表紙 > 和訳 > 『資治通鑑』巻80、273-279年を抄訳

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泰始九年(癸巳,公元273年)

春、鄭袤と石苞が死に、陸抗が荊州牧

春,正月,辛酉,密陵元侯鄭袤卒。 二月,癸巳,樂陵武公石苞卒。 三月,立皇子祗為東海王。
吳以陸抗為大司馬、荊州牧。

春正月辛酉、密陵元侯の鄭袤が卒した。

『通鑑考異』はいう。鄭袤伝では、司空を固辞した。長らく断ってから、拝命した。侯を以て第に就き、儀同三司を拝した。

2月癸巳、樂陵武公の石苞が卒した。3月、皇子の司馬祗を東海王とした。
孫呉で陸抗が、大司馬、荊州牧となる。

夏、鄧艾の名誉を回復し、韋昭が誅殺される

夏,四月,戊辰朔,日有食之。
初,鄧艾之死,人皆冤之,而朝廷無為之辨者。及帝即位,議郎敦煌段灼上疏曰 (中略)。帝善其 言而未能從。會帝問給事中樊建以諸葛亮之治蜀,曰:「吾獨不得如亮者而臣之乎?」 建稽首曰:「陛下知鄧艾之冤而不能直,雖得亮,得無如馮唐之言乎!」帝笑曰:「卿 言起我意。」乃以艾孫朗為郎中。

夏4月戊辰ついたち、日食あり。
鄧艾が死んだとき、みな冤罪だと思ったが、弁護する者がない。司馬炎が即位すると、議郎する敦煌の段灼が上疏して、鄧艾を弁護した。司馬炎は内容を善としたが、鄧艾の名誉を回復できず。同じころ司馬炎は、給事中の樊建に「諸葛亮は蜀漢をいかに治めたか」と問うた。樊建は稽首していう。「陛下は鄧艾の冤罪を解かない。こんな陛下が、もし諸葛亮を得ても、前漢の文帝が馮唐を活用した前例に及ばないだろう」と。司馬炎は「おかげで鄧艾を名誉回復する決心がついた」といい、鄧艾の孫・鄧朗を郎中とした。

胡三省はいう。文帝の話は、文帝14年に記事がある。


吳人多言祥瑞者,吳主以問侍中韋昭,昭曰:「此家人筐篋中物耳!」昭領左國史, 吳主欲為其父作紀,昭曰:「文皇不登帝位,當為傳,不當為紀。」吳主不悅,漸見責 怒。昭憂懼,自陳衰老,求去侍、史二官,不聽。時有疾病,醫藥監護,持之益急。吳 主飲群臣酒,不問能否,率以七升為限。至昭,獨以茶代之,後更見逼強。又酒後常使 侍臣嘲弄公卿,發摘私短以為歡;時有愆失,輒見收縛,至於誅戮。昭以為外相毀傷, 內長尤恨,使群臣不睦,不為佳事,故但難問經義而已。吳主以為不奉詔命,意不忠盡, 積前後嫌忿,遂收昭付獄。昭因獄吏上辭,獻所著書,冀以此求免。而吳主怪其書垢故, 更被詰責,遂誅昭,徙其家於零陵。

呉人はおおく祥瑞をいう。孫皓が侍中の韋昭に問うと、韋昭は「祥瑞の品物は、家中のハコから出してきたものだ。インチキだ」という。韋昭は左国史を領した。孫皓は、父の孫和の本紀を立ててほしい。韋昭は断った。

胡三省はいう。孫皓は父の孫和に、文皇帝と諡号する。

韋昭は孫皓を怒らせたので「老いたから、侍中と左国史を退職したい」という。孫皓は医薬を贈り、韋昭を辞めさせない。孫皓の酒席で、韋昭だけが茶を飲んだ。韋昭は下獄された。みなは「韋昭に史書を書かせたい」と願ったが、孫皓は韋昭を誅した。家属を零陵にうつした。

ぼくは思う。高橋先生の論文で読んだ。
高橋康浩氏の『韋昭研究』読書メモ


五月,以何曾領司徒。 六月,乙未,東海王祗卒。

5月、何曾が司徒を領した。6月乙未、東海王の司馬祗が卒した。

秋、司馬炎が卞氏を後宮に入れたい

秋,七月,丁酉朔,日有食之。
詔選公卿以下女備六宮,有蔽匿者以不敬論。采擇未畢,權禁天下嫁娶。帝使楊後 擇之,後惟取潔白長大而捨其美者。帝愛卞氏女,欲留之。後曰:「卞氏三世後族,不 可屈以卑位。」帝怒,乃自擇之,中選者以絳紗系臂,公卿之女為三夫人、九嬪、二千 石、將、校女補良人以下。

秋7月丁酉ついたち、日有あり。
司馬炎は詔して、公卿より以下の娘を六宮にあつめる。もし娘を隠したら、不敬罪とした。司馬炎が審査するまで、天下の結婚を禁じた。司馬炎は、楊皇后に人選させた。皇后は、色白で長身の娘だけを選び、美しい者を選ばない。司馬炎は卞氏の娘を愛して、そばに置きたい。だが楊皇后は「卞氏は三世の皇族だ。皇后より低位に屈させるな」という。

ぼくは思う。安田二郎氏によれば、司馬炎はのちに孫皓の後宮を吸収して、晋呉の融合をはかった。日本武尊が戦争により東国を併合し、在原業平が結婚により東国と融合したように。戦争と結婚は、外見は異なるが、べつのものをくっつけるという意味で、同一の行為とされる。いま司馬炎は、曹氏と司馬氏を融合しようとしたのだ。オモテでは禅譲の儀式をやり、ウラでは卞氏をめとることで、魏晋革命が完全なものとなる。唐堯の娘を虞舜がめとり、劉協の娘を曹丕がめとった。司馬炎も曹氏の娘をめとれば形式が整ったはずだが、あいにく曹奐が20歳だから、適齢の娘がいなかったのだろう。だから次善策として、卞氏を欲した。これを「司馬炎は見境なく好色である」と読んではいけない。
ぼくは思う。「好色」で媒介性に富むことが天子に必要な資質。異なるものを、どんどん、くっつけるのが天子に求められる性質だ。天子とはそもそも、媒介して融合させるもの。これは、身体的な精力とは別問題。べつに身体的にそれほど絶倫でなくても、媒介性を発揮してこそ、天子としての役割を果たせる。もちろん、子だくさんのほうが「真実味」が増すので、絶倫に越したことはない。こういう人類学的に「ほんとうのこと」は、四角四面の儒家の筆法からは、どうしても漏れる。というか、儒家に限らず、乾いた理性の男性原理の世界では、どうしても歪曲される。だから司馬炎は「へんな好色野郎」となる。儒家の筆法を「解凍」することが、ぼくたちの使命だろう。ぼく「たち」って誰だか知らないけど。目処なしでも複数形にすることで、同意見の論者が増えていくような気がする。不思議だけど、ぼくもこうやって巻きこまれた。笑
胡三省はいう。曹操の卞皇后は、宣皇后。宣皇后の弟の卞秉は、卞蘭と卞琳をうむ。卞蘭の孫が、曹髦の皇后となる。卞琳の娘が、曹奐の皇后となる。

司馬炎は怒り、自分で人選した。公卿の娘3人が夫人(王と俸禄が同じ)、九嬪となる。二千石、將、校の娘が、良人より以下に任命された。

胡三省はいう。漢制では、後宮には14の官号がある。良人は8百石。爵位は庶長とおなじ。


九月,吳主悉封其子弟為十一王,王給三千兵。大赦。

9月、孫皓は子弟11人を王に封じた。王には兵3千をつけ、大赦した。

是歲,鄭沖以壽光公罷。
吳主愛姬遣人至市奪民物,司市中郎將陳聲素有寵於吳主,繩之以法。姬訴於吳主, 吳主怒,假他事燒鋸斷聲頭,投其身於四望之下。

この歲、鄭沖は壽光公を以て罷る。
孫皓の愛姬は、市中で民の財産を奪うのが好き。司市中郎將の陳聲は、愛姫を罰した。陳聲は、孫皓にノコギリで頭を斬られ、身体を石頭の四望山のもとに投げられた。えー!121122

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泰始十年(甲午,公元274年)

春、良家から5千人の娘を入宮させる

春,正月,乙未,日有食之。 閏月,癸酉,壽光成公鄭沖卒。 丁亥,詔曰:「近世以來,多由內寵以登後妃,亂尊卑之序;自今不得以妾媵為正 嫡。」分幽州置平州。 三月,癸亥,日有食之。 詔又取良家及小將吏女五千餘人入宮選之,母子號哭於宮中,聲聞於外。

春正月乙未、日食あり。閏月癸酉、壽光成公の鄭沖が卒した。丁亥、詔した。「近ごろ、寵愛した娘を、后妃に昇格させ、秩序が乱れることがおおい。寵愛があっても、家柄が卑しい者を后妃としない」と。

胡三省はいう。曹魏の3代ば、卞氏、郭氏、毛氏を皇后に立てたことをいう。ぼくは補う。寵愛より、家柄が大事と思いたい。太宰治でした。
@AkaNisin さんはいう。妾がかわいい→皇帝が妾に夢中→うちゅうのほうそくがみだれる! 風吹けば桶屋みたいな話ですねw
ぼくはいう。儒者の語彙では「かわいい」が上手に表現できないのでしょう。滑稽ですよね。言語体系には、表現するのが得意なこと(きめ細かく概念が分節された分野)と、そうでないことがあります。史家の筆致は、男女のことを表現するのが得意でない。

幽州を分けて。平州をおく。

胡三省はいう。漢末、公孫度が平州牧を自称した。昌黎、遼東、楽浪、玄菟、帯方の5郡を分割した。杜佑によると、西晋の平州は、范陽、燕郡、北平、上谷、代郡、遼西である。

3月癸亥、日食あり。
詔して、良家および小將吏の娘5千人を入宮させた。母子が宮中で號哭する。號哭の声は、外まで聞こえた。

ぼくは思う。司馬炎は、官爵を分配(贈与)するだけでは、皇帝権力の確立が物足りないと思ったらしい。「女性」という人類学的な資源を、官僚たちと贈与交換することで、関係性を強化しようと考えたに違いない。儒者の筆法は、こういう人類学的な真実を、構造的に書きおとすように運命づけられているので、こういう表現になる。「暴挙だ」と。號哭させられ、可哀想に!と。
@AkaNisin さんはいう。司馬炎のことだから、また何かの儒経典に理由がありそうですが…w
ぼくは思う。儒経典に根拠があるかも知れません。しかし、こう考えたいです。儒経典の背後にあるが、しかし儒経典が書きおとしている、人類学的な何かを、司馬炎が(儒家の語彙を使わずに)感じとったから、5千人を入宮させたと思う。司馬炎は、儒経典の語彙をつかって、自分の行動を正統化したと。
えー、分かりにくいので比喩にします。日本人同士が、たまたま国際会議で話すとする。2人は片言の英語で会話したとする。話者は日本語で発想し、それを英語に翻訳して喋る。聞者は英語で聞いて、それを日本語で理解する。2人はともに日本語で思考しているが、オモテに出てこない。記録されるのは、もっぱら英語だ。だが、英語という言語体系に制約を加えながらも、日本語を土壌とした、共通の諒解を形成している(かも知れない、検証が難しいけど)という話。この英語が儒経典で、日本語が人類学的な何か、を置き換えたものです。
つまり、司馬炎が儒経典にしっかりとした根拠があると語っていても、それは「儒教のなかのみで発想と理解をして、女性を授受した」ことの証明にならないと、ぼくは言いたい。まったく検証の難しい話で、そもそも「科学的」でないことは知ってます。


夏、孫皓の死のデマ、豫章・臨海・会稽太守が死ぬ

夏,四月,己未,臨淮康公荀顗卒。
吳左夫人王氏卒。吳主哀念,數月不出,葬送甚盛。時何氏以太后故,宗族驕橫。 吳主舅子何都貌類吳主,民間訛言:「吳主已死,立者何都也。」會稽又訛言:「章安 侯奮當為天子。」奮母仲姬墓在豫章,豫章太守張俊為之掃除。臨海太守奚熙與會稽太 守郭誕書,非議國政;誕但白熙書,不白妖言。吳主怒,收誕系獄,誕懼。

夏4月己未、臨淮康公の荀顗が卒した。
孫皓の左夫人の王氏が卒した。孫皓は哀念して、数ヶ月も出ない。王氏の葬送が盛ん。ときに何氏が太后だから、何氏が驕橫した。孫皓の舅子の何都は、孫皓に似ている。民間で「孫皓が死に、何都が天子になる」という。また会稽では「章安侯の孫奮が天子になる」という。孫奮の母・仲姬の墓が、豫章にある。豫章太守の張俊が、仲姫の墓を掃除した。
臨海太守の奚熙は、會稽太守の郭誕に文書を与えて「国政を議するな」という。郭誕は奚熙に「新しい天子のデマに私は関与しない」と答えた。
孫皓は怒って、郭誕を系獄した。郭誕が懼れた。

功曹邵疇曰: 「疇在,明府何憂?」遂詣吏自列曰:「疇廁身本郡,位極朝右,以噂□沓之語,本非 事實,疾其醜聲,不忍聞見,欲含垢藏疾,不彰之翰墨,鎮躁歸靜,使之自息。故誕屈 其所是,默以見從。此之為愆,實由於疇。不敢逃死,歸罪有司。」因自殺。吳主乃免 誕死,送付建安作船。遣其舅三郡督何植收奚熙。熙發兵自守,其部曲殺熙,送首建業。 又車裂張俊,皆夷三族。並誅章安侯奮及其五子。

郭誕の功曹の邵疇はいう。「私がいるから心配ない」と。邵疇は獄吏のもとにゆき「郭誕はデマに関与しない」と弁護して、自殺した。孫皓は郭誕を死罪にせず、建安に船で流した。孫皓は、舅の三郡督の何植に、奚熙を捕らえさせた。

胡三省はいう。『江表伝』は何植を備海督とする。三郡督とは、臨海、建安、会稽のことだ。ぼくは思う。いま孫皓に疑われているのは、臨海太守の奚熙と、会稽太守の郭誕である。郭誕は建安に流される。つまり、何植の管轄のなかの事件。

奚熙は兵を発して自守した。奚熙の部曲が奚熙を殺して、首級を建業におくる。仲姫の墓を掃除した豫章太守の張俊は車裂かれ、夷三族。章安侯の孫奮とその5子も殺された。

『通鑑考異』はいう。『江表伝』では、張布の娘が孫皓に寵愛されて、その娘の葬儀が、孫皓の葬儀と見誤られた。その他、孫奮の没年についても、諸史料がくいちがう。はぶく。中華書局2535頁。
ぼくは思う。豫章・臨海・会稽太守が死んだ。孫呉に太守が何人いるか、正しく把握していないが、メインどころの太守が3人も死んだ。権力の交代があると見なせるほどでは。孫皓と外戚の何氏が、中央集権を強めたんじゃないか。疑わしい事件をキッカケにして、重要人物を一掃するのは、有効なやり方だ。


秋、山公啓事、楊皇后の喪、陸抗と曹芳の死

秋,七月,丙寅,皇後楊氏殂。初,帝以太子不慧,恐不堪為嗣,常密以訪後。後 曰:「立子以長不以賢,豈可動也!」鎮軍大將軍胡奮女為貴嬪,有寵於帝,後疾篤, 恐帝立貴嬪為後,致太子不安,枕帝膝泣曰:「叔父駿女芷有德色,願陛下以備六宮。」 帝流涕許之。

秋7月丙寅、楊皇后が殂した。はじめ太子の司馬衷が不慧だから、司馬炎は嗣子を相談した。楊皇后はいう。「長子だから嗣子とする。賢いから嗣子とするのでない」と。

胡三省はいう。『春秋公羊伝』である。

鎮軍大將軍の胡奮の娘は貴嬪である。司馬炎に寵愛された。皇后が疾篤すると、「胡奮の娘を皇后にするのでは。司馬衷が太子から外されるのでは」と心配した。皇后は「叔父の楊駿の娘の楊芷を皇后にして」と依頼した。司馬炎は流涕して許した。

ぼくは思う。従姉妹のあいだで、皇后が移動した。楊皇后は「司馬衷がつぎの皇帝」派なのね。司馬衷が楊皇后の子だからかあ。


以前太常山濤為吏部尚書。濤典選十餘年,每一官缺,輒擇才資可為者啟擬數人, 得詔旨有所向,然後顯奏之。帝之所用,或非舉首,眾情不察,以濤輕重任意,言之於 帝,帝益親愛之。濤甄拔人物,各為題目而奏之,時稱「山公啟事」。
濤薦嵇紹於帝,請以為秘書郎,帝發詔征之。紹以父康得罪,屏居私門,欲辭不就。 濤謂之曰:「為君思之久矣,天地四時,猶有消息,況於人乎!」紹乃應命,帝以為秘 書丞。

さきに太常した山濤は、吏部尚書となる。人選を10余年やる。

胡三省はいう。司馬炎が受禅したとき、山濤は吏部郎から尚書にうつる。母の喪にあう。典選に復職した。トータルで10余年となる。

官僚に欠員がでると、数人の候補をあげた。人選は山濤の思うがままだった。山濤による人物評価は「山公啓事」と言われた。
山濤は嵇紹を推薦して、秘書郎とする。

胡三省はいう。晋制では、秘書監の属官には、丞と郎がある。

嵇紹の父・嵆康は、景元3年に罪を受けた。嵇紹が断ると、山濤は「天地や四季ですら移り変わる。いわんや人事をや、移り変わるよ」といい、嵇紹を引っぱり出した。嵇紹は秘書丞となる。

初,東關之敗,文帝問僚屬曰:「近日之事,誰任其咎?」安東司馬王儀,修之子 也,對曰:「責在元帥。」文帝怒曰:「司馬欲委罪孤邪!」引出斬之。儀子裒痛父非 命,隱居教授,三征七辟,皆不就。未嘗西向而坐,廬於墓側,旦夕攀柏悲號,涕淚著 樹,樹為之枯。讀《詩》至「哀哀父母,生我劬勞」,未嘗不三復流涕,門人為之廢 《蓼莪》。家貧,計口而田,度身而蠶;人或饋之,不受;助之,不聽。諸生密為刈麥, 裒輒棄之。遂不仕而終。

はじめ嘉平元年に、曹魏が東關で諸葛恪に敗れたとき、司馬昭は僚屬に「敗戦は誰の責任か」ときく。安東司馬の王儀は、王修の子である。

胡三省はいう。王脩は献帝の建安8年に記事あり。司馬昭は安東将軍として諸軍を監したので、王儀は安東司馬なのだ。

王儀が「司馬昭のせいだ」という。司馬昭は「オレに罪をなするのか」と言い、王儀を斬ろうとした。王儀の子・王裒がわびた。晋代に王裒は、三公や州郡から3征7辟されたが、みな就かず。在野で死んだ。

司馬光はいう。むかし舜は鯀を殺したが、鯀の子の禹は、舜につかえた。嵆康と王儀は、どちらも無罪で死に、その子たちは晋室に仕えないのは、可である。だが嵆康は、ひとたび晋室に仕えてしまったので、もし蕩陰の忠(恵帝の永興元年、蕩陰で敗れて、嵇紹が身体を張って恵帝を守り、恵帝の血を洗わなかった)がなければ、君子の譏りを免れなかっただろう。
ぼくは思う。司馬光は、嵇紹と王裒は、西晋を無視しても良いという。


吳大司馬陸抗疾病,上疏曰 (中略)。及卒,吳主使其子晏、景、玄、機、雲分將其兵。機、雲皆善屬文, 名重於世。 初,周魴之子處,膂力絕人,不修細行,鄉里患之。處嘗問父老曰:「今時和歲豐 而人不樂,何邪?」父老歎曰:「三害不除,何樂之有!」處曰:「何謂也?」父老曰: 「南山白額虎,長橋蛟,並子為三矣。」處曰:「若所患止此,吾能除之。」乃入山求 虎,射殺之,因投水,搏殺蛟。遂從機、雲受學,篤志讀書,砥節礪行,比及期年,州 府交辟。

孫呉で大司馬の陸抗が疾病した。上疏した。

上疏をはぶく。中華書局2537頁。胡三省はいう。陸抗は、まさに孫呉が滅亡しそうなことを知っている。だが職分として、孫皓に上言した。

陸抗が死ぬと孫皓は、子の陸晏、陸景、陸玄、陸機、陸雲に兵を分けて、ひきいさせる。陸機と陸雲は、屬文がうまくて、世に名がおもい。
はじめ周魴の子の周処は、力が強くて荒っぽいので、郷里が患った。周処が父老に「豊作なのに楽しまないのは、なぜか」と聞く。父老は「3害があるからだ。南山の白額虎、長橋のミズチ、そして周処が3害だ」という。周処は他の2害を退治した。周処は、陸機と陸雲から、学問を教わった。州府から辟されるほどの人材になった。

ぼくは思う。ビルドゥングス・ロマン!


八月,戊申,葬元皇後於峻陽陵。帝及群臣除喪即吉,博士陳逵議,以為:「今時 所行,漢帝權制;太子無有國事,自宜終服。」尚書杜預以為:「古者天子、諸侯三年 之喪,始同齊、斬,既葬除服,諒闇以居,心喪終制。故周公不言高宗服喪三年而雲諒 闇,此服心喪之文也;叔向不譏景王除喪而譏其宴樂已早,明既葬應除,而違諒闇之節 也。君子之於禮,存諸內而已。禮非玉帛之謂,喪豈衰麻之謂乎!太子出則撫軍,守則 監國,不為無事,宜卒哭除衰麻,而以諒闇終三年。」帝從之。

8月戊申、楊元皇后を峻陽陵に葬る。司馬炎と群臣は「すぐに服喪を解除するのが良い」という。博士の陳逵はいう。「いま行われるのは、漢制である。太子は国事の仕事がないから、母の楊皇后の服喪をやるのが良い」と。尚書の杜預はいう。「太子は出れば撫軍し、守れば監國せねばならない。太子にも仕事はある。哭礼して衰麻を除くのが良い」と。司馬炎は杜預に従い、3年喪をやらせない。

司馬光はいう。円形や正方形は、自然に存在するものである。しかし凡庸な職人は、物差しやコンパスなどの道具を使わないと、円形や正方形を作図することが出来ない。喪服も同じ理屈である。死者を悼む心を持っていれば、自然と服はボロボロになるものだ。しかし凡庸な人間は、規定にある喪服を使わないと、哀しみを表すことができない。杜預は巧みなことを云ったが、陳逵の真心の厚い意見には敵わない。
ぼくは思う。司馬光は、3年喪をやりきる司馬炎をほめる。実務よりも、真心からの長い服喪をやらせたがるのが、司馬光の傾向である。史料が何と言おうと、3年喪を支持する。むしろ3年喪を主張するために、史料を取捨選択する。


九月,癸亥,以大將軍陳騫為太尉。
杜預以孟津渡險,請建河橋於富平津。議者以為:「殷、周所都,歷聖賢而不作者, 必不可立故也。」預固請為之。及橋成,帝從百寮臨會,舉觴屬預曰:「非君,此橋不 立。」對曰:「非陛下之明,臣亦無所施其巧。」

9月癸亥、大將軍の陳騫を太尉とする。
杜預は、孟津から黄河を渡りにくいから、富平津に橋を架けたい。議者はいう。「殷周が都とした地域だが、橋が作られないには、理由があるはずだ。作るな」と。杜預が推したので、橋が作られた。司馬炎は百僚にのぞみ、「杜預でなければ、この橋を作れなかった」という。杜預は「司馬炎が君主でなければ、私はこんなに良い橋を作れなかった」という。

ぼくは思う。西晋末に、この橋がウラメに出るのか?胡三省は結末を書いていない。ただ「交通の便が良くなったよ」「国土開発は良いこと」「司馬炎は名君、杜預は名臣」「君臣が尊敬しあって良かったね」という逸話か?


是歲,邵陵厲公曹芳卒。初,芳之廢遷金墉也,太宰中郎陳留范粲素服拜送,哀動 左右。遂稱疾不出,陽狂不言,寢所乘車,足不履地。子孫有婚宦大事,輒密諮焉,合 者則色無變,不合則眠寢不安,妻子以此知其旨。子喬等三人,並棄學業,絕人事,侍 疾家庭,足不出邑裡。及帝即位,詔以二千石祿養病,加賜帛百匹,喬以父疾篤,辭不 敢受。粲不言凡三十六年,年八十四,終於所寢之車。
吳比三年大疫。

この歲、邵陵厲公の曹芳が卒した。はじめ曹芳は、金墉城に突っこまれた。太宰中郎する陳留の范粲は、素服で曹芳を送り、左右を哀動させた。

胡三省はいう。曹芳が廃されたときの記事である。河内に宮殿がつくられた。いま金墉に徙されたというが、のちに金墉から河内に移されたのだろう。
胡三省はいう。司馬師を諱んで、太子を太宰とする。曹魏は漢制とおなじで、上公は太傅だけである。范粲伝によると、太宰従事中郎から、太宰中郎にうつる。だがこのとき「太宰」はいない。太傅とすべきだ。

范粲は病気で狂ったふりをしてた。乗った馬車で寝て、地に足をつけない。高官が范粲の真意をさぐったが、范粲は寝たふりを続けた。范粲の妻子は、范粲の気持ちを知った。范粲の子の范喬は、学業をやめ、交際をたち、邑里に閉じ籠もった。司馬炎は、2千石の養生費をくれた。范喬は「父の病気はひどいので、2千石も要りません」という。楊粲は、36年間も口を聞かず、84歳まで馬車のなかで寝て死んだ。

ぼくは思う。魏晋革命に反対して、「西晋の土地に生きない」「西晋で口を聞かない」というボイコットか。

孫呉で3年間、大疫が流行る。121122

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鹹寧元年(乙未,公元275年)

春、晋呉が改元し、孫皓が賀邵を殺す

春,正月,戊午朔,大赦,改元。
吳掘地得銀尺,上有刻文。吳主大赦,改元天冊。 吳中書令賀邵,中風不能言,去職數月,吳主疑其詐,收付酒藏,掠考千數,卒無 一言,乃燒鋸斷其頭,徙其家屬於臨海。又誅樓玄子孫。

春正月戊午ついたち、大赦して咸寧と改元した。
孫呉は銀尺を掘り出し、大赦して天冊と改元した。
孫呉の中書令の賀邵は、中風で口が聞けず、職を去った。孫皓が拷問したが、賀邵は喋らない。頭をノコギリで斬り、家属を臨海に徙した。また孫皓は、楼玄の子孫を誅した。

胡三省はいう。楼玄を誅したのは、泰始8年にある。


夏、鮮卑の拓跋沙漠汗が再入貢

夏,六月,鮮卑拓跋力微復遣其子沙漠汗入貢,將還,幽州刺史衛瓘表請留之,又 密以金賂其諸部大人離間之。
秋,七月,甲申晦,日有食之。
冬,十二月,丁亥,追尊宣帝廟曰高祖,景帝曰世宗,文帝曰太祖。 大疫,洛陽死者以萬數。

夏6月、鮮卑の拓跋力微は、ふたたび子の沙漠汗を入貢させた。沙漠汗が還るとき、幽州刺史の衛瓘が留めた。鮮卑の諸部を買収して、離間させた。

ぼくは思う。このエピソードが、大室幹雄『干潟幻想_中世中国の反園林都市』のプロローグを飾っていた!読書メモをつくった。
胡三省はいう。沙漠汗が初めて入貢したのは、元帝の景元2年ある。衛瓘は、力微が沙漠汗を殺すように仕向けた。

秋7月甲申みそか、日食あり。
冬12月丁亥、司馬懿の廟を高祖とする。司馬師を世宗、司馬昭を太祖とする。大疫があり、洛陽で死者が1万人を数える。121122

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鹹寧二年(丙申,公元276年)

春、司馬炎が病気になり、司馬攸が斉国にゆく

春,令狐豐卒,弟宏繼立,楊欣討斬之。
帝得疾,甚劇,及愈,群臣上壽。詔曰:「每念疫氣死亡者,為之愴然。豈以一身 之休息,忘百姓之艱難邪!」諸上禮者,皆絕之。

春、敦煌太守の令狐豐が卒した。弟の令孤宏が継いで立つ。楊欣が、令孤宏を斬った。

胡三省はいう。泰始8年の記事の続編だ。

司馬炎が重病にかかったが、癒えた。群臣が祝うと、司馬炎は「百姓も病気で苦しむ者がおおい。私は治ったけれど、百姓の苦しみを忘れるな」という。群臣は祝うのをやめた。

初,齊王攸有寵於文帝,每見攸,輒撫床呼其小字曰:「此桃符座也!」幾為太子 者數矣。臨終,為帝敘漢淮南王、魏陳思王事而泣,執攸手以授帝。太后臨終,亦流涕 謂帝曰:「桃符性急,而汝為兄不慈,我若不起,必恐汝不能相容,以是屬汝,勿忘我 言!」及帝疾甚,朝野皆屬意於攸。攸妃,賈充之長女也,河南尹夏侯和謂充曰:「卿 二婿,親疏等耳。立人當立德。」充不答。攸素惡荀勖及左衛將軍馮紞傾諂,勖乃使紞 說帝曰:「陛下前日疾苦不愈,齊王為公卿百姓所歸,太子雖欲高讓,其得免乎!宜遣 還籓,以安社稷。」帝陰納之,乃徙和為光祿勳,奪充兵權,而位遇無替。

はじめ斉王の司馬攸は、司馬昭に寵愛された。司馬昭は自分の席をなで「これは司馬攸の座だ」という。司馬攸を太子にしようとした。

胡三省はいう。元帝の咸煕元年である。

司馬昭が死ぬとき、前漢の淮南王の劉長、曹魏の陳思王の曹植の話をして泣いた。司馬昭は司馬攸の手をとり、晋王をゆずりたい。太后が臨終のとき、「司馬攸より司馬炎がよい」と遺言した。朝野の意はみな司馬攸に属する。司馬攸の妃は、賈充の長女である。

胡三省はいう。賈充はさきに李豊の娘をめとる。李氏は、2女を産む。長女は司馬攸の妃となる。

河南尹の夏侯和は賈充に、「司馬攸とも司馬炎とも親類だ。徳があるねえ」という。賈充は答えず。
司馬攸は、もとより荀勖と左衛将軍の馮紞をにくむ。荀勖は馮紞から司馬炎に「司馬炎が病気のとき、司馬攸を待望する世論があった。司馬攸を斉国に行かせろ」と吹きこむ。司馬炎は、司馬攸を斉国に行かせた。

ぼくは思う。福原先生が注目する事件だなあ!

司馬炎は、夏侯和を光禄勲として、賈充の兵権を奪わせた。

胡三省はいう。賈充は司馬昭のときから兵権をもつ。

だが賈充の官位は変えない。

夏、施但が呉に叛き、孫楷が西晋に奔る

吳施但之亂,或譖京下督孫楷於吳主曰:「楷不時赴討,懷兩端。」吳主數詰讓之, 征為宮下鎮、驃騎將軍。楷自疑懼,夏,六月,將妻子來奔;拜車騎將軍,封丹楊侯。

孫呉で施但が反乱した。ある者が、京下督の孫楷をそしって、孫皓にチクった。「孫楷は施但の討伐のタイミングが悪い。施但に通じている」と。孫皓は孫楷をせめて、中央に宮下鎮、驃騎將軍とした。

胡三省はいう。「京」下督とは、京口に鎮する。「宮下」とは、建業に鎮する。孫楷とは、孫韶の子である。

孫楷は懼れて、夏6月、妻子をひきいて西晋に奔った。西晋の車騎將軍を拝して、丹楊侯に封じられた。

秋、

秋,七月,吳人或言於吳主曰:「臨平湖自漢末薉塞,長老言:『此湖塞,天下亂; 此湖開,開下平。』近無故忽更開通,此天下當太平,青蓋入洛之祥也。」吳主以問奉 禁都尉歷陽陳訓,對曰:「臣止能望氣,不能達湖之開塞。」退而告其友曰:「青蓋入 洛者,將有銜璧之事,非吉祥也。」
或獻小石刻「皇帝」字,雲得於湖邊。吳主大赦,改元天璽。
湘東太守張詠不出算緡,吳主就在所斬之,徇首諸郡。會稽太守車浚公清有政績, 值郡旱饑,表求振貸。吳主以為收私恩,遣使梟首。尚書熊睦微有所諫,吳主以刀鐶撞 殺之,身無完肌。

秋7月、ある者が孫皓にいう。「臨平湖は、漢末から塞がれている。長老はこの湖が開けば、天下が平らぐという」と。孫皓は、奉 禁都尉する歷陽の陳訓に問うと、解釈が違ったので、湖を開くのをやめた。
「皇帝」と刻まれた小石が、湖のそばで発見された。孫皓は天璽と改元した。

ぼくは思う。孫皓はもう皇帝なんだから、めでたくないじゃん。

湘東太守の張詠は、治績があがらないので、斬られた。張詠の首級が郡内をまわされた。會稽太守の車浚は、日照で飢饉になったので、公庫の穀物を貸した。孫皓は「私恩を与えた」として、車浚の首をさらした。尚書の熊睦が、2太守の処罰を諫めたら、孫皓が刀で殺して、皮膚をすべて剥がれた。

ぼくは思う。孫皓は、ムチャをやっているが、おもなターゲットは、太守や都督など、「地方」で長官をやる者。つまり、始皇帝のような一元の直轄を目指しているのかも。後漢の制度にもとづき、官制が設計されているから、太守などがいる。孫皓にとっては、それがジャマである。まして太守が「私恩」を施すなんて、許せない!


八月,已亥,以何曾為太傅,陳騫為大司馬,賈充為太尉,齊王攸為司空。
吳歷陽山有七穿駢羅,穿中黃赤,俗謂之石印,雲:「石印封發,天下當太平。」 歷陽長上言石印發,吳主遣使者以太牢祠之。使者作高梯登其上,以硃書石曰:「楚九 州渚,吳九州都。揚州士,作天子,四世治,太平始。」還以聞。吳主大喜,封其山神 為王,大赦,改明年元曰天紀。

8月已亥、何曾が太傅に、陳騫が大司馬に、賈充が太尉に、司馬攸が司空となる。

ぼくは思う。司馬攸は斉国に行かされるが、司空になれるのね。まあ三公クラスが8人もいるんだから、仕事は少ないかも知れないけど。

孫呉の歴陽で、めでたい石が見つかった。大赦し、翌年元日から天紀と改元。

冬、羊祜が伐呉を上疏し、楊皇后その2が立つ

冬,十月,以汝陰王駿為征西大將軍,羊祜為征南大將軍,皆開府辟召,儀同三司。 祜上疏請伐吳,曰 (中略)。帝深納之。而朝議方以秦、涼為憂,祜復 表曰:「吳平則胡自定,但當速濟大功耳。」議者多有不同,賈充、荀勖、馮紞尤以伐 吳為不可。祜歎曰:「天下不如意事十常居七、八。天與不取,豈非更事者恨於後時 哉!」唯度支尚書杜預、中書令張華與帝意合,贊成其計。

冬10月、汝陰王の司馬駿を征西大將軍とする。羊祜を征南大將軍とする。2人とも、開府して辟召でき、儀同三司。羊祜は伐呉を上疏した。

胡三省はいう。司馬駿と羊祜の官位は、従公である。羊祜は、陸抗が死んだので、孫呉の討伐を上疏するようになった。

司馬炎は、深く羊祜に賛成した。朝議は、秦州と涼州の憂慮(樹機能がいること)をのべた。羊祜がふたたび上疏した。「孫呉を平定すれば、胡族はおのずと定まる。はやく大功を立てよう」と。賈充、荀勖、馮紞がもっとも激しく反対した。羊祜は歎じた。「タイミングが大切なのに」と。ただ度支尚書の杜預、中書令の張華と司馬炎だけが、羊祜に賛成した。

丁卯,立皇後楊氏,大赦。後,元皇後之從妹也,美而有婦德。帝初聘後,後叔父 珧上表曰:「自古一門二後,未有能全其宗者,乞藏此表於宗廟,異日如臣之言,得以 免禍。」帝許之。
十二月,以後父鎮軍將軍駿為車騎將軍,封臨晉侯。尚書褚略、郭弈皆表駿小器, 不可任社稷之重,帝不從。駿驕傲自得,胡奮謂駿曰:「卿恃女更益豪邪!歷觀前世, 與天家婚,未有不滅門者,但早晚事耳。」駿曰:「卿女不在天家乎?」奮曰:「我女 與卿女作婢耳,何能為損益乎!」

10月丁卯、楊皇后を立てて大赦した。新しい皇后は、前の楊元皇后の從妹である。皇后の叔父の楊珧は上表した。「一族から2人の皇后を出して、宗族が全うした前例がない。この上表を宗廟にしまってくれ。楊氏が禍いを免れますように」と。司馬炎は許した。

胡三省はいう。楊氏は禍いを免れず。ぼくは補う。司馬炎の死後。

12月、皇后の父・鎮軍將軍の楊駿を車騎將軍として、臨晉侯に封じる。尚書の褚略と郭弈は、「楊駿のような小器では、社稷之重の任務ができない」という。司馬炎が楊駿に重職をまかせたので、楊駿は驕慢になった。胡奮は「娘が皇后になり、滅びなかった一族はないよ」という。楊駿は「胡奮の娘は皇后になり損ねたよね」という。胡奮は「私の娘と、楊駿の娘は、どちらも作婢するだけ。どうして違いがあろうか」と。121122

ぼくは思う。最後のセリフの意味がよく分からないけど、、楊駿と胡奮のあいだで、娘を皇后にする闘争があった。もとの楊皇后が泣き落として、ふたたび楊氏が皇后になり、胡奮に勝った。

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鹹寧三年(丁酉,公元277年)

春、文鴦が樹機能をやぶり、20万を降す

春,正月,丙子朔,日有食之。 立皇子裕為始平王;庚寅,裕卒。 三月,平虜護軍文鴦督涼、秦、雍州諸軍討樹機能,破之,諸胡二十萬口來降。
夏,五月,吳將邵、夏祥帥眾七千餘人來降。

春正月丙子ついたち、日食あり。皇子の司馬裕を始平王とする。司馬裕は同月庚寅に卒した。3月、平虜護軍の文鴦に、涼秦雍州諸軍を督させ、樹機能を討たせる。樹機能を破り、諸胡20萬口が來降した。
夏5月、呉将の邵顗、夏祥が、7千をひきいて來降する。

秋、楊珧が、皇族と功臣の爵位を整理する

秋,七月,中山王睦坐招誘逋亡,貶為丹水縣侯。 有星孛於紫宮。
衛將軍楊珧等建議,以為:「古者封建諸候,所以籓衛王室;今諸王公皆在京師, 非扞城之義。又,異姓諸將居邊,宜參以親戚。」帝乃詔諸王各以戶邑多少為三等,大 國置三軍五千人,次國二軍三千人,小國一軍一千一百人;諸王為都督者,各徙其國使 相近。
八月,癸亥,徙扶風王亮為汝南王,出為鎮南大將軍,都督豫州諸軍事;琅邪王 倫為趙王,督鄴城守事;勃海王輔為太原王,監并州諸軍事;以東莞王人由在徐州,徙 封琅邪王;汝陰王駿在關中,徙封扶風王;又徙太原王顒為河間王,汝南王柬為南陽王。 輔,孚之子;顒,孚之孫也。其無官者,皆遣就國。諸王公戀京師,皆涕泣而去。又封 皇子瑋為始平王,允為濮陽王,該為新都王,遐為清河王。

秋7月、中山王の司馬睦が、逋亡を招誘したので、丹水縣侯に貶められる。星孛が紫宮に現れる。
衛將軍の楊珧らが建議した。「同姓の諸侯が王室を籓衛するものだ。いま諸王公は京師にいる。良くない。また異姓の諸將が辺境にいる。辺境の防御に、皇族を参加させよ」と。司馬炎は、諸王の戶邑を3等級に分けた。大國には3軍5千人、次國には2軍3千人、小國には1軍1千1百人をおく。諸王で都督する者は、任地のそばに封国を徙した。

つぎから、とても手の疲れる作業!

8月癸亥、扶風王の司馬亮を汝南王に徙し、鎮南大將軍として、豫州諸軍事を都督させる。琅邪王の司馬倫を趙王として、鄴城守事を督させる。勃海王の司馬輔を太原王として、并州諸軍事を監させる。東莞王の司馬伷を徐州におき、琅邪王とする。汝陰王の司馬駿を關中におき、扶風王とする。太原王の司馬顒を河間王とする。汝南王の司馬柬を南陽王とする。司馬輔は、司馬孚の子である。司馬顒は、司馬孚の孫である。
無官の者は国にゆく。諸王公は京師を恋しがって涕泣して去った。

ぼくは補う。以上が司馬炎より上の世代に分岐した王。つぎが、司馬炎より下の世代の王。前者から後者にスライドしていく。もうちょい時間がかかるけど。

皇子の司馬瑋を始平王に、司馬允を濮陽王に、司馬該を新都王に、司馬遐を清河王とした。

其異姓之臣有大功者,皆封郡公、郡侯。封賈充為魯郡公,追封王沈為博陵郡公。 徙封巨平侯羊祜為南城郡侯,祜固辭不受。祜每拜官爵,常多避讓,至心素著,故特見 申於分列之外。祜歷事二世,職典樞要,凡謀議損益,皆焚其草,世莫得聞,所進達之 人皆不知所由。常曰:「拜官公朝,謝恩私門,吾所不敢也。」
兗、豫、徐、青、荊、益、梁七州大水。

異姓の大功ある臣を、郡公や郡侯に封じた。賈充を魯郡公,王沈を博陵郡公とする。巨平侯の羊祜を南城郡侯とするが、羊祜が固辞したので、特別に押しつけず、序列の外部に置いた。羊祜は司馬昭のときから仕えたが、謀議の文書を焼いて、世間に意見を知られない。つねに羊祜は「官を公朝に拜し、恩を私門に謝す。われ敢えてせざる所なり」という。
兗、豫、徐、青、荊、益、梁の7州で大水あり。

冬、羊祜が孫慎を防げず、衛瓘が鮮卑を分裂さす

冬,十二月,吳夏口督孫慎入江夏、汝南,略千餘家而去。詔遣侍臣詰羊祜不追討 之意,並欲移荊州。祜曰:「江夏去襄陽八百裡,比知賊問,賊已去經日,步軍安能追 之!勞師以免責,非臣志也。昔魏武帝置都督,類皆與州相近,以兵勢好合惡離故也。 疆場之間,一彼一此,慎守而已。若輒徙州,賊出無常,亦未知州之所宜據也。」 是歲,大司馬陳騫自揚州入朝,以高平公罷。

冬12月、孫呉の夏口督の孫慎が、江夏、汝南に入り、1千餘家を劫略してかえる。

胡三省はいう。江夏郡は荊州に属する。汝南郡は豫州に属する。両者はとおい。沈約『宋書』はいう。江夏太守は汝南県を治所とする。もとは沙羨を治所としたが、西晋末に汝南の郡民が夏口にながれこみ、汝南を立てた。すなわち江夏は、まだ汝南県を郡治としない。後世の地名を、史書が反映したから、距離感がおかしくなった。

西晋は侍臣をおくり、羊祜に「孫慎を防げよ。荊州の州治を移そうか」となじった。羊祜はいう。「江夏は襄陽から8百里もある。孫慎を防げないのは、私のせいではない。間に合わない。ポーズだけでも軍を動かすのは、私の志ではない。むかし曹操が都督をおいたとき、都督と州治と近かった。

胡三省はいう。たとえば、揚州刺史が寿春にいて、都督揚州諸軍事が寿春にいたように。

州軍と都督の兵を合わせるためである。国境のあたりでは、呉軍との攻防がある。もし荊州の州治を境界あたりに移せば、賊軍の対応が間に合うかも知れないが、州の政事が安定しなくなる」と。

ぼくは思う。国境の抗争に間に合わなくてもいいから、州治と都督は、政事の中心地に構えていたほうが良い、という羊祜の主張だと思う。陸抗が孫皓に「辺境の小競り合いで、小さな勝ちを掠めとっても、天下を取れない」と言ってた。陸抗も羊祜も、辺境の勝敗にはこだわらないらしい。

この歲、大司馬の陳騫が揚州から入朝した。高平公を以て罷る。

吳主以會稽張俶多所譖白,甚見寵任,累遷司直中郎將,封侯。其父為山陰縣卒, 知俶不良,上表曰:「若用俶為司直,有罪,乞不從坐。」吳主許之。俶表置彈曲二十 人,專糾司不法,於是吏民各以愛憎互相告訐,獄犴盈溢,上下囂然。俶大為奸利,驕 奢暴橫,事發,父子皆車裂。

孫皓は、會稽の張俶を寵任して、司直中郎將として、封侯する。張俶の父が、山陰縣(会稽)の卒となる。父は「張俶を司直として用いるなら、もし張俶に罪があっても許してくれ」と孫皓に上表した。孫皓は許した。張俶は司法をもてあそんだ。張俶の父子の不正行為が明らかになり、父子とも車裂された。

なんだか分からん。後日。疲れてきた!


衛瓘遣拓跋沙漠汗歸國。自沙漠汗入質,力微可汗諸子在側者多有寵。及沙漠汗歸, 諸部大人共譖而殺之。既而力微疾篤,烏桓王庫賢親近用事,受衛瓘賂,欲擾動諸部, 乃礪斧於庭,謂諸大人曰:「可汗恨汝曹讒殺太子,欲盡收汝曹長子殺之。」諸大人懼, 皆散走。力微以憂卒,時年一百四。子悉祿立,其國遂衰。
初,幽、並二州皆與鮮卑接,東有務桓,西有力微,多為邊患。衛瓘密以計間之, 務桓降而力微死。朝廷嘉瓘功,封其弟為亭侯。

衛瓘は、拓跋沙漠汗を帰国させた。沙漠汗が入質してから、父の力微は、鮮卑に残った他の子を寵愛した。沙漠汗が帰ると、諸部の大人は、沙漠汗を殺した。力微が病気になった。烏桓王の庫賢は、力微の重臣である。庫賢は、衛瓘から賄賂を受け、鮮卑の諸部を動揺させた。「力微は、沙漠汗を殺されたことを恨んでいる。諸部の大人たちの子を、力微が殺す」という。大人たちは散った。力微は104歳で死んだ。子の悉祿が立ったが、鮮卑の國は衰えた。
幽州と並州は、鮮卑に接している。東に務桓がいて、西に力微がいるから、国境が安定しない。衛瓘が鮮卑を分裂させた。東の務桓が降り、西の力微が死んだ。朝廷は衛瓘の功績をよみして、弟を亭侯に封じた。121122

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鹹寧四年(戊戌,公元278年)

夏、涼州刺史が羌族に殺され、羊祜が病気

春,正月,庚午朔,日有食之。
司馬督東平馬隆上言:「涼州刺史楊欣失羌戎之和,必敗。」夏,六月,欣與樹機 能之黨若羅拔能等戰於武威,敗死。

春正月庚午ついたち、日食あり。
司馬督する東平の馬隆は上言する。「涼州刺史の楊欣が、羌戎之和を失った。必ず敗れる」と。

胡三省はいう。晋制では、二衛では、前駆、由基、強弩を三部司馬とする。おのおの督をおく。沈約はいう。殿中司馬督とは、司馬炎のときに殿内を宿営する。三部司馬という。殿中将軍とともに、左右の二衛を分けて隷する。
胡三省はいう。馬隆の発言は、後漢の皇甫規が馬賢の失敗をコメントしたのと同じ。

夏6月、楊欣と樹機能の党与である若羅拔能らが武威で戦い、楊欣は敗死した。

弘訓皇後羊氏殂。
羊祜以病求入朝,既至,帝命乘輦入殿,不拜而坐。祜面陳伐吳之計,帝善之。以 祜病,不宜數入,更遣張華就問籌策。祜曰:「孫皓暴虐已甚,於今可不戰而克。若皓 不幸而沒,吳人更立令主,雖有百萬之眾,長江未可窺也,將為後患矣!」華深然之。 祜曰:「成吾志者,子也。」帝欲使祜臥護諸將,祜曰:「取吳不必臣行,但既平之後, 當勞聖慮耳。功名之際,臣不敢居。若事了,當有所付授,願審擇其人也。」

弘訓皇后の羊氏(司馬師の妻)が殂した。
羊祜は病気なので、入朝したい。羊祜が入朝すると、伐呉の計をのべた。司馬炎は賛成した。羊祜は病気なので、張華が仲介して羊祜の作戦をきいた。羊祜は「孫皓が暴虐するうちに孫呉を伐て。もし孫皓が没して、賢い君主が立てば、孫呉を伐てなくなる」と。張華は賛成した。

ぼくは思う。慎重そうな羊祜が「孫呉を伐てるタイミングは今だけ」と言い出した理由は、2つありそうだ。1つ、孫皓が生きているが、孫皓に死亡フラグがある。2つ、羊祜が死にそう。「良将の羊祜が、悪君の孫皓を伐つ」というナイスな組み合わせは、前回の提案のときが最後だった。

羊祜は張華に「私の志を為すのは、張華だ」という。司馬炎は、ベッドのなかから羊祜に諸将を護させたいが、羊祜は辞退した。羊祜は「鎮撫には適切な人選をよろしく」という。

ぼくは思う。司馬師の妻の羊氏と、羊祜が同じタイミングで死ぬのがおもしろい。両者に関係はなかろうが、西晋において羊氏の存在感がいっきに下がる。


秋、杜武庫が東南の百姓を助け、張紘の孫が殺さる

秋,七月,己丑,葬景獻皇後於峻平陵。
司、冀、兗、豫、荊、揚州大水,螟傷稼。詔問主者:「何以佐百姓?」度支尚書 杜預上疏,以為:「今者水災,東南尤劇,宜敕兗、豫等諸州留漢氏舊陂,繕以蓄水外, 餘皆決瀝,令饑者盡得魚菜螺□之饒,此目下日給之益也。水去之後,填淤之田,畝收 數鐘,此又明年之益也。典牧種牛有四萬五千餘頭,不供耕駕,至有老不穿鼻者,可分 以給民,使及春耕;谷登之後,責其租稅,此又數年以後之益也。」帝從之,民賴其利。 預在尚書七年,損益庶政,不可勝數,時人謂之「杜武庫」,言其無所不有也。

秋7月己丑、景獻皇后の羊氏を、峻平陵に葬る。
司、冀、兗、豫、荊、揚州で大水あり。ズイムシが農作物を傷めた。司馬炎が「いかに百姓を佐けるか」ときく。度支尚書の杜預が上疏した。「水害は東南で激しい。兗州と豫州で堤防を改修せよ。水が引いたら、耕地を復旧せよ。典牧令(太僕に属す)は、種牛を4万5千余もつ。これを耕作に貸し出せ。数年だけ減税すれば、かえって租税が増収するだろう」と。司馬炎は杜預に従い、百姓に利益を与えた。

『通鑑考異』はいう。食貨志では咸寧3年といい、杜預伝では咸寧4年という。五行志では、3年に洪水があるが、ムシの被害はない。4年にズイムシの被害がある。いま杜預伝にしたがう。

杜預は尚書を7年やり、庶政の経営をしたことは数おおい。「杜武庫」とよばれ、発言にはモレがない。

胡三省はいう。泰始6年、杜預は秦州刺史だったが、罪を得て帰った。度支尚書となり、この歳までに7年やった。


九月,以何曾為太宰;辛巳,以侍中、尚書令李胤為司徒。
吳主忌勝己者,侍中、中書令張尚,紘之孫也,為人辯捷,談論每出其表,吳主積 以致恨。後問:「孤飲酒可以方誰?」尚曰:「陛下有百觚之量。」吳主曰:「尚知孔 丘不王,而以孤方之。」因發怒,收尚。公卿已下百餘人,詣宮叩頭,請尚罪,得減死, 送建安作船,尋就殺之。

9月、何曾を太宰とする。9月辛巳、侍中で尚書令の李胤が司徒に。
孫皓がジャマに思うのは、侍中、中書令の張尚である。張尚は張紘の孫である。

胡三省はいう。張紘は、孫策と孫権につかえた。ぼくは思う。張紘は曹魏に行ってしまったが、子孫は孫呉に残ってたのね。張紘は「単身赴任」だったのか。

張尚は問答で孫皓をやりこめたので、公卿ら1百余人が助命したが、建安に船で流され、殺された。

『通鑑考異』はいう。『三十国春秋』では、岑昏が顔に泥をぬり「張尚の代わりに私を殺せ。張尚を広州に流して」という。いま張尚伝に従う。けだし張尚は孫皓に親近したが、会話で孫皓を怒らせたので、岑昏が身代わりを申し出た。『三十国春秋』は真実を伝えるのだろう。


冬、衛瓘が司馬衷を危ぶみ、杜預が荊州に赴任

冬,十月,征征北大將軍衛瓘為尚書令。是時,朝野鹹知太子昏愚,不堪為嗣,瓘 每欲陳啟而未敢發。會侍宴陵雲台,瓘陽醉,跪帝床前曰:「臣欲有所啟。」帝曰: 「公所言何邪?」瓘欲言而止者三,因以手撫床曰:「此座可惜!」帝意悟,因謬曰: 「公真大醉邪?」瓘於此不復有言。帝悉召東宮官屬,為設宴會,而密封尚書疑事,令 太子決之。賈妃大懼,倩外人代對,多引古義。給使張泓曰:「太子不學,陛下所知, 而答詔多引古義,必責作草主,更益譴負,不如直以意對。」妃大喜,謂泓曰:「便為 我好答,富貴與汝共之。」泓即具草令太子自寫。帝省之,甚悅,先以示瓘,瓘大踧□, 眾人乃知瓘嘗有言也。賈充密遣人語妃雲:「衛□瓘老奴,幾破汝家!」
吳人大佃皖城,欲謀入寇。都督揚州諸軍事王渾遣揚州刺史應綽攻破之,斬首五千 級,焚其積穀百八十餘萬斛,踐稻田四千餘頃,毀船六百餘艘。

冬10月、征北大將軍の衛瓘をめして尚書令とする。太子の司馬衷は昏愚である。衛瓘は陵雲台の宴会で、司馬炎の床を手でなでて「この座を惜しむべきだ」という。司馬炎は「衛瓘は酔ったんだな」という。司馬炎は東宮の官屬を召して、尚書の事案を司馬衷に決裁させようとした。賈妃(賈南風)は、司馬衷が失敗するのを懼れ、代理者に故事を引用して答案を作らせる。給使の張泓は「司馬衷が故事に通じないのは、司馬炎も知る。代理者が書けばバレる。司馬衷の直筆で返答するほうが良い」という。賈南風は張泓に「私の富貴は、張泓とともにある」とよろこぶ。張泓が作成した回答を、司馬衷が書き写した。

胡三省はいう。給使とは、給東宮使令である。張泓はけだし庸中の佼佼である。のちに趙王の司馬倫のために、斉王の司馬冏を陽翟で防いだのが、この張泓であろう。
ぼくは思う。筆写だけでも充分に勉強になる。ある大学では、卒論の内容がコピペでも良いから、とにかく「手で書く」ことを義務づけるという。たとえコピペでも、一度は自分で書き写せば、少しは勉強になるからだそうだ。

司馬炎は司馬衷の回答を見てよろこび、衛瓘に見せた。衛瓘は不安な顔をした。みな衛瓘のかつての発言を知る。賈充はひそかに賈南風に「衛瓘の老奴め、お前の家を破ってやる」という。

胡三省はいう。賈南風が衛瓘を怨みはじめた。
『通鑑考異』はいう。『三十国春秋』は泰始8年の事件とする。衛瓘伝では、泰始初、青州刺史となり、幽州にうつる。8年間、京師にいない、とある。衛瓘が京師にいるのは、司空となったあとである。武帝紀では、太康3年、賈充が死ぬ。同年12月、衛瓘が司空となる。ゆえに、衛瓘と賈充がぶつかるなら、衛瓘が尚書令のとき、つまりこの歳である。

吳人は、皖城のもとでおおいに治田した。西晋に入寇したい。都督揚州諸軍事の王渾は、揚州刺史の應綽に皖城のもとを攻めさせ、5千級を斬り、穀物の備蓄180余万斛を焼く。稻田4千餘頃をつぶす。船6百餘艘をこわす。

十一月,辛巳,太醫司馬程據獻雉頭裘,帝焚之於殿前。甲申。敕內外敢有獻奇技 異服者,罪之。
羊祜疾篤,舉杜預自代。辛卯,以預為鎮南大將軍、都督荊州諸軍事。祜卒,帝哭 之甚哀。是日,大寒,涕淚沾鬚鬢皆為冰。祜遺令不得以南城侯印入柩。帝曰:「祜固 讓歷年,身沒讓存,今聽復本封,以彰高美。」南州民聞祜卒,為之罷市,巷哭聲相接。 吳守邊將士亦為之泣。祜好游峴山,襄陽人建碑立廟於其地,歲時祭祀,望其碑者無不 流涕,因謂之墮淚碑。
杜預至鎮,簡精銳,襲吳西陵督張政,大破之。政,吳之名將也,恥以無備取敗, 不以實告吳主。預欲間之,乃表還其所獲。吳主果召政還,遣武昌監留憲代之。

11月辛巳、太醫(宗正に属する)の司馬の程據が、雉頭裘を献じた。司馬炎は、雉頭裘を殿前で焼いた。11月甲申、詔して、内外で奇抜な器物をもち、奇抜な服飾をする者を罪とした。

胡三省はいう。『記王制』では、奇抜さで民衆を惑わすものは死罪。

羊祜が疾篤なので、杜預が代わった。11月辛卯、杜預を鎮南大將軍、都督荊州諸軍事とした。羊祜が死に、司馬炎がなくと、涙でヒゲとビンが氷った。羊祜は、南城侯の印を棺に入れない。司馬炎は、羊祜の謙譲をほめ、「ものと封地である鉅平侯の印を、棺に入れよ」と命じた。南州の民は、羊祜が死んだので市場を立てずに泣いた。羊祜は峴山で遊ぶのが好きなので、襄陽の人は碑と廟を立てた。歲時に羊祜を祭祀した。
杜預が鎮所にくると、精鋭をえらび、孫呉の西陵督の張政をやぶった。張政は孫呉の名将なので、敗戦の事実を孫皓に報告しない。杜預は、孫皓と張政を離間させるため、張政からの戦果を孫皓におくった。孫皓は張政を召還して、武昌監の留憲を西陵におく。

胡三省はいう。孫呉の辺鎮には、督と監がある。督は、諸軍事の職を督する。監は、諸軍事の職を監する。ぼくは思う。説明になってないよ。


十二月,丁未,朗陵公何曾卒。曾厚自奉養,過於人主。司隸校尉東萊劉毅數劾奏 曾侈汰無度,帝以其重臣,不問。及卒,博士新興秦秀議曰:「曾驕奢過度,名被九域。 宰相大臣,人之表儀,若生極其情,死又無貶,王公貴人復何畏哉!謹按《謚法》, 『名與實爽曰繆,怙亂肆行曰丑』,宜謚繆丑公。」帝策謚曰孝。
前司隸校尉傅玄卒。玄性峻急,每有奏劾,或值日暮,捧白簡,整簪帶,竦踴不寐, 坐而待旦。由是貴游震懾,台閣生風。玄與尚書左丞博陵崔洪善,洪亦清厲骨鯁,好面 折人過,而退無後言,人以是重之。

12月丁未、朗陵公の何曾が卒した。何曾の生活ぶりは、君主をしのぐ。司隸校尉する東萊の劉毅は、何曾のゼイタクを劾奏したが、重臣なので司馬炎は何曾を問わない。何曾が死ぬと、博士する新興の秦秀(秦朗の子)が「何曾はゼイタクなので、繆醜公と諡せよ」という。司馬炎は孝公と諡した。

胡三省はいう。諡号を決めるのは博士でなく皇帝である。

さきの司隸校尉の傅玄が卒した。

『通鑑考異』はいう。傅玄伝では、咸寧5年、太僕にうつり、司隷に転じる。羊皇后が崩じると、官位を争って尚書を罵ったので、罷免された。すぐに死んだという。羊皇后が死んだのは、咸寧4年なので、こちらに記事をおく。

傅玄の性格は峻急で、奏劾するたび、すぐに返答をほしがった。これにより、対応する部署である台閣は、せっせと働いた。傅玄は、尚書左丞する博陵の崔洪と仲がよい。崔洪もまた、清厲骨鯁である。対面すると、相手の過失を指摘するが、カゲでは何も言わないから、重んじられた。

鮮卑樹機能久為邊患,僕射李喜請發兵討之,朝議皆以為出兵重事,虜不足憂。

鮮卑の樹機能は、ひさしく辺境をおびやかす。

胡三省はいう。泰始6年から、今まで9年もたつ。

僕射の李喜は出兵したいが、朝議は慎重である。121123

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鹹寧五年(己亥,公元279年)

春、馬隆が涼州の回復に向かい、劉淵を用いず

   春,正月,樹機能攻陷涼州。帝甚悔之,臨朝而歎曰:「誰能為我討此虜者?」司 馬督馬隆進曰:「陛下能任臣,臣能平之。」帝曰:「必能平賊,何為不任,顧方略何 如耳!」隆曰:「臣願募勇士三千人,無問所從來,帥之以西,虜不足平也。」帝許之。 乙丑,以隆為討虜護軍、武威太守。公卿皆曰:「見兵已多,不宜橫設賞募,隆小將妄 言,不足信也。」帝不聽。隆募能引弓四鈞、挽弩九石者取之,立標簡試。自旦至日中, 得三千五百人。隆曰:「足矣。」又請自至武庫選仗,武庫令與隆忿爭,御史中丞劾奏 隆。隆曰:「臣當畢命戰場,武庫令乃給以魏時朽仗,非陛下所以使臣之意也。」帝命 惟隆所取,仍給三年軍資而遣之。

春正月、樹機能が涼州の州治・武威を陥落させた。司馬炎は悔いて、臨朝し「誰に樹機能を討伐させよう」と歎じた。司馬督の馬隆はいう。「私がやります。勇士3千人を、前歴を問わずに集めたい」という。

胡三省はいう。応募する者は、農業でも兵士でも、逃亡者でも奴隷でも、その前歴を問わずに集めるのだ。

司馬炎が馬隆に許す。正月乙丑、馬隆を討虜護軍、武威太守とする。公卿が馬隆を心配するが、司馬炎は馬隆を信頼した。馬隆は、力自慢を募集し、午前だけで3千5百人を集めた。馬隆は、武庫令(衛尉に属す)と対立し、御史中丞に劾奏されたが、司馬炎の許可により3年分の軍資をもらった。

胡三省はいう。後漢から魏晋まで、中丞は御史の台主である。ぼくは思う。経理もしくは物品の管理者は、「3年分なんて払い出せないよ」と抵抗したのだ。ちゃんと仕事をしている!


初,南單于呼廚泉以兄於扶羅子豹為左賢王,及魏武帝分匈奴為五部,以豹為左部 帥。豹子淵,幼而俊異,師事上黨崔游,博習經史。嘗謂同門生上黨硃紀、雁門范隆曰: 「吾常恥隨、陸無武,絳、灌無文。隨、陸遇高帝而不能建封侯之業,降、灌遇文帝而 不能興庠序之教,豈不惜哉!」於是兼學武事。及長,猿臂善射,膂力過人,姿貌魁偉。 為任子在洛陽,王渾及子濟皆重之,屢薦於帝,帝召與語,悅之。濟曰:「淵有文武長 才,陛下任以東南之事,吳不足平也。」孔恂、楊珧曰:「非我族類,其心必異。淵才 器誠少比,然不可重任也。」及涼州覆沒,帝問將於李喜,對曰:「陛下誠能發匈奴五 部之眾,假劉淵一將軍之號,使將之而西,樹機能之首可指日而梟也。」孔恂曰:「淵 果梟樹機能,則涼州之患方更深耳。」帝乃止。

はじめ南單于の呼廚泉は、兄子の劉豹を左賢王とする。曹操が匈奴を5部に分割すると、劉豹は左部帥となる。劉豹の子・劉焉は、上黨の崔游に師事して、經史を博習する。かつて同門生の上黨の硃紀、雁門の范隆にいう。「前漢の随何や陸賈、周勃や夏侯嬰は、武事と学問を両立しないからダメだった」と。劉淵は洛陽に任子としてきた。王渾と子の王済に重んじられた。司馬炎とも語った。王済は「劉淵は文武ができるから、劉淵に東南を委ねれば、孫呉を平定できる」という。孔恂と楊珧は「異民族は心がちがう。才能がある劉淵に重任をさせるな」という。涼州が樹機能に陥とされると、李毅は「劉淵に樹機能を討たせば、即日に首級がとどく」というが、孔恂は「劉淵が樹機能を討てば、涼州の患いがさらに深くなる」という。司馬炎は劉淵をつかわず。

ぼくは思う。「非我族類,其心必異」に語り尽くされている。漢族が同化を拒めば、匈奴も同化を拒む。先後関係はないだろう。相乗効果により、意識が敵対していく。でもまあ、それで良いとぼくは思うけれど。そして西晋末に、劉淵たちが洛陽を滅ぼす。
西晋を滅ぼす伏線シリーズは、もうちょい続く。


東萊王彌家世二千石,彌有學術勇略,善騎射,青州人謂之「飛豹」。然喜任俠, 處士陳留董養見而謂之曰:「君好亂樂禍,若天下有事,不作士大夫矣。」淵與彌友善, 謂稱曰:「王、李以鄉曲見知,每相稱薦,適足為吾患耳。」因歔欷流涕。齊王攸聞之, 言於帝曰:「陛下不除劉淵,臣恐并州不得久安。」王渾曰:「大晉方以信懷殊俗,奈 何以無形之疑殺人侍子乎?何德度之不弘也!」帝曰:「渾言是也。」會豹卒,以淵代 為左部帥。

東萊の王彌の家は、世二千石である。

『世語』はいう。王弥は、曹魏の玄菟太守の王頎の孫である。

王弥は文武にすぐれ、青州で「飛豹」と呼ばれる。處士する陳留の董養は「王弥は乱を好み、禍を楽しむ。天下が乱れたら、士大夫でない=賊となる」という。劉淵と王弥は仲がよい。劉淵は王弥に「太原の王渾、上党の李憙は、私と同郷である。彼らは互いに推薦しあうが、私にはジャマだ」という。司馬攸はこれを聞いて、司馬炎に「劉淵を除かねば、并州が安定しない」という。王渾は「西晋は異民族も懐ける。無形の疑いをかけ、任子を殺せば、度量がせまいと思われる」という。司馬炎は「王渾が正しい」という。劉豹が死ぬと、掾が左部帥となる。

胡三省はいう。西晋の滅亡はこれが伏線である。


夏、桂林の郡軍が叛き、都督交広州諸軍事を自称

夏,四月,大赦。 除部曲督以下質任。
吳桂林太守修允卒,其部曲應分給諸將。督將郭馬、何典、王族等累世舊軍,不樂 離別,會吳主料實廣州戶口,馬等因民心不安,聚眾攻殺廣州督虞授,馬自號都督交、 廣二州諸軍事,使典攻蒼梧,族攻始興。秋,八月,吳以軍師張悌為丞相,牛渚都督何 植為司徒,執金吾滕修為司空。未拜,更以修為廣州牧,帥萬人從東道討郭馬。馬殺南 海太守劉略,逐廣州刺史徐旗。吳主又遣徐陵督陶浚將七千人,從西道與交州牧陶璜共 擊馬。

夏4月、大赦した。部曲督より以下の質任をのぞく。

胡三省はいう。司馬炎が受禅したとき、部曲将の質任をやめた。いま部曲督まで範囲をひろげて、質任をやめた。ぼくは思う。西晋は寛大だけど、それが全て滅亡への伏線にしか思えない。曹魏の反動なんだろうけど。

孫呉の桂林太守の修允が卒した。

胡三省はいう。桂林は漢代に県であり、鬱林郡に属した。孫皓の鳳凰3年、桂林郡を分立した。

部曲は、郡軍の諸将を分けあう。督將の郭馬と何典と王族らは、世代をかさねて、おなじ軍である。別れたくない。このとき孫皓が、広州の戶口を調査した。郭馬らは、民心が動揺したので、廣州督の虞授を殺した。郭馬が、都督交廣二州諸軍事を自称した。何典が蒼梧を攻め、王族が始興を攻めた。

ぼくは思う。孫呉の南方は、よく独立する。孫皓がきっちり抑えている時期のほうが、治世のなかで短いのではないか。


秋、孫皓が南方に出兵し、宴会で目をえぐる

秋,八月,吳以軍師張悌為丞相,牛渚都督何 植為司徒,執金吾滕修為司空。未拜,更以修為廣州牧,帥萬人從東道討郭馬。馬殺南 海太守劉略,逐廣州刺史徐旗。吳主又遣徐陵督陶浚將七千人,從西道與交州牧陶璜共 擊馬。

秋8月、孫呉の軍師の張悌が丞相となる。牛渚都督の何植が司徒となる。執金吾の滕修が司空となる。滕修は司空を拝命する前に、廣州牧とされ、東道から郭馬を討つ。郭馬は、南海太守の劉略を殺し、廣州刺史の徐旗を追いはらう。
孫皓は、徐陵督の陶浚に7千をつけ、西道からゆき、交州牧の陶璜とともに郭馬を討たせる。

胡三省はいう。徐陵と洞浦は、対岸にある。孫権のとき、呂範は洞浦で敗れた。曹魏の臧覇は、長江をわたって徐陵をせめた。全琮と徐盛がふせいだ。また華覈は徐陵亭侯に封じられた。けだし徐陵とは、亭名なのだろう。孫呉は、長江の渡し場に督守をおく。


吳有鬼目菜,生工人黃耇家;有買菜,生工人吳平家。東觀案圖書,名鬼目曰芝草, 買菜曰平慮草。吳主以耇為侍芝郎,平為平慮郎,皆銀印青緩。
吳主每宴群臣,鹹令沉醉。又置黃門郎十人為司過,宴罷之後,各奏其闕失,迕視 謬言,罔有不舉。大者即加刑戮,小者記錄為罪,或剝人面,或鑿人眼。由是上下離心, 莫為盡力。

孫呉で鬼目菜が生えた。孫皓は、めでたい草が生えた家の者に、銀印青綬(漢制で中二千石)を与える。
孫皓はみなを宴席で酔わせ、黃門郎10人に失言を監視させた。顔面や眼球をとられる人もある。上下の心は離れ、だれも孫皓のために力を尽くそうと思わない。

秋、王濬と杜預により、司馬炎が伐呉を決断

益州刺史王濬上疏曰:「孫皓荒淫兇逆,宜速征伐,若一旦皓死,更立賢主,則強 敵也;臣作船七年,日有朽敗;臣年七十,死亡無日。三者一乖,則難圖也。誠願陛下 無失事機。」帝於是決意伐吳。會安東將軍王渾表孫皓欲北上,邊戍皆戒嚴,朝廷乃更 議明年出師。王濬參軍何攀奉使在洛,上疏稱:「皓必不敢出,宜因戒嚴,掩取其易。」

益州刺史の王濬が上疏した。「孫皓が死んで賢主が立てば、孫呉は強くなる。私は7年も造船してきた。70歳となり、私はいつでも死にそう」という。司馬炎は平呉を決めた。このとき、安東將軍の王渾が「孫皓が北上する」と報告したから、国境を守りつつ、翌年に出兵すると決めた。王濬の參軍する何攀が上洛して、「孫皓は出てこないが、国境を固めておけば、孫呉を抑えるのは容易なことだ」と上疏した。

杜預上表曰:「自閏月以來,賊但敕嚴,下無兵上。以理勢推之,賊之窮計,力不 兩完,必保夏口以東以延視息,無緣多兵西上,空其國都。而陛下過聽,便用委棄大計, 縱敵患生,誠可惜也。向使舉而有敗,勿舉可也。今事為之制,務從完牢,若或有成, 則開太平之基,不成不過費損日月之間,何惜而不一試之!若當須後年,天時人事,不 得如常,臣恐其更難也。今有萬安之舉,無傾敗之慮,臣心實了,不敢以暖昧之見自取 後累,惟陛下察之。」

杜預が上表した。「今年の閏7月から、孫呉の兵は、建業から淮水や襄水を攻めるために、長江を下った。孫呉は少ない兵力を、夏口に集中させた。夏口より東は、死んだも同然だ。多くの兵を西上させ、国都がガラ空きだ。いまがチャンスだ」と。

旬月未報,預復上表曰 (中略)。帝 方與張華圍棋,預表適至,華推枰斂手曰:「陛下聖武,國富兵強,吳主淫虐,誅殺賢 能。當今討之,可不勞而定,願勿以為疑!」帝乃許之。以華為度支尚書,量計運漕。 賈充、荀勖、馮紞爭之,帝大怒,充免冠謝罪。僕射山濤退而告人曰:「自非聖人,外 寧必有內憂,今釋吳為外懼,豈非算乎!」

旬月たっても司馬炎が返信しないので、ふたたび杜預が上表した。杜預の上書がきたとき、司馬炎は張華と囲棋をする。張華が勧めたから、司馬炎は決心した。司馬炎は、張華を度支尚書として、運漕を量計させる。 賈充、荀勖、馮紞が反対したので、司馬炎が大怒した。賈充は免冠して謝罪した。僕射の山濤は退き、「孫呉の外憂がなくなれば、西晋の内憂がおこる」という。

胡三省はいう。『左伝』晋太傅の范文子の言葉。山濤は大臣のだから、朝廷のなかでこれを言うのを遠慮した。伐呉に反対した、賈充らが内憂を起こすと考えた。


冬、伐呉に出陣し、馬隆が樹機能を斬る

冬,十一月,大舉伐吳,遣鎮軍將軍琅邪王人由出塗中,安東將軍王渾出江西,建 威將軍王戎出武昌,平南將軍胡奮出夏口,鎮南大將軍杜預出江陵,龍驤將軍王濬、巴 東監軍魯國唐彬下巴、蜀,東西凡二十餘萬。命賈充為使持節、假黃鉞、大都督,以冠 軍將軍楊濟副之。充固陳伐吳不利,且自言衰老,不堪元帥之任。詔曰:「君若不行, 吾便自出。」充不得已,乃受節鉞,將中軍南屯襄陽,為諸軍節度。

冬11月、大挙して伐呉する。鎮軍將軍する瑯邪王の司馬伷は、塗中にでる。安東將軍の王渾は江西にでる。建 威將軍の王戎は武昌にでる。平南將軍の胡奮は夏口にでる。鎮南大將軍の杜預は江陵にでる。龍驤將軍の王濬と、巴 東監軍する魯國の唐彬は、巴蜀をくだる。東西に20余万。賈充に命じて、使持節、假黃鉞、大都督させ、冠軍將軍の楊濟を賈充の副官とする。賈充がこばむと、司馬炎が「ならば私がゆく」というから、賈充は節鉞を受けた。賈充は中軍をひきい、南して襄陽に屯する。諸軍の節度をした。

胡三省はいう。曹丕は曹真を都督中外諸軍事として、黄鉞を仮した。曹叡の太和4年、司馬懿が蜀を征すると、大都督を加号した。これらが魏制である。周武王が殷紂王をうつとき、黄鉞をついた。黄鉞は天子の道具である。だから人臣が使うときは「仮」となる。


馬隆西渡溫水,樹機能等以眾數萬據險拒之。隆以山路狹隘,乃作扁箱車,為木屋, 施於車上,轉戰而前,行千餘里,殺傷甚眾。自隆之西,音問斷絕,朝廷憂之,或謂已 沒。後隆使夜到,帝撫掌歡笑,詰朝,召群臣謂曰:「若從諸卿言,無涼州矣。」乃詔 假隆節,拜宣威將軍。隆至武威,鮮卑大人猝跋韓且萬能等帥萬餘落來降。
十二月,隆 與樹機能大戰,斬之,涼州遂平。

武威太守の馬隆は、温水を西にわたる。

武威の東に温囲水がある。

樹機能は数万で、馬隆をふせぐ。馬隆は山道が狭いので、ハコ車をつくる。馬隆の音信がないので、朝廷は馬隆が死んだと思った。馬隆の使者が京師にくると、司馬炎は笑って「もし馬隆が死ねば、西晋は涼州を失うよ」という。司馬炎は馬隆を、假節、宣威將軍とした。
12月、馬隆は樹機能を斬った。ついに涼州が平らいだ。

ぼくは思う。これで、賈充らが「平呉は時期尚早。なぜなら涼州が治まらないから」というロジックを使えなくなった。まあすでに賈充は、襄陽に出陣したあとですが。まさに、時機が到来したという感じ。


傅咸と荀勖が、官僚を半減させたい

詔問朝臣以政之損益,司徒左長史傅鹹上書,以為:「公私不足,由設官太多。舊 都督有四,今並監軍乃盈於十;禹分九州,今之刺史幾向一倍;戶口比漢十分之一,而 置郡縣更多;虛立軍府,動有百數,而無益宿衛;五等諸侯,坐置官屬;諸所廩給,皆 出百姓。此其所以困乏者也。當今之急,在於並官息役,上下務農而已。」鹹,玄之子 也。

詔して、朝臣に政事の損益を問うた。司徒左長史の傅鹹が上書した。

『晋書』はいう。司徒には左右長史を1人ずつ加える。

「官僚がおおい。かつて都督は4つだったが、いま監軍をあわせると10に満ちる。

胡三省はいう。魏初に都督諸軍をおいた。東と南は孫呉、西は蜀漢、北は胡族であり、長官の資望によって、征鎮安平の将軍号をつけた。のちにふえた。都督鄴城守諸軍、都督秦雍涼諸軍、都督梁益諸軍、都督荊州諸軍、都督揚州諸郡、都督徐州諸軍、都督淮北諸軍、都督豫州諸軍、都督幽州諸軍、都督并州諸軍で、10である。長官の資望が軽いときは「監」とされた。

禹は9州に分けたが、いま刺史は2倍もいる。戸数は漢代の10分の1である。

胡三省が18州をのせる。はぶく。前漢の元始のとき、民戸は1323万だった。人口は5919万だった。これが漢代の最盛期だ。桓帝の初、戸数は2607万、人口は5007万だ。曹魏が蜀漢をあわせたとき、蜀漢の民戸は94万、人口は537万だった。蜀漢だけでも、いちおう漢代の10分の1の人口がいるのだから、戸数が減ったのだろうか。
ぼくは思う。誇張じゃないのか。前漢と後漢で、あんまり人口が変わってないのに、戸数が2倍になっている。小家族化が進んだのか。よくわからん。

郡県がおおくおかれ、軍府がされ、ややすると1百を数えるが、宿衛は増えない。五等の諸侯は、官属をもつ。

胡三省は官属をもてる官名をあげる。はぶく。中華書局2560頁。

支給される官禄は百姓から出た者である。官僚を減らして、上下とも農業に務めるべきである」と。傅咸は傅玄の子である。

ぼくは思う。人口が少なくて、官僚がおおいのは、蜀漢である。蜀漢と同じ傾向が、西晋でも、つまり曹魏でも起きていたのか。蜀漢を吸収したせいで、この傾向がさらに進んでしまった。司馬炎は「気前のよい」君主だから、官爵も俸禄もバラまく。しかしその原資は百姓にあるのだと、いま傅咸が指摘した。贈与のサイクルが回ってないよ、司馬炎は百姓から受け取りっぱなしだよ、という話。退蔵したら、威信が失墜するんだよ。


時又議省州、郡、縣半吏以赴農功,中書監荀勖以為:「省吏不如省官,省官不如 省事,省事不如清心。昔蕭、曹相漢,載其清靜,民以寧壹,所謂清心也。抑浮說,簡 文案,略細苛,宥小失,有好變常以徼利者,必行其誅,所謂省事也。以九寺並尚書, 蘭台付三府,所謂省官也。若直作大例,凡天下之吏皆減其半,恐文武眾官,郡國職業, 劇易不同,不可以一概施之。若有曠闕,皆須更復,或激而滋繁,亦不可不重也。」

ときにまた、州郡県をはぶき、半分の吏を帰農させる議論があった。中書監の荀勖はいう。「吏人を減らすより、その上司である官人を減らすほうが良い。官人を減らすより、政事を減らすほうが良い。政事を減らすより、心を清めるほうがよい。むかし蕭何や曹参は、民を安らげ、心を清めた。政事の手続を、簡潔にするのがよい。九卿の役所は、尚書にあわせよ。御史台は、三公府にあわせよ。これが官人を減らすことだ。この変更は大きなことだ。天下の吏人が半減すれば、官職や職業が大きく変わる。慎重に検討せよ」と。121123

ぼくは思う。官爵のデフレ政策。司馬炎とは正反対の方向だなあ。けっきょく、ぼくらが「1円札」に戻れないようにね、今さら前漢に戻して、官爵をデフレさせることは、できないだろう。いちど乗りかかった資本主義からの脱却は、よほど難しいのと同じだ。荀勖の議論を実現するためには、以下の状況になる必要がある。
「皇帝による統治を効果的に効率的におこなうため、官爵を発明し、加速的にインフレさせてきた。しかし、官爵を媒介にしないほうが、皇帝による統治がうまくいくなあ!」とね。どういう状況なんだろうか。
ぼくが思うに、これは「人間の経済活動を効果的に効率的におこなうため、市場と貨幣を発明した。しかし、市場と貨幣を媒介にしないほうが、人間の経済活動がうまくいくなあ!」という状況を作り出すことに似てる。ネットのおかげで「二重の欲望の一致」が非現実的じゃなくなり、市場と貨幣を「面倒くさい」という若者が出てきたらしい。荀勖も同じようなことを目指す必要がある。同一の構造のなかで、ただデフレさせるだけでは、かえって混乱する。そして時間とともにインフレして、リバウンドする。
「改善をやめると、原価は自然にあがる」というが、これは人間が怠惰だからではない。むしろ人間が1つのことをやっていれば、いろいろ手を加えたくなり、要らんことをしたくなり、原価があがるんだ。確かに給与のベースアップが原価をあげるのかも知れない。もちろんベースアップは、疑問の余地がなく、原価をあげる要因である。だがぼくは、それだけじゃないと思う。人間の本性は、イランコトシイだと思う。これが貨幣をインフレさせ、官爵をインフレさせ、製品の仕様や装飾をインフレさせる。このインフレを止めるのは、異なる価値の軸で、もっと楽しく「要らんことをできる」遊びの場を提供してあげることだと思う。『通鑑』の注釈でも何でもなくなった!

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