表紙 > 和訳 > 『資治通鑑』巻81、280-288年を抄訳

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太康元年(庚子,公元280年)春

2月、王濬の水軍が荊州を陥し、杜預が鎮撫

春,正月,吳大赦。
杜預向江陵,王渾出橫江,攻吳鎮、戍,所向皆克。二月,戊午,王濬、唐彬擊破 丹楊監盛紀。吳人於江磧要害之處,並以鐵鎖橫截之;又作鐵錐,長丈餘,暗置江中, 以逆拒舟艦。濬作大筏數十,方百餘步,縛草為人,被甲持仗,令善水者以筏先行,遇 鐵錐,錐輒著筏而去。又作大炬,長十餘丈,大數十圍,灌以麻油,在船前,遇鎖,然 炬燒之,須臾,融液斷絕,於是船無所礙。庚申,濬克西陵,殺吳都督留憲等。壬戌, 克荊門、夷道二城,殺夷道監陸晏。

春正月、孫呉は大赦した。
杜預は江陵にむかい、王渾は橫江に出て、孫呉の鎮戍をやぶる。2月戊午、王濬と唐彬は、丹楊監の盛紀を撃破した。

胡三省はいう。丹陽城は、秭歸県から東に8里。むかし周武王が熊繹を荊丹陽に封じたのがここ。ぼくは思う。益州から長江をくだり、孫呉に迫っている。

孫呉は長江に鉄鎖をわたす。王濬はこれを切断した。

胡三省はいう。人力で守らず、鉄鎖で守ろうとしても、どうせ切断されてしまう。無益な防備である。ぼくは思う。「人力」に価値を見出すのは、マルクス『資本論』であるw

2月庚申、王濬は西陵をぬき、都督の留憲を殺した。2月壬戌、荊門(西陵の東、夷道の西)と夷道の2城をぬく。夷道監の陸晏(陸抗の子)を殺す。

『通鑑考異』はいう。陸抗の2子、陸晏と陸景が死ぬ場所とタイミングが、『晋書』武帝紀、陸抗伝、王濬伝で、それぞれ違う。いま『通鑑』は王濬伝に従う。


杜預遣牙門周旨等帥奇兵八百泛舟夜渡江,襲樂鄉, 多張旗幟,起火巴山。吳都督孫歆懼,與江陵督伍延書曰:「北來諸軍,乃飛渡江也。」 旨等伏兵樂鄉城外,歆遣軍出拒王濬,大敗而還。旨等發伏兵隨歆軍而入,歆不覺,直 至帳下,虜歆而還。
乙丑,王濬擊殺吳水軍都督陸景。杜預進攻江陵,甲戌,克之,斬 伍延。於是沅、湘以南,接於交、廣,州郡皆望風送印綬。預杖節稱詔而緩撫之。凡所 斬獲吳都督、監軍十四,牙門、郡守百二十餘人。胡奮克江安。

杜預は、牙門の周旨らに奇兵8百をつけ、夜に長江を渡り、樂郷を襲わせた。巴山に旗幟をたてて、火をたく。孫呉の都督の孫歆は懼れて、江陵督の伍延に「晋軍は飛ぶように長江を渡ってきた」という。周旨は楽郷の城外に伏兵した。孫歆は、王濬を防ごうとして出たが、大敗して楽郷に帰ってきた。周旨が伏兵から攻めたので、孫歆をは捕らわれた。
2月乙丑、王濬は水軍都督の陸景を殺した。杜預は江陵を攻め、2月甲戌にぬき、江陵督の伍延を斬った。ここにおいて、沅水と湘水より南で、交州や広州に接する州郡は、みな印綬を晋軍に送ってきた。杜預は杖節し、詔と称して州郡を緩撫した。斬獲した孫呉の都督や監軍は14人。牙門や郡守は120余人である。胡奮が江安をぬく。

胡三省はいう。江安とは、公安である。孫呉がおいた、南郡の郡治である。杜預が江南を定めると、江安と改称した。南平の郡治とした。
ぼくは思う。地名を改編したり、州郡を緩撫するのは、杜預がやる。杜預は羊祜の後継者であり、荊州の責任者だから、これができる。ただの軍事的な働きよりも、「攻め落としながら、政事する」のが杜預の役目である。


乙亥,詔:「王濬、唐彬既定巴丘,與胡奮、王戎共平夏口、武昌,順流長騖,直 造秣陵。杜預當鎮靜零、桂,懷輯衡陽。大兵既過,荊州南境固當傳檄而定。預等各分 兵以益濬、彬,太尉充移屯項。」
王戎遣參軍襄陽羅尚、南陽劉喬將兵與王濬合攻武昌,吳江夏太守劉朗、督武昌諸 軍虞昺皆降。昺,翻之子也。
杜預與眾軍會議,或曰:「百年之寇,未可盡克,方春水生,難於久駐,宜俟來冬, 更為大舉。」預曰:「昔樂毅藉濟西一戰以並強齊,今兵威已振,譬如破竹,數節之後, 皆迎刃而解,無復著手處也。」遂指授群帥方略,逕造建業。

2月乙亥、詔あり。「王濬と唐彬は、すでに巴丘を定めた。胡奮と王戎とともに、夏口と武昌を平らげよ。長江にのって、秣陵にゆけ。杜預は、零陵と桂陽を鎮静させ、衡陽を懷輯せよ。

胡三省はいう。零陵と桂陽は、漢代の古郡である。衡陽は、孫亮が太平2年に、長沙の西部都尉を分割して置いた郡である。

大軍が荊州から揚州に過ぎたあとは、杜預は荊州の南境をかため、周囲をなびかせよ。杜預は兵を分け、王濬と唐彬の兵を増やせ。太尉の賈充は、項県にうつれ」

胡三省はいう。荊州がすでに定まり、もう賈充を襄陽に置かなくてもよい。賈充は項県にうつり、諸軍の節度をする。

王戎は、參軍する襄陽の羅尚、南陽の劉喬に兵をつけ、王濬とともに武昌を攻める。孫呉の江夏太守する劉朗と、武昌諸軍の虞昺は、どちらも晋軍にくだる。虞昺は虞翻の子である。

ぼくは思う。会稽の虞氏、たったの2世代。虞翻は、会稽太守の王朗の功曹となり、孫策に追われた。その約90年後の西暦280年、西晋が孫呉を平らげるとき、督武昌諸軍として西晋に降伏したのは虞昺。これは虞翻の子。たった2世代で「孫呉の始終」を体験した。虞翻は70歳まで生き、11子ある。晩年の子か。
孫権を曹操に帰順させ損ねた、一途の虞翻伝
@yunishio さんはいう。督武昌諸軍って、やけに位が高いなあ。
ぼくはいう。傅咸が「今之刺史幾向一倍;戶口比漢十分之一,而置郡縣更多;虛立軍府,動有百數,而無益宿衛」という時代です。傅咸が論じているのは西晋の話ですが、孫皓も官職をインフレさせます。孫皓は、司馬炎と「気前の良さ」を競って優位に立たねば、孫呉を保てなかったとぼくは思います。督武昌諸軍の高さは微妙かもです。官位の高さは相対的に決まりますし。
@yunishio さんはいう。なるほど。しかし武昌は副首都クラスですよね。その辺りを加味するとどうでしょう。
ぼくはいう。孫皓期の武昌を『資治通鑑』』で拾います。265年冬、歩闡が武昌への遷都を提案、孫皓が同意して遷都。266年12月、武昌から建業に還都。皇后の父で衛將軍、錄尚書事の滕牧が武昌に鎮するが、蒼梧へ徙さる。271年12月、武昌都督の范慎が太尉となる。278年11月、杜預至鎮,襲吳西陵督張政,大破之。吳主果召政還,遣武昌監留憲代之。虫食い過ぎて意味不明ですが、少なくとも留憲でも軍事の長官になれる場所のようです。留憲を知りません(留賛との血縁は記述なし?)。「副首都クラス」から情報が増えませんでしたね。
‏@Zhang_Mao さんはいう。武昌督のことなら薛瑩(左武昌督)の後任ですかね?
ぼくはいう。まだ三国の後期は『資治通鑑』で概要を見ている段階なので、武昌の変遷を調べきれていません。薛瑩もこれから調べます。ただし、皇后の父の滕牧に、武昌を一瞬だけ任せようとしたことから、副首都としての重みが、孫皓の前期はありそうです。後期は分かりません。
@yunishio さんはいう。意外にかなり遅い時期まで(武昌を)使っていたようですね。留氏は大姓なので、まあなかなか。ただ、支配領域はあまり広くなくて、陸遜とは比較にならないような感じですねえ。
武昌監の留憲が、西陵督に移ります。西陵督は、陸氏や歩氏が就きました。武昌から西陵という昇進ルートがあるとまでは言えませんが、同じランク周辺なんでしょう(声望等により、督と監の区別はされていますが)。留氏が「まあなかなか」というのも、「なるほどなあ」と感じますw
@yunishio さんはいう。留氏は王朝初期にはあまり見かけませんが、後期にはちょくちょく出てきます。もしかしたら被征服側の氏族かもしれないですね。その留氏から留憲が武昌監から西陵督へ。西陵は西の玄関ですから、それなりの要職です。虞昺もこれに並ぶというわけですかねえ。

杜預はみなと会議する。或る者が「春に水が出るから (暑くて病気が流行る前に撤退し)、来年の冬に孫呉を攻めよう」という。杜預は「楽毅は済西で強い斉国をやぶった。いま晋軍は破竹のようである。時間をおけば、平呉の機会をのがす」という。杜預は、みなに軍略を教えて、建業の攻略を見通した。

吳主聞王渾南下,使丞相張悌督丹楊太守沈瑩、護軍孫震、副軍師諸葛靚帥眾三萬 渡江逆戰。至牛渚,沈瑩曰:「晉治水軍於蜀久矣,上流諸軍,素無戒備,名將皆死, 幼少當任,恐不能御也。晉之水軍必至於此,宜畜眾力以待其來,與之一戰,若幸而勝 之,江西自清。今渡江與晉大軍戰,不幸而敗,則大事去矣!」悌曰:「吳之將亡,賢 愚所知,非今日也。吾恐蜀兵至此,眾心駭懼,不可復整。及今渡江,猶可決戰。若其 敗喪,同死社稷,無所復恨。若其克捷,北敵奔走,兵勢萬倍,便當乘勝南上,逆之中 道,不憂不破也。若如子計,恐士眾散盡,坐待敵到,君臣俱降,無復一人死難者,不 亦辱乎!」

孫皓は、王渾の南下をきく。丞相の張悌に、丹楊太守の沈瑩、護軍の孫震、副軍師の諸葛靚を督させ、3万で長江をわたり、晋軍を迎撃する。牛渚にきて、沈瑩がいう。「晋軍は蜀で、長らく水軍を訓練し、上流にいる。上流には防備がない。孫呉は、名将が死んで、幼少では晋軍を防げない。

胡三省はいう。幼少とは、陸晏、陸景、留憲、孫歆である。
ぼくは思う。名将を殺したのは、孫皓だった。幼少な者が防御を任されるのは、2世や3世に兵を継がせるからだ。新しい人材が出てきてないのね。中原と対流させねば、孫呉だけで人材をゼロから自生させるのは難しいのか。とっくに廃却されたという仮説「世兵制」は、本来の趣旨とは違うところででも、孫呉の特徴を言い当てているのかも。

西晋の水軍は絶対にくるから、力を蓄えて1戦しよう。もし勝てれば、長江の西は清く治まるだろう。もし西晋の水軍に敗れたら、大事が去るだろう」と。

ぼくは思う。いちかバチかの勝負に、賭けねばならない状況に、自己を追いこんだ時点で、すでに「負け」だという。負けたら終わりというリスクを犯すことは、やっぱり避けなきゃ。でも、ぼくが孫皓なら何ができたかと言えば、いち早い降伏とか。でも積極的に降伏をしたら、呉臣に殺されるのか。孫皓は降りられない。司馬炎とポトラッチで対決して、司馬炎より気前よく官位をくばり、官僚の娘をもらい、祥瑞を集めなければ。
胡三省はいう。建業から見れば、歴陽や皖城は長江の西である。

張悌はいう。「蜀から水軍がきたら、孫呉は戦いもせず、散ると思ってた。だが沈瑩のように、一戦しようとする者がいて良かった」と。

ぼくは思う。孫皓の末期は、張悌のような心配が現実味をもつほど、孫呉はグダグダだったのね。張悌によると沈瑩は、非常時のなかで、はじめて賢者であることが明らかになった。劉禅も同じだったが、危機になって初めて、人材が出てくるのね。


3月、王渾の制止を断り、王濬が孫皓を降す

三月,悌等濟江,圍渾部將城陽都尉張喬於楊荷。喬眾才七千,閉柵請降。諸葛艦 欲屠之,悌曰:「強敵在前,不宜先事其小,且殺降不祥。」靚曰:「此屬以救兵未至, 少力不敵,故且偽降以緩我,非真伏也。若捨之而前,必為後患。」悌不從,撫之而進。 悌與揚州刺史汝南周浚,結陳相對,沈瑩帥丹楊銳卒、刀楯五千,三沖晉兵,不動。瑩 引退,其眾亂;將軍薛勝、蔣班因其亂而乘之,吳兵以次奔潰,將帥不能止,張喬自後 擊之,大敗吳兵於版橋。諸葛靚帥數百人遁去,使過迎張悌,悌不肯去,靚自往牽之曰: 「存亡自有大數,非卿一人所支,奈何故自取死!」悌垂涕曰:「仲思,今日是我死日 也!且我為兒童時,便為卿家丞相所識拔,常恐不得其死,負名賢知顧。今以身徇社稷, 復何道邪!」靚再三牽之,不動,乃流淚放去,行百餘步,顧之,已為晉兵所殺,並斬 孫震、沈瑩等七千八百級,吳人大震。

3月、張悌らは長江をわたる。王渾の部將たる城陽(青州)都尉の張喬を、楊荷橋で包囲する。張喬は7千しかいないので、閉柵して降伏を求めた。諸葛靚が「後顧の憂いとなるから、張喬を殺す」と主張したが、張悌がなだめた。張悌は、諸葛靚を撫して進んだ。
張悌と、西晋で揚州刺史する汝南の周浚は、陣を結んで相対した。沈瑩は丹楊の銳兵をひきいる。晋軍と3回ぶつかっても、沈瑩はビクともしない。だが沈瑩が撤退するとき、丹陽兵が乱れた。呉軍は、後ろから張喬に挟まれた。諸葛靚は張悌を救おうとしたが、張悌が断った。「今日が死ぬべき日だ。私は子供のとき、きみの家の丞相と知りあった。彼らのように社稷のために死にたい」と。

胡三省はいう。張悌は襄陽の人である。諸葛亮が荊州にいるとき、子供時代の張悌が、諸葛亮に会ったのだろう。ぼくは思う。小説的で美しい!

張悌、孫震、沈瑩らは晋軍に殺された。

初,詔書使王濬下建平,受杜預節度,至建業,受王渾節度。預至江陵,謂諸將曰: 「若濬得建平,則順流長驅,威名已著,不宜令受制於我;若不能克,則無緣得施節 度。」濬至西陵,預與之書曰:「足下既摧其西籓,便當徑取建業,討累世之逋寇,釋 吳人於塗炭,振旅還都,亦曠世一事也!」濬大悅,表呈預書。
及張悌敗死,揚州別駕 何惲謂周浚曰:「張悌舉全吳精兵殄滅於此,吳之朝野莫不震懾。今王龍驤既破武昌, 乘勝東下,所向輒克,土崩之勢見矣。謂宜速引兵渡江,直指建業,大軍猝至,奪其膽 氣,可不戰禽也!」浚善其謀,使白王渾。

はじめ、詔書は、王濬を建平にくだらせ、杜預の節度を受けさせる。王濬が建業にくると、王渾の節度を受けよと命じた。杜預が江陵にいたり、諸将にいう。「王濬が建平を得たら、そのまま長江の流れにのれ。私の指示を受ける必要はない。もし王濬が敗れたら、私が王濬に指示を出そう」と。王濬は西陵にきた。杜預は王濬に「きみは荊州で勝った。はやく建業をとり、洛陽に凱旋しよう」と。王濬は大悦し、杜預に返書した。
孫呉の張悌が敗死すると、西晋の揚州別駕の何惲は、周浚にいう。「張悌は全呉の精鋭をあげたが、晋軍に敗れた。孫呉はビビる。いま龍驤将軍の王濬は、武昌を破った。王濬が東下ら、孫呉は崩れるだろう。私たちも建業に向かえば、戦わずに孫皓を捕らえられる」と。周浚は王渾を説得して「建業にゆこう」という。何惲は「王渾は事機が分からないから、建業ゆきに反対する」と予想したが、果たして王渾は反対した。王渾はいう。「わたしは長江の北で呉軍を防げと詔された。詔に違反したくない。また詔により、王濬は私の節度を受けるのだ。建業に進軍しなくて良い」と。何惲はいう。「王濬は荊州で勝ったが、まだ王渾に指示を仰がない。王渾は、王濬の上官である。どうして戦場で、いちいち詔令を待つか。いま長江を渡れば、王渾が孫皓を捕らえられる」と。王渾は進軍を許さない。

ぼくは思う。かってに進まない王渾は、正しいんじゃないか?この王渾が、どうして王濬と争うようになるのか、ストーリー展開を見守らねばならない。
ぼくは思う。胡三省の注釈はあんまりないから、こうして、ダラダラと翻訳ばかり続く。おもしろそうな話なので、あまり省略せずに書いているから、地の文がたくさん。


王濬自武昌順流徑趣建業,吳主遣游擊將軍張象帥舟師萬人御之,像眾望旗而降。 濬兵甲滿江,旌旗燭天,威勢甚盛,吳人大懼。吳主之嬖臣岑昏,以傾險諛佞,致位九 列,好興功役,為眾患苦。及晉兵將至,殿中親近數百人叩頭請於吳主曰:「北軍日近 而兵不舉刃,陛下將如之何?」吳主曰:「何故?」對曰:「正坐岑昏耳。」吳主獨言: 「若爾,當以奴謝百姓!」眾因曰:「唯!」遂並起收昏。吳主駱驛追止,已屠之矣。
陶浚將討郭馬,至武昌,聞晉兵大入,引兵東還。至建業,吳主引見,問水軍消息, 對曰:「蜀船皆小,今得二萬兵,乘大船以戰,自足破之。」於是合眾,授浚節鉞。明 日當發,其夜,眾悉逃潰。

王濬は、武昌から長江にのり、建業にゆく。孫皓は、游擊將軍の張象に水軍1万で防がせるが、張象は晋軍の旗を見たら降った。孫皓の嬖臣の岑昏は、九卿になり、みなを苦しめてきた。群臣の要請により、孫皓は岑昏を斬って、群臣にわびた。
陶浚は郭馬を討ち、武昌に近づくが、晋軍がきたので東に引いた。建業で、陶浚は孫皓に「水軍の状態はどうか」と聞かれた。陶浚は「王濬の蜀船は小さい。呉軍が大船を出せば勝てる」という。孫皓は陶浚に節鉞を授けた。陶浚は翌朝に出発し、同日の夜、王濬につぶされた。

胡三省はいう。陶浚は、蜀兵の実態をつかめていない。このように、孫呉の諜報はダメである。


時王渾、王濬及琅邪王人由皆臨近境,吳司徒何植、建威將軍孫晏悉送印節詣渾降。 吳主用光祿勳薛瑩、中書令胡沖等計,分遣使者奉書於渾、灘、人由以請降。又遺其群 臣書,深自咎責,且曰:「今大晉平治四海,是英俊展節之秋,勿以移朝改朔,用損厥 志。」使者先送璽綬於琅邪王人由。
壬寅,王濬舟師過三山,王渾遣信要濬暫過論事; 濬舉帆直指建業,報曰:「風利,不得泊也。」是日,濬戎卒八萬,方舟百裡,鼓噪入 於石頭,吳主皓面縛輿櫬,詣軍門降。濬解縛焚櫬,延請相見。收其圖籍,克州四,郡 四十三,戶五十二萬三千,兵二十三萬。

ときに王渾と王濬と、琅邪王の司馬伷は、みな軍営の境界を接する。孫呉の司徒の何植、建威將軍の孫晏は、すべての印綬をまとめて、王渾に降った。孫皓は、光祿勳の薛瑩、中書令の胡沖らに相談して、複数の使者をだして、王渾、王濬、司馬伷に降伏を請うた。使者は、さきに璽綬を司馬伷におくる。
壬寅、王濬の水軍は三山(金陵から50里)を過ぎた。王渾は王濬に「ともに建業に行こう。王濬は少し待て」という。王濬は「風向きが進みやすい。王渾を待つために、停泊できない」という。この日、王濬の兵8万は、石塔に入り、面縛した孫皓を降した。4州、43郡、52万戸、兵23万の図籍を提出された。

ぼくは思う。王渾は「王濬に先んじて建業を陥とす」ことはしなかった。なぜなら、詔に違反するから。ただし王渾は、「王濬が自分の節度を受ける」ことは期待した。詔に一致するから。王渾が王濬に上官として命じたのは、「一緒に建業にゆく」ことだった。
しかし王濬は、この指示を聞かなかった。まあね、戦場だし、長江という自然が相手だから、王濬にも理がある。しかし王渾からすれば、「オレがわざわざ王濬を待ってやったのに、王濬に先を越された。ましてや王濬は、私の節度を受けるべき立場なのに」となる。そりゃ怒るなあ。
ぼくが思うに、孫呉を討伐した軍事的な功績で言えば、王濬は揺らがない。益州で7年も造船して、荊州を陥として、「西晋の勝利が必至」の情勢を作った。さっき王渾が勧められたように「その気になれば建業を抜ける」状況となったのも、王濬のおかげ。しかし、武功とは別問題として、この建業の直前の行き違いにより、王渾と王濬はトラブルを抱えた。単なる「功績の取り合い」には帰せられない、複雑な問題だなあ。複雑だから、判決がこじれ、史書で取り扱われたんだろうが。


朝廷聞吳已平,群臣皆賀上壽。帝執爵流涕曰:「此羊太傅之功也。」驃騎將軍孫 秀不賀,南向流涕曰:「昔討逆弱冠以一校尉創業,今後主舉江南而棄之,宗廟山陵, 於此為墟。悠悠蒼天,此何人哉!」
吳之未下也,大臣皆以為未可輕進,獨張華堅執以為必克。賈充上表稱:「吳地未 可悉定,方夏,江、淮下濕,疾疫必起,宜召諸軍還,以為後圖。雖腰斬張華不足以謝 天下。」帝曰:「此是吾意,華但與吾同耳。」荀勖復奏,宜如充表,帝不從。杜預聞 充奏乞罷兵,馳表固爭,使至轘轅而吳已降。充慚懼,詣闕請罪,帝撫而不問。

群臣が司馬炎に平呉を祝った。司馬炎は爵を執り、流涕して「太傅の羊祜の功績だ」という。驃騎將軍の孫 秀は、南に向いて流涕した。「むかし孫策が、袁術の懐義校尉となり、創業した。いま孫皓が降伏してしまった」と。『詩経』黍離の言葉をひいて悲しんだ。

胡三省はいう。孫秀は、泰始6年に孫呉から降った。

平呉の前に、大臣らは進軍に反対したが、張華だけが強固に「孫呉に勝てる」と主張した。賈充は「張華を腰斬せよ」といい、荀勖も同じ主張をした。だが司馬炎は、張華を斬らない。杜預は賈充に反対した。孫呉が降ると、賈充は自分の罪を懼れたが、司馬炎は賈充を不問にした。

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太康元年(庚子,公元280年)夏

4月、孫呉の地方長官を留任させる

夏,四月,甲申,詔賜孫皓爵歸命侯。
乙西,大赦,改元。大酺五日。遣使者分詣荊、揚撫慰,吳牧、守已下皆不更易, 除其苛政,悉從簡易,吳人大悅。
滕修討郭馬未克,聞晉伐吳,帥眾赴難,至巴丘,聞吳亡,縞素流涕,還,與廣州 刺史閭豐、蒼梧太守王毅各送印綬請降。孫皓遣陶璜之子融持手書諭璜,璜流涕數日, 亦送印綬降;帝皆復其本職。

夏4月甲申、孫皓を歸命侯とする。
4月乙西、大赦して、太康と改元した。大酺5日。使者を荊州と揚州にやり、撫慰した。孫呉の地方長官は変えないで、苛政を除き、政事を簡易にした。
孫呉の滕修は、まだ郭馬に勝てない。西晋の伐呉を聞き、巴丘を救いにきたが、孫呉が滅亡したので、縞素して流涕して撤退した。廣州 刺史の閭豐、蒼梧太守の王毅も、西晋に印綬を送り、降伏した。孫皓は、陶璜の子・陶融に、直筆の手紙を持たせ、陶璜に「西晋へ降れ」と説得した。司馬炎は、これら孫呉の地方長官を、もとのままとした。

王濬之東下也,吳城戍皆望風款附,獨建平太守吾彥嬰城不下,聞吳亡,乃降。帝 以彥為金城太守。 初,朝廷尊寵孫秀、孫楷,欲以招來吳人。及吳亡,降秀為伏波將軍,楷為渡遼將 軍。

王濬が東下すると、孫呉の城や軍は、みな西晋になびいた。建平太守の吾彦だけが抵抗した。孫呉が滅亡したので、吾彦は降った。吾彦は、金城太守となる。
はじめ西晋は、孫秀、孫楷を尊寵した。孫呉から、降る者を誘うためだ。だが孫呉が滅亡したので、孫秀は伏波將軍、孫楷は渡遼將軍に降格された。

5月、孫皓が洛陽にきて、賈充を皮肉る

琅邪王人由遣使送孫皓及其宗族詣洛陽。五月,丁亥朔,皓至,與其太子瑾等泥頭 面縛,詣東陽門。詔遣謁者解其縛,賜衣服、車乘、田三十頃,歲給錢谷、綿絹甚厚。 拜瑾為中郎,諸子為王者皆為郎中,吳之舊望,隨才擢敘。孫氏將吏渡江者復十年,百 姓復二十年。
庚寅,帝臨軒,大會文武有位及四方使者,國子學生皆預焉。引見歸命侯皓及吳降 人,皓登殿稽顙。帝謂皓曰:「朕設此座以待卿久矣。」皓曰:「臣於南方,亦設此座 以待陛下。」賈充謂皓曰:「聞君在南方鑿人目,剝人面皮,此何等刑也?」皓曰: 「人臣有弒其君及奸回不忠者,則加此刑耳。」充默然甚愧,而皓顏色無怍。
帝從容問散騎常侍薛瑩孫皓所以亡,對曰:「皓暱近小人,刑罰放濫,大臣諸將, 人不自保,此其所以亡也。」它日,又問吾彥,對曰:「吳主英俊,宰輔賢明。」帝笑 曰:「若是,何故亡?」彥曰:「天祿永終,歷數有屬,故為陛下禽耳。」帝善之。

瑯邪王の司馬伷が、孫皓とその宗族を洛陽におくる。5月丁亥ついたち、孫皓は洛陽にくる。孫皓と太子の孫瑾は、泥頭 面縛して、東陽門にくる。

胡三省によると、日付が諸史料でバラバラ。中華書局2568頁。

孫瑾を中郎として、諸子で孫呉で王だった者を郎中とした。孫呉の旧望ある者は、才能に応じて序列づけて抜擢された。孫氏の将吏で長江を渡った者は10年を復し、百姓は20年を復した。

ぼくは思う。復することの、意味がよく分かりません。

庚寅、司馬炎は軒に臨む。文武百官や国子学生をあつめる。孫皓と面会した。孫皓は、登殿して稽顙した。

胡三省はいう。稽顙とは、周代の喪拝。「顙」はひたい。額を地面につけること。

司馬炎は孫皓に「座席を設け、長らく待っていた」という。孫皓も「南で司馬炎の席を設け、待っていたのに」という。賈充が「眼球をぬき、面皮を剥いだのは、なんの刑罰か」ときく。孫皓は「(賈充のように) 弑君する者を罰したのだ」という。賈充は恥じたが、孫皓は顔色を変えない。
司馬炎は、散騎常侍の薛瑩に「なぜ孫皓が滅びたか」ときく。薛瑩は「孫皓が小人をもちい、刑罰が放濫で、大臣や諸将が自保しなかったからだ」と常識的なことを答えた。他日、司馬炎が吾彦にきく。吾彦は「孫皓は英俊で、宰輔は賢明だった」と答えた。司馬炎が「ではなぜ滅亡したか」と笑う。吾彦は「天禄と暦数がおわったから」という。司馬炎は吾彦を善しとした。

胡三省はいう。学問はあるのに、見識はない。薛瑩はこれである。薛瑩は、気の利いたことを言った、吾彦にかなわない。


王渾が王濬を告発するが、司馬炎が許す

王濬之入建業也,其明日,王渾乃濟江,以濬不待己至,先受孫皓降,意甚愧忿, 將攻濬。何攀勸濬送皓與渾,由是事得解。何惲以渾與濬爭功,與周浚箋曰:「《書》 貴克讓,《易》大謙光。前破張悌,吳人失氣,龍驤因之,陷其區宇。論其前後,我實 緩師,既失機會,不及於事,而今方競其功;彼既不吞聲,將虧雍穆之弘,興矜爭之鄙, 斯愚情之所不取也。」浚得箋,即諫止渾。渾不納,表濬違詔不受節度,誣以罪狀。

王濬が建業に入り、その翌日に王渾が長江をわたる。王濬がさきに孫皓を降したので、愧忿した王渾は、王濬を攻めそうだ。何攀は王濬に「孫皓を王渾にわたして、和解せよ」という。何惲は、王渾と王濬が功績を争うので、周浚に文書を出した。「張悌の敗後、王渾は建業を先に攻めるチャンスがあったのに、見のがした。いま功績の先後を争うなんて、王渾にガッカリだ」と。周浚は王渾を諫めたが、王渾は「王濬は節度を受けずに進軍したから、有罪である」という。

渾 子濟,尚常山公主,宗黨強盛。有司奏請檻車征濬,帝弗許,但以詔書責讓濬以不從渾 命,違制昧利。濬上書自理曰 (中略)。
渾又騰周浚書雲:「濬軍得吳寶物。」又云「濬牙門將李高放火燒皓偽宮。」濬復 表曰 (中略)。
濬至京師,有司奏濬違詔,大不敬,請付廷尉科罪;詔不許。又奏濬赦後燒賊船百 三十五艘,輒敕付廷尉禁推;詔勿推。 渾、濬爭功不已,帝命守廷尉廣陵劉頌校其事,以渾為上功,濬為中功。帝以頌折 法失理,左遷京兆太守。

王渾の子の王済は、常山公主をめとり、宗党は強盛である。有司は「王濬を檻車で洛陽に徴せ」というが、司馬炎は許さない。ただ「王濬が王渾の命令に違ったのは良くない」と詔するだけ。王濬は上書して、自分の正しさを主張した。
王渾は、また周浚の文書を根拠にして「王渾は、孫呉の宝物をぬすみ、王濬の牙門將たる李高は宮殿を焼いた」という。王濬はまた、自分の正しさを主張した。「建業で、財物や宮女や宮殿に手を出したのは、王渾軍だった」と。

ぼくは思う。王渾はわりに単純そうだが、王渾のそばにいる、周浚が煽動しているような印象。裁判ザタになり、別々に主張を並べ始めたら、もはや何が真理なのかは分からない。まして編纂史料では。

王濬は京師にくる。有司は「王濬は大不敬だから、廷尉にわたせ」というが、司馬炎は許さず。司馬炎は、王濬が呉軍の船135を焼いたことを赦し、「廷尉は王濬を捕らえるな」と詔した。

胡三省はいう。廷尉には王渾の親党が就いている。

王渾と王濬の功績が決まらないので、廷尉を守する廣陵の劉頌に判定させた。劉頌は「王渾が上功、王濬が中功である」と判定した。司馬炎は、劉頌に法理がないので、京兆太守に左遷した。

ぼくは思う。司馬炎は、王濬の功績のほうが大きいことを知っている。『通鑑』を読む限り、司馬炎が正しい判定をしており、王渾の親党が歪めているように見える。しかし「司馬炎の判断力が優れることをアピる」という方針で『晋書』が編纂されているなら、この読みも怪しいものとなる。『通鑑』は『晋書』に引きずられる。


庚辰,增賈充邑八千戶,以王濬為輔國大將軍,封襄陽縣侯;杜預為當陽縣侯;王 戎為安豐縣侯;封琅邪王人由二子為亭侯;增京陵侯王渾邑八千戶,進爵為公;尚書關 內侯張華進封廣武縣侯,增邑萬戶;荀勖以專典詔命功,封一子為亭侯;其餘諸將及公 卿以下,賞賜各有差。帝以平吳,策告羊祜廟,乃封其夫人夏侯氏為萬歲鄉君,食邑五 千戶。
王濬自以功大,而為渾父子及黨與所挫抑,每進見,陳其攻伐之勞及見枉之狀,或 不勝忿憤,逕出不辭;帝每容恕之。益州護軍范通謂濬曰:「卿功則美矣,然恨所以居 美者未盡善也。卿旋旃之日,角巾私第,口不言平吳之事,若有問者,輒曰:『聖人之 德,群帥之力,老夫何力之有!』此藺生所以屈廉頗也,王渾能無愧乎!」濬曰:「吾 始懲鄧艾之事,懼禍及身,不得無言;其終不能遣諸胸中,是吾褊也。」時人鹹以濬功 重報輕,為之憤邑。博士秦秀等並上表訟濬之屈,帝乃遷濬鎮軍大將軍。王渾嘗詣濬, 濬嚴設備衛,然後見之。

庚辰、賈充、王濬、杜預、王戎、司馬伷、王渾、張華、荀勖らに官爵をあたえ、平呉の褒賞をだした。羊祜の廟に策告した。

ぼくは思う。詳細は上の原文を参照です。

王濬の功績は大きいが、王渾の父子や党与にケチをつけられるので、王濬は出仕しない。司馬炎は王濬のサボりを許した。益州護軍の范通は王濬にいう。「功績があることを、もっと主張すれば良いのに」と。王濬はいう。「鍾会が鄧艾をハメたように、私は王渾にハメられることを懼れたのだ」と。王濬への評価が不当なので、博士の秦秀らは、王濬を鎮軍大將軍にするよう上表した。かつて王渾が王濬を訪問したとき、王濬は厳戒な警備をして迎えた。

胡三省はいう。この2人は天下を平定する武力があり、1国をとる知恵があるのに、ビクビク警戒している。笑うべきなり。


杜預還襄陽,以為天下雖安,忘戰必危,乃勤於講武,申嚴戍守。又引滍、淯水以 浸田萬餘頃,開揚口通零、桂之漕,公私賴之。預身不跨馬,射不穿札,而用兵制勝, 諸將莫及。預在鎮,數餉遺洛中貴要;或問其故,預曰:「吾但恐為害,不求益也。」
王渾遷征東大將軍,復鎮壽陽。
諸葛靚逃竄不出。帝與靚有舊,靚姊為琅邪王妃,帝知靚在姊間,因就見焉。靚逃 於廁,帝又逼見之,謂曰:「不謂今日復得相見!」靚流涕曰:「臣不能漆身皮面,復 睹聖顏,誠為慚恨!」詔以為侍中;固辭不拜,歸於鄉里,終身不向朝廷而坐。
六月,復封丹水侯睦為高陽王。

杜預は、襄陽にかえる。天下は安定したが、訓練と防備を欠かさない。滍水と淯水をひき、田畑を開拓した。洛陽にゆかず、鎮所にのこった。杜預は「ただ害を恐れる。利益なんていらない」という。

胡三省が、開拓した地域について注釈する。中華書局2573頁。

王渾は征東大將軍にうつり、ふたたび壽陽に鎮する。
諸葛靚は、逃げまわる。司馬炎は諸葛靚の旧友なので、諸葛靚の姉の琅邪王妃に、諸葛靚の居場所を聞いた。諸葛靚は厠所ににげて、司馬炎につかまった。司馬炎が「また会えるとはね」というと、諸葛靚は「豫譲のような刺客になれず、司馬炎に再会するなんて慚恨だよ」という。諸葛靚は侍中を拝さず、郷里に帰した。死ぬまで朝廷に向かって座らず。

ぼくは思う。三国がおわり、無事に瑯邪に帰ってきたのは、諸葛誕の子・諸葛靚でした。諸葛誕は謀反したし、諸葛靚は孫呉に逃げた。だから諸葛靚が、「諸葛亮や諸葛瑾の一族よりも、瑯邪に帰りやすかった」とは言えないと思う。
胡三省はいう。諸葛氏の子は、みな志節がある。

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太康元年(庚子,公元280年)秋冬

州郡を軍縮し、徙戎論を聴かない

秋,八月,己未,封皇弟延祚為樂平王,尋薨。 九月,庚寅,賈充等以天下一統,屢請封禪;帝不許。 冬,十月,前將軍青州刺史淮南胡威卒。威為尚書,嘗諫時政之寬。帝曰:「尚書 郎以下,吾無所假借。」威曰:「臣之所陳,豈在丞、郎、令史,正謂如臣等輩,始可 以肅化明法耳!」

秋8月己未、皇弟の司馬延祚を樂平王とするが、すぐ薨じた。

ぼくは思う。こういう「封じた瞬間に死ぬ」というのは、ほんとなのか。爵位に呪力があるのか。もしくは、王になるまえに死んだが、それじゃあ体裁が整わないので、王に封じた事実をつくったのか。

9月庚寅、賈充らは封禅を勧めたが、司馬炎は許さず。
冬10月、前將軍、青州刺史する淮南の胡威が卒した。胡威は胡質の子である。

是歲,以司隸所統郡置司州,凡州十九,郡國一百七十三,戶二百四十五萬九千八 百四十。
詔曰:「昔自漢末,四海分崩,刺史內親民事,外領兵馬。今天下為一,當韜戢干 戈,刺史分職,皆如漢氏故事;悉去州郡兵,大郡置武吏百人,小郡五十人。」交州牧 陶璜上言:「交、廣州西數千里,不賓屬者六萬餘戶,至於服從官役,才五千餘家。二 州脣齒,唯兵是鎮。又,寧州諸夷,接據上流,水陸並通,州兵未宜約損,以示單虛。」 僕射山濤亦言「不宜去州郡武備」。帝不聽。及永寧以後,盜賊群起,州郡無備,不能 禽制,天下遂大亂,如濤所言。然其後刺史復兼兵民之政,州鎮愈重矣。

この歳、司隷校尉を司州とした。ぜんぶで19州。173郡国、246万戸。
詔して、州郡の兵を減らした。大郡で武吏1百人、小郡で武吏50人。交州牧の陶璜が、「交州、広州、寧州は、まだ服属しない者がいるから、軍備を減らすな」という。司馬炎は聞かず。

ぼくは思う。陶璜は、孫呉からの投稿者。リアリスト。孫皓の後半は、この南のあたりは、ほとんど孫呉に従っていなかった。西晋に代わっても、わりに不安定さはおなじ。これを担当させられる、交州牧がかわいそう。

僕射の山濤も、武装の解除に反対した。永寧より以後、盗賊がおこり、州郡に防備がないので、天下が大乱した。山濤の言うとおりになった。のちに刺史は、統治と軍事を両方やるようになり、州鎮の権限が重くなった。

漢、魏以來,羌、胡、鮮卑降者,多處之塞內諸郡。其後數因忿恨,殺害長吏,漸 為民患。侍御史西河郭欽上疏曰:「戎狄強獷,歷古為患。魏初民少,西北諸郡,皆為 戎居,內及京兆、魏郡、弘農,往往有之。今雖服從,若百年之後有風塵之警,胡騎自 平陽、上黨不三日而至孟津,北地、西河、太原、馮翊、安定、上郡盡為狄庭矣。宜及 平吳之威,謀臣猛將之略,漸徙內郡雜胡於邊地,峻四夷出入之防,明先王荒服之制, 此萬世之長策也。」帝不聽。

漢魏より、羌族、胡族、鮮卑の降った者は、塞内の諸郡にすむ。異民族は、長吏を殺し、民の患いとなる。侍御史する西河の郭欽は上疏した。「胡族の騎兵なら、平陽や上党から、3日で孟津にくる。北地、西河、太原、馮翊、安定、上郡は異民族の領土となる。平呉した軍事力で、異民族を遠くに追いだせ」と。司馬炎は聴かず。121123

ぼくは思う。せっかく天下統一した歳なのに、最後に『徙戎論』がくる。郭欽が、平呉した軍事力を転用せよと言ったから、司馬光はここに置いたのかな。

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太康二年(辛丑,公元281年)

孫皓の後宮5千人を洛陽に

春,三月,詔選孫皓宮人五千人入宮。帝既平吳,頗事游宴,怠於政事,掖庭殆將 萬人。常乘羊車,恣其所之,至便宴寢;宮人競以竹葉插戶,鹽汁灑地,以引帝車。而 後父楊駿及弟珧、濟始用事,交通請謁,勢傾內外,時人謂之三楊,舊臣多被疏退。山 濤數有規諷,帝雖知而不能改。

春3月、孫皓の宮人から5千人を選んで、入宮させる。平呉ののち、司馬炎は遊びまくった。羊車にのり、塩水のある前でとまり、その宮女と寝た。皇后の父・楊駿、その弟の楊珧、楊済が政事して「三楊」とよばれた。旧臣は退けられた。山濤が風土を改めろというが、司馬炎は改めず。

冬、揚州刺史の周浚が呉人を悦服させる

初,鮮卑莫護跋始自塞外入居遼西棘城之北,號曰慕容部。莫護跋生木延,木延生 涉歸,遷於遼東之北。世附中國,數從征討有功,拜大單于。冬,十月,涉歸始寇昌黎。
十一月,壬寅,高平武公陳騫薨。
是歲,揚州刺史周浚移鎮秣陵。吳民之未服者,屢為寇亂,浚皆討平之。賓禮故老, 搜求俊乂,威惠並行,吳人悅服。

はじめ鮮卑の莫護跋は、塞外から、遼西の棘城の北に移住して「慕容部」と号する。慕容涉歸は、遼東の北にきて、西晋のために戦功をたて、大単于に封じられる。冬10月、涉歸は初めて昌黎を寇した。

ぼくは思う。鮮卑や北の地名について胡注あり。中華書局2576頁。

11月壬寅、高平武公の陳騫が薨じた。
この歳、揚州刺史の周浚は、州鎮を寿春から秣陵にうつす。まだ服さぬ呉民を、周浚が平らげた。故老を賓禮して、俊乂を搜求したので、呉人は周浚に悅服した。121123

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太康三年(壬寅,公元282年)

春、劉毅が羊琇を劾奏し、張華が都督幽州

春,正月,丁丑朔,帝親祀南郊。禮畢,喟然問司隸校尉劉毅曰:「朕可方漢之何 帝?」對曰:「桓、靈。」帝曰:「何至於此?」對曰:「桓、靈賣官錢入官庫,陛下 賣官錢入私門。以此言之,殆不如也!」帝大笑曰:「桓、靈之世,不聞此言,今朕有 直臣,固為勝之。」

春正月丁丑ついたち、司馬炎は南郊を親祀した。儀礼が終わると、司馬炎は「私は漢代の皇帝の誰にあたるか」という。劉毅は「桓帝や霊帝だ」という。劉毅は「桓帝と霊帝は、官位を販売して、官庫に入れた。司馬炎は、官位を販売して、私門に入れる。この点で司馬炎は、桓帝や霊帝にも劣る」と。司馬炎は大笑して「桓帝や霊帝は、劉毅のような発言を聴かなかった。直言してくれる臣下がいるから、私は桓帝や霊帝にまさる」と。

ぼくは思う。司馬炎は、光武帝と明帝と章帝あたりを、すべて合体させた皇帝だと言われたかったのだろう。天下を統一したし、南郊を祭ったし、3年喪をやりきって孝行だし。
司馬光は、さっき「司隷を司州とする」という記事があったのに、まだ劉毅が司隷校尉であることを矛盾とする。まだ司州に改まっていないのだろうと。劉毅伝の記述に従う。


毅為司隸,糾繩豪貴,無所顧忌。皇太子鼓吹入東掖門,毅劾奏之。中護軍、散騎 常侍羊琇,與帝有舊恩,典禁兵,豫機密十餘年,恃寵驕侈,數犯法。毅劾奏琇罪當死; 帝遣齊王攸私請琇於毅,毅許之。都官從事廣平程衛徑馳入護軍營,收琇屬吏,考問陰 私,先奏琇所犯狼籍,然後言於毅。帝不得已,免琇官。未幾,復使以白衣領職。
琇,景獻皇後之從父弟也;後將軍王愷,文明皇後之弟也;散騎常侍、侍中石崇,苞之子也。 三人皆富於財,競以奢侈相高。愷以□台澳釜,崇以蠟代薪;愷作紫絲步障四十裡,崇 作錦步障五十裡;崇塗屋以椒,愷用赤石脂。帝每助愷,嘗以珊瑚樹賜之,高二尺許, 愷以示崇,崇便以鐵如意碎之;愷怒,以為疾己之寶。崇曰:「不足多恨,今還卿!」 乃命左右悉取其家珊瑚樹,高三、四尺者六、七株,如愷比者甚眾;愷心光然自失。
車騎司馬傅鹹上書曰:「先王之治天下,食肉衣帛,皆有其制。竊謂奢侈之費,甚 於天災。古者人稠地狹,而有儲蓄,由於節也。今者土曠人稀,而患不足,由於奢也。 欲時人崇儉,當詰其奢。奢不見詰,轉相高尚,無有窮極矣!」

劉毅が司隷校尉となると、豪貴な者でも、糾繩した。皇太子の鼓吹が、東掖門を通るという不敬やると、これを劾奏した。中護軍、散騎常侍の羊琇は、司馬炎の舊恩があり、禁兵を典し、機密を10余年あずかる。しばしば法を犯した。劉毅は「羊琇を死罪にしろ」という。司馬炎は、司馬攸に劉毅をなだめさせた。都官從事する廣平の程衛は、羊琇の属吏をかってに拷問して、あとで劉毅に報告した。やむをえず司馬炎は、羊琇を免官した。すぐに白衣で領職にもどす。
羊琇は、景獻皇后の從父弟である。後將軍の王愷は、文明皇后の弟である。散騎常侍、侍中の石崇は、石苞の子である。羊琇、王愷、石崇は、財産を見せびらかして競った。

ぼくは思う。どんなふうにポトラッチするのかは、福原啓郎先生とか、大室幹雄氏とかを読めばわかる。こまかいモノの名前を書き写すのは面倒くさい。どうせ分からないし。サンゴとか。

車騎司馬の傅鹹は、ぜいたくな風潮を戒めた。

尚書張華,以文學才識名重一時,論者皆謂華宜為三公。中書監荀勖、侍中馮紞以 伐吳之謀深疾之。會帝問華:「誰可托後事者?」華對以「明德至親,莫如齊王。」由 是忤旨,勖因而譖之。甲午,以華都督幽州諸軍事。華至鎮,撫循夷夏,譽望益振,帝 復欲征之。
馮紞侍帝,從容語及鐘會,紞曰:「會之反,頗由太祖。」帝變色曰:「卿 是何言邪!」紞免冠謝曰:「臣聞善御者必知六轡緩急之宜,故孔子以仲由兼人而退之, 冉求退弱而進之。漢高祖尊寵五王而夷滅,光武抑損諸將而克終。非上有仁暴之殊,下 有愚智之異也,蓋抑揚與奪使之然耳。鐘會才智有限,而太祖誇獎無極,居以重勢,委 以大兵,使會自謂算無遺策,功在不賞,遂構兇逆耳。向令太祖錄其小能,節以大禮, 抑之以威權,納之以軌則,則亂心無由生矣。」帝曰:「然。」紞稽首曰:「陛下既然 臣之言,宜思堅冰之漸,勿使如會之徒復致傾覆。」帝曰:「當今豈復有如會者邪?」 紞因屏左右而言曰:「陛下謀畫之臣,著大功於天下,據方鎮、總戎馬者,皆在陛下聖 慮矣。」帝默然,由是止,不征華。
三月,安北將軍嚴詢敗慕容涉歸於昌黎,斬獲萬計。

尚書の張華は、文學才識の名望がある。論者は「張華が三公に適任だ」という。中書監の荀勖、侍中の馮紞は、伐呉を推進した張華と対立する。張華は「司馬炎のつぎは、司馬攸に託せ」というから、司馬炎にも嫌われた。2月甲午、張華は、都督幽州諸軍事となる。鎮所で夷夏を撫循した。司馬炎は、張華を洛陽にもどしたい。

ぼくは思う。さっきから、鮮卑の記事がよく出てくる。張華が幽州にいたのは、こういう時期だ。さらに言えば、張華の部下が陳寿だから、陳寿はこのあたりの時代状況にも応じて、列伝の末尾のほうを編纂した。ちょうど『晋書』載記と、できごとが交差する時期のこと。

馮紞は司馬炎と話しており、鍾会の話題におよぶ。馮紞は「鍾会が叛いたのは、司馬昭のせいだ」という。司馬炎が怒った。馮紞は免冠して説明した。「漢高祖は5人の功臣を殺し、光武帝は功臣に政事をさせずに、功臣を殺さなかった。功臣をうまく使ってあげるのも君主の務めだ。司馬昭は鍾会を追いつめた」という。司馬炎が合意すると、馮紞はいう。「司馬炎は、張華を追いつめないよね」と。司馬炎は、張華を洛陽に徴すのを辞めた。

胡三省はいう。漢高祖が滅ぼしたのは、韓信、韓王信、彭越、英布、廬綰。
ぼくは思う。もし張華を幽州から呼びもどしたら、張華は罰せられると思い、やぶれかぶれで、幽州で挙兵するしかない。公孫淵と同じことが起こる。

3月、安北將軍の嚴詢は、慕容涉歸を昌黎で負かした。

ぼくは思う。これは張華の配下なのだろうか。


夏、賈充が死に、荒公でなく武公となる

魯公賈充老病,上遣皇太子省視起居。充自憂謚傳,從子模曰:「是非久自見,不 可掩也!」夏,四月,庚午,充薨。世子黎民早卒,無嗣,妻郭槐欲以充外孫韓謐為世 孫,郎中令韓鹹、中尉曹軫諫曰:「禮無異姓為後之文,今而行之,是使先公受譏於後 世而懷愧於地下也。」槐不聽。鹹等上書,救改立嗣,事寢不報。槐遂表陳之,雲充遺 意。帝許之,仍詔「自非功如太宰,始封、無後者,皆不得以為比。」及太常議謚,博 士秦秀曰:「充悖禮溺情,以亂大倫。昔鄫養外孫莒公子為後,《春秋》書『莒人滅 鄫』。絕父祖之血食,開朝廷之亂原。按《謚法》:『昏亂紀度曰荒』,請謚『荒 公』。」帝不從,更謚曰武。
閏月,丙子,廣陸成侯李胤薨。

魯公の賈充が老病である。司馬衷が見舞った。賈充は「死後に、どのような諡号や列伝が書かれるか、監視しておいてくれ」と、従子の賈模にたのんだ。夏4月庚午、賈充は薨じた。無嗣なので、賈充の妻の郭槐は、外孫の韓謐に魯公を嗣がせたい。郎中令の韓鹹、中尉の曹軫が「異姓養子はだめ」と諫めたが、韓謐が魯公をついだ。司馬炎は「賈充だけ特別だ」と詔した。
司馬炎は太常に「賈充の諡号を決めろ」という。博士の秦秀は「荒公がいい」というが、司馬炎は賈充を、武公とした。
閏月丙子、廣陸成侯の李胤が薨じた。

冬、司馬攸を斉国に帰藩させる詔、反対が続出

齊王攸德望日隆,荀勖、馮紞、楊珧皆惡之。紞言於帝曰:「陛下詔諸侯之國,宜 從親者始。親者莫如齊王,今獨留京師,可乎?」勖曰:「百僚內外皆歸心齊王,陛下 萬歲後,太子不得立矣。陛下試詔齊王之國,必舉朝以為不可,則臣言驗矣。」帝以為 然。
冬,十二月,甲申,詔曰:「古者九命作伯,或入毘朝政,或出御方岳,其揆一也。 侍中、司空齊王攸,佐命立勳,劬勞王室,其以為大司馬、都督青州諸軍事,侍中如故, 仍加崇典禮,主者詳案舊制施行。□睄以汝南王亮為太尉、錄尚書事、領太子太傅,光 祿大夫山濤為司徒,尚書令衛瓘為司空。

司馬攸の德望が高まるので、荀勖、馮紞、楊珧はおもしろくない。馮紞と荀勖は「司馬攸を斉国に行かせよう」といい、司馬炎は合意した。
冬12月甲申、司馬攸は斉国にゆけと詔した。侍中、司空の司馬攸を、大司馬、都督青州諸軍事として帰藩し、侍中のままである。司馬攸に加崇する典禮について議論させた。司馬亮を太尉、錄尚書事として、太子太傅を領させた。光祿大夫の山濤を司徒として、尚書令の衛瓘を司空とした。

ぼくは思う。司馬亮、山濤、衛瓘は、トコロテン式の人事である。


征東大將軍王渾上書,以為 (中略)。於是扶風王駿、光祿大夫李喜、中護軍羊琇、侍中王濟、甄德皆切諫。帝 並不從。濟使其妻常山公主及德妻長廣公主俱入,稽顙涕泣,請帝留攸。帝怒,謂侍中 王戎曰:「兄弟至親,今出齊王,自是朕家事,而甄德、王濟連遣婦來生哭人邪!」乃 出濟為國子祭酒,德為大鴻臚。羊琇與北軍中候成粲謀見楊珧,手刃殺之;珧知之,辭 疾不出,諷有司奏琇,左遷太僕。琇憤怨,發病卒。李喜亦以年老遜位,卒於家。喜在 朝,姻親故人,與之分衣共食,而未嘗私以王官,人以此稱之。

征東大將軍の王渾が上書して、「司馬攸を斉国に行かすな」という。扶風王の司馬駿、光祿大夫の李喜、中護軍の羊琇、侍中の王濟と甄德は、みな「司馬攸を斉国に行かすな」と切諫する。王済は、王済の妻・常山公主と、甄徳の妻・長廣公主とともに、「司馬攸を斉国に行かすな」と請うた。司馬炎は怒り、侍中の王戎に言った。「わたしの家事に口を出すな。甄徳と王済は、妻の司馬氏を連れてきやがって」という。王済を國子祭酒、甄徳を大鴻臚にした。

胡三省はいう。侍中から、外朝の官に出されたのだ。ぼくは思う。ちょうど侍中の2人が、公主と結婚しているのね。侍中は、そういう内輪のポジションなのか。

羊琇と北軍中候の成粲は、楊珧を殺そうとした。楊珧はひきこもり、羊琇を太僕に左遷した。羊琇は憤怨して、発病して死んだ。李喜は老年なので引退した。

ぼくは思う。司馬攸を留めようとした者が、つぎつぎ朝廷を去って行きました、という話。


是歲,散騎常侍薛瑩卒。或謂吳郡陸喜曰:「瑩於吳士當為第一乎?」喜曰:「瑩 在四五之間,安得為第一!夫以孫皓無道,吳國之士,沈默其體,潛而勿用者,第一也; 避尊居卑,祿以代耕者,第二也;侃然體國,執正不懼者,第三也;斟酌時宜,時獻微 益者,第四也;溫恭修慎,不為謅首者」第五也;過此以往,不足複數。故彼上士多淪 沒而遠悔吝,中士有聲位而近禍殃。觀瑩之處身本末,又安得為第一乎!」

散騎常侍の薛瑩が卒した。ある者が、吳郡の陸喜に、「薛瑩は、吳士のなかで第一ではないか」と聞く。陸喜は5つの理由をあげて否定した。「孫皓を止められなかった」などが、陸喜があげる理由。121123

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太康四-五年(公元283-284年)

太康4年、司馬攸が吐血し、孫皓が死ぬ

春,正月,甲申,以尚書右僕射魏舒為左僕射,下邳王晃為右僕射。晃,孚之子也。 戊午,新沓康伯山濤薨。
帝命太常議崇錫齊王之物。博士庾シキ、太叔廣、劉暾、繆蔚、郭頤、秦秀、傅珍上 表曰 (中略)。□,純之子;暾,毅之子也。□既具草,先以呈純,純不禁。 事過太常鄭默、博士祭酒曹志,志愴然歎 (中略)。帝覽之,大怒曰:「曹志尚不明吾心,況四海乎!」且 謂:「博士不答所問而答所不問,橫造異論。」下有司策免鄭默。於是尚書硃整、褚等 奏:「志等侵官離局,迷罔朝廷,崇飾晉言,假托無諱,請收志等付廷尉科罪。」詔免 志官,以公還第;其餘皆付廷尉科罪。
庾純詣廷尉自首:「□以議草見示,愚淺聽之。」詔免純罪。廷尉劉頌奏□等大不 敬,當棄市。尚書奏請報聽廷尉行刑。尚書夏侯駿曰:「官立八座,正為此時。」乃獨 為駁議。左僕射下邳王晃亦從駿議。奏留中七日,乃詔曰:「□是議主,應為戮首;但 □家人自首,宜並廣等七人皆丐其死命,並除名。」

春正月甲申、尚書右僕射の魏舒が左僕射となる。下邳王の司馬晃が右僕射となる。司馬晃は司馬孚の子である。正月戊午、新沓康伯の山濤が薨じた。

胡三省はいう。曹魏の明帝の景初3年、遼東の東沓県の吏民が、海をわたって斉郡の境界にきた。ここに新沓県をつくった。山濤はここに封じられた。

司馬炎は太常に、齊王に崇錫する物を議論させた。博士の庾シキ、太叔廣、劉暾、繆蔚、郭頤、秦秀、傅珍は上表して、「司馬攸を斉国に行かすな」という。庾シキは、庾純の子である。劉暾は、劉毅の子である。
太常の鄭默、博士祭酒の曹志も、愴然として歎じた。「司馬攸を斉国に行かすな」と。司馬炎は怒った。「曹志は、曹植の子のくせに、私の心が分からないか。まして四海の人士に、私の心が分からないか」と。司馬炎は「博士には、齊王に崇錫する物を問うた。博士がちがう議題の回答をしたから、免じろ」と。曹志は家にかえされ、ほかに司馬攸をかばった者は廷尉に罪を咎められた。
庾純は廷尉に自首した。「子の庾シキの議草を、私が見のがしてしまった」と。庾純は罪を免じられたが、司馬攸をかばった者は、官職を免じられた。

二月,詔以濟南郡益齊國。己丑,立齊王攸子長樂亭侯寔為北海王,命攸備物典策, 設軒轅之樂,六佾之舞,黃鉞朝車,乘輿之副從焉。 三月,辛丑朔,日有食之。
齊獻王攸憤怨發病,乞守先後陵。帝不許,遣御醫診視。諸醫希旨,皆言無疾。河 南尹向雄諫曰:「陛下子弟雖多,然有德望者少;齊王臣居京邑,所益實深,不可不思 也。」帝不納,雄憤恚而卒。攸疾轉篤,帝猶催上道。攸自強入辭,素持容儀,疾雖困, 尚自整厲,舉止如常,帝益疑其無疾;辭出數日,嘔血而薨。帝往臨喪,攸子冏號踴, 訴父病為醫所誣。詔即誅醫,以冏為嗣。
初,帝愛攸甚篤,為荀勖、馮紞等所構,欲為身後之慮,故出之。及薨,帝哀慟不 已。馮紞侍側,曰:「齊王名過其實,天下歸之,今自薨殞,社稷之福也,陛下何哀之 過!」帝收淚而止。詔攸喪禮依安平獻王故事。
攸舉動以禮,鮮有過事,雖帝亦敬憚之。每引之同處,必擇言而後發。

2月、濟南郡を斉国にくっつける。司馬攸の子である、長樂亭侯の司馬寔を北海王とする。司馬攸を斉国に送りだす。3月辛丑ついたち、日食あり。
司馬攸は、憤怨して發病した。医者は仮病だという。河南尹の向雄は「司馬攸を斉国に行かすな」と言い、憤恚して死んだ。司馬攸は嘔血して薨じた。司馬攸の子・司馬冏は、医者が殺したと主張して、医者を誅した。司馬冏が斉王をつぐ。
はじめ司馬炎は、司馬攸と仲が良い。荀勖と馮紞が、司馬攸と対立したので、司馬炎と司馬攸は対立した。司馬攸の死を、司馬炎は悲しんだ。安平獻王の故事(太志8年)にもとづき、司馬攸を葬った。

夏,五月,己亥,琅邪武王人由薨。 冬,十一月,以尚書左僕射魏舒為司徒。 河南及荊、揚等六州大水。 歸命侯孫皓卒。 是歲,鮮卑慕容涉歸卒。弟刪篡立,將殺涉歸子廆,廆亡匿於遼東徐郁家。

夏5月己亥、琅邪武王の司馬伷が薨じた。
冬11月、尚書左僕射の魏舒が司徒となる。河南および荊州と揚州ら6州で大水あり。歸命侯の孫皓が卒した。
この歳、鮮卑の慕容涉歸が卒した。弟がつぐ。涉歸の子・慕容廆は、殺されそうなので、遼東の徐郁に匿われる。

284年、陳羣の九品制の変更を議論する

春,正月,己亥,有青龍二,見武庫井中。帝觀之,有喜色。百官將賀,尚書左僕 射劉毅表曰:「昔龍降夏庭,卒為周禍。《易》稱『潛龍勿用,陽在下也。』尋案舊典, 無賀龍之禮。」帝從之。

春正月己亥、2匹の青龍が、武庫の井中にいる。司馬炎が喜んだが、尚書左僕 射の劉毅が、「不吉だ」という。司馬炎は祝宴をやめた。

初,陳群以吏部不能審核天下之士,故令郡國各置中正,州置大中正,皆取本士之 人任朝廷官,德充才盛者為之,使銓次等級以為九品,有言行修著則升之,道義虧缺則 降之,吏部憑之以補授百官。行之浸久,中正或非其人,奸敝日滋。劉毅上疏曰 (中略)。太尉汝南王亮、司空衛 瓘亦上疏曰:「魏氏承喪亂之後,人士流移,考詳無地,故立九品之制,粗且為一時選 用之本耳。今九域同規,大化方始,臣等以為宜皆蕩除末法,鹹用土斷,自公卿以下, 以所居為正,無復縣客,遠屬異土,盡除中正九品之制,使舉善進才,各由鄉論,則華 競自息,各求於己矣。」始平王文學江夏李重上疏,以為:「九品既除,宜先開移徙, 聽相並就,則土斷之實行矣。」帝雖善其言而終不能改也。

はじめ陳羣は、郡國に中正をおき、州に大中正をおく。だがうまく引用されない。劉毅が上疏して、改制をいう。太尉の司馬亮、司空の衛瓘もいう。「戦乱で人口が流動した。地方の行政区画を整理して、九品にかわる制度を定めよ」と。始平王の文學する江夏の李重も「九品をのぞき、土断を実行せよ」という。司馬炎は同意したが、改制を実行できず。

冬,十二月,庚午,大赦。 閏月,當陽成侯杜預卒。 是歲,塞外匈奴胡太阿厚帥部落二萬九千三百人來降,帝處之塞內西河。 罷寧州入益州,置南夷校尉以護之。

冬12月庚午、大赦した。閏月、當陽成侯の杜預が卒した。
この歲、塞外にいる匈奴と胡族の太阿厚が、部落3万人をひきいて来降した。司馬炎は塞内の西河に移住させた。寧州をやめて益州にあわせ、寧州刺史の州治に、南蛮校尉をおく。121123

ぼくは思う。郡国や州は、重要度がおちると、都尉や校尉となる。ぎゃくも然り。

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太康六-八年(公元285-288年)

太康6年、王済が天子を黙らせ、慕容廆が扶余攻め

春,正月,尚書左僕射劉毅致仕,尋卒。
戊辰,以王渾為尚書左僕射,渾子濟為侍中。渾主者處事不當,濟明法繩之。濟從 兄佑,素與濟不協,因毀濟不能容其父,帝由是疏濟,後坐事免官。濟性豪侈,帝謂侍 中和嶠曰:「我將罵濟而後官之,如何?」嶠曰:「濟俊爽,恐不可屈。」帝乃召濟, 切讓之,既而曰:「頗知愧不?」濟曰:「『尺布』、『斗粟』之謠,常為陛下愧之。 他人能令親者疏,臣不能令親者親,以此愧陛下耳。」帝默然。嶠,治之孫也。
青、梁、幽、冀州旱。

春正月、尚書左僕射の劉毅が致仕して、すぐ死んだ。

『通鑑考異』はいう。『晋春秋』は太康7年10月とする。いま『晋書』に従う。
ぼくは思う。致仕してすぐ死んだんだから、尚書左僕射として働いてない。

正月戊辰、王渾は尚書左僕射となり、王渾の子・王済が侍中となる。王渾は、あまり実務に詳しくない。王済は法律に詳しいので、王渾を繩した。

胡三省はいう。侍中は、門下諸事を管轄する。ゆえに法を以て、尚書の長官を縄することができた。

王済の從兄の王佑は、王済と仲がわるい。王佑は「王済が父の仕事をジャマした」と上疏した。司馬炎は、王済に連坐させ、王佑も免官した。王済は性質が豪侈である。司馬炎は侍中の和嶠に「王済を罵ってから、彼に官位を与えたいがどうか」と問う。和嶠は「王済は司馬炎に屈しないだろう」という。
司馬炎が王済を罵り「恥を知ったか」と聞くと、王済は「ちまたの謡では、司馬炎が弟の司馬攸を許容できなかった事件を、司馬炎の恥とする。世間の者は親しい者を遠ざけることができるが、私は親しい者に親しめない。ゆえに私は陛下が弟にしたことを恥に思う」と。司馬炎は黙ってしまった。和嶠は和洽の孫である。

ぼくは思う。漢文の意味は、だいたい会っていると思うんだけど、皮肉がひねくれてて、うまく拾えていない。気づいたら直します。

青、梁、幽、冀州でひでり。

秋,八月,丙戌朔,日有食之。
冬,十二月,庚子,襄陽武侯王濬卒。
是歲,慕容刪為其下所殺,部眾復迎涉歸子廆而立之。涉歸與宇文部素有隙,廆請 討之,朝廷弗許。廆怒,入寇遼西,殺略甚眾。帝遣幽州軍討廆,戰於肥如,廆眾大敗。 自是每歲犯邊,又東擊扶餘,扶餘王依慮自殺;子弟走保沃沮。廆夷其國城,驅萬餘人 而歸。

秋8月丙戌ついたち、日食あり。
冬12月庚子、襄陽武侯の王濬が卒した。
この歳、慕容刪が部下に殺された。部衆は、涉歸の子・慕容廆を立てた。涉歸と宇文部は、仲が悪い。慕容廆は宇文部を討ちたいが、西晋が許さない。

胡三省はいう。宇文部もまた、鮮卑の種類である。中華書局2590頁。

慕容廆は怒り、遼西に入寇した。西晋の幽州軍は、慕容廆と肥如(遼西)で戦った。慕容廆は大敗した。これより毎年、慕容廆は辺境をせめる。また東して、慕容廆は扶余王の依慮を自殺させた。扶余王の子弟は、沃沮ににげた。慕容廆は国城で皆殺し、1万余人をあわせた。

太康7年、魏舒が死に、扶余の国土を回復する

春,正月,甲寅朔,日有食之。魏舒稱疾,固請遜位,以劇陽子罷。舒所為,必先 行而後言,遜位之際,莫有知者。衛瓘與舒書曰:「每與足下共論此事,日日未果,可 謂『瞻之在前,忽焉在後』矣。」
夏,慕容廆寇遼東,故扶餘王依慮子依羅求帥見人還復舊國,請援於東夷校尉何龕, 龕遣督護賈沈將兵送之。廆遣其將孫丁帥騎邀之於路,沈力戰,斬丁,遂復扶餘。

春正月甲寅ついたち、日食あり。魏舒は病気なので、官位を辞退した。劇陽の子爵として、退官する。魏舒は、行動が先で、発言が後である。辞退のことも、誰も知らなかった。

『通鑑考異』はいう。本紀と列伝には、辞退の年月がない。諸史料から推測するに、このタイミングである。

衛瓘は魏舒に文書をあたえた。「魏舒と議論すると、日をまたいでも終わらない。『見たときは前にいたが、気づくと後ろにいる』である」と。

胡三省はいう。顔淵の言葉らしい。「時間があっという間に過ぎる」という意味で使ったのかな。もしくは、ドラゴンボール的なアクション。

夏、慕容廆が遼東を寇した。もと扶餘王の依慮は、子の依羅を差しだし、東夷校尉の何龕に「慕容廆から国土を奪回してくれ」という。

『晋書』はいう。司馬炎は南蛮校尉を襄陽におき、西戎校尉を長安におき、南夷校尉を寧州におく。東夷校尉もまた、けだし司馬炎がおいた。遼東を治所とする。

何龕は、督護の賈沈に兵をつけた。賈沈は、慕容廆の将・孫丁を斬って、扶余の国土を回復した。

秋,匈奴胡都大博及萎莎胡各帥種落十萬餘口詣雍州降。 九月,戊寅,扶風武王駿薨。 冬,十一月,壬子,以隴西王泰都督關中諸軍事。泰,宣帝弟馗之子也。 是歲,鮮卑拓跋悉鹿卒,弟綽立。

秋、匈奴胡の都大博および萎莎胡は、それぞれ種落10余万をひきいて、雍州に降ってきた。9月戊寅、扶風武王の司馬駿が薨じた。
冬11月壬子、隴西王の司馬泰が、都督關中諸軍事となる。司馬泰とは、司馬懿の弟・司馬馗の子である。

ぼくは思う。司馬駿の後任かな。司馬駿は死の直前に、たくさんの匈奴や胡族を降らせることができた。というか、名誉をつけるために、記事が創作されてないようなあ。

この歳、鮮卑の拓跋悉鹿が卒して、弟の拓跋綽が立つ。

胡三省はいう。泰始より以来、鮮卑では、慕容部と拓跋部の2部が、日ごとに強盛となった。ゆえに記録がでてくる。ぼくは思う。五胡十六国で建国するから、こうして遡って記録がおおい。


太康8年、太廟が燃え、北匈奴の種落が降る

春,正月,戊申朔,日有食之。 太廟殿陷,秋,九月,改營太廟,作者六萬人。 是歲,匈奴都督大豆得一育鞠等復帥種落萬一千五百口來降。

春正月戊申ついたち、日食あり。太廟殿が燃えた。秋9月、太廟を改營した。6万人で改築した。

ぼくは思う。建物が燃えるのも「天譴」である。

この歲、匈奴都督の大豆得一育鞠らが、種落1千5百口をひきいて来降した。

胡三省はいう。曹魏は匈奴を塞内で5部に分けて住まわせた。昨年より、匈奴が降ってくるが、史書には居住地をかかない。これは塞外から来たのだろう。曹魏が移住させたのとは別の、北匈奴の種落だろう。


太康9年、3年連続の日食、1年に2回の日食

春,正月,壬申朔,日有食之。 夏,六月,庚子朔,日有食之。郡國三十三大旱。 秋,八月,壬子;星隕如雨。 地震。

春正月壬申ついたち、日食あり。夏6月庚子ついたち、日食あり。33郡國で日照。秋8月壬子、姻戚が雨のようにふる。121123

胡三省はいう。この3年間、正月ついたちに日食がある。西晋が大乱になるので、天が戒めていることは明らかである。
ぼくは思う。この簡潔さは『春秋』の本文かよ。というわけで、12年11月にやった『資治通鑑』は、ここで終了します。気が向いたら、つづきの西晋をやります。

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