太官に日殺をやめさせ、具するものを半減させた。

師古はいう。日々の宰殺をできなくした。具するものとは、食具のことである。ぼくは思う。よくわからない。字面からは正確に反映しているのだろうが。

乘輿と秣馬は、無乏・正事のみとした。

師古はいう。秣とは、馬を養うのに、粟秣を食べさせること。正事とは、祭祀に駕供することをいう。蒐狩のことである。游田のことではない。

角抵をやめた。上林の宮館に御幸を希する者は、齊の三服官、北假の田官、鹽鐵官、常平倉とした。

ぼくは思う。胡三省の注釈は、908頁。はぶく。

博士の弟子には定員(上限)をもうけず、学者をひろげた。

胡三省はいう。武帝のとき、博士官をおき、弟子(の官職)を50人とした。昭帝のとき、弟子の定員を100人にふやす。宣帝末、倍増させた。いま上限をはずした。数年後、それでも博士が足りず、さらに定員1000名とした。
ぼくは思う。王莽が生まれた直後は、まさに儒者にとって「春から夏」の時代だ。王莽のとき、盛夏をむかえる。

万民のうち、1経に通じた者は、みな弟子に復した。刑罰70余をはぶく。

陳萬年卒。六月,辛酉,長信少府貢禹為御史大夫。禹前後言得失書數十上,上嘉其質直,多採用之。

陳萬年が卒した。6月辛酉、長信少府の貢禹を御史大夫とする。

ぼくは思う。王莽の誕生前後における儒者の代表は、蕭望之、つぎにこの貢禹である。この2名の列伝をなぞれば、王莽が「どういう時代に生まれてきたか」がわかる。

貢禹は、前後にわたり、得失を数十回、上書する。元帝はその質直をよしとして、おおく採用した。

匈奴の郅支単于が、呼韓邪を恐れて殺略する

匈奴郅支單于自以道遠,又怨漢擁護呼韓邪而不助己,困辱漢使者乾江乃始等;遣使奉獻,因求侍子。漢議遣衛司馬谷吉送之,御史大夫貢禹、博士東海匡衡以為:「郅支單于鄉化末醇,所在絕遠,宜令使者送其子,至塞而還。」吉上書言:「中國與夷狄有羈縻不絕之義,今既養全其子十年,德澤甚厚,空絕而不送,近從塞還,示棄捐不畜,使無鄉從之心,棄前恩,立後怨,不便。議者見前江乃無應敵之數,智勇俱困,以致恥辱,即豫為臣憂。臣幸得建強漢之節,承明聖之詔,宣諭厚恩,不宜敢桀。若懷禽獸心,加無道於臣,則單于長嬰大罪,必遁逃遠捨,不敢近邊。沒一使以安百姓,國之計,臣之願也。願送到庭。」上許焉。

匈奴の郅支單于は、漢家が呼韓邪ばかり助けるので、漢家を怨んだ。漢家の使者である江乃始らを辱め、侍子をもとめた。

胡三省はいう。郅支単于は、子を入侍させたいた。宣帝の甘露元年にある。

漢家では、衛司馬の谷吉に、郅支単于の侍子を返送させようかと議論した。御史大夫の貢禹、博士する東海の匡衡らはいう。「郅支単于は、教化されておらず、絶遠にいる。長城まで送ったら(郅支単于のもとまで行かずに)返ってくるとよい」と。谷吉はいう。「郅支単于の庭まで、きちんと侍子を送り届けたい」と。
元帝は、谷吉をゆるした。

既到,郅支單于怒,竟殺吉等;自知負漢,又聞呼韓邪益強,恐見襲擊,欲遠去。會康居王數為烏孫所困,與諸翕侯計,以為:「匈奴大國,烏孫素服屬之。今郅支單于困在外,可迎置東邊,使合兵取烏孫而立之,長無匈憂矣。」即使使到堅昆,通語郅支。郅支素恐,又怨烏孫,聞康居計,大說,遂與相結,引兵而西。郅支人眾中寒道死,餘財三千人。到康居,康居王以女妻郅支,郅支亦以女予康居王,康居甚尊敬郅支,欲倚其威以脅諸國。郅支數借兵擊烏孫,深入至谷城,殺略民人,驅畜產去。烏孫不敢追。西邊空虛不居者五千里。

谷吉がくると、郅支単于は怒って、谷吉を殺した。

『考異』はいう。陳湯伝では、初元4年、郅支が侍子を求める。元帝紀では、初元5年、谷吉を匈奴にやり、かえらず。陳湯伝はいう。御史大夫の貢禹は、谷吉が返らないと議した。貢禹はこの歳の6月に御し大夫となった。郅支単于が郅支を要求したのは、翌年だろうか。だが谷吉は、初元5年に匈奴に使者にでている。
ぼくは思う。谷吉が出てから、しばらく返らないので、翌年に話題になったのかも。匈奴は「絶遠」ってくらいだから、年をまたいで移動してもおかしくない。

郅支単于は、漢家に負い目があり、また呼韓邪が強くなるので、襲撃されるのを恐れ、遠くに去りたい。
ときに康居王は、なんども烏孫に困らされる。康居王はいう。「匈奴は大国で、烏孫は匈奴に服属してきた。いま郅支単于が、遠くに去ろうとしている。郅支単于をむかえ、郅支の兵とあわせて、烏孫を滅ぼそう。康居にとって、匈奴の憂いがなくなる」と。
郅支は、呼韓邪も烏孫も恐いので、よろこんで合意して西した。康居王は、娘を郅支にめとらす。郅支も娘を康居王にめとらす。郅支は康居の兵を借りて、烏孫を攻撃した。民人を殺して奪い、家畜を追い払った。烏孫はあえて追撃しない。西域は5千里にわたり、空虚になった。

ぼくは思う。匈奴のうち、負けたほうの郅支単于が、康居王とむすんで、西域を荒らし回ったという話。匈奴といい、儒者の登用といい、一貫性のない皇帝の祭祀といい、儀礼に費やすべき供物の増減とい、周家の後裔の封建といい。王莽の政治課題は、すでに出そろっているのだ。


冬,十二月,丁末,貢禹卒。丁已,長信少府薛廣德為御史大夫。

冬12月丁末、貢禹が卒した。12月丁已、長信少府の薛広德が御史大夫となる。130616

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前43、儒家の闘争(薛広徳、張猛、周堪、賈捐之)

春、泰畤を郊して、狩猟する

孝元皇帝上永光元年(戊寅,公元前四三年)
春,正月,上行幸甘泉,郊泰畤。視畢,因留射獵。薛廣德上書曰:「竊見關東困極,人民流離。陛下日撞亡秦之鐘,聽鄭、衛之樂,臣誠悼之。今士卒暴露,從官勞倦,願陛下亟反宮,思與百姓同憂樂,天下幸甚!」上即日還。
二月,詔:「丞相、御史舉質樸、敦厚、遜讓、有行者,光祿歲以此科第郎、從官。」
三月,赦天下。雨雪、隕霜,殺桑。

春正月、元帝は甘泉に行幸し、泰畤を郊する。

『漢辞海』はいう。【郊】国都の城外。城から50里が近郊、100里が遠郊。祭祀の名。天子が毎年の冬至に、南郊で天を祭るもの。
ぼくは思う。郊外で祭るから、祭祀の名が郊となったのか。それとも祭祀の郊を行う場所だから、城の周囲を郊というのか。『漢辞海』の配列からすると、前者が正しそう。

祭礼がおわり、留まって射猟する。薛広徳は上書した。「関東が飢えているのに、従官を付き合わせ、射猟するな」と。即日のうち、元帝はかえる。
2月、元帝は詔した。「丞相と御史は、以下の人材をあげよ。質樸、敦厚、遜讓、有行な者である。光禄は、歳ごとに郎および従官を査定せよ」と。

胡三省はいう。はじめて丞相と御史大夫に、4つの科目の人材をあげさせた。しかし郎および従官は、光禄が第(評価)の高下を定め、採用の可否を決める。ぼくは思う。丞相と御史は、官僚の候補をあげるまでで、採用そのものは光禄がやるのか。丞相や御史はリクルーターであり、光禄が人事である。

3月、天下を赦した。雪と霜で、桑が枯れた。

秋、張猛が乗船を諫め、孔覇が官職を辞する

秋,上酎祭宗廟,出便門,欲御樓船。薛廣德當乘輿車,免冠頓首曰:「宜從橋。」詔曰:「大夫冠。」廣德曰:「陛下不聽臣,臣自刎,以血污車輪,陛下不得入廟矣!」上不說。先驅光祿大夫張猛進曰:「臣聞主聖臣直。乘船危,就橋安,聖主不乘危。御史大夫言可聽。」上曰:「曉人不當如是邪!」乃從橋。

秋、元帝は宗廟を酎祭した。便門をでて、樓船を御したい。薛広徳は、免冠・頓首して「橋からゆけ」という。元帝は「御史大夫か冠をかぶれ」という。薛広徳は「乗船するなら、私を殺してからだ」という。元帝はよろこばず。
先駆する光禄大夫の張猛がすすんでいう。「乗船はあぶない。薛広徳の言うとおりに橋からゆけ」と。元帝は橋からゆく。

師古はいう。諫争するなら、張猛のほうがうまかった。
ぼくは思う。薛広徳は態度を硬化させすぎで、元帝も硬化したのだ。


九月,隕霜殺稼,天下大饑。丞相於定國,大司馬、車騎將軍史高,御史大夫薛廣德,俱以災異乞骸骨。賜安車、駟馬、黃金六十斤,罷。太子太傅韋玄成為御史大夫。廣德歸,縣其安車,以傳示子孫為榮。

9月、霜が稲を枯らす。丞相の于定国、大司馬・車騎将軍の史高、御史大夫の薛広徳は、「災異なので免官してくれ」という。元帝は、車馬や黄金を与えて返らせる。太子太傅の韋玄成が御史大夫となる。

『考異』はいう。『百官表』では、7月癸未、大司馬の史高を免じる。7月辛亥、韋玄成が御史大夫となる。11月戊寅、丞相の于定国を免じると。荀悦『漢紀』はいう。7月己未、史高を免じると。
『考異』はいう。奭徳殿はいう。酎祭して1ヶ月余のち、みのりが悪いので、免官してもらう。薛広徳が御史大夫となり、10ヶ月で免じた。
司馬光はいう。月日はバラバラで、どれが正しいか分からない。

薛広徳は返ってから、もらった安車をひっかけ(元帝から安車をもらったことを)子孫に示して栄誉となった。

師古はいう。致仕して車をひっかけるのは、けだし古法なのだろう。『韋孟詩』にある。貢父はいう。致仕して車をかけるのは、休息して出ないことをいう。


帝之為太子也,從太中大夫孔霸受《尚書》。及即位,賜霸爵關內侯,號褒成君,給事中。上欲致霸相位,霸為人謙退,不好權勢,常稱「爵位泰過,何德以堪之!」御史大夫屢缺,上輒欲用霸;霸讓位,自陳至於再三。上深知其至誠,乃弗用。以是敬之,賞賜甚厚。
戊子,侍中,衛尉王接為大司馬、車騎將軍。

元帝は太子になったとき、太中大夫の孔霸から『尚書』をまなぶ。即位すると、孔覇を関内侯とし「褒成君」と号させ、給事中とした。元帝は孔覇を宰相にしたいが、孔覇は謙退した。「爵位は泰過です。私になんの徳があって、宰相になれるか」と。御史大夫は、しばしば欠員した。元帝は孔覇を御史大夫にしたい。孔覇は、再三ことわる。元帝はますます孔覇を敬って賞賜した。
11月戊子、侍中・衛尉の王接が、大司馬・車騎將軍となる。

胡三省はいう。王接は、平昌侯の王無故の子である。


儒家の周堪と張猛をめぐり、諸人が論争

石顯憚周堪、張猛等,數譖毀之。劉更生懼其傾危,上書曰(中略)。顯見其書,愈與許、史比而怨更生等。

石顕は、周堪と張猛らをはばかり、しばしば譏りこぼつ。劉向は、周堪と張猛が傾危するのをおそれ、上書した。はぶく。石顕は劉向の文書をみた。宦官の石顕は、外戚の許氏と史氏とともに、ますます劉向をうらんだ。

ぼくは思う。元帝初に、元帝が重んじる儒家官僚(蕭望之や劉向や周堪)は、将軍職にある前代の外戚(史氏や許氏)や、中朝の宦官(弘恭や石顕)と対立する。これって後漢の中後期を過度に単純化したときの「三つ巴」と同じ構図である。元帝期と後漢は、何がおなじで何がちがうんだろ。もしくは『後漢書』が、『漢書』元帝期をテンプレートにして編纂されたか。文体をまねるだけで、内容が似てくるものだ。『漢書』は史書のお手本だからなあ。そしたら後漢像がだいぶ修正される。


是歲,夏寒,日青無光,顯及許、史皆言堪、猛用事之咎。上內重堪,又患眾口之浸潤,無所取信。時長安令楊興以材能幸,常稱譽堪,上欲以為助,乃見問興:「朝臣斷斷不可光祿勳,何邪?」興者,傾巧士,謂上疑堪,因順指曰:「堪非獨不可於朝廷,自州裡亦不可也!臣見眾人聞堪與劉更生等謀毀骨肉,以為當誅;故臣前書言堪不可誅傷,為國養恩也。」上曰:「然此何罪而誅?今宜奈何?」興曰:「臣愚以為可賜爵關內侯,食邑三百戶,勿令典事。明主不失師傅之恩,此最策之得者也。」上於是疑之。

この歳は、夏に寒かった。石顕と許氏と史氏は「周堪と張猛のせいだ」という。
ときに長安令の楊興は、才能があって元帝から信頼される。元帝は楊興に「朝臣はみな、光禄勲の周堪がダメだという。なぜか」と問う。
楊興はこたえた。「朝廷だけでなく、故郷の州里でも、周堪は怨まれている。みなは周堪も劉向も、誅殺されるべきといっている」と。元帝はきく。「みなは、周堪と劉向にどんな罪があると考えているのか。周堪をどう処遇したらよいか」と。
楊興はいう。「周堪には、関内侯と食邑3万とを与えよ。名君なら(周堪から学問を教わった)師傅の恩を忘れないものだ」と。
元帝は、朝臣が「周堪を誅殺せよ」といい、楊興が「周堪を関内侯とせよ」というので、わからなくなった。

司隸校尉琅邪諸葛豐始以特立剛直著名於朝,數侵犯貴戚,在位多言其短。後坐春夏系治人,徙城門校尉。豐於是上書告堪、猛罪,上不直豐,乃制詔御史:「城門校尉豐,前與光祿勳、光祿大夫猛在朝之時,數稱言堪、猛之美。豐前為司隸校尉,不順四時,修法度,專作苛暴以獲虛威;朕不忍下吏,以為城門校尉。不內省諸己,而反怨堪、猛以求報舉,告按無證之辭,暴揚難驗之罪,毀譽恣意,不顧前言,不信之大也。朕憐豐之耆老,不忍加刑,其免為庶人!」又曰:「豐言堪、猛貞信不立,朕閔而不治,又惜其材能未有所效,其左遷堪為河東太守,猛槐裡令。」

司隸校尉する琅邪の諸葛豊は、剛直によって名を知られる。しばしば貴戚を侵犯する。春夏に人を捕らえたので、城門校尉に左遷された。

胡三省はいう。春夏は生長の季節であるから、人を捕らえない。春夏に人を捕らえたら、天にさからったことになる。

諸葛豊は上書して、周堪と張猛の罪をいう。元帝は諸葛豊が正しくないと思い、御史に制詔した。「かつて諸葛豊は、周堪と張猛をほめていた。だが、いま諸葛豊は、城門校尉にされたことを逆恨して、周堪と張猛をそしる。諸葛豊は耆老なので、罪を加えるのは忍びない。官職を免じて庶人とせよ」と。

ぼくは思う。諸葛豊は法家である。だから、儒家である周堪や張猛とは、そりが合わないのだろう。儒家の敵は、外戚と宦官だけでない。法家もまた、儒家の敵である。やっかいな立場。元帝が味方してくれるから、儒家は朝廷にいられる。ぎゃくに元帝がいなければ、闘争も起きなかったけど。

また元帝はいう。「諸葛豊は、周堪と張猛が正しくないというが、才能がおしい。周堪を河東太守とし、張猛を槐裏令とせよ」と。

胡三省はいう。槐裏とは、周代の犬丘である。秦代には廃丘という。高帝2年、槐裏と改名した。右扶風に属する。


賈捐之與楊興善。捐之數短石顯,以故不得官,稀復進見;興新以材能得幸。捐之謂興曰:「京兆尹缺,使我得見,言君蘭,京兆尹可立得。」興曰:「君房下筆,言語妙天下;使君房為尚書令,勝五鹿充宗遠甚。」捐之曰:「令我得代充宗,君蘭為京兆,京兆,郡國首,尚書,百官本,天下真大治,士則不隔矣!」捐之復短石顯,興曰:「顯方貴,上信用之;今欲進,第從我計,且與合意,即得入矣!」捐之即與興共為薦顯奏,稱譽其美,以為宜賜爵關內侯,引其兄弟以為諸曹;又共為薦興奏,以為可試守京兆尹。石顯聞知,白之上,乃下興、捐之獄,令顯治之,奏「興,捐之懷詐偽,更相薦譽,欲得大位,罔上不道!」捐之竟坐棄市,興髡鉗為城旦。

賈捐之は、楊興と仲がよい。賈捐之は、しばしば石顕の短所をいうので、官職が得られない。賈捐之は楊興にいう。「京兆尹に欠員がある。楊興が口をきいて、私を京兆尹にしてほしい」と。楊興はいう。「賈捐之は言語がうまい。尚書令になるべきだ。賈捐之なら、はるかに五鹿充宗よりも勝る」と。

『続漢書』はいう。尚書令は、秦制をうけて漢制でも設置する。武帝は宦官を、中書謁者令にもちいた。ときに石顕が中書令である。このとき五鹿充宗は、尚書令となる。石顕と五鹿充宗は、並立していたのか。
ぼくは補う。中書令=尚書令なのね。

賈捐之はいう。「私を五鹿充宗のかわりに、尚書令にしてくれ。楊興が京兆尹になるとよい。京兆は(長安を域内にふくみ)郡国のトップである。尚書は、百官のトップである」と。
賈捐之は、また石顕をけなす。楊興は賈捐之にいう。「石顕は、官職がたかく、元帝に信用される。昇進したいなら、石顕の短所をいうな」と。賈捐之と楊興は、石顕をほめて関内侯に推薦した。また賈捐之は「楊興に京兆尹を試守させてみては」と上奏した。
石顕はこれを聞き、「楊興と賈捐之を下獄せよ」という。元帝は石顕を採用し、石顕に裁判をさせた。石顕はいう。「賈捐之と楊興は、偽って相互に推薦して、たかい官職をねらった。正しくない」と。賈捐之は棄市された。楊興は髡鉗された。

ぼくは思う。どちらが「正しい」のか、よくわからない。儒者の楊興と賈捐之が、いちおう「善玉」かと思いきや。相互に推薦しあって、官職を私的に流通させ、天下を思いどおりにしようとするのは、石顕のいうとおり「不道」で正しくない。この私物化って、後漢末の「名士」もやるよね。
というか、王莽の前史を確認するつもりが、すでに後漢のヒナガタが手に入ってしまった。儒家が好きな皇帝である元帝は「後漢の0代皇帝」なのかも知れない。
ツイッター用まとめ。後漢の0代皇帝。前漢の元帝は、儒家を重んじるあまり、父の宣帝にバランス感覚のなさを心配された。元帝期、儒家官僚と宦官と外戚が対決する。劣勢の儒家は相互に賞賛して推挙しあい、天下を私物化しようとする(賈捐之と楊興)。元帝は、儒教国家たる後漢の0代皇帝として、カウントするに相応しい。


呼韓邪は郅支単于がこわくない

徙清河王竟為中山王。
匈奴呼韓邪單于民眾益盛,塞下禽獸盡,單于足以自衛,不畏郅支,其大臣多勸單于北歸者。久之,單于竟北歸庭,民眾稍稍歸之,其國遂定。

清河王の劉竟を、中山王にうつす。
匈奴の呼韓邪單于は、人口がおおくて盛んである。塞下では禽獣がいなくなり、単于は自衛できるようにあった。郅支単于をおそれない。(郅支の脅威がないので)呼韓邪は大臣に勧められ、北帰した。匈奴はこれに従うので、漢家の国境はついに定まった。130616

ぼくは思う。一字名(漢字1文字の諱)が主流のときに、「無〇」とか「〇之」とかの名をつける人がいる。前者は対義語をつくり、後者は目的語をとるような語感か。意味は倍増しなさそう。これらは字数だけひきのばしたという程度の感覚なのか、意図的に意味を増やしたいのか。どっちが当事者のイメージに近いんだろう。

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前42、馮奉世と任千秋が羌族をやぶる

春、給事中の匡衡が、災異と大赦を論じる

孝元皇帝上永光二年(己卯,公元前四二年)
春,二月,赦天下。丁酉,御史大夫韋玄成為丞相;右扶風鄭弘為御史大夫。
三月,壬戌朔,日有食之。
夏,六月,赦天下。

春2月、天下を赦した。2月丁酉、御史大夫の韋玄成が、丞相となる。右扶風の鄭弘が、御史大夫となる。

ぼくは補う。王莽は4歳である。まだ登場は先だなあ。

3月壬戌ついたち、日食あり。
夏6月、天下を赦した。

上問給事中匡衡以地震日食之變,衡上疏曰(中略)上說其言,遷衡為光祿大夫。

元帝は、給事中の匡衡に、地震と日食の異変について問う。匡衡は上疏した。元帝はその意見をよろこび、匡衡を光禄大夫とする。

荀悅論曰:夫赦者,權時之宜,非常典也。漢興,承秦兵革之後,大愚之世,比屋可刑,故設三章之法,大赦之令,蕩滌穢流,與民更始,時勢然也。後世承業,襲而不革,失時宜矣。若惠、文之世,無所赦之。若孝景之時,七國皆亂,異心並起,奸詐非一;及武帝末年,賦役繁興,群盜並起,加以太子之事,巫蠱之禍,天下紛然,百姓無聊,人不自安;及光武之際,撥亂之後:如此之比,宜為赦矣。

荀悦は論じる。「赦」とは、權時の宜であり、非常の典である。秦漢革命ののち、法3章だけにした。大赦は必要なくなった。恵帝と文帝のときも、大赦はない。
景帝のとき、七国がそむいた。武帝末、賦役がおもいので、群盗がおき、戻太子の事件がおきた。天下は紛然となり、百姓は無聊となる。光武のときの撥乱も、これと同等である。これほど反乱等があると、大赦が必要となる。

秋冬、羌族がそむき、馮奉世が討つ

秋,七月,隴西羌彡姐旁種反,詔召丞相韋玄成等入議。是時,歲比不登,朝廷方以為憂,而遭羌變,玄成等漠然,莫有對者。右將軍馮奉世曰:「羌虜近在竟內背畔,不以時誅,無以威制遠蠻,臣願帥師討之!」上問用兵之數,對曰:「臣聞善用兵者,役不再興,糧不三載,故師不久暴而天誅亟決。往者數不料敵,而師至於折傷,再三發調,則曠日煩費,威武虧矣。今反虜無慮三萬人,法當倍,用六萬人。然羌戎,弓矛之兵耳,器不犀利,可用四萬人。一月足以決。」丞相、御史、兩將軍皆以為:「民方收斂時未可多發,發萬人屯守之,且足。」

秋7月、隴西羌の彡姐の傍種がそむく。

【彡】サン。5F61。あや模様、すじ模様。

元帝は、丞相の韋玄成らに議論させた。
このとき歳入がすくなく、羌族を討伐する費用がでない。右将軍の馮奉世はいう。「国境をおかしたとき、すぐに討伐しないと威制が及ばない。私が羌族を討伐してくる」と。元帝が兵数をきく。馮奉世は「4万人を1ヶ月つかえば決着がつく」という。
丞相、御史、2将軍は「歳入がない。1万人で屯守すれば充分ではないか。4万人も出せない」という。

奉世曰:「不可。天下被饑饉,士馬羸耗,守戰之備久廢不簡,夷狄有輕邊吏之心,而羌首難。今以萬人分屯數處,虜見兵少,必不畏懼。戰則挫兵病師,守則百姓不救,如此,怯弱之形見。羌人乘利,諸種並和,相扇而起,臣恐中國之役不得止於四萬,非財幣所能解也。故少發師而曠日,與一舉而疾決,利害相萬也。」固爭之,不能得。有詔,益二千人。於是遣奉世將萬二千人騎,以將屯為名,典屬國任立、護軍都尉韓昌為偏裨,到隴西,分屯三處。昌先遣兩校尉與羌戰,羌虜盛多,皆為所破,殺兩校尉。奉世具上地形部眾多少之計,願益三萬六千人,乃足以決事。書奏,天子大為發兵六萬餘人。

馮奉世はいう。「1万では足りない。羌族を恐れて、防備もまなならない。1万にケチって敗北したら、かえって損害をだす」という。結論がでない。
元帝は馮奉世に2千騎をつけた。典屬國の任立、護軍都尉の韓昌を偏裨として、隴西でゆき、3ヶ所に分屯する。韓昌は2校尉をひきいるが、2校尉とも羌族に殺された。馮奉世は「あと3万6千人くれ」という。元帝は6万余人を発した。

ぼくは思う。本気になると、6万人も出せるのかよw


八月,拜太常弋陽侯任千秋為奮武將軍以助之。冬,十月,兵畢至隴西,十一月,並進,羌虜大破,斬首數千級,餘皆走出塞。兵未決間,漢復發募士萬人,拜定襄太守韓安國為建威將軍,未進,聞羌破而還。詔罷吏士,頗留屯田,備要害處。

8月、太常する弋陽侯の任千秋が、奮武將軍となり、馮奉世を助ける。
冬10月、兵が隴西にいたる。11月、馮奉世と任千秋があわさり、羌族を大破した。勝敗が決する前、漢家はふたたび兵1万をつのる。定襄太守の韓安を、建威將軍とする。進軍する前に、羌族をやぶったので、進軍をやめた。吏士を屯田にとどめて、要害を守らせた。130616

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前41、許嘉が大司馬・車騎將軍となる

永光三年〔(庚辰、前四一)〕
春,二月,馮奉世還京師,更為左將軍,賜爵關內侯。
三月,立皇子康為濟陽王。〔濟,子禮翻。〕

春2月、馮奉世が京師にかえる。左將軍にかわり、関内侯をたまう。
3月、皇子の劉康を濟陽王とする。

夏,四月,平〔【章:乙十一行本「平」上有「癸未」二字;孔本同;張校同;退齋校同;傳校同。】〕昌考侯王接薨。〔諡法:大慮行方曰考。〕秋,七月,壬戌,以平恩侯許嘉為大司馬、車騎將軍。

夏4月、平昌孝侯の王接が薨じた。

『諡法』はいう。おおいに慮ぱかり、行動が方正な者を「孝」という。

秋7月壬戌、平恩侯の許嘉が大司馬、車騎將軍となる。

ぼくは思う。許嘉は外戚ですね。 ウィキペディアはいう。宣帝の皇后・許平君の血縁者。成帝の許皇后の父。ぼくは思う。王莽のライバルは、すでにセットされている。


冬,十一月,己醜,地震,雨水。
複鹽鐵官;置博士弟子員千人。〔罷鹽鐵官,博士弟子毋置員,事見上卷初元五年。〕以用度不足,民多複除,〔複,方目翻。〕無以給中外繇役故也。〔繇,古傜字通。〕

冬11月己丑、地震と雨ふり。
塩鉄官をもどす。博士の弟子を定員1000名とする。

胡三省はいう。塩鉄官をやめ、博士の弟子の定員をやめたのは、元帝の初元5年にある。

用度に足りず、おおくの民が複除し、中外の繇役を供給できないからである。130616

すみません。よくわかりません。

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前40、天子七廟の整理し、郡国廟を廃する

孝元皇帝下永光四年(辛巳,公元前四零年)
春,二月,赦天下。三月,上行幸雍,祠五畤。

春2月、天下を赦した。3月、元帝は雍に行幸して、五畤を祠る。

夏、尚書の石顕が周堪を自殺させる

夏,六月,甲戌,孝宣園東闕災。
戊寅晦,日有食之。上於是召諸前言日變在周堪、張猛者責問,皆稽首謝;因下詔稱堪之美,征詣行在所,拜為光祿大夫,秩中二千石,領尚書事;猛復為太中大夫、給事中。中書令石顯管尚書,尚書五人皆其黨也;堪希見得,常因顯白事,事決顯口。會堪疾喑,不能言而卒。顯誣譖猛,令自殺於公車。

夏6月甲戌、孝宣園の東闕が火災した。
6月戊寅みそか、日食あり。元帝は「周堪と張猛を責問したから、日食が起きたか」という。みな(周堪と張猛をそしった人々は)稽首して謝した。周堪を光祿大夫として、秩は中2千石、領尚書事させた。張猛を太中大夫・給事中にもどす。
中書令の石顕は、尚書を管理する。尚書の5名は、石顕の党与である。

胡三省はいう。成帝紀と『百官表』によると、成帝の建始4年、はじめて尚書の定員5名を設置した。ここでいう5名とは、石顕、牢梁、五鹿充宗、伊嘉、陳順の5名をいうだろう。みな尚書事を典領した。まだ定員は設定されないが、このときも尚書は5名である。

周堪は(領尚書事であるが)まれにしか文書を見られず、石顕が尚書ことを決裁した。たまたま周堪が病気になり、言語が出なくなった。石顕は周堪をそしり、公車で周堪を自殺させた。

秋冬、7廟制の整理し、郡国廟を廃する

初,貢禹奏言:「孝惠、孝景廟皆親盡宜毀,及郡國廟不應古禮,宜正定。」天子是其議。秋,七月,戊子,罷昭靈後、武哀王、昭哀後、衛思後、戾太子、戾後園,皆不奉祠,裁置吏卒守焉。

はじめ貢禹は上奏して「恵帝と景帝は、もう元帝と血縁がとおいから、廟をこわせ。郡国廟は、古礼ではないから辞めろ」という。元帝はこれをみとめた。

胡三省はいう。『漢書』貢禹伝によると、貢禹は恵帝と景帝の廟をこわす前に死んだ。のちに、韋玄成が廟の議論をしたが、貢禹のまま実行しなかった。韋玄成のいう天子7廟とは、恵帝と景帝をこわす点では貢禹と同じだが、悼孝廟を加えたものである。
ぼくは思う。郡国廟についても胡三省が注釈する。はぶく。923頁。

秋7月戊子、昭霊后(高祖の母)、武哀王(高祖の兄)、昭哀后(高祖の姉)、衛思后(戻太子の母)、戻太子、戾后(史良娣)の園を、祀るのをやめた。吏卒を置いて守らせた。

冬,十月,乙丑,罷祖宗廟在郡國者。
諸陵分屬三輔。以渭城壽陵亭部原上為初陵。詔勿置縣邑及徙郡國民。

冬10月乙丑、郡国にある祖宗廟をやめた。
諸陵を三輔に分属した。

師古はいう。諸陵はすべて太常に属する。いま、所在地によって三輔に管理をうつした。

渭城の壽陵亭の部原上を初陵とした。

服虔はいう。元帝の入るべき陵墓である。まだ名がないから「初」という。

初陵には県邑を置くのをやめ、郡国の民を徙さない。130616

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前39、元帝が皇太子より劉康を愛幸する

頴川で人民が流される

五年〔(壬午、前三九)〕
春,正月,上行幸甘泉,郊泰畤。〔畤,音止。〕三月,幸河東,祠後土。
秋,潁川水流殺人民。

春正月、元帝は甘泉に行幸し、泰畤を郊した。3月、河東にゆき、后土を祠する。
秋、頴川で水が流れて、人民を殺す。

冬、太上皇と恵帝廟をこわし、七廟が完成

冬,上幸長楊射熊館,大獵。
十二月,乙酉,毀太上皇、孝惠皇帝寢廟園,用韋玄成等之議也。

冬、元帝は、長楊の射熊館にゆき、大猟する。

師古はいう。長楊とは、官名である。

12月乙酉、太上皇と恵帝の寢廟園をこぼつ。韋玄成らの議論にもとづく。

胡三省はいう。韋玄成らは上奏した。祖宗の廟は、世々こわさない。継祖より伊嘉は、5廟たまったら、こわす。高帝を太祖といい、文帝を太宗といい、景帝を昭とし、武帝を穆とし、昭帝と宣帝も昭とする。皇考廟(元帝の父である宣帝の廟)は、まだ親しさが尽きていない。太上皇と恵帝は、親しさが尽きたので、こわせと。


冬、太子少傅の匡衡が皇太子を推す

上好儒術、文辭,頗改宣帝之政。言事者多進見,人人自以為得上意。又傅昭儀及子濟陽王康愛幸,逾於皇后、太子。太子少傅匡衡上疏曰(省略)。

元帝は、儒術と文辞を好み、宣帝の政策をすごぶる改める。言葉たくみな者が、元帝におおく進見した。人々は、すすんで元帝の好意をえた。また傅昭儀と子である濟陽王の劉康を愛幸した。

ぼくは思う。劉康は、哀帝の父である。元帝の3人の妻をめぐる対立が、ここに起きている。これは王莽の前半生のテーマである。『漢書』匡衡伝★を見ねば。

愛幸の度合は、王皇后と皇太子(劉驁)をこえる。
太子少傅の匡衡が上疏した。はぶく。

初,武帝既塞宣房,後河復北決於館陶,分為屯氏河,東北入海,廣深與大河等,故因其自然,不堤塞也。是歲,河決於清河靈鳴犢口,而屯氏河絕。

はじめ(元封2年)武帝は、すでに宣房が塞がり、のちに黄河が館陶で北に曲がるので、流れを分けて屯氏河とした。

胡三省はいう。館陶県は魏郡に属する。黄河はここで分かれて、屯氏河となる。東北にながれ、勃海の章武県で海にはいる。魏郡、清河、信都、勃海の4郡を、1500里かけて流れる。

屯氏河は東北に流れて、海にそそぐ。
屯氏河の広さと深さは、黄河に等しい。自然に流れが決まり、人工による堤塞がない。この歳、黄河が清河霊鳴犢口で決壊して、屯氏河が枯れた。130616

胡三省が『漢書』溝洫志などをひく。はぶく。
いま王莽は7歳。そろそろ勉強しているのかな。

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前38、馮奉世の娘が、虎から元帝を守る

孝元皇帝下建昭元年(癸未,公元前三八年)
春,正月,戊辰,隕石於梁。三月,上行幸雍,祠五畤。
冬,河間王元坐賊殺不辜廢,遷房陵。
罷孝文太后寢祠園。

春正月戊辰、梁国に隕石がある。

胡三省はいう。『漢書』五行志にある。

3月、元帝は雍に行幸して、五畤を祠る。

ぼくは思う。元帝がこれだけ熱心に祭祀をするから、「祭祀をいかにすべきか」が加熱したテーマになる。たとえば年に1回しか食べない料理なら、調理法でモメない。しかし毎週、食べるものなら、家族と調理法についてモメるだろう。

冬、河間王の劉元が、賊による殺人に連座して、罪がないのに廃された。房陵にうつる。

胡三省はいう。劉元とは、河間献王の劉徳の来孫である。

孝文太后を寢祠する園をやめた。

胡三省はいう。文帝の母・薄氏は、覇陵の南に葬られる。
ぼくは思う。ここにきて、高帝の父母をはじめとして、前漢の祭祀が整理され始めた。文帝の母を、いままで祭っていたのに、元帝の時期に辞めてしまった。いままで、なすがままに行ってきた祭祀を、いざ意識に登らせて、除くべきを除いている。
「良かれ」と思って蓄積してきた日常習慣を、見直す感じである。
祭祀を整理することは、国家制度や体制を見直すことにもつながる。「あるべき習慣とは」を検討するうちに、日常を分析することが目的化して、もとからあった生業を手放して、研究がメインになってしまったら、それが莽新である。


上幸虎圈鬥獸,後宮皆坐。熊逸出圈,攀檻欲上殿,左右、貴人、傅婕妤等皆驚走。馮婕妤直前,當熊而立。左右格殺熊。上問:「人情驚懼,何故前當熊?」婕妤對曰:「猛獸得人止,妾恐熊至御坐,故以身當之。」帝嗟歎,倍敬重焉。傅婕妤慚,由是與馮婕妤有隙。馮婕妤,左將軍奉世之女也。

元帝が虎の決闘を見物していると、虎がにげた。馮婕妤が身体をはって、元帝を守った。「猛獣が私をたべれば、元帝には手を出さないと思った」と。馮婕妤は、左将軍の馮奉世の娘である。

ぼくは補う。馮婕妤は、平帝の祖母である。というわけで、元帝の時代を描くなら、馮奉世の活躍についても、触れねばならない。これもまた、アナザーでパラレルな王莽を輩出しうる外戚である。つまり、元帝が寵愛した3名の妻の子孫が、三つ巴で莽新初期まで、闘争をつづける。馮氏から、王莽のような逸材が出ても、不思議ではない。
虎の話はこちら。『漢書』巻67:成帝、哀帝、平帝の外戚伝
ぼくは思う。いま王莽は8歳である。

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前37、石顕が『京氏易』の京房を排除する

『京氏易』の京房が、人事考課の方法を提案

孝元皇帝下建昭二年(甲申,公元前三七年)
春,正月,上行幸甘泉,郊泰畤。三月,行幸河東,祠后土。
夏,四月,赦天下。
六月,立皇子興為信都王。

春正月、元帝は甘泉に行幸し、泰畤を郊する。
3月、河東に行幸して、后土を祠る。
夏4月、天下を赦した。6月、皇子の劉興を信都王とする。

東郡京房學《易》於梁人焦延壽。延壽常曰:「得我道以亡身者,京生也。」其說長於災變,分六十卦,更直日用事,以風雨寒溫為候,各有占驗。房用之尤精,以孝廉為郎,上疏屢言災異,有驗。天子說之,數召見問。房對曰:「古帝王以功舉賢,則萬化成,瑞應著;末世以毀譽取人,故功業廢而致災異。宜令百官各試其功,災異可息。」

東郡の京房は『易』を梁国の焦延寿に学ぶ。焦延寿はつねに「わが道を得て、身を亡ぼすのは京房である」という。京房の学問は、災変の理論がすぐれる。京房は学問により、孝廉にあがり郎となる。災異について上疏する。京房は「百官の功績を再検討したら、災異はやむ」という。

詔使房作其事,房奏考功課吏法。上令公卿朝臣與房會議溫室,皆以房言煩碎,令上下相司,不可許;上意鄉之。時部刺史奏事京師,上召見諸刺史,令房曉以課事;剌史復以為不可行。唯御史大夫鄭弘、光祿大夫周堪初言不可。後善之。

京房は、人事考課の方法をつくる。部刺史ら高官たちが、京房の提案に反対した。御史大夫の鄭弘、光祿大夫の周堪だけが、はじめから京房に反対しており、のちに京房の却下が認められた。

ぼくは思う。既得権益をはがすような人事考課法を提案しても、そりゃ敵をつくるだけだ。京房は、まさに「身を亡ぼす」ことになった。という話か。
胡三省はほぼ省いちゃったが、中華書局版の928頁にある。


京房が石顕に排除され、鄭弘も連座

是時,中書令石顯顓權,顯友人五鹿充宗為尚書令,二人用事。房嘗宴見,問上曰:「幽、厲之君何以危?所任者何人也?」上曰:「君不明而所任者巧佞。」(中略)上良久,乃曰:「今為亂者誰哉?」房曰:「明主宜自知之。」上曰:「不知也。如知,何故用之!」房曰:「上最所信任,與圖事帷幄之中,進退天下之士者是矣。」房指謂石顯,上亦知之,謂房曰:「已諭。」房罷出,後上亦不能退顯也。

このとき、中書令の石顕が専権する。石顕は、友人の五鹿充宗とともに尚書となる。
京房は宴席にて、元帝にいう。「周幽王、周厲王は、なぜ国家を傾けたか。どんな人材を用いたからか」と。元帝はいう。「巧佞な者を用いたから」と。京房はいう。「元帝も同じこと(巧侫な石顕の重用)をしていると、気づきなさい」と。
京房が罷りでた。元帝は石顕を退けられない。

ぼくは思う。元帝は、そんなに君主権力が弱いのか。班固のバイアスでは。「元帝は儒家を重んじ、石顕を遠ざけたい。だが石顕が強いから、石顕に気をつかわざるを得ない。不本意だ」という構図にしている。元帝の権限を弱めることにより(元帝の名誉を損ねることで)その代わりに、儒家皇帝という「輝かしい」理想像をかぶせた。理想をかぶせるのは、儒家の思考のクセである。ほかの思想家は、必ずしも理想を設定して、尚古したりしない。
ぼくは思う。実際には、元帝が石顕をつかうにも理由があり(その理由までは、ぼくはいま指摘できないが)石顕を使っている。つまり、元帝のもとでは、宦官と儒家官僚の対立なんて、とくになかったのでは。儒家は言葉が多いから、自分の利益を主張しまくり、また記録に残りやすいから、目立つだけである。儒家の手にかかると、「君主をおおい隠す邪臣と、それに対抗する我ら」という文脈ができてしまう。儒家がすべてを仕切らないと、こういう「邪臣」が創出されてしまう。実態に関わらずね。という話では。


上令房上弟子曉知考功、課吏事者,欲試用之。房上「中郎任良、姚平,願以為刺史,試考功法;臣得通籍殿中,為奏事,以防壅塞。」石顯、五鹿充宗皆疾房,欲遠之,建言,宜試以房為郡守。帝於是以房為魏郡太守,得以考功法治郡。
房自請:「歲竟,乘傳奏事。」天子許焉。房自知數以論議為大臣所非,與石顯等有隙,不欲遠離左右,乃上封事曰:「臣出之後,恐為用事所蔽,身死而功不成,故願歲盡乘傳奏事,蒙哀見許。乃辛已,蒙氣復乘卦,太陽侵色,此上大夫覆陽而上意疑也。己卯、庚辰之間,必有欲隔絕臣,令不得乘傳奏事者。」
房未發,上令陽平侯王鳳承製詔房止無乘傳奏事。房意愈恐。

京房は、自分の考えた人事考課をやりたい。石顕と五鹿充宗は、京房を遠ざけたい。京房は魏郡太守となり、魏郡で考課をやる。
京房は「今年が終わったら、長安に上奏に行きたい」という。京房は、大臣らや石顕に疎まれていると自覚しており、長安にいく日程を上封して伝えた。
京房が魏郡をでる前に、元帝は、陽平侯の王鳳に承制させ、京房に詔させた。「京房は奏事をもってくるな」と。京房はいよいよ恐れた。

ぼくは思う。おめでとう。王鳳が初登場した。王莽のおじ。王莽が看病することで、官職を獲得します。王鳳は王禁の子で、王皇后の兄。
いま王莽は9歳である。


秋冬、石顕に権限が集中し、元帝をあざむく

秋,房去至新豐,因郵上封事曰(省略)。
房至陝,復上封事曰(省略)。

秋、京房は魏郡を去り、新豊にくる。封事を郵上した。

師古はいう。「郵」とは、行書する者のこと。文書の伝送である。

京房は陜にきて、また封事した。

ぼくは思う。『易』にかこつけ、いろいろ言っている。なんか、面倒くさいので、また後日。『京氏易』は、弘農楊氏の学問なので、いずれやりたい。


房去月餘,竟征下獄。
初,淮陽憲王舅張博,傾巧無行,多從王求金錢,欲為王求入朝。博從京房學,以女妻房。房每朝見,退輒為博道其語。博因記房所說密語,令房為王作求朝奏草,皆持柬與王,以為信驗。石顯知之,告房與張博通謀,非謗政治,歸惡天子,詿誤諸侯王。皆下獄,棄市,妻子徙邊。鄭弘坐與房善,免為庶人。

1ヶ月余たち、ついに京房は下獄された。
はじめ、淮陽憲王のしゅうとの張博は、傾巧で無行であり、淮陽王に従って金銭を求める。淮陽王を入朝させたい。

胡三省はいう。淮陽憲王の劉欽は、宣帝の張倢伃の子である。元帝の弟である。

張博は、京房の学問を学び、娘を京房の妻とする。張博が京房を支持するので、石顕は「張博が諸侯王(淮陽王)を誤らせる」とそしり、下獄して棄市した。

『考異』はいう。元帝紀と荀悦『漢紀』では、京房はこの年末とする。『漢書』京房伝によると、2月ついたちに封事して、1ヶ月余で徵されて下獄される。『百官表』によると、8月癸亥、匡衡が御史大夫となる。京房の死は、この年末ではあり得ない。本紀は月日を記さないから、年末に見えるだけだ。

京房と仲のよい鄭弘も、御史大夫を免ぜられ、庶人となる。

御史中丞陳鹹數毀石顯,久之,坐與槐裡令硃雲善,漏洩省中語,石顯微伺知之,與雲皆下獄,髡為城旦。
石顯威權日盛,公卿以下畏顯,重足一跡。顯與中書僕射牢梁、少府五鹿充宗結為黨友,諸附倚者皆得寵位,民歌之曰:「牢邪!石邪!五鹿客邪!印何纍纍,綬若若邪!」

御史中丞の陳鹹は、しばしば石顕を批判する。槐裡令の硃雲と仲がよい。石顕にバレて、朱雲は下獄された。
石顕の威権は、日に日に盛んとなった。中書僕射の牢梁、少府の五鹿充宗は、党友となる。民は情勢を風刺した。

顯內自知擅權專柄在掌握,恐天子一旦納用左右耳目以間己,乃時歸誠,取一信以為驗。顯嘗使至諸官,有所征發,顯先自白:「恐後漏盡宮門閉,請使詔吏開門。」上許之。顯故投夜還,稱詔開門入。後果有上書告「顯顓命,矯詔開宮門」,天子聞之,笑以其書示顯。顯因泣曰:「陛下過私小臣,屬任以事,群下無不嫉妒,欲陷害臣者,事類如此非一,唯獨明主知之。愚臣微賤,誠不能以一軀稱快萬眾,任天下之怨。臣願歸樞機職,受後宮掃除之役,死無所恨。唯陛下哀憐財幸,以此全活小臣。」天子以為然而憐之,數勞勉顯,加厚賞賜,賞賜及賂遺訾一萬萬。初,顯聞眾人匈匈,言己殺前將軍蕭望之,恐天下學士訕己,以諫大夫貢禹明經箸節,乃使人致意,深自結納,因薦禹天子,歷位九卿,禮事之甚備。議者於是或稱顯,以為不妒譖望之矣。顯之設變詐以自解免,取信人主者,皆此類也。

石顕は情報を独占した。元帝が石顕の横暴に気づいて、証拠の文書を見せると、石顕は泣いて謝った。元帝はあわれみ、石顕に1億の賞賜をくわえた。

ぼくは思う。石顕がどういうタイプの権臣なのかは、ちゃんと列伝を読んでから考えたい。とりあえず『資治通鑑』を先に進めることを優先します。石顕のことを知れば、元帝期について、だいぶ見通しがよくなる。もう元帝期は、後半なのです。


初,顯聞眾人匈匈,言己殺前將軍蕭望之,恐天下學士訕己,以諫大夫貢禹明經箸節,乃使人致意,深自結納,因薦禹天子,歷位九卿,禮事之甚備。議者於是或稱顯,以為不妒譖望之矣。顯之設變詐以自解免,取信人主者,皆此類也。

はじめ石顕は、前将軍の蕭望之を殺したので、これを天下の学士に批判されないかと恐れた。だから諫大夫の貢禹を九卿に推薦した。貢禹のおかげで、礼事はととのう。議者は、蕭望之の殺害について、言わなくなった。

胡三省はいう。石顕が貢禹を推薦したことは、石顕が京房を殺し、陳咸を陥れる前にある。ゆえに『資治通鑑』は「はじめ」と書き始めている。

このように石顕は変詐して、批判をかわした。

荀悅曰:夫佞臣之惑君主也甚矣,故孔子曰:「遠佞人。」非但不用而已,乃遠而絕之,隔塞其源,戒之極也。孔子曰:「政者,正也。」夫要道之本,正己而已矣。平直真實者,正之主也。故德必核其真,然後授其位;能必核其真,然後授其事;功必核其真,然後授其賞;罪必核其真,然後授其刑;行必核其真,然後貴之;言必核其真,然後信之;物必核其真,然後用之;事必核其真,然後修之。故眾正積於上,萬事實於下,先王之道,如斯而已矣!

荀悦はいう。侫臣が君主を惑わすのは、このようにひどい。だから孔子は『論語』顔淵で「侫人を遠ざけよ」という。用いないだけでなく、遠ざけねばならない。これが先王の道である。

ぼくは思う。遠ざけないと、だまされちゃうのだ。


八月,癸亥,以光祿勳匡衡為御史大夫。
閏月,丁酉,太皇太后上官氏崩。
冬,十一月,齊、楚地震,大雨雪,樹折,屋壞。

8月癸亥、光祿勳の匡衡が御史大夫となる。

胡三省はいう。鄭弘が京房に連座して、御史大夫を免じられた。だから匡衡が、鄭弘の後任となった。

閏月丁酉、太皇太后(昭帝の皇后)の上官氏が崩じた。

ぼくは思う。上官氏は、まるで王莽と関係しない。

冬11月、齊と楚で地震あり。大雪がふり、樹木と家屋がこわれる。130616

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前36、陳湯と甘延寿が、郅支単于を斬る

秋7月、匡衡が丞相となる

孝元皇帝下建昭三年(乙酉,公元前三六年) 夏,六月,甲辰,扶陽共侯韋玄成薨。
秋,七月,匡衡為丞相。戊辰,衛尉李延壽為御史大夫。
冬,使西域都護、騎都尉北地甘延壽、副校尉山陽陳湯共誅斬匈奴郅支單于於康居。

夏6月甲辰、扶陽共侯の韋玄成が薨じた。
秋7月、匡衡が丞相となる。7月戊辰、衛尉の李延壽が御史大夫となる。
冬、西域都護・騎都尉する北地の甘延壽と、副校尉する山陽の陳湯は、匈奴の郅支単于を、康居で斬った。

ぼくは思う。この記事から、匈奴の話が暴発してしまう。


郅支単于を討伐する戦況

始,郅支單于自以大國,威名尊重,又乘勝驕,不為康居王禮,怒殺康居王女及貴人、人民數百,或支解投都賴水中。發民作城,日作五百人,二歲乃已。又遣使責闔蘇、大宛諸國歲遺,不敢不予。漢遣使三輩至康居,求谷吉等死,郅支困辱使者,不肯奉詔;而因都護上書,言「居困厄,願歸計強漢,遣子入侍。」其驕嫚如此。

はじめ郅支単于は、おごって康居王に礼をなさない。漢家の使者を辱める。

湯為人沉勇,有大慮,多策略,喜奇功,與延壽謀曰:「夷狄畏服大種,其天性也。西域本屬匈奴,今郅支單于威名遠聞,侵陵烏孫、大宛,常為康居畫計,欲降服之。如得此二國,數年之間,城郭諸國危矣。且其人剽悍,好戰伐,數取勝,久畜之,必為西域患。雖所在絕遠,蠻夷無金城、強弩之守。如發屯田吏士,驅從烏孫眾兵,直指其城下,彼亡則無所之,守則不足自保,千載之功可一朝而成也!」(たっぷり後略)

陳湯は、人となりが沈勇である。陳湯と甘延寿は、郅支単于を討伐しにゆく。郅支単于を殺害した。130616

中華書局936-939頁。こまかい戦況ははぶく。
ぼくは思う。王莽がやっと10歳になった。

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前35、中山王の死に、元帝は廃太子したい

春、甘延寿と陳湯が匈奴から凱旋する

孝元皇帝下建昭四年(丙戌,公元前三五年)
春,正月,郅支首至京師。延壽、湯上疏曰:「臣聞天下之大義當混為一,昔有唐、虞,今有強漢。匈奴呼韓邪單于已稱北籓,唯郅支單于叛逆,未伏其辜,大夏之西,以為強漢不能臣也。郅支單于慘毒行於民,大惡通於天。臣延壽,臣湯,將義兵,行天誅,賴陛下神靈,陰陽並應,天氣精明,陷陳克敵,斬郅支首及名王以下,宜縣頭槁街蠻夷邸間,以示萬里,明犯強漢者,雖遠必誅!」丞相匡衡等以為:「方春,掩骼、埋胔之時,宜勿縣。」詔縣十日,乃埋之。仍告祠郊廟,赦天下。群臣上壽,置酒。

春正月、郅支単于の首級が京師にくる。甘延寿と陳湯は上疏した。「呼韓邪単于は漢家の北藩であり、反逆した郅支単于を滅ぼした。大夏より西まで攻めて、誅殺してやろう」と。

ぼくは思う。これはすぐに結果がでない。どうせ実行されまいが。

丞相の匡衡はいう。「郅支単于との戦いで死んだ禽獣の骨は、ひっかけて見せびらかすものでない。埋めろ」と。元帝は10日ひっかけ、埋めて祭った。天下を赦した。郡臣は勝利を祝い、置酒した。

六月,甲申,中山哀王竟薨。哀王者,帝之少弟,與太子遊學相長大。及薨,太子前吊。上望見太子,感念哀王,悲不能自止。太子既至前,不哀,上大恨曰:「安有人不慈仁,而可以奉宗廟,為民父母者乎!」是時駙馬都尉、侍中史丹護太子家,上以責謂丹,丹免冠謝曰:「臣誠見陛下哀痛中山王,至以感損。向者太子當進見,臣竊戒屬,毋涕泣,感傷陛下;罪乃在臣,當死!」上以為然,意乃解。

6月甲申、中山哀王の劉竟が薨じた。哀王は、元帝の少弟である。太子とともに遊学して、大きくなった。劉竟が薨じると、さきに太子は吊した。

『漢辞海』はいう。【吊】は弔の異体字。

元帝は太子の弔をみて、劉竟のことを感念し、自制できない。太子は哀しむのを先にやめた。元帝は「太子は慈仁でない。民の父母=皇帝になる資格がない」と恨んだ。

ぼくは思う。太子=のちの成帝が廃されたら、王皇后は外戚でいられなくなる。これは「王莽の危機」でもあるのです。元帝は、わりに成帝がきらいである。いい嗅覚をしているw

このとき、駙馬都尉・侍中する史丹は、太子を監護する。元帝は史丹をせめた。史丹は冠をぬいで謝った。「私は元帝が中山王のために哀痛するのを見て、神経が消耗した。私が太子に『太子まで哀しんだら、元帝がさらに哀しんで神経を傷める』と戒め、太子は哀しくないふりをさせた」と弁解した。元帝は、太子への怨みをやめた。

ぼくは思う。おもしろい! 元帝のキャラがおもろい! 石顕にだまされるのも同じだ。言葉でうまく美談にされてしまうと、うっとりして信用してしまう。儒家の皇帝として、ディフォルメしたら、王莽の伝記を輝かしく飾ってくれるだろう。王莽が生まれたとき「儒家が権力につながる土壌があった」とするなら、それは元帝のキャラのみが原因である。
ぼくは思う。漢家を中興した宣帝に「元帝は儒家に傾倒しすぎ」と予言させ、そのとおりに元帝をキワモノのキャラクターとして描き、王莽の伏線をはる。よくできた歴史観である。しかし、飲みこみやすいゼリー状の歴史観だからといって、そのまま飲み下していたら、史料の読者として名折れである。史料批判をしなくちゃ。儒家の思うツボになるものか。利害関係がないから、自由にやろう。


藍田地震,山崩,壅霸水;安陵岸崩,壅涇水,涇水逆流。

藍田(京兆)で地震あり。山がくずれ、覇水がふさがる。安陵の岸がくずれ、涇水がふさがって逆流する。130616

『漢辞海』はいう。【壅】ヨウ。つまる、ふさぐ、堆積する、肥料を植物の根元にほどこす。
孟康はいう。安陵の岸は、恵帝陵のかたわら。涇水の岸である。

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前34、病んだ元帝が疎遠な祖廟をもどす

孝元皇帝下建昭五年(丁亥,公元前三四年)
春,三月,赦天下。夏,六月,庚申,復戾園。
壬申晦,日有食之。

春3月、天下を赦す。
夏6月庚申、戻太子の園をもどす。3月壬申みそか、日食あり。

秋,七月,庚子,復太上皇寢廟園、原廟、昭靈後、武哀王、昭哀後、衛思後園。時上寢疾,久不平。以為祖宗譴怒,故盡復之;唯郡國廟遂廢雲。

秋7月庚子、太上皇の寢廟園をもどす。原廟、昭靈后、武哀王、昭哀后、衛思后の園をもどす。ときに元帝は病気であり、ながらく体調がわるい。祖宗に譴怒されたと考え、陵墓をもどしたのだ。ただ郡国廟だけは、廃したまま。

ぼくは思う。この「迷信ぶかさ」が、さすが儒者。もちろんこれは、ほめ言葉である。決して批判しているのではない。思想信条がわかりやすい。後漢の前史として、いかにもなキャラの皇帝である。
胡三省はいう。郡国廟は、永光4年に園廟をやめた。


是歲,徙濟陽王康為山陽王。
匈奴呼韓邪單于聞郅支既誅,且喜且懼;上書,願入朝見。

この歳、濟陽王の劉康を、山陽王にうつす。
匈奴の呼韓邪単于は、郅支単于が誅されたと聞き、(ライバルの消滅に)喜びつつも(漢家の威勢を)懼れた。上書して、漢家に朝見したいという。130616

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前33、元帝は、太子をつぎの皇帝にしたくない

春、呼韓邪が来朝して王昭君を妻とする

孝元皇帝下竟寧元年(戊子,公元前三三年)
春,正月,匈奴呼韓邪單于來朝,自言願婿漢氏以自親。帝以後宮良家子王嬙字昭君賜單于。單于歡喜,上書「願保塞上谷以西至敦煌,傳之無窮。請罷邊備塞吏卒,以休天子人民。」天子下有司議,議者皆以為便。郎中侯應習邊事,以為不可許。上問狀,應曰。はぶく。

春正月、呼韓邪単于が来朝した。漢家のむこ(漢家の娘の夫)になりたい。元帝は、後宮の良家の子・王昭君を単于にたまう。単于は歓喜して上書した。
「上谷の西から敦煌まで、私が守りたい。漢家の吏卒が守備しなくて良いように」と。元帝は有司に議させた。郎中の侯応は、辺境のことに詳しいが、これに反対した。侯応はいう。はぶく。

侯応は10点にわたって反対をのべる。


對奏,天子有詔:「勿議罷邊塞事。」使車騎將軍嘉口諭單于曰:「單于上書願罷北塞吏士屯戍,子孫世世保塞。單于鄉慕禮義,所以為民計者甚厚。此長久之策也,朕甚嘉之。中國四方皆有關梁障塞,非獨以備塞外也,亦以防中國奸邪放縱,出為寇害,故明法度以專眾心也。敬諭單于之意,朕無疑焉。為單于怪其不罷,故使嘉曉單于。」單于謝曰:「愚不知大計,天子幸使大臣告語,甚厚!」

元帝は車騎将軍の許嘉から単于に、提案の許諾を伝えた。

初,左伊秩訾為呼韓邪畫計歸漢,竟以安定。其後或讒伊秩訾自伐其功,常鞅鞅,呼韓邪疑之;伊秩訾懼誅,將其眾千餘人降漢,漢以為關內侯,食邑三百戶,令佩其王印綬。及呼韓邪來朝,與伊秩訾相見,謝曰:「王為我計甚厚,令匈奴至今安寧,王之力也,德豈可忘!我失王意,使王去,不復顧留,皆我過也。今欲白天子,請王歸庭。」伊秩訾曰:「單于賴天命,自歸於漢,得以安寧,單于神靈,天子之祐也,我安得力!既已降漢,又復歸匈奴,是兩心也。願為單于侍使於漢,不敢聽命!」單于固請,不能得而歸。
單于號王昭君為寧胡閼氏;生一男伊屠智牙師,為右日逐王。

はじめ、左伊秩訾は、呼韓邪に「漢家に帰順しよう」と説いた。のちに左伊秩訾は讒言をうけ、呼韓邪に疑われたので、漢家に帰順して関内侯となった。呼韓邪も来朝したとき、左伊秩訾に「左伊秩訾の言うとおり、私も漢家に帰順する」と感謝した。左伊秩訾は「呼韓邪が漢家に帰順するなら、漢家の領土に留まるべきで、匈奴の領土に帰ってはならない」という。だが呼韓邪は匈奴の領土に帰った。
王昭君は、伊屠智牙師を生み、この子は右日逐王となった。

皇太子冠。
二月,御史大夫李延壽卒。

正月、皇太子が冠(元服)する。
2月、御史大夫の李延寿が卒した。

初,石顯見馮奉世父子為公卿著名,女又為昭儀在內,顯心欲附之,薦言:「昭儀兄謁者逡修敕,宜侍幄帷。」天子召見,欲以為侍中。逡請間言事。上聞逡言顯顓權,大怒,罷逡歸郎官。及御史大夫缺,在位多舉逡兄大鴻臚野王;上使尚書選第中二千石,而野王行能第一。上以問顯,顯曰:「九卿無出野王者。然野王,親昭儀兄,臣恐後世必以陛下度越眾賢,私後宮親以為三公。」上曰:「善,吾不見是!」因謂群臣曰:「吾用野王為三公,後世必謂我私後宮親屬,以野王為比。」三月,丙寅,詔曰:「剛強堅固,確然亡欲,大鴻臚野王是也。心辨善辭,可使四方,少府五鹿充宗是也。廉潔節儉,太子少傅張譚是也。其以少傅為御史大夫。」

はじめ石顕は、馮奉世の父子が公卿として著名であり、娘が馮昭儀なので、馮奉世に近づきたい。石顕は、馮奉世の子(馮昭儀の兄)謁者する馮逡を推薦した。元帝は、馮逡を侍中とした。馮逡は(石顕の推薦で侍中になったのに)元帝に「石顕は専権するから良くない」という。元帝は大怒して、馮逡を郎官にした。
ときに御史大夫が欠員する。馮逡の兄・大鴻臚する馮野王は、尚書から中2千石のなかで、評価が第一である。元帝は石顕に「馮野王を御史大夫にしたらどうか」と問う。石顕は「元帝は後世の人々から、馮昭儀を愛するから馮奉世を三公にしたと見なされる。馮野王を三公にすべきでない」という。元帝は合意した。
3月丙寅、元帝は馮野王を御史大夫としない。太子少傅の張譚を御史大夫とした。

ぼくは補う。原文では、少府の五鹿充宗への賛辞がある。これは文脈からは不用である。胡三省は、五鹿充宗が石顕の党与なので、ここで余分のほめたと考える。
ぼくは思う。石顕は、馮氏に取り入ろうとしたが失敗したので、元帝を味方につけつつ、馮氏の排除に方針転換した。石顕は宦官としての権力である。石顕その人が死ぬまで、この状況は続くだろう。石顕が死ねば、すんなり片付くだろう。
元帝は石顕にだまされるのでなく、ふつうに信頼していそうだ。


河南太守九江召信臣為少府。信臣先為南陽太守,後遷河南,治行常第一。視民如子,好為民興利,躬勸耕稼,開通溝瀆,戶口增倍。吏民親愛,號曰「召父」。
癸未,復孝惠皇帝寢廟園、孝文太后、孝昭太后寢園。

河南太守する九江の召信臣を少府とする。召信臣は南陽太守となり、河南太守にうつる。統治が第一なので、吏民から慕われて「召父」とよばれた。
3月癸未、孝惠皇帝の寢廟園、孝文太后、孝昭太后の寢園をもどす。

匈奴を討伐した、甘延寿と陳湯への判決

初,中書令石顯嘗欲以姊妻甘延壽,延壽不取。及破郅支還,丞相、御史亦惡其矯制,皆不與延壽等。陳湯素貪,所鹵獲財物入塞,多不法。司隸校尉移書道上,系吏士,按驗之。湯上疏言:「臣與吏士共誅郅支單于,幸得禽滅,萬里振旅,宜有使者迎勞道路。今司隸反逆收系按驗,是為郅支報讎也!」上立出吏士,令縣、道具酒食以過軍。既至,論功,石顯、匡衡以為:「延壽、湯擅興師矯制,幸得不誅,如復加爵土,則後奉使者爭欲乘危徼幸,生事於蠻夷,為國招難。」帝內嘉延壽、湯功而重違衡、顯之議,久之不決。

はじめ、中書令の石顕は、姉を甘延寿の妻としたいが、甘延寿がめとらない。甘延寿が郅支単于をやぶって還ると、丞相も御史大夫も、甘延寿の矯制をにくむ。

ぼくは思う。石顕は、いちど味方になろうと手をさしのべ、手をはじかれたら、報復にでる。この手順を徹底しているから、立派である。

陳湯は匈奴の討伐で、財物をかすめた。司隷校尉が陳湯を弾劾した。陳湯が反論した。「もし私を捕らえたら、匈奴が郅支単于の報復にくる」と。
石顕と匡衡は、法を守るため、匈奴を討伐してつけあがった甘延寿と陳湯を罰したい。だが元帝は、甘延寿と陳湯の功績を評価するから、2人を罰せられない。判決がだせない。

故宗正劉向上疏曰(はぶく)
於是天子下詔赦延壽、湯罪勿治,令公卿議封焉。議者以為宜如軍法捕斬單于令。匡衡、石顯以為「郅支本亡逃失國,竊號絕域,非真單于。」帝取安遠侯鄭吉故事,封千戶;衡、顯復爭。
夏,四月,戊辰,封延壽為義成侯,賜湯爵關內侯,食邑各三百戶,加賜黃金百斤。拜延壽為長水校尉,湯為射聲校尉。於是杜欽上疏追訟馮奉世前破莎車功。上以先帝時事,不復錄。欽,故御史大夫延年子也。

もと宗正の劉向が上疏した。

ぼくは思う。『漢書』劉向伝を、和訳で良いので読まねば。長いよ。

元帝は、甘延寿と陳湯の罪をゆるした。安遠侯の鄭吉と同じく、2人を千戸に封じた。2人はもっと欲しがった。
夏4月戊辰、甘延寿を義成侯・長水校尉に、陳湯を関内侯・射聲校尉とした。
ここにおいて杜欽は、馮奉世が莎車功を破った功績についても、賞賜せよといった。元帝は賞賜しない。杜欽とは、もと御史大夫の杜延年の子である。

荀悅論曰:成其功義足封,追錄前事可也。《春秋》之義,毀泉台則惡之,捨中軍則善之,各由其宜也。夫矯制之事,先王之所慎也,不得已而行之。若矯大而功小者,罪之可也;矯小而功大者,賞之可也;功過相敵,如斯而已可也。權其輕重而為之制宜焉。

荀悦が論じる。匈奴を討伐した功績と、法を破った罪過と。功績が大きければ賞賜して、罪過が大きければ処罰する。大小を比べて、判決すべきである。

元帝が崩じて、成帝が即位する

初,太子少好經書,寬博謹慎;其後幸酒,樂燕樂,上不以為能。而山陽王康有材藝,母傅昭儀又愛幸,上以故常有意欲以山陽王為嗣。上晚年多疾,不親政事,留好音樂;或置鼙鼓殿下,天子自臨軒檻上,□貴銅丸以擿鼓,聲中嚴鼓之節。後宮及左右習知音者莫能為,而山陽王亦能之,上數稱其材。史丹進曰:「凡所謂材者,敏而好學,溫故知新,皇太子是也。若乃器人於絲竹鼓鼙之間,則是陳惠、李微高於匡衡,可相國也!」於是上嘿然而笑。

はじめ太子は経書を好んだが、のちに飲酒が好きになった。燕楽を楽しむ。

師古はいう。『論語』で孔子は「損とは3楽である」という。驕楽、逸楽、燕楽である。燕楽とは、燕私の楽である。ぼくは思う。『論語』の注釈を見ねば、なんのことやら。

元帝は太子が、後継に適任でないと思う。いっぽう、山陽王の劉康は、才芸がある。母の傅昭儀は、元帝に愛好される。元帝は、劉康を後嗣としたい。

ぼくは思う。でました。3つめの元帝の妻。
ぼくは思う。王政君と成帝が後嗣となれたのは、実力や愛情ではなく、「長男だから」「皇后の子だから」という序列である。もっぱら儒学に助けられて、立場を守られたのだ。そりゃ、王莽が儒学に傾倒するよなあ。

それでも史丹は、皇太子を後嗣にせよと主張した。元帝は、黙然として笑う。

ぼくは思う。音楽にかこつけて、おもしろいことを言っているが、また今度。成帝の即位にあたり、史丹の役割が大きいみたい。『漢書』史丹伝を読むこと。


及上寢疾,傅昭儀、山陽王康常在左右,而皇后、太子希得進見。上疾稍侵,意忽忽不平,數問尚書以景帝時立膠東王故事。是時太子長舅陽平侯王鳳為衛尉、侍中,與皇后、太子皆憂,不知所出。史丹以親密臣得侍視疾,候上間獨寢時,丹直入臥內,頓首伏青蒲上,涕泣而言曰:「皇太子以適長立,積十餘年,名號繫於百姓,天下莫不歸心臣子。見山陽王雅素愛幸,今者道路流言,為國生意,以為太子有動搖之議。審若此,公卿以下必以死爭,不奉詔。臣願先賜死以示群臣!」天子素仁,不忍見丹涕泣,言又切至,意大感寤,喟然太息曰:「吾日困劣,而太子、兩王幼少,意中戀戀,亦何不念乎!然無有此議。且皇后謹慎,先帝又愛太子,吾豈可違指!駙馬都尉安所受此語?」丹即卻,頓首曰:「愚臣妄聞,罪當死!」上因納,謂丹曰:「吾病浸加,恐不能自還,善輔道太子,毋違我意。」丹噓唏而起,太子由是遂定為嗣。而右將軍、光祿大夫王商,中書令石顯亦擁佑太子,頗有力焉。夏,五月,壬辰,帝崩於未央宮。

元帝が寝込むと、傅昭儀と劉康はつねに左右にいるが、王皇后と太子は左右にいない。元帝は尚書に、景帝が膠東王を立てた故事を質問した。

『資治通鑑』巻16の景帝の前6年にある。

ときに太子のおじは、陽平侯の王鳳である。王鳳は、王皇后と太子とともに、どうしたら良いか(どうしたら太子を皇帝にできるのか)わからない。
史丹は涕泣して元帝に「太子を後嗣にして」という。
元帝はいう。「山陽王の劉康、信都王の劉興は、どちらも幼い。私の父の宣帝は、いまの太子を愛した。

宣帝の甘露2年にある。

太子をつぎの皇帝にするつもりだ」と。 右將軍・光祿大夫の王商、中書令の石顕は、太子をたすけて権力をもつ。
夏5月壬辰、元帝は未央宮で崩じた。

班彪贊曰:臣外祖兄弟為元帝侍中,語臣曰:「元帝多材藝,善史書,鼓琴瑟,吹洞簫,自度曲,被歌聲,分刌節度,窮極幼眇。少而好儒,及即位,徵用儒生,委之以政,貢、薛、韋、匡迭為宰相。而上牽制文義,優遊不斷,孝宣之業衰焉。然寬弘盡下,出於恭儉,號令溫雅,有古之風烈。」

班彪は賛する。私の外祖兄弟は、元帝のとき侍中となった。彼らは私にいう。「元帝は才芸があり、史書と音楽ができる。若くして儒学をこのみ、儒者を徴用した。貢禹、薛広徳、韋玄成、匡衡は宰相となった。法家を牽制して、宣帝の事業を衰えさせた。寛弘なやさしい政治をした」と。

匡衡奏言:「前以上體不平,故復諸所罷祠,卒不蒙福。案衛思後、戾太子、戾後園,親未盡。孝惠、孝景廟,親盡,宜毀。及太上皇、孝文、孝昭太后、昭靈後、昭哀後、武哀王祠,請悉罷勿奉。」奏可。
六月,己未,太子即皇帝位,謁高廟。尊皇太后曰太皇太后,皇后曰皇太后。以元舅侍中、衛尉、陽平侯王鳳為大司馬、大將軍、領尚書事。

匡衡は上奏した。「祭祀をやめたら、元帝が病気になった。衛思后、戾太子、戾後后は、親しさが尽きていない。孝惠、孝景の廟は、親しさが尽きているから壊せ。太上皇、孝文、孝昭太后、昭靈后、昭哀后、武哀王の祠は、祭祀の中止をするな」と。元帝はみとめた。
6月己未、太子が皇帝の位につく。高廟に謁した。宣帝の王皇太后を、太皇太后とする。元帝の王皇后を、皇太后とする。元帝のしゅうとで侍中・衛尉する陽平侯たる王鳳を、大司馬・大將軍・領尚書事とする。

ぼくは思う。外戚の王氏の執政が、いま始まる。元帝の生前は、元帝が「石顕に優し過ぎる」ので、石顕がのさばった。儒家の登用が徹底せず、総花的(すべてに利益を与える)な政治だった。つぎ、外戚の政権ができる。王莽より以前は、あまり儒家が第一の特徴ではない。豪奢を競う。


秋、元帝を渭陵に葬る

秋,七月,丙戌,葬孝元皇帝於渭陵。大赦天下。

秋7月丙戌、元帝を渭陵に葬る。天下を大赦した。

丞相衡上疏曰:「陛下秉至孝,哀傷思慕,不絕於心,未有游虞弋射之宴,誠隆於慎終追遠,無窮已也。竊願陛下雖聖性得之,猶復加聖心焉!《詩》云:『煢煢在疚,』言成王喪畢思慕,意氣未能平也。蓋所以就文、武之業,崇大化之本也。臣又聞之師曰:『妃匹之際,生民之始,萬福之原。婚姻之禮正,然後品物遂而天命全。』孔子論《詩》,以《關雎》為始,此綱紀之首,王教之端也。自上世已來,三代興廢,未有不由此者也。願陛下詳覽得失盛衰之效,以定大基,采有德,戒聲色,近嚴敬,遠技能。臣聞《六經》者,聖人所以統天地之心,著善惡之歸,明吉凶之分,通人道之正,使不悖於其本性者也。及《論語》、《孝經》,聖人言行之要,宜究其意。臣又聞聖王之自為,動靜周旋,奉天承親,臨朝享臣,物有節文,以章人倫。蓋欽翼祗栗,事天之容也;溫恭敬遜,承親之禮也;正躬嚴恪,臨眾之儀也;嘉惠和說,饗下之顏也。舉錯動作,物遵其儀,故形為仁義,動為法則。今正月初,幸路寢,臨朝賀,置酒以饗萬方。《傳》曰:『君子慎始。』願陛下留神動靜之節,使群下得望盛德休光,以立基楨,天下幸甚!」上敬納其言。

丞相の匡衡は上疏した。「元帝が崩じたところで、成帝は哀しかろうが、つぎの正月には、朝賀して置酒しよう」と。成帝はそのとおりにした。130617

ぼくは思う。匡衡伝も読まねばなるまい。

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