表紙 > 和訳 > 『資治通鑑』巻76、253-255年を抄訳

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嘉平五年(癸酉,公元253年)

正月、費禕が郭循に殺され、司馬師が詫びる

春,正月,朔,蜀大將軍費禕與諸將大會於漢壽,郭修在坐;禕歡飲沉醉,修起刺 禕,殺之。禕資性泛愛,不疑於人。越巂太守張嶷嘗以書戒之日:「昔岑彭率師,來歙 杖節,鹹見害於刺客。今明將軍位尊權重,待信新附太過,宜鑒前事,少以為警。」禕 不從,故及禍。
詔追封郭循為長樂鄉侯,使其子襲爵。

春正月ついたち、大将軍の費禕が、漢寿で郭循に殺された。越巂太守の張嶷に「後漢初の岑彭や来歙のようにならぬよう、気をつけろ」と言われていたのに。
曹魏は郭循に長楽郷侯を追封した。郭循の子に爵位を継がせた。

ぼくは思う。郭循による暗殺は、追封をしてまで賞賛すべきことだ。「卑怯なり」と批判されない。暗殺は卑怯だから行われないのでなく、できたら行いたいが、警戒がキツくて実行できないだけである。三国志の英雄たちは、暗殺をしたくて仕方がない。


王昶、毌丘儉聞東軍敗,各燒屯走。朝議欲貶黜諸將,大將軍師曰:「我不聽公休, 以至於此。此我過也,諸將何罪!」悉宥之。師弟安東將軍昭時為監軍,唯削昭爵而已。 以諸葛誕為鎮南將軍,都督豫州;毌丘儉為鎮東將軍,都督揚州。
是歲,雍州刺史陳泰求敕并州並力討胡,師從之。未集,而雁門、新興二郡胡以遠 役,遂驚反。師又謝朝士曰:「此我過也,非陳雍州之責!」是以人皆愧悅。 光祿大夫張緝言於師曰:「恪雖克捷,見誅不久。」師曰:「何故?」緝曰:「威 震其主,功蓋一國,求不得死乎!」

荊州を攻めている王昶と毋丘倹は、東興堤で魏軍が負けたので、屯所を焼いてにげた。司馬師は「敗戦の責任は、諸葛誕の発言を聞かなかった私にある」という。安東将軍の司馬昭が敗戦のとき監軍だったので、爵位を削った。諸葛誕を鎮南將軍として、豫州を都督させる。毌丘儉を鎮東將軍として、揚州を都督させる
この歳、雍州刺史の陳泰は「并州の兵力を併せ、羌族を討ちたい」という。雁門と新興の2郡にいる胡族は、遠くまで動員されるので、驚いて曹魏から反した。司馬師は「私の責任だ」という。光禄大夫の張緝は、司馬師にいう。「諸葛恪は曹魏に勝ったが、そのうち誅される。孫亮よりも威信があるから」という。

胡三省はいう。司馬師は司馬懿を嗣いだが、高官がなつかないので、責任を引き受けた。盗賊にも道理があるのだから、まして国を盗む者にも道理があるだろうよ。
司馬光はここで、習鑿歯の論をのせる。司馬師をほめる。
胡三省はいう。張緝は諸葛恪の末路を推測しているが、自分が司馬師に殺される。張緝が「諸葛恪が孫亮を上回るから殺される」と予測したが、「張緝の知恵が司馬師を上回るから殺される」となった。


春、諸葛恪が北伐したい

二月,吳軍還自東興。進封太傅恪陽都侯,加荊、揚州牧,督中外諸軍事。恪遂有 輕敵之心,復欲出軍。諸大臣以為數出罷勞,同辭諫恪,恪不聽。中散大夫蔣延固爭, 恪命扶出。因著論以諭眾曰(中略)。眾人雖皆心以為不可,然莫敢復難。

2月、呉軍は東興からかえる。太傅の諸葛恪を陽都侯に進める。荊州牧、揚州牧を加えて、中外諸軍事を督させる。諸葛恪は曹魏をかろんじ、また出兵したい。中散大夫の蒋延が文書で諫めた。はぶく。みな出兵したくないが、諸葛恪を止められない。

丹楊太守聶友素與恪善,以書諫恪曰(中略)。恪題論後,為書答友曰:「足下雖有自然之理,然未見大數, 熟省此論,可以開悟矣。」
滕胤謂恪曰 (中略)。恪曰:「諸雲不可,皆不見計算,懷居苟安者也。 而子復以為然,吾何望乎!夫以曹芳暗劣,而政在私門,彼之民臣,固有離心。今吾因 國家之資,藉戰勝之威,則何往而不克哉!」
三月,恪大發州郡二十萬眾復入寇,以滕胤為都下督,掌統留事。

丹陽太守の聶友は、諸葛恪と仲が良い。諸葛恪の出兵を諫めた。諸葛恪は聶友に反論した。「聶友のいうことは自然の理だが、勝負の時機を理解していない」と。

胡三省はいう。孫権は諸葛恪の、このように剛狼な性格をきらった。聶友のような親友にも、傲慢である。

滕胤は諸葛恪を諫めた。諸葛恪はいう。「曹芳は闇弱である。政事は司馬氏がにぎる。曹魏の民心は離叛している。曹魏に勝てる」と。
3月、諸葛恪は州郡から20万を発した。滕胤は都下督となり、留守を統べる。

夏、諸葛恪が再び北伐、姜維が数万で出陣

夏,四月,大赦。 漢姜維自以練西方風俗,兼負其才武,欲誘諸羌、胡以為羽翼,謂自隴以西,可斷 而有。每欲興軍大舉,費禕常裁制不從。與其兵不過萬人,曰:「吾等不如丞相亦已遠 矣,丞相猶不能定中夏,況吾等乎!不如且保國治民,謹守社稷,如其功業,以俟能者, 無為希冀徼幸,決成敗於一舉;若不如志,悔之無及。」及禕死,維得行其志,乃將數 萬人出石營,圍狄道。

夏4月、曹芳は大赦した。
天水出身の姜維は、西方の風俗に習熟する。羌胡を誘って援軍としたい。隴水より西を曹魏から分断して、蜀漢に領有させたい。大軍を興したいが、費禕が制限して1万人未満である。費禕は「諸葛亮でも中原をとれない。まして費禕と姜維ではムリだ」という。費禕が死に、姜維は数万をひきい、石営から出て狄道をかこむ。

胡三省はいう。石営とは、董亭の西南にある。けだし姜維は、武都から石営に出たのだ。狄道県は、隴西郡に属する。姜維が人民を疲弊させたのが、蜀漢の滅亡の原因である。


吳諸葛恪入寇淮南,驅略民人。諸將或謂恪曰:「今引軍深入,疆場之民,必相率 遠遁,恐兵勞而功少,不如止圍新城,新城困,救必至,至而圖之,乃可大獲。」恪從 其計,五月,還軍圍新城。
詔太尉司馬孚督諸軍二十萬往赴之。大將軍師問於虞松曰:「今東西有事,二方皆 急,而諸將意沮,若之何?」松曰:「昔周亞夫堅壁昌邑而吳、楚自敗,事有似弱而強, 不可不察也。今恪悉其銳眾,足以肆暴,而坐守新城,欲以致一戰耳。若攻城不拔,請 戰不可,師老眾疲,勢將自走,諸將之不徑進,乃公之利也。姜維有重兵而縣軍應恪, 投食我麥,非深根之寇也。且謂我並力於東,西方必虛,是以徑進。今若使關中諸軍倍 道急赴,出其不意,殆將走矣。」師曰:「善!」乃使郭淮、陳泰悉關中之眾,解狄道 之圍;敕毌丘儉等案兵自守,以新城委吳。陳泰進至洛門,姜維糧盡,退還。

諸葛恪は淮南に寇する。諸将は諸葛恪にいう。「深入するな。合肥新城を囲むのが良い。もし曹魏の救援が来たら、その援軍を捕られる」と。諸葛恪は5月、合肥新城をかこむ。

胡三省はいう。これは諸葛誕が司馬師に言ったパターンの、孫呉にダメージを与えるための戦略である。

太尉の司馬孚に諸軍20萬を督させ、姜維にあてる。大將軍の司馬師が虞松に問う。「東の諸葛恪と西の姜維に、どう対処するか」と。虞松はいう。「諸葛恪には戦闘の機会を与えず、合肥新城で足止すれば勢いが止まる。姜維は食糧が続かない。大軍を諸葛恪に向ければ、姜維は曹魏の虚を突くために進軍してくるので、これを迎撃すれば、驚いて撤退するだろう」と。
司馬師はこれを採用した。郭淮と陳泰ら関中軍に、狄道の包囲を解かせた。毋丘倹に自守させ(新城を助けさせず)、新城で孫呉を釘付にした。陳泰が洛門(天水冀県の落門聚)に進むと、姜維は食糧がなくなり、撤退した。

胡三省はいう。虞松の言うとおりになった。
ぼくは思う。毋丘倹に助けにきてもらえない合肥新城は、地獄である。攻城戦で形勢がひっくり返ることは少なく(大抵は守城側が勝つ)城外の援軍などをめぐり戦闘が進むのですね。虞松は、合肥新城が落ちないことが前提で戦略を立てている。また虞松は、姜維を野戦に引っぱり出すことで、姜維を敗走させている。一般的な相場感覚として、城から出なければ「負けない」のだ。勝てないけど。


揚州牙門將涿郡張特守新城。吳人攻之連月,城中兵合三千人,疾病戰死者過半, 而恪起土山急攻,城將陷,不可護。特乃謂吳人曰:「今我無心復戰也。然魏法,被攻 過百日而救不至者,雖降,家不坐;自受敵以來,已九十餘日矣,此城中本有四千餘人, 戰死者已過半,城雖陷,尚有半人不欲降,我當還為相語,條別善惡,明日早送名,且 以我印綬去為信。」乃投其印綬與之。吳人聽其辭而不取印綬。特乃投夜徹諸屋材柵, 補其缺為二重,明日,謂吳人曰:「我但有斗死耳!」吳人大怒,進攻之,不能拔。
會大暑,吳士疲勞,飲水,洩下,流腫,病者太半,死傷塗地。諸營吏日白病者多, 恪以為詐,欲斬之,自是莫敢言。恪內惟失計,而恥城不下,忿形於色。將軍硃異以軍 事迕恪,恪立奪其兵,斥還建業。都尉蔡林數陳軍計,恪不能用,策馬來奔。諸將伺知 吳兵已疲,乃進救兵。

揚州牙門將する涿郡の張特は、合肥新城を守る。連月、諸葛恪に攻められた。城内に兵が3千いたが、過半が病気や戦死した。諸葛恪が土山を築いたので、いまにも陥落しそう。張特は「曹魏の法では、1百日攻められても援軍が来なければ、降伏しても家族が連坐しない」とウソをついて時間を稼ぐ。だまされた孫呉は、合肥新城を抜けない。
暑いので、諸葛恪は滞陣の環境が悪化した。将軍の朱異は、諸葛恪に叛いて滞陣を辞めたい。諸葛恪は朱異の兵を奪い、建業に送還した。呉兵はへとへと。

秋,七月,恪引軍去,士卒傷病,流曳道路,或頓僕坑壑,或見 略獲,存亡哀痛,大小嗟呼。而恪晏然自若,出住江渚一月,圖起田於潯陽;詔召相銜, 徐乃旋師。由此眾庶失望,怨讟興矣。

秋7月、諸葛恪は撤退した。士卒は傷病するが、諸葛恪は平気な顔。長江の中州にとどまり、尋陽に畑をつくり、曹魏を攻めるつもりである。

漢代の尋陽は、もと県城である。長江の北にある。『尋陽記』はいう。尋陽は、春秋の呉の西境である。楚の東境である。

孫亮は何度も詔して、諸葛恪を呼びもどす。諸葛恪はおもむろに帰還した。衆庶は諸葛恪にガッカリした。諸葛恪を怨嗟した。

ぼくは思う。諸葛恪の個人的な傲慢に、すべての原因を帰してはダメだろう。孫呉の内側での求心力、外側への正統性について、諸葛恪なりに必要性があると考えて北伐したはずだ。
あまりにも個人の性格が強調されたときは、いつも引っかかるなあ。諸葛恪もまた、司馬師との対比で描かれるので、記述で損をしているはず。諸葛瑾が「諸葛恪が家を滅ぼす」と言った話は、司馬懿と対立する令孤愚と同じパタンである。「もともと親族からも警戒されていた人物が、やっぱり司馬氏に引導を渡される」というパタンである。司馬氏のための予定調和的な歴史観。


秋、鄧艾が諸葛恪の死を予見する

汝南太守鄧艾言於司馬師曰:「孫權已沒,大臣未附。吳名宗大族皆有部曲,阻兵 仗勢,足以違命。諸葛恪新秉國政,而內無其主,不念撫恤上下以立根基,競於外事, 虐用其民,番國之眾,頓於堅城,死者萬數,載禍而歸,此恪獲罪之日也。昔子胥、吳 起、商鞅、樂毅皆見任時君,主沒猶敗,況恪才非四賢,而不慮大患,其亡可待也。」

汝南太守の鄧艾は司馬師にいう。「孫権が死んで、大臣は懐かず。孫呉の名宗や大族は、みな部曲をもち、孫亮に従わない。諸葛恪は失敗した。諸葛恪は、子胥、吳起、商鞅、樂毅の4人に及ばないから、諸葛恪は殺されるんじゃないか」と。

胡三省はいう。張緝と鄧艾は、どちらも諸葛恪が殺されると予見した。張緝は司馬師に殺されたが、鄧艾は生き残った。張緝は李豊についたが、鄧艾は司馬師についたからだ。だが鄧艾も、司馬昭に殺された。巧妙があったとき、振る舞いが難しい。鄧艾は鍾会と対立してしまった。
ぼくは思う。魏末は有力者がもっとも死亡フラグの高い者。司馬氏だって、いつ族滅されてもおかしくなかった。たまたま、生き残って皇帝になったけど。けっきょくは八王の乱をやるから、司馬氏も死亡フラグから逃れられなかった。大室氏の言うところの、都市の内側での蕩尽や退廃だなあ。演技の行きすぎ。


八月,吳軍還建業,諸葛恪陳兵導從,歸入府館,即召中書令孫嘿,厲聲謂曰: 「卿等何敢數妄作詔!」嘿惶懼辭出,因病還家。
恪征行之後,曹所奏署令長職司,一罷更選,愈治威嚴,多所罪責,當進見者無不 竦息。又改易宿衛,用其親近;復敕兵嚴,欲向青、徐。

8月、呉軍は建業にもどる。諸葛恪は府館に帰ってから、すぐに中書令の孫嘿を呼びつけ、「帰還せよという詔書を偽造しやがって」と叱った。孫嘿は懼れて、病で家に引退した。
諸葛恪が外征からもどったのち、選曹(人事係)は、署の令長職司を選びなおした。諸葛恪は宿衛も人をかえて、自分に親近する者を用いた。諸葛恪は宿衛の装備を強くした。諸葛恪は、青州や徐州への外征をしたい。

胡三省はいう。これらの施策は、諸葛恪の死を早めた。
ぼくは思う。諸葛恪は、自分の失敗を見た長官たちを罷免して、人事を刷新している。罷免される長官たちは不満だろうけど、失敗をリセットするには、効果的な施策だと思う。まあ、失敗をリセットして良いのか、というのは別の問題だけど。っていうか責任とれよ、、というのが司馬師との対比で仄めかされる。


冬、諸葛恪が殺され、孫峻が丞相となる

孫峻因民之多怨,眾之所嫌,構恪於吳主,雲欲為變。冬,十月,孫峻與吳主謀置 酒請恪。恪將入之夜,精爽擾動,通夕不寐,又家數有妖怪,恪疑之。(中略) 峻曰:「所取者恪 也,今已死!」悉令復刃,乃除地更飲。恪二子竦、建聞難,載其母欲來奔,峻使人追 殺之。以葦席裹恪屍,篾束腰,投之石子岡。又遣無難督施寬就將軍施績、孫壹軍,殺 恪弟奮威將軍融於公安,及其三子。恪外甥都鄉侯張震、常侍硃恩,皆夷三族。

孫峻は、諸葛恪を殺したい。冬10月、孫峻と孫亮は、酒席を設けて、諸葛恪を殺した。諸葛恪が前夜から、怪異を体験した。

怪異とか、諸葛恪が殺される詳しい描写ははぶく。

諸葛恪の2子、諸葛竦と諸葛建は、母とともに孫峻に殺された。無難督の施寬は、將軍の施績と孫壹の軍にしたがい、諸葛恪の弟で奮威將軍の諸葛融を公安で殺した。諸葛融の3子を殺した。

胡三省はいう。施績は江陵にいた。孫壹は夏口にいた。
ぼくは思う。諸葛恪の報仇のために、諸葛融が挙兵するリスクが1ミリでもあったから、とおい荊州で迅速に諸葛融が滅ぼされた。諸葛氏は孫呉で、君主権力を脅かす巨大で不気味な勢力だったみたいです。

諸葛恪の外甥である都郷侯の張震、常侍の朱恩も夷三族された。

臨淮臧均表乞收葬恪曰 (中略)。於是吳主及孫峻聽恪故吏斂葬。
初,恪少有盛名,大帝深器重之,而恪父瑾常以為戚,曰:「非保家之主也。」父 友奮威將軍張承亦以為恪必敗諸葛氏。陸遜嘗謂恪曰:「在我前者吾必奉之同升,在我 下者則扶接之;今觀君氣陵其上,意蔑乎下,非安德之基也。」
漢侍中諸葛瞻,亮之子 也;恪再攻淮南,越巂太守張嶷與瞻書曰 (中略)。恪果以此敗。

臨淮の臧均は、諸葛恪の收葬を願った。孫亮と孫峻は、諸葛恪の故吏に、斂葬することを許した。
諸葛瑾は「諸葛恪が家を滅ぼす」という。諸葛瑾の友である、奮威将軍の張承も同意見だった。陸遜も諸葛恪を戒めた。蜀漢の侍中する諸葛瞻は、諸葛亮の子である。越巂太守の張嶷は、諸葛瞻に文書を与えて、諸葛恪が敗れることを予見した。その通りになった。

ぼくは思う。諸葛恪が失敗する逸話や文書は、相対的に司馬師を持ち上げるので、史家によって残されやすい。だから、口裏を合わせたように、諸葛恪を残念がる記述が出てくる。きっとね、諸葛恪よりも長期間にわたって朝廷を仕切った司馬氏は、悪口がもっと多かった。「司馬師は家を保てない」「司馬昭は傲慢である」という文書が、もっと製造されたはずだ。諸葛恪の悪い評判がおおいことが、ぎゃくにこの証明になる。


吳群臣共議上奏,推孫峻為太尉,滕胤為司徒。有媚峻者言曰:「萬機宜在公族, 若承嗣為亞公,聲名素重,眾心所附,不可量也。」乃表峻為丞相、大將軍,督中外諸 軍事,又不置御史大夫;由是士人失望。滕胤女為恪子竦妻,胤以此辭位。孫峻曰: 「鯀、禹罪不相及,滕侯何為!」峻與胤雖內不沾洽,而外相苞容,進胤爵高密侯,共 事如前。
齊王奮聞諸葛恪誅,下住蕪湖,欲至建業觀變。傅相謝慈等諫,奮殺之,坐廢為庶 人,徙章安。

孫呉の群臣は、孫峻を太尉に、滕胤を司徒に推した。

あ、さっき省略したけど、滕胤も諸葛恪討伐に功績がある。

孫峻に媚びる者は「万機は皇族=孫峻が握るべきである。もし滕胤が司徒となり、太尉の孫峻に次げば、滕胤に人心があつまる」という。孫峻に媚びる者は、孫峻を滕胤から卓越させるため、孫峻を丞相、大將軍、督中外諸軍事として、御史大夫を置くなと上表した。

胡三省はいう。漢制は秦制をつぎ、御史大夫をおき副丞相とする。いま孫峻を丞相として、副丞相を置かなければ、孫峻だけが国政をにぎれる。ゆえに孫呉の人々は孫峻にがっかりした。

滕胤の娘は、諸葛恪の子の諸葛竦の妻である。滕胤が司徒を辞すると、孫峻は「父の罪は子に及ばない」という。孫峻と滕胤は、内心では対立しているが、孫峻は滕胤を高密侯に進め、ともに執政した。
齊王の孫奮は、諸葛恪が誅されたと聞き、蕪湖に下り、建業の事変を見たがった。傅相の謝慈が戒めたが、孫奮はこの傅相を殺した。孫奮は庶人におとされ、章安に徙された。

胡三省はいう。章安とは、前漢の冶県である。もとは閩越の地である。光武帝が章安に改名して、会稽に属させた。沈約『宋書』はいう。臨海太守は、もとは会稽の東部都尉である。後漢は会稽を分けて呉郡をつくった。このとき会稽東部都尉は、章安県を治所にしたのではないか。


南陽王和妃張氏,諸葛恪之甥也。先是恪有徙都之意,使治武昌宮,民間或言恪欲 迎和立之。及恪被誅,丞相峻因此奪和璽綬,徙新都,又遣使者追賜死。初,和妾何氏 生子皓,諸姬子德、謙、俊。和將死,與張妃別,妃曰:「吉兇當相隨,終不獨生。」 亦自殺。何姬曰:「若皆從死,誰當字孤!」遂撫育皓及其三弟,皆賴以獲全。

南陽王の孫和の妃である張氏は、諸葛恪のめいである。これより先、諸葛恪が武昌宮に遷都しようとしたとき、民間で「諸葛恪が孫亮でなく孫和を天子にする」というウワサがあった。諸葛恪の死後、丞相の孫峻は孫和の南陽王の璽綬をうばい、新都に徙した。孫和は殺された。はじめ孫和の妾である何氏は、孫皓を産んだ。何氏は孫皓と、他の姫が産んだ3子を養った。

言うまでもなく、孫皓が最後の4代皇帝になる。

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正元元年(甲戌,公元254年)

春、司馬師が李豊、夏侯玄、張緝を殺す

春,二月,殺中書令李豐。初,豐年十七、八,已有清名,海內翕然稱之。其父太 僕恢不願其然,敕使閉門斷客。曹爽專政,司馬懿稱疾不出,豐為尚書僕射,依違二公 間,故不與爽同誅。豐子韜,以選尚齊長公主。司馬師秉政,以豐為中書令。

春2月、司馬師は中書令の李豐を殺した。李豊は名声があったが、父の太僕の李恢はこれを望まず、李豊を客に会わせない。正始8年、曹爽が専政して司馬懿が引退すると、李豊は尚書僕射となる。曹爽とも司馬懿ともくっつかず、曹爽とともに誅殺されず。李豊の子の李韜は、齊長公主をめとる。司馬師が秉政すると、李豊は中書令となる。

胡三省はいう。皇帝の姉妹を長公主という。李豊の子がめとったのは、けだし曹叡の娘だろう。


是時,太 常夏侯玄有天下重名,以曹爽親故,不得在勢任,居常怏怏;張緝以後父去郡家居,亦 不得意。豐皆與之親善。師雖擢用豐,豐私心常在玄。豐在中書二歲,帝數獨召豐與語, 不知所說。師知其議己,請豐相見以詰豐,豐不以實告;師怒,以刀鐶築殺之,送屍付 廷尉,遂收豐子韜及夏侯玄、張緝等皆下廷尉,鐘毓案治,雲:「豐與黃門監蘇鑠,永 寧署令樂敦,冗從僕射劉賢等謀曰:『拜貴人日,諸營兵皆屯門,陛下臨軒,因此同奉 陛下,將群僚人兵,就誅大將軍;陛下儻不從人,便當劫將去耳。』」又雲:「謀以玄 為大將軍,緝為驃騎將軍;玄、緝皆知其謀。」庚戌,誅韜、玄、緝、鑠、敦、賢,皆 夷三族。

このとき太常の夏侯玄も、天下に名声がある。曹爽と親しかったので、権勢のある官位に就けない。

嘉平元年、夏侯玄は関右から京師に召された。

張緝は皇后の父なので、郡を去って家にいる。意を得ない。

張緝は東莞から召された。嘉平4年にある。

李豊は、夏侯玄と張緝と仲が良い。司馬師は李豊を採用するが、李豊は夏侯玄に心を寄せる。李豊は中書令を2年やる。曹芳はしばしば李豊を召して語る。司馬師は、曹芳と李豊が何を話すか知らない。司馬師は自分の話ではないかと心配して、李豊に「何を話すか」と問いつめた。李豊が答えないので、司馬師が李豊を斬り殺した。死体を廷尉に送った。

ぼくは思う。いいのか?まったく司馬師に正当性が感じられない書き方をしている。李豊を逆恨みして、暴力を発動しただけじゃん。

司馬師は、李豊の子の李韜、夏侯玄、張緝らを廷尉にくだした。鍾毓が取り調べた。「司馬師を殺して、夏侯玄が大将軍になり、張緝が車騎将軍になる計画だった」と自白させ、庚戌に彼らを夷三族した。

夏侯霸之入蜀也,邀玄欲與之俱,玄不從。及司馬懿薨,中領軍高陽許允謂玄曰: 「無復憂矣!」玄歎曰:「士宗,卿何不見事乎!此人猶能以通家年少遇我,子元、子 上不吾容也。」及下獄,玄不肯下辭,鍾毓自臨治之。玄正色責毓曰:「吾當何罪!卿 為令史責人也,卿便為吾作!」毓以玄名士,節高,不可屈,而獄當竟,夜為作辭,令 與事相附,流涕以示玄;玄視,頷之而已。及就東市,顏色不變,舉動自若。
李豐弟翼,為兗州刺史,司馬師遣使收之。翼妻荀氏謂翼曰:「中書事發,可及詔 書未至赴吳,何為坐取死亡!左右可共同赴水火者為誰?」翼思未答,妻曰:「君在大 州,不知可與同死生者,雖去亦不免!」翼曰:「二兒小,吾不去,今但從坐身死耳, 二兒必免。」乃止,死。

夏侯覇が入蜀するとき、夏侯玄は同行せず。司馬懿が死ぬと、中領軍する高陽の許允は夏侯玄にいう。「これで憂慮がなくなった」と。夏侯玄は「許允よ、まだ司馬師と司馬昭がいる」という。夏侯玄は鍾毓に取り調べられ、死刑になるときも自若とした。
李豊の弟の李翼は兗州刺史である。司馬師の死者が、李翼を捕らえにきた。李翼の妻の荀氏はいう。「洛陽に呼ばれる前に、孫呉に逃げれば死なずにすむ」と。李翼は「私が逃げなければ、私の2子は助けてもらえる。もし私が孫呉に逃げたら、2子が殺される」と。李翼は死を選んだ。

初,李恢與尚書僕射杜畿及東安太守郭智善,智子沖,有內實而無外觀,州裡弗稱 也。沖嘗與李豐俱見畿,既退,畿歎曰:「孝懿無子;非徒無子,殆將無家。君謀為不 死也,其子足繼其業。」時人皆以畿為誤。及豐死,沖為代君太守,卒繼父業。
正始中,夏侯玄、何晏、鄧颺俱有盛名,欲交尚書郎傅嘏,嘏不受。嘏友人荀粲怪 而問之,嘏曰 (後略)。
辛亥,大赦。三月,廢皇後張氏,

かつて李恢は、尚書僕射の杜畿と、東安太守の郭智と仲が良い。

東安県は、前漢で城陽国に属した。後漢で瑯邪に属した。曹魏が東安郡に独立させた。沈約はいう。西晋の恵帝は、東莞郡を分けて、東安郡をつくる。けだし曹魏にわけて、また併せ、西晋にまた分けたのだ。

郭智の子は郭沖である。内実があるが外観がないので、州里で軽んじられた。郭沖はかつて、李豊とともに杜畿にあう。杜畿は「名声のある李恢の家系は絶えるが、名声のない郭沖の家系は続く」という。のちに李豊が死に、郭沖が代郡太守になった。杜畿の予想どおりになった。

ぼくは思う。李恢は、子の名声が高まることを嫌って、客を断った。郭沖は名声がないおかげで、司馬氏に狙われなかった。後漢末は名声を獲得することが、そのまま政治的に有利になったが、状況はそれほど単純でない。

正始のとき、夏侯玄、何晏、鄧颺は名声が盛んである。彼らは尚書郎の傅嘏に交際を申し出たが、傅嘏は受けない。友人の荀粲が怪しんで理由を聞いた。傅嘏は、夏侯玄らの危うさを言った。
2月辛亥、大赦した。3月、張緝の娘・張皇后を廃した。

胡三省はいう。曹操は伏皇后を殺した。司馬師は張皇后を殺した。これはただ天道ではない。曹操が司馬師に、禅譲の方法を教えたのだ。


夏、王氏が曹芳の皇后となる

夏,四月,立皇後王氏,奉車都尉夔之女也。
狄道長李簡密書請降於漢。六月,姜維寇隴西。

夏4月、王氏を皇后とした。奉車都尉の王夔の娘である。
狄道の県長。李簡は、密書で蜀漢に降伏をねがう。6月、姜維が隴西を寇した。

秋、司馬昭が許昌から入洛、曹芳を廃する

中領軍許允素與李豐、夏侯玄善。秋,允為鎮北將軍、假節、都督河北諸軍事。帝 以允當出,詔會群臣,帝特引允以自近;允當與帝別,涕泣歔欷。允未發,有司奏允前 放散官物,收付廷尉,徙樂浪,未至,道死。
吳孫峻驕矜淫暴,國人側目。司馬桓慮謀 殺峻,立太子登之子吳侯英;不克,皆死。

中領軍の許允は、李豊や夏侯玄と仲がよい。秋、許允は鎮北將軍、假節、都督河北諸軍事。

晋代に仮節都督する者は、四征や四鎮に大将軍を加えて、開府しない都督と同じである。四征、四鎮、四安、四平に大将軍を加えて、開府せず持節して都督する者は、品秩第2である。
ぼくは補う。魏代はここまで整備されていない。

曹芳は許允が河北にいくので、許允を近くに呼んだ。許允は泣いて離別を惜しんだ。許允が河北にゆく前に、有司は「許允が官物を放散した」として、許允を廷尉に捕らえさせ、楽浪に徙した。楽浪につく前に死んだ。
孫呉の孫峻は驕矜淫暴なので、司馬の桓慮が孫峻を殺して、孫登の子で呉侯の孫英を天子に立てようとした。桓慮は孫峻に敗れて、みな死んだ。

帝以李豐之死,意殊不平。安東將軍司馬昭鎮許昌,詔召之使擊姜維。九月,昭領 兵入見,帝幸平樂觀以臨軍過。左右勸帝因昭辭,殺之,勒兵以退大將軍;已書詔於前, 帝懼,不敢發。
昭引兵入城,大將軍師乃謀廢帝。甲戌,師以皇太后令召群臣會議,以帝荒淫無度, 褻近倡優,不可以承天緒;群臣皆莫敢違。乃奏收帝璽綬,歸籓於齊。使郭芝入白太后, 太后方與帝對坐,芝謂帝曰:「大將軍欲廢陛下,立彭城王據!」帝乃起去。太后不悅。 芝曰:「太后有子不能教,今大將軍意已成,又勒兵於外以備非常,但當順旨,將復何 言!」太后曰:「我欲見大將軍,口有所說。」芝曰:「何可見邪!但當速取璽綬!」 太后意折,乃遣傍侍御取璽綬著坐側。芝出報師,師甚喜。又遣使者授帝齊王印綬,使 出就西宮。帝與太后垂涕而別,遂乘王車,從太極殿南出,群臣送者數十人,司馬孚悲 不自勝,餘多流涕。

李豊が死んでから、曹芳は不平である。安東將軍の司馬昭は許昌に鎮する。曹芳は司馬昭を召して、姜維を撃たせたい。9月、司馬昭が兵を領して曹芳の前にきた。曹芳は平樂觀(洛陽の城西)で、司馬昭の通過に臨んだ。左右の者は「司馬昭を殺せ」と勧めた。詔書を前に用意したが、曹芳は敢えて発さず。

胡三省はいう。司馬昭が洛陽に入城するのを許してしまった時点で、曹芳の事業は終わった。

司馬昭が入城して、司馬師とともに曹芳の廃位をはかる。9月甲戌、皇太后の令により、群臣を召して、曹芳が「荒淫にして度なし、倡優を褻近する」から天子の資格がないと糾弾する。群臣は反論しない。皇帝の璽綬をおさめ、曹芳を斉国に帰藩させる。郭芝から太后に報告した。太后は曹芳の向かいに座る。郭芝は曹芳に「司馬師は陛下を廃して、彭城王の曹據を立てる」という。曹芳は立って去った。太后は悦ばず。

胡三省はいう。曹據とは、曹丕の子である。郭芝は太后の従父である。ゆえに郭芝が太后を脅す役割をやった。

太后は「司馬師に言うべきことがある」というが、郭芝が制止した。鄧芝から報告を受け、司馬師は喜んだ。

胡三省はいう。王莽、司馬師、蕭鸞の心は同じである。ぼくは補う。蕭鸞は、南朝斉の5代皇帝。先代の海陵王を廃した。

曹芳に斉王の印綬を持たせ、西宮に行かせた。曹芳は垂涕して太后と別れた。王車に乗り、太極殿から南出した。群臣で見送る者は數十人である。司馬孚は悲しみに堪えられない。

ぼくは思う。司馬師にまったく愛がない。司馬師と司馬攸、司馬昭と司馬炎と司馬衷、という家系の対立を反映しているのか?それとも司馬光が意図的に、司馬師を悪者にして「読者」たる皇帝に何かを説いているのか?
このとき曹芳は21歳。


師又使使者請璽綬於太后。太后曰:「彭城王,我之季叔也,今來立,我當何之! 且明皇帝當永絕嗣乎?高貴鄉公,文皇帝之長孫,明皇帝之弟子。於禮,小宗有後大宗 之義,其詳議之。」丁丑,師更召群臣,以太后令示之,乃定迎高貴鄉公髦於元城。髦 者,東海定王霖之子也,時年十四,使太常王肅持節迎之。師又使請璽綬,太后曰: 「我見高貴鄉公,小時識之,我自欲以璽綬手授之。」

郭太后は、曹叡の弟の子の曹髦をおした。「傍流が嫡流を継承する儀礼を議論せよ」と。

ぼくは思う。太后はすべては司馬師の言いなりにならなかったのか。太后が魏室に対して、どういう思いを持っていたのか、推測したら楽しそう。魏末の主要な混乱は、いつもこの太后の名において発動されるから。

3月丁丑、司馬師はあらためて群臣を召して、太后の令を示した。高貴鄉公の曹髦を元城に迎えることにした。

元城県とは、漢代は魏郡に属する。魏代は陽平郡に属する。ときに曹魏の王公は、すべて鄴県に置かれた。ゆえに曹髦は、元城で迎えられた。

曹髦は、東海定王の曹霖の子である。14歳。太常の王肅が持節して、曹髦を迎えた。また司馬師が王粛から太后に璽綬を請わせた。太后はいう。「わたしは曹髦の幼時を知る。みずから天子の璽綬を手渡したい」と。

胡三省はいう。太后は曹髦を当てたい。かならず幼時に諸王子よりも優れているのを見たから、曹髦を選んだ。まさか曹髦のせいで、魏室がヤバくなるなど、知るはずもない。


冬、曹髦が即位し、蜀の張嶷が戦死する

冬,十月,己丑,高貴鄉公至玄 武館,群臣奏請捨前殿,公以先帝舊處,避止西廂;群臣又請以法駕迎,公不聽。庚寅, 公入於洛陽,群臣迎拜西掖門南,公下輿答拜,儐者請曰:「儀不拜。」公曰:「吾人 臣也。」遂答拜。至止車門下輿,左右曰:「舊乘輿入。」公曰:「吾被皇太后征,未 知所為。」遂步至太極東堂,見太后。其日,即皇帝位於太極前殿,百僚陪位者皆欣欣 焉。大赦,改元。為齊王築宮於河內。

冬10月己丑、曹髦が玄武館にくる。曹髦は「私は人臣だ」といい、天子の儀礼や移動手段をこばむ。歩いて太極の東堂にゆき、太后にあう。その日、太極前殿で皇帝に即位した。百僚の陪位する者は、みな欣んだ。

ぼくは思う。皇帝が空位になったとき、太后が帝室を切り盛りするのは、後漢と同じである。いまも司馬師でなく太后が、主導権をもって皇位を継承させた。たしかに外戚は、権限の大きさから朝廷の害悪になることがおおい。だが根源に悪意などなく、ただ帝室の準メンバーとして、朝廷を守ろうとする気持ちで動いているのだろう。
胡三省はいう。百官が喜んだのは、曹髦になら仕えられると考えたからだ。しかし曹髦は、司馬昭に殺される。前漢の文帝が外から天子についたとき、夜に宋昌を衛将軍として南北軍を領させ、張武を郎中令として殿中にゆかせた。周勃、陳平、朱虚、東牟は大功があったが、文帝は彼らに権力を持たせなかった。だから文帝の朝廷は安定した。いま曹魏で、既存の百官が欣んで曹髦を迎えた(既存の百官を廃さなかった)ことが、曹髦の最期をまねく。

大赦して正元と改元した。斉王の曹芳には、河内に居宮を築く。

漢姜維自鍬道進拔河間、臨洮。將軍徐質與戰,殺其蕩寇將軍張嶷,漢兵乃還。
初,揚州刺史文欽,驍果絕人,曹爽以鄉里故愛之。欽恃爽勢,多所陵傲。及爽誅, 欽已內懼,又好增虜級以邀功賞,司馬師常抑之,由是怨望。鎮東將軍毌丘儉素與夏侯 玄、李豐善,玄等死,儉亦不自安,乃以計厚待欽。儉子治書侍御史甸謂儉曰:「大人 居方岳重任,國家傾覆而晏然自守,將受四海之責矣!」儉然之。

姜維が鍬道から進んで、河間、臨洮をぬく。

胡三省はいう。河間でなく、河関とすべきだ。河関県は、前漢で金城、後漢で隴西に属する。臨洮は狄道の西にあり、姜維は狄道から西して、臨洮と河間を攻めたのだ。曹魏の辺境の県を自領にしたい。
ぼくは思う。自分のきたない字で、『三国志』を写経して思った。大量の文字を、正確に書き写すのって、当たり前だけど、すごく難しい!河間だろうが河関だろうが、いいじゃないか。胡三省のように合理的に復元できる範囲であれば。

曹魏の将軍の徐質が、姜維と戦い、蜀漢の蕩寇將軍の張嶷を殺した。蜀軍は帰還した。
はじめ揚州刺史の文欽は、人よりも驍果で、曹爽と同郷だから愛された。曹爽の死後、活躍できないので文欽は司馬師を怨望した。鎮東將軍の毌丘儉は、夏侯玄、李豐と仲がよい。夏侯玄と李豊が死に、毋丘倹は不安になって、文欽と計画をねる。毋丘倹の子である治書侍御史の毋丘甸は、毋丘倹にいう。「毋丘倹は、地方の重任を担当している。中央の国家が傾覆しても、晏然として自守していれば、四海から責められる」と。毋丘倹は合意した。

胡三省はいう。方岳とは、堯舜がおいた四岳の官である。
『尚書』『書経』虞書を抄訳する
毋丘倹は鎮東将軍だから、四岳に該当する。魏晋では、征、鎮、安、平の将軍は、諸軍を総督して、方面軍を任された。
ぼくは思う。毋丘倹の子は「曹芳が廃されたのに、司馬師を放置するのは、方面軍の長官としての責任を果たしていない」と言っている。四岳=地方官は、あくまで中央を守るのが本義である。三国時代だと、戦線の管理にばかり目が行くけれど。3回の寿春の反乱も「魏呉の境界としての地理を活かした戦略」ではない。あくまで中央の政事に対する意思の表明だ。

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正元二年(乙亥,公元255年)

正月、毋丘倹と文欽が寿春で挙兵

春,正月,儉、欽矯太后詔,起兵於壽春,移檄州郡,以討司馬師。又表言:「相 國懿忠正,有大勳於社稷,宜宥及後世,請廢師,以侯就第,以弟昭代之。太尉孚忠孝 小心,護軍望,忠公親事,皆宜親寵,授以要任。」望,孚之子也。儉又遣使邀鎮南將 軍諸葛誕,誕斬其使。儉、欽將五六萬眾渡淮,西至項;儉堅守,使欽在外為游兵。

春正月、毋丘倹と文欽は、太后の詔を偽造し、寿春で起兵した。州郡に「司馬師を討て」と文書を回覧した。「司馬懿、司馬昭、太尉の司馬孚、護軍の司馬望は正しい人物なのに、司馬師はダメである。司馬昭に代えよ」と。

ぼくは思う。これは司馬氏への謀反ではない。ピンポイントで、司馬昭という特定の人物がやった、曹芳の廃位という特定の政治判断への抗議である。魏晋の大きな流れのなかで、「魏晋革命への抵抗なのね」と理解してはいけない。

司馬望は、司馬孚の子である。毋丘倹は、鎮南將軍の諸葛誕を誘ったが、諸葛誕は使者を斬った。毋丘倹らは、5,6万で淮水をわたり、西して項県にいたる。毋丘倹は内を堅め、文欽が外で游兵をつかう。

ぼくは思う。項県は王淩が死んだところ。また諸葛誕は、どうせ次に自分が挙兵するのだから、毋丘倹とまとめて挙兵しておけば、勝率が高まった。つまり、毋丘倹の挙兵と、諸葛誕の挙兵は、理由が異なる、と理解せねばならない。「魏晋革命への抵抗」とまとめてしまうと、趣旨が見えなくなる。


司馬師問計於河南尹王肅,肅曰:「昔關羽虜於禁於漢濱,有北向爭天下之志,後 孫權襲取其將士家屬,羽士眾一旦瓦解。今淮南將士父母妻子皆在內州,但急往御衛, 使不得前,必有關羽土崩之勢矣。」
時師新割目瘤,創甚,或以為大將軍不宜自行,不 如遣太尉孚拒之。唯王肅與尚書傅嘏、中書侍郎鐘會勸師自行,師疑未決。嘏曰:「淮、 楚兵勁,而儉等負力遠鬥,其鋒未易當也。若諸將戰有利鈍,大勢一失,則公事敗矣。」 師蹶然起曰:「我請輿疾而東。」戊午,師率中外諸軍以討儉、欽,以弟昭兼中領軍, 留鎮洛陽,召三方兵會於陳、許。

司馬師は、河南尹の王粛に計略を聞いた。王粛はいう。「関羽が于禁を漢水の浜でとらえたが、孫権に将士の家属を捕らわれて瓦解した。淮南の将士は内地にいる。家属を捕らえれば、淮南の将士も瓦解する」と。
ときに司馬師は目にコブがある。「太尉の司馬孚を淮南に行かせよ」という人もいる。だが、河南尹の王粛、尚書の傅嘏、中書侍郎の鍾会は「司馬師が自ら行け」という。

ぼくは思う。もし司馬孚が行ってしまうと、ただ司馬師の私闘だったもの、ただ個別の政策への批判だったものが、「司馬氏と他氏との対決」にすりかわってしまう。この飛び火は、魏晋革命を遅らせるだろう。やはり、司馬師が自ら行かねばならん。

正月戊午、司馬師は中外諸軍をひきいて出陣する。司馬昭が中領軍を兼ね、洛陽を留鎮する。東西北の3方の兵をあわせ、陳、許にゆく。

師問計於光祿勳鄭袤,袤曰:「毌丘儉好謀而不達事情,文欽勇而無算。今大軍出 其不意,江、淮之卒,銳而不能固,宜深溝高壘以挫其氣,此亞夫之長策也。」師稱善。
師以荊州刺史王基為行監軍,假節,統許昌軍。基言於師曰:「淮南之逆,非吏民 思亂也,儉等誑誘迫脅,畏目下之戮,是以尚屯聚耳。若大兵一臨,必土崩瓦解,儉、 欽之首不終朝而致於軍門矣。」師從之。以基為前軍,既而復敕基停駐。基以為:「儉 等舉軍足以深入,而久不進者,是其詐偽已露,眾心疑沮也。(中略) 軍宜速 進據南頓,南頓有大邸閣,計足軍人四十日糧。保堅城,因積穀,先人有奪人之心,此 平賊之要也。」基屢請,乃聽,進據水隱水。

光祿勳の鄭袤はいう。「毋丘倹は事情に詳しくない。文欽は考えがない。長江や淮水のあたりの卒は、鋭いが固くない。防御をかため、鋭気をそげば、前漢の周亜夫が呉越を破ったように、毋丘倹に勝てるだろう」と。
司馬師は、荊州刺史の王基を、行監軍、假節として、許昌の軍を統べさせる。

胡三省はいう。漢魏革命のとき、許昌に別宮があった。重兵を屯させ、東と南の軍事上の要地である。

王基はいう。「淮南の吏民に、反意はない。毋丘倹と文欽がたぶらかした。もし大軍がゆけば瓦解する」と。王基は前軍となり、防衛に留まる。王基はいう。「南頓に40日の糧食がある。南頓を防御すれば、毋丘倹は意図を削がれて敗れる」と。王基はこの作戦を許され、隱水に進んで南頓を防御する。

胡三省はいう。南頓県は、汝南に属する。また『水経注』が隠水のあたりを説明するが、はぶく。


閏月,甲申,師次於水隱橋,儉將史招、李續相次來降。王基復言於師曰:「兵聞 拙速,未睹巧之久也。方今外有強寇,內有叛臣,若不時決,則事之深淺未可測也。議 者多言將軍持重。將軍持重,是也;停軍不進,非也。持重,非不得之謂也,進而不可 犯耳。今保壁壘以積實資虜而遠運軍糧,甚非計也。」師猶未許。基曰:「將在軍,君 令有所不受。彼得則利,我得亦利,是謂爭地,南頓是也。」遂輒進據南頓,儉等從項 亦欲往爭,發十餘里,聞基先到,乃復還保項。
癸未,征西將軍郭淮卒,以雍州刺史陳泰代之。

閏月甲申、司馬師は隱水に橋をかける。毋丘倹の部将である史招、李續が来降した。王基はいう。「兵は拙速がよい。毋丘倹を平定しないと、孫呉が動きだす。早く南頓を抑えよ」と。しぶしぶ司馬昭が王基を採用した。
なんと毋丘倹も、項県から南頓を奪いにきた。王基のおかげで、司馬師はさきに南頓を抑えた。毋丘倹は、項県にひき返した。
閏月癸未、征西將軍の郭淮が卒した。雍州刺史の陳泰を後任とした。

ぼくは思う。姜維に眉間を射られたのである。笑


吳丞相峻率驃騎將軍呂據、左將軍會稽留贊襲壽春,司馬師命諸軍皆深壁高壘,以 待東軍之集。諸將請進軍攻項,師曰:「諸軍得其一,未知其二。淮南將士本無反志, 儉、欽說誘與之舉事,謂遠近必應;而事起之日,淮北不從,史招、李繼前後瓦解,內 乖外叛,自知必敗。困獸思鬥,速戰更合其志。雖雲必克,傷人亦多。且儉等欺誑將士, 詭變萬端,小與持久,詐情自露,此不戰而克之術也。」乃遣諸葛誕督豫州諸軍,自安 風向壽春;征東將軍胡遵督青、徐諸軍出譙、宋之間,絕其歸路;師屯汝陽。毌丘儉、 文欽進不得鬥,退恐壽春見襲,計窮不知所為。淮南將士家皆在北,眾心沮散,降者相 屬,惟淮南新附農民為之用。

孫呉の丞相の孫峻は、驃騎將軍の呂據、左將軍する會稽の留贊をひきいて、寿春をおそう。司馬師は防衛を命じた。諸将は「項県の毋丘倹を攻めたい」というが、司馬昭は「待っていれば、戦わなくても毋丘倹は瓦解する」という。諸葛誕は豫州の諸軍を督して、安風から壽春に向かう。征東將軍の胡遵は、青と徐州の諸軍を督して譙、宋の間にゆき、毋丘倹の帰路を絶つ。

安風県とは、前漢で六安国に属した。後漢では廬江郡に併された。曹魏は安風ら5県を分割して、安豊郡をつくる。豫州に属させる。
宋とは、梁国の地をいう。梁国は睢陽を都とする。もと宋の都があった。

司馬師は汝陽にいる。毋丘倹らは、進んで司馬師と戦えない。後ろで寿春が孫呉に狙われる。どうしてよいか分からない。降る者が相次ぎ、ただ淮南で新附した農民だけを、毋丘倹軍に用いた。

春、鄧艾が楽嘉を守り、文欽が孫呉に奔る

儉之初起,遣健步□書至兗州,兗州刺史鄧艾斬之,將兵萬餘人,兼道前進,先趨 樂嘉城,作浮橋以待師。儉使文欽將兵襲之。師自汝陽潛兵就艾於樂嘉,欽猝見大軍, 驚愕未知所為。
欽子鴦,年十八,勇力絕人,謂欽曰:「及其未定,擊之,可破也。」 於是分為二隊,夜夾攻軍。鴦率壯士先至鼓噪,軍中震擾。師驚駭。所病目突出,恐眾 知之,嚙被皆破。欽失期不應,會明,鴦見兵盛,乃引還。師謂諸將曰:「賊走矣,可 追之!」諸將曰:「欽父子驍猛,未有所屈,何苦而走?」師曰:「夫一鼓作氣,再而 衰。鴦鼓噪失應,其勢已屈,不走何待!」欽將引而東,鴦曰:「不先折其勢,不得 也。」乃與驍騎十餘摧鋒陷陳,所向皆披靡,遂引去。師使左長史司馬班率驍將八千翼 而追之,鴦以匹馬入數千騎中,輒殺傷百餘人,乃出,如此者六七,追騎莫敢逼。

はじめ毋丘倹が起兵したとき、健脚の者が文書を兗州にとどける。兗州刺史の鄧艾が使者を斬った。鄧艾は、樂嘉城に走って、浮橋をつくって司馬師を待った。

『水経注』はいう。頴水は汝陽県の北をすぎて、また東南して南頓県をすぎる。隠水にそそぐ。また南して、博陽の故城の東をとおる。博陽は南頓の北40里にある。前漢の宣帝が、丙吉を博陽の侯国に封じた。王莽のとき、楽嘉と改称した。
ぼくは思う。鄧艾は、使者を斬るだけでなく、戦闘上の要地まで抑えた。鄧艾はすごいなあ!地形を見抜く目があるなあ!という話。

毋丘倹は文欽をやり、鄧艾のいる楽嘉を襲った。司馬師は汝陽から兵を潜ませ、楽嘉を救援する。文欽は、司馬師の兵に驚いた。文欽の子・文鴦は、司馬師を夜襲した。司馬師は目が突出した。文鴦が力戦した。

ぼくは思う。司馬師と文鴦の戦いは、はぶく。

司馬師は、左長史の司馬班に、文鴦を左右から追わせた。

胡三省はいう。曹魏の公府、および諸大将軍の位にあり三公につぐ者は、おのおの長史1名をおく。ただ大将軍府と司徒府は、左右長史を1名ずつ(計2名)おけた。


殿中人尹大目小為曹氏家奴,常在天子左右,師將與俱行,大目知師一目已出,啟 雲:「文欽本是明公腹心,但為人所誤耳;又天子鄉里,素與大目相信,乞為公追解語 之,令還與公復好。」師許之。大目單身乘大馬,被鎧冑,追欽,遙相與語。大目心實 欲為曹氏,謬言:「君侯何苦不可復忍數日中也!」欲使欽解其旨。欽殊不悟,乃更厲 聲罵大目曰:「汝先帝家人,不念報恩,反與司馬師作逆,不顧上天,天不祐汝!」張 弓傅矢欲射大目。大目涕泣曰:「世事敗矣,善自努力!」

殿中人の尹大目は、小さなとき曹氏の家奴となる。つねに天子の左右にいる。司馬師とともに行軍した。司馬師の目が突出したのを見て、尹大目はいう。

胡三省はいう。尹大目はときに殿中校尉である。
ぼくは思う。司馬師の目が飛び出したとき、その心配をするのが、殿中人で曹氏の家奴の尹大目さん。まるで、骨折したときに兀突骨に看病してもらうみたいな。耳痛のときに聶友(ジョウユウ=諸葛恪の友達)に看病してもらうみたいな。余計なお世話だから、近寄らないでほしいと思う。

「文欽は司馬師の腹心だ。また文欽は、天子=曹氏と郷里が同じ(譙県)だ。話せば分かる」と。司馬師が許したので、尹大目は単身で乗馬して、文欽を説得した。尹大目は心から曹氏のことを思うので、文欽に「なぜあと数日だけ我慢しないのか(司馬師が死ぬのに)」という。文欽は含意を理解できず、尹大目に矢を向けた。尹大目は涕泣した。

ぼくは思う。尹大目は、司馬師ではなく、曹氏と文欽の仲間だった。司馬師が人選と判断を誤った!というエピソードである。しかも文欽まで察しが悪かった、というエピソードでもある。馬鹿ばっか、という話。


是日,毌丘儉聞欽退,恐懼,夜走,眾遂大潰。欽還至項,以孤軍無繼,不能自立, 欲還壽春;壽春已潰,遂奔吳。吳孫峻至東興,聞儉等敗,壬寅,進至橐皋,文欽父子 詣軍降。毌丘儉走,比至慎縣,左右人兵稍棄儉去,儉藏水邊草中。甲辰,安風津民張 屬就殺儉,傳首京師,封屬為侯。諸葛誕至壽春,壽春城中十餘萬口,懼誅,或流迸山 澤,或散走入吳。詔以誕為鎮東大將軍、儀同三司,都督揚州諸軍事。
夷毌丘儉三族。 儉黨七百餘人系獄,侍御史杜友治之,惟誅首事者十餘人,餘皆奏免之。儉孫女適劉氏, 當死,以孕系廷尉。司隸主簿程鹹議曰:「女適人者,若已產育,則成他家之母,於防 則不足懲奸亂之源,於情則傷孝子之恩。男不遇罪於他族,而女獨嬰戮於二門,非所以 哀矜女弱、均法制之大分也。臣以為在室之女,可從父母之刑;既醮之婦,使從夫家之 戮。」朝廷從之,仍著於律令。

この日、文欽が退いたと聞き、毋丘倹はにげた。軍が潰えた。文欽は項県にもどり、寿春に還りたい。寿春がすでに潰えたので、文欽は孫呉に奔った。孫峻は東興にいる。壬寅,橐皋(巣県の境界)まできて、文欽の父子を受け入れた。毋丘倹は、慎県にゆく。

胡三省はいう。慎県は、漢代は汝南に属し、魏代は汝陰郡に分けて属す。李賢はいう。慎県は項県の南である。北ではない。

甲辰、安風津の民・張属が毋丘倹を殺して、侯爵に封ぜらる。諸葛誕は壽春にくる。寿春の10余万口は、山沢や孫呉に逃げそう。諸葛誕は、鎮東大將軍、儀同三司,都督揚州諸軍事。となる。

ぼくは思う。山沢に逃げるのが、大室幹雄っぽくて良い!

毋丘倹を夷三族した。党与の7百余人をつなぎ、侍御史の杜友が治めた。首謀者10余人だけを殺し、他を許した。毋丘倹の孫娘が劉氏に嫁ぎ、妊娠している。司隸主簿の程鹹が、「嫁いだ女は、嫁ぎ先に属する」と判断した。朝廷は、この判例を律令に明記した。

春、司馬師が死に、司馬昭が許昌を防衛する

舞陽忠武侯司馬師疾篤,還許昌,留中郎將參軍事賈充監諸軍事。充,逵之子也。
衛將軍昭自洛陽往省師,師令昭總統諸軍。辛亥,師卒於許昌。中書侍郎鐘會從師 典知密事,中詔敕尚書傅嘏,以東南新定,權留衛將軍昭屯許昌為內外之援,令嘏率諸 軍還。會與嘏謀,使嘏表上,輒與昭俱發,還到洛水南屯住。二月,丁巳,詔以司馬昭 為大將軍、錄尚書事。會由是常有自矜之色,嘏戒之曰:「子志大其量,而勳業難為也, 可不慎哉!」
吳孫峻聞諸葛誕已據壽春,乃引兵還。以文欽為都護、鎮北大將軍、幽州牧。
三月,立皇後卞氏,大赦。後,武宣皇後弟秉之曾孫女也。

舞陽忠武侯の司馬師は疾篤である。許昌に還る。中郎將で參軍事する賈充に諸軍事を監させた。賈充は、賈逵の子である。
衛將軍の司馬昭は、洛陽から許昌にくる。司馬師は司馬昭に、諸軍を總統させた。正月辛亥、司馬師は許昌で卒した。中書侍郎の鐘會は、司馬師に従い、密事を典知する。尚書の傅嘏に、禁中からの詔がある。

胡三省はいう。禁中というが、司馬師の判断である。

詔の鳥はいう。東南=寿春が定まったばかりなので、衛將軍の司馬昭を許昌に屯させ、內外之援とせよと。傅嘏は諸軍をひきいて、洛陽に還る。鍾会と傅嘏は策謀した。傅嘏は、司馬昭とともに発して、洛水の南に留まる。2月丁巳、司馬昭を大將軍として、錄尚書事させる。鍾会に自矜之色があるので、傅嘏が「慎めよ」と戒めた。

胡三省はいう。のちに鍾会が成都で反乱する伏線だ。

孫峻は、諸葛誕が寿春に拠ると聞いて、兵を引いた。孫呉は文欽を、都護、鎮北大將軍、幽州牧とした。

胡三省はいう。漢制では、都護を西域においた。西域では都護将軍と称した。しかし将軍号が付いた実例がない。光武のとき、都護将軍の実例が生まれた。三国では位は三公に従ぐ。晋制では、撫軍の下、鎮軍の上である。孫呉は左右の都護をおく。孫呉でも将軍号がつかない。いま文欽は都護となった。これは、左右の都護よりも上であろう。

3月、曹髦は皇后に卞氏を立てた。大赦した。皇后は、曹操の卞皇后の弟・卞秉の曽孫である。

ぼくは思う。卞氏の系図、書いたらすごいことになりそう。低い身分から、曹操とともに成り上がり、勢族となる。これは、後漢の外戚にも通じるなあ。魏代は、当たり前だけど漢代の影響や共通点が大きい。


秋、姜維が狄道で王経を囲み、陳泰が救う

秋,七月,吳將軍孫儀、張怡、林恂謀殺孫峻,不克,死者數十人。全公主譖硃公 主於峻,曰「與儀同謀」。峻遂殺硃公主。 峻使衛尉馮朝城廣陵,功費甚眾,舉朝莫敢言,唯滕胤諫止之,峻不從,功卒不成。
漢姜維復議出軍,征西大將軍張翼廷爭,以為:「國小民勞,不宜黷武。」維不聽, 率車騎將軍夏侯霸及翼同進。八月,維將數萬人至枹罕,趨狄道。

秋7月、孫呉の将軍・孫儀、張怡、林恂は、孫峻を謀殺しようとした。失敗して、数十人が死んだ。全公主は、朱公主を孫峻にそしる。「朱公主も孫峻を殺そうとした」と。孫峻は朱公主を殺した。

胡三省はいう。朱公主とは、孫権の娘である。朱拠の妻である。

孫峻は、衛尉の馮朝に、廣陵で築城させる。コストが莫大だが、みな孫峻に逆らえない。ただ滕胤だけが諫めた。広陵の築城は失敗した。

胡三省はいう。魏代の広陵は、淮陰を治所とする。漢代の広陵の故城は、廃棄されて修繕されていない。ぼくは思う。漢代のほうの故城、南のほうにある故城を、孫峻は再建しようとしたのか。このあたりは、劉備、呂布、袁術が舞台にした場所だ。海辺のあたりは、けっこう土地が広大なのに、放置されっぱなしだ。

姜維は出陣したいが、征西大將軍の張翼が「国は小さく、民は疲れた。出陣するな」と反対した。だが姜維は、車騎將軍の夏侯霸と、張翼とともに出陣した。8月、姜維は数万で枹罕につく。狄道にはしる。

枹罕県とは、前漢では金城に属する。後漢では隴西に属する。曹魏では、このとき枹罕県は廃されていた。ぼくは思う。国境付近は、たいていが廃されている。姜維の戦果とは、「どうせ国境だから維持できない城」を奪うことである。当然ながら守備がいないので奪えるが、当然ながら守備が続かない。こんな言葉遊びで、姜維の行動の無意味さを語り尽くせてしまう。


征西將軍陳泰敕雍州刺史王經進屯狄道,須泰軍到,東西合勢乃進。泰軍陳倉,經 所統諸軍於故關與漢人戰不利,經輒渡洮水。泰以經不堅據狄道,必有他變,率諸軍以 繼之。經已與維戰於洮西,大敗,以萬餘人還保狄道城,餘皆奔散,死者萬計。張翼謂 維曰:「可以止矣,不宜復進,進或毀此大功,為蛇畫足。」維大怒,遂進圍狄道。

征西將軍の陳泰は、雍州刺史の王經に命じて、狄道に進ませる。陳泰が王経に追いつき、左右で進む。陳泰は陳倉にゆく。王経は、(洮水の西にある)漢代の故関を通過した。古関では、姜維と有利に戦えないので、王経は洮水を渡った。陳泰は、王経が狄道を堅めず通過したため、異変があると考え、王経の後ろを継いだ。王経は、洮水の西で姜維に大敗して、狄道城に逃げこむ。王経軍は、1万が死んだ。張翼は姜維に「もう進むな。蛇足だ」という。姜維は怒り、狄道城を囲んだ。

胡三省は蛇足の故事を、きちんと引用する。こういう、日本語に血肉化された言葉こそ、じっくり注釈を吟味すべきなんだろうなあ、と言いつつ、はぶく。中華書局2426頁。


辛未,詔長水校尉鄧艾行安西將軍,與陳泰並力拒維;戊辰,復以太尉孚為後繼。 泰進軍隴西,諸將皆曰:「王經新敗,賊眾大盛,將軍以烏合之卒,繼敗軍之後,當乘 勝之鋒,殆必不可。古人有言:『蝮蛇螫手,壯士解腕。』《孫子》曰:『兵有所不擊, 地有所不守。』蓋小有所失而大有所全故也。不如據險自保,觀釁待敝,然後進救,此 計之得者也。」
泰曰:「姜維提輕兵深入,正欲與我爭鋒原野,求一戰之利。王經當高 壁深壘,挫其銳氣,今乃與戰,使賊得計。經既破走,維若以戰克之威,進兵東向,據 櫟陽積穀之實,放兵收降,招納羌、胡,東爭關、隴,傳檄四郡,此我之所惡也。而乃 以乘勝之兵,挫峻城之下,銳氣之卒,屈力致命,攻守勢殊,客主不同。兵書曰:『修 櫓轒轀,三月乃成,拒堙三月而後已。』誠非輕軍遠入之利也。今維孤軍遠僑,糧谷不 繼,是我速進破賊之時,所謂疾雷不及掩耳,自然之勢也。洮水帶其表,維等在其內, 今乘高據勢,臨其項領,不戰必走。寇不可縱,圍不可久,君等何言如是!」

8月辛未、長水校尉の鄧艾を行安西將軍とする。

『晋書』はいう。四安は、魏初から設置されるようになった。四鎮の下である。

鄧艾は、陳泰とともに姜維を拒む。8月戊辰、太尉の司馬孚が、鄧艾に続く。陳泰は隴西に進軍する。諸将は陳泰に「王経に大勝した姜維が攻めてくる。険阻な地形に拠り、援軍を待とう」という。
陳泰はいう。「姜維は一戦之利を求める。王経は防御して、姜維の鋭気を挫くべきだった。だが、王経は姜維と戦ってしまった。いま王経が狄道城を抜かれたら、姜維は東するだろう。櫟陽の軍資と人口を得るだろう。

胡三省はいう。櫟陽県は、前漢では左馮翊に属する。後漢と曹魏では省かれた。だが櫟陽は、長安の東北にある。狄道にいる姜維が東しても、櫟陽に着かない。「略陽」とすべきであろう。

姜維は、羌胡を招き納れ、関隴の4郡を下す。これは困る。

胡三省はいう。4郡とは、隴西、南安、天水、略陽である。略陽は、ときに広魏郡と改称されている。晋代に略陽に戻された。

姜維は遠征しており、補給に不安がある。姜維と戦うのでなく、速やかに進軍して姜維を脅かせ。姜維は撤退するだろう」と。

遂進軍度 高城嶺,潛行,夜至狄道東南高山上,多舉烽火,鳴鼓角。狄道城中將士見救至,皆憤 踴。維不意救兵卒至,緣山急來攻之,泰與交戰,維退。泰引兵揚言欲向其還路,維懼, 九月,甲辰,維遁走,城中將士乃得出。王經歎曰:「糧不至旬,向非救兵速至,舉城 屠裂,覆喪一州矣!」泰慰勞將士,前後遣還,更差軍守,並治城壘,還屯上邽。
泰每以一方有事,輒以虛聲擾動天下,故希簡上事,驛書不過六百裡。大將軍昭曰: 「陳征西沉勇能斷,荷方伯之重,救將陷之城,而不求益兵,又希簡上事,必能辦賊故 也。都督大將不當爾邪!」 姜維退駐鐘提。

陳泰は、狄道を包囲する姜維軍をおどろかせた。姜維は退いた。9月甲辰、姜維がにげて、狄道城の將士は出ることができた。王経は歎じた。「食糧が10日もなかった。もし狄道城を失えば、1州(隴西、略陽、天水、南安)を蜀漢に奪われるところだ」と。陳泰は将士をねぎらい、狄道城を修繕して、上邽にもどる。
陳泰は戦争があっても、報告しない。6百里より遠くに駅書しない。

胡三省はいう。狄道は、洛陽から2200里ある。けだし陳泰の報告は、近隣の郡県にしか送られない。もし通常の報告ルートを守るなら、陳泰は洛陽に報告すべきである。

大将軍の司馬昭はいう。「征西将軍の陳泰は、決断力があり、方面軍を担える。陥落しそうな城を救援するとき、援軍を増やせと言わない。まれの報告しかない。だか必ず敵軍を退ける。都督や大将のなかで、陳泰に敵うものはいない」と。
姜維は退き、鐘提にいる。

鐘提は、羌族の居住地のなか。蜀漢の涼州の境界である。


冬、孫権の太廟をつくる

初,吳大帝不立太廟,以武烈嘗為長沙太守,立廟於臨湘,使太守奉祠而已。冬, 十二月,始作太廟於建業,尊大帝為太祖。

はじめ孫権は太廟を立てない。孫堅が長沙太守だったので、長沙の臨湘に廟を立てて、長沙太守に祭らせていた。冬12月、はじめて建業に太廟をたてた。孫権を「太祖」とした。121115

『通鑑考異』はいう。『呉歴』はいう。太平元年正月、太祖廟を立てると。沈約『宋書』では、孫亮が立ち、翌年の正月に孫権の廟を立てたとある。いま『呉志』に従う。

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