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宮城谷『三国志』における漢魏革命

宮城谷『三国志』では、単行本8巻 186頁から、「禅譲」という回が始まります。
曹丕が魏王になってから、わりと関連するテキストを長々と読ませてから(30頁、連載で1回分)、やっと回を改めて禅譲に入ります。
正史や『資治通鑑』の転載でないところ、宮城谷氏の独自性が出ているところを、引用してゆきます。

饗宴するための遠征

(延康元年の七月)曹丕は生まれ故郷である譙県に留まっている。…伎楽を設けて、あそびたわむれた。まるでこの盛会を催すために遠征にでたかのようである。

前回で正史どおり、霍性が遠征をとがめて、死を賜った。これを評して宮城谷氏は、「これが曹丕の正体である、といえなくはない。――諫言を呈する者は死ぬ。そういう事実を有司百官に教えたといえる。…恐怖を与えて統制するやりかたで、真の成功を得た人はいない」とする。
霍性を殺して起きながら、遊んでんじゃねえよと。

「譙は覇王の邦であり、真人がここからでた」
…真人とは…曹操を指しているとおもわれるが、自身を指していたのであれば、うぬぼれがすぎるであろう。

曹丕は宮城谷氏に嫌われたようです。挽回できまい。


曹丕は南征と称しながら、孫権につかわされた使者に引見し…、なおさら南へ征く理由を失い、けっきょく軍をめぐらせて、…許へむかった。

曹丕の南征に、積極的な計画を見出さないのが、宮城谷氏の見通し。
却って、ぼくはここから、曹丕の南征が圧力となり、孫権が使者をよこしたとも言えるような気がする。孫権は、まことに尻が軽いのだ。


(十月)丙午の日(四日)に、…曲蠡に到着した。この地の繁陽亭で、曹丕は献帝の使者を迎えた。

宮城谷氏が、文帝紀の本文のみ見ていることが分かる。文帝紀には、献帝の使者がきたタイミングについて、書いていないから(文帝紀の不親切さが、宮城谷氏の参照元を特定させてくれた)。この時点では、裴注まで参照せずに書いている。
『資治通鑑』には、献帝が使者をやったのが、乙卯(十三日)と明記されている。『資治通鑑』を頭から引き写しているなら、乙卯の日付を書かずにはいられないだろう。ちなみに『資治通鑑』が献帝の使者を乙卯と特定する根拠は、裴注『献帝伝』にあると見てよいでしょう。

「はて、なにごとであろうか」
曹丕はあえてうそぶき、眉をひそめた。

曹丕は、わざとらしい演技をしたのだと。

天子の使者は兼御史大夫の張音である。
「天子は高祖の廟で祭祀をなさったあと、これを魏王に奉じるようにお命じになりました」

文帝紀の本文だけに依拠した、急速な展開。裴注はあとから出てくる。ちくま訳を頭から読んでゆけば、こういう小説になる。
『三国演義』では、さきに瑞祥が出てくる。本文と裴注を総合すると、『三国演義』のように、瑞祥の報告がさきに来なければならない。『三国演義』は、裴注はなく『資治通鑑』を見ているとされる。

これとは、おどろくべきものである。
天子の璽と綬である。
――皇帝の位をわれに譲るということか。
曹丕は呼吸を忘れたかのように、璽綬を視ずに、使者を覩た。むろん献帝のことばというべき詔がある。
「朕は位に在ること三十二歳、……」

これは裴注の袁宏『後漢紀』より。
『三国志』文帝紀を頭から読んでいくと、まず文帝紀の本文で張音が到着する、そこで裴注に飛ばされて『後漢紀』の禅詔を読まされる、本文にもどって、禅詔の本文バージョンを読まされる。宮城谷氏は、本文バージョンの禅詔は黙殺する。『後漢書』と本文の禅詔は、史料の位置が接近しているので、「重複するようだから、片方を削ろう」という判断が働いたのだろう。
裴注を見渡さず、『資治通鑑』も見ず、とりあえず文帝紀で書き進めていることがわかる。だから、史実と出来事の前後が逆転してしまうのだ。


曹丕が受禅を固辞する

『論語』には、禅譲について言及されていない。

ぼくは思う。『論語』堯曰篇は?

古代から禅譲という思想があったようにおもわれがちであるが、孔子よりあとの時代に生まれた思想であるのかもしれない。…伝説のなかの(尭舜、舜禹の)禅譲は実在しなかったことになり、ここでの献帝から魏王曹丕への帝位の譲渡が、史上初ということになる。
では、なにゆえ献帝はこのときをえらんで退位することにしたのであろうか。

この問題設定は、小説のなかのものとは、、

生前の曹操にたいして、「位を譲りたい」と、献帝は打診したことがあるとおもわれる。生前の曹操は、…緘口を強いたのではないか。そういういきさつについて曹丕は知っていたか、知らないでいたか。…禅譲をうけなかった。
…郡臣がいれかわりたちかわり、…ことばをつくして奏上した。さすがにうるさく感じたのか、曹丕はつぎのように布告した。

ここから『献帝伝』の内容になる。上にも書いたとおり、裴注を総合して読むか、『資治通鑑』を参照するかしていれば、郡臣の上奏より先に、献帝の禅詔が出ることはありえない。
『資治通鑑』は、裴注『献帝伝』の禅代衆事を、「左中郎將李伏、太史丞許芝表言:魏當代漢,見於圖緯,其事衆甚。羣臣因上表勸王順天人之望。」と過剰に圧縮する。これでは物足りないと思い、宮城谷氏は、参照元を『資治通鑑』から文帝紀に切り替えたのだろう。

司馬懿らがいっせいに献言をおこなった。ますます噪がしくなった。
身にあまる賜予があった場合、三度辞退するというのが伝統的な謙譲の表現である。いま曹丕の礼の進退に、天下のまなざしが集まっている。こういうとき卑しい礼をおこなえば、樹てた王朝の品格をそこなう。それがわかっている曹丕は、固辞の容を保ちつづけた。

曹丕の三譲とは、宮城谷氏のなかでは、何に対する三譲なのだろう。なんだか、郡臣の勧進に対する辞退と読まれかねない位置に、三譲の解説が入ってる。


乙卯の禅詔をダブルカウント

すると乙卯の日(十三日)に、魏王に天下を譲るための詔冊がくだされた。これが正式な禅譲の第一回であるとみるべきである。

さっき出てきた、『後漢紀』からの引き写しは、「正式」でなかったのか。そんなバカな。史料を読んでも、よく分からなかったから、「正式」と説明して、お茶を濁した感じ。

三度辞退する者がいるということは、三度賜与する者がいるということで、この禅譲がきまぐれでないことを献帝は示してゆかなければならない。

『後漢紀』の禅詔は、正式なものではないから、曹丕は断らなかった。という理解に基づいて、小説を書いているようだけど。


曹丕はこのにぎやかさを嫌って、「ふたたび紛々とするなかれ」と、叱るようにいった。
郡臣はことごとく熱に浮かされているようである。むりもない。禅譲という大事件をまのあたりにするのはいましかないのである。だが、郡臣が熱くなればなるほど、曹丕は冷静さをました。

禅代衆事に、熱気のトーンを読み取るのは、宮城谷氏のオリジナリティかも。たしかに長い史料だが、彼らの言葉のトーンが、必ずしも明らかでない。みんな熱狂している、という場面を想像するのは、読者としてすごく楽しい。


庚申の日(十八日)に、曹丕は上書とともに璽綬を献帝に返上した。
それから二日後に、またしても冊詔があった。

『献帝伝』のみに準拠して書けばよいから、日付にミスは起こらない。つぎに混乱するとしたら、即位儀礼のあたり。

こうなると献帝と曹丕の意地の張りあいなのか、じつは感情から遠い礼の往復にすぎないのか、わかりかねる。郡臣が熱狂していることだけはたしかであろう。

曹丕と献帝の真情に触れることは、あきらめてしまった。

これほど短い時間にこれほど多い上書が書かれたことはかつてなかったにちがいない。また郡臣は、このときとばかりに、凝った文体で、文章を書いた。

曹丕が受禅して感動する

――そろそろ冊詔をうけてもらわねばこまる。
と、考えたのは、魏の王朝の中枢にいる者たちで、華歆、賈詡、王朗および九卿が、上書をおこなった。
…さすがの曹丕も、
「孤はどうして辞退しようぞ」
と、いい、郡臣を欽喜させた。
こういういきさつを知らない献帝は四度目の冊詔をおこなった。すかさず桓階は…、献言した。
「よろしい」
二十九日すなわち辛未の日に、曹丕は壇に登って、禅譲を受けた。

文帝紀の本文では、庚午(二十八日)に曹丕は登壇する。つまり宮城谷氏は、文帝紀本文を「正」とするのでなく、『献帝伝』を「正」とするのでなく、目に付きやすい順に史料を採用していったのだ。べつにいいけど。

壇に登ってすべての儀式を畢えた曹丕は、郡臣をかえりみて、
「舜と禹がおこなった事を、朕は知った」
と、いった。これが曹丕の感動の表現であろう。

献帝の絶対的な不幸は、万民に憎まれた董卓によって立てられた皇帝であるということであった。…それゆえ、禅譲という美名によって過去の醜声を消そうとしたのかもしれない。禅譲はみずからを救う行為でもあったろう。

おわりに

というわけで、漢魏革命は、すでに正史が混乱しているわけですが、その正史を読み、目についた順に小説が作られていることが分かりました。『資治通鑑』の庇護が受けられないと、けっこうツライようです。
明らかな矛盾は、曲蠡に到着した直後に、いきなり禅詔が届いてしまうことぐらい。それ以外は、解釈の問題とすることができそう。
献帝が唐突に禅詔を出したのは、生前の曹操に圧迫されていたから。この解釈は、史料の誤読(文帝紀の本文に日付がないことに困らされた結果)から出てきたことだと思います。140226

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『秘本三国志』の漢魏革命;作成中

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