読書録 > 不定期更新のみじかい読書メモ 201307

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アウエハント『鯰絵』と曹操、世代間ギャップの話

『鯰絵』民俗的想像力の世界

江戸の安政期に地震がおこった。
「鯰絵」がたくさん描かれた。

翻訳・解説者の中沢新一氏よれば、人間の社会のことと、自然の変異のことを、ひとつに結びつけて理解して、乗り越えていこうという、知性のあらわれだと。これは、2年前の大震災のときの日本人にたいする批判になってる。
2年前のぼくたちは、「自然は自然のこと、人間は人間のこと」と切り分けた。地震のことは、経済学における外部要素だから、と切り捨ててしまった。なんて貧困な知性のありかただ、と。

鯰絵がおもしろいのは、「鯰は災害をおこす悪者」と、単純に図式化されていないところ。鯰が「地震を起こして、ごめんなさい」と切腹すると、腹から大判小判があふれ出す。地震によって、階層が固着した社会が揺さぶられ、富の再分配が促されたと。これは、江戸末期の閉塞した社会にとっては、悪いことばかりとは、決めつけられないぞ、という発想の転換。
地震とは、ただの悪いことでなく、良いことでもある。生産とか豊穣のイメージもまた、ナマズの上に投げかけられているのだと。ナマズは、トリックスターなんだと。

正史の曹操こそ、トリックスターである

そこで、トリックスターのこと。
井波律子先生は(文学での)曹操を、トリックスターと位置づけられる。『蒼天航路』の曹操をトリックスターと分析する、早稲田大学三国志研究会の記事もヒットした。トリックスターとは、神話や物語において、秩序を破る悪戯者。善と悪、知者と愚者、破壊と生産などの二面性をもつらしい。ぼくは文学作品の曹操よりも、正史の曹操のほうが、よりトリックスターだと思う。
初平期、董卓と二袁が中原を東西に分割し、袁紹と袁術が南北に分割した。曹操は献帝を黙殺したが奉戴し、袁紹と協調したが対決した。東西と南北の分割を、境界上の曹操が再結合した。ただし再結合後の中原は、分裂前(霊帝末)と異なる。両義性(正反対の行動をいきなりとる)、境界(東西と南北の境目に、地理的にも政治的な立場的にもいる)と媒介(自分が変化するのでなく、相手を変化させる)、記号的変換の機能(接した者を、鏡像のように正反対にひっくり返す)。まさにトリックスター。

トリックスターとしての曹操は、数字「-1」に似てる。-1を掛けると全ての数の正負が反転する。曹操と接すると価値が反転する。献帝は傍流から嫡流へ、呂布は強者から弱者へ、袁紹は英雄から優柔不断へ、袁術は忠臣から逆賊へ、賈詡は撹乱者から秩序の構築者へ、劉備は放浪者から皇族の成員へ。他にもいくらでも例がでそう。
袁紹は「10」で、袁術は「9」とか。とにかく絶対値は大きいのだけど、価値観を転倒させる魔力を宿していない。ただ、数字を足し算していく、凡庸な役割。いや、数字が大きいのだから、重要なキャラクターなのです。また、曹操の「-1」が引き立つには、このように絶対値の大きな者が必要です。
「3×-1」と「10×-1」では、振れ幅がちがう。

曹操がトリックスターなのか。それとも、曹操をトリックスターのように描くのが、正史という「物語り」の特徴なのか。先後関係が、心地よく融けあってきた。
王朝の初代建国者は、少なからず「-1」の性質をもつ。曹操は「-1」の程度がとくに高い。もしくは、より強力な「-1」性を発揮した者が、天下を取るのかも。少なくとも正史類の本紀は、そういう種類の「物語り」だと思う。いや、建国者が「-1」を自在に駆使したように描くのが、優れた正史の筆者のスキルなのか。
うーむ。
じゃあ「-1×-1=1」の数式はどんな状況を指すか。両雄が激突し、、わからん。曹操と劉備をつかって論じられたら良いのだが、曹操は「掛ける数」で、劉備は「掛けられる数」に過ぎない。

今朝思ったこと、その1;文学としての正史

正史類は、歴史学が対象とする史料として読まれる。でも、文学作品として読んだら、楽しさが広がりそう。神話や伝承に付き合うのと同じ姿勢で読む。黄帝や神農、三国演義を読むのと同じように、正史を読む。
一周まわって歴史も分かるようになるかも。
(正史の曹操を、トリックスターと解釈するのは試論の1つ)
ちょっとしかない材料をこねくり回して、きまった調理法で煎じ詰めるよりも。いちど、ほかの材料のなかに大胆にブチこみ、まったく違う調理法を試したところ、さらに素材の味を引き出す結果となった、、というイメージ。イメージはだいじです。イメージがないと、絶対に達成することはないのだから。
ただし、イメージだけでも、漠然として、いかんのだが。

今朝思ったこと、その2;世代間ギャップ

衆議院だか参議院だかの選挙があった。(よく知らん)
そこで思った。
世代間ギャップ。現在日本から1800年をひくと。中年以上は「(漢を)取り戻す」という、過度に短縮された掛け声にさえ共感できる。共感してもらえることを、自明かつ前提として、掛け声が作られてる。
一方、それ未満の世代は、取り戻す対象をリアルタイムに知らないから、掛け声が意味不明。取り戻すより、違うものを模索する、んじゃなかったか。「2年前の震災で、これまでの方法では、どうやらダメらしい」と仄めかされたところじゃないか。それなのに、なにを「取り戻す」のか、、という感じになる。
政党や政策の支持・不支持を言いたいのでなく、「こういうポスターをつくれば、みんな分かってくれるだろう」という、作り手のセンスや思いこみについて、ギャップがあるなあ、という話。

世代間ギャップが生まれないのは、最大で10年程度か。「失われた10年」は意味が分かったが、「失われた20年」と言い方は定着してなさそう。指示対象がぼやける。「失われた20年」は、あくまで「10年」の言い方のパロディであり、独自の意味を持つには到らなかっただろう。
董卓から10年。袁術と袁紹が事態の収束に失敗した、西暦200年前後に「取り戻す」スキームが無効となり、問題が拡散し始めたのかな。

ぼくは、1982年生まれです。1989年に昭和から平成になり、1991年に冷戦が終わり、バブルが崩壊した(らしい)。2001年にテロ、2008年にリーマンショック。
1200年をマイナスすると、諸葛亮より1つ下、孫権と同い年。189年に霊帝から献帝にかわり、190年に長安遷都、192年に董卓が死に、これまでの価値観が通用しなくなった。200年前後に曹操が、袁術・袁紹をやぶる。208年に赤壁。まったく、引き返すことができなくなった。
211年は、震災的ななにかを期待したが、潼関の戦いってw

唯一無二の正統な価値観「近代」のモデルが揺さぶられ、ウロウロしている時代。1800をマイナスするのは、あたらしい三国志の楽しみ方。

いまの60歳前後が「近代」を批判する旗手として、レールを完成させてくれた。というか、やり尽くした感まである。もちろん、いまの60歳前後のさらに数十年前から、「近代」批判は行われてきた。批判に時間がかかる感じは、まるで後漢後期の党人たちが、後漢のなかから後漢を批判してきたことに通じる。批判する勢力が出てきたら、ただちにその支配的な価値観がコケるんじゃないのね。
党錮から、後漢の崩壊まで、1世代くらいかかっているのは、「近代」との符合から考えても、おかしなことじゃない。

ぼくらにとっての「近代」と、後漢末の「聖なる漢」は、取り扱われ方において、類似した概念かも。『三国志』を読めば、むこう数十年を予言できる。20130722

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加藤文元『数学の想像力』と『三国志』読解

加藤文元『数学の想像力/正しさの深層に何があるのか』筑摩選書 2013

西洋近代の数学における信仰

述べられているのは、近代西洋の数学が、「現代数学」の主流を占めているのは、なぜかという話。結論としては、各時代や各地域で、なかなか解決できなかった問題(無限の概念など)について、わざと思考停止して、あたかも解決したかのようにゴマカす表記法を採用したから。
つまりこれまでは、無限という概念とはなにか、どんなパラドクスをはらむか、「無限」といわずに同じ内容を表現できないか、、など、試行錯誤が行われてきた。それぞれに反論があり、そこで立ち止まった。
しかしライプニッツの微分積分は、「lim→0」、「lim→∞」などの、数式でも図示でもない、ただの文章によってこれを表現し、ヨシとしてしまった。
この本質的な問題に対する回避を、ヨシとできるのは、この時点ですでに「信仰」であると。

話を卑近にしておきます。例えば、日本史のテストで「江戸幕府が開かれたのは、いつでしょう」という問題があったとする。知識がある受験生であれば、教科書に書いてある西暦を記入する。歴史学者であれば、その定義について検討し、仮説を提示し、反対論者とたたかい、、という一連の動作をする。そもそもこの設問は妥当か、という問い返しにより、さらに混迷をきわめる。
問題への取り組み方は、立場や信条によって異なる。他の人の回答を、無条件に正解と見なすことはない。いかなる立場や信条に基づいた回答なのか吟味し、またそれで正解なのかも吟味するでしょう。
いっぽうで、
近代西洋の数学であれば、「江戸幕府が開かれたのは、いつでしょう」に対して、回答を「江戸幕府が開かれたとき」として、それで正解とする。この開き直りは、まったく自明とすることはできない。むしろ、これで正解とすることは、根拠や妥当性のない「信仰」とでも言わざるを得ないことである。
しかし、この開き直りによって、この問題に答えることは容易となり、正解できる人数がふえる。大衆化して浸透する。それがほんとうに、知的な営為として意味があるのかどうか別として、とりあえず浸透する。次にゆける。

『三国志』の読解について考える

数学の本を、数学をやるために読んだのではない。
いま、いわゆる歴史学は、西洋近代の技法が正しいとされている。学者はその意味を踏まえて論文を書かれる。またネットの『三国志』読者も、よく分からないなりに、学者の論文を頂点において、それを横目に見ながら(ひとによっては読み、ひとによっては読まず)三国志に接する。

しかし、西洋近代の科学が正しいとする歴史との接し方において、数学と同種の思考停止、数学と同種のざんねんな「信仰」が、まかりとおっていないか。
もともと前近代の東洋において、過去の無限の出来事とか、過去について記したテキストに対する接し方は、いろいろあったはずだ。それこそ、立場や信条によって正解が異なり、問題の設定や定義について、議論が尽くされてきたはずだ。
これを「前近代」「非西洋」だからと退けていないか。

西洋近代の技法のどこに問題がある、という明確な主張があるのではない。でも、史料を緻密に読んで、制度史について云々することに、おもしろみを感じない。たしかに、テキストに完全に準拠し、踏み外さない範囲で史料批判をし、そのなかから整合的に指摘できることを、つむぎだす。
それは、近世西洋の技法においては、充分に「科学的」であり、ある場所では賞賛にあたいするだろう。しかし、そんな読み方の対象としてばかり史料を読んでも、なんのおもしろみもないのではないか。
人間はどう生きるかとか、政治はどうあるべきかとか、天下国家のこととか。ビジネス書のたわごと、小説家のざれごと、と決めつけて遠ざけるには、ちょっと惜しいテーマでもある。しっかり調査した上での「与太話」は、価値があるのです。
と、西洋近代の歴史学を職業にしないから、思える幸せ。130714

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中沢新一『三位一体モデル』と三国鼎立

中沢新一『三位一体モデル』 ほぼ日ブックス 2007

規範たる父と、増幅する精霊と、産物たる子。
これをボロメオの輪でむすぶと、いろいろ言える。

むしろ巻末に、広告や音楽業界の人々が、中沢先生の理論を、いかに自分にひきつけるかを論じているのが、おもしろい。
自分の属する分野において、父・精霊・子に何があてはまるのか考えることで、思考が活性化される。つぎに、その3つのバランスが悪いところ(もしくは欠損しているところ)をみつけて、問題を解決できる。
三位一体を構成するものは、ひとつのものを3つの側面から見たものである。同じだけど違い、違うけど同じなんだ。そして、だいたい3つの関係性が安定てなければならない。安定とは、静的でも動的でも可。つまり、うまく釣り合って均衡にあるか、もしくは血流がサラサラと活発であるか。

漢魏で考えると、父は天である。王朝の始祖である。
子は天子である。王朝の現在の皇帝である。

増幅の原理をもち、父と子を媒介する「聖霊」には、儒教を置くべきなんだろうなあ。儒教により天や始祖が増幅され、のちの時代まで正統性が保持される。
しかし、聖霊が強まりすぎると、たとえば聖霊たる「煉獄」の発明が、利子をとる資本主義を強めすぎたように、父や子のありかたを変えてしまう。つまり、儒教により、天や始祖の性格や祭り方が決まってくるのだが、同時に易姓革命の論理まで、内包するようになってしまう。
聖霊は増幅するものである。天や始祖を、縦方向に(上から下に)増幅するのが、当初の機能だろう。ただし、横方向に増幅するのも、アリだよね。
そういうわけで、漢魏革命がおこり、蜀漢の牽強付会がまかりとおり、孫呉の自主独立がみとめられてしまう。

天の概念、皇帝の正統性を、「増幅」させるところのものである儒教。このインスピレーションは、帯のいう「30分」の読書の充分すぎる成果物であったなあ。アマゾンで251円(本体価格は1円)で買ったけど、さすが新ちゃん。130714

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宮城谷昌光『子産』と儒家の思考ぐせ

先月ツイートした。

権威づけには何種類も方法がある(整理したら楽しそう;ウェーバーの議論が代表的?)。数あるなかで孔子は「私だけが古い制度を正確に知っている」というハッタリで持論を権威づけた。漢魏の人々が正統性を古典に求めるのは、孔子=儒家の思考パターンをなぞるから。
漢魏の人々が、持論をどの古典に結びつけて主張しているかを検討する以前に。「なんでも古典に結びつけて主張を展開するなんて、へんなやつ」という、いちばん始めに持った感想を忘れてはいけない。まあぼくら近現代人は「なんでも新しければ価値を見いだす、へんなやつ」なんですが。

というわけで(もないが)宮城谷昌光『子産』を読んだ。
これも、4年前に買ったまま、ビニルがかかってた。

子産とは、孔子より1世代上の知識人である。孔子から尊敬を受けた。『論語』のなかで、子産はすごいなあと書いてある。
だから興味を(4年ごしに)持ちました。

子産は、鄭国の君主の孫であり、宰相である。
このとき鄭国は、北の晋国と、南の楚国にはさまれる。地理的にはさまれ、政治と軍事では両属的。片方がもう片方を攻めるとき、つねに先頭で攻撃をうけるか、もしくは先兵となって攻撃をするか。
子産の父・子国の時代が、宮城谷『子産』の前半をしめる。父の代から語り起こし、まるまる半分を費やしてしまうのは、『晏子』のときと同じ。
まあ、後漢の和帝から、『三国志』を起筆する人なので。

平勢隆郎『よみがえる文字と呪術の帝国』をアマゾンで中古で買ったら、ケムリかカビのにおいがキツいので、ゴミ箱にいった。図書館で借りて読み、手元に置きたいと思って注文したのに、まるで意味がない。
そのなかで、楚王の大きさについて言及がある。
春秋期は、周王を中心とした秩序があることになっているが。じつは楚王は、周王にならぶほどの勢力。ぼくが勝手に解釈するなら、「南北朝時代」みたいなもの。
子産の時期は、周王はよわい。会盟を主催するのは、晋公である。周王は、たまにジャマする程度。周王は、辺境の斉国の崔杼とむすんで、晋公にちょっかいを出す。でも主役は、楚王と晋公であることに変わりない。

宰相となった子産は、はるかに格上である楚王と晋公にむけて、詭弁のような「礼」「法」の知識や理論をぶつけて、圧倒する。このような詭弁が、わざわざ必要になるほど、鄭国は弱小の立場だった、ということを分からせるために、父の時代が描かれていたんだな、と納得する。
弱小の立場にある者が、どうせ誰も知らない古代の礼制について、「私は知っているが、あなたは知らない」という論理形式でいどむ。弱者の詭弁だが、言っていることが正しそうで(あくまで印象であり、証明はできない)なかなか無視できない迫力があると、賢者として扱われる。
なんだか、厚かましいような、妖しいような、
そういう知識人の先輩として、孔子の前に子産がいる。

ぼくらの生活の現場で、想像してみると良いと思う。
どうせ誰も知り得ないことについて、「私は知っているが、あなたは知らない」という弱者がいる。まあ、こういうブラックボックスが前提の、チートな主張をするのは、そいつが弱者だからなんだけど。
だって強者なら、誰かが検証できるか、もしくは「誰かなら検証できるだろう」とみんなが推測するような事柄について、正攻法で攻めるだろう。情報の多さも武力のうちだから。声ばかり大きくて、まあ反論できない理想論をのべる、そんな弱者がいたら、ウザい。

前漢の途中まで、それこそ前漢の宣帝が、皇太子のときの元帝に「儒学をやる元帝は、前漢を滅ぼす。前漢には前漢のやりかたがあったのに、元帝が無視するから」という。
元帝は皇帝だから、いわば情報量と発言権における強者である。それなのに、儒家を重んじる。そこには倒錯があるよね。儒家は、万年野党として吠える思想であり、それで良かったのに。

虐げられた者が、虐げられているという立場こみで(立場を反映させて、その立場でないと意味がないような形式で)つくった思想が、強者に取り込まれる。
おかしいなあ。おかしいところが、おもしろいなあ。どういう仕組みで、そんなことになったか。この倒錯が、どのようなおかしさを生み出すか。ちょっと考えてみたい。宮城谷『子産』は、ついつい首肯してしまうような知者ではなくて、妖しげな詭弁の使い手だった。孔子と同じだ。それが確認できてよかった。130714

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