表紙 > 和訳 > 『資治通鑑』巻79、265-272年を抄訳

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泰始元年(乙酉,公元265年)

孫皓が孫休の子を殺し、司馬昭が死ぬ

春,三月,吳主使光祿大夫紀陟、五官中郎將洪璆與徐紹、孫彧偕來報聘。紹行至 濡須,有言紹譽中國之美者,吳主怒,追還,殺之。
夏,四月,吳改元甘露。 五月,魏帝加文王殊禮,進王妃曰後,世子曰太子。 癸未,大赦。
秋,七月,吳主逼殺景皇後,遷景帝四子於吳;尋又殺其長者二人。 八月,辛卯,文王卒,太子嗣為相國、晉王。 九月,乙未,大赦。 戊子,以魏司徒何曾為晉丞相;癸亥,以驃騎將軍司馬望為司徒。 乙亥,葬文王於崇陽陵。

春3月、孫皓は、光祿大夫の紀陟、五官中郎將の洪璆に、徐紹と孫彧を応対させた。徐紹らは濡須にいたり、曹魏をほめた。孫皓は怒り、徐紹らを殺した。

ぼくは思う。けっきょく司馬昭がオトナで、孫皓はコドモであることが暴露された。もし司馬昭が生きていたら、司馬炎のときのように伐呉の議論が膨らまず、すっきり決まったのだろう。

夏4月、孫呉は甘露と改元した。5月、曹奐は文王殊禮をくわえて、司馬昭の妃を后とした。世子を太子とした。

胡三省はいう。文王殊禮とは、(司馬昭の) 旌旗、車馬、楽舞、冕服を、皇帝と同じようにすることである。

5月癸未、大赦した。
秋7月、孫皓は景皇后の朱氏を殺した。孫休の子の4子を呉郡に遷した。年長の2子を殺した。

胡三省はいう。前年に朱太后を景皇后におとし、孫休の4子を王に封じた。ぼくは思う。皇后におとし、孫湾らを王に封じたのは、段階的に殺す準備だったのか。ちょっと性急だなあ。「頭が良い」と性急になるからなあ。

8月辛卯、司馬昭が卒した。司馬炎が、相國、晉王となる。
9月乙未、大赦した。9月戊子、曹魏の司徒の何曾を、晋室の丞相とした。9月癸亥、驃騎將軍の司馬望が司徒となる。9月乙亥、司馬昭を崇陽陵に葬る。

『通鑑考異』はいう。『晋書』文帝紀では、癸酉とする。いま『三国志』陳留王紀にしたがう。


冬、孫皓が武昌に遷都し、魏晋革命がある

冬,吳西陵督步闡表請吳主徙都武昌;吳主從之,使御史大夫丁固、右將軍諸葛靚 守建業。闡,騭之子也。
十二月,壬戌,魏帝禪位於晉;甲子,出捨於金墉城。太傅司馬孚拜辭,執帝手, 流涕歔欷不自勝,曰:「臣死之日,固大魏之純臣也。」丙寅,王即皇帝位,大赦,改 元。丁卯,奉魏帝為陳留王,即宮於鄴;優崇之禮,皆仿魏初故事。魏氏諸王皆降為候。

冬、孫呉の西陵督の步闡は、武昌に都せよと上表した。孫皓は遷都した。御史大夫の丁固、右將軍の諸葛靚に、建業を守らせた。歩闡とは歩隲の子である。

胡三省はいう。西陵とは夷陵である。孫権の黄武元年、夷陵を西陵とした。宜都郡の郡治とした。
胡三省はいう。孫権のとき、歩隲は西陵督となった。ぼくは思う。わりに役割が親子で継承される。兵を継承することができ、管轄する城を継承することができれば、それは「独立勢力」である。

12月壬戌、曹奐は司馬炎に禅譲した。

胡三省はいう。曹奐は20歳。曹丕が禅譲を受けてから、5世46年だった。

甲子、曹奐は金墉城(洛陽の西北)にゆく。太傅の司馬孚は、曹奐の手をとり、「私は死ぬまで大魏の純臣」という。丙寅、司馬炎は即位、大赦して、泰始と改元した。丁卯、曹奐を陳留王として、鄴県にゆかす。魏氏の諸王は、侯爵におとす。

追尊宣王為宣皇帝,景王為景皇帝,文王為文皇帝。尊王太后曰皇太后。封皇叔祖父孚 為安平王,叔父干為平原王、亮為扶風王、由為東莞王、駿為汝陰王、肜為梁王、倫為 琅邪王,弟攸為齊王、鑒為樂安王、機為燕王,又封群從司徒望等十七人皆為王。以石 苞為大司馬,鄭沖為太傅,王祥為太保,何曾為太尉,賈充為車騎將軍,王沈為驃騎將 軍。其餘文武增位進爵有差。乙亥,以安平王孚為太宰,都督中外諸軍事。未幾,又以 車騎將軍陳騫為大將軍,與司徒義陽王望、司空荀顗,凡八公,同時並置。帝懲魏氏孤 立之敝,故大封宗室,授以職任,又招諸王皆得自選國中長吏;衛將軍齊王攸獨不敢, 皆令上請。

司馬懿を宣皇帝、司馬師を景皇帝、司馬昭を文皇帝とする。叔祖父の司馬孚を安平王、叔父の司馬幹を平原王、司馬亮を扶風王、司馬由を東莞王、司馬駿を汝陰王、司馬肜を梁王、司馬倫を琅邪王、弟の司馬攸を齊王、司馬鑒を樂安王、司馬機を燕王とする。司徒望ら17人を王とする。

胡三省はいう。司馬望は司馬孚の子である。諸王を封じて、郡を国とした。邑2万戸を大国として、上中下の3軍をおき、兵5千人。1万戸を次国として、上下2軍をおき、兵3千人。5千戸を小国として、兵5百人。王は国にゆかず京師にいた。

ぼくは思う。大国と小国を比べると。戸数は4倍だけど、兵は10倍ちがう。

石苞を大司馬、鄭沖を太傅、王祥を太保、何曾を太尉とした。賈充を車騎將軍、王沈を驃騎將軍とした。12月乙亥、安平王の司馬孚を太宰とし、都督中外諸軍事させた。

胡三省はいう。『晋書』はいう。太宰、太傅、太保は、周制の三公である。晋初、司馬師のいみなを避けて、周官から名をとり、太師でなく太宰をおく。秩禄は三公より増やして、太傅、太保と同じで、上公である。大司馬は、古官である。漢制では、大将軍、驃騎将軍の上であった。太尉の職掌に代わった。ゆえに大司馬は、太尉と並列しない。曹魏には太尉があるが、大司馬と大将軍が設置され、三公の上であった。晋制は魏制をつぐ。太宰、太傅、太保、司徒、司空が、文官の公官である。左右光禄大夫がある。光禄大夫で開府する者は、従公である。大司馬、大将軍、太尉は武官の公官である。驃騎、車騎、衛将軍などの将軍号に「大」がつくと、従公である。

すぐに、車騎將軍の陳騫を大將軍として、司徒の司馬望、司空の荀顗とともに8公とする。魏制で皇族が孤立したので、皇族を官位につけた。諸王は、みずから國中の長吏を選べた。衛將軍の司馬攸は、長吏を自分で選ばず、上請させた。

詔除魏宗室禁錮,罷部曲將及長吏納質任。
帝承魏氏刻薄奢侈之後,欲矯以仁儉,太常丞許奇,允之子也,帝將有事於太廟, 朝議以奇父受誅,不宜接近左右,請出為外官;帝乃追述允之夙望,稱奇之才,擢為祠 部郎。有司言御牛青絲紖斷,詔以青麻代之。
初置諫官,以散騎常侍傅玄、皇甫陶為之。玄,干之子也。玄以魏末士風頹敝,上 疏曰 (中略)。上嘉納其言,使玄草詔進之,然亦不能革也。

曹魏の宗室から禁錮を解く。部曲將と長吏の人質を辞める。

胡三省はいう。魏室は、皇族が権力をもたぬように、禁錮した。官位にもつけない。いまこれを除いた。また、各軍にいる部曲将や、州郡に仕える長吏は、任子を洛陽においた。これを辞めた。
ぼくは思う。州郡の長吏って、なんだろう。太守や県令にこそ、任子を取りたい気がするが、そうではないよね。それなら「州郡に仕える長吏」なんて書かない。司馬炎がこれを緩めたのは「曹魏がきつすぎる」ことの反映だろう。

司馬炎は、魏代の刻薄で奢侈な風潮をうけて、矯正しようとした。太常丞の許奇は、許允の子である。

胡三省はいう。西晋の太常、光禄勲、衛尉、太僕、廷尉、大鴻臚、宗正、大司農、少府、将作大匠、太后三卿、大長秋は、みな列卿である。

司馬炎が太廟に事えるとき、朝議は「(正元元年に)誅された許允の子を近づけるな。外官に出せ」という。だが司馬炎は、許允の宿望と、許奇の才能を買って、 許奇を祠部郎に抜擢した。牛を御する青い糸が切れるので、青い麻ヒモにかえた。

ぼくは思う。司馬炎の代になれば、司馬師と司馬昭のころに、司馬氏に対抗した者の子孫たちも、とりこむ段階なのか。もう天子だからね。権臣の権力争いの続きを、司馬氏が引き受けていてはいけない。しかし、誅された「許允の宿望」を認めるのは、度量がおおきいなあ。

はじめ諫官をおく。散騎常侍の傅玄と、皇甫陶がつく。

胡三省はいう。秦漢では諫大夫がいた。後漢には諌議大夫がいた。曹魏では置かない。晋代は、散騎常侍が諫める役割を果たした。

傅玄は傅幹の子である。傅玄が、魏代の頹敝した風潮を改めよと上疏した。だが風潮は改まらず。121118

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泰始二年(丙戌,公元266年)

春、司馬炎が七廟を祭り、晋呉が断絶する

初,漢征西將軍司馬鈞生豫章太守量,量生穎川太守俊,俊生京兆尹防,防生宣帝。 春,正月,丁亥,即用魏廟祭征西府君以下並景帝凡七室。 辛丑,尊景帝夫人羊氏曰景皇後,居弘訓宮。 丙午,立皇後弘農楊氏;後,魏通事郎文宗之女也。
群臣奏:「五帝即天帝也,王氣時異,故名號有五。自今明堂、南郊宜除五帝座。」 從之。帝,王肅外孫也,故郊祀之禮,有司多從肅議。

後漢の安帝のころ、征西將軍の司馬鈞がいた。司馬鈞は、豫章太守の司馬量をうむ。司馬量は、穎川太守の司馬俊をうむ。司馬俊は、京兆尹の司馬防をうむ。司馬防は司馬懿をうむ。春正月丁亥、魏廟をもちいて、征西府君の司馬鈞より以下、司馬師をくわえて七廟をつくる。

沈約はいう。7廟とは、司馬鈞、司馬量、司馬俊、司馬防、司馬懿、司馬師、司馬昭である。このとき司馬懿までしか帝位がないので、司馬防より上は「虚位」である。6世代に司馬師をくわえて、7廟とした。王粛の礼制にしたがう。
ぼくは思う。はじめの司馬鈞は、後漢の安帝期の征西将軍。『通鑑』115年に登場する。7代ってすごく長い気がするが、150年なのね。司馬師と司馬昭は兄弟だけど、割算すると1世代が20年強。あってるか。

辛丑、司馬師の夫人の羊氏を景皇後として、弘訓宮に住ます。丙午、弘農の楊氏を司馬炎の皇后とする。曹魏の通事郎した楊文宗の娘である。

魏初の黄初はじめ、中書にはすでに監と令がおかれた。また通事郎もおかれた。ぼくは思う。楊脩との関係はどんなだろう。

群臣は上奏した。「五帝は天帝である。王氣は時に異なる。ゆえに名號は5つある。今より明堂、南郊で、五帝座を除すべきだ」という。司馬炎は王粛の外孫である。ゆえに郊祀之禮は、王粛の学説にしたがう。

胡三省がここから、『周礼』では、、とかいう。はぶく。中華書局2495頁。


二月,除漢宗室禁錮。三月,戊戌,吳遣大鴻臚張儼、五官中郎將丁忠來吊祭。
吳散騎常侍廬江王蕃,體氣高亮,不能承顏順指,吳主不悅,散騎常侍萬彧、中書 丞陳聲從而譖之。丁忠使還,吳主大會群臣,蕃沉醉頓伏。吳主疑其詐,輿蕃出外。頃 之,召還。蕃好治威儀,行止自若。吳主大怒,呵左右於殿下斬之,出,登來山,使親 近擲蕃首,作虎跳狼爭咋嚙之,首皆碎壞。
丁忠說吳主曰:「北方無守戰之備,弋陽可襲而取。」吳主以問群臣,鎮西大將軍 陸凱曰:「北方新並巴、蜀,遣使求和,非求援於我也,欲蓄力以俟時耳。敵勢方強, 而欲徼幸求勝,未見其利也。」吳主雖不出兵,然遂與晉絕。凱,遜之族子也。

2月、漢の宗室を禁錮から解く。

胡三省はいう。曹魏は劉氏を禁錮した。
ぼくは思う。曹魏の歴史だけ見ていると、あまり目立たないが。曹魏は、わりにエゲツナイことをしている。西晋がそれを解除して初めて、気づく。しかしねえ、後漢末にあれだけ混乱して、しかも呉蜀が残ったのだから、かなり注意深く締めつけないと、秩序が保てなかったのも事実だろう。西晋がゆるくできるのは、曹魏のあとの王朝だからだ。

3月戊戌、孫呉は、大鴻臚の張儼、五官中郎將の丁忠を、吊祭に来させた。

胡三省はいう。司馬昭の喪の使者である。ぼくは思う。大鴻臚のような、中央の九卿が、ほいほい出かけてしまうほど、孫呉にとって西晋は重要な交際相手である。

孫呉の散騎常侍する廬江の王蕃は気が強くて、孫皓と衝突した。散騎常侍の萬彧、中書 丞の陳聲は、孫皓に迎合して、王蕃をそしる。丁忠が司馬昭の弔問から還ると、群臣があつまる。この場で孫皓は王蕃を斬って、武昌の南にある来山で、王蕃の死体を虎に食わせた。
弔問から還った丁忠は、孫皓にいう。「西晋は防備がない。弋陽郡(漢代の汝南)なら、奪える」と。鎮西大將軍の 陸凱が反対した。「西晋は蜀漢をあわせた。この孫呉に和を求めたのは、孫呉に救援を求めたのでなく、時間を稼ぐためである。敵は強いから、弋陽を攻めても奪えない」と。孫皓は出兵はしないが、西晋と断絶した。陸凱は陸遜の族子である。

ぼくは思う。魏晋革命があったから、孫呉は中原の勢力と、もういちど関係性を結び直す必要があったのね。曹魏とは敵対していたが、司馬氏と敵対するとは限らない。天下の情勢がかわるチャンスだったなあ。孫休がタイミングよく死んだことに、孫湾が天子になれなかったことに、なにか関係が、、ないよなあ。笑


夏、司馬炎が3年喪をやり、孫皓が贅沢する

夏,五月,壬子,博陵元公王沈卒。 六月,丙午晦,日有食之。
文帝之喪,臣民皆從權制,三日除服。既葬,帝亦除之,然猶素冠疏食,哀毀如居 喪者。 秋,八月,帝將謁崇陽陵,群臣奏言,秋暑未平,恐帝悲感摧傷。帝曰:「朕得 奉瞻山陵,體氣自佳耳。」又詔曰:「漢文不使天下盡哀,亦帝王至謙之志。當見山陵, 何心無服!其議以衰絰從行。群臣自依舊制。」尚書令裴秀奏曰:「陛下既除而復服, 義無所依;若君服而臣不服,亦未之敢安也。」詔曰:「患情不能跂及耳,衣服何在! 諸君勤勤之至,豈苟相違。」遂止。

夏5月壬子、博陵元公の王沈が卒した。
6月丙午みそか、日食がある。司馬昭の服喪につき、臣民は従来からの制度どおり3日ですませた。司馬昭を葬ると、司馬炎は服喪をやめた。だが、移植は喪中のようである。
秋8月、司馬炎は崇陽陵にゆく。群臣は「秋だが暑い。司馬炎は体調をくずす」と心配した。司馬炎はいう。「前漢の文帝が、服喪の短縮を定めた。群臣は短縮してよいが、私は哀しみを尽くす」と。尚書令の裴秀は「もう服喪の終了を宣言したじゃん。臣下が困るんですけど」と反論した。司馬炎は「気持ちの問題で、服装の問題じゃない。服装を通常に戻しても、哀しいものは哀しい」という。

中軍將軍羊祜謂傅玄曰:「三年之喪,雖貴遂服,禮也,而漢文除之,毀禮傷義。 今主上至孝,雖奪其服,實行喪禮。若因此復先王之法,不亦善乎!」玄曰:「以日易 月,已數百年,一旦復古,難行也。」祜曰:「不能使天下如禮,且使主上遂服,不猶 愈乎!」玄曰:「主上不除而天下除之,此為但有父子,無復君臣也。」乃止。 戊辰,群臣奏請易服復膳,詔曰:「每感念幽冥,而不得終苴絰之禮,以為沉痛。 況當食稻衣錦乎!適足激切其心,非所以相解也。朕本諸生家,傳禮來久,何至一旦便 易此情於所天!相從已多,可試省孔子答宰我之言,無事紛紜也!」遂以疏素終三年。

中軍將軍の羊祜は傅玄にいう。「服装を通常に戻しても、至孝な司馬炎は喪礼をする。いいじゃん」と。傅玄はいう。「前漢の文帝が服喪を短縮してから、数百年たつ。いきなり戻せるか」と。羊祜はいう。「天下の全員がやらなくても、司馬炎がやりたきゃ、やらせれば」と。傅玄はいう。「司馬炎がやれば、天下の全員がやらないと都合が悪いよ」と。8月戊辰、群臣は司馬炎に「衣食をもどしてほしい」という。だが司馬炎は、3年喪をやりきった。

司馬光が意見をはさむ。3年喪をした司馬炎をほめる。


吳改元寶鼎。 吳主以陸凱為左丞相,萬彧為右丞相。吳主惡人視己,群臣侍見,莫敢舉目。陸凱 曰:「君臣無不相識之道,若猝有不虞,不知所赴。」吳主乃聽凱自視,而它人如故。 吳主居武昌,揚州之民溯流供給,甚苦之,又奢侈無度,公私窮匱。凱上疏曰 (中略)。吳主雖不悅,以其宿望,特優容之。
九月,詔:「自今雖詔有所欲,及已奏得可,而於事不便者,皆不可隱情。」 戊戌,有司奏:「大晉受禪於魏,宜一用前代正朔、服色,如虞遵唐故事。」從之。

孫呉は、寶鼎と改元する。陸凱が左丞相、萬彧が右丞相である。孫皓はひとに見られたくない。陸凱が「顔を知らないと、不慮のとき助けられん」というから、陸凱だけが孫皓を見られる。
孫皓は武昌にいる。揚州の民は、長江を遡って物資を運ばねばならない。負担がおおきい。だが孫皓は奢侈する。陸凱が20箇条を上疏した。孫皓はその内容は不快だが、陸凱は宿望があるから、特別に上疏を受けとった。

かなり昔に書いた。不幸な部下の20箇条、陸凱伝
『通鑑考異』はいう。陳寿はいう。あらかじめ荊州や揚州からきた者は、陸凱が孫皓を諫めた20箇条を読めた。ひろく議論した。おおくの人は著者が陸凱だと知らない。また文言が切直なので、孫皓に容認されないと恐れた。陸凱が病気になる。孫皓は、董朝をおくり陸凱に「20箇条を書いたのか」と聞かせ、著者が陸凱とわかった。陳寿は、これが事実だか判断しかねるが、その内容は後世の戒めとなるので、『三国志』陸凱伝に載せておくと。
司馬光は、この「著者が不明だった」という話を採用しない。

9月、司馬炎は詔した。「意見が私と違っても、隠さずに上奏せよ。諫めてね」と。9月、有司は奏した。「大晋は曹魏から受禅した。前代の正朔、服色を代えろ。虞舜が唐堯に従ったという故事のようにせよ」と。

胡三省は正朔などについて注釈する。はぶく。中華書局の2500頁。ぼくは思う。これはべつに諫めではない。「何月を年の始めとするか」などの議論は、禅譲の瞬間に決まるのでなく、このように数年をかけて作ってゆくものなのね。


冬、孫皓が荊州から建業を討伐、滕牧を殺す

冬,十月,丙午朔,日有食之。 永安山賊施但,因民勞怨,聚眾數千人,劫吳主庶弟永安侯謙作亂,北至建業,眾 萬餘人,未至三十裡住,擇吉日入城。遣使以謙命召丁固、諸葛靚,固、靚斬其使,發 兵逆戰於牛屯。但兵皆無甲冑,即時敗散。謙獨坐車中,生獲之。固不敢殺,以狀白吳 主,吳主並其母及弟俊皆殺之。初,望氣者雲:「荊州有王氣,當破揚州。」故吳主徙 都武昌。及但反,自以為得計,遣數百人鼓噪入建業,殺但妻子,云「天子使荊州兵來 破揚州賊。」

冬10月丙午ついたち、日食あり。
永安の山賊である施但は、数千をあつめて、孫皓の庶弟である永安侯の孫謙を劫して反乱した。

沈約はいう。孫呉は、烏程と余杭をわけて、永安県をたてた。太康元年、司馬炎が孫呉を平定すると、武康と改名して、呉興郡に属させた。

北は建業まで、1万余人が30里内にいて、建業に入城しようとする。孫謙は、丁固と諸葛靚に命じて、山賊の使者を斬り、牛屯(建業から21里)で迎撃した。山賊は武装しておらず、すぐに敗散した。孫謙は車中に1人でいて、生け捕られた。孫皓は、孫謙とその母や弟の孫俊を殺した。
はじめ望氣者は「荊州に王氣がある。揚州を破るだろう。」という。ゆえに孫皓は、建業から武昌に遷都した。山賊が反すると、孫皓は「望気者の予言があたった」と考え、にぎやかに建業に入城した。山賊の妻子を殺し、「荊州の天子が、揚州の賊を破った」という。

ぼくは思う。みんな諒解していることだが。野暮だけど、敢えていうと。揚州で滅ぼされるのは孫皓であり、西晋が荊州から攻めてくるのね。望気者はこれを言った。


十一月,初並圜丘、方丘之祀於南北郊。 罷山陽公國督軍,除其禁制。
十二月,吳主還都建業,使後父衛將軍、錄尚書事滕牧收留鎮武昌。朝士以牧尊戚, 頗推令諫爭,滕後之寵由是漸衰,更遣牧居蒼梧,雖爵位不奪,其實遷也,在道以憂死。 何太后常保佑滕後,太史又言中宮不可易。吳主信巫覡,故得不廢,常供養升平宮,不 復進見,諸姬佩皇後璽紱者甚眾,滕後受朝賀表疏而已。吳主使黃門遍行州郡,料取將 吏家女,其二千石大臣子女,皆歲歲言名,年十五、六一簡閱,簡閱不中,乃得出嫁。 後宮以千數,而采擇無已。

11月、はじめて圜丘と方丘之祀をあわせ、南北郊する。
山陽公國の督軍をやめて、禁制をのぞく。

胡三省が南北郊のことをいうが、はぶく。
胡三省はいう。山陽公国には、献帝がおかれた。河内の山陽県にある濁鹿城に、督軍をおいて防衛した。秦代になり、献帝の孫の劉康がついだ。人心が漢室を去って久しいので、衛兵を除いた。

12月、孫皓は建業にもどる。皇后の父である、衛將軍、錄尚書事の滕牧を、武昌に留鎮させる。

『通鑑考異』はいう。陸凱伝では、宝鼎元年12月、陸凱と丁奉、丁固は、孫皓が謁廟するときに、孫皓を廃して、孫休の子を立てようとする。ときに左将軍の留平が前駆するので、陸凱らは留平に説明をしたら、留平から孫皓にモレた。司馬光が思うに、陸凱は尽忠だから、こんなことしない。留平は庸人だから、もし孫皓が留平から「陸凱が謀反だ」と聞いても、信じないだろう。

朝士は滕牧を通じて、孫皓への諫めを伝えた。ゆえに滕皇后への寵愛がおとれた。滕牧は、爵位がそのままに蒼梧に遷された。何太后(孫皓の母) は滕皇后をたすけ、また太史も「中宮を変えるな」という。孫皓は巫覡を信じるので、滕皇后を変えない。孫皓は、何太后を升平宮に住まわせ、もう会わない。皇后の璽紱をもつ諸姫がたくさんいて、滕皇后は朝賀の文書を受けるだけ。

ぼくは思う。孫皓は滕皇后を廃することができないから、その代わりに、反対者の母を遠ざけ、皇后の璽紱をバラまき、相手をする女をふやした。滕皇后の影響力をそぐという意味では、理屈には適っている。

孫皓は、黃門を州郡にゆかせ、将吏や太守の子女を上納させた。女は15歳になると、いちど孫皓の審査があり、これに選ばれないと、嫁ぐことが許された。後宮には数千があふれた。121118

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泰始三年(丁亥,公元267年)

春、司馬炎が山濤を甘やかす、不適な判決

春,正月,丁卯,立子衷為皇太子。詔以「近世每立太子必有赦,今世運將平,當 示之以好惡,使百姓絕多幸之望。曲惠小人,朕無取焉!」遂不赦。
司隸校尉上黨李喜劾奏故立進令劉友、前尚書山濤、中山王睦、尚書僕射武陔各佔 官稻田,請免濤、睦等官,陔已亡,請貶其謚。詔曰:「友侵剝百姓以謬惑朝士,其考 竟以懲邪佞。濤等不貳其過,皆勿有所問。喜亢志在公,當官而行,可謂邦之司直矣。 光武有雲:『貴戚且斂手以避二鮑。』其申敕群寮,各慎所詞,寬宥之恩,不可數遇 也!」睦,宣帝之弟子也。

春正月丁卯、司馬衷を皇太子とする。詔して「近年、太子を立てると恩赦する前例があるが、平和な時期には適切でない」と。恩赦せず。

胡三省はいう。漢高祖は太子を立てると、有罪を赦した。文帝、景帝、武帝が太子を立てると、民爵をたまわる。宣帝は大赦し、元帝は民爵をたまう。光武帝は劉彊をたてると、天下を赦した。太子を劉陽にかえたときと、明帝、章帝は赦さず。曹丕と曹叡は、病気になってから立太子したので、次代の即位といっしょに大赦した。司馬炎はこの前例を改めた。
ぼくは思う。諸葛亮は少ししか大赦せず、蒋琬や費禕になって大赦があった。大赦に訴えずに治まるから、諸葛亮は優れた政治家である。という評価がある。どうやら大赦と民爵を賜うことは、同種の施策のようだ。天子から民への贈与だなー。

司隸校尉する上黨の李喜は、もと立進令の劉友、さきの尚書の山濤、中山王の司馬睦、尚書僕射の武陔が、官有の稲田を占有したと劾奏した。李喜は、山濤と司馬睦を免官し、すでになき武陔は諡号を貶めよという。 司馬炎は詔した。「劉友はすでに罰した。山濤は見のがせ。李喜はすばらしい官僚だ」と。司馬睦は、司馬懿の弟の子である。

司馬光はいう。政治の根本は刑賞である。司馬炎は執政の開始直後から、2つのミスをした。山濤をゆるし、李喜をほめたのがおかしい。もし李喜をほめるなら、山濤を罰せよ。李喜をほめつつ、李喜の意見を採用しないなら、臣下に怨まれる。また、賤しい劉友は罰して、貴い山濤を赦すのは、良くない。

司馬炎は、李喜を太子太傅とした。犍為の李密を太子洗馬とした。李密は「老いた祖母の面倒を見るため、離れたくない」と断った。李密が政治の議論をすると、司馬炎を切責した。李密は「私はつるまない」という。

ぼくは思う。後漢末に出仕をことわる名士たちがいるが、李密は同じだろう。司馬炎が、山濤をあやまかし、李喜を口先だけでほめた記事のあと、この李密による拒絶がある。司馬炎を見限った人物がいるということ。
胡三省が洗馬について注釈する。はぶく。

孫呉が大赦して、右丞相の萬彧を巴丘に鎮させた。

夏、孫皓が昭明宮を建て、華覈が諫める

夏,六月,吳主作昭明宮,二千石以下,皆自入山督伐木。大開苑囿,起土山、樓 觀,窮極伎巧,功役之費以億萬計。陸凱諫,不聽。中書丞華覈上疏 (中略)。時吳俗奢侈,覈又上疏曰: 「今事多而役繁,民貧而俗奢,百工作無用之器,婦人為綺靡之飾,轉相仿效,恥獨無 有。兵民之家,猶復逐俗,內無甔石之儲而出有綾綺之服,上無尊卑等級之差,下有耗 財費力之損,求其富給,庸可得乎?」吳主皆不聽。

夏6月、孫皓は昭明宮をつくる。2千石より以下、みな自ら山に入って材木を伐採する。土木工事のコストが、億万をかぞえる。陸凱が諫めてもダメ。中書丞の華覈が諫めてもダメ。孫呉の風俗は奢侈だが、華覈の諫めを孫皓は聞かない。

秋、西晋が讖緯を禁じ、孫和が現れる

秋,七月,王祥以睢陵公罷。 九月,甲申,詔增吏俸。 以何曾為太保,義陽王望為太尉,荀顗為司徒。 禁星氣、讖緯之學。
吳主以孟仁守丞相,奉法駕東迎其父文帝神於明陵,中使相繼,奉問起居。巫覡言 見文帝被服顏色如平生。吳主悲喜,迎拜於東門之外。既入廟,比七日三祭,設諸倡伎, 晝夜娛樂。是歲,遣鮮卑拓跋沙漠汗歸其國。

秋7月、睢陵公の王祥を罷じた。9月甲申、吏員の俸禄をふやした。 何曾を太保、義陽王の司馬望を太尉、荀顗を司徒とした。星氣や讖緯の学問を禁じた。

胡三省はいう。後漢より、讖緯の学問が流行した。

孫皓は、孟仁に丞相を守させ、孫和を祭らせた。巫覡は「生前のような孫和が現れた」という。孫皓は悲喜して、入廟して孫和を祭った。

ぼくは思う。西晋が「神秘的な」学問を不要とするいっぽう、孫呉は「神秘的な」現象に皇帝が狂喜する。現実から目をそむけている孫皓がバカなのでなく、孫皓ほどの窮状でも元気になれるほど、「神秘的な」現象のもつ効果はすごいと言うべきだ。

この歲、鮮卑の拓跋沙漠汗が帰国した。121119

胡三省はいう。沙漠汗は、景元2年に入質した。

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泰始四年(戊子,公元268年)

春、賈充が律令、杜預が人事考課を提出する

春,正月,丙戌,賈充等上所刊修律令。帝親自臨講,使尚書郎裴楷執讀。楷,秀 之從弟也。侍中盧珽、中書侍郎范陽張華請抄新律死罪條目,懸之亭傳以示民,從之。 又詔河南尹杜預為黜陟之課,預奏 (中略)。事竟不行。
丁亥,帝耕籍田於洛水之北。 戊子,大赦。
二月,吳主以左御史大夫丁固為司徒,右御史大夫孟仁為司空。
三月,戊子,皇太后王氏殂。帝居喪之制,一遵古禮。

春正月丙戌、賈充らは律令を提出した。司馬炎が聞く前で、尚書郎の裴楷に律令を読ませた。裴楷は、裴秀の從弟である。侍中の盧珽、中書侍郎する范陽の張華は、死罪の項目を削除したい。新しい律令を、亭にひっかけて民に示した。

胡三省はいう。賈充がつくった「律」は、漢律9章に11篇をくわえて、20篇としたもの。620条ある。律に入らないものは「令」にいれた。律と令で2926条あった。ぼくは思う。日本史はここから拝借したんだなあ。

また河南尹の杜預に、黜陟之課を検討させた。杜預が提案したが、採用されなかった。内容ははぶく。
正月丁亥、司馬炎は洛水の北で籍田を耕した。戊子、大赦した。

ぼくは思う。籍田は、曹操、曹丕、曹叡がよくやってた。

2月、孫呉では、左御史大夫の丁固を司徒に、右御史大夫の孟仁を司空とした。

ぼくは思う。御史大夫をやめたのかな。後漢とは違う制度にしてみたものの、けっきょく後漢に回帰する。もしくは、曹魏が滅びたので、「漢魏をつぐのは孫呉だ」という態度を明らかにした?

3月戊子、皇太后の王氏(司馬炎の母)が殂した。司馬炎は居喪之制を、古禮どおりにやる。

ぼくは思う。安田二郎氏によると、母の喪も3年やった。
安田二郎「西晋武帝好色攷」が暴く家族愛


夏、司馬炎が母の王元姫に3年喪する

夏,四月,戊戌,睢陵元公王祥卒,門無雜吊之賓。其族孫戎歎曰:「太保當正始 之世,不在能言之流;及間與之言,理致清遠,豈非以德掩其言乎!」
已亥,葬文明皇後。有司又奏:「既虞,除衰服。」詔曰:「受終身之愛而無數年 之報,情所不忍也。」有司固請,詔曰:「患在不能篤孝,勿以毀傷為憂。前代禮典, 質文不同,何必限以近制,使達喪闕然乎!」群臣請不已,乃許之。然猶素冠疏食以終 三年,如文帝之喪。

夏4月戊戌、睢陵元公の王祥が卒した。雜吊之賓がこない。族孫の王戎が歎じた。「太保の王祥は、正始のころ、何晏の派閥に属さなかった。王祥の発言は、理致清遠である。あに徳を以て、その言を掩(おお)うにあらざるや」

ぼくは思う。よく分からないから、書き下した。分からなかった。
胡三省はいう。王祥の行動のうち、ほめるべきは、紀母に孝行をつくして、晋王に会わなかったことだ。清談をしたことを徳といえるか。清談の禍いは、永嘉の乱までつづく。東晋になっても続く。

已亥、司馬炎の母を葬る。有司が「喪服をぬげ」というが、司馬炎は、司馬昭のときと同じように、3年喪をやった。

秋、司馬望の大軍が、寿春の石苞を討伐?

秋,七月,眾星西流如雨而隕。 己卯,帝謁崇陽陵。
九月,青、徐、兗、豫四州大水。
大司馬石苞久在淮南,威惠甚著。淮北監軍王琛惡之,密表苞與吳人交通。會吳人 將入寇,苞築壘遏水以自固,帝疑之。羊祜深為帝言苞必不然,帝不信,乃下詔以苞不 料賊勢,築壘遏水,勞擾百姓,策免其官。遣義陽王望帥大軍以征之。苞辟河內孫鑠為 掾,鑠先與汝陰王駿善,駿時鎮許昌,鑠過見之。駿知台已遣軍襲苞,私告之曰:「無 與於禍!」鑠既出,馳詣壽春,勸苞放兵,步出都亭待罪,苞從之。帝聞之,意解。苞 詣闕,以樂陵公還第。

秋7月、おおくの星が西の空でふった。己卯、司馬炎は崇陽陵に謁した。
9月、青、徐、兗、豫の4州で大水あり。

胡三省が、州の配下の郡と、州の名前の由来を記す。はぶく。ぼくは思う。隕石と洪水は、いかにも西晋が滅びそうな事件である。こわいなあ!

大司馬の石苞は、ひさしく淮南にいる。威惠は甚だ著わる。

ぼくは思う。王淩、毋丘倹、諸葛誕のつぎは石苞か。大軍が寿春に向かったから、石苞が討伐されるパターンである。心配だなあ!

淮北監軍の王琛は、石苞をにくみ、「石苞が孫呉と交通した」という。孫呉が入寇すると、石苞は堤防で水を堰きとめたので、司馬炎は石苞を疑う。羊祜が「石苞は怪しくない」というが、司馬炎は石苞を免官した。義陽王の司馬望に大軍をつけ、石苞をめす。

『通鑑考異』はいう。『晋書』武帝紀と石苞伝には、免官の年月がない。蕭方等『三十国春秋』と、杜延業『晋春秋』は、この年月におく。だからここに記事をおく。石苞伝では紀「瑯邪王の司馬伷を下邳から寿春にゆかす」とある。武帝紀では、翌年2月に司馬伷が下邳にゆく。おそらく司馬伷はまだいない。なお蕭方等とは、紀南朝梁の元帝の子である。

石苞は、河內の孫鑠を辟して掾とする。孫鑠は、汝陰王の司馬駿と仲が良い。ときに司馬駿は許昌にいる。孫鑠は司馬駿にあい、司馬炎に話を通してもらった。石苞は洛陽にゆき、樂陵公となり帰宅した。

冬、施績が江夏、万彧が襄陽を寇する

吳主出東關,冬,十月,使其將施績入江夏,萬彧寇襄陽。詔義陽王望統中軍步騎 二萬屯龍陂,為二方聲援。會荊州刺史胡烈拒績,破之,望引兵還。
吳交州刺史劉俊、大都督脩則、將軍顧容前後三攻交趾,交趾太守楊稷皆拒破之, 郁林、九真皆附於稷。稷遣將軍毛炅、董元攻合浦,戰於古城,大破吳兵,殺劉俊、脩 則,餘兵散還合浦。稷表炅為郁林太守,元為九真太守。

孫皓は東關にでた。冬10月、部将の施績が江夏に入り、萬彧が襄陽を寇する。義陽王の司馬望に、中軍步騎2萬を統べさせ、龍陂(摩陂)に屯させる。

ぼくは思う。寿春で石苞を討つべき軍が、孫皓の対策になった。さっき石苞が疑われた孫呉の入寇も、これと一連の戦役なんだろう。司馬炎は、寿春をキレイにしておかないと、孫皓の親政に堪えられないと判断したか。

江夏と襄陽に声援をおくる。たまたま荊州刺史の胡烈が施績をやぶったので、司馬望は兵が必要なくなり、兵を還した。
孫呉の交州刺史の劉俊、大都督の脩則、將軍の顧容は、3たび交趾を攻めた。交趾太守の楊稷は孫呉をやぶる。郁林と九真も、楊稷に帰属する。楊稷は、將軍の毛炅と董元に合浦を攻めさせ、合浦古城で孫呉を大破した。孫呉の交趾刺史の劉俊、大都督の脩則を殺した。孫呉の餘兵は、合浦に散る。楊稷は表して、毛炅を郁林太守、董元を九真太守とする。

ぼくは思う。楊稷は、立派な独立政権になった。
ぼくは思う。曹魏の「都督交州諸軍事」である呂興、孫呉の「交州刺史」である劉俊、孫呉の「大都督」である脩則は、いずれも魏末晋初の交州で殺された。曹魏の都督州軍事とか、孫呉の刺史や大都督が死ぬって、こわいところ!西晋は涼州刺史も死ぬ。三国が膠着した期間のほうが、まだ辺境が相対的に「安全」かも。


十一月,吳丁奉、諸葛靚出芍陂,攻合肥,安東將軍汝陰王駿拒卻之。 以義陽王望為大司馬,荀顗為太尉,石苞為司徒。

11月、孫呉の丁奉と諸葛靚は、芍陂を出て、合肥を攻める。安東將軍の汝陰王の司馬駿がこばむ。義陽王の司馬望が大司馬に、荀顗が太尉に、石苞が司徒となる。121119

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泰始五年(己丑,公元269年)

春、秦州を立て胡烈を、荊州に羊祜を配置する

春,正月,吳主立子瑾為皇太子。
二月,分雍、涼、梁州置秦州,以胡烈為刺史。先是,鄧艾納鮮卑降者數萬,置於 雍、涼之間,與民雜居,朝廷恐其久而為患,以烈素著名於西方,故使鎮撫之。
青、徐、兗三州大水。
帝有滅吳之志,壬寅,以尚書左僕射羊祜都督荊州諸軍事,鎮襄陽;征東大將軍衛 瑾都督青州諸軍事,鎮臨菑;鎮東大將軍東莞王人由都督徐州諸軍事,鎮下邳。
祜綏懷遠近,甚得江、漢之心。與吳人開布大信,降者欲去,皆聽之。減戍邏之卒, 以墾田八百餘頃。其始至也,軍無百日之糧,及其季年,乃有十年之積。祜在軍,常輕 裘緩帶,身不被甲,鈴閣之下,侍衛不過十數人。

春正月、孫皓は子の孫瑾を皇太子とする。
2月、雍州、涼州、梁州を分けて、秦州をおく。胡烈を秦州刺史とする。

胡三省が、秦州とその周囲の3州に属する郡をのせる。『晋書』地理志から引いているだけなので、はぶく。

これより先、鄧艾は鮮卑の降者を数万うけいれ、雍州と涼州のあいだにおく。漢族と鮮卑が雑居した。胡烈は西方に名声があるので、鮮卑を鎮撫させた。
青、徐、兗の3州で大水あり。
司馬炎は滅吳之志がある。2月壬寅、尚書左僕射の羊祜を、都督荊州諸軍事として、襄陽に鎮させる。征東大將軍の衛瓘を、都督青州諸軍事として、臨菑に鎮させる。鎮東大將軍の司馬伷を、都督徐州諸軍事として、下邳に鎮させる。

ぼくは思う。滅呉するには、荊州、青州、徐州の3州に配備するのね。

羊祜は、長江や漢水のあたりで人心をつかむ。羊祜が赴任したとき、備蓄は1百日もなかったが、任期の末年には10年の備蓄ができた。軽装で、侍衛は10数人でウロウロした。

濟陰太守巴西文立上言:「故蜀之名臣子孫流徙中國者,宜量才敘用,以慰巴、蜀 之心,傾吳人之望。」帝從之。己未,詔曰:「諸葛亮在蜀,盡其心力,其子瞻臨難而 死義,其孫京宜隨才署吏。」又詔曰:「蜀將傅歛父子死於其主。天下之善一也,豈由 彼此以為異哉!歛息著、募沒入奚官,宜免為庶人。」
帝以文立為散騎常侍。漢故尚書犍為程瓊,雅有德業,與立深交。帝聞其名,以問 立,對曰:「臣至知其人,但年垂八十,稟性謙退,無復當時之望,故不以上聞耳。」 瓊聞之,曰:「廣休可謂不黨矣,此吾所以善夫人也。」

濟陰太守する巴西の文立が上言した。「蜀漢の名臣の子孫で、中原に流徙した者がおおい。彼らを才能を用いて、巴蜀の心を慰め、孫呉の心を傾けよ」と。2月己未、司馬炎は「諸葛亮の孫の諸葛京を、才能に応じて署吏とせよ。傅歛の子の、傅著と傅募が奚官(捕虜)に混じっているから、庶人にもどせ」と詔した。

胡三省はいう。少府には奚官令がある。男女の没入した者が属する。曹魏より以来、鄴都には、奚官督がいた。ぼくは思う。「奚官に没する」とは、捕虜か奴隷として管理されている状態でいいのかなあ。
ぼくは思う。蜀漢を優遇することは、2つの効果があるのね。劉禅は降伏したが、巴蜀の地が懐かないので、ここを懐かせる。孫呉の人士に「孫皓から離脱しても、西晋でいい生活ができるんだ」と期待させる。後者は当然としても、前者もまた課題として認識されていたんだなあ。

司馬炎は、文立を散騎常侍とした。蜀漢のもと尚書した犍為の程瓊は、文立と交際する。司馬炎は文立に「程瓊はどんな人材か」ときく。文立はいう。「80歳になるが、時期に恵まれずに、名声が司馬炎に達しなかった人物だ」と。程瓊はこれを聞き、「友人を推薦するなんて、はしたない」と。

冬、陸凱が死に何定が勝ち、司馬衷が傅に拝す

秋,九月,有星孛於紫宮。 冬,十月,吳大赦,改元建衡。 封皇子景度為城陽王。
初,汝南何定嘗為吳大帝給使,及吳主即位,自表先帝舊人,求還內侍。吳主以為 樓下都尉,典知酤糴事,遂專為威福;吳主信任之,委以眾事。左丞相陸凱面責定曰: 「卿見前後事主不忠,傾亂國政,寧有得以壽終者邪!何以專為奸邪,塵穢天聽!宜自 改厲,不然,方見卿有不測之禍。」定大恨之。凱竭心公家,忠懇內發,表疏皆指事不 飾。及疾病,吳主遣中書令董朝問所欲言,凱陳「何定不可信用,宜授以外任。奚熙小 吏,建起浦裡田,亦不可聽。姚信、樓玄、賀邵、張悌、郭逴、薛瑩、滕修及族弟喜、 抗,或清白忠勤,或資才卓茂,皆社稷之良輔,願陛下重留神思,訪以時務,使各盡其 忠,拾遺萬一。」邵,齊之孫;瑩,綜之子;玄,沛人;修,南陽人也。凱尋卒。吳主 素銜其切直,且日聞何定之譖,久之,竟徙凱家於建安。

秋9月、星孛が紫宮にある。
冬10月、孫呉は大赦して建衡と改元した。
皇子の司馬景度を、城陽王とした。
はじめ汝南の何定は、即位前の孫皓としたしい。左丞相の陸凱は、面と向かって何定を「不忠者め」と責めた。何定は陸凱を恨んだ。陸凱は正しいことを言い、言葉を飾らない。
陸凱が病気になった。「何定と奚熙を信任するな。姚信、(沛郡の)樓玄、賀邵(賀斉の孫)、張悌、郭逴、薛瑩(薛綜の子)、(南陽の)滕修および族弟の滕喜と滕抗は、良臣だから信任せよ」と遺言した。陸凱が死んだ。
孫皓は、陸凱がうるさいので、面白くなかった。何定が陸凱をそしるので、孫皓は陸凱の家属を建安にうつした。

吳主遣監軍虞汜、威南將軍薛珝、蒼梧太守丹楊陶璜從荊州道,監軍李勖、督軍徐 存從建安海道,皆會於合浦,以擊交趾。
十二月,有司奏東宮施敬二傅,其儀不同。帝曰:「夫崇敬師傅,所以尊道重教也。 何言臣不臣乎!其令太子申拜禮。」

孫皓は、監軍の虞汜、威南將軍の薛珝、蒼梧太守する丹楊の陶璜に、荊州の陸道からゆかせる。監軍の李勖、督軍の徐存を、建安の海道からゆかせる。彼らは合浦であわさり、交趾を撃った。

胡三省はいう。荊州の道とは、嶺をこえて、交州や広州に入る道である。建安の海道とは、海路から南にゆく道である。沈約はいう。建安はもとは閩越である。以下、閩中郡の話はどこかで胡注を引用したなあ。孫策は建安12年、東侯官に建安県をたてた。

12月、有司が奏して、東宮が2人の傅を敬う作法を検討するが、議論が一致しない。司馬炎はいう。「先生を尊敬するのは重要なことだ。先生を臣とするか、臣としないか(先生が、太子の上位か下位か)は、問題ではない。太子から先に拝礼させよ」と。121119

胡三省はいう。晋制で、太子太傅は中2千石、少傅は2千石である。太子が先に拝して、あとで傅たちが答えた。ときに太子詹事をおかない。宮事の大小は、すべて2傅が担当した。ぼくは思う、、でも学問を習うのが、司馬衷じゃねえ。

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泰始六年(庚寅,公元270年)

春、丁奉が渦口をせめ、刺史の牽弘に負ける

春,正月,吳丁奉入渦口,揚州刺史牽弘擊走之。 吳萬彧自巴丘還建業。

春正月、孫呉の丁奉が渦口に入る。揚州刺史の牽弘が撃退する。

『水経注』はいう。渦水は、河南の陽武県から東南にながれ、下邳の淮陵で淮水にはいる。淮水に入るところを、渦口という。『通鑑考異』はいう。丁奉伝では、建衡元年、西晋の穀陽を攻めたとある。武帝紀にない。丁奉伝では、渦水と言わない。ひとつの出来事の記事なのか分からない。

孫呉の万彧は、巴丘から建業に還る。

夏、何定が孫呉を惑わし、秦州で胡烈が敗死

夏,四月,吳左大司馬施績卒。以鎮軍大將軍陸抗都督信陵、西陵、夷道、樂鄉、 公安諸軍事,治樂鄉。抗以吳主政事多闕,上疏曰 (中略)。吳主不納。
李勖以建安道不利,殺導將馮斐,引軍還。初,何定嘗為子求婚於勖,勖不許,乃 白勖枉殺馮斐,擅徹軍還,誅勖及徐存,並其家屬,仍焚勖屍。定又使諸將各上御犬, 一犬至直縑數十匹,纓紲直錢一萬,以捕兔供廚。吳人皆歸罪於定,而吳主以為忠勤, 賜爵列侯。陸抗上疏曰:「小人不明理道,所見既淺,雖使竭情盡節,猶不足任,況其 奸心素篤而憎愛移易哉!」吳主不從。

夏4月、孫呉の左大司馬の施績が卒した。鎮軍大將軍の陸抗に、信陵、西陵、夷道、樂鄉、 公安の諸軍事を都督させた。治所は楽郷。

『水経注』はいう、楽郷城は、南平郡の_陵県にある。楽郷の城北には、長江が砂を堆積させ、対岸まで浅くて渡れる。長江の要害の地である。宋伯はいう。楽郷は、春秋の鄀(ジャク)国の地である。

陸抗は、孫皓の政事の欠陥を上疏した。孫皓は納れず。
交趾を攻める李勖は、建安の海路で勝てない。道案内の馮斐を殺して、李勖の軍は還る。はじめ何定は、子を李勖と結婚させたい。李勖は赦さず。何定は「李勖は罪なき馮斐を殺し、かってに撤退した」という。何定のせいで、李勖と徐存は殺されて死体を焼かれ、家属も殺された。何定は、諸将に犬を提出させ、犬を着飾らせた。孫皓だけが、何定の悪さに気づかない。陸抗が諫めたが、聞かない。

ぼくは思う。蜀漢は黄皓が乱し、孫呉は何定が乱したという図式化。長々と陸凱の諫めを引用したのも、最後に陸凱が何定と対立するからだ。話がキレイにつながる。「孫皓がバカなのではない。何定がバカなのだ。バカな何定をつかう孫皓は、大バカだ」という論法。君主はつらいよ。


六月,戊午,胡烈討鮮卑禿髮樹機能於萬斛堆,兵敗被殺。都督雍、涼州諸軍事扶 風王亮遣將軍劉旂救之,旂觀望不進。亮坐貶為平西將軍,旂當斬。亮上言:「節度之 咎,由亮而出,乞丐旂死。」詔曰:「若罪不在旂,當有所在。」乃免亮官。
遣尚書樂 陵石鑒行安西將軍,都督秦州諸軍事,討樹機能。樹機能兵盛,鑒使秦州刺史杜預出兵 擊之。預以虜乘勝馬肥,而官軍縣乏,宜並力大運芻糧,須春進討。鑒奏預稽乏軍興, 檻車征詣廷尉,以贖論。既而鑒討樹機能,卒不能克。

6月戊午、胡烈は、鮮卑の禿髮樹機能を萬斛堆で討つが、胡烈が殺された。

胡三省が樹機能の家系を載せる。はぶく。萬斛堆とは、温囲水の東北であり、安定郡の高平の県境だ。ぼくは思う。秦州刺史が死んじゃった!

都督雍涼州諸軍事する扶風王の司馬亮は、將軍の劉旂に救わせるが、進めない。司馬亮は連坐して平西將軍に貶められ、劉斬を斬りそう。司馬亮は死罪を申し出たが、免官ですんだ。
尚書する樂陵の石鑒を行安西將軍として、秦州諸軍事を都督させ、樹機能を討つ。樹機能の兵は強盛である。石鑑は、秦州刺史の杜預に出兵させた。杜預は「鮮卑は馬が強く、西晋は馬が弱い。春になってから戦おう」という。石鑑は杜預が本気で戦わないので、廷尉にひきわたす。杜預は、罪をまぬがれた。石鑑は樹機能に勝てない。

胡三省はいう。杜預は公主をめとり、八議に加わるので、罪を免れたのだ。ぼくは思う。司馬亮をゆるし、杜預をゆるした。西晋は、皇族や権臣には優しいなあ。これが良いことなのか、悪いことなのか、分からんけど。


秋、

秋,七月,乙巳,城陽王景度卒。 丁未,以汝陰王駿為鎮西大將軍,都督雍、涼等州諸軍事,鎮關中。
冬,十一月,立皇子東為汝南王。

秋7月乙巳、城陽王の司馬景度が卒した。

ぼくは思う。へんな2字名の彼は、誰なんだ?

7月丁未、汝陰王の司馬駿を鎮西大將軍として、雍涼らの州諸軍事を都督させ、關中に鎮させる。
冬11月、王子の司馬東を汝南王とする。

吳主從弟前將軍秀為夏口督,吳主惡之,民間皆言秀當見圖。會吳主遣何定將兵五 千人獵夏口,秀驚,夜將妻子、親兵數百人來奔。十二月,拜秀驃騎將軍、開府儀同三 司,封會稽公。
是歲,吳大赦。 初,魏人居南匈奴五部於并州諸郡,與中國民雜居;自謂其先漢氏外孫,因改姓劉 氏。

孫皓の従弟は、前將軍の孫秀である。

胡三省はいう。孫秀は、孫権の弟の孫匡の孫である。

孫秀は夏口督である。民間では「孫秀が孫皓を倒すらしい」という。孫皓は、何定に5千をつけて、夏口をめぐらせる。孫秀はおどろき、逃げた。12月、孫秀は西晋で、驃騎將軍、開府儀同三 司にしてもらい、會稽公に封ぜられる。

胡三省はいう。孫呉の人を厚遇することで、西晋は孫呉の心をとらえようとする。

この歳、孫呉は大赦した。
はじめ曹魏は、南匈奴の5部を并州の諸郡におく。漢族と雑居する。匈奴は、漢氏の外孫だといい、劉氏に改姓した。121119

胡三省はいう。建安21年に記事がある。匈奴が置かれた県について、胡三省が注釈する。中華書局2514頁。

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泰始七年(辛卯,公元271年)

春、石鑑が首級を偽り、孫皓が讖文で雪中行軍

春,正月,匈奴右賢王劉猛叛出塞。
豫州刺史石鑒坐擊吳軍虛張首級,詔曰:「鑒備大臣,吾所取信,而乃下同為詐, 義得爾乎!今遣歸田裡,終身不得復用。」
吳人刁玄詐增讖文雲:「黃旗紫蓋,見於東南,終有天下者,荊、揚之君。」吳主 信之。是月晦,大舉兵出華裡,載太后、皇後及後宮數千人,從牛渚西上。東觀令華譖 等固諫,不聽。行遇大雪,道塗陷壞,兵士被甲持仗,百人共引一車,寒凍殆死,皆曰: 「若遇敵,便當倒戈。」吳主聞之,乃還。帝遣義陽王望統中軍二萬、騎三千屯壽春以 備之,聞吳師退,乃罷。
三月,丙戌,巨鹿元公裴秀卒。

春正月、匈奴右賢王の劉猛が、叛いて出塞した。
豫州刺史の石鑒は、呉軍からとった首級を水増したので、田里に帰され、にどと就官できなくなった。

ぼくは思う。石鑑って、奢侈する人?ちがったっけ。

吳人の刁玄は、讖文を偽作した。「天子の黃旗と紫蓋が、東南に見える。天下をとるのは、荊揚之君である」と。孫皓は信じて、正月みそか、大軍を華裡(建業の西)に出した。太后と皇後および後宮の數千人を車にのせ、牛渚(湖孰)から西上する。東觀令の華覈がいさめたが、雪のなかを行き、凍死した。孫皓はひき還した。
義陽王の司馬望が、中軍2萬と、騎3千を屯して、寿春にいる。孫皓が退いたと聞き、防備をとく。

ぼくは思う。寿春は石苞のつぎは、皇族が鎮するのね。さすが西晋。そういえば曹魏は、寿春のような要地に、1人も皇族がいなかった。これが「不自然」なのかも知れないなあ。

3月丙戌、巨鹿元公の裴秀が卒した。

夏、交趾刺史が九真を攻め、涼州刺史が敗死

夏,四月,吳交州刺史陶璜襲九真太守董元,殺之;楊稷以其將王素代之。

夏4月、孫呉の交州刺史の陶璜は、九真太守の董元を殺した。交趾のリーダーの楊稷は、その部将の王素を九真太守とした。

『通鑑考異』はいう。陶璜伝では、敵軍に不意をついて、交趾までゆくという。董元は九真太守であり、交趾にいない。『華陽国志』はいう。董元は病没した。楊稷は王素を代わりにしたと。『晋書』武帝紀では、4月に九真太守の董元が、呉将の虞汜に敗死したという。董元は病死でない。けだし楊稷は、王素を董元の後任にしようと思ったが、王素が九真に到着する前に、董元が死んだのだろう。
ぼくは思う。陶璜伝なんてあるのか!


北地胡寇金城,涼州刺史牽弘討之。眾胡皆內叛,與樹機能共圍弘於青山,弘軍敗 而死。
初,大司馬陳騫言於帝曰:「胡烈、牽弘皆勇而無謀,強於自用,非綏邊之材也, 將為國恥。」時弘為揚州刺史,多不承順騫命,帝以為騫與弘不協而毀之,於是征弘, 既至,尋復以為涼州刺史。騫竊歎息,以為必敗。二人果失羌戎之和,兵敗身沒,征討 連年,僅而能定,帝乃悔之。
五月,立皇子憲為城陽王。 辛丑,義陽成王望卒。

北地の胡族が、金城を寇した。涼州刺史の牽弘がこれを討つ。内地にいる胡族が叛いた。樹機能とともに、青山(北地郡の参䜌県)をかこむ。牽弘は敗死した。

『通鑑考異』はいう。『十六国春秋』で、禿髪伝にいう。樹機能はもとは河西の鮮卑だ。泰始のとき、秦州刺史の胡烈を殺した。涼州刺史の牽弘を斬った。『晋書』帝紀はいう。叛虜が胡烈を殺し、北地の胡族が牽弘を殺したと。司馬光が考えるに、『晋書』帝紀では、どちらも鮮卑といわない。けだし、内地の異民族が叛いたことを意味しており、鮮卑もそのなかに含まれた。あるいは北地の胡族が、樹機能のことか。

はじめ大司馬の陳騫はいう。「胡烈と牽招は、勇敢だが無謀だ。辺境でつかったら国恥となる」と。ときに牽弘は揚州刺史だった。たびたび陳騫の命令にそむいた。

胡三省はいう。ときに陳騫は大司馬として、揚州諸軍を都督した。寿春に鎮した。
ぼくは思う。刺史は、都督の命令を聞かねばならんが、そむく。これは牽弘の個人的なキャラだけでなく、職制・組織設計のせいだろう。まあ、都督と刺史を牽制させることが、設計構想の一部であれば、この対立は「好ましい」ものだが。

司馬炎は、牽弘を寿春から呼びもどし、涼州刺史とした。陳騫は「牽弘は負けるよ」と嘆息した。はたして牽弘は鮮卑に殺され、国境は定まらない。司馬炎は、陳騫の言い分を聞かず、後悔した。

ぼくは思う。後知恵、事後深刻じゃないのか? 失敗したあとに「やっぱりな」と言って出てくるヤツがいる。史料になると、厳密な前後関係が消えて、「模造記憶」のように、ゴチャゴチャになる。

5月、皇子の司馬憲を城陽王とした。5月辛丑、義陽成王の司馬望が卒した。

秋、賈充が秦涼州に飛ばされ、孫呉が交趾を平定

侍中、尚書令、車騎將軍賈充,自文帝時寵任用事。帝之為太子,充頗有力,故益 有寵於帝。充為人巧諂,與太尉、行太子太傅荀顗、侍中、中書監荀勖、越騎校尉安平 馮紞相為黨友,朝野惡之。帝問侍中裴楷以方今得失,對曰:「陛下受命,四海承風, 所以未比德於堯、舜者,但以賈充之徒尚在朝耳。宜引天下賢人,與弘政道,不宜示人 以私。」
侍中樂安任愷、河南尹穎川庾純皆與充不協,充欲解其近職,乃薦愷忠貞,宜在 東宮;帝以愷為太子少傅,而侍中如故。會樹機能亂秦、雍,帝以為憂,愷曰:「宜得 威望重臣有智略者以鎮撫之。」帝曰:「誰可者?」愷因薦充,純亦稱之。秋,七月, 癸酉,以充為都督秦、涼二州諸軍事,侍中、車騎將軍如故;充患之。

侍中、尚書令、車騎將軍の賈充は、司馬昭のときから寵任用事する。賈充の人となりは、巧諂である。太尉、行太子太傅の荀顗と、侍中、中書監の荀勖と、越騎校尉する安平の馮紞とは、賈充の黨友である。朝野は、賈充と荀顗と荀勖と馮紞とをにくむ。司馬炎は、侍中の裴楷に意見を求めた。裴楷はいう。「司馬炎は受命して堯舜のような政事をするが、賈充之徒がいかん」と。
侍中する樂安の任愷、河南尹する穎川の庾純も、賈充と仲がわるい。賈充は、任愷を侍中から外して、東宮に遷したい。司馬炎は、任愷を太子少傅としたが、侍中はもとのまま。

『晋書』はいう。侍中の任愷は、司馬炎に親敬された。少傅を領した。けだし一時之制であろう。この記事によると、賈充は任愷を皇太子につけて、遠ざけようとした。

このころ樹機能が、秦州と雍州をみだす。任愷は「賈充に平定させよう」という。庾純も合意した。秋7月癸酉、賈充は、都督秦涼二州諸軍事となり、侍中と車騎將軍はもとのまま。賈充はイヤがった。

『通鑑考異』はいう。『三十国春秋』と『晋春秋』はいう。賈充が出たのは、どちらも泰始8年2月とする。『晋書』武帝紀に従い、この月に記事をおく。けだし『三十国春秋』と『晋春秋』は、司馬衷が賈充の娘をもらった月を、賈充が出たのと誤ったか。


吳大都督薛珝與陶璜等兵十萬,共攻交趾,城中糧盡援絕,為吳所陷,虜楊稷、毛 炅等。璜愛炅勇健,欲活之,炅謀殺璜,璜乃殺之。脩則之子允,生剖其腹,割其肝, 曰:「復能作賊不?」炅猶罵曰:「恨不殺汝孫皓,汝父何死狗也!」王素欲逃歸南中, 吳人獲之,九真、日南皆降於吳。吳大赦,以陶璜為交州牧。璜討降夷獠,州境皆平。
八月,丙申,城陽王憲卒。 分益州南中四郡置寧州。 九月,吳司空孟仁卒。

孫呉の大都督の薛珝は、陶璜らと10万をひきい、交趾を攻めた。交趾は城中の食糧がなくなり、援軍がこず、孫呉に陥とされた。楊稷、毛炅らが捕らわれた。陶璜は、毛炅の勇健を愛して活かしたいが、毛炅は陶璜を殺そうとしたので、陶璜は毛炅を殺した。
脩則の子である脩允は、父の仇敵である毛炅の内臓をあばいて「これでも再び叛するか」ときく。毛炅は罵って「お前と孫皓を殺せなかったのが心残りだ」という。王素は南中ににげ、孫呉に捕らわれた。九真と日南は、みな孫呉にくだる。

『通鑑考異』はいう。いま『晋書』陶璜伝にもとづき記述したが、『漢晋春秋』は記述が整合しない。『漢晋春秋』は採用しない。中華書局2517頁に『漢晋春秋』からの引用あり。霍弋が楊稷の後ろにいたらしい。

孫呉は大赦して、陶璜を交州牧とした。陶璜は夷獠をかたづけ、州境は平らぐ。
8月丙申、城陽王の司馬憲が卒した。西晋は、益州の南中4郡を分けて、寧州とする。

胡三省はいう。寧州とは、建寧から名をとる。建寧、興古、雲南、永昌郡がある。
ぼくは思う。いま交趾が平定されたことと関係あるのか。益州の後方から手を突っこんで、交趾の楊稷をバックアップした。これが孫呉に片づけられたので、益州と寧州にキッチリ割って、静的な支配体制を整えようとした。

9月、孫呉の司空する孟仁が卒した。

冬、賈充の娘が太子妃、劉禅が死ぬ

冬,十月,丁丑朔,日有食之。
十一月,劉猛寇并州,并州刺史劉欽等擊破之。
賈充將之鎮,公卿餞於夕陽亭。充私問計於荀勖,勖曰:「公為宰相,乃為一夫所 制,不亦鄙乎!然是行也,辭之實難,獨有結婚太子,可不辭而自留矣。」充曰:「然 孰可寄懷?」勖曰:「勖請言之。」因謂馮紞曰:「賈公遠出,吾等失勢。太子婚尚未 定,何不勸帝納賈公之女乎!」紞亦然之。初,帝將納衛瓘女為太子妃,充妻郭槐賂楊 後左右,使後說帝,求納其女。帝曰:「衛公女有五可,賈公女有五不可:衛氏種賢而 多子,美而長、白;賈氏種妒而少子,丑而短、黑。」後固以為請,荀顗、荀勖、馮瓘 皆稱充女絕美,且有才德,帝遂從之。留充復居舊任。

冬10月丁丑ついたち、日食あり。
11月、劉猛が并州を寇した。并州刺史の劉欽らが撃破した。
賈充が出鎮するとき、公卿は夕陽亭(河南の城西)で見送る。荀勖は「娘を太子と結婚させれば、辺境に行かなくてすむ」という。荀勖は馮紞に「賈充が遠出すれば、私たちは失勢する」という。馮紞は同意した。
はじめ司馬炎は、衛瓘の娘を、太子妃にしたい。賈充の妻の郭槐は、楊皇后の左右に賄賂して、賈充の娘を太子妃にした。荀顗、荀勖、馮紞が「賈充の娘は美しく才がある」というから、司馬炎は従った。賈充は旧任に留まった。

胡三省はいう。賈皇后が西晋を乱す原因である。
ぼくは思う。失敗するときは、とことん失敗させるように伏線をはる。荀顗たちが、はたしてどれほど邪悪だったのか、よく分からない。おそらく賈充も含めて「清流」の空気があったのだろう。だが、賈充の娘のせいで、悪者をひきうけた。


十二月,以光祿大夫鄭袤為司空,袤固辭不受。 是歲,安樂思公劉禪卒。 吳以武昌都督廣陵范慎為太尉。右將軍司馬丁奉卒。 吳改明年元曰鳳凰。

12月、光祿大夫の鄭袤を司空としたが、固辞された。
この歳、安樂思公の劉禪が卒した。

『通鑑考異』はいう。『晋春秋』では恵公である。いま王隠『蜀記』に従う。ぼくは思う。「思」「恵」は似てるなあ!

孫呉の武昌都督する廣陵の范慎が太尉となる。右將軍司馬の丁奉が卒した。

胡三省はいう。丁奉伝はいう。丁奉は、寿春をすくった功績により、左将軍となった。孫綝を誅して、大将軍となった。左右都護を加えられた。孫皓を迎えたので、右大司馬、左軍師となった。いまここは、「右大司馬、左軍師」とすべきだ。
ぼくは思う。右将軍司馬では、右将軍の属官だ。えらく官位が低いなあ、という違和感があった。ちゃんと胡三省が先回りしてくれたから、たすかった。

孫呉は、翌年から鳳凰と改元した。121119

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泰始八年(壬辰,公元272年)

春、太子が賈妃をめとり、司馬孚が死ぬ

春,正月,監軍何楨討劉猛,屢破之,潛以利誘其左部帥李恪,恪殺猛以降。
二月,辛卯,皇太子納賈妃。妃年十五,長於太子二歲,□石忌多權詐,太子嬖而 畏之。

春正月、監軍の何楨が劉猛をしばしば破る。利益で、匈奴の左部帥の李恪をさそい、劉猛を殺させた。匈奴が降った。

胡三省はいう。左部とは、匈奴5部の1つ。
ぼくは思う。匈奴はこのように分断されて、漢族に対して勝つことができない。曹操のお手柄だ。しかし并州の国境で戦うのが「監軍」の何楨というのが不思議だ。ところで同時期に孫皓を惑わせるのは、何定。まぎらわしい。

2月辛卯、司馬衷は賈妃を納れる。賈妃は15歳、司馬衷より2つ年長。性格がキツい。司馬衷が畏れた。

壬辰,安平獻王孚卒,年九十三。孚性忠慎,宣帝執政,孚常自退損。後逢廢立之 際,未嘗預謀。景、文二帝以孚屬尊,亦不敢逼。及帝即位,恩禮尤重。元會,詔孚乘 輿上殿,帝於阼階迎拜。既坐,親奉觴上壽,如家人禮。帝每拜,孚跪而止之。孚雖見 尊寵,不以為榮,常有憂色。臨終,遺令曰:「有魏貞士河內司馬孚字叔達,不伊不周, 不夷不惠,立身行道,終始若一。當衣以時服,斂以素棺。」詔賜東園溫明秘器,諸所 施行,皆依漢東平獻王故事。其家遵孚遺旨,所給器物,一不施用。
帝與右將國皇甫陶論事,陶與帝爭言,散騎常侍鄭徽表請罪之,帝曰:「忠讜之言, 唯患不聞。徽越職妄奏,豈朕之意!」遂免徽官。

正月壬辰、安平獻王の司馬孚が卒した。93歳。司馬懿の執政に加わらず、魏帝の廃立にも関わらず。司馬師と司馬昭は、司馬孚が上の世代なので、むりに廃立への関与を強制しない。

胡三省はいう。廃立は、正元元年と、景元元年にあった。

司馬炎にも尊敬され、司馬炎が階下から拝した。家人の礼で遇された。司馬炎が拝すると、司馬孚は跪き、憂色がある。司馬孚は、魏臣として遺言した。東園溫明の秘器を賜る。後漢の東平獻王の劉蒼の故事どおりに葬儀した。

胡三省はいう。劉蒼は、後漢の章帝の建初8年にある。
ぼくは思う。東園のことを胡三省が注釈する。はぶく。

司馬炎と右將軍の皇甫陶は口論した。

胡三省はいう。泰始5年、鎮軍将軍をやめて、また左右将軍をおいた。

散騎常侍の鄭徽は、上表して皇甫陶の罪をゆるせという。司馬炎はいう。「忠讜之言=私に対する批判は、どんどん聞きたい。鄭徽は、私の気持ちを分かっていない」と。鄭徽は免官された。

夏、監梁益諸軍事の王濬が造船を始める

夏,汶山白馬胡侵掠諸種,益州刺史皇甫晏欲討之。典學從事蜀郡何旅等諫曰: 「胡夷相殘,固其常性,未為大患。今盛夏出軍,水潦將降,必有疾疫,宜須秋、冬圖 之。」晏不聽。胡康木子燒香言軍出必敗,晏以為沮眾,斬之。軍至觀阪,牙門張弘等 以汶山道險,且畏胡眾,因夜作亂,殺晏,軍中驚擾,兵曹從事犍為楊倉勒兵力戰而死。 弘遂誣晏,云「率己共反」,故殺之,傳首京師。晏主簿蜀郡何攀,方居母喪,聞之, 詣洛證晏不反,弘等縱兵抄掠。廣漢主簿李毅言於太守弘農王濬曰:「皇甫侯起自諸生, 何求而反!且廣漢與成都密邇,而統於梁州者,朝廷欲以制益州之衿領,正防今日之變 也。今益州有亂,乃此郡之憂也。張弘小豎,眾所不與,宜即時赴討,不可失也。」濬 欲先上請,毅曰:「殺主之賊,為惡尤大,當不拘常制,何請之有!」濬乃發兵討弘。 詔以濬為益州刺史。濬擊弘,斬之,夷三族。封濬關內侯。

夏、汶山の白馬胡が諸種を侵掠したので、益州刺史の皇甫晏が討伐する。典學從事する蜀郡の何旅らが諫めた。

胡三省はいう。前漢の武帝が汶山郡をひらく。宣帝の地節3年、蜀郡にあわせる。蜀漢が汶山郡をたてる。白馬胡とは白馬夷である。典学従事とは、学校を典じ、諸郡の文学掾を部する。漢代の州刺史には、孝経の師がいた。試経を主監した。月令の師は、祭祀をつかさどる。魏晋は、これらの職制を、典学従事にまとめた。へえ!

「異民族が殺し合うのは、いつものこと。盛夏に出陣すると病気になる。秋冬をまて」と。刺史の皇甫晏は、出陣した。牙門の張弘は、刺史が危険な出陣を命じるので、刺史を殺した。張弘は洛陽に皇甫晏の首級をおくり、「皇甫晏が西晋に叛するから斬った」とウソをついた。皇甫晏の主簿する蜀郡の何攀は、洛陽に「皇甫晏は叛いていない」と説明した。
廣漢主簿の李毅は、広漢太守する弘農の王濬にいう。「皇甫晏は諸生から刺史に昇進した。どうして西晋に反するか。ここ廣漢と成都は近い。梁州の州治・広漢を、王濬が任される理由は、益州に乱があれば、その鎮圧を期待するからだ」と。

胡三省はいう。漢代の広漢は、郡治が雒城である。泰始2年、新都郡を分けて雒城を治所とした。そして広漢の郡治は広漢県になった。広漢県と成都は近い。
ぼくは思う。益州から、わざわざ漢中を切りとって梁州としたのは、「成都の鎮圧をできる州刺史」を、近くに置きたかったからか。益州刺史では、成都の反乱に巻きこまれる。というか成都で反乱するかも知れない。だから、成都から近いところに梁州の州軍をおき、成都を鎮圧するようにする。かと言って、成都に州府を設置しないのも不自然だから、、梁州を設置することになったのだろう。王濬は手順にこだわるが、李毅はすぐ成都を攻めろという。梁州の役割は、じつは暗黙のうちに共有されていたらしい。

王濬は「洛陽の許可を取ってから」というが、李毅は「手続を踏んでる場合ではない」という。王濬は兵を発し、張弘を討った。詔があり、王濬は益州刺史となる。王濬は張弘を斬り、夷三族した。王濬は関内侯となる。

ぼくは思う。孫呉を滅ぼす「益州刺史の王濬」が誕生した。滅亡まで、あと8年。
『通鑑考異』はいう。『華陽国志』で張弘が皇甫晏を殺したのは、泰始10年5月=2年後だ。『晋書』武帝紀では、この年の6月である。王濬が伐呉の上表のとき「7年、船を作ってた」という。咸寧5年にこの上表があったので、逆算すると王濬は、泰始9年より前に船を作り始めねばならない。


初,濬為羊祜參軍,祜深知之。祜兄子暨白濬「為人志大奢侈,不可專任,宜有以 裁之。」祜曰:「濬有大才,將以濟其所欲,必可用也。」更轉為車騎從事中郎。濬在 益州,明立威信,蠻夷多歸附之;俄遷大司農。時帝與羊祜陰謀伐吳,祜以為伐吳宜藉 上流之勢,密表留濬復為益州刺史,使治水軍。尋加龍驤將軍,監益、梁諸軍事。

はじめ王濬は、羊祜の參軍だった。

胡三省はいう。晋制では、従公で持節都督する者は、参軍6人をおく。

羊祜の兄子の羊暨は「王濬を専任させるな」というが、羊祜は「専任させるべき」という。王濬は、車騎從事中郎に転じる。

胡三省はいう。羊祜が車騎将軍になった。車騎将軍の属官には、従事中郎がある。秩禄は比1千石。ぼくは思う。伐呉の功績がある王濬もまた「羊祜チルドレン」なんだ。表現が古いな。故事のサイトだから良いのか。笑

王濬が益州にくると、蛮夷がおおく帰付した。にわかに大司農にうつる。ときに司馬炎と羊祜は、伐呉の計画をたてる。羊祜は「王濬を益州刺史として、上流から水軍で孫呉を攻めさせろ」という。龍驤將軍を加えられ、益梁諸軍事を監する。

胡三省はいう。龍驤将軍はこれが初めて。晋制の方面司令官は、資望が重い者は、都督諸軍事となる。資望が軽い者は、監軍事となる。ぼくは補う。王濬は資望が軽いほうだ。
『通鑑考異』はいう。羊祜伝では、王濬を監益州諸軍事にとどめ、龍驤将軍をくわえる。王濬伝では、羊祜がひそかに上表して、王濬をふたたび益州刺史とする。また、謠言により、龍驤将軍を拝して、監梁益諸軍事となると。以上から、刺史と監軍とするのは、2事である。なお『華陽国志』では、咸寧4年、王濬は大司農となる。咸寧5年、龍驤将軍を拝し、梁益2州を監するという。このとき羊祜は死んでいるから、『華陽国志』は誤りである。


詔濬罷屯田兵,大作舟艦。別駕何攀以為「屯田兵不過五六百人,作船不能猝辦, 後者未成,前者已腐。宜召諸郡兵合萬餘人造之,歲終可成。」濬欲先上須報,攀曰: 「朝廷猝聞召萬兵,必不聽;不如輒召,設當見卻,功夫已成,勢不得止。」濬從之, 令攀典造舟艦器仗。於是作大艦,長百二十步,受二千餘人,以木為城,起樓櫓,開四 出門,其上皆得馳馬往來。時作船木柿,蔽江而下,吳建平太守吳郡吾彥取流柿以白吳 主曰:「晉必有攻吳之計,宜增建平兵以塞其沖要。」吳主不從。彥乃為鐵鎖橫斷江路。
壬辰,大赦。

詔して、王濬に屯田兵を辞めさせ、舟艦を作らせる。別駕の何攀はいう。「屯田兵は5,6百人に過ぎない。船をつくる支障にならない。船が完成する前に、屯田が荒れてしまう。諸郡の兵を合わせて1万余人集めれば、1年以内に船を作れる」と。何攀はいう。「西晋は、1万の兵を造船に集めることを許さないだろう。許可がなくても、造船のために召集すればよい」と。王濬は造船した。

『通鑑考異』はいう。『華陽国志』では、咸寧2年3月、王濬は造船の詔を受けたという。王濬での上表で「7年、造船してきた」とある。『華陽国志』はちがう。

孫呉の建平太守する吳郡の吾彦は、木屑を見たが、孫皓は防備の増強を許さない。吾彦は、鉄鎖を長江に横断させた。

胡三省はいう。建平郡は、漢代の南郡の巫県である。孫権が南郡を分けて、宜都郡をおく。孫休の永安3年、宜都をわけて建平郡をたてる。信陵、興山、秭歸、沙渠の4県をすべる。杜佑はいう。建平郡とは、いまの巴東郡である。孫呉は、建平郡を秭歸におく。
胡三省はいう。吾彦の鉄鎖は、あとで王濬に切断される。ムダじゃん。


王濬雖受中制募兵,而無虎符;廣漢太守敦煌張學收從事列上。帝召學還,責曰: 「何不密啟而便收從事?」學曰:「蜀、漢絕遠,劉備嘗用之矣。輒收,臣猶以為輕。」 帝善之。

王濬は、中制の募兵を受けるが、虎符がない。廣漢太守する敦煌の張学は、王濬の從事を捕らえて洛陽に突きだした。司馬炎は張学にいう。「なぜ王濬と親密にせず、王濬の従事を捕らえたか」と。張学はいう。「蜀郡や漢中は、洛陽からとおい。劉備が自立した土地だ。王濬の従事を捕らえたぐらいでは、私は処置が軽かったと思う」という。司馬炎は善しとした。

ぼくは思う。広漢太守の張学は、王濬の部下を捕らえ、あわよくば斬るほど、王濬を警戒している。王濬が劉備のように自立するのを防ぐのが、広漢太守の使命だと心得ている。前任の広漢太守は、まさに王濬であり、益州の混乱を鎮圧した。だから益州に入った王濬は、こんどは広漢太守に見張られる側となったが、文句は言えない。じっさい、何攀に言われて、洛陽の命令を無視して屯田を継続し、造船の人手に州郡の兵をつかっている。これは「劉備のような専権」かも知れないなあ。羊祜の兄子が心配したのも、このことだ。
ぼくは思う。鍾会さんの反乱は、誰も口に出さないが、もちろん念頭にあるのだろう。しかし、皇族の司馬氏は、益州には入りこんでこないのね。なんでかなあ。のちに成都王の司馬頴が出てくるが、鄴県にいた。
ツイッター用まとめ。王濬の自立。監梁益諸軍事の王濬は益州で造船し、7年間も平呉を準備する。「劉備や鍾会のように自立しないか」と心配された。羊祜の兄子は「王濬に専任させるな」というが、鍾会の前例と同じ。隣接する広漢太守も、王濬の従事をフライイングで捕らえるほど警戒する。王濬とて、詔を無視して屯田する!

壬辰、司馬炎は大赦した。

秋、賈充が任愷を廃し、歩闡が西晋に降伏

秋,七月,以賈充為司空,侍中、尚書令、領兵如故。充與侍中任愷皆為帝所寵任, 充欲專名勢,而忌愷,於是朝士各有所附,朋黨紛然。帝知之,召充、愷宴於式乾殿而 謂之曰:「朝廷宜一,大臣當和。」充、愷各拜謝。既而充、愷以帝已知而不責,愈無 所憚,外相崇重,內怨益深。充乃薦愷為吏部尚書,愷侍覲轉希,充因與荀勖、馮紞承 間共譖之,愷由是得罪,廢於家。
八月,吳主征昭武將軍、西陵督步闡。闡世在西陵,猝被徽,自以失職,且懼有讒, 九月,據城來降,遣兄子璣、璿詣洛陽為任。詔以闡為都督西陵諸軍事、衛將軍、開府 儀同三司、侍中,領交州牧,封宜都公。

秋7月、賈充は司空となる。侍中、尚書令、領兵はもとのまま。賈充と侍中の任愷は、司馬炎に寵任された。賈充は独占したいので、任愷をきらった。司馬炎は「仲良くしろよ」というが、賈充は任愷を吏部尚書に飛ばした。賈充と荀勖と馮紞は、任愷をそしり、任愷を家に廃した。
8月、孫皓は、昭武將軍、西陵督の步闡をめした。歩闡は世々、西陵にいる。

胡三省はいう。孫権は歩隲に西陵を督させた。歩隲の子の歩協がつぐ。歩協の弟が歩闡だ。

歩闡は失職して、讒言されることを懼れた。9月、西陵城をあげて西晋にくだる。兄子の歩璣(歩協の子)は、洛陽にゆく。西晋は、歩闡を、都督西陵諸軍事、衛將軍、開府儀同三司、侍中として、交州牧を領させ、宜都公に封じた。

ぼくは思う。西晋は「気前がいい」のだ。


冬、陸抗が羊祜に水をかけ、西陵で歩闡を斬る

冬,十月,辛未朔,日有食之。
敦煌太守尹璩卒。涼州刺史楊欣表敦煌令梁澄領太守。功曹宋質輒廢澄,表議郎令 狐豐為太守。楊欣遣兵之計,為質所敗。

冬10月辛未ついたち、日食あり。
敦煌太守の尹璩が卒した。涼州刺史の楊欣が上表して、敦煌令の梁澄に太守を領させた。功曹の宋質が、たちまち梁澄を廃して、議郎の令狐豐を太守にせよと上表した。楊欣は兵をつかい、梁澄を太守にしたいが、宋質に敗れた。

『通鑑考異』はいう。『晋書』武帝紀では、令孤豊が、みずから梁澄を廃して、自ら郡事を領したという。いま武帝紀に従い、功曹の宋質の動きをかませる。


吳陸抗聞步闡叛,亟遣將軍左弈、吾彥等討之。帝遣荊州刺史楊肇迎闡於西陵,車 騎將軍羊祜帥步軍出江陵,巴東監軍徐胤帥水軍擊建平,以救闡。陸抗敕西陵諸軍築嚴 圍,自赤谿至於故市,內以圍闡,外以御晉兵,晝夜催切,如敵已至,眾甚苦之。諸將 諫曰:「今宜及三軍之銳,急攻闡,比晉救至,必可拔也,何事於圍,以敝士民之力!」 抗曰:「此城處勢既固,糧谷又足,且凡備御之具,皆抗所宿規,今反攻之,不可猝拔。 北兵至而無備,表裡受難,何以御之!」諸將皆欲攻闡,抗欲服眾心,聽令一攻,果無 利。圍備始合,而羊祜兵五萬至江陵。諸將鹹以抗不宜上,抗曰:「江陵城固兵足,無 可憂者。假令敵得江陵,必不能守,所損者小。若晉據西陵,則南山群夷皆當擾動,其 患不可量也!」乃自帥眾赴西陵。
初,抗以江陵之北,道路平易,敕江陵督張鹹作大堰遏水,漸漬平土以絕寇叛。羊 祜欲因所遏水以船運糧,揚聲將破堰以通步軍。抗聞之,使鹹亟破之。諸將皆惑,屢諫, 不聽。祜至當陽,聞堰敗,乃改船以車運糧,大費功力。

陸抗は、將軍の左弈、吾彥らに、孫呉を裏切った歩闡を討たせる。西晋は、荊州刺史の楊肇を、西陵で迎えにゆかせる。車騎將軍の羊祜は、歩兵をひきいて江陵に出る。巴東監軍の徐胤は、水軍をひきいて建平をうつ。西晋は歩闡をすくう。

ぼくは思う。さっき建平太守には、吾彦がいた。木屑の発見者。

陸抗は、西陵を厳重に包囲させた。赤谿から故市まで、包囲する。呉軍は、歩闡を包囲しつつ、晋軍を防ぐのがつらい。諸将は「包囲をやめよう。歩闡と西晋が合流するところを攻めよう」という。陸抗はいう。「私は西陵督の経験がある。西陵の防備と貯蓄は充分だ。もし、西陵の包囲をゆるめ、西陵から歩闡が攻め出たら、私たち呉軍は挟まれる」と。羊祜5万が、孫呉の江陵にせまる。陸抗は「江陵は羊祜に陥とされない。もし羊祜が江陵を得ても、維持できない。もし西晋が西陵をとっても、南山にいる夷族があばれる。西晋の損害はおおきい」と。陸抗は西陵におもむく。

ぼくは補う。陸抗は、いろいろ情勢が変化しつつも、一貫して、西陵に歩闡を閉じこめることだけに専心している。中から歩闡が出てきたら、手ごわい。西陵を陥落させるのは難しいが、とにかく歩闡を出さなければ、呉軍に望みがある。また、羊祜ら晋軍が荊州をウロウロするが、晋軍が取れる城は少ない。もし城を取っても、呉軍のように統治の実績がないから、混乱する。だから西晋は、ゴリ押しして孫呉の城を奪わないだろう、と。以上から、西陵を固めているだけで、事態をやり過ごせると考えた。

羊祜が江陵の北にいたとき、「道路が通りやすくて、晋軍に有利だ。江陵督の張鹹に堤防を作らせろ。羊祜が通ったら、堤防を決壊させて晋軍を沈めろ」という。羊祜が当陽にきたとき、陸抗が堤防を決壊させ、晋軍は運送のコストを支払った。

十一月,楊肇至西陵。陸抗令公安督孫遵循南岸御羊祜,水軍督留慮拒徐胤,抗自 將大軍憑圍對肇。將軍硃喬營都督俞贊亡詣肇。抗曰:「贊軍中舊吏,知吾虛實。吾常 慮夷兵素不簡練,若敵攻圍,必先此處。」即夜易夷兵,皆以精兵守之。明日,肇果攻 故夷兵處。抗命擊之,矢石雨下,肇眾傷、死者相屬。
十二月,肇計屈,夜遁。抗欲追 之,而慮步闡畜力伺間,兵不足分,於是但鳴鼓戒眾,若將追者。肇眾兇懼,悉解甲挺 走。抗使輕兵躡之,肇兵大敗,祜等皆引軍還。抗遂拔西陵,誅闡及同謀將吏數十人, 皆夷三族,自餘所請赦者數萬口。東還樂鄉,貌無矜色,謙沖如常。吳主加抗都護。羊 祜坐貶平南將軍,楊肇免為庶人。

11月、西晋の楊肇は西陵にいたる。陸抗は、公安督の孫遵に、南岸で羊祜が渡れぬよう防がせる。水軍督の留慮に、徐胤を防がせる。陸抗は、みずから大軍をひきいて、楊肇軍を殺しまくった。
12月、楊肇は逃げた。陸抗は楊肇を追いたいが、西陵の包囲軍を分けられない。鼓を鳴らして包囲軍を戒め、楊肇を破ってきた。ついに陸抗は西陵を陥落させ、歩闡とその将吏の数十人を夷三族した。その他の数万人はゆるした。陸抗は東して樂楽に還る。すずしい顔。孫皓は、陸抗に都護をくわえる。

胡三省はいう。孫呉には左右都護の官がある。いま都護をくわえた。すべての諸将を護るから、都護という。ぼくは思う。陸抗の今回のうごきは「都護」にぴったり!

羊祜は平南將軍に貶められ、楊肇は庶人に免じられた。

ぼくは思う。西晋は、自国を慕ってきた者を救えなかった。べらぼうに高い官位だけ約束したが、救えなかった。しかも今回降ってきたには、西陵督という要所だった。これで西晋による統一が遠のいた。陸抗、罪ぶかいなあ!
胡三省はいう。征鎮安平の順だから、平はもっとも下。車騎のつぎが驃騎将軍。これ以下、六等もおちて四征将軍となる。羊祜は、車騎将軍から平南将軍におちたのだから、14号も降格された。
ぼくは思う。西晋が歩闡を救えなかった責任を、羊祜が著しく降格されることで、償ったのだ。誰に対して償ったのか。天下に対して償ったのだ。もっと具体的には、「いまは孫呉に仕えるが、西晋に降伏する予定がある者」たちを主要な相手として償ったのだ。


吳主既克西陵,自謂得天助,志益張大,使術士尚廣筮取天下,對曰:「吉。庚子 歲,青蓋當入洛陽。」吳主喜,不修德政,專為兼併之計。
賈充與朝士宴飲,河南尹庾純醉,與充爭言。充曰:「父老,不歸供養,卿為無天 地!」純曰:「高貴鄉公何在?」充慚怒,上表解職;純亦上表自劾。詔免純官,仍下 五府正其臧否。石苞以為純榮官忘親,當除名,齊王攸等以為純於禮律未有違。詔從攸 議,復以純為國子祭酒。

孫皓は西陵で勝ったので、天助を得たと考えた。術士の尚廣に天下取りを占わせた。術士は「吉だ。庚子の歳に、青蓋が洛陽に入るだろう」という。孫皓は喜び、さらに悪政をした。

胡三省はいう。この占いは、孫皓が降伏して洛陽に入ることを指す。
ぼくは思う。孫皓のように「強迫的」に天下の平定を信じるのは、愚かではない。とても天子らしい。司馬炎より、天子の資格がある。天子のあるべき姿とは、まさに孫皓である。いわゆる名君は、たまたまこの強迫的観念と実態が一致してしまったせいで、その強迫性が見えにくくなった。孫皓は、実態がうまくいかないから、強迫性のいびつさが、よく分かる!財産も良臣も惜しげもなく破壊してこそ天子!

賈充は朝士と宴飲した。河南尹の庾純が酔って、賈充と口論した。賈充が「父老が供養に帰さず、あなたは天地を無にした」と庾純をなじった。庾純は「高貴郷公の曹髦はどうなんだ」という。

『通鑑考異』はいう。『三十国春秋』では、この事件が秋11月にある。『晋春秋』では10月にある。おそらくどちらも違う。冬にすべきだろう。

賈充は怒って「庾純に河南尹を辞めさせろ」という。庾純は免官され、賈充をのぞく5人の公が審議した。石苞は「庾純は高官となり、親の恩を忘れたから、除名せよ」という。司馬攸らは「庾純の儀礼は誤りがない」という。司馬炎は、司馬攸らに従い、庾純を国子祭酒とした。

胡三省はいう。司馬炎がはじめて国子学をたてたとき、国子祭酒と博士を1名ずつ、助教15人をおく。生徒に教えた。
ぼくは思う。石苞は賈充にへつらったが、司馬攸は賈充にへつらわず。司馬炎は賈充を重んじるが、賈充ばかりを正しいとしない。いちおう正常な朝廷のようです。


孫皓が、万彧と留平を殺し、羊祜が陸抗と交際

吳主之游華裡也,右丞相萬彧與右大司馬丁奉、左將軍留平密謀曰:「若至華裡不 歸,社稷事重,不得不自還。」吳主頗聞之,以彧等舊臣,隱忍不發。是歲,吳主因會, 以毒酒飲彧,傳酒人私減之。又飲留平,平覺之,服他藥以解,得不死。彧自殺;平憂 懣,月餘亦死。徙彧子弟於廬陵。
初,彧請選忠清之士以補近職,吳主以大司農樓玄為宮下鎮,主殿中事。玄正身帥 眾,奉法而行,應對切直,吳主浸不悅。中書令領太子太傅賀邵上疏諫曰 (中略)。吳 主深恨之。
於是左右共誣樓玄、賀邵相逢,駐共耳語大笑,謗訕政事,俱被詰責。送玄付廣州, 邵原復職。既而復徙玄於交趾,竟殺之。久之,何定奸穢發聞,亦伏誅。

孫皓が華裡にゆく。右丞相の萬彧と、右大司馬の丁奉、左將軍の留平は、密謀していう。「もし孫皓が華裡から帰らなければ、社稷のことは重大なので、自ら還らざるを得ず」と。

胡三省はいう。華裡のことは、前年に記事あり。
ぼくは思う。孫皓が自ら還るとは、帰路は臣下がついてあげないよ!ということか。つまり孫皓に、重大な社稷を治める資格がないから、かってに華裡で遊んでろ!ということか。

これを聞いた孫皓は、華裡にゆかない。この歳、万彧に毒酒を飲ませた。留平は毒酒に気づき、解毒薬を飲んだので死なずにすんだ。万彧は自殺し、留平も1月余で憂死した。万彧の子弟を、廬陵に徙す。

『通鑑考異』はいう。『三国志』孫皓伝では、万彧は譴責されて憂死した。いま『江表伝』にしたがう。ぼくは思う。荀彧も万彧も、同じような死に方!

はじめ万彧は、忠清之士な人物を選出した。大司農の樓玄は、万彧の推薦で、孫皓の殿中事をつかさどる。楼玄は奉法而行で、應對切直するので、孫皓に嫌われた。

ぼくは思う。人材を推挙するあたりも、万彧は荀彧に似てる!

中書令で太子太傅を領する賀邵は、上疏して孫皓を諫めた。孫皓に恨まれた。
左右の者が、「楼玄と賀邵が、馬車をとめて、孫皓の政事を笑った」とそしった。楼玄を広州に送る。賀邵は復職にのこる。楼玄はさらに交趾に徙され、殺された。久しくして、何定も伏誅された。

ぼくは思う。孫呉の楼玄は、孫皓から「復徙玄於交趾,竟殺之。」と処置される。他にも孫呉では、いちど徙刑にして、道中で追いかけて殺すことがおおい。ただの「死刑」と、「徙刑+殺害」は何が違うのだろう。死刑にするほどの罪ではないが、法律をこえた政治的事情で殺しておきたい場合、後者の方法をつかうのか?


羊祜歸自江陵,務修德信以懷吳人。每交兵,刻日方戰,不為掩襲之計。將帥有欲 進譎計者,輒飲以醇酒,使不得言。祜出軍行吳境,刈谷為糧,皆計所侵,送絹償之。 每會眾江、沔游獵,常止晉地,若禽獸先為吳人所傷而為晉兵所得者,皆送還之。於是 吳邊人皆悅服。祜與陸抗對境,使命常通。抗遺祜酒,祜飲之不疑;抗疾,求藥於祜, 祜以成藥與之,抗即服之。人多諫抗,抗曰:「豈有鴆人羊叔子哉!」抗告其邊戍曰: 「彼專為德,我專為暴,是不戰而自服也。各保分界而已,無求細利。」吳主聞二境交 和,以詰抗,抗曰:「一邑一鄉不可以無信義,況大國乎!臣不如此,正是彰其德,於 祜無傷也。」
吳主用諸將之謀,數侵盜晉邊。陸抗上疏曰 (中略)。吳主不從。
羊祜不附結中朝權貴,荀勖、馮紞之徒皆惡之。從甥王衍嘗詣祜陳事,辭甚清辯; 祜不然之,衍拂衣去。祜顧謂賓客曰:「王夷甫方當以盛名處大位,然敗俗傷化,必此 人也。」及攻江陵,祜以軍法將斬王戎。衍,戎之從弟也,故二人皆憾之,言論多毀祜, 時人為之語曰:「二王當國,羊公無德。」

羊祜は江陵からかえる。孫呉の人がなつく。禽獣が逃げこんだら、孫呉に返還した。陸抗が羊祜に酒を送ると、疑わずに飲んだ。羊祜は陸抗に薬をあげた。孫皓は陸抗を疑ったが、「1邑1郷を治めるのですら、信義が必要である。まして大国を治めるならばね」と。
孫呉はしばしば西晋の国境を侵した。陸抗が諫めた。「辺境でセコい戦果を稼いでも、帝王の事業ではない」と。孫皓は従わず。

ぼくは思う。陸抗がどういうヴィジョンを持っていたか考えると、おもしろそう。天下を欲望する孫皓よりも、さらに具体的に天下を欲望していたのだろう。どんな感じで具体的なのかを、きっちり吟味するのが、ぼくの課題だ。

羊祜は、中朝の権貴とくっつかない。荀勖や馮紞は、羊祜をにくんだ。従甥の王衍は、かつて羊祜に陳事したことがあるが、羊祜が賛成してくれない。羊祜は賓客に「王衍は盛名で高官になるが、風俗を傷化させる」という。

胡三省はいう。史書は羊祜の人を見る目をいう。西晋の懐帝のとき、王衍が国を誤らせて、西晋をほろぼす。

羊祜が江陵を攻めたとき、羊祜は軍法により、王戎を斬ろうとした。王衍は、王戎の従弟である。ゆえに羊祜と王氏は対立した。王氏は羊祜をそしった。時の人はいう「2人の王氏は国に当たる。羊祜は徳なし」と。121120

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