表紙 > 和訳 > 『資治通鑑』巻74、238-245年を抄訳

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景初二年(戊午,公元238年)

春、司馬懿が公孫淵を攻め、孫権は動かず

春,正月,帝召司馬懿於長安,使將兵四萬討遼東。議臣或以為四萬兵多,役費難 供。帝曰:「四千里征伐,雖雲用奇,亦當任力,不當稍計役費也。」帝謂懿曰:「公 孫淵將何計以待君?」對曰:「淵棄城豫走,上計也;據遼東拒大軍,其次也;坐守襄 平,此成禽耳。」帝曰:「然則三者何出?」對曰:「唯明智能審量彼我,乃豫有所割 棄。此既非淵所及,又謂今往孤遠,不能支久,必先拒遼水,後守襄平也。」帝曰: 「還往幾日?」對曰:「往百日,攻百日,還百日,以六十日為休息,如此,一年足 矣。」

春正月、曹叡は司馬懿を長安から召した。4万で遼東を討たせる。

胡三省はいう。司馬懿が長安にいたのは、蜀漢に備えたからだ。諸葛亮が死んだので、司馬懿を長安から離してもよい。

ある臣が「4万は多すぎる。高コストだ」というが、曹叡が反論した。「4千里を征伐する。奇策を用いても、けっきょくは力尽くが必要だ。4万を用意するのは、ムダなコストでない」と。

胡三省はいう。『続漢書』では、遼東は洛陽の東北3600里である。ぼくは思う。『続漢書』のいうのは、直線距離だろうか。道程だろうか。グーグルマップと重ねて、彼らの世界観を推測したい。人工衛星から俯瞰するような地図を、かれらは思い描いていないはずだ。

曹叡は、司馬懿にいう。「公孫淵はどのように司馬懿を迎撃するか」と。司馬懿はいう。「もし公孫淵が城を棄てるなら、(公孫淵にとって)上計だ。遼東の郡城で防御するなら、次策だ。襄平にとどまって私を迎撃するなら、もう公孫淵は捕らえられたも同然だ」と。

胡三省はいう。次策は「遼水で防御する」とすべきだ。襄平は遼東の郡治である。公孫淵は襄平に都する。ぼくは思う。もし次策が郡城なら、次策と下策が同じになってしまう。だから胡三省は、次策を「遼水」と読み換えろという。

司馬懿は360日で平定して還ってくるという。

ぼくは思う。曹叡の死と、司馬懿の帰還が、おかしなタイミングだ。正月があけ、ちょうど司馬懿が、曹叡の最期にまにあい、遺言を聞いて、曹叡が死ぬ、という段取である。キレイ過ぎる。この不自然さをごまかすために、この360日の話が生まれたのではないか。曹叡の最期に還ってきた司馬懿は、じつは予定どおりの行動だったんですよ、間に合って当然なんですよ、と。


公孫淵聞之,復遣使稱臣,求救於吳。吳人欲戮其使,羊道曰:「不可,是肆匹夫 之怒而捐霸王之計也,不如因而厚之,遣奇兵潛往以要其成。若魏伐不克,而我軍遠赴, 是恩結遐夷,義形萬裡;若兵連不解,首尾離隔,則我虜其傍郡,驅略而歸,亦足以致 天之罰,報雪曩事矣。」吳主曰:「善!」乃大勒兵謂淵使曰:「請俟後問,當從簡書, 必與弟同休戚。」又曰:司馬懿所向無前,深為弟憂之。」
帝問於護軍將軍蔣濟曰: 「孫權其救遼東乎?」濟曰:「彼知官備已固,利不可得,深入則非力所及,淺入則勞 而無獲;權雖子弟在危,猶將不動,況異域之人,兼以往者之辱乎!今所以外揚此聲者, 譎其行人,疑之於我,我之不克,冀其折節事己耳。然沓渚之間,去淵尚遠,若大軍相 守,事不速決,則權之淺規,或得輕兵掩襲,未可測也。」

公孫淵は、孫呉に救援をもとめた。孫呉は、遼東の使者を斬ろうとした。

胡三省はいう。張弥と許晏の報復をしたいのだ。青龍元年。

羊道はいう。「匹夫の怒に任せて、使者を斬るな。もし曹魏が敗れたら、遼東に恩を売れる」と。孫権は大兵を勒して「弟を助けてやろう。だが司馬懿は敵なしだから、弟のことを憂う」という。

胡三省はいう。公孫淵が孫呉に使者をだし、「燕王を自称したから、兄弟の国になろう」と持ちかけた。だから孫権は、公孫淵を弟という。
胡三省はいう。孫権が「司馬懿は敵なし」というが、これは晋代の史臣が書いたのだ。孫権は、こんなことを言わない。ぼくは思う。司馬光は司馬懿の子孫を称するわけですが、さっそく司馬懿を持ち上げる史料を、(批判せず) 採用したなあ!

曹叡は護軍将軍の蒋済に、「孫権は遼東を救援するか」と聞いた。蒋済は「孫権は決断に時間がかかる。子弟が危なくても動けない。まして遠方の他人・公孫淵のために動かない」と見抜いた。

帝問吏部尚書盧毓:「誰可為司徒者?」毓薦處士管寧。帝不能用,更問其次,對 曰:「敦篤至行,則太中大夫韓暨;亮直清方,則司隸校尉崔林;貞固純粹,則太常常 林。」二月,癸卯,以韓暨為司徒。
漢主立皇後張氏,前後之妹也。立王貴人子璿為皇太子,瑤為安定王。

曹叡は、吏部尚書の盧毓に「だれを司徒にすべきか」ときく。盧毓は管寧を薦めるが、受けてもらえず。盧毓はいう。「管寧のつぎは、太中大夫の韓暨、司隸校尉の崔林、太常の常林がいい」と。2月癸卯、韓暨が司徒となる。

ぼくは思う。よくある本紀の、三公を任命する記事。これに、盧毓による人物評をプラスしたのか。前年の人事考課の件を、司馬光はひきずっている。責任をとっている。

劉禅は、張皇后の妹を皇后とした。王貴人の子の劉璿を皇太子とした。劉瑤を安定王とした。

ぼくは思う。まったく油断のスキもなく「漢の本紀」が紛れこむ。


大司農河南 孟光問太子讀書及情性好尚於秘書郎郤正,正曰:「奉親虔恭,夙夜匪解,有古世子之 風;接待群僚,舉動出於仁恕。」光曰:「如君所道,皆家戶所有耳;吾今所問,欲知 其權略智調何如也。」正曰:「世子之道,在於承志竭歡,既不得妄有施為,智調藏於 胸懷,權略應時而發,此之有無,焉可豫知也!」光知正慎宜,不為放談,乃曰:「吾 好直言,無所迴避。今天下未定,智意為先,智意自然,不可力強致也。儲君讀書,寧 當效吾等竭力博識以待訪問,如博士探策講試以求爵位邪!當務其急者。」正深謂光言 為然。正,儉之孫也。
吳人鑄當千大錢。

大司農する河南の孟光は、秘書郎の郤正に、曹芳が何を読んでいるか、曹芳はどんな情性かを質問した。

胡三省はいう。後漢の馬融が秘書郎となった。東観にいき、校書を典した。けだし秘書郎は、馬融のときに始まった。

郤正は「太子の曹芳は、古の世子の風がある。すぐれた人格である」と答えた。孟光は「権略知謀はどうか」ときく。郤正は「権略知謀は見せびらかすものでない。曹芳の権略知謀は分からない」という。孟光は「建前はいい。いま天下は定まらない。つぎの魏帝に権略知謀があるか否かは、緊急の問題だ」という。郤正は同意した。郤正は、郤倹の孫である。

胡三省はいう。郤倹は、益州刺史である。霊帝の中平5年、盗賊に殺された。ぼくは補う。郤倹の後任が、あの劉焉である。郤氏は、益州刺史として地域を混乱させたから、劉焉が州牧に強い権限を求めた。まだその子孫が、ウロウロしていやがったのか。

吳人が1千銭の大銭を鋳造した。

ぼくは思う。蜀漢は「漢」と称してもらい、皇后や封国の動きが記される。三公の任免も記される。しかし孫呉は、記されない。孫呉は、経済政策と異民族討伐の記事ばかりだ。つまり孫呉は、本紀らしい記事をはぶかれることにより、司馬光から「お前は皇帝じゃない」と仄めかされている。ただの地方長官である。もしくは、漢族の領域を拡大させる話でのみ、登場する。


秋、司馬懿が、遼東の郡治・襄平を囲む

夏,四月,庚子,南鄉恭侯韓暨卒。 庚戌,大赦。 六月,司馬懿軍至遼東,公孫淵使大將軍卑衍、楊祚將步騎數萬屯遼隧,圍塹二十 餘里。諸將欲擊之,懿曰:「賊所以堅壁,欲老吾兵也,今攻之,正墮其計。且賊大眾 在此,其巢窟空虛。直指襄平,破之必矣。」乃多張旗幟,欲出其南,衍等盡銳趣之。 懿潛濟水,出其北,直趣襄平;衍等恐,引兵夜走。諸軍進至首山,淵復使衍等逆戰, 懿擊,大破之,遂進圍襄平。

夏4月庚子、南鄉恭侯の韓暨が卒した。 4月庚戌、大赦した。
6月、司馬懿は遼東につく。公孫淵は、大將軍の卑衍と楊祚を遼隧(遼東)に屯させてふせぐ。司馬懿は、襄平を囲んだ。

『姓譜』はいう。卑氏とは、卑耳国の後裔である。鮮卑の後裔ともいう。蔡邕『胡太傅碑』には、太傅掾する雁門の卑登という名前がある。
ぼくは思う。詳しい経緯をはぶくが。司馬懿は、前線の遼隧県をすかして、郡府のある襄平を囲んでしまった。公孫淵は、食い止めるのに失敗した。


夏、燕国が滅び、公孫晃が洛陽で自殺する

秋,七月,大霖雨,遼水暴漲,運船自遼口徑至城下。雨 月餘不止,平地水數尺。三軍恐,欲移營,懿令軍中:「敢有言徙者斬!」都督令史張 靜犯令,斬之,軍中乃定。賊恃水,樵牧自若,諸將欲取之,懿皆不聽。司馬陳珪曰: 「昔攻上庸,八部俱進,晝夜不息,故能一旬之半,拔堅城,斬孟達。今者遠來而更安 緩,愚竊惑焉。」懿曰 (中略)。朝廷聞師遇雨,鹹欲罷兵。帝曰:「司馬懿臨危制變,禽淵可計日待也。」 雨霽,懿乃合圍,作土山地道,楯櫓鉤沖,晝夜攻之,矢石如雨。淵窘急,糧盡,人相 食,死者甚多,其將楊祚等降。

秋7月、長雨で遼水があふれた。司馬懿は、動揺した都督令史の張静を斬った。司馬懿は、増水しても持久した。司馬の陳珪が「上庸では速攻で孟達を斬った。いまは持久する。なぜか」と聞いた。司馬懿は理屈をつけて答えた。朝廷では、長雨だから司馬懿を撤退させたいが、曹叡が許さない。きつく包囲したので、部将の楊祚が司馬懿に降伏した。

八月,淵使相國王建、御史大夫柳甫請解圍卻兵,當君 臣面縛。懿命斬之。(中略) 任午,襄平潰,淵與子修將數百騎突圍東南走,大兵急擊之,斬淵父 子於梁水之上。懿既入城,誅其公卿以下及兵民七千餘人,築為京觀。遼東、帶方、樂 浪、玄菟四郡皆平。淵之將反也,將軍綸直、賈范等苦諫,淵皆殺之,懿乃封直等之墓, 顯其遺嗣,釋淵叔父恭之囚。中國人欲還舊鄉者,恣聽之。遂班師。
初,淵兄晃為恭任子在洛陽,先淵未反時,數陳其變,欲令國家討淵;及淵謀逆, 帝不忍市斬,欲就獄殺之。廷尉高柔上疏曰 (中略)。帝不聽,竟遣使□金屑飲晃及其妻子,賜以棺衣,殯斂 於宅。

8月、公孫淵は、相国の王建、御史大夫の柳甫を使者にして、包囲を解いてくれと請うた。

ぼくは思う。公孫淵の燕国にも、相国や御史大夫のような、三公がいるのね。三公が、まさに燕王の命運をあずかって、交渉にくるのね。なんだかリアルで良い。漢魏の三公は、政事のなかに埋没してる。蜀漢の三公は、三公を建てるほども組織が複雑じゃないから、何をしているか分からん。

司馬懿は、使者を斬った。8月壬午、襄平がつぶれた。遼東、帶方、樂浪、玄菟の4郡を平らげた。公孫淵の「謀反」に反対した、將軍の綸直と賈范らを、司馬懿は手厚く葬った。遼東から中原に還りたい者は、自由に還らせてもらえた。

胡三省はいう。漢代の帯方県は、楽浪郡に属した。公孫氏が郡に格上げした。陳寿はいう。建安のとき、公孫康の分屯を南の荒地におき、帯方郡とした。倭と韓は、帯方郡に羈属した。

はじめ、公孫淵の兄・公孫晃は、公孫恭の任子として洛陽にいた。公孫淵が自立する前から、遼東の異変を訴えて「曹魏は公孫淵を討て」と主張した。曹叡は、公孫晃を市斬するのは忍びず、獄殺しようとした。廷尉の高柔が反対した。曹叡は、公孫晃とその妻子に金属を飲ませた。棺衣を賜い、自宅で殯斂した。

胡三省はいう。公孫晃は、弟の公孫淵と同罪ではない。曹叡は、公孫氏を根こそぎ絶やしたいが、市罪ではヒドいので、自宅で死ぬことを許可したのだ。


秋、歩夫人が死に、孫権が呂壱を重用する

九月,吳改元赤烏。
吳步夫人卒。初,吳主為討虜將軍,在吳,娶吳郡徐氏。太子登所生庶賤,吳主令 徐氏母養之。徐氏妒,故無寵。及吳主西徙,徐氏留處吳。而臨淮步夫人寵冠後庭,吳 主欲立為皇後,而群臣議在徐氏,吳主依違者十餘年。會步氏卒,群臣奏追贈皇後印綬, 徐氏竟廢,卒於吳。

秋9月、孫呉は赤烏と改元した。
歩夫人が卒した。はじめ孫権が討虜将軍のとき、呉郡の徐氏をめとった。孫登の母が賤しいので、徐氏に養育させたが、寵愛しない。孫権が西の武昌にゆくが、徐氏は呉郡に残った。臨淮の歩氏(歩隲の同族)が寵愛された。孫権は、歩氏を皇后にしたいが、群臣は「徐氏を皇后にせよ」という。孫権は不仲だからイヤだ。歩夫人は、皇后の印綬を追贈された。徐氏は廃され、呉郡で死んだ。

吳主使中書郎呂壹典校諸官府及州郡文書,壹因此漸作威福,深文巧詆,排陷無辜, 毀短大臣,纖介必聞。太子登數諫,吳主不聽,群臣莫敢復言,皆畏之側目。
壹誣白故 江夏太守刁嘉謗訕國政,吳主怒,收嘉,系獄驗問。時同坐人皆怖畏壹,並言聞之。侍 中北海是儀獨雲無聞,遂見窮詰累日,詔旨轉厲,群臣為之屏息。儀曰:「今刀鋸已在 臣頸,臣何敢為嘉隱諱,自取夷滅,為不忠之鬼!厄以聞知當有本末。」據實答問,辭 不傾移,吳主遂捨之;嘉亦得免。

孫権は、中書郎の呂壱に、諸官の府および州郡の文書をチェックさせた。孫登が諫めたが、孫権は呂壱を重んじる。
呂壱は、もと江夏太守の刁嘉をそしった。侍中する北海の是儀だけが、刁嘉を弁護した。孫権は刁嘉を見のがした。

上大將軍陸遜、太常潘濬憂壹亂國,每言之,輒流涕。 壹白丞相顧雍過失,吳主怒,詰責雍。黃門侍郎謝肱語次問壹:「顧公事何如?」壹曰: 「不能佳。」肱又問:「若此公免退,誰當代之?」壹未答。肱曰:「得無潘太常得之 乎?」壹良久曰:「君語近之也。」肱曰:「潘太常常切齒於君,但道無因耳。今日代 顧公,恐明日便擊君矣!」壹大懼,遂解散雍事。潘濬求朝,詣建業,欲盡辭極諫。至, 聞太子登已數言之而不見從,濬乃大請百寮,欲因會手刃殺壹,以身當之,為國除患。 壹密聞知,稱疾不行。
西陵督步騭上疏曰:「顧雍、陸遜、潘濬,志在竭誠,寢食不寧, 念欲安國利民,建久長之計,可謂心膂股肱社稷之臣矣。宜各委任,不使他官監其所司, 課其殿最。此三臣思慮不到則已,豈敢欺負所天乎!」

上将軍の陸遜、太常の潘濬は、涙を流して「呂壱が国を乱す」という。呂壱は丞相の顧雍の過失をチクった。黄門侍郎の謝肱は、呂壱に「もし顧雍が許されないなら、つぎの丞相は潘濬が適任だろう。もし潘濬が丞相になれば、翌日にも潘濬が、呂壱を罰するだろう」という。呂壱は潘濬が丞相になることを懼れ、顧雍の過失を言わなくなった。

胡三省はいう。漢制で丞相は、御史である。百官の罪を奏する。

潘濬は建業で「呂壱をのぞけ」と切諫した。孫登も諫めた。潘濬が呂壱を切り殺そうとしたので、呂壱はにげた。
西陵督の歩隲は上疏した。「顧雍、陸遜、潘濬をつかえ。呂壱をつかうな」と。

左將軍硃據部曲應受三萬緡,工 王遂詐而受之。壹疑據實取,考問主者,死於杖下;據哀其無辜,厚棺斂之,壹又表據 吏為據隱,故厚其殯。吳主數責問據,據無以自明,藉草待罪;數日,典軍吏劉助覺, 言王遂所取。吳主大感寤,曰:「硃據見枉,況吏民乎!」乃窮治壹罪,賞助百萬。
丞 相雍至廷尉斷獄,壹以囚見。雍和顏色問其辭狀,臨出,又謂壹曰:「君意得無慾有所 道乎?」壹叩頭無言。時尚書郎懷敘面詈辱壹,雍責敘曰:「官有正法,何至於此!」 有司奏壹大辟,或以為宜加焚裂,用彰元惡。吳主以訪中書令會稽闞澤,澤曰:「盛明 之世,不宜復有此刑。」吳主從之。

左将軍の朱拠は、物資を詐取したと誤解されて、呂壱に殺されそうになった。孫権は誤解に気づいた。
丞相の顧雍は、廷尉に断獄された。顧雍が落ち着いて「呂壱は言いたいことがあるか」と聞くと、呂壱は叩頭した。有司たちは、呂壱を残虐な死刑にしたい。だが中書令する会稽の闞沢は、残虐な死刑に反対した。孫権は闞沢に従った。

壹既伏誅,吳主使中書郎袁禮告謝諸大將,因問時事所當損益。禮還,復有詔責諸 葛瑾、步騭、硃然、呂岱等曰:「袁禮還雲:『與子瑜、子山、義封、定公相見,並咨 以時事當有所先後,各自以不掌民事,不肯便有所陳,悉推之伯言、承明。伯言、承明 見禮,泣涕懇惻,辭旨辛苦,至乃懷執危怖,有不自安之心。』聞之悵然,深自刻怪! (後略)」

呂壱を殺してから、孫権は中書郎の袁礼を通じて、諸将にわびた。袁礼は孫権に報告した。諸葛瑾、歩隲、朱然、呂岱、陸遜、潘濬とのあいだに、しこりが残った。孫権は「斉桓公は、自分の命をねらった管仲を許した。わたしは桓公より優れている。だが臣下たちは、管仲のように振る舞えない」と臣下を責めた。

冬、曹叡が瀕死、曹宇から曹爽に執政が移行

冬,十一月,壬午,以司空衛臻為司徒,司隸校尉崔林為司空。
十二月,漢蔣琬出屯漢中。 乙丑,帝不豫。辛巳,立郭夫人為皇後。 初,太祖為魏公,以贊令劉放、參軍事孫資皆為秘書郎。文帝即位,更命秘書曰中 書,以放為監,資為令,遂掌機密。帝即位,尤見寵任,皆加侍中、光祿大夫,封本縣 侯。是時,帝親覽萬機,數興軍旅,腹心之任,皆二人管之;每有大事,朝臣會議,常 令決其是非,擇而行之。中護軍蔣濟上疏曰 (中略) 帝不聽。

冬11月壬午、司空の衛臻を司徒として、司隸校尉の崔林を司空とした。
12月、蜀漢の蒋琬が漢中に出屯した。
12月乙丑、曹叡は不豫となる。12月辛巳、郭夫人を皇后に立てた。
はじめ曹操が魏公になると、贊県令の劉放、參軍事の孫資を、秘書郎とした。

胡三省はいう。贊県は、沛郡に属する。王莽は贊治と改めた。曹魏は、譙郡に分けた。贊は「相」ともいう。贊県令を出して、「贊相」とした。これが官名となった。けだし曹操の覇府が置かれた。
ぼくは思う。劉放は曹操の「覇府」の長官を務めていた。だから秘書にもなる。

曹丕が魏王に即位すると、秘書を中書と改名した。劉放を中書監、孫資を中書令として、機密をさせる。曹叡も彼らを重んじ、本籍の県侯とした。

胡三省はいう。後漢の桓帝の延熹2年、秘書監をおく。曹操が魏王になると、秘書令、秘書丞をおき、尚書の奏事を典させる。黄初初、中書にあらためた。魏晋において、中書は枢要な官だった。荀勖は「中書は鳳凰の池だ」という。

曹叡は親政するが、すべて劉放と孫資をとおした。中護軍の蒋済が上疏して、2人の権限を削減せよという。曹叡はゆるさず。

胡三省はいう。蒋済の上疏は、この歳でない。曹叡の死にあたり、劉放たちが曹叡の遺志をまげるから、ここに記事が置かれた。


及寢疾,深念後事,乃以武帝子燕王宇為大將 軍,與領軍將軍夏侯獻、武衛將軍曹爽、屯騎校尉曹肇、驍騎將軍秦朗等對輔政。爽, 真之子;肇,休之子也。帝少與燕王宇善,故以後事屬之。

曹叡が倒れた。燕王の曹宇を大将軍とした。領軍将軍の夏侯献、武衛將軍の曹爽、屯騎校尉の曹肇、驍騎將軍の秦朗らが輔政する。

胡三省はいう。魏制において、領軍将軍は、中塁、五校、武衛をつかさどる。武衛将軍は、けだし武衛の営を領する。曹操は許褚に宿衛を典させた。許褚は、武衛中郎将にうつった。武衛の官号はここに始まる。のちに武衛将軍にうつり、武衛という将軍号ができた。西晋の泰始初、武衛将軍の官位をやめた。

曹爽は曹真の子である。曹肇は曹休の子である。曹叡は曹宇と仲が善いので、後事を任せる。

劉放、孫資久典機任,獻、肇心內不平;殿中有雞棲樹,二人相謂曰:「此亦久矣, 其能復幾!」放、資懼有後害,陰圖間之。燕王性恭良,陳誠固辭。帝引放、資入臥內, 問曰:「燕王正爾為?」對曰:「燕王實自知不堪大任故耳。」帝曰:「誰可任者?」 時惟曹爽獨在帝側,放、資因薦爽,且言:「宜召司馬懿與相參。」帝曰:「爽堪其事 不?」爽流汗不能對。放躡其足,耳之曰:「臣以死奉社稷。」帝從放、資言,欲用爽、 懿,既而中變,敕停前命;放、資復入見說帝,帝又從之。放曰:「宜為手詔。」帝曰: 「我困篤,不能。」放即上床,執帝手強作之,遂□出,大言曰:「有詔免燕王宇等官, 不得停省中。」皆流涕而出。甲申,以曹爽為大將軍。帝嫌爽才弱,復拜尚書孫禮為大 將軍長史以佐之。

劉放と孫資が、ひさしく機密をにぎるので、夏侯献と曹肇はおもしろくない。劉放と孫資は、夏侯氏らに負けるのを懼れた。曹宇は恭良なので、大将軍を固辞した。
曹叡は、劉放と孫資をベッドに入れて、「曹宇が大将軍で良いか」と聞いた。劉放らは「曹宇は、自分が大任に耐えられないと知っている」という。曹叡は「曹宇でなければ、誰が良いか」ときく。このとき、ただ曹爽だけがそばにいる。劉放らは、曹爽を推薦して、さらに「司馬懿もセットが良い」という。曹叡は「曹爽は大将軍が務まるか」ときく。曹爽は、汗を流して答えられない。劉放が曹爽の足を踏んで、耳打ちした。曹爽は「死を以て社稷に奉じる」とこたえた。
曹叡は、劉放と孫資に従い、曹爽と司馬懿を用いた。夏侯献らを用いるという前の命令を停止した。劉放は、強引に曹叡に詔書をつくらせた。劉放は「詔があり、曹宇らは免官である」と大言した。曹宇らは、泣いて退出した。

司馬光『通鑑考異』はいう。陳寿が晋代につくった『三国志』劉放伝では、劉放は「曹肇らが謀反する」という。もしこれが劉放の真情であるなら、(対立者を排除するために、死にかけの曹叡にウソを言ったのだから) 美事でない。だから、記述を避けたのだろう。真相は、習鑿歯『漢晋春秋』や、郭ハン『世語』に近いだろう。
ぼくは思う。この件をどのように想像するのかは後日。司馬懿に近すぎて、かなり分からない。また、孫資がどう動くにしろ、司馬懿はあまり重要でない。曹宇や曹肇や夏侯献と、孫資と劉放が戦っているのであって、司馬懿は部外者にすら見える。皇帝から距離があるように見える。方面司令官としては有能だが、中央の枢密をどうするのか、という問題に関しては、司馬懿は期待されていない。劉放らが「曹爽だけでなく、司馬懿も」というのがウソかも。オマケかも。じつは曹宇(と曹肇と夏侯献)に対して、曹爽が、孫資らを味方につけてプチクーデターをやっただけかも。司馬懿は、曹宇が執政しようが、曹爽が執政しようが、この時点ではあまり関係なさそう。
いや、関係なさそうに見えることが、すでにワナなのか?ニヒリズムに陥るが、これは仕方がない。だって曹叡の死は、実質的に、魏晋革命の始まりなんだから。

12月甲申、曹爽は大将軍となる。曹叡は、曹爽の才弱をきらった。尚書の孫禮を大將軍の長史にして、曹爽を佐けさせた。

是時,司馬懿在汲,帝令給使辟邪□手詔召之。先是,燕王為帝畫計, 以為關中事重,宜遣懿便道自軹關西還長安,事已施行。懿斯須得二詔,前後相違,疑 京師有變,乃疾驅入朝。

このとき司馬懿は、遼東からの帰りで、汲県(河内)にいる。曹叡は辟邪に、直筆の詔書を持たせ、司馬懿をよぶ。

胡三省はいう。辟邪とは、給使の名である。漢代の丞相の倉頭を宜禄と呼ぶような、官名の通称である。

これより先、曹宇は曹叡のために計画をたてて、司馬懿を長安に行かそうとした。司馬懿は「洛陽にこい」と「長安にゆけ」という2通の詔書をみて、洛陽で異変があると疑った。洛陽に疾駆した。121107

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景初三年(己未,公元239年)

春、曹芳が即位して、司馬懿が太傅となる

春,正月,懿至,入見,帝執其手曰:「吾以後事屬君,君與曹爽輔少子。死乃可 忍,吾忍死待君,得相見,無所復恨矣!」乃召齊、秦二王以示懿,別指齊王芳謂懿曰: 「此是也,君諦視之,勿誤也!」又教齊王令前抱懿頸。懿頓首流涕。是日,立齊王為 皇太子。帝尋殂。(後略)

春正月、司馬懿が洛陽に到着した。曹叡は「曹爽と、少子の曹芳を輔けろ」という。曹叡は、曹芳に司馬懿のくびを抱かせた。曹芳が皇太子となる。すぐに曹叡は死んだ。

ぼくは思う。このあたり、すべて出来すぎ。ウソだな。笑
胡三省はいう。陳寿は曹叡が36歳というが、34歳か35歳にしかならない。
ぼくは思う。司馬懿が「360日で遼東から帰る」と曹叡に宣言する。あれは、司馬懿の軍略を示すのでない。「曹叡の死に目に間に合ったことは、予定どおりのこと」という史家の演出。司馬懿が死に目に間に合い「曹芳に司馬懿のくびを抱かせた」とか、晋代の史家の創作だろう。ウソの上塗りで、さらにウソくさいよ!


太子即位,年八歲;大赦。尊皇後曰皇太后,加曹爽、司馬懿侍中,假節鉞,都督 中外諸軍、錄尚書事。諸所興作宮室之役,皆以遺詔罷之。爽、懿各領兵三千人更宿殿 內,爽以懿年位素高,常父事之,每事咨訪,不敢專行。
初,并州刺史東平畢軌及鄧颺、李勝、何晏、丁謐皆有才名而急於富貴,趨時附勢, 明帝惡其浮華,皆抑而不用。曹爽素與親善,及輔政,驟加引擢,以為腹心。晏,進之 孫;謐,斐之子也。晏等鹹共推戴爽,以為重權不可委於人。丁謐為爽畫策,使爽白天 子發詔,轉司馬懿為太傅,外以名號尊之,內欲令尚書奏事,先來由己,得制其輕重也。 爽從之。

曹芳が即位した。8歳である。曹爽と司馬懿に侍中を加えて、假節鉞、都督 中外諸軍、錄尚書事とした。

『晋書』職官志から、持節と都督をひく。はぶく。いま曹爽と司馬懿は、中外の諸軍を督し、さらに録尚書事もする。文武の大権をにぎった。これより六朝まで、権臣のトップがこの肩書で専制する。

遺言により、宮室の建設をストップした。曹爽と司馬懿は、兵3千ずつを領して、殿内に更宿する。曹爽は、司馬懿に父のように仕えた。曹爽は専行しない。
はじめ、并州刺史する東平の畢軌と、鄧颺、李勝、何晏、丁謐は、名声があって群れて、曹叡に用いられなかった。彼らは曹爽と親しい。司馬懿を太傅にして、曹爽に権限を集中させようとした。

司馬光はいう。何晏は何進の孫。丁謐は丁斐の子。胡三省はいう。丁斐は、献帝の建安16年にある。


二月,丁丑,以司馬懿為太傅,以爽弟羲為中領軍,訓為武衛將軍,彥為散騎 常侍、侍講,其餘諸弟皆以列侯侍從,出入禁闥,貴寵莫盛焉。爽事太傅,禮貌雖存, 而諸所興造,希復由之。爽徙吏部尚書盧毓為僕射,而以何晏代之,以鄧颺、丁謐為尚 書,畢軌為司隸校尉。晏等依勢用事,附會者升進,違忤者罷退,內外望風,莫敢忤旨。
黃門侍郎傅嘏謂爽弟羲曰:「何平叔外靜而內躁,銛巧好利,不念務本,吾恐必先惑子 兄弟,仁人將遠而朝政廢矣!」晏等遂與嘏不平,因微事免嘏官。又出盧毓為廷尉,畢 軌又枉奏毓免官,眾論多訟之,乃復以為光祿勳。孫禮亮直不撓,爽心不便,出為揚州 刺史。
三月,以征東將軍滿寵為太尉。

2月丁丑、司馬懿は太傅となる。曹爽の弟の曹羲が中領軍、曹訓が武衛將軍、曹彦が散騎常侍、侍講となる。

胡三省はいう。わかい皇帝の左右には、講説を侍らせる。だから侍講という。
ぼくは思う。曹叡の末期、曹宇や夏侯献が就くはずだった官職を、曹爽の兄弟で独占してしまった。やはり司馬懿は蚊帳のそとであり、曹宇と曹爽の対決に見える。曹宇がびびったとか、曹肇が謀反するとか、ぜんぶウソかもなあ。

その他の曹爽の弟も、列侯と自重になる。禁闥に出入する。曹爽は司馬懿につかえるふりをするが、実務から排除した。曹爽は、吏部尚書の盧毓僕射をとして、何晏を吏部尚書にかえる。鄧颺と丁謐を尚書とする。畢軌を司隸校尉とする。曹爽の派閥が権勢をもつ。
黃門侍郎の傅嘏は、曹爽の弟・曹羲にいう。「何晏を遠ざけないと危険だ」と。何晏は傅嘏と対立し、傅嘏を免官した。盧毓を廷尉に出した。

胡三省はいう。尚書は内朝の官だが、九卿は外朝の官である。ゆえに「出した」という。

畢軌は「盧毓を免官せよ」というが、反対がおおいので、盧毓は光禄勲になる。孫禮は曹爽にきらわれ、揚州刺史に出される。

ぼくは思う。揚州刺史は閑職なのね。孫呉があるのに、防御は大丈夫かな。
胡三省はいう。傅嘏、盧毓、孫礼らは、曹爽とあわないだけ。曹魏にそむく心はない。彼らは司馬懿と結びつくが、曹魏にそむくためでなく、曹爽と戦うだけのためだ。彼らは曹魏にそむく心はなかろうが、情勢はなるようにしかならない。

3月、征東将軍の満寵を太尉とした。

ぼくは思う。合肥新城で孫権を防いできた満寵が、ついに三公になった。満寵を主人公にした小説を書いたら、おもしろいだろう。


夏、孫呉が遼東をかすめ、蒋琬が大司馬となる

夏,四月,吳督軍使者羊道擊遼東守將,俘人民而去。
漢蔣琬為大司馬,東曹掾犍為楊戲,素性簡略,琬與言論,時不應答。或謂琬曰: 「公與戲語而不應,其慢甚矣!」琬曰:「人心不同,各如其面,面從後言,古人所誡。 戲欲贊吾是邪,則非其本心;欲反吾言,則顯吾之非,是以默然,是戲之快也。」
又督農楊;敏嘗毀琬曰:「作事憒憒,誠不及前人。」或以白琬,主者請推治敏, 琬曰:「吾實不如前人,無可推也。」主者乞問其憒憒之狀,琬曰:「苟其不如,則事 不理,事不理,則憒憒矣。」後敏坐事系獄,眾人猶懼其必死,琬心無適莫,敏得免重 罪。

夏4月、孫呉の督軍使者の羊道が、遼東の守将を撃ち、人民を捕獲して去った。

胡三省はいう。はたして蒋済が、曹叡にこたえた予測のとおりになった。督軍使者とは、漢官である。曹魏の黄初2年に廃止したが、孫呉には漢官がのこっていた。
ぼくは思う。孫権は遼東を助けることはできない。そもそも遠隔地だし、決断がおそい。遼東を救わないくせに、遼東の滅亡後に人口をさらうことだけはする。孫権らしいじゃん。

蜀漢の蒋琬が大司馬となる。東曹掾する犍為の楊戲は、蒋琬と議論したが、ときに答えない。ある者が蒋琬にいう。「きちんと答えない楊儀は、怠慢だ」と。蒋琬はいう。「ひとりずつ顔がちがうように、心もちがう。楊戯は適当に話をあわせることをせず、わたしと意見が違うとき黙るのだ」と。また、かつて督農の楊敏が蒋琬をけなして「前任者の諸葛亮におとる」というが、蒋琬はそれを認めた。のちに楊敏が死罪になりそうなとき、蒋琬は楊敏を救った。

ぼくは思う。蒋琬はすばらしいよ、という逸話の紹介だった。胡三省はいう。だから諸葛亮は、蒋琬を後任に指名したのだよと。ああ、そうですか。


秋冬、交州で反乱、孫権が周瑜の一族を弱める

秋,七月,帝始親臨朝。 八月,大赦。
冬,十月,吳太常潘濬卒。吳主以鎮南將軍呂岱代濬,與陸遜共領荊州文書。岱時 年已八十,體素精勤,躬親王事,與遜同心協規,有善相讓,南士稱之。
十二月,吳將 廖式殺臨賀太守嚴綱等,自稱平南將軍,攻零陵、桂陽,搖動交州諸郡,眾數萬人,呂 岱自表輒行,星夜兼路,吳主遣使追拜交州牧,及遣諸將唐咨等絡繹相繼,攻討一年, 破之,斬式及其支黨,郡縣悉平。岱復還武昌。

秋7月、曹芳がはじめて臨朝した。8月、大赦した。
冬10月、孫呉の太常の潘濬が卒した。孫権は、鎮南將軍の呂岱を潘濬にかえた。陸遜とともに、荊州の文書を領させた。呂岱は80歳だが、南方の統治に功績があった。
12月、呉将の廖式が、臨賀太守の嚴綱らを殺し、平南將軍を自称した。零陵、桂陽を攻め、交州の諸郡がゆれた。呂岱は交州牧となり、唐咨らとともに1年で反乱をつぶした。呂岱は武昌にもどった。

胡三省はいう。臨賀件は、漢代は蒼梧郡に属した。賀水にのぞむので、この県名がついた。孫呉が郡に格上げした。ぼくは思う。けっこう大規模な反乱があったんだなあ。孫権の求心力、弱いなあ。反乱者が曹魏と結びついていたという記述はないのかな。


吳都鄉侯周胤將兵千人屯公安,有罪,徙廬陵;諸葛瑾、步騭為之請。吳主曰: 「昔胤年少,初無功勞,橫受精兵,爵以侯將,蓋念公瑾以及於胤也。而胤恃此,酗淫 自恣,前後告諭,曾無悛改。孤於公瑾,義猶二君,樂胤成就,豈有已哉!迫胤罪惡, 未宜便還,且欲苦之,使自知耳。以公瑾之子,而二君在中間,苟使能改,亦何患乎!」
瑜兄子偏將軍峻卒,全琮請使峻子護領其兵。吳主曰:「昔走曹操,拓有荊州,皆是公 瑾,常不忘之。初聞峻亡,仍欲用護。聞護性行危險,用之適為作禍,故更止之。孤念 公瑾,豈有已哉!」
十二月,詔復以建寅之月為正。

孫呉の都郷侯の周胤は、公安で1千人をひきいるが、罪で廬陵に徙さる。諸葛瑾、步騭らが弁護した。「周瑜の功績に免じて、周胤を許せ」と。
周瑜の兄子の偏將軍する周峻が卒した。全琮は、周峻の子・周護に周峻の兵を領させたい。孫権は「周瑜の功績は忘れないが、周護には適性がないから兵を領させない」という。

ぼくは思う。孫権は周瑜の一族の権限をうばうなあ!この感じの悪さが「君主権力の確立」というやつだろうか。

12月、曹芳は建寅の月を正月とした。

胡三省はいう。暦の変更は、景初元年にある。このとき景初暦をつかうが、11月を正月としていない。

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正始元年-三年(庚申240年-242年)

正始元年、張嶷が越巂太守となる

春,旱。 越巂蠻夷數叛漢,殺太守,是後太守不敢之郡,寄治安定縣,去郡八縣餘里。漢主 以巴西張嶷為越巂太守,嶷招慰新附,誅討強猾,蠻夷畏服,郡界悉平,復還舊治。 冬,吳饑。

正始元年春、ひでり。
越巂の蛮夷が、しばしば蜀漢にそむき、太守をころす。以後、太守は越巂の郡府に着任しない。

胡三省はいう。諸葛亮が高定を平らげてから、越巂の夷族はたびたび叛いた。太守の龔禄、焦璜は殺された。

越巂太守は、安定県にいる。郡府から8百余里である。

胡三省はいう。安定県は志にない。これより越巂県は、とりあえず安定県に太守がいることになる。漢代の越巂は、邛都を郡治とする。

劉禅は、巴西の張嶷を越巂太守とした。張嶷は蛮夷をなつけ、邛都に郡治をもどす。

ぼくは思う。三国鼎立がもっとも「典型化」するのは、曹叡の死のときだ。曹叡により、いちおう曹魏はピーク。司馬懿のおかげで「四国志」は解消。おおきな三国のあいだの戦争もない。しかし、呉蜀の南方は、まったく治まっていないという。まあ曹魏も、遼東をやっと懐けたところだし、同じようなものか。


正始二年春夏、孫権が曹魏を攻め、司馬懿が破る

春,吳人將伐魏。零陵太守殷札言於吳主曰:「今天棄曹氏,喪誅累見,虎爭之際 而幼童位事。陛下身自御戎,取亂侮亡,宜滌荊、揚之地,舉強羸之數,使強者執戟, 羸者轉運。西命益州,軍於隴右,授諸葛瑾、硃然大眾,直指襄陽,陸遜、硃桓別征壽 春,大駕入淮陽,歷青、徐。襄陽、壽春,困於受敵,長安以西,務御蜀軍,許、洛之 眾,勢必分離,掎角並進,民必內應。將帥對向,或失便宜,一軍敗績,則三軍離心。 便當秣馬脂車,陵蹈城邑,乘勝逐北,以定華夏。若不悉軍動眾,循前輕舉,則不足大 用,易於屢退,民疲威消,時往力竭,非上策也。」吳主不能用。

春、孫呉が曹魏を伐ちたい。零陵太守の殷札が孫権にいう。「曹叡が死んだのは天誅だ。荊州と揚州の全軍をあげて、曹魏にあてろ。益州に命じて、隴右に進軍させよ。諸葛瑾と朱然は、まっすぐ襄陽に。陸遜と朱桓は、寿春に。孫権は淮陽から、青州と徐州にゆけ。襄陽、寿春、長安に敵を受ければ、曹魏から中原をうばえる。全軍で一気にやれ」と。孫権は用いず。

胡三省はいう。国を傾けて出陣し、一戦に勝敗をかけるのは、五胡十六国の符堅のやったことだ。孫権は、そこまでできなかった。
ぼくは思う。孫権が敵国の君主が代わったとき、やたらと動く。せこい。


夏,四月,吳全琮略 淮南,決芍陂,諸葛恪攻六安,硃然圍樊,諸葛瑾攻柤中。征東將軍王凌、揚州刺史孫 禮與全琮戰於芍陂,琮敗走。荊州刺史胡質以輕兵救樊,或曰:「賊盛,不可迫。」質 曰:「樊城卑兵少,故當進軍為之外援,不然,危矣。」遂勒兵臨圍,城中乃安。
五月,吳太子登卒。
吳兵猶在荊州,太傅懿曰:「柤中民夷十萬,隔在水南,流離無主,樊城被攻,歷 月不解,此危事也,請自討之。」六月,太傅懿督諸軍救樊;吳軍聞之,夜遁。追至三 州口,大獲而還。
閏月,吳大將軍諸葛瑾卒。瑾長子恪先已封侯,吳主以恪弟融襲爵,攝兵業,駐公 安。

夏4月、全琮に淮南を略させ、芍陂に決壊させる。諸葛恪は六安を攻め、朱然は樊城をかこみ、諸葛瑾は柤中を攻める。征東將軍の王凌、揚州刺史の孫禮は、全琮を芍陂でやぶる。荊州刺史の胡質が、樊城を救う。胡質はいう。「樊城は小さな城だから、外から援護しないとあぶない」と。樊城の城内は安んじた。

胡三省はいう。曹魏の荊州刺史は、江夏、襄陽、南陽、新城、魏興、上庸をすべる。ぼくは思う。関羽は、こんな小さくて不安な城で、最期の大見得を切っていたのか。

5月、孫登が卒した。
司馬懿が荊州への出兵を願い出た。6月、太傅の司馬懿が樊城を救いにゆく。これを聞き、孫権は夜ににげた。三州の入口で、孫権を追撃した。

胡三省はいう。曹魏の荊州は、東にゆけば、江夏と豫州に通じる。南にゆけば、弋陽と揚州に通じる。西にゆけば六安に通じる。だから三州の入口なのだ。また王昶伝によると、王昶は、荊州と豫州の諸軍事を担当した。宛城から新野に移動した。三州の入口で水軍を練習した。荊州、豫州、揚州で三州である。
ぼくは思う。孫権が司馬懿の出陣を聞いただけで逃げたというのは、さすがに曲筆がすぎる。孫権の臆病は、曹魏と蜀漢、両国の曲筆が合成されたものかも。合成の誤謬!積み重なって、当初の意図以上にひどくなるという。

閏月、孫呉の大将軍の諸葛瑾が卒した。諸葛恪の弟の諸葛融が爵位をつぐ。兵業をつぎ、公安に駐する。

ぼくは思う。諸葛瑾の死因は、司馬懿に孫権が破られたことなのか。諸葛瑾は荊州を攻めており、もろ司馬懿とぶつかっている。諸葛瑾がしょぼく描かれるのも、司馬懿をひきたてるためかも。
胡三省はいう。諸葛融は、父の兵を領して、父の事業を継承した。ぼくは思う。このあたりから、孫呉には「世兵制がある」なんて話になるのだ。孫権は諸将の権限を減らすことに熱心だが、諸葛瑾のように大人しく、また彼が見こんだように大人しい諸葛融なら、領兵を継承できるらしい。


正始二年秋冬、蒋琬と鄧艾の領土政策

漢大司馬蔣琬以諸葛亮數出秦川,道險,運糧難,卒無成功。乃多作舟船,欲乘漢、 沔東下,襲魏興、上庸。會舊疾連動,未時得行。漢人鹹以為事有不捷,還路甚難,非 長策也,漢主遣尚書令費禕、中監軍姜維等喻指。琬乃上言:「今魏跨帶九州,根蒂滋 蔓,平除未易。若東西並力,首尾掎角,雖未能速得如志,且當分裂蠶食,先摧其支黨。 然吳期二三,連不克果。輒與費禕等議,以涼州胡塞之要,進退有資,且羌、胡乃心思 漢如渴,宜以姜維為涼州刺史。若維征行,御制河右,臣當帥軍為維鎮繼。今涪水陸四 通,惟急是應,若東北有虞,赴之不難,清徙屯涪。」漢主從之。

蒋琬は、諸葛亮が秦川に北伐しても勝てないから、漢水と沔水から、曹魏の魏興や上庸を攻めようと考えた。

胡三省はいう。漢水と沔水は、漢中から東に流れて、魏興や上庸をとおり、上庸に達する。天下を争うなら、秦川から出るべきである。魏興や上庸は、天下を争うべき地ではない。

蜀漢の人々は、漢水や沔水をさかのぼれず、帰れなくなるから、蒋琬に反対した。劉禅は、尚書令の費禕、中監軍の姜維をおくり、蒋琬に修正をもとめた。蒋琬はいう。「涼州の羌胡は、蜀漢に心を寄せる。姜維を涼州刺史にせよ。いま涪県は水陸で四方に通じる拠点なので、防備を強化せよ」と。劉禅は、蒋琬に従った。

朝廷欲廣田畜谷於揚、豫之間,使尚書郎汝南鄧艾行陳、項已東至壽春。艾以為: 「昔太祖破黃巾,因為屯田,積穀許都以制四方。今三隅已定,事在淮南,每大軍出征, 運兵過半,功費巨億。陳、蔡之間,土下田良,可省許昌左右諸稻田,並水東下,令淮 北屯二萬人,淮南三萬人,什二分休,常有四萬人且田且守;益開河渠以增溉灌,通漕 運。計除眾費,歲完五百萬斛以為軍資,六、七年間,可積三千萬斛於淮上,此則十萬 之眾五年食也。以此乘吳,無不克矣。」太傅懿善之。是歲,始開廣漕渠,每東南有事, 大興軍眾,泛舟而下,達於江、淮,資食有儲而無水害。
管寧卒。寧名行高潔,人望之者,邈然若不可及,即之熙熙和易。能因事導人於善, 人無不化服。及卒,天下知與不知,聞之無不嗟歎。

曹芳は、揚州と豫州のあいだの生産力をあげたい。尚書郎する汝南の鄧艾は、陳県(陳国)と項県(汝南)にゆき、寿春にゆく。鄧艾が政策を立案し、司馬懿がみとめた。この歳、治水工事をした。これにより、東南で軍事があるとき、大兵の供給が可能になった。

ぼくは思う。淮南の三叛は、司馬懿-鄧艾による、生産の改革があったから可能になった。挙兵することも、鎮圧することも可能になった。豫州と揚州のあいだは、袁術が目を付けた場所だが、鄧艾によって掘り起こされたように、開発の余地があったんだなあ。もし袁術のもとに、鄧艾のような人物がいたら、だいぶ状況はかわった。もっとも当時は、かなりの短期決戦で献帝を奪いあったので、生産力を蓄えるヒマはなかったが。
ぼくは思う。蒋琬が中長期的な戦略をねり、鄧艾も生産力の改革をやる。この歳、三国はいちおう天下統一をにらみつつ、国境付近で、腰を据えた政事をやりはじめた。「生まれつき天下が分崩している」世代が台頭したんだろう。鄧艾の具体的な建策内容については、また後日やる。

管寧が卒した。管寧は尊敬をうけた。

正始三年、聶友が珠崖を討ち、二宮を並べる

春,正月,漢姜維率偏軍自漢中還住涪。 吳主立其子和為太子,大赦。三月,昌邑景侯滿寵卒。秋,七月,乙酉,以領軍將 軍蔣濟為太尉。 吳主遣將軍聶友、校尉陸凱將兵三萬擊儋耳、珠崖。

春正月、姜維は偏軍をひきいて、漢中からもどり涪県にゆく。

胡三省はいう。蜀漢は、諸軍を蒋琬がひきいる。姜維は偏軍のみ。

孫権は孫和を太子として、大赦した。3月、昌邑景侯の滿寵が卒した。
秋7月乙酉、領軍將軍の蔣濟が太尉となる。孫権は、將軍の聶友、校尉の陸凱に3万をつけ、儋耳と珠崖を撃つ。

胡三省はいう。儋耳と珠崖は、前漢の武帝がひらいて郡にした。交趾に属した。元帝のとき、棄てられた。ぼくは思う。元帝のときから、漢族に放置された土地を、孫権が回復する。これは、のちの西晋から見ても「お手柄」だなあ。


八月,吳主封子霸為魯王。霸,和母弟也,寵愛崇特,與和無殊。尚書僕射是儀領 魯王傅,上疏諫曰:「臣竊以為魯王天挺懿德,兼資文武,當今之宜,宜鎮四方,為國 籓輔。宣揚德美,廣耀威靈,乃國家之良規,海內所瞻望。且二宮宜有降殺,以正上下 之序,明教化之本。」書三、四上,吳主不聽。

8月、孫権は孫覇を魯王とする。孫覇は、孫和の同母弟である。孫権は孫覇をとくに愛した。尚書僕射の是儀は、魯王の傅を領した。是儀は上疏して諫めた。「魯王の孫覇を、中央の武昌から出せ。二宮を並存させるな」と。孫権は聴かず。121108

ぼくは思う。もうすぐ郵便で、三國無双6エンパがとどく。

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正始四年(癸亥,公元243年)

費禕がたち、諸葛恪が寿春をねらう

春,正月,帝加元服。吳諸葛恪襲六安,掩其人民而去。 夏,四月,立皇後甄氏,大赦。後,文昭皇後兄儼之孫也。 五月,朔,日有食之,既。

春正月、曹芳に元服を加える。諸葛恪が六安をおそい、人民をさらう。

胡三省はいう。漢代の六安国は、六県に都した。後漢は、六安侯国として、廬江郡に属させた。晋代に六県となり、廬江郡に属する。

夏4月、甄氏を皇后に立てた。大赦した。皇后は、曹叡の母である文昭皇后の兄・甄儼の孫である。

ぼくは思う。曹叡と曹芳に血縁がないから、甄氏を媒介にして、血縁にしたのかな。まさかね。同じ一族が継続的に皇后をだすのは、後漢と同じである。しかし甄氏って、そこまで名望があるのか?

5月ついたち、皆既日食あり。

冬,十月,漢蔣琬自漢中還住涪,疾益甚,以漢中太守王平為前監軍、鎮北大將軍, 督漢中。 十一月,漢主以尚書令費禕為大將軍、錄尚書事。 吳丞相顧雍卒。吳諸葛恪遠遣諜人觀相徑要,欲圖壽春。太傅懿將兵入舒,欲以攻恪,吳主徙恪屯 於柴桑。

冬10月、蒋琬が漢中からもどって涪県にゆく。蒋琬は病がひどい。漢中太守の王平を前監軍、鎮北大將軍として、漢中を督させる。11月、劉禅は尚書令の費禕を大将軍、録尚書事とする。
孫呉の丞相の顧雍が卒した。諸葛恪は諜報をやり、寿春をとりたい。太傅の司馬懿は、舒県にはいり、諸葛恪を攻めようとする。

胡三省はいう。舒県は、廬江郡に属する。春秋の「舒」である。呉魏の境界にある。放棄されて耕されない。皖口からもっとも近い。
ぼくは思う。境界の郡県は、城を放棄されるのね。しょっちゅう戦争が起きるから、暮らせない。国境付近には、ずらっと放棄された城があったのだろう。大陸の全体から見れば、まったくのムダだ。そりゃ生産力がおちる。

孫権は諸葛恪を柴桑にうつす。

胡三省はいう。柴桑県は、漢代は豫章郡に属する。孫呉は武昌郡に属させる。柴桑山がある。


步騭、硃然各上疏於吳主曰:「自蜀還者,鹹言蜀欲背盟,與魏交通,多作舟船, 繕治城郭。又,蔣琬守漢中,聞司馬懿南向,不出兵乘虛以掎角之,反委漢中,還近成 都。事已彰灼,無所復疑,宜為之備。」吳主答曰:「吾待蜀不薄,聘享盟誓,無所負 之,何以致此!司馬懿前來入舒,旬日便退。蜀在萬裡,何知緩急而便出兵乎?昔魏欲 入漢川,此間始嚴,亦未舉動,會聞魏還而止,蜀寧可復以此有疑邪!人言苦不可信, 朕為諸君破家保之。」

歩隲と朱然が上疏した。「蜀漢から帰国した者は、みな蜀漢が孫呉にそむくから、曹魏と交通せよという。蒋琬が漢中にいた。司馬懿が南下してきた。蒋琬は成都に帰った。蜀漢との戦いに備えよ」と。孫権は答えた。「司馬懿は本格的に孫呉を攻撃しない。また蒋琬が退いても、蜀漢の守りは堅いと思う。孫呉は、曹魏と敵対し、蜀漢と同盟したままとする」と。

ぼくは思う。蜀漢の国内が、孫呉に反発しているのは、おもしろい。天に二日がないのは明らかだが、蜀漢と孫呉は、しかたなく同盟している。呉蜀の同盟は、どちらも「しぶしぶ」であり、孫権はそれをよく諒解している。まあ、三国ファンとしては、ここで三国の関係が混迷してくれたほうが、おもしろいのだ。


荊州都督が新野にゆき、曹冏が皇族重用をいう

征東將軍、都督揚、豫諸軍事王昶上言:「地有常險,守無常勢。今屯宛去襄陽三 百餘里,有急不足相赴。」遂徙屯新野。
宗室曹冏上書曰:「古之王者,必建同姓以明親親,必樹異姓以明賢賢。親親之道 專用,則其漸也微弱;賢賢之道偏任,則其敝也劫奪。(中略)」冏冀以此論感寤曹爽,爽不能用。

征東將軍で、揚州と豫州の諸軍事を都督する王昶は上言した。

胡三省はいう。王昶伝によると、荊州と豫州を都督する。

「いま宛城に駐屯しており、襄陽から3百余里である。もし襄陽が急襲されても、救援が間に合わない」と。荊州の都督は、宛城から新野(南陽)にうつった。
宗室の曹冏は上書した。「同姓を重用せよ」と。曹爽は曹冏の意見を用いず。

胡三省はいう。裴松之はいう。曹冏は、中常侍の兄・曹叔興の子孫である。曹芳の族祖である。 胡三省はいう。かしこい曹叡ですら曹植の話を聞けなかった。ましておろかな曹爽ではなあ。

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正始五年-六年(甲子244年-乙丑245年)

正始五年春夏、曹爽と費禕が漢中で戦う

春,正月,吳主以上大將軍陸遜為丞相,其州牧、都護、領武昌事如故。
征西將軍、都督雍、涼諸軍事夏侯玄,大將軍爽之姑子也。玄辟李勝為長史,勝及 尚書鄧颺欲令爽立威名於天下,勸使伐蜀;太傅懿止之,不能得。
三月,爽西至長安, 發卒十餘萬人,與玄自駱谷入漢中。漢中守兵不滿三萬,諸將皆恐,欲守城不出以待涪 兵。王平曰:「漢中去涪垂千里,賊若得關,便為深禍,今宜先遣劉護軍據興勢,平為 後拒;若賊分向黃金,平帥千人下自臨之,比爾間涪軍亦至,此計之上也。」諸將皆疑, 惟護軍劉敏與平意同,遂帥所領據興勢,多張旗幟,彌亙百餘里。
閏月,漢主遣大將軍費禕督諸軍救漢中,將行,光祿大夫來敏詣禕別,求共圍棋; 於時羽檄交至,人馬擐甲,嚴駕已訖,禕與敏對戲,色無厭倦。敏曰:「向聊觀試君耳。 君信可人,必能辦賊者也。」

春正月、上大將軍の陸遜を丞相、荊州牧、都護とする。もとのまま武昌を領する。
征西將軍、都督雍涼諸軍事の夏侯玄は、大將軍の曹爽の姑子である。夏侯玄は、李勝を辟して長史とする。李勝および、尚書の鄧颺は、曹爽の名声のために、蜀漢の討伐を勧めた。司馬懿に止められない。

ぼくは思う。司馬懿、ほんとに止めたのかな。こういう未遂の事件は、どうにでもなるから。いったい司馬懿と曹爽の関係は、どんな感じなんだろう。最後は司馬懿が曹爽を殺すことは分かるが。どういう経緯なのか。司馬懿は太傅に祭られつつ、孫呉を防いだり、わりに働く機会をもらっている。方面司令官をやるのは、曹叡のときと同じである。とくに虐げられている感じがしない。

3月、曹爽は長安にいたる。蜀兵はおそれて、涪県を出たくない。王平は「漢中から涪県までは1千里もある。もし魏軍が関城を得たら、漢中がやばい」という。王平と護軍の劉敏が、魏軍をふせぐ。

胡三省はいう。関城とは、張魯城ともいう。西県の西40里にある。王侯は、けわしい地形で守備した。のちに関城の守りが破られると、鍾会は漢中に到達してしまった。いま王平がいう関城の重要性は、正しいのである。

閏月、大将軍の費禕が、諸軍を督して漢中をすくう。光禄大夫の来敏が訪れると、費禕はいつもどおり囲棋をした。

夏,四月,丙辰朔,日有食之。
大將軍爽兵距興勢不得進,關中及氐、羌轉輸不能供,牛馬騾驢多死,民夷號泣道 路,涪軍及費禕兵繼至。參軍楊偉為爽陳形勢,宜急還,不然,將敗。鄧颺、李勝與偉 爭於爽前。偉曰:「颺、勝將敗國家事,可斬也!」爽不悅。
太傅懿與夏侯玄書曰: 「《春秋》責大德重。昔武皇帝再入漢中,幾至大敗,君所知也。今興勢至險,蜀已先 據,若進不獲戰,退見邀絕,覆軍必矣,將何以任其責!」玄懼,言於爽;五月,引軍 還。費禕進據三嶺以截爽,爽爭險苦戰,僅乃得過,失亡甚眾,關中為之虛耗。

夏4月、丙辰ついたち、日食あり。
大将軍の曹爽は進めない。参軍の楊偉が撤退せよという。鄧颺や李勝は、楊偉と言いあらそった。楊偉は「鄧颺や李勝を斬るべきだ」という。曹爽はよろこばず。
太傅の司馬懿が、夏侯玄に文書をあたえた。「曹操でも漢中を攻めきれなかった。仕方ないよ」と。

曹操の敗戦は、建安20年と建安24年にある。

夏侯玄は懼れて、司馬懿の文書を曹爽に教えた。5月、魏軍はひく。費禕は曹爽を追いかけた。関中の魏軍は、消耗してしまった。

正始五年秋冬、曹詢と崔林が死に、蒋琬が倒れる

秋,八月,秦王詢卒。
冬,十二月,安陽孝侯崔林卒。
是歲,漢大司馬琬以病固讓州職於大將軍禕,漢主乃以禕為益州刺史,以侍中董允 守尚書令,為禕之副。時戰國多事,公務煩猥,禕為尚書令,識悟過人,每省讀文書, 舉目暫視,已究其意旨,其速數倍於人,終亦不忘。常以朝晡聽事,其間接納賓客,飲 食嬉戲,加之博弈,每盡人之歡,事亦不廢。及董允代禕,欲學禕之所行,旬日之中, 事多愆滯。允乃歎曰:「人才力相遠若此,非吾之所及也!」乃聽事終日而猶有不暇焉。

秋8月、秦王の曹詢が卒した。
冬12月、安陽孝侯の崔林が卒した。
この歳、大司馬の蒋琬が寝こんだ。費禕が、益州刺史をつぐ。侍中の董允が尚書令となり、費禕を補佐する。費禕が尚書令のとき、事務処理がはやかった。董允になって、事務処理が遅滞した。董允は、「費禕はすごいなあ」と感心した。

正始六年春、二宮で陸遜が憤死する

春,正月,以票騎將軍趙儼為司空。
吳太子和與魯王同宮,禮秩如一,群臣多以為言,吳主乃命分宮別僚;二子由是有 隙。衛將軍全琮遣其子寄事魯王,以書告丞相陸遜,遜報曰:「子弟苟有才,不憂不用, 不宜私出以要榮利;若其不佳,終為取禍。且聞二宮勢敵,必有彼此,此古人之厚忌 也。」寄果阿附魯王,輕為交構。遜書與琮曰:「卿不師日磾而宿留阿寄,終為足下門 戶致禍矣。」琮既不納遜言,更以致隙。

春正月、驃騎将軍の趙𠑊を司空とする。
太子の孫和と魯王の孫覇は、同宮におり、礼秩が同じ。群臣が言うので、孫権は2人を別宮に分けた。孫和と孫覇は、仲が悪くなる。衛将軍の全琮は、子の全寄を魯王に仕えさせる。全琮は文書で陸遜にこれを告げる。陸遜が全琮にいう。「私利のために争いに巻きこまれる」と。果たして全寄は、魯王にへつらう。陸遜がこれを注意したので、陸遜と全琮は仲が悪くなった。

魯王曲意交結當時名士。偏將軍硃績以膽力稱, 王自至其廨,就之坐,欲與結好。績下地住立,辭而不當。績,然之子也。
於是自侍御、 賓客,造為二端,仇黨疑貳,滋延大臣,舉國中分。吳主聞之,假以精學,禁斷賓客往 來。督軍使者羊道上疏曰:「聞明詔省奪二宮備衛,抑絕賓客,使四方禮敬不復得通, 遠近悚然,大小失望。或謂二宮不遵典式,就如所嫌,猶宜補察,密加斟酌,不使遠近 得容異言。臣懼積疑成謗,久將宣流,而西北二隅,去國不遠,將謂二宮有順之愆,不 審陛下何以解之!」

魯王は名士とむすぶ。偏将軍の朱績(朱然の子)は、魯王に近づく。
ここにおいて、孫呉の士人が二分した。督軍使者の羊道が異変をおそれた。

吳主長女魯班適左護軍全琮,少女小虎適驃騎將軍硃據。全公主與太子母王夫人有 隙,吳主欲立王夫人為後,公主阻子;恐太子立怨己,心不自安,數譖毀太子。吳主寢 疾,遣太子禱於長沙桓王廟,太子妃叔父張休居近廟,邀太子過所居。全公主使人覘視, 因言「太子不在廟中,專就妃家計議」,又言「王夫人見上寢疾,有喜色」,吳主由是 發怒。夫人以憂死,太子寵益衰。
魯王之黨楊竺、全寄、吳安、孫奇等共譖毀太子,吳 主惑焉。陸遜上疏諫曰:「太子正統,宜有盤石之固;魯王籓臣,當使寵佚有差。彼此 得所,上下獲安。」書三四上,辭情危切;又欲詣都,口陳嫡庶之義。吳主不悅。

孫権の長女の魯班は、左護軍の全琮にとつぐ。次女の小虎は、驃騎将軍の朱拠にとつぐ。

胡三省はいう。どちらも歩夫人の子である。

長女と、太子の母の王夫人は、仲が悪い。孫権は王夫人を皇后に立てたいが、長女がはばむ。、孫権から太子への寵愛が衰えた。
魯王の党派である、楊竺、全寄、吳安、孫奇らが、太子をそしった。陸遜が太子を弁護した。孫権は悦ばず。

『通鑑考異』はいう。『呉録』で、孫権は楊竺にあい、魯王の左右の者を辟して、孫覇の才能を論じさせた。楊竺は、いかに孫覇が優れるか説明して、嫡子にしようとした。孫権は魯王の孫覇を建てようと思った。だが陸遜が極諫したので、孫権は「楊竺が魯王の立太子を漏らした」と疑い、楊竺を斬ったと。楊竺が死んだのは、太子が廃された後であるから、この『呉録』の記述はウソである。
ぼくは思う。上段のほうの話、興味がないので、はぶいてすみません。


太常顧譚,遜之甥也,亦上疏曰 (中略)。由是魯王與譚有隙。
芍陂之役,譚弟承 及張休皆有功;全琮子端、緒與之爭功,譖承、休於吳主,吳主徙譚、承、休於交州, 又追賜休死。太子太傅吾粲請使魯王出鎮夏口,出楊竺等不得令在京師,又數以消息語 陸遜;魯王與楊竺共譖之,吳主怒,收粲下獄,誅。數遣中使責問陸遜,遜憤恚而卒。 其子抗為建武校尉,代領遜眾,送葬東還,吳主以楊竺所白遜二十事問抗,抗事事條答, 吳主意乃稍解。 夏,六月,都鄉穆侯趙儼卒。

太常の顧譚は、陸遜の従子である。顧譚が上疏した。「嫡子を太子とすべきだ」と。これにより、魯王の孫覇と、顧譚は仲が悪くなった。
芍陂の役において、

胡三省はいう。正始2年に、全琮と曹魏が芍陂で戦った。

顧譚の弟・顧承と、張休には功績があった。全琮の子である、全瑞と全緒は功績を争った。全氏の兄弟は、顧承と張休をそしったので、孫権は顧譚、顧承、張休を交州に徙した。張休に死を賜った。
太子太傅の吾粲は、魯王を夏口に出鎮させたい。楊竺らは、魯王を京師から出したくない。しばしば楊竺は、陸遜に文書を送って、状況を説明した。魯王と楊竺が、呉粲をそしった。孫権は呉粲を誅した。
しばしば中使をだして、陸遜を問責した。陸遜は憤恚して卒した。子の陸抗は建武校尉となり、陸遜の兵を領して、荊州から呉郡に死骸をもちかえる。楊竺は陸遜に20の論題を問い合わせた。孫権は陸遜から楊竺への回答を、陸抗から聞いた。陸遜への怒りを解いた。
夏6月、曹魏で都郷穆侯の趙儼が卒した。

正始六年秋冬、孫権の暗殺、費禕が陳祗を用いる

秋,七月,吳將軍馬茂謀殺吳主及大臣以應魏,事洩,並黨與皆族誅。 八月,以太常高柔為司空。 漢甘太后殂。 吳主遣校尉陳勳將屯田及作士三萬人,鑿句容中道,自小其至雲陽西城,通會市, 作邸閣。

秋7月、孫呉の将軍の馬茂は、孫権とその大臣を殺し、曹魏に応じようとした。ばれて、党与と一族が誅された。

『呉歴』はいう。馬茂は、もとは曹魏の淮南郡の鍾離の県長だった。曹魏にそむいて、孫呉に降った者だった。

8月、太常の高柔が司空となる。劉備の甘太后が殂じた。

胡三省はいう。甘太后とは、劉禅の母である。陳寿『三国志』では、すでに南郡で死んでいる。このとき死んだのは、呉太后だろう。呉懿の妹である。劉備が入蜀したとき、はじめて結婚した。『蜀志』で呉太后の死が、この245年になっている。

孫権は、校尉の陳勳に3万人をつけて、句容の中道をほらせた。小其から雲陽の西城まで、行商がくるようになり、邸閣ができた。

沈約はいう。句容とは、漢代の旧県である。丹陽郡に属する。班固はいう。会稽の曲阿県は、もとは秦代の雲陽県である。後漢では呉郡に属した。沈約はいう。曲阿とは、もとを雲陽という。始皇帝が雲陽を曲阿と改めた。孫呉の嘉禾3年、また雲陽にもどされた。秦代、この地に天子の気があるというので、始皇帝は穴を掘って、運気を殺したのだ。まっすぐの道を阿曲させたので、曲阿とよばれた。へえ!
ぼくは思う。もとどおり道を直線にすると、市場がたつ。おもしろい。始皇帝は、金陵の地名もかえた。始皇帝は、反都市(@大室幹雄)の呉郡あたりに、よほど嫌悪感と警戒心をもっている。


冬,十一月,漢大司馬琬卒。
十二月,漢費禕至漢中,行圍守。漢尚書令董允卒;以尚書呂乂為尚書令。董允秉 心公亮,獻可替否,備盡忠益,漢主甚嚴憚之。宦人黃皓,便僻佞慧,漢主愛之。允上 則正色規主,下則數責於皓。皓畏允,不敢為非,終允之世,皓位不過黃門丞。費禕以選曹郎汝南陳祗代允為侍中,祗矜厲有威容,多技藝,挾智數,故禕以為賢,越次而用 之。祗與皓相表裡,皓始預政,累遷至中常侍,操弄威柄,終以覆國。自陳祗有寵,而 漢主追怨董允日深,謂為自輕,由祗阿意迎合而皓浸潤構間故也。

冬11月、大司馬の蒋琬が卒した。
12月、費禕が漢中にきて守る。尚書令の董允が卒した。尚書の呂乂が尚書令となる。董允は劉禅に「黄皓をのぞけ」と戒める。董允の生前、黄皓は黄門丞にしかなれない。

『続漢書』はいう。黄門令丞は1人。宦官がつく。

費禕は、選曹郎する汝南の陳祗を、董允に代えて侍中とした。

胡三省はいう。漢代、六曹尚書がいた。1つの曹には、郎が6人いた。選曹郎は、選部に属する。

費禕は陳祗を重んじて、席次を飛びこして用いた。陳祗と黄皓は、相い「表裏」した。黄皓が政事をにぎると、中常侍にのぼる。劉禅は陳祗を寵愛した。劉禅は、生前の董允に軽んじられたので、董允を怨むようになった。だから陳祗は(董允のように怨まれぬよう)、劉禅に迎合した。陳祗が制止しないから、黄皓は政権に深くかかわった。121108

ぼくは思う。陳祗のことは、よく分からない。 あ! 三國無双6エンパが到着した!

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