表紙 > -後漢 > 『漢書』巻69-70: 王莽伝2(居摂から最盛期)

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居摂1-3年、摂皇帝に即位して執政する

居摂元年、劉崇が起義し、王莽が池に変える

居攝元年正月,莽祀上帝於南郊,迎春於東郊,行大射禮於明堂,養三老五更,成禮而去。置柱下五史,秩如御史,聽政事,侍旁記疏言行。 三月己丑,立宣帝玄孫嬰為皇太子,號曰孺子。以王舜為太傅左輔,甄豐為太阿右拂,甄邯為太保後承。又置四少,秩皆二千石。

居攝元年(後06)正月、上帝を南郊に祭祀し、東郊で迎春した。大射禮を明堂でおこなう。三老・五更を養い、礼をなして去る。

ぼくは思う。王莽が設計し、王莽が実行する、記念すべき1回目の祭祀です。

柱下五史をおき、その秩は御史とおなじ。政事を聴き、そばに侍り、言行を疏(箇条がき)で記録する。

ぼくは思う。この官職について、『補注』は注釈なし。王莽の言行は、「前例がなく新しいが、これを後世の前例とすべし」である。だから記録させたか。王莽の気負いが感じられるなあ。前近代において、新たなことをやる改革者は、その内容に反して「古制の復古者」として自他ともに認知されたがる。王莽も同じである。きっと王莽の言行は、かつてないほど、古制にピッタリする(ところが新しい)と理解されたのだろう。

3月己丑、宣帝の玄孫・劉嬰を皇太子として「孺子」と号した。

何焯はいう。さきに王莽が摂皇帝となり、あとで劉嬰を皇太子にたてた。君臣の分別を戻さないようにした。また劉嬰を皇太子にとどめ、君主にしはしなかった。あらかじめ王莽が奪うためである。先謙は胡三省をひく。周公が成王を輔政したとき、反対者は「周公は、孺子を不利にしそうだ」といった。だが王莽は、この(劉嬰にとって不利な)孺子という号をつかった。
ぼくは思う。よく言われているように、王莽の簒奪は、前漢の皇帝を降ろすことではない。前漢の皇帝を代行して、一時的に皇帝になるところまでは、おおきな反対もなく、到達した。ぼくらは、漢代の当為(あるべき姿)を理想化して捉えがちだが、いくら漢代であっても、皇帝が実務者としての役割を果たせるほうが、組織の運営が円滑なのは、自然なことである。無能もしくは幼稚な劉氏に賭けるるよりも、有能な王莽がいるのであれば、一時的にでも頼ってみたい。こう考えるのは、自然なことだと思う。
ぼくは思う。王莽にとって、いわゆる「簒奪」とは、劉嬰を皇太子から降ろすことだ。前漢において、皇帝を廃することもあるが(霍光は昌邑王を降ろした)皇太子を廃することは、もっと頻繁だ。つまり容易だ。制度が成熟したはずの後漢では、かなり頻繁である。王莽が、いかにして劉嬰を皇太子から廃するか。もしくは、いかにして王莽の子を皇太子に置くか。争点はここである。

王舜を太傅左輔、甄豊を太阿右拂、甄邯を太保後承とした。また四少をおき、みな秩を2千石とした。

胡三省はいう。四少とは、少師、少傅、少阿、少保である。
ぼくは思う。王莽の官制表とかって、あったっけ。


◆劉崇と張紹の反乱

四月,安眾侯劉崇與相張紹謀曰:「安漢公莽專制朝政,必危劉氏。天下非之者,乃莫敢先舉,此宗室恥也。吾帥宗族為先,海內必和。」紹等從者百餘人,遂進攻宛,不得入而敗。紹者,張竦之從兄也。竦與崇族父劉嘉詣闕自歸,莽赦弗罪。竦因為嘉作奏曰:

4月、安衆侯の劉崇と、その相である張紹が謀った。「王莽が専政して、必ず劉氏を危うくする。私が宗族として先鞭をつければ、海内は呼応するだろう」と。

師古はいう。安衆康公の劉月は、長沙定王の子である。劉崇とは、劉月の玄孫である。『王子侯表』にある。
周寿昌はいう。漢家の宗室が王莽を誅そうとしたのは、劉崇にはじまる。厳郷侯の劉信、武平侯の劉璜、徐郷侯の劉快、陵郷侯の劉曽、扶恩侯の劉貴らが、これに続いた。『王子侯表』はいう。建武2年、劉寵は、劉崇の従父弟の劉紹を封じた。後漢の建武13年、子の劉松が侯爵をついだと。つまり班氏が『漢書』の作表をしたとき、まだこの家はあった。劉崇が、宗室のなかで、もっとも早く起義したからだろう。

張紹らは1百人を従え、宛県に進むが、宛県に入城できずに敗れた。張紹とは、張竦の從兄である。張竦と、劉崇の族父・劉嘉は、みずから出頭した。王莽は張竦と劉嘉を無罪とした。張竦は、劉嘉のために上奏をつくる。いわく、

『後漢書』列伝4に、劉嘉伝がある。光武帝の族兄。漢中王。これとは別人かな。
『後漢書』列伝四より、舂陵侯の家柄(光武の族兄)光武と更始のあいだ


建平、元壽之間,大統幾絕,宗室幾棄。賴蒙陛下聖德,扶服振救,遮扞匡衛,國命復延,宗室明目。臨明統政,發號施令,動以宗室為始,登用九族為先。並錄支親,建立王侯,南面之孤,計以百數。收復絕屬,存亡續廢,得比肩首,復為人者,嬪然成行,所以籓漢國,輔漢宗也。建辟雍,立明堂,班天法,流聖化,朝群後,昭文德,宗室諸侯,鹹益土地。天下喁喁,引領而歎,頌聲洋洋,滿耳而入。國家所以服此美,膺此名,饗此福,受此榮者,豈非太皇太后日昃之思,陛下夕惕之念哉!何謂?亂則統其理,危則致其安,禍則引其福,絕則繼其統,幼則代其任,晨夜屑屑,寒暑勤勤,無時休息,孳孳不已者,凡以為天,厚劉氏也。

「建平から元寿までの間、皇統は断絶しそうだが、王莽が輔政したおかげで、漢家は維持された。王莽は、辟雍や明堂をつくった。王莽は幼い劉嬰の代わり、天のために為政し、劉氏を厚遇する。

ぼくは思う。何度目かの「王莽伝の復習」コーナーがやってきた。『補注』は、語釈をしてくれるが、とくに事実に関する異同があるわけじゃない。王莽の功績は、このような公式文書によって、何度も象徴化して、ツルツルに磨き上げられるのだ。王莽と同時代においてそうであり、『漢書』読者にとってもそうである。


臣無愚智,民無男女,皆諭至意。而安眾侯崇乃獨懷悖惑之心,操畔逆之慮,興兵動眾,欲危宗廟,惡不忍聞,罪不容誅,誠臣子之仇,宗室之讎,國家之賊,天下之害也。是故親屬震落而告其罪,民人潰畔而棄其兵,進不跬步,退伏其殃。百歲之母,孩提之子,同時斷斬,懸頭竿杪,珠珥在耳,首飾猶存,為計若此,豈不悖哉!

劉崇は宗室であるのに、王莽に背いた。劉崇はバカである。1百歳の母から、小児まで、首を斬られて、見せしめに架けられても当然である。

臣聞古者畔逆之國,既以誅討,則豬其宮室以為污池,納垢濁焉,名曰凶虛,雖生菜茹,而人不食。四牆其社,覆上棧下,示不得通。辨社諸侯,出門見之,著以為戒。方今天下聞崇之反也,鹹欲騫衣手劍而叱之。其先至者,則拂其頸,沖其匈,刃其軀,切其肌;後至者,欲拔其門,僕其牆,夷其屋,焚其器,應聲滌地,則時成創。而宗室尤甚,言必切齒焉。何則?以其背畔恩義,而不知重德之所在也。宗室所居或遠,嘉幸得先聞,不勝憤憤之願,願為宗室倡始,父子兄弟負籠荷鍤,馳之南陽,豬崇宮室,令如古制。及崇社宜如毫社,以賜諸侯,用永監戒。願下四輔公卿大夫議,以明好惡,視四方。

古代において反逆した国は、宮殿の跡地を池にする。池に垢濁をつっこみ「凶虚」という。池から野菜を生えても、食べない。

ぼくは思う。宮殿とは、いかにも人為による「男性」である。濁った池とは、いかにも自然にもどった「女性」である。このように、宮殿を「去勢」することは、国王に対する最大の処罰になる。しかし「女性」原理にもどった池沼が、それほど無力でないことが、見落とされている。いまこの上奏では、故意に見落としたふりを、しているのかも知れないが。
李奇はいう。宮殿を池にして、貯水につかう。師古はいう。「虚」とは「墟」である。故宮である。「凶虚」で、凶人の住居だった場所、という意味になる。

池の四方を封印して(陰陽が)通じないようにする。諸侯が謀反しないよう、戒めとする。私たち宗室は父子兄弟で、工具をかつぎ、南陽(劉崇の宮殿)にゆき、池を掘りたいと思います。四輔、公卿、大夫で議論してください」と。

於是莽大說。公卿曰:「皆宜如嘉言。」莽白太后下詔曰:「惟嘉父子兄弟,雖與崇有屬,不敢阿私,或見萌牙,相率告之,及其禍成,同共讎之,應合古制,忠孝著焉。其以杜衍戶千封嘉為師禮侯,嘉子七人皆賜爵關內侯。」後又封竦為淑德侯。

王莽はよろこぶ。公卿は「劉嘉の言うとおり、劉崇の宮殿を池にせよ」という。王莽は王元后を通じて詔する。

ぼくは思う。王莽が践祚しても「莽白太后下詔」という形式はつづくのね。ポイントは、平帝のときと劉嬰のときで、実質的に何も政事が変わっていないこと。これが王莽が執政することの、妥当性を示す。もし王莽が践祚した瞬間、まったくの独裁者に変化したのなら、「莽白太后下詔」は必要とされない。

王元后は詔した。「劉嘉は、劉崇の親属であるのに、劉崇を罰せよという。これは古制に適合し、忠孝である。杜衍の1千戸を劉崇にあげて、師礼侯とせよ。劉嘉の7子を関内侯とせよ」と。

ぼくは思う。「師礼侯」は、土地の名でなく、行動にたいする賞賛である。このあたりから、ポトラッチが始まる。つまり劉嘉は、親属を存続させるために、かえって劉崇を売るふりをした。王莽は、これを丸呑みにしたら、威信が失墜する。劉嘉に、劉嘉が親属を売った以上の価値を、返礼しなければならない。王莽が公卿を鵜呑みにして「劉嘉は正しいから、劉崇の宮殿を池にしよう」と言えない。もし、劉嘉の先制攻撃がなければ、王莽は南陽の劉氏をつぶせたものを。
ぼくは思う。この南陽の劉氏の動きが、のちに更始帝や光武帝の登場につながっていく。劉嘉のポトラッチ作戦は、長安の当事者たちが感じた以上に、歴史的な意義をもった。

のちに張竦を淑徳侯とした。

長安為之語曰:「欲求封,過張伯松;力戰鬥,不如巧為奏。」莽又封南陽吏民有功者百餘人,污池劉崇室宅。後謀反者,皆污池雲。
群臣復白:「劉崇等謀逆者,以莽權輕也。宜尊重以填海內。」五月甲辰,太後詔莽朝見太后稱「假皇帝。」

長安では「封爵されたければ、張竦にゆけ。戦闘するより、上奏をうまく作成するほうが、封爵されるには有効である」という。

ぼくは思う。皮肉だけど『贈与論』の本質だなあ!象徴界に生きる父の視線では、これは軽薄な風潮であり、王莽に対する醜いおもねりである。しかし人類学の本質をついている。人類学に沿った行動は、メビウスの輪のように、一周回って、後ろから権力を発動したりする。

王莽は、劉崇の鎮圧に功績がある、南陽の吏民1百余人を封じた。劉崇の室宅を汚池とした。のちに王莽に謀反した者は、みな室宅を汚池にされた。

ぼくは思う。さすが象徴界の怪物!まずは、この処置が「古制にある」のが良い。これに従うのは、いかにも王莽。また、汚池という「女性性」に変えたことで、充分に勝利したと思いこんでしまうのが、また王莽らしい。この「女性性」の混沌のなかから、更始帝を衰退する緑林などの雑軍(これも女性性)が出てくる。

群臣はいう。「劉崇が謀逆したのは、王莽の権限が軽いからだ。王莽を尊重して、海内にみたせ」と。5月甲辰、王元后は王莽が朝見するとき、王元后が王莽を「仮皇帝」と呼ぶことにした。

ぼくは思う。巧妙なポトラッチだ。王莽が吏民1百人を封じたから、そのバランスをとるために、百官や世論というmassが牽制をかけた。王莽は気軽に受納してしまう。漢家=massは、王莽に与えるべき称号を、無限に分割して、半永久的に贈与することができる。王莽は、この不利な戦いに、巻きこまれつつある。大丈夫かなあ。心配になってきた。


◆冬、王莽の属官を増やし、協力者を賞する

冬十月丙辰朔,日有食之。
十二月,群臣奏請:「益安漢公宮及家吏,置率更令,廟、廄、廚長丞,中庶子,虎賁以下百餘人,又置衛士三百人。安漢公廬為攝省,府為攝殿,第為攝宮。」奏可。

冬10月丙辰ついたち、日食あり。
12月、群臣は上奏した請う。「王莽の宮殿と家吏をふやせ。率更令、廟長丞、廄長丞、廚長丞、中庶子をおけ。

先謙はいう。率更令、廄長丞、廚長丞は詹事の属官である。廟長丞は、奉常の属官である。中庶子は、太子太傅と少傅の属官である。

虎賁より以下1百余人と、衛士3百人をおけ。

先謙はいう。虎賁は、旧名を期門という。郎中令に属する。元始のはじめ、期門から虎賁郎に改名した。ぼくは思う。袁術が虎賁中郎将になるので、『三国志集解』の注釈にあった。門で待つ(期す)から、この名がある。

王莽の廬を「攝省」とし、王莽の府を「攝殿」とし、王莽の第を「攝宮」」とせよ」と。これは許可された。

ぼくは思う。「盧、府、第のちがいを答えろ」と言われても、答えられない。あとで字書をひいておかねば。


莽白太后下詔曰:「故太師光雖前薨,功效已列。太保舜、大司空豐、輕車將軍邯、步兵將軍建皆為誘進單于籌策,又典靈台、明堂、辟雍、四郊,定製度,開子午道,與宰衡同心說德,合意並力,功德茂著。封舜了匡為同心侯,林為說德侯,光孫壽為合意侯,豐孫匡為並力侯。益邯、建各三千戶。」

王莽は王元后を通じて詔した。「もと太師の孔光は薨じたが、功績がある。太保の王舜、大司空の甄豊、軽車將軍の甄邯、步兵將軍の孫建は、みな単于を誘った。靈台、明堂、辟雍、四郊の制度を定めた。子午道を開いた。宰衡であった王莽に協力した。

ぼくは思う。つぎに封じられる侯の名は、王莽に対してたてた功績の内容にちなんでいる。いつから、地名で封じるのを辞めたんだろう。なんだか、爵位が官職みたいになってきた。爵位と官職を「統一」することは、メリットとデメリットがある。当然、統一するとスッキリするが、複数の評価尺度により、制度に幅を持たすことができなくなる。
ぼくは思う。王莽の構想では、たとえば2百年先でも、「あの家は、王莽にむけて、こういう功績を立てたのね」と思われたいのか。もしくは、漢家と重複しないように、地名を爵名に使うのを避けているのか。

王舜の子・王匡を同心侯とし、王林を說德侯とする。孔光の孫・孔壽を合意侯とする。甄豐の孫・甄匡を並力侯とする。甄邯と孫建は、3千戸ずつ増やす」と。

ぼくは思う。孔光は死んで、孫世代が現役。王舜は子世代が現役。甄豊は存命だが、孫世代が現役。甄邯と孫建は、まだ少し若いのか、もしくは子孫に爵位を施すほどの重要人物でないのかで、本人の封戸が増やされた。
ぼくは思う。12月の上奏で、王莽は尊ばれてしまったので、王莽がバランスをとった。このように、身動きのとれない贈与の体系に、すでに王莽は巻きこまれている。以前の贈与のバランスが悪いから、次に出会って返礼をする義務を感じてしまう。ぎゃくに、その義務を感じさせるように、過剰な贈与が行われる。永久に抜け出すことができない。
ぼくは思う。王莽は、群臣に官爵を配ることでは、永久にポトラッチから抜け出せない。抜け出すには、ちょっと遠回りに見えるが、うまく民政をやるしかない。メビウスだなあ。という話を、こんど出します。


居摂2年、貨幣を鋳し、翟義が背く

是歲,西羌龐恬、傅幡等怨莽奪其地作西海郡,反攻西海太守程永,永奔走。莽誅永,遣護羌校尉竇況擊之。二年春,竇況等擊破西羌。

この歳(居摂元年)西羌の龐恬と傅幡らが、王莽が領地をうばって、西海郡をつくったことを怨んだ。西羌が西海太守の程永を攻め、程永はにげた。

ぼくは思う。「領地をうばったから、怨まれた」というのは、班固が王莽をけなすための語法だろうが。じつは漢家が四方にやったことの、真理を指し示している。後漢は、なんども羌族と衝突する。けっして『後漢書』には、漢家が羌族の領土を奪って、、などと書かれない。しかし実際の抗争の原因は、これである。

王莽は程永を誅した。護羌校尉の竇況をつかわす。居摂2年(後07)、西羌を撃破した。

ぼくは思う。『後漢書』竇融伝はいう。竇融は、王莽の居攝中(後06-後08)、強弩將軍の司馬となる。東して翟義をうつ。もどって槐裏をせめ、建武の男爵となると。いま出てきた、竇況とはどういう関係なんだろう。世代がズレるにしても、竇況が1つ上くらいか。


五月,更造貨:錯刀,一直五千;契刀,一直五百;大錢,一直五十,與五銖錢並行。民多盜鑄者。禁列侯以下不得挾黃金,輸御府受直,然卒不與直。

5月、王莽は貨幣を改鋳した。おおくの民が、貨幣を偽造した。列侯より以下は、黄金の私蔵が禁じられた。御府に黄金を提出すれば、代価の貨幣をもらえるはずだが、ついにもらえなかった。

先謙はいう。『百官表』はいう。少府には、御府の令丞がある。
ぼくは思う。黄金を、王莽の貨幣のかたちに加工して、返してもらう。それだけのことに思えるが。王莽の貨幣は、モノとしての価値なのか。それとも額面の価値なのか。もとの黄金に価値があったが、素材はそのままに、王莽による加工がされたので、価値がなくなる、、ということは、あるまい。武田泰淳『ニセ札つかいの手記』のパロディーをつくりたくなる。オイディプスの王莽はすでに書きました。
『オイディプス王』を王莽伝として読む
ぼくは思う。王莽の貨幣の流通は、王莽の官職の流通と同じなのだ。『阿Q正伝』のパロディーと組み合わせたくなる。ワケが分からなくなるかなあ。規制の権力の価値が、経済活動に巻きこまれて揺らぐ、、などという話。
ぼくは思う。王莽の貨幣が、錯刀や契刀などの、武力を模しているのも面白い。どちらもファロス。永井俊哉『ファリック・マザー幻想』を、昨夜読みました。


九月,東郡太守翟義都試,勒車騎,因發奔命,立嚴鄉侯劉信為天子,移檄郡國,言「莽毒殺平帝,攝天子位,欲絕漢室,今共行天罰誅莽」。郡國疑惑,眾十餘萬。莽惶懼不能食,晝夜抱孺子告禱郊廟,放《大誥》作策,遣諫大夫桓譚等班於天下,諭以攝位當反政孺子之意。

9月、東郡太守の翟義は、都試(軍事の試験)をやり、車騎を勒して、奔命を発した。厳郷侯の劉信を天子にたてた。郡国に檄文をまわす。「王莽は平帝を毒殺して、天子の位を摂する。漢室を絶やしそうだ。王莽に天罰を」と。

師古はいう。劉信は、東平煬王の子である。
ぼくは思う。王莽による平帝の毒殺を、地の文に書かない。翟義による檄文のカッコに入れて、記してある。班固『漢書』は、疑いなく、王莽による平帝の毒殺説を採用していない。なのに「実証的な」各論者ですら、王莽が毒殺した可能性を、視野にいれつつ、意見の表明を始めてしまいがち。まったく史料に書いてないこと、もしくは史料のなかでカッコに入っていることにつき、事実か否かを検証する必要はないのにね。

郡国は疑惑され、翟義は10余万をあつめる。王莽は惶懼して、食えない。

ぼくは思う。王莽を批判するなら、翟義が典型的である。「正統な天子を殺して、自らが簒奪するつもりだ」と。どちらも宮中の秘密、もしくは内面に属すること。つまり科学的に検証できないこと。おそらく周公旦も、まったく同型の反論を受けたのだろう。王莽は、周公旦を模倣できないから、翟義に糾弾されたのでない。周公旦を完璧に模倣したから、周公旦が受けたのと同じ仕方による批判を受けたのだろう。後世のテキスト研究家だって、周公旦を理想にしながら、「周公旦は周武王を殺めたか」「周公旦は(ほんとに)践祚したか」「周公旦は、周成王に君位を返上する意図があったか」を、モメている。モメて当然なのだ。
ぼくは思う。この決定の不可能性までは、周公旦と王莽は同じ。王莽が、この構造的かつ不可避的に、どちらにでも転ぶ立場から、どちらに向かうか。王莽伝の中盤のテーマです。
というか、周公旦は、周初期の不安定な時代に「仕方なく」登場した、過渡期的な補助者である。これを聖なる為政者に仕立て、注目すべき存在にしたのが王莽なのか。王莽が強調するまでは、周公旦は、「テキストに名前は出てくるけど、べつに良くも悪くもない政治家」だったのかも。王莽は、周公旦を取りあげることで、自らが宙づりの立場に置かれることを予期した。王莽ほど頭が良くなくても、予期できたはずだ。周公旦をめぐる、諸説の異同も、王莽は知っていただろう。これを予期した上ででも(是非はどうあれ)本人の意図としては、漢家を改革しようとした。偉大!

昼夜、王莽は孺子の劉嬰をだいて、郊廟に告禱する。『周書』大誥にある周公がつくった策文にもとづき、諫大夫の桓譚を使者にして、天下に「王莽は孺子に、天子の位を返すつもりだ」と報せた。

ぼくは思う。ぼくの王莽伝は、袁術を理解するための準備です。王莽と劉秀が、曹魏と袁術に対応する。前者は、前王朝を輔政した期間が長くて、天子の位を譲られた。後者は、前王朝から遊離した場所で、天子を自称した。これで、王莽と曹魏が成功し、劉秀と袁術が失敗しているなら、話が簡単なのです。「前皇帝を助けて、前皇帝から譲られないと、天子になれないね」と。しかし、前皇帝とほぼ交渉がない劉秀が、正統な王朝を立てることができたので、話がこじれるのだ。
前皇帝と没交渉のくせに、皇帝即位するのは、劉備と孫権も同じ。劉備と孫権が、勢力として存続したせいで、「袁術のやりかたは、そもそもダメ」とは言えなくなる。
また王莽は、天子の位を奪ったのでなく、譲られたのでもなく、借りパクしたのだ。このことが、王莽の成否にどれくらい影響するのか、見きわめねば。もしくは、王莽が天子になったこと自体に、滅亡の原因がない可能性だってある。こちらの結論に転ぶことも、全然おそれないつもり。


遣王邑、孫建等八將軍擊義,分屯諸關,守厄塞。槐裡男子趙明、霍鴻等起兵,以和翟義,相與謀曰:「諸將精兵悉東,京師空,可攻長安。」眾稍多,至且十萬人,莽恐,遣將軍王奇、王級將兵拒之。以太保甄邯為大將軍,受鉞高廟,領天下兵,左杖節,右把鉞,屯城外。王舜、甄豐晝夜循行殿中。

王邑と孫建ら8将軍に、翟義を撃たせた。関所や厄塞をかためる。槐裡の男子である趙明と霍鴻らが起兵して、翟義とあわさる。翟義らはいう。「漢家の諸将が、すべて東した。京師は防備がカラだから、長安を攻められる」という。王莽への反乱軍は、10万人にふくらむ。

ぼくは思う。袁術について思ったが。ぼくら後世から史料を読む者は。まったく利害関係がないにも関わらず、「エアー御用史家」になって、正誤を判定してしまう。正誤を留保すべきだ、加担すべきでない、という言説ですら、その前提には「エアー御用史家」がデフォルトだという認識がある。おもしろいなあ。どうやらぼくらは、正史から「正誤を判定せよ」という強迫的なメタメッセージを、嵐のように受けとっているのだろう。気づかないだけで。この嵐を起こす力が、本物の御用史家にとっては重要。また気づかせないことも重要。フロイト的な無意識を操作されたら、構造的に逃げられない。
というか、紀伝体という体裁のなかに、分け入っている時点で、「エアー御用史家」になることは、決定づけられているのか。こういうときこそ、デリダ「脱構築」だなあw やっと当事者たるテーマを見つけたので、デリダに着手できそう。彼の主張の外延だけ見れば、「なんだか当たり前のこと」でしかない。いざ自分が渦中にあるテーマで取り組めば、いろいろ気づきも多そうです。

王莽は恐れ、将軍の王奇と王級に防がせる。太保の甄邯を大將軍として、高廟で鉞を受け、天下の兵を領させる。左には節を杖き、右は鉞を把む。甄邯は、長安の城外に屯する。王舜と甄豐は、昼夜とも、殿中に循行する。

ぼくは思う。翟義は、王莽を除きたいのか、漢家を滅ぼしたいのか、よく分からない。もちろん檄文には「王莽を除け」と書いてあるが、いちど大規模な戦乱を起こせば、漢家がどうなるか分からない。というか、この時点で、王莽と漢家を切り分けることができない。もしぼくらが、切り分けられるように思うなら、これは「王莽のあとに後漢ができた」という結果からの遡及だろう。戦乱を起こす者は、何も考えていなくても、もっとも通りが良いことを唱えるのだ。内容じゃなくて、形式である。後漢末に「漢室の復興」を唱えた諸勢力が、わりと献帝を無視したのと同じだ。何かを主張するとき、「本来の古き良き、あれを取り戻せ」は、よくある語法。それ以上でも、以下でもない。
王莽だけでなく、漢家の重臣が、みな非常事態の対応をしている。王莽伝のバイアスにより、翟義が「正しい」ように見えるが、まったく単なる反乱である。というか、翟義は必ずしも「正しい」とも描かれない。光武帝の兄貴分にあたるので、否定はしないが、全肯定は危険。という微妙なところ。ともあれ、翟義は漢家の逆賊。とぼくは評価する。


十二月,王邑等破翟義於圉。司威陳崇使監軍上書言:「陛下奉天洪範,心合寶龜,膺受元命,豫知成敗,鹹應兆占,是謂配天。配天之主,慮則移氣,言則動物,施則成化。臣崇伏讀詔書下日,竊計其時,聖思始發,而反虜仍破;詔文始書,反虜大敗;制書始下,反虜畢斬,眾將未及齊其鋒芒,臣崇未及盡共愚慮,而事已決矣。」莽大說。

12月、王邑らは翟義を、圉県でやぶる。司威の陳崇は、監軍に上書させた。「陛下=王莽は、配天之主に魅入られているから、諸将が戦うまでもなく、翟義は自滅した」と。おおいに王莽は悦んだ。

ぼくは思う。王莽は、心配でものを食えなくなったり、これ見よがしの賛辞に悦んだりする。これは、王莽を幼稚に見せる作戦かも知れないが。『曹瞞伝』の事例があるように、かえって人間くさくて魅力を増す。
また、陳崇の歯の浮くような賛辞に、悦んだ王莽が滑稽に見えるけれども。賛辞は形式が大事なんだ。結婚式で「永遠の愛を」と定型句をいい、悦んで同意した新婚夫婦は、バカだろうか。そうとも限るまい。儀礼的な言葉とは、そういうもの。内容がない、もしくは内容が派手であることにより、ぎゃくに意味を持つのだ。


居摂3年、5等爵を配り、符命を受けて真皇帝に

三年春,地震。大赦天下。
王邑等還京師,西與王級等合擊明、鴻,皆破滅,語在《翟義傳》。莽大置酒未央宮白虎殿,勞賜將帥,詔陳崇治校軍功,第其高下。莽乃上奏曰:「明聖之世,國多賢人,故唐、虞之時,可比屋而封,至功成事就,則加賞焉。(中略)周武王孟津之上,尚有八百諸侯。周公居攝,郊祀後稷以配天,宗祀文王於明堂以配上帝,是以四海之內各以其職來祭,蓋諸侯千八百矣。《禮記‧王制》千七百餘國,是以孔子著《孝經》曰:『不敢遺小國之臣,而況於公、侯、伯、子、男乎?故得萬國之歡心以事其先王。』此天子之孝也。秦為亡道,殘滅諸侯以為郡縣,欲擅天下之利,故二世而亡。高皇帝受命除殘,考功施賞,建國數百,後稍衰微,其餘僅存。

居摂3年春、地震あり。天下を大赦した。
王邑らが京師にもどる。西して王級とあわさり、槐裏の趙明と霍鴻を破滅させた。『漢書』翟義伝にある。☆

ぼくは思う。前漢において、大規模な戦役は、いつぶりだろう。まして国内戦なんて、いつぶりだろう。よく、戦い方を覚えていたなあ。羌族と接する槐裏ならまだしも、兗州の東郡で、よくぞ翟義は「訓練すべき官軍」で挙兵したよ。

王莽は未央宮の白虎殿で、おおいに置酒した。将帥をねぎらい、陳崇に軍功を評価させた。王莽は上奏した。「唐虞のとき、封侯がたくさんいた。周武王が孟津で勝つと、8百諸侯を封じた。周公旦が居摂すると、18百諸侯を封じた。

ぼくは思う。なんで周公旦は、周室において「周公」なんだろう。漢家の漢王、曹魏で魏王を、君主とはべつに立てるようなものなのに。もしくは、この不自然さこを、「周公旦は君主の位にあった」ことの証明なんだろうか。
ぼくは思う。「君主が1人である」というのは、だれが決めたんだろう。自然の成りゆきで、こうなるのか? それとも思想的背景があるのか? 世界史では、わりに普遍的ながら。周公旦とか王莽の位置を確定させるためには、わりと見直したいテーマではある。補助者と君主が混同されること、入れ替わることが、あっても(机上においては)良さそうなものだが。

『礼記』王制では、17百余国ある。孔子『孝経』では「小国もモレなく封じ、まして公侯伯子男はキッチリ封じた。ゆえに万国は悦んで先王に仕えた」とある。秦制では諸侯を郡県にして、皇帝が天下の利を集中したので、2世で滅びた。

ぼくは思う。諸侯を封じることで、諸侯は悦んで君主に仕えてくれる。もし封じなければ、諸侯は離れてゆく。郡県の太守や令長に任じただけでは、ちっとも協力をひきだせない。太守や令長は、定期的に異動するので、君主から見ると滞留がなくて嬉しいのだが。諸侯に領地を退蔵させることで、却って諸侯から協力を引き出す。逆説的であり、捉えどころがないが。人類学でとらえれば、すべてがメビウスの輪である。というか、メビウスが開通したときに、その仮説は正しかったと確かめられるほどだ。


太皇太后躬統大綱,廣封功德以勸善,興滅繼絕以永世,是以大化流通,旦暮且成。遭羌寇害西海郡,反虜流言東郡,逆賊惑眾西土,忠臣孝子莫不奮怒,所征殄滅,盡備厥辜,天下咸寧。今制禮作樂,實考周爵五等,地四等,有明文;殷爵三等,有其說,無其文。孔子曰:『周監於二代,鬱鬱乎文哉!吾從周。』臣請諸將帥當受爵邑者爵五等,地四等。」奏可。於是封者高為侯、伯,次為子、男,當賜爵關內侯者更名曰附城,凡數百人。擊西海者以「羌」為號,槐裡以「武」為號,翟義以「虜」為號。

王元后は、中断した諸侯を再設置した。西海郡が羌族に、東郡が翟義に惑わされたが、忠臣や孝子が平定した。

ぼくは思う。がんばった人の総称が「忠臣や孝子」なのね。王莽はさっき『孝経』をあげた。君主に仕えることと、両親に仕えることは、まったく矛盾なく接続している。
ぼくは思う。王莽が西海郡を設置したとき、書くべきだったが。王莽は、南北東に「~海郡」があるから、西海郡をおいた。だが西に海はない。すくなくともアラブにいかないと。なんたる「あるべき論」。なんたる当為! 渡邉先生の「現実はどうあれ、理念はどうであったか」という問いの立て方は、王莽によくなじむ。

周制にもとづき、爵位を5等、地を4等とする。上から順に、侯伯子男の4つをおき、5番目の関内侯を「付城」と改名する。数百人に5等爵を与える。

ぼくは思う。孔子の5等爵のうち、「公」は王莽の安漢公があるから、使えない。だから、関内侯をむりに編入して、5番目とした。
蘇林はいう。周制において、爵5等とは、公侯伯子男である。地4等とは、公1等、侯伯2等、子男3等、附庸4等である。
師古はいう。殷制において、爵3等があり、公1等、侯2等、伯子男3等である。蘇輿はいう。『白虎通』にひく『含文嘉』によると、殷爵3等、周爵5等である。『公羊説』はいう。春秋時代、伯子男でまとめて1等であり、公と侯についで3番目だった。
ぼくは思う。王莽は、周制や殷制に目をくばりながら、安漢公の「公」を保全して、独自のルールをつくった。ただし、爵位の等級によって、臣下から協力を引き出すという発想は、まったく不変である。気持ちわるいほど、不変である。これが、『贈与論』で理解する官爵、という、ぼくのテーマにつながる。
先謙はいう。項安世『家説』はいう。漢代の「庸」は、「墉」と同じ。国城より小さな支城、属城を「附庸」という。胡三省はいう。『王制』において、50里未満の小さな城主は、天子に会えない。諸侯に付属したので、附庸という。

功績を立てたとき戦った場所や相手により、爵位の称号を決める。西海を「羌」、槐裏を「武」、翟義を「虜」とする。

群臣復奏言:「太后修功錄德,遠者千載,近者當世,或以文封,或以武爵,深淺大小,靡不畢舉。今攝皇帝背依踐祚,宜異於宰國之時,製作雖未畢已,宜進二子爵皆為公。《春秋》『善善及子孫』,『賢者之後,宜有土地』。成王廣封周公庶子六人,皆有茅土。及漢家名相大將蕭、霍之屬,鹹及支庶。兄子光,可先封為列侯;諸孫,制度畢已,大司徒、大司空上名,如前詔書。」

群臣はまた上奏した。「王元后には功績がある。摂皇帝となった王莽は、宰衡のときと異なる爵位が必要だ。王莽の2子を公爵に進めろ。『春秋』は、賢者の子孫に土地を保有させよという。

ぼくは思う。王莽が、西海・槐裏・翟義を滅ぼした人々に、5等爵をくばった。ゆえに群臣は、王莽に爵位を贈りかえした。ポトラッチが起きている。過熱したポトラッチは、サドンデスでもある。どこまでゆくのやら。サドンデスを回避するには、王莽が「真皇帝」になるしかないのだが。
ぼくは思う。王莽伝は、一定のリズムがある。政治的な問題がおこる。群臣が功績をたてる。王莽が群臣に褒賞をあたえる。群臣が上奏して、王莽に褒賞を与える。王莽の「専横」のために、政治的な問題がおこる。以下(王莽が真皇帝にならないかぎり)無限ループ。いや、たとえ劉氏が皇帝であっても、この往復運動は一緒なんだ。王莽のとき、振れ幅が大きくなるから、めだつ。漢家が正常であれば、決まった官職のなかで、贈与と返報の往復運動が起こるだけだから、気づかない。王莽のような変革期、もしくは創造的な反例により、原理が露見する。制度の安定は、ポトラッチを回避するためのもの。この理解が、じつは因果関係を正しく指し示しているのかも知れない。

周成王は、周公旦の庶子6名に土地をあたえた。漢家では、蕭何や霍光の士庶が土地をもらった。王莽の兄子の王光を、まず列侯とせよ。大司徒と大司空は、封じるべき王氏をあげろ」と。

太后詔曰:「進攝皇帝子褒新侯安為新舉公,賞都侯臨為褒新公,封光為衍功侯。」是時,莽還歸新都國,群臣復白以封莽孫宗為新都侯。莽既滅翟義,自謂威德日盛,獲天人助,遂謀即真之事矣。

王元后はいう。「褒新侯の王安を、新舉公とする。賞都侯の王臨を、褒新公とする。王光を衍功侯とする」

ぼくは補う。王安と王臨は、王莽の子。王光は、王莽の兄子。やはり公爵を空席にしたのは、王莽の親属がつくため。
余談だけど、日本の天皇は「姓を与える者」だから、姓がないとも言えるらしい。王莽においては、「爵位を与える爵位」が公である。だから「与えられる爵位」のなかに、公は含まれない。しかしこの構図は、日本の天皇に比べると、あまり徹底していない気がする。「同僚の第一人者」という気配がつよい。
ぼくは思う。そういうわけで、渡邉先生の西晋の本と、にゃもさんの来るべき「西晋五等爵」の修士論文なんですねえ。早く読みたいなあ。

このとき王莽は、新都国にかえっている。群臣は「王莽の孫・王宗を、新都侯とせよ」という。

ぼくは思う。王莽は息子を殺しまくるが。群臣に期待されるだけの孫がいるのだ。前漢の後期、皇帝たちは、思いどおりにならない子よりも、かわいい孫に希望を託する。たとえば宣帝は、元帝を飛ばして、「皇孫」成帝に期待した。王莽が、孫に希望を託しても、不思議でない。王莽のように、政治生命の長い場合、世代が1つ飛んでしまう。下降するぶんには、儒教に抵触しなかろう。「王莽の孫」「幻想の2代皇帝」というテーマ。良さげ!ジジバカの王莽も良さげ!
ぼくは思う。なんで王莽は帰国したんだろう。真皇帝になる準備? まさかね。しかし、この就国には、いろいろな意味を込められそうだ。
もしくは、母の看病にいったか。王莽なら、国政を捨ててでも、看病に行きそうだ。真心からも、アピールからも。

すでに王莽は翟義を滅した。みずから王莽は「私の威德が日に日に盛んである。天人の援助を獲得した」という。ついに「真皇帝」になる謀略をやる。

ぼくは思う。ポトラッチが極まったのである。王莽が邪悪なのでなく、ポトラッチが極まったなら、構造的に、誰であろうと、競争相手を破産させるしか、生き残りの道がない。


◆母に服喪せず、兄子を殺し、無私を示す

九月,莽母功顯君死,意不在哀,令太后詔議其服。少阿、羲和劉歆與博士諸儒七十八人皆曰:「(中略)昔殷成湯既沒,而太子蚤夭,其子太甲幼少不明,伊尹放諸桐宮而居攝,以興殷道。周武王既沒,周道未成,成王幼少,周公屏成王而居攝,以成周道。是以殷有翼翼之化,周有刑錯之功。(中略)攝皇帝當為功顯君緦縗,弁而加麻環絰,如天子吊諸侯服,以應聖制。』莽遂行焉,凡一弔再會,而令新都侯宗為主,服喪三年雲。

9月、王莽の母・功顕君が死んだ。王元后は、いかに王莽が服喪すべきか、議論させた。少阿・羲和の劉歆は、博士や諸儒78人とともにいう。「殷湯王の死後、伊尹が居摂した。周武王の死後、周成王が居摂した。君主が死んでも、居摂する者が、政事をうまくやるのだ。摂皇帝の王莽は、実母が死んだのだが、天子が諸侯を弔問するように対応せよ(政事を優先にして、服喪するな)」という。王莽は1度だけ弔問した。王莽の孫・新都侯の王宗が、3年の服喪をした。

ぼくは思う。喪の前例とか、喪の制度とか、『補注』がいろいろ引いている。上海古籍6097頁。はぶく。ここで根拠にされているのは、沈欽韓によると、劉歆が編纂した『周官』司服だそうだ。ともあれ、「王莽は政事をやれ。なんのために摂皇帝をやってるんだよ」という、劉歆たちからの要請である。
いま省いたが、本文で王宗は「哀侯をつぐ」とある。王莽の子で、さきに死んで哀侯となったのは、王宇かなあ。調べねばね。


司威陳崇奏,衍功侯光私報執金吾竇況,令殺人,況為收系,致其法。莽大怒,切責光。光母曰:「女自視孰與長孫、中孫?」遂母子自殺,及況皆死。初,莽以事母、養嫂、撫兄子為名,及後悖虐,復以示公義焉。令光子嘉嗣爵為侯。

司威の陳崇が上奏した。「衍功侯の王光(王莽の兄子)は、ひそかに執金吾の竇況に指示して殺人をさせた。だが王光は、竇況を捕縛して、法で裁いた」と。

胡三省はいう。王光の「私属」が竇況だと読むべき。つまり竇況は、王光に個人的に結びついた子分であった。

王莽は大怒し、王光を切責した。王光の母はいう。「王莽の子である長孫(王宇)、中孫(王獲)は、2人とも王莽に殺害された。王光は、この前例と比較すると、自分の罪をどう思うか」と。ついに王光の母子は自殺した。竇況も死んだ。
はじめ王莽は、母につかえ、兄嫁と兄子をやしない、名声をなした。だがのちに、兄の親属を悖虐して、公義を示した。

ぼくは思う。国家と親属では、異なるルールが適用される。親属を国家のために差し出すことは、「性格が悪い」と同時に、「国家にむけて、親属の命をポトラッチした」ことにもなる。ポトラッチばかり言っているけど、王莽はそういう人なのです。ポトラッチにより、漢新革命を起こした。ポトラッチがないと、革命なんかなかったよ。「王莽はへりくだって気前が良いふりをした、しかし漢家を奪った」と、前後を逆接するのは誤りだ。「王莽はへりくだって気前が良いふりをした、ゆえに漢家を奪った」とすべきだ。
劉奉世はいう。王莽は喪に服さないが、公義を示した。ぼくは思う。王莽は親属を殺し、服喪しない。そのかわり、漢家の国政を優先してやっている。もう充分、漢家に対して立功しているのだ。べつに贔屓に見なくても。

王莽は、王光の子(兄孫)の王嘉に、侯爵をつがせた。

ぼくは思う。王莽に孫がいるのだから、兄にも孫がいてもおかしくない。いま王莽は、50代の前半です。もう皇帝になります。


莽下書曰:「遏密之義,訖於季冬,正月郊祀,八音當奏。王公卿士,樂凡幾等?五聲八音,條各雲何?其與所部儒生各盡精思,悉陳其義。」

王莽が下書した。「音楽の中止は、冬の終わりまでだ。つぎの正月の郊祀で演奏する音楽について、王・公卿・士のすべきことを儒生が研究して議論せよ」と。

張晏はいう。平帝が元始5年12月に崩じてから、この2年である。師古はいう。『虞書』はいう。放勲が死ぬと、百姓は3年喪をして、四海は音楽を中止したと。
劉奉世はいう。平帝が崩じたのは、居摂の年の12月だから、3年たつ。2年でない。けだし王莽は『虞書』を引用しただけであり、実際の3年=25ヶ月のことを言ったのでない。或者はいう。この記事は、居摂3年冬におくべきで、場所がちがうのでは。
ぼくは思う。渡邊先生の本では、周公が政権奉還した7年が、王莽のリミットとして強調されていたが。王莽はその7年にこだわらず、この年末に真皇帝になる。どうやら、平帝の喪が明けるのを待ったと考えるほうが、キッカケとしては強いかも知れない。翌年の正月の音楽は、摂皇帝でなく真皇帝として臨みましょう!という意気ごみ。
しかし3年目=25ヶ月ではなくて、満3年を待っている。短絡的に、平帝の喪が明けるとも言えないのか。うーん。


◆王莽を真皇帝にするための符命

是歲,廣饒侯劉京,車騎將軍千人扈雲、太保屬臧鴻奏符命。京言齊郡新井,雲言巴郡石牛,鴻言扶風雍石,莽皆迎受。十一月甲子,莽上奏太后曰。

この歳、廣饒侯の劉京、車騎將軍の(属官である)千人の扈雲、太保屬の臧鴻らが、符命を上奏した。劉京は齊郡の新井から、扈雲は巴郡の石牛から、臧鴻は扶風の雍石から、符命がでたという。王莽は迎え受けた。11月甲子、王莽は王元后に上奏した。

陛下至聖,遭家不造,遇漢十二世三七之厄,承天威命,詔臣莽居攝,受孺子之託,任天下之寄。臣莽兢兢業業,懼於不稱。宗室廣饒侯劉京上書言:「七月中,齊郡臨淄縣昌興亭長辛當一暮數夢,曰:『吾,天公使也。天公使我告亭長曰:「攝皇帝當為真。即不信我,此亭中當有新井。』亭長晨起視亭中,誠有新井,入地且百尺。」十一月壬子,直建冬至,巴郡石牛,戊午,雍石文,皆到於未央宮之前殿。臣與太保安陽侯舜等視,天風起,塵冥,風止,得銅符帛圖於右前,文曰:天告帝符,獻者封侯。承天命,用神令。」騎都尉崔發等視說。

(王莽が王元后に3つの符命の由来と意味を説明する)

及前孝哀皇帝建平二年六月甲子下詔書,更為太初元將元年,案其本事,甘忠可、夏賀良讖書臧蘭台。臣莽以為元將元年者,大將居攝改元之文也。於今信矣。《尚書‧康誥》「王若曰:『孟侯,朕其弟,小子封。』」此周公居攝稱王之文也。《春秋》隱公不言即位,攝也。此二經周公、孔子所定,蓋為後法。孔子曰:「畏天命,畏大人,畏聖人之言。」臣莽敢不承用!臣請共事神祇宗廟,奏言太皇太后、孝平皇后,皆稱假皇帝。其號令天下,天下奏言事,毋言「攝」。以居攝三年為初始元年,漏刻以百二十為度,用應天命。臣莽夙夜養育隆就孺子,令與周之成王比德,宣明太皇太后威德於萬方,期於富而教之。孺子加元服,復子明辟,如周公故事。

王莽はいう。哀帝の建平2年6月甲子、太初元将元年と改元された。甘忠可と夏賀良が、この改元の根拠となった讖書を、蘭台に保管している。これは王莽が元将となり、居摂するとも解釈できる。

ぼくは思う。王莽による革命は、哀帝に起算される。のちに王莽は、哀帝の即位から14年目に真皇帝になったというが、これが儒教に根拠のあること。つまり成帝が死んだ時点で(ニセ皇帝の哀帝が即位した時点で)漢帝は、実質的に空白になったという歴史観である。哀帝はニセ皇帝、平帝は王莽に摂政してもらった皇帝である。
建平2年とは、哀帝が即位した翌年である。ほぼ哀帝の即位と同時である。

『尚書』康誥は、居摂した周公を「王」とよぶ記述がある。『春秋』で隠公は即位といわず「摂」という。2書は、周公と孔子が記したものです。周公と孔子に基づけば、私・王莽を「王」といい、「摂」する私を君主扱いしても、誤りとは言えない。しかし(謙遜して)私が、王元后と王平后に奏するときは「仮」皇帝と自称する。しかし私が天下に号令するときは「摂」をつけない。

ぼくは思う。呼称とは、複数の人間の関係の上にあらわれる。この世に1人しかいなければ、呼称はいらない。王莽は「本当は」どんな称号かという問いに、意味はない。王莽は、王元后と王平后に対してのみ「仮皇帝」であるが、天下に対しては「皇帝」である。「摂」をつけない。人数比で近似すれば、王元后と王平后は0人になる。つまり王莽は、すでに「皇帝」である。
ツイッター用まとめ。称号は人間関係の上にあらわれる。他者との関係を度外視した「本質的で、自律的な、本当の彼自身の」称号なんてない。居摂3年に王莽は、王元后と王平后に対してのみ「仮皇帝」と称し、天下に対して「皇帝」と称した。人数比で近似すれば、2人→0人。王莽は、すでに「皇帝」である。いわゆる簒奪の前に、王莽は「皇帝」になり終えてた。

居摂3年を、初始元年とする。私は漏刻で天命を計測して、昼夜「孺子」の養育をがんばる。劉嬰が元服したら、政権を返却する。周公旦のように。

ぼくは思う。こんな年端も行かないガキを養育することは、王莽から漢家に対する贈与なのだ。父代わりであり、君主の代わりでもある。すごい労力である。王莽は「いつか返します」という意味で、周公旦をひきあいにだすが。同時に、王莽の功績の大きさを(王莽が思う以上に)アピールしているのだ。王莽が養育をがんばるほど、王莽が真皇帝になるための準備が進むのだ。

王元后は改元を認めた。衆庶は符命を奉る。(衆庶が形成した世論は)群臣に、王莽が真皇帝になるための手順を研究させ、べつに上奏させた。

期門郎張充等六人謀共劫莽,立楚王。發覺,誅死。

期門郎の張充ら6人が、王莽を排除して、楚王の劉紆(宣帝の曽孫)を天子に立てようとする。発覚して、誅死した。

ぼくは思う。翟義といい、いま張充といい。王莽を否定することは、王莽の太子である、劉嬰をも否定することになる。なぜなら、王莽を廃して、楚王の劉紆を立てたら、劉嬰に帝位は回ってこないから。それでも良いのだ、それを諒解した上での反乱なのだ、と理解したい。
ぼくは思う。莽新末、劉氏の皇帝候補が、あちこちから出てくる。なんと「孺子」劉嬰が起兵しても、ちっとも支持が集まらず、劉嬰が殺されてしまう。「劉氏の正式な後継者がいない」という状況をつくったのは、2つの主体がいる。1つは王莽。摂皇帝を維持するために、存在感のない劉嬰を立てた。これは摂皇帝の王莽にとって「政権内の変化」であった。つまり、あまり際だった変化ではない。2つは王莽に挙兵した勢力。劉嬰が長安のなかにいるので、劉嬰でない劉氏を、天子の候補にした。結果、劉嬰の存在感がうせた。王莽を攻撃するつもりで、「劉嬰なんか要らない。どちらかと言えば王莽でも構わない」という世論を、導き出してしまった。
うーん。王莽の反対勢力は失敗したのだから、劉嬰の存在感が薄くなったことを、反対勢力の思惑だとは言うまい。しかし結果としては、そう。反対勢力の集合体が、かえって王莽が真皇帝になるのを助けた。
ぼくは思う。楚王の劉紆の敗北が、ダメ押しになるくらい、劉紆は皇族のなかの有力者だったのだろう。 どこまで記録があるか分からないが、追ってみたい。


梓潼人哀章,學問長安,素無行,好為大言。見莽居攝,即作銅匱,為兩檢,置其一曰「天帝行璽金匱圖』,其一署曰「赤帝行璽某傳予黃帝金策書」。某者,高皇帝名也。書言王莽為真天子,皇太后如天命。圖書皆書莽大臣八興,又取令名王興、王盛,章因自竄姓名,凡為十一人,皆署官爵,為輔佐。章聞齊井、石牛事下,即日皆時,衣黃衣,持匱至高廟,以付僕射。僕射以聞。

梓潼(広漢)の哀章は、長安で学問したが、大言が好きである。

ぼくは思う。発言の内容をスポイルするために、哀章の信頼度を落としてある。涙ぐましい編纂の努力である。

王莽が居摂するのを見て、2つの封書箱をつくる。「天帝行璽金匱圖」「赤帝行璽某傳予黃帝金策書」である。「某」のところには、高帝の名「邦」が入る。「王莽は真天子になれ、皇太后は天命の如くせよ」として、図書に王莽の大臣8人を記す。王興、王盛の名を書き入れ、哀章みずからの名も書き入れ、合計11人である。11人に対応させ、王莽が与えるべき官爵を記す。

ぼくは思う。内容の信憑性なんか、あまり意味がない。演出が過剰であることに意味がある。王莽にもっと高い地位を贈れ、という身振りは、これまでのポトラッチと同じである。この過剰なものを、王莽が退蔵しないようにするには、1つしか方法がない。王莽が真皇帝をありがたく頂戴して、哀章に官爵を返礼することだ。
ぼくは思う。哀章が自分の名を書き入れたから、「あざとい」「信頼できない」のではない。哀章は、ポトラッチに対する、あるべき返報の内容を、予め示している。いわば返信用封筒に、切手まで貼って、欲しいものリストを同封して、王莽に贈ったのだ。このように、ポトラッチの対象物に真心が行きとどいているので、王莽は安心して受納ができた。11名の官爵(返報の欲しいものリスト)が同封でなければ、きっと王莽は断っただろう。哀章が、どこまで意識したか分からないが、人類学にセットされた作法にて、哀章は受納をうながした。「信頼できる」なあ!

哀章は、黄衣をきて、高廟に2箱をもってゆき、高廟の僕射にわたす。

先謙はいう。僕射とは、高廟の令である。先謙はいう。奉常のもとに、高廟令がいる。高廟に僕射はいない。
ぼくは思う。大切なシーンで、間違えるなよ。「10年後に会うのは2000年か。21世紀だな」という、残念な『冷静と情熱のあいだ』の決めセリフと同じである。


戊辰,莽至高廟拜受金匱神嬗。

12月戊辰、王莽は高廟にゆき、金匱・神嬗を受けとる。

師古はいう。神「嬗」とは、神「禅」のこと。神の命にて、漢家から王莽に禅譲するという意味である。
ぼくは思う。のちに王元后に、ごちゃごちゃ王莽が説明にゆくが。この高廟の前のやりとりで、禅譲の本番は終わっていた。つまり、劉嬰を皇太子にしない。というか、いま服喪してる新都侯の王宗に、つぎの皇帝(真皇帝)をわたす。こういう決定である。
ぼくは思う。周公旦の故事に基づくときと、符命に基づくとき。前者がタテ糸、後者がヨコ糸に見られる。対立しないまでも、交差するもの、別個のものとされる。しかしぼくは、どちらも同じだと思う。称号と功績のポトラッチなんだから。期待される職務(称号の名)と、実行した功績を比べる。どっちが多い、どっちが少ない、不足分を追加せよ、いやいやそれは過剰です、という往復運動である。何でも同じにまとめられて、理論の剃刀が強すぎるという懸念はあるけれど。
つまり周囲からの要請において、王莽は、劉嬰に天子を返すには、あまりに功績が大きくなり過ぎたのだ。「劉嬰に返さない」という謙遜の姿勢をつらぬけば、かえって王莽から恩義を受けた劉嬰にとって、立つ瀬がない。そんなん。
期待される職務(称号)は、基本的には上位者から下位者に、与えられるもの。群臣は、王元后という媒介を経て、下位者(群臣)から上位者(王莽)に、称号などを与えてきた。つまり、群臣は通常の経路では、上位者である王莽に何かを与えることができない。そこで、王莽より上位である王元后に、いちど迂回することで、王莽の上から降ろすことができた。いま、これでは追いつかなくなった。
そのとき、下位者から上位者に贈与できるものが、符命である。王莽が群臣に爵位を贈与したように、群臣は王莽に符命を贈与したのだ。爵位は、象徴界の内側だけのもの(言葉遊び)である。符命もまた、象徴界の内側だけのもの(言葉遊び)である。符命は、明らかに臣下が偽作したことを、後世の論者から批難される。違いますよ。符命が、明らかに臣下によって偽作されているからこそ、爵位に対するカウンターパンチになるのだ。現実界の元手が、なに1つないところまで、爵位と符命は同じである。元手がないから、効果がある。もしも、まじで超自然的に降って湧いた符命であれば、群臣から王莽への贈与にならない。王莽は、天に向けて畏まるだけで、政事は前進しないだろう。
ツイッター用まとめ。爵位と符命とポトラッチ的なトレードオフ。王莽は爵位を競争的に群臣に贈与した。群臣から王莽に返報できるものが、じつは符命。爵位は、象徴界の内側だけのもの(単なる言葉遊び)であるが、符命もまた同じ。符命は常に過剰であり、明らかに臣下が偽作したとバレるのが特徴。それゆえに王莽への報復となり得る。群臣はポトラッチにおいて、王莽に対抗できる。哀章しかり。


御王冠,謁太后,還坐未央宮前殿,下書曰:「予以不德,托於皇初祖考黃帝之後,皇始祖考虞帝之苗裔,而太皇太后之末屬。皇天上帝隆顯大佑,成命統序,符契圖文,金匱策書,神明詔告,屬予以天下兆民。赤帝漢氏高皇帝之靈,承天命,傳國金策之書,予甚祇畏,敢不欽受!以戊辰直定,御王冠,即真天子位,定有天下之號曰『新』。其改正朔,易服色,變犧牲,殊徽幟,異器制。以十二月朔癸酉為建國元年正月之朔,以雞鳴為時。服色配德上黃,犧牲應正用白,使節之旄幡皆純黃,其署曰『新使王威節』,以承皇天上帝威命也。」

王莽は王冠を御し、王元后に謁する。未央宮の前殿にもどって座り、下書した。「私は黄帝の子孫、虞帝の後裔、王元后の親属である。符命があり、赤帝・漢家の皇帝の霊から、天命をもらった。戊辰が吉日なので、王冠を御して、真天子についた。天下の号を「新」とする。正朔、服色、犠牲、旗色、器制を改変する。12月ついたち癸酉を、始建國元年の正月ついたちとする。

劉フンはいう。原文は「建国」だが、年号は「始建国」が正しい。
何焯はいう。曹叡の景初元年、丑の月を正月とした。3年後に曹芳がつぐと、正始と改元して、また寅の月を正月とした。曹叡は正月の変更を明言しなかった。王莽が漢家の地統を改めて、正月を変更した。曹叡による変更は、王莽と同じという自覚があったものか。(原文、よくわかりません)
胡三省はいう。土が火をつぐ。ゆえに黄をとうとぶ。万物は丑において紐牙する。丑が白色なので、犠牲は白色とされた。

服飾は黄色をとうとび、犠牲は白色をもちい、旗色は純黄とする。「新使王威節」と記して、皇天・上帝の威命をうける」と。130220

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始建国元年、劉嬰を降ろし、制度を整備

ここから『漢書』王莽伝「中」が始まります。

ぼくは思う。途中で班固が自ら書くように、「王莽は制度すら整備すれば、統治ができると思っていた」というのが、この「中」のテーマです。これを伝えるため、PDCAのPばかりが強調されます。というか、Dがほとんど記されず、CAには届かない。実際に、たった数年で成果がでるはずがない。だが班固が、Pをかなり重点的に記したという印象もつよい。匈奴との決裂だけは、Dに属するのだろうけど。
「上」で王莽が皇帝となり、「下」は呂母が反乱する歳から始まる。ゆえに「中」は、消極的に切りとられた残りの時代なんだと思う。


始建国元年春、爵制などを整備する

始建國元年正月朔,莽帥公侯卿士奉皇太后璽韍, 上太皇太后,順符命,去漢號焉。初,莽妻宜春侯王氏女,立為皇后。 本生四男:宇、獲、安、臨。二子前誅死,安頗荒忽, 乃以臨為皇太子,安為新嘉辟。 封宇子六人:千為功隆公,壽為功明公,吉為功成公,宗為功崇公,世為功昭公,利為功著公。大赦天下。

始建國元年正月ついたち、王莽は、公侯・卿士をひきいて、皇太后の璽綬を奉じて、王太皇太后(王元后)にわたす。符命にしたがい「漢」の号を去った。

顧炎武はいう。荀悦『漢紀』によると、王莽のことは、始建国元年からとする。年号を記さず、2年、3年、、15年とする。王莽を正統と認めないから、天鳳や地皇の年号を『漢紀』が記さない。ぼくは思う。書名が『漢紀』だから仕方ないなあ。通年で数えると、王莽が「年号を定めない、漢武帝より以前の君主」に見えてくる。ただの年数のカウントでしかない。年号による主義主張を無視する。
先謙はいう。王莽は12月を正月とした。ズレに注意。

王莽の妻は、宜春侯の王氏の娘である。

師古はいう。王訢は丞相となり、はじめ宜春侯に封じられた。爵位を孫の王咸までつたえる。王莽の妻は、王咸の娘である。 ぼくは補う。『漢書』巻19下・百官公卿表下、『漢書』巻66王訢伝☆
ぼくは思う。王莽の妻は同姓である。オイディプスのネタ、こちらで膨らましても良かったかも知れない。『莽新書』をするなら、皇后紀を立てねばならない。

王氏を皇后とした。4男子を産む。王宇、王獲、王安、王臨である。王宇と王獲は誅死した。王安は荒忽なので、王臨を皇太子とした。王安は、新嘉辟とした。

ぼくは思う。ちくま訳は「王安は、いささか薄ぼんやりなので、仕方なく王臨を皇太子に」とある。「荒忽」が「いささか薄ぼんやり」なのね。そして「仕方なく」なんてニュアンス、原文になくないか。
師古はいう。新嘉「辟」とは、新嘉「君」と同じ。なぜ「辟」というか。取りて国君之義とするから。ん?

王宇の子6人を封じた。4番目の王宗は功崇公である。天下を大赦した。

ぼくは思う。6人の名があったが。いちど新都侯になり、王莽の母のために服喪した、王宗だけ訳出した。王莽は、皇太子は4男だが、長男の家系を重んじている。このズレは、争いの原因になるなあ。それとも、王臨も殺すつもりだから、べつにいいのか。
ぼくは思う。なぜ王莽の3男と4男が生きているのに、罪によって死んだ長男の、それも中途半端にも4男である王宗が、わざわざ王莽の代わりに服喪したか。よほど可愛かったんだろうなあ。


莽乃策命孺子曰:「咨爾嬰,昔皇天右乃太祖, 歷世十二,享國二百一十載,曆數在于予躬。詩不云乎?『侯服于周,天命靡常。』 封爾為定安公,永為新室賓。於戲!敬天之休, 往踐乃位,毋廢予命。」又曰:「其以平原、安德、漯陰、鬲、重丘,凡戶萬, 地方百里,為定安公國。立漢祖宗之廟於其國,與周後並,行其正朔、服色。世世以事其祖宗,永以命德茂功,享歷代之祀焉。以孝平皇后為定安太后。」

王莽は孺子に策命した。「むかし皇天は太祖の劉邦を佑けた。12世、210年である。暦数はきみで尽きた。『詩経』大雅文王はいう。「殷王は周室に服した、天命は常になびく」と。

殷室の君主である微子は、周室に仕えて宋公となった。

孺子の劉嬰を、定安公とする。ながく新室の賓客となれ」と。
また王莽はいう。「平原、安德、漯陰、鬲県、重丘の5県、1万戸、1百里四方を、定安公国とする。宗廟をたてろ。周室の子孫と同じく、漢家の正朔と服色をつかってもよい。祖宗を祭祀しろ。

ぼくは思う。曹丕が献帝にやったことと同じ。曹魏は王莽を反面教師にしたはずだ。結果、王莽が周公旦になったのを、1つさかのぼらせ、曹操が周文王になった。たった1世代だけど、曹操は王莽よりも遡ることによって、禅譲を成功させた。すると、曹操が周文王、曹丕が周武王、曹丕が早死にしたので、曹叡が周成王。曹丕の兄弟として輔政した者が、周公旦になれるのだが。曹彰も曹植も曹宇も機能していない。かわりに周公旦が司馬懿という倒錯。
ぼくは思う。周公旦は「即位し輔政するが、簒奪しないで返上する」という自制心のカタマリのような故事。周公旦のふりをして借りパクしたのが王莽。司馬氏は、幼帝の補佐という周公旦の役割をくり返しつつ(曹叡の郭太后は、元帝の王太后に似ている)司馬氏が天子になった。周公旦になれば、誰でもパクるのね。周公旦も、パクったが敗れたというのが事実ではないか。史料が編纂するときに、「非現実的じゃないと書く意味がない」という意図のもと、美談に改変されたんじゃ。

平帝の王皇后(王莽の娘)を、定安太后とする。

讀策畢,莽親執孺子手,流涕歔欷, 曰:「昔周公攝位,終得復子明辟,今予獨迫皇天威命,不得如意!」哀歎良久。中傅將孺子下殿,北面而稱臣。百僚陪位,莫不感動。

策を読みおえ、王莽みずから、孺子の手をとり、流涕・歔欷していう。「周公は摂位したが、最後は天子の位をかえした。私は皇天の威命に迫られ、意図どおりに返却できない」と。ながく哀歎した。

ぼくは思う。「皇天の威命」というと抽象的だが。じつは「衆庶の世論」のことである。儒教では、どこまで確信犯なのか知らないが、人格をもつ「天」が、統治される者の顔色をうかがう。池田知久先生の話。

中傅(宦官)は、孺子をつれて下殿する。北面して稱臣させた。百僚は陪位し、感動しない者はない。

『後漢書』注引『前書音義』に、中傅は宦官だとある。


◆建国の功労者を11公とする

又按金匱,輔臣皆封拜。以太傅、左輔、驃騎將軍安陽侯王舜為太師,封安新公;大司徒就德侯平晏為太傅,就新公;少阿、羲和、京兆尹紅休侯劉歆為國師,嘉新公;廣漢梓潼哀章為國將,美新公:是為四輔,位上公。太保、後承承陽侯甄邯 為大司馬,承新公;丕進侯王尋為大司徒,章新公;步兵將軍成都侯王邑為大司空,隆新公:是為三公。大阿、右拂、大司空、衞將軍廣陽侯甄豐 為更始將軍,廣新公;京兆王興為衞將軍,奉新公;輕車將軍成武侯孫建為立國將軍,成新公;京兆王盛為前將軍,崇新公:是為四將。凡十一公。

哀章のつくった金匱どおりに、輔臣を封拜した。王舜を太師・安新公とする。平晏を太傅・就新公とする。劉歆を國師・嘉新公とする。哀章を國將・美新公とする。以上が四輔で、位は上公である。

ぼくは思う。哀章がトップ4に入ってしまった。王舜、平晏、劉歆と同格である。哀章の功績とは、「王莽から群臣にすべき返報=返信用封筒」を付属させて、王莽に真天子の位を贈与したこと。これは『贈与論』的なブレイクスルーである。贈与に見えながら、単なる市場取引かのように「安全」である。つまり受納者が、つぎに何をすれば、自分の権威が失墜しないのか、分かりやすいかたちの贈与をした。
ぼくは思う。封筒、郵便の比喩といえば、東浩紀『存在論的、郵便的』だ。読みかけて、途中で止まってる。いかんなあ。

甄邯を大司馬・承新公とする。王尋を大司徒・章新公とする。王邑を大司空・隆新公とする。以上が三公である。是為三公。甄豊を更始將軍・廣新公とする。王興を衛将軍・奉新公とする。孫建を立國將軍・成新公とする。王盛を前將軍・崇新公とする。以上で四将である。全員で11公である。

先謙はいう。四輔、三公、四将で、合計11公である。


王興者,故城門令史。王盛者,賣餅。莽按符命求得此姓名十餘人,兩人容貌應卜相,徑從布衣登用,以視神焉。 餘皆拜為郎。是日,封拜卿大夫、侍中、尚書官凡數百人。諸劉為郡守,皆徙為諫大夫。

王興は城門令史である。王盛はモチ売りである。王莽は、符命にある10余人の姓名にもとづき、布衣からでも登用した。

ぼくは思う。符命に基づき、王莽が真皇帝となることは。符命にある姓名の者に、符命がきめた官爵を与えることと、セットであるべきだ。でないと王莽は「退蔵者」となる。権利だけ主張して、義務の支払をしないのかよと。王莽が、最下層の身分からでも人材を取りたてたことは、王莽の愚かさを示さない。王莽が返報をきっちりすることを意味する。抜擢の幅が大きいほど、王莽の気前の良さが示されるのだ。王莽にとって、効果的な政策なのだ。

容貌を占わせた。官職にもれた同姓同名さんは、みな郎とした。卿大夫、侍中、尚書ら数百人の官人が、封拝した。劉氏のうち郡守である者は、みな諫大夫となる。

ぼくは思う。なぜ劉氏のなかでも「郡守」が取りたてて選ばれ、諫大夫になったのだろう。郡国制(実質的な郡県制)において、郡守をやる劉氏は、諸侯王のまがいものである。漢新革命の瞬間に郡守であることを、諸侯王になぞらえて、特別な地位をあげたのだろうか。
ぼくは思う。周制の封国は、恩義が最大(中央集権が最低)。秦制の郡県は、恩義が最低(中央集権が最高)。官制は、時間をかけて、封国から郡県にむかう過程。マクロで見ればね。しかし王莽は、これを逆行した。グラフにすると、カクンと折れる。このカーブが与える、通時的な影響を見ておくと、州牧の制度なんかも、いろいろ言えるかも。さらに進んで、三国のことも言えるかも。曹丕が孫権を封じたのは、周制に復古する意味での恩義だから。たしかに軍事的に孫権を攻めあぐねたのだが。それを言えば周制だって、軍事的な限界ゆえに封建の制度を採用したのだろうし。


改明光宮為定安館,定安太后居之。以故大鴻臚府為定安公第,皆置門衞使者監領。敕阿乳母不得與語,常在四壁中,至於長大,不能名六畜。後莽以女孫宇子妻之。

明光宮を「定安館」と改名して、定安太后を住ませる。もとの大鴻臚府を定安公の第(劉嬰の邸宅)とする。門衞をおいて、劉嬰を監領させた。阿保と乳母には、言葉を話すことを禁止した。つねに四方を壁でかこう。劉嬰は成長しても、六畜の名を言えない。

ぼくは思う。言語の習得とは去勢である。ラカンによると子供は、言語という「父の名」かつ「父の否」を習得して、社会性を手に入れる。しかし劉嬰は、このプロセスが疎外された。これはラカン的に、とても面白い「体罰」だなあ。王莽という「父」がいるから、言語すら必要ないのよと。ラカンの想定する、乳児の成長プロセスとあわせて、分析せねばならない。ネタが見つかって、まさに欣喜雀躍。
ぼくは思う。名を言えないとは、象徴化できず、弁別ができないこと。
『漢書』平帝紀には、「阿保・乳母」という表記あり。
孟康はいう。いま劉嬰は四方が壁なので、何も見えない。ぼくは思う。フーコーのパノプティコン(全展望監視システム)とは、正反対の思想にもとづく「監獄」である。

のちに王莽は、王宇の娘(王莽の孫)を劉嬰にめあわせた。

◆官職の制度を整える

莽策羣司曰:「歲星司肅,東(獄)〔嶽〕太師 典致時雨, 青煒登平,考景以晷。 熒惑司悊,南嶽太傅典致時奧, 赤煒頌平,考聲以律。 太白司艾,西嶽國師典致時陽, 白煒象平,考量以銓。 辰星司謀,北嶽國將典致時寒, 玄煒和平,考星以漏。 月刑元股左,司馬典致武應,考方法矩, 主司天文,欽若昊天,敬授民時,力來農事,以豐年穀。 日德元厷右,司徒典致文瑞,考圜合規, 主司人道,五教是輔,帥民承上,宣美風俗,五品乃訓。 斗平元心中,司空典致物圖,考度以繩, 主司地里,平治水土,掌名山川,衆殖鳥獸,蕃茂草木。」各策命以其職,如典誥之文。

王莽は群司に策した。『尚書』典誥に基づき、職務を規定した。

上海古籍6107頁。そうか、これは莽新版『白虎通』なのか!


置大司馬司允, 大司徒司直,大司空司若, 位皆孤卿。更名大司農曰羲和,後更為納言,大理曰作士,太常曰秩宗,大鴻臚曰典樂,少府曰共工, 水衡都尉曰予虞,與三公司卿凡九卿,分屬三公。每一卿置大夫三人,一大夫置元士三人,凡二十七大夫,八十一元士,分主中都官諸職。更名光祿勳曰司中,太僕曰太御,衞尉曰太衞,執金吾曰奮武,中尉曰軍正,又置大贅官,主乘輿服御物, 後又典兵秩,位皆上卿,號曰六監。
改郡太守曰大尹,都尉曰太尉,縣令長曰宰,御史曰執法,公車司馬曰王路四門,長樂宮曰常樂室,未央宮曰壽成室,前殿曰王路堂, 長安曰常安。更名秩百石曰庶士,三百石曰下士,四百石曰中士,五百石曰命士,六百石曰元士,千石曰下大夫,比二千石曰中大夫,二千石曰上大夫,中二千石曰卿。車服黻冕,各有差品。 又置司恭、司徒、司明、司聰、司中大夫及誦詩工、徹膳宰,以司過。
策曰:「予聞上聖欲昭厥德,罔不慎修厥身,用綏于遠,是用建爾司于五事。毋隱尤,毋將虛, 好惡不愆,立于厥中。 於戲,勗哉!」 令王路設進善之旌,非謗之木,(欲)〔敢〕諫之鼓。 諫大夫四人常坐王路門受言事者。

大司馬司允、大司徒司直、大司空司若をおく。みな位は(三公につぐ)孤卿である。大司農を羲和と改め、さらに納言とした。大理を、。太守を大尹、都尉を太尉、県の令長を宰とし、。
王莽は策した。「官制を定めた。しっかり働け」と。王莽は諫大夫4人に、王莽への諫言を受けつけさせた。

ぼくは思う。前半に爵制、後半に官制である。王莽の場合、「恩」である爵位の配分に注力する。後漢の場合、「報」である官職の制度に注力する。わりに後漢の爵制は、ザツである。高い爵位が与えられるのはマレだし、爵制がいじられることはない。改革者のの霊帝ですら、もっぱら官制をいじるばかりで、爵制をいじらない。
ぼくは思う。王莽伝「中」は、”ひとりで勝手に『白虎通』”なのね。というか、班固が『白虎通』の編纂を担当するため、予備の勉強をしたのが、王莽伝「中」かも。
上海古籍6109頁。ちくま訳359頁。


封王氏齊縗之屬為侯,大功為伯,小功為子,緦麻為男,其女皆為任。 男以「睦」、女以「隆」為號焉, 皆授印韍。 令諸侯立太夫人、夫人、世子,亦受印韍。

王莽との血縁が近い順に(服喪すべき期間が長い順に)王氏に爵位をくばる。諸侯に、太夫人、夫人、世子を立てさせて、印綬をあたえる。

◆漢家の諸侯王と四夷の王を降格

又曰:「天無二日,土無二王,百王不易之道也。漢氏諸侯或稱王,至于四夷亦如之,違於古典,繆於一統。其定諸侯王之號皆稱公,及四夷僭號稱王者皆更為侯。」

また王莽はいう。「天に2日なく、土に2王なし。漢家の諸侯や四夷を「王」とするのは、古典とちがう。漢家の諸侯は「公」まで、四夷は「侯」までとしろ」と。

ぼくは思う。王莽の姓が「王」であることが、まったく影響していないとは、言えまい。ラカンが「墜落する女」が「堕落した女」の暗示であると見抜いたように。王莽は、生まれながらに「王」であるから、「王」になることが意識に登りやすかった。爵制を整備するとき、「王」の扱いに過敏になるのは、分かる気がする。その点で王莽は、漢家の安漢「公」から、「王」を経由することなく、摂皇帝となった。曹魏が、魏公、魏王、魏帝と進んだように、「安漢王の王莽」があっても、おかしくなかった。「安漢王の莽」と書かれても、「安漢の王莽」に見えるところは、おかしいのだけどw
ぼくは思う。王莽が自覚しない・言語化しないが、深く胸に刻みつけられるという意味で、「王」という姓は、王莽のトラウマである。べつにトラウマは、身心の調子を崩すものばかりじゃない。精神分析家が指摘することによって、初めて物語が形成される。
ぼくは思う。いつから始まったか分からないが、戦国の斉王の子孫だと自認しているから、その意味で王莽は、君主になることに、何らかの感情を持っているかも知れないが。いいや違うぞ。子孫の説はアトヅケだなあ。姓が王だから(こちらが原因で)春秋戦国のどこかの王族に接続したのだろう。


◆帝王の子孫を封爵

又曰:「帝王之道,相因而通;盛德之祚,百世享祀。予惟黃帝、帝少昊、帝顓頊、帝嚳、帝堯、帝舜、帝夏禹、皋陶、伊尹咸有聖德,假于皇天, 功烈巍巍,光施于遠。予甚嘉之,營求其後,將祚厥祀。」惟王氏,虞帝之後也,出自帝嚳;劉氏,堯之後也,出自顓頊。於是封姚恂為初睦侯,奉黃帝後; 梁護為脩遠伯,奉少昊後; 皇孫功隆公千,奉帝嚳後;劉歆為祁烈伯,奉顓頊後;國師劉歆子疊為伊休侯,奉堯後; 媯昌為始睦侯,奉虞帝後;山遵為襃謀子,奉皋陶後;伊玄為襃衡子,奉伊尹後。漢後定安公劉嬰,位為賓。周後衞公姬黨,更封為章平公,亦為賓。殷後宋公孔弘,運轉次移,更封為章昭侯,位為恪。夏後遼西姒豐,封為章功侯,亦為恪。 四代古宗,宗祀于明堂,以配皇始祖考虞帝。周公後襃魯子姬就,宣尼公後襃成子孔鈞,已前定焉。

歴代の帝王の子孫を封じた。帝嚳の子孫として、劉歆を祁烈伯に封じる。顓頊の子孫として、国師の劉歆の子を伊休侯とするなど。

ぼくは思う。渡邊先生の『王莽』にあった。あまりマジメに読むと、漢字ばっかりで、頭がグルグルするから、いちいち抄訳しません。というか、訳すまでもない(訳すことができない)文章でもある。ちくま訳361頁。
師古はいう。さっき紅林侯の劉歆を、国師・嘉新公とした。いま劉歆を、祁烈伯にするという。国師の劉歆の子を伊休侯とする。すなわち、祁烈伯になったのは国師の劉歆とは別人である。ぼくは思う。光武帝のまわりにも劉歆がいた。劉歆が3人もいるのか。

漢家の劉氏の子孫・劉嬰は、賓客のまま。
姚氏、媯氏、陳氏、田氏、王氏の5姓は、虞舜の子孫なので、王莽の同族である。宗廟をととのえろ。元城の王氏(王莽の家)は、姚氏、媯氏、陳氏、田氏と婚姻してはならない。

上海古籍6112頁に注釈あり。固有名詞の補足など。
師古はいう。元城の王氏は、虞舜の子孫である4氏と婚姻できないが。ほかの王姓とは婚姻できる。周寿昌はいう。王莽は、王咸の娘を妻にしている。他流の王氏であれば、婚姻できることにするのだ。


天下牧守皆以前有翟義、趙明等領州郡,懷忠孝,封牧為男,守為附城。又封舊恩戴崇、金涉、箕閎、楊並等子皆為男。

天下の牧守は、翟義と趙明の鎮圧に功績があった。州牧を男爵、郡守を付城(付庸)とした。

ぼくは補う。付庸とは、5等爵の5番目です。男爵の下。王莽はほんとに、爵位をばらまくのが好き。前漢よりも、後漢よりも、熱心に撒いているのではないかな。これは「真皇帝にしてもらって、ありがとう」キャンペーンである。まだ始建国元年の記事。つまり王莽の真皇帝は、まだ1年目である。長いし、せっかくの午後年休が、王莽伝「中」の、ひとり『白虎通』に占領されてしまったのだが。130220

王莽が旧恩のある者の子を、男爵とした。

◆廟制をととのえる

遣騎都尉囂等 分治黃帝園位於上都橋畤, 虞帝於零陵九疑,胡王於淮陽陳,敬王於齊臨淄,愍王於城陽莒,伯王於濟南東平陵,孺王於魏郡元城, 使者四時致祠。其廟當作者,以天下初定,且祫祭於明堂太廟。

騎都尉の囂らを派遣して、黄帝や虞舜などの陵墓を整備させた。王莽の祖先の筋のうち、まだ廟がなければ、長安の明堂と太廟にまとめて祭った。

師古はいう。王莽の高祖父は王遂、あざなは伯紀。曽祖父は王賀、あざなは翁孺。ゆえに本文で、済南の東平にまつる高祖父を「伯王」、魏郡の元城にまつる曽祖父を「孺王」とする。
ぼくは思う。王莽は「孺子」劉嬰を廃した。王莽の曽祖父が「孺王」という。ちょっとした引っかかりがあったかも。王莽は、こういうのを気にするタイプなので。


◆劉氏を優遇する

以漢高廟為文祖廟。 莽曰:「予之皇始祖考虞帝受嬗于唐, 漢氏初祖唐帝,世有傳國之象, 予復親受金策於漢高皇帝之靈。惟思襃厚前代,何有忘時?漢氏祖宗有七, 以禮立廟于定安國。其園寢廟在京師者,勿罷,祠薦如故。予以秋九月親入漢氏高、元、成、平之廟。諸劉更屬籍京兆大尹,勿解其復,各終厥身, 州牧數存問,勿令有侵冤。」

漢高廟を、文祖廟(堯帝の始祖の廟)とした。王莽はいう。「私の皇始祖考である虞帝は、唐堯から受禅した。堯帝が虞帝に禅譲し、漢家が私に禅譲した。この恩があるから、漢家の宗廟を定安国にたてろ。長安にある漢家の宗廟はそのまま。私は秋9月に、みずから漢家の高帝、元帝、成帝、平帝の廟にゆこう。劉氏たちを京兆大尹に属させ、州牧が劉氏の安否を確認せよ」と。

蘇林はいう。漢家の宗廟は、もとは4つあった。王莽は、元帝、成帝、平帝の3つを加えて、7廟とした。


◆劉氏の貨幣を廃する

又曰:「予前在大麓,至于攝假, 深惟漢氏三七之,赤德氣盡,思索廣求,所以 輔劉延期之(述)〔術〕, 靡所不用。以故作金刀之利,幾以濟之。 然自孔子作春秋以為後王法,至于哀之十四而一代畢,協之於今,亦哀之十四也。 赤世計盡,終不可強濟。

また王莽はいう。「私が大司馬、宰衡、摂皇帝、仮皇帝のとき、劉氏の赤徳を延命させるため、「金刀之利」という貨幣をつくった。

ぼくは思う。貨幣に、天命の延長の願いを込める。まさに思想のテーマ。貨幣の呪術的な機能について、いろいろ言わねばならない。いま、ちょっと思いつかないw

だが孔子『春秋』が、哀公の即位14年目(に獲麟の記事)で終了するように。漢家の哀帝が即位して14年目に、漢家の赤徳が終了した。

ぼくは思う。王莽が真皇帝になったタイミングは、『春秋』で決めたのか。魯哀公は、在位18年で死んだらしいが、『春秋』は14年目で記事が終了する。合理的に解釈するなら、「編者の都合が悪くなった」「記事が切りとられた」などだが。王莽は、「魯の天命が孔子に見切られた」のだと意図的に誤読した。
ぼくは思う。っていうか、皇帝の劉欣を「哀」帝と諡したのは、誰だよ。このとき当局は、王莽が仕切っていた。故事に詳しい者として、王元后に呼ばれたばかりだ。王莽は、意見のあわなかった劉欣を「哀」と諡することで、報復した。また後年、たまたまパズルのピースが嵌まったことにより、王莽が真皇帝になる理由が見つかった。ぼくが王莽だったら、「なんたる偶然。これこそ天命」と思うに違いない。偶然を引きおこした、当人の王莽がいちばん驚いただろう。
ぼくは思う。ここもまた、ミニ王莽伝である。王莽伝の復習である。王莽は、みずから自分の歴史の語り手になることで、自分の歴史を解釈すべき仕方を固定していった。これこそ象徴界の怪物の仕事。
張晏はいう。哀帝が6年、平帝が3年、居摂が3年で、14年である。


皇天明威,黃德當興,隆顯大命,屬予以天下。 今百姓咸言皇天革漢而立新, 廢劉而興王。夫『劉』之為字『卯、金、刀』也,正月剛卯,金刀之利,皆不得行。博謀卿士,僉曰天人同應,昭然著明。其去剛卯莫以為佩,除刀錢勿以為利,承順天心,快百姓意。」乃更作小錢,徑六分,重一銖,文曰「小錢直一」,與前「大錢五十」者為二品,並行。欲防民盜鑄,乃禁不得挾銅炭。

王莽の黄徳がおこった。劉氏を廃して、王氏が興った。「劉」の文字は、卯、金、刀に分解できる。正月の剛卯(装飾品)と、金刀之利(銅銭)を使ってはならない。

ぼくは思う。王莽は、自分のアイディアで、劉氏を「剛」くするグッズを作らせたが、いまそれを廃止させた。王莽はグッズの力を信じている。王莽は「グッズを製造する」という功績により、グッズの意匠権をもらいうけ、その意匠権ごと砕いた。なんだか屈節してるけど。例える。著作権を主張しすぎる者に「あなたの本を全て買い占めて、読まずに廃棄する。カネがもうかれば、読まれなくても嬉しいんだろうが。ええ?」と詰めよる、恐ろしい論者に似ている。いや、似ていないw

王莽は小銭を新造して、「小銭=1銭」「大銭=50銭」と刻んだ。民が盗鋳するのを防ぐため、銅炭(原料と鋳造装置)の私有を禁じた。

ぼくは思う。王莽が莽新で使わせようとした貨幣は、極めて常識的で実用的である。よく王莽への批判として「使えもしない理念先行の貨幣をつくった、流通せずに経済が混乱した」という話がある。でも王莽が刀型の銅銭をつくったのは、劉氏の天命を願ってのこと。王莽を、へんな貨幣の鋳造者として批判するときと、王莽を簒奪者として批判するとき、両者は矛盾してしまう。どっちかにしましょう。
ぼくは思う。服虔、晋灼、顔師古、『補注』から沈欽韓などが、「どんな貨幣があったか」について、事実を盛んに論じている。銘文がどうとか、大きさがどうとか、額面がどうとか、素材がどうとか。上海古籍6115頁。こういう議論は、参入してもつまらない(ぼくなりの情報が出てこない)ので、スルーします。それよりも、王莽が貨幣にかけた呪術のほうが気になる!!


始建国元年夏、劉快が叛し、貨幣が滞る

四月, 徐郷侯劉快結黨數千人起兵於其國。 快兄殷,故漢膠東王,時改為扶崇公。快舉兵攻即墨,殷閉城門,自繫獄。吏民距快,快敗走,至長廣死。莽曰:「昔予之祖濟南愍王困於燕寇,自齊臨淄出保于莒。宗人田單廣設奇謀,獲殺燕將,復定齊國。今即墨士大夫復同心殄滅反虜,予甚嘉其忠者,憐其無辜。其赦殷等,非快之妻子它親屬當坐者皆勿治。弔問死傷,賜亡者葬錢,人五萬。殷知大命,深疾惡快,以故輒伏厥辜。其滿殷國戶萬,地方百里。」又封符命臣十餘人。

4月、徐郷侯の劉快が、自国で数千人と結んで起兵した。

師古はいう。劉快は、膠東恭王の子である。韋昭はいう。徐郷とは、東莱県である。ぼくは思う。のちに呂母が起兵する場所に近い。王莽は、戦国の斉王の子孫を名乗りながらも、この地域を抑えられない。まあ、長安に首都があるから、仕方ないのだが。秦家も漢家も、青州や揚州によわかった。
ぼくは思う。まだ劉嬰が降ろされて、3ヶ月である。つまり劉快は、劉嬰が降ろされた直後から、計画を練ったことになろう。迅速な対応だ。まだ間に合うよ。王莽は、制度の整備に忙しいからw

劉快の兄は、劉殷である。劉殷は、漢代に膠東王で、いま扶崇公である。劉快が即墨を攻めると、劉殷は閉門して、みずから獄につなぐ。劉快は長広で死んだ。
王莽はいう。「むかし同地で、私の祖先・済南の愍王燕国の楽毅に攻められたら、宗人の田単が防衛した。劉殷は田単なみの功績がある。葬儀料は1人あたり5万銭だす。劉殷を1万戸、方1百里とする」と。

ぼくは思う。1万戸で方1百里とは。なんと前漢のもと皇太子・劉嬰と同じである。王莽は、劉嬰を特別じゃなくする、王氏に加担した劉殷をほめる、という2つの効果を同時に狙えた。

劉殷に従った符命の臣を10余人、封じた。

◆井田制から王田制、貨幣の失敗

莽曰:「古者,設廬井八家,一夫一婦田百畝,什一而稅,則國給民富而頌聲作。 此唐虞之道,三代所遵行也。秦為無道,厚賦稅以自供奉,罷民力以極欲, 壞聖制,廢井田,是以兼并起,貪鄙生,強者規田以千數,弱者曾無立錐之居。又置奴婢之市,與牛馬同蘭, 制於民臣,顓斷其命。姦虐之人因緣為利,至略賣人妻子,逆天心,誖人倫,繆於 『天地之性人為貴』之義。 書曰『予則奴戮女』, 唯不用命者,然後被此辜矣。漢氏減輕田租,三十而稅一,常有更賦,罷癃咸出, 而豪民侵陵,分田劫假。厥名三十稅一,實什稅五也。 父子夫婦終年耕芸, 所得不足以自存。故富者犬馬餘菽粟,驕而為邪;貧者不厭糟糠,窮而為姦。 俱陷于辜,刑用不錯。 予前在大麓,始令天下公田口井, 時則有嘉禾之祥,遭反虜逆賊且止。今更名天下田曰『王田』,奴婢曰『私屬』,皆不得賣買。其男口不盈八,而田過一井者,分餘田予九族鄰里鄉黨。故無田,今當受田者,如制度。敢有非井田聖制,無法惑衆者,投諸四裔,以禦魑魅, 如皇始祖考虞帝故事。」

王莽はいう。古代、「井」の字形のように、家と耕地があった。唐虞から夏殷周まで、賦税が軽かった。だが無道な秦制にて、賦税が重くなった。漢制も30分の1税といいつつ、労役があるので賦役が重かった。いま天下の田を「王田」といい、奴婢を「私属」といい、虞帝のときのように賦税を軽くして、百姓の生活を安らげると。

ぼくは思う。えー、難しいことは、何もわかりません。「経済史史」は苦手です。ともあれ王莽は、自分の祖先である、虞舜の時代のように「古き良き牧歌的な農村」を回復しようとしたと。王莽ならずとも、これは難しい。
というか、まだ真皇帝になってから、半年もたたない。王莽は、ずっと制度のあるべき姿について、熱心に研究してきたんだなあ。『漢書』王莽伝は、記述のなかの時間が停止して、制度の説明ばかりしている。


是時百姓便安漢五銖錢,以莽錢大小兩行難知,又數變改不信,皆私以五銖錢市買。譌言大錢當罷,莫肯挾。莽患之,復下書:「諸挾五銖錢,言大錢當罷者,比非井田制,投四裔。」於是農商失業,食貨俱廢,民人至涕泣於市道。及坐賣買田宅奴婢,鑄錢,自諸侯卿大夫至于庶民,抵罪者不可勝數。

このとき百姓は、漢代の五銖銭を使いやすい。王莽の大小2つの銭は、認知されず、また改変がおおくて信頼がない。みな五銖銭をつかった。「王莽の大銭が廃される」と譌言があり、ますます流通しない。

ぼくは思う。岩井克人『貨幣論』の世界だ!岩井氏は思考実験だったけど、こちらは史実。貨幣は、自分のつぎの受取手がいると予期するから、自分が受取手になる。
岩井克人『貨幣論』を抜粋する

王莽は「五銖銭を使う者、王莽の大銭が廃されるという者は、井田制をそしる者とおなじく、国外に飛ばす」という。農業と商業がおとろえ、経済がすたれた。諸侯や卿大夫から庶民まで、数えきれぬ者が(経済に関する)罪を犯した。

ぼくは思う。王莽をけなすのは簡単だが、王莽の代替案を出すとなると、わりに難しい。まあ、貨幣については、惰性の強いシステムであることを認めて、改変を最小限にすべきだった。
ぼくは思う。税制変更や金融政策は、わりに政府がいじくれる。なぜなら、プラスとマイナスのあいだの、単なるチューニングだから。多い少ないの調整だから。だが、貨幣については、いじくれない。なかば宗教であり、文化でもある。王莽が「新室の特徴は、漢室とちがうこと」という信念のもと、政事をやったのは分かるのだが。貨幣だけは、故意に差異をつくってはいけなかった。
ぼくは思う。経済学をインストールしないと、おもしろい話に膨らまない。


始建国元年秋、

秋,遣五威將王奇等十二人班符命四十二篇於天下。德祥五事,符命二十五,福應十二,凡四十二篇。其德祥言文、宣之世黃龍見於成紀、新都,高祖考王伯墓門梓柱生枝葉之屬。符命言井石、金匱之屬。福應言雌雞化為雄之屬。其文爾雅依託,皆為作說, 大歸言莽當代漢有天下云。

始建国元年の秋、五威將の王奇ら12人に、符命42篇を持たせて天下をめぐらせた。德祥5、符命25、福應12で、合計42である。徳祥は、黄龍が現れたなど。符命は、井石や金匱など。福應は、雌鳥が雄鳥に化けたなど。

ぼくは思う。メンドリがオンドリに変化するのは、後漢が滅亡する悪い暗示。下位者が上位者を乗っ取る。『漢書』王莽伝で「福應言雌雞化為雄之屬」とあり、メンドリがオンドリに変化するのは、王莽が皇帝になる良い暗示。怪異現象に意味はなく、読解する主体により意味が決まる。オンドリ、メンドリ、メメントモリ。
以下、その符命の内容が記される。これから天下に、王莽がいかに天命を受けたのかを、説明するのだ。さっき劉快が背いたが、気が早すぎる。ちゃんと説明を聞いてから、反乱してほしい。
すでに書いたように、符命というのは、過剰であることに意味がある。だから、いちいち訳出しない。「過剰ですよね。分量を見れば、分かりますよね」と示せれば、ぼくの抄訳は完了なのです。
これを訳出するならば、極めて丁寧に、重複しても、ねちっこく、厳密な記述である風を装おわねばならない。ちくま訳のように、意味だけ切り出してしまったら、なんだか「言外の意味」が落ちてしまいそうだ。現代日本人が「読めるように薄めた文語による翻訳」を、なんとなく格調たかいと感じ、ありがたがるように訳さねば。ホテルにある文語版の聖書みたいな。

莽新が漢家に代替したことを、天下に報せた。

ぼくは思う。「人間はしばしば、原因と結果を取り違える」という。王莽は、革命したから制度を整えたのでない。制度を整えるために革命したんじゃないか。前者の場合、革命の原因が必要になる。王莽の「野心」とか、愚にもつかない説明となる。ずっと漢家の改革者として振る舞ってきた王莽が、なぜ悪い方向に豹変して「野心」を宿すのか、史料をいくら読んでも、説明がつかない。説明がつかないのは、問いの立て方が悪いからだ。ずっと王莽は、シームレスに改革者だったよ。
というか、革命したから制度を整える、という因果関係にするのなら、あまりに改革が早過ぎる。ずっと手ぐすねを引いて、用意していないと、こうはならない。
ぼくは思う。「新」という国号は、もちろん「新都侯」が由来なのだが。ぜったいに「改革をした”新”体制」という含意があるはずだ。改革者は、新しもの好きだから。いま誤変換したけれど、「新体制の身体性」というテーマには興味があるぞ。


總而說之曰:「帝王受命,必有德祥之符瑞,協成五命,申以福應, 然後能立巍巍之功,傳于子孫,永享無窮之祚。故新室之興也,德祥發於漢三七九世之後。 肇命於新都,受瑞於黃支, 開王於武功,定命於子同, 成命於巴宕,申福於十二應,天所以保祐新室者深矣,固矣!武功丹石出於漢氏平帝末年,火德銷盡,土德當代,皇天眷然,去漢與新,以丹石始命於皇帝。皇帝謙讓,以攝居之,未當天意,故其秋七月,天重以三能文馬。 皇帝復謙讓,未即位,故三以鐵契,四以石龜,五以虞符,六以文圭,七以玄印,八以茂陵石書,九以玄龍石,十以神井,十一以大神石,十二以銅符帛圖。申命之瑞,寖以顯著, 至于十二,以昭告新皇帝。皇帝深惟上天之威不可不畏,故去攝號,猶尚稱假,改元為初始,欲以承塞天命,克厭上帝之心。 然非皇天所以鄭重降符命之意。 故是日天復決(其)以勉書。 又侍郎王盱見人衣白布單衣,赤繢方領, 冠小冠,立于王路殿前,謂盱曰:『今日天同色,以天下人民屬皇帝。』 盱怪之,行十餘步,人忽不見。至丙寅暮,漢氏高廟有金匱圖策:『高帝承天命,以國傳新皇帝。』明旦,宗伯忠孝侯劉宏以聞,乃召公卿議,未決,而大神石人談曰:『趣新皇帝之高廟受命,毋留!』 於是新皇帝立登車,之漢氏高廟受命。受命之日,丁卯也。丁,火,漢氏之德也。卯,劉姓所以為字也。明漢劉火德盡,而傳於新室也。皇帝謙謙,既備固讓,十二符應迫著,命不可辭, 懼然祗畏,葦然閔漢氏之終不可濟, 斖斖在左右之不得從意, 為之三夜不御寢,三日不御食,延問公侯卿大夫,僉曰:『宜奉如上天威命。』於是乃改元定號,海內更始。新室既定,神祇懽喜,申以福應,吉瑞累仍。 詩曰:『宜民宜人,受祿于天;保右命之,自天申之。』 此之謂也。」

(王莽を正統化する、符命のご説明)

ぼくは思う。符命は、群臣から王莽への、象徴界のポトラッチだった。王莽は一度これを受納したら、この贈物に基づいて、自分を正統化するしかない。贈物を突き返しても、もうチャラにならない。贈物をありがたがりながら、それ以上の返報をする必要がある。それが、過剰なまでの爵制の整備だった。


五威將奉符命,齎印綬,王侯以下及吏官名更者, 外及匈奴、西域,徼外蠻夷,皆即授新室印綬,因收故漢印綬。賜吏爵人二級,民爵人一級,女子百戶羊酒,蠻夷幣帛各有差。大赦天下。

五威將は符命をもち、印綬をもたらした。

斉召南はいう。五威将は、12人いる。将1名ごとに、帥5名がつく。ゆえに「五威将が72人をひきいて還り、上奏した」という記述になる。(1+5)*12=72

王侯より以下、名称が変わった吏官は、印綬を交換した。国外では、匈奴、西域、徼外の蠻夷まで、みな新室の印綬をさずけ、故漢の印綬をかえさせる。

ぼくは思う。王莽がわざわざ、官職や爵位を変更した理由が、これでわかった。わざわざ印綬を交換する手間をつくり、王莽との君臣関係を、新たに結ばせたのだ。
新たに配布した印綬には、じつは全く意味がない。極論したら、王莽が漢家の印綬を全回収してから、同じものを配り直すだけでもよかった。しかし、それではダメだ。この作業がムダに見えるから、ではない。「王莽の真意が見えすぎるから」である。王莽は、交換という儀式の重要性を隠蔽するために、わざわざ異なる印綬を配布した。

吏に爵2級、民に爵1級をあげる。女子には1百戸ごとに羊酒、蛮夷には幣帛をあげる。天下を大赦した。

ぼくは思う。こうして王莽は、西嶋定生的な「爵位による国家秩序の形成」を試みましたとさ。というか、ふつうに上手にできている。なぜ王莽が滅ぶのか。王莽伝「下」の呂母を待つしかない。少なくとも統治そのものに、欠陥はなさそう。


五威將乘乾文車, 駕坤六馬, 背負鷩鳥之毛,服飾甚偉。 每一將各置左右前後中帥,凡五帥。衣冠車服駕馬,各如其方面色數。 將持節,稱太一之使;帥持幢,稱五帝之使。莽策命曰:「普天之下,迄于四表, 靡所不至。」其東出者,至玄菟、樂浪、高句驪、夫餘; 南出者,隃徼外,歷益州, 貶句町王為侯;西出者,至西域,盡改其王為侯;北出者,至匈奴庭,授單于印,改漢印文,去「璽」曰「章」。單于欲求故印,陳饒椎破之,語在匈奴傳。單于大怒,而句町、西域後卒以此皆畔。饒還,拜為大將軍,封威德子。

五威将は天文を描いた、華やかな装備で、持節して四方をまわる。「五帝の使」と称する。東は、玄菟、楽浪、高句麗、扶余にいく。南は域外にでて、益州をめぐる。西は西域にいく。国外の「王」を「侯」に貶める。北は匈奴にゆき、漢家の「単于璽」を「単于章」と取り替える。単于は、もとの印を欲しがる。五威将の陳饒は、漢家の印をくだき壊した。単于は大怒した。『漢書』単于伝にある。☆

ぼくは思う。この部分に関しては、王莽は悪くないよね。陳饒の機転がきかなかった。というか、陳饒のような重要な任務にある者ですら、王莽の革命を「王莽が漢家を放伐した」かのように、認識していたことがわかる。王莽が、せっかく複雑で身動きの取れない『贈与論』をつかい、真皇帝になったのに。陳饒の行動が、それを台無しにした。「しょっぼい前王朝の印なんて、こーしてやるぜ!」というノリである。
ぼくは思う。王莽の「改革のための革命」は、あらかじめ完成形があるのでない。王莽とその重臣が、遂行的に練り上げている過程である。いま陳饒のとった行動は、王莽の意図に反したものであっても、莽新の意義を作り上げる政策の1つである。あーあ。

句町も西域も、のちに王莽にそむいた。陳饒は長安にかえり、大将軍となり、威徳の子爵に封じられた。

ぼくは思う。ザツに総括してあるが。単于との関係が悪化するのは、これから段階的にだ。また、句町と西域のことは、別のプロセスだろう。西域の外交は、うまくいったように、さっき班固が書いたばかりじゃないか。記述の順序をズラし、話の最後に、印象的だが抽象的な1文をもってくることで、王莽をけなす。そういう仕組み。


始建国元年冬、長安を5将軍が守備する

冬,靁,桐華。
置五威司命,中城四關將軍。司命司上公以下,中城主十二城門。策命統睦侯陳崇曰:「咨爾崇。夫不用命者,亂之原也;大姦猾者,賊之本也;鑄偽金錢者,妨寶貨之道也;驕奢踰制者,兇害之端也;漏泄省中及尚書事者,『機事不密則害成』也; 拜爵王庭,謝恩私門者,祿去公室,政從亡矣:凡此六條,國之綱紀。是用建爾作司命,『柔亦不茹,剛亦不吐,不侮鰥寡,不畏強圉』, 帝命帥繇,統睦于朝。」 命說符侯崔發曰:「『重門擊,以待暴客。』 女作五威中城將軍, 中德既成,天下說符。」 命明威侯王級曰:「繞霤之固,南當荊楚。 女作五威前關將軍,振武奮衞,明威于前。」命尉睦侯王嘉曰:「羊頭之,北當趙燕。 女作五威後關將軍,壼口捶,尉睦于後。」 命(堂)〔掌〕威侯王奇曰: 「肴黽之險,東當鄭衞。 女作五威左關將軍,函谷批難,掌威于左。」 命懷羌子王福曰:「汧隴之阻,西當戎狄。 女作五威右關將軍,成固據守,懷羌于右。」

始建国元年の冬、雷がなり、桐の花がさく。
五威の司命と中城将軍、四関将軍をおく。司命は上公より以下を司る。中城将軍は12の城門を主る。陳崇を司命とする。崔發を五威中城将軍とする。王級を五威前関将軍とする。王嘉を五威後関将軍とする。王奇を五威左関将軍とする。王福を五威右関将軍とする。

ぼくは思う。長安の中心と、四方を固めました。これが、赤眉と戦うときに、いかに機能するのか(機能しないのか)。これを楽しみにしつつ、王莽の真皇帝としての初年も、そろそろ暮れようとしています。


又遣諫大夫五十人分鑄錢於郡國。
是歲長安狂女子碧呼道中 曰:「高皇帝大怒,趣歸我國。不者,九月必殺汝!」 莽收捕殺之。治者掌寇大夫陳成自免去官。

諫大夫50人をつかわし、鋳銭を郡国に分配した。

ぼくは思う。何でもできる王莽サマが、貨幣の扱いに苦戦しているのがおもしろい。これは、大きなテーマになるよ。と、さっきから「金脈」のありかばかり指をさすが(貨幣論だけに)さっぱり掘ってなくてすみません。
ぼくは思う。シニョリッジ(貨幣発行益)とか、デファクト・スタンダードとか。みんなが使うから、みんなが使う。交換するものゆえに、この性質が効いてくる。など。後日のテーマ。

この歳、長安の狂った女子である碧が、道中でさけぶ。「高皇帝が大怒した。わが国を返せと。返さねば、9月に王莽を殺す」と。王莽は收捕して殺した。

ロイ・ポーター『狂気』を読んでます。狂気の解釈は、その社会でもっとも支配的な思想からの逸脱。このとき支配的なのは、漢新革命は成った! である。これに反対したから、狂ったことにされた。
立木康介『精神分析と現実界 フロイト/ラカンの根本問題』の冒頭をみた。「話存在」はなそんざい。ラカンの造語。フロイトのいう縮合がおきた造語。すべてを言語を通じて言わねばならない。宇宙に行けても、言語からは出られない。ゆえに現実界に導かれねばならない。いま狂女も、けっきょく言語のなかで狂い、狂った言語を発信した。彼女も「はなそんざい」である。話そう-存在。

狂女の上官は、掌寇する大夫の陳成である。陳成は、自らを免官した。

ぼくは思う。市中のアウトサイダーではなく、官僚のなかから「狂気」が出てきた。だから王莽は、怒ったんだろう。もしアウトサイダーの妄言であれば、史料に書きとめるまでもなく、始末しただろう。


真定劉都等謀舉兵,發覺,皆誅。真定、常山大雨雹。

真定の劉都らが挙兵を謀った。発覚して、みな誅した。真定と常山で、雹がたくさん降った。130220

ぼくは思う。のちに王郎や光武帝が出てくる土地だから?

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始建国2年、劉氏から爵位と官職をとりあげる

春、劉氏の公を除き、初めて匈奴が寇す

二年二月,赦天下。
五威將帥七十二人還奏事,漢諸侯王為公者,悉上璽綬為民,無違命者。封將為子,帥為男。

始建国2年2月、天下を赦した。
五威將帥の72人が、長安に還って奏事した。漢家の諸侯のうち、公爵だった者は、すべて璽綬をかえして民となる。だれも違命しない。五威の將を子爵、五威の帥を男爵とした。

初設六筦之令。 命縣官酤酒,賣鹽鐵器,鑄錢,諸采取名山大澤眾物者稅之。又令市官收賤賣貴,賒貸予民,收息百月三。 犧和置酒士,郡一人,乘傳督酒利。 禁民不得挾弩鎧,徙西海。

はじめて六筦之令を設置した。

師古はいう。六筦とは、6つの「管」のこと。つかさどること。

県官に命じて、酒と塩鉄を売り、銭を鋳し、名山・大沢の採取物に課税した。市官に命じて、差益をかせいで貸付をし、利息を月に3%とる。羲和の属官として、酒士をおく。郡ごとに1名。酒の売買益を監督させる。民に弩鎧の所有を禁じ(違反する者を)西海にうつした。

ぼくは思う。徙刑のために創設した、西海郡が使われている。しかし、武器の違法な所有をした者を送りこむと、治安が悪くなるんじゃないかw


匈奴單于求故璽,莽不與,遂寇邊郡,殺略吏民。

匈奴の單于が、もとの漢家の璽をもとめた。王莽は璽を与えない。ついに匈奴は、辺郡を寇し、吏民を殺略した。

ぼくは思う。漢家は、たかが(ここは「たかが」と強調しておこう)印璽をわたすだけで、辺境を守っていたのだ。王莽の見誤りよりも、漢家の卓見のほうに目がいくなあ!


11月、劉氏への恩を削減

十一月,立國將軍建奏:「西域將欽上言, 九月辛巳,戊己校尉史陳良、終帶共賊殺校尉刁護, 劫略吏士,自稱廢漢大將軍,亡入匈奴。又今月癸酉,不知何一男子遮臣建車前,自稱『漢氏劉子輿,成帝下妻子也。 劉氏當復, 趣空宮。』 收繫男子,即常安姓武字仲。皆逆天違命,大逆無道。請論仲及陳良等親屬當坐著。奏可。
漢氏高皇帝比著戒云,罷吏卒,為賓食, 誠欲承天心,全子孫也。其宗廟不當在常安城中,及諸劉為諸侯者當與漢俱廢。陛下至仁,久未定。前故安眾侯劉崇、徐鄉侯劉快、 陵鄉侯劉曾、 扶恩侯劉貴等 更聚衆謀反。 今狂狡之虜或妄自稱亡漢將軍,或稱成帝子子輿,至犯夷滅,連未止者,此聖恩不蚤絕其萌牙故也。

11月、立国将軍の孫建が上奏した。いわく、
「西域將の但欽が上言しという。「9月辛巳、戊己校尉史の陳良と終帯は、上官である戊己校尉の刁護を殺して、漢の大将軍を自称し、匈奴に亡命した」と。また11月癸酉、身元不明の男が「私は成帝の下妻=小妻の子・劉子輿である。皇帝が空位の長安にゆき、即位する」という。これは武仲という者であった。どうか謀反した陳良の親属らを、処罰したい」と。
王莽は許可した。

顧炎武はいう。本文では「廃漢」「亡漢」と出てくるが、これは漢家をけなすための表記。ちくま訳は「かん」とルビをふってある。

孫建はまた上奏した。いわく、
「漢氏の高皇帝が戒めるには、「吏卒に漢廟を守らせるな。賓客に廟中で食わせろ」と。天心に合致し、子孫を全うさせるため、高皇帝はこれを戒めた。

ぼくは思う。なんのこっちゃ。沈欽韓は『尚書大伝』をひく。賓客に食わせるという意味は、事例がひかれて分かるのだが。なぜ吏卒に守らせないのか。なぜ、わざわざ廟中で賓客に食わせるのか。

だが王莽は、漢家の諸侯を優遇しすぎである。革命のとき、劉氏の諸侯を廃するべきだった。廃さないから、劉崇、劉快、劉曽、劉貴らが謀反したのだ」と。

師古はいう。劉曽とは、楚子王の子である。周寿昌はいう。劉曽と劉貴は『王子侯表』にない。王莽に誅されたから、『漢書』の表に収録されなかったのだろう。

成帝の落胤・劉子輿なんてのも出てくる。王莽の聖恩が、かえって謀反の原因をつくっている」と。

孫建の話は、まだ続いている。つぎが結論です。


臣愚以為漢高皇帝為新室賓,享食明堂。成帝,異姓之兄弟,平帝,壻也,皆不宜復入其廟。元帝與皇太后為體, 聖恩所隆,禮亦宜之。臣請漢氏諸廟在京師者皆罷。諸劉為諸侯者,以戶多少就五等之差;其為吏者皆罷,待除於家。 上當天心,稱高皇帝神靈,塞狂狡之萌。」

孫建はいう。
「漢高帝を新室の賓客として(新室の)明堂で食を享させろ。成帝は王莽の異姓兄弟であり、平帝はむこであるが、新室の廟に入れるな。元帝は王元后と同体だから礼遇せよ。長安にある漢家の諸廟は、すべて廃せよ。劉氏で侯爵にある者は、バラして5等爵に組みこめ。劉氏で吏である者は、辞めて家に帰せ」と。

ぼくは思う。さきに劉氏の公爵をやめたが、同年のうちに、劉氏の侯爵をやめた。王莽が革命にあたり、過剰に贈与したが、その贈与をとりあげた。ダメだって。せっかく王莽の「過剰な贈与による革命」が、単なる帝位の移動になってしまう。
ぼくは思う。孫建は軍人だから、見えていなかろうが。いくら劉氏の挙兵が多くても、さらに厚遇すべきである。爵位は、もうあげられない。これ以上あげたら、「逆・王莽」が誕生してしまう。だから、爵位でない儀礼で、尊重しておけば良かったのだ。
ぼくは思う。王莽の贈与の強みは、爵位を配れること。ぎゃくに弱みは、爵位しか配れないこと。爵位がジャマなら、ほかの方法でポトラッチすれば、劉氏は自然と沈静化した。10年もすれば気がすみ、20年もすれば世代が変わるのだ。王莽がつまずいた原因が分かってしまった。過剰な贈与を徹底しなかったからだ。
まだ禅譲から2年弱じゃん。もっと堪えようよ。王莽が劉氏から公爵を剥奪したのは、禅譲から、たった1年後。ぼくらの時間感覚に引きつけて、理解できる範囲の時間だ。そして2年で侯爵をやめて、劉氏を他氏なみの爵位にバラした。
ぼくは思う。王莽は、軍事の闘争について、あまりにピュアだったのかも。ちょっと戦争が頻発したら、さっさと方針を変えてしまう。王莽は『贈与論』を理解しなかったのでない。王莽は「私が劉氏をこれだけ厚遇したのに、劉氏は謀反して、恩をアダで返した。すでに劉氏の威信は失墜したもんね」と。いかんなあ。贈与の特徴は、市場取引と異なり、「時間性」が、文字どおり勘定に入っていること。あげてすぐに引き上げたら、それはあげたとは言わない。王莽は、王莽があげた状態を、じっくり維持する必要があった。
ぼくは思う。匈奴に対して「漢家なみの贈与」をしなかったのは、匈奴と戦闘が起きても、ダメージが小さいと見積もったからだ。


莽曰:「可。嘉新公國師以符命為予四輔,明德侯劉龔、率禮侯劉嘉等凡三十二人皆知天命,或獻天符,或貢昌言, 或捕告反虜,厥功茂焉。諸劉與三十二人同宗共祖者勿罷,賜姓曰王。」唯國師以女配莽子,故不賜姓。改定安太后號曰黃皇室主,絕之於漢也。

王莽はいう。「孫建の言うとおり、劉氏の優遇をやめる。

ぼくは思う。三国志と比べると。曹丕は、「あれだけ劉氏を優遇してあげたのに」劉備が謀反した。劉備が謀反でき、謀反により劉備の威信が失墜しなかったのは。劉備が「曹丕が贈与をほどこした劉氏」から切断されているからだ。回りくどいな。要するに、劉備と献帝は、なんの関係もないのだ。

嘉新公・國師の劉欣は、符命どおり四輔とする。明德侯の劉龔、率禮侯の劉嘉ら32人は、(漢新革命に賛成して)天命を知る。天符を献上したり、昌言を提出したり、反虜を捕告したりと、功績がある。新室に協力的な劉氏32人は、優遇を継続する。そのために劉氏をやめ、王氏の姓をあげる」と。

ぼくは思う。ちっとも『贈与論』じゃない!

ただ國師の劉欣だけは、娘が王莽の子の嫁である。ゆえに(同姓は娶らずなので)王氏をもらわない。王莽の娘・定安太后を「黄皇室主」と改称して、漢家との関係を絶った。

12月、匈奴に6方向30万人で攻めこむ

冬十二月,雷。
更名匈奴單于曰降奴服于。莽曰:「降奴服于知 威侮五行, 背畔四條, 侵犯西域,廷及邊垂,為元元害,辠當夷滅。命遣立國將軍孫建等凡十二將,十道並出,共行皇天之威,罰于知之身。 惟知先祖故呼韓邪單于稽侯狦 累世忠孝,保塞守徼,不忍以一知之罪,滅稽侯狦之世。今分匈奴國土人民以為十五,立稽侯狦子孫十五人為單于。遣中郎將藺苞、戴級馳之塞下,召拜當為單于者。諸匈奴人當坐虜知之法者,皆赦除之。」

冬12月、雷あり。
王莽は単于の名を「降奴服于知」と改める。

師古はいう。単于は、王莽のために1字名「知」に改めた。もとは、嚢知牙斯。

王莽はいう。「単于は、五行を威侮した。

師古はいう。「五行を威侮する」は、『夏書』甘誓之文である。
ぼくは思う。出典の開示と隠蔽。これは微妙な問題。公正な学術論文は、読者への「パス回し」であるから、出典をすべて開示すべきという。だが、出典を開示しすぎると、論者に不利になることがある。「この分野に、あの理論をこじつけたら、ダメだろ」という。「こじつけることの説明責任を果たせ」と、面倒くさい。
というわけで、「どこにも出典がない発言をする」のは愚者だが、「どこが出典か特定される」のは敗者である。真の勝者はどんなか。何かを発表したとき、説得力があるものの、どこか出典か特定されない。「どこにも出典がないじゃん」と反論されたら、心の中でそっと勝利を宣言する。決して出典をバラさない。もしくは、無知な反論者のことを、自分と同じ教養者とともに、目配せして笑ってやる。笑ったことを、無知な反論者に、決して悟られてはならない。うわ、イヤなヤツ。

王莽が決めた4条(内容は匈奴伝にある)にそむき、西域を侵犯した。立国将軍の孫建ら12将に、匈奴を討伐させる。むかし呼韓邪單于は、忠孝であり、漢家との国境を守った。いま匈奴の国土と人民を、15に分割する。呼韓邪の子孫15人を、単于に立てる」と。

ぼくは思う。曹操は匈奴を5分割したが。王莽は匈奴を15分割しようとした。曹操のときは、内地に移住した南匈奴だけを、5分割だ。北単于の人口もいる時代だから。曹操の単位と同じにするなら「10分割」となる。まあ、現実的な数字なのね。


遣五威將軍苗訢、虎賁將軍王況出五原,厭難將軍陳欽、震狄將軍王巡出雲中, 振武將軍王嘉、平狄將軍王萌出代郡,相威將軍李棽、鎮遠將軍李翁出西河, 誅貉將軍陽俊、討穢將軍嚴尤出漁陽,奮武將軍王駿、定胡將軍王晏出張掖,及褊裨以下百八十人。募天下囚徒、丁男、甲卒三十萬人,轉眾郡委輸五大夫衣裘、兵器、糧食,長吏送自負海江淮至北邊,使者馳傳督趣,以軍興法從事, 天下騷動。先至者屯邊郡,須畢具乃同時出。

五威將軍の苗訢、虎賁將軍の王況を、五原から出す。厭難將軍の陳欽、震狄將軍の王巡を、雲中から出す。振武將軍の王嘉、平狄將軍の王萌を、代郡から出す。相威將軍の李棽、鎮遠將軍の李翁を、西河から出す。誅貉將軍の陽俊、討穢將軍の嚴尤を、漁陽から出す。奮武將軍の王駿、定胡將軍の王晏を、張掖から出す。褊裨より以下180人の下位の将軍がいる。天下から30万人をつのる。全国から軍資をつのる。長吏は自ら軍資をせおって、海路や江淮から、北辺に運送する。天下は騒動した。

ぼくは思う。王莽は、はじめから匈奴を屈服させるつもりだった。でないと、この 匈奴の領域が「正方形であるべき天下」に食いこんでいる。だから正方形を回復しなければならない。王莽が、こんな思想に基づいて動いていたら、おもしろい。
ぼくは思う。もしくは、いつもの「内憂する視線を、外患に転じさせる」という政事技法だろうか。王莽は、国内の劉氏が不穏なので、有無をいわさず、この大軍を動かした。つまり王莽は、『贈与論』的な漢新革命を、さいごまで根気よくやらずに。外圧によって、ガバッと、ドヤッと、片づけようとした。もしこの政事技法なら、王莽にがっかりだよ。
ぼくは思う。これだけの動員力があることから。王莽が正真正銘に、天下の王朝の主君であったことがわかる。この動員力は、じつは「漢家に向けた贈与」が原資であり、この動員によって王莽に渡されたものは、漢家の天下から王莽への「返報」である。王莽は、それを見失ってないか。
ぼくは思う。王莽は、漢家の劉氏の弾圧を円滑にするために、もとは漢家のものである天下の軍資を使っている。まるで、「親に育ててもらい、親のカネで武器を買って、親を殺す」ような行動だ。こんな退蔵者は、たちまち威信が失墜するだろう。蕩尽が美談となるのは、自前の財産をつかうからだ。相手の財産で蕩尽するとは、自分で自分の威信を貶める行動だ。

辺郡にそろってから、同時に出撃した。

ぼくは思う。王莽は、いつからか「贈与者」の資格よりも、「受納者」となり、単なる「消費者」に転落した。どれだけ面倒くさくても、いや面倒くさいからこそ。どれだけ割に合わなくても。いや割に合わないからこそ。執拗に、王莽は、先手の贈与と、後手の返報を、ひっきりなしに反復すべきだった。


王莽の貨幣が流通せず、符命の受納を拒否る

莽以錢幣訖不行, 復下書曰:「民以食為命,以貨為資,是以八政以食為首。寶貨皆重則小用不給,皆輕則僦載煩費, 輕重大小各有差品,則用便而民樂。」於是造寶貨五品,語在食貨志。百姓不從,但行小大錢二品而已。盜鑄錢者不可禁,乃重其法,一家鑄錢,五家坐之,沒入為奴婢。吏民出入,持布錢以副符傳, 不持者,廚傳勿舍,關津苛留。 公卿皆持以入宮殿門,欲以重而行之。

王莽の銭幣は流通しない。また下書した。「民は食を命とし、貨を資とする。ゆえに8政の筆頭には、食があるのだ。

ちくま訳はいう。「政」とは国家の統治に必要で、人民の生活を支えるものをいう。8政とは、食・貨・祀・司空・司徒・司寇・賓・師をいう。『書経』周書・洪範にある。
ぼくは思う。『補注』より、ちくま訳のほうが、こういう出典の情報に詳しかった。なんだか、三公のようなものが紛れ込むが。どういうことだろう。また『食貨志』のタイトルの由来がわかった。うれしい。

貨幣は小額のコインばかりでは、煩雑である。軽重・大小の差異をつくり、民が使いやすくする」と。宝貨5品をつくる。『食貨志』にある。

ぼくは思う。1円玉ばかりでなく、1万円札があったほうが便利だと。ただし、2千円札は流通しなかった。王莽の貨幣は、2千円札である。いま使うと「偽札だ」と通報されるらしい。笑っている場合でなく、わりに貨幣の本質を突いている事件です。
先謙はいう。宝貨5品とは、銭貨、銀貨、亀貨、貝貨、布貨である。

百姓は従わず、大小の2種の貨幣だけつかう。盗鋳を禁じられず、罰則を強めた。1家が鋳銭すると、5家が連坐して奴婢にされた。吏民が外出するとき、布銭を以て、身分証明や通行証とさせた。布銭を持たないと、駅舎を使えず、関津で止められる。公卿が宮殿の門を通るとき、布銭を持たされた。など流通の政策をした。

ぼくは思う。王莽の貨幣の流通とは、「王莽の正統性の浸透」と等値なのです。関連性があるとか、甘っちょろい度合でなく、まさに等値と言うべきだ。王莽の正統性は、「私は王莽を支持する」という人々の出現によって、基礎づけられない。「私は皆が王莽を支持すると思っている」と言わせて初めて、王莽の王朝は定着する。
ぼくは思う。この差異が端的に出てくるのは、つぎの本文。王莽に「王莽の正統をいう符命をつくったよ」と持ちこむのは、「私は王莽を支持する」という人々。彼らは王莽にとって、必要条件である。だが彼らがいくら量的に増えても、王莽の王朝は安定しない。というか、配るべき爵位がなくなって、王莽が象徴界で破産する。彼らは、符命をつくらない者を疎外するので、かえって統一王朝としての莽新には、デメリットをもたらす。
そうでなく。
質的な転換が起きて、「私は皆が王莽を支持すると思っている」という人々が出現しなければ、莽新は1代で滅びるしかない。しかし、これは原理の解明が難しい。「資本家の原初の蓄積は」と同じくらい難しい。「いかに貨幣が生まれたか」と同じくらいにも難しい。この難問につき、理由を示すことはできないが。王莽の貨幣が流通するという現象により、「私は皆が王莽を支持すると思っている」という人々が出現したと、窺い知ることができるだろう。これはワリに固い仮説だと思ってます。


是時爭為符命封侯,其不為者相戲曰:「獨無天帝除書乎?」司命陳崇白莽曰:「此開姦臣作福之路而亂天命,宜絕其原。」莽亦厭之,遂使尚書大夫趙並驗治,非五威將率所班,皆下獄。

このとき、みな争って符命をつくり、封侯にしてもらう。符命をつくらぬ者は「天帝の任命書がないなあ」という。

ぼくは思う。符命とは、下位者から上位者への、象徴界における贈与である。上位者から下位者の、象徴界における贈与とは、爵位でした。まさに対応している。交換が成立している!
ぼくは思う。陳崇は、王莽の「頭脳」ないし「口舌」だなあ。

司命の陳崇は王莽にいう。「姦臣が符命をつくって(爵位をもらい)天命を乱す。符命と爵位の交換は、辞めてはどうか」と。王莽も、符命をいやがっていた。

ぼくは思う。王莽による受納の拒否だ。「これ以上、贈与しないで下さい。もう皆さんに返報すべき財産を、私は持っていません」という表明である。ポトラッチから敗北して、撤退すると宣言した。こりゃ、威信が失墜するのよさ。
ぼくは思う。王莽は、ポトラッチによって漢家を圧倒した。しかし衆庶・群臣のポトラッチに晒されて、敗退した。建国するには「武力で天下を統一した」というのが、始原の贈与として重要である。文字どおり生命をかけている。武力とは、君主がみずから、生命も清濁も正誤も定かでない「現実界」に身を置いて、天下にほどこした贈与である。現実界では、やみくもなインフレは起きない。というか現実界を、すべて象徴界に連れてくることは、原理的にできない。そういうわけで、象徴界の遊戯であるポトラッチが、入りこみにくい。王莽は、武力討伐の功績がないのに、皇帝になったから、コケたのだ。
ぼくは思う。後漢初の、やたら陽性の戦争時代が、なぜ発生したか。王莽が象徴界を、もて遊びすぎたのだ。そのわりに、想像界はわりと貧困である。「だれが漢室を復興するか」を異口同音に唱えるだけだなあ。想像界の貧困は、まったく別の論件なので、またじっくり考えたい。

尚書大夫の趙並に調査させ、五威将につらなる者をのぞき、みな下獄した。

三国志と比べてみる。
ぼくは思う。曹魏は武力による統一をやった。だから献帝は、その話ばかりをする。曹操に魏公、魏王をあげるとき、ずっと武力の話ばかりである。だから曹魏は、ポトラッチに歯止めをかけることができた。曹魏は爵制を整備する必要性が、あまりなかった。曹魏は、後漢と西晋の「過渡期」だから、爵制がゆるいのでない。というか、「過渡期」というのは後世からの視点なので、あまり歴史的な思考を活性化しないよね。後漢があり、曹魏があり、西晋があった。それ以上でも以下でもない。
ぼくは思う。いっぽうで西晋は、武力による統一をやらない。そりゃ蜀漢と孫呉を滅ぼしたが、おもに曹魏の功績である。ゆえに西晋は、爵制の整備という、象徴界のポトラッチにこだわった。爵制を整備する必要があったのだ。しかし案の定、ポトラッチが行きすぎた。つまり諸王に恩義をかけすぎ、八王の乱が起きた。象徴界が過剰になると、現実界に戻ってくるのだ。現実界が持っている危険性(人間の制御が利かない)が、顕現してくる。
王莽や西晋の、少量の現実界(少量の武力の功績)の上に、過剰なシニフィアンを載せたら、バランスが崩れて暴発するのだ。


王莽が甄豊と甄尋を殺し、助け船を拒否る

初,甄豐、劉歆、王舜為莽腹心,倡導在位, 襃揚功德;「安漢」、「宰衡」之號及封莽母、兩子、兄子,皆豐等所共謀,而豐、舜、歆亦受其賜,並富貴矣,非復欲令莽居攝也。居攝之萌,出於泉陵侯劉慶、前煇光謝囂、長安令田終術。莽羽翼已成,意欲稱攝。豐等承順其意,莽輒復封舜、歆兩子及豐孫。豐等爵位已盛,心意既滿,又實畏漢宗室、天下豪桀。而疏遠欲進者,並作符命,莽遂據以即真,舜、歆內懼而已。

はじめ、甄豊、劉歆、王舜は、王莽の腹心である。王莽に「安漢」「宰衡」の号をあたえ、王莽の母、2子、兄子に封地をあたえた。3人は王莽から返報され、みな富貴である。だが3人は、王莽に居摂させたくなかった。居摂の契機は、泉陵侯の劉慶、前煇光の謝囂、長安令の田終術から出てきたものだ。

ぼくは思う。3人から見ると、摂皇帝になることは、王莽の功績を上回ることだ。これは3人が、王莽の名誉を損ねようとしたことを意味しない。むしろ3人は、王莽に功績に見合った称号をおくった。無限のポトラッチが起動しない範囲で、王莽が留まることを希望したのだろう。無限のポトラッチが起動すれば、もう誰にも止められない。
ぼくは思う。王朝をほろぼす「へつらい」の臣とは。君主もしくは宰相に、彼らの功績以上の名誉を贈ろうとする。この名誉が大きすぎるから、ダメなのではない。名誉が大きいために、返報の義務をこなし切れず、かえって君主もしくは宰相を滅ぼすから、邪悪なのだ。君主もしくは宰相に親近するふりをして、ぎゃくに滅ぼすのだから、キタナイのだ。
乱闘になったとき、「従いますから守って下さい」と後ろにくっつき、後ろからナイフで突き刺すような行為なのだ。「へつらい」の臣のキタナサは、こういうもの。「おべんちゃらばかりで、信用できない」という生理的な嫌悪感を言うだけでは、分析したことにならない。

王莽が摂皇帝になりたがると、甄豊らは反対せず、承諾した。ゆえに王莽は、王舜と劉歆2人の子、甄豊の孫を封じた。

ぼくは思う。この閉じた関係だけなら、まだポトラッチが起動していない。「健全」な関係である。まだ後戻りがきく。

甄豊らは爵位が盛んになるが、じつは漢家の宗室、天下の豪傑をおそれる。王莽とは疎遠な者が、自分が昇進したいので符命をつくった。王莽は真皇帝となった。王舜と劉歆は、内心で懼れるのみ。

ぼくは思う。この符命が、「後戻りできない無限のポトラッチ」の始まりだ。さっき王莽は、王莽が真皇帝になるキッカケをつくった、五威将の符命を本物としつつ、それ以外を偽物とした。しかし符命には真贋はない。ポトラッチを起動させたか、起動したあとに流れてきたか、というタイミングの違いがあるだけだ。王莽は、まったく真贋のないものを、「これは本物、これは偽物」と弁別した。この弁別がウソだから、王莽の威権は失墜した。王莽がほんとうに政治家として成功するなら、道は2つだった。1つ、ポトラッチに踏み込まない。つまり符命により真皇帝とならず、甄豊らの意思によりそう。2つ、ポトラッチを究極的にやり遂げる。つまり爵位を濫造しても、エエジャナイカをやる。
2つはどちらも不本意だろうが、2つ以外の選択肢は絶望的であった。つまり、ハンパな折衷をするから、王莽は滅びるしかなかった。


豐素剛強,莽覺其不說, 故徙大阿、右拂、大司空豐,託符命文,為更始將軍,與賣餅兒王盛同列。豐父子默默。時子尋為侍中京兆大尹茂德侯,即作符命,言新室當分陝,立二伯, 以豐為右伯,太傅平晏為左伯,如周召故事。莽即從之,拜豐為右伯。當述職西出,未行,尋復作符命,言故漢氏平帝后黃皇室主為尋之妻。莽以詐立,心疑大臣怨謗,欲震威以懼下,因是發怒曰:「黃皇室主天下母,此何謂也!」收捕尋。尋亡,豐自殺。

甄豊は剛強である。王莽は、甄豊が革命を悦ばないと知る。王莽は符命に仮託して、甄豊を更始将軍とした。モチ売の王盛と同列である。

ぼくは思う。いちど開始したポトラッチは、停止できない。王莽が甄豊に冷たくしたのは、正しい。であれば王莽は、最後までポトラッチを徹底すべきだった。途中で「劉氏の公爵と侯爵をやめろ、官吏から外せ」とか、「符命を作成しても、もう爵位をあげない」と言ってはいけなかった。王莽がポトラッチを降りるなら、甄豊の意図に従っていれば良かった。徹底せんなあ!

甄豊の子は、侍中・京兆大尹・茂德侯の甄尋である。甄尋は符命をつくり「新室を陜水で2分割して、2伯をたてろ。甄豊を右伯、太傅の平晏を左伯とせよ。周公と召公の故事のように」と。王莽は従った。甄豊が赴任する前に、また甄尋はいう。「王莽の娘・平帝の皇后を、私の妻とせよ」という。王莽は「私の娘は、天下の母なのに」と怒って断り、甄尋を收捕した。

ぼくは思う。班固は地の文で、下手な心理描写をしている。「王莽は革命がウソなので、大臣に怨み謗られると心配である。ゆえに震威により大臣を懼れさせたいので、大怒した」と。なんじゃそら。
ぼくは思う。甄尋は、王莽の皇帝権力を弱める発言ばかりする。王莽は皇帝だが、あたかも王莽が漢家を輔政したように、甄豊と平晏が王莽を輔政すると良いという。王莽は周成王のような子供じゃないのに。輔政を必要としないのに。いや輔政を必要としないから、わざと過剰な2伯の設置を、甄尋は言ったのです。
ぼくは思う。もし王莽が2伯を頂けば。王莽はポトラッチから解放される。「功績に対して、過剰に恩義を受けてしまった」という負債から解放される。権限なんて、パスしちゃえば良いのだ。パスすべきものなのだ。甄尋は、王莽の威権を損なわないかたちで、甄豊の子という立場を活かして、王莽に助け船をだした。ポトラッチに疲弊して、身動きの取れなくなっている王莽は、うまく助け船に乗れなかった。
ぼくは思う。王莽の娘が、甄尋の妻となれば。平帝の妻という特別性が薄れる。王莽と漢家の関係が薄まる。すでに革命を終えた王莽にとって、政権を安定させるために重要なのは、贈与の絶対量を減らすことだ。つまり、ポトラッチの逆をゆけば良いのだ。チッラトポ。漢家との関係が途絶えると、それは「革命の撤回」を意味しない。「革命の完了」を意味するのだ。
王莽さん、甄尋の助け船に、乗ってほしかった!

甄尋は逃亡して、甄豊は自殺した。

尋隨方士入華山,歲餘捕得,辭連國師公歆子侍中東通靈將、五司大夫隆威侯棻,棻弟右曹長水校尉伐虜侯泳,大司空邑弟左(闕)〔關〕將軍(堂)〔掌〕威侯奇, 及歆門人侍中騎都尉丁隆等,牽引公卿黨親列侯以下,死者數百人。尋手理有「天子」字,莽解其臂入視之,曰:「此一大子也,或曰一六子也。六者,戮也。明尋父子當戮死也。」乃流棻于幽州,放尋于三危,殛隆于羽山, 皆驛車載其屍傳致云。

甄尋は方士にしたがい、華山に入った。1年余で捕縛された。甄尋におおくが連坐した。國師公の劉歆の子・劉棻、その弟の劉泳。王邑の弟・王奇。劉歆の門人・丁隆らである。列侯より以下、死者は数百人。
甄尋の手に「天子」の字があった。王莽は「一大子」と読み、或者は「一六子」と読んだ。六とは「戮」だから、甄尋の父子を戮すべきだと主張された。王莽は甄尋らを殺戮した。

師古はいう。虞舜は、共工らを罰した。ぼくは思う。王莽が、いまいち使い勝手の悪い重臣を殺すことは、虞舜に照らして、「やって良い」ことなのか。よくぞ顔師古は、こんな注釈を付けたものだ。
ぼくは思う。王莽は、漢家との関係を絶やしたい。王莽は、もと同僚である「漢家の功臣」を弾圧することにより、自分の皇帝権力を確立しようとした。ガキでも思いつくが。まったく直線的で残念である。
ぼくは思う。この甄尋が、曹丕の甄皇后に連なる。すげえ。


莽為人侈口蹷顄, 露眼赤精,大聲而嘶。 長七尺五寸,好厚履高冠,以氂裝衣, 反膺高視,瞰臨左右。是時有用方技待詔黃門者,或問以莽形貌,待詔曰:「莽所謂鴟目虎吻豺狼之聲者也,故能食人,亦當為人所食。」問者告之,莽誅滅待詔,而封告者。後常翳雲母屏面, 非親近莫得見也。

王莽の身体的な特徴について。
王莽は口が大きく、丸顔である。目が飛びだして赤い。大声で話す。身長は7尺5寸。厚底の靴と高い冠がすき。背を逸らして、左右を見おろす。黄門が王莽を描写して、「王莽はトラの口であり、豺狼の声である。王莽は人を食えるが、人に食われる」と。王莽は自分を描写した者を殺した。

ぼくは思う。なぜここで、王莽の身体を描写するのか。こういうのは、列伝の末尾と決まっているだろう。つまり班固は、以降の王莽が「人に食われる」までの過程だと言いたいのだろう。伏線である。もう、締めくくりにかかった。
ぼくは思う。王莽を動物に例えるのは、『野生の哲学』『カイエ・ソバージュ』への回路が開かれたことを意味する。定型句であっても、とにかく、めでたいなあ。いや、動物の比喩は、陳腐な定型的だから、より回路が広く開かれるのか。人間の思考は、古今東西で、わりと同一である。というのが、中沢新一氏の話でした。

雲母の屏面のうしろにいるので、親近せねば、王莽の姿を見られない。

ぼくは思う。王莽が傾いた原因は、ポトラッチからの撤退。よし、固まった。列伝の真ん中に、不自然なことにも、王莽の身体的な特徴が出てきたので、以降は、転落まで1本のレールの上を進むのだろう。下り電車である。


是歲,以初睦侯姚恂為寧始將軍。

この歳、初睦侯の姚恂を、寧始將軍とした。130221

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始建国3年、匈奴に苦戦し、并州が荒廃する

匈奴の討伐軍が統制されず、2単于に私与

三年,莽曰:「百官改更,職事分移,律令儀法,未及悉定,且因漢律令儀法以從事。令公卿大夫諸侯二千石舉吏民有德行通政事能言語明文學者各一人,詣王路四門。」
遣尚書大夫趙並使勞北邊,還言五原北假膏壤殖穀, 異時常置田官。乃以並為田禾將軍,發戍卒屯田北假,以助軍糧。

三年,莽曰:「百官と職事は、漢制を変更した。だが律令と儀法は、まだ漢家のままである。公卿・大夫・諸侯・二千石は、吏民のなかから、有德行・通政事・能言語・明文學の人材を1人ずつ挙げ、王路の四門に来させろ」と。

ぼくは思う。王莽は「漢家から変更する」ことが、1つの目的なんだなあ。律令と儀法の、ココに問題点があるから、、という論法ではない。「まだ漢家と同じだから」変更すべきだという。

尚書大夫の趙並を北辺にゆかせ(匈奴の討伐軍を)慰労させる。趙並は長安にかえり「五原の北假県は、土地が肥沃で、穀物がとれる。戦時は田官が置かれた」という。王莽は趙並を田禾將軍として、北辺の戍卒を発して、北假で屯田させ、軍糧の補助とした。

是時諸將在邊,須大衆集, 吏士放縱,而內郡愁於徵發,民棄城郭流亡為盜賊,并州、平州尤甚。莽令七公六卿號皆兼稱將軍,遣著武將軍逯並等填名都, 中郎將、繡衣執法各五十五人,分填緣邊大郡,督大姦猾擅弄兵者,皆便為姦於外,撓亂州郡, 貨賂為市,侵漁百姓。莽下書曰:「虜知罪當夷滅,故遣猛將分十二部,將同時出,一舉而決絕之矣。內置司命軍正,外設軍監十有二人,誠欲以司不奉命,令軍人咸正也。今則不然,各為權勢,恐猲良民, 妄封人頸,得錢者去。 毒蠚並作,農民離散。 司監若此,可謂稱不? 自今以來,敢犯此者,輒捕繫,以名聞。」然猶放縱自若。

このとき匈奴の討伐軍は、辺境にいる。吏士が放縦である。内郡は徴発のために愁い、民は城郭を棄てて盗賊となる。并州と平州でひどい。

胡三省はいう。平州は、公孫度が新設したのでは。沈欽韓はいう。王莽が幽州を分割して、平州をおいた。公孫度はこれをマネた。銭大昕は「平州とは、并州の西河郡に属する平州県のこと」という。すると、ただ并州のなかの1県だけで、百姓が流亡したという意味になる。王莽が原因の乱として、規模が小さくないかと。
ぼくは思う。たしかに、たかが1県の被害のために、全軍の統制を見直すというのは、派手すぎる。しかし、むりに幽州から分割した平州とするのは、強引である。なんの根拠もないが、折衷して「并州1つがもっともひどい」くらいに認識するか。

王莽は、七公・六卿に将軍号をくわえ、管理を強化した。

胡三省はいう。七公とは、四輔と三公である。六卿とは、羲和、作士、秩宗、典楽、共工、予虞である。

王莽は下書した。「匈奴の単于を夷族するため、12軍を出したが、討伐軍の統制がとれない。違反者を厳しく取り締まれ」と。だが討伐軍の放縦は、もとのまま。

而藺苞、戴級到塞下,招誘單于弟咸、咸子登入塞,脅拜咸為孝單于,賜黃金千斤,錦繡甚多,遣去;將登至長安,拜為順單于,留邸。

王莽による統制を逸脱して。藺苞と戴級は塞下にて、単于の弟である咸、咸の子である登を誘った。咸と登を入塞させた。咸を脅して「孝単于」を拝受させ、黄金1千斤や錦繡を与える。登を長安にこさせ、「順単于」を拝受させて、自分の邸宅に留める。

ぼくは思う。2つの分断である。1つは、王莽にある称号を与える権限が、莽新のなかで分断された。かってに称号を与えた。まるで藺苞と戴級は、独立国家のようである。三国の呉蜀とかわらない。2つは、匈奴に複数の単于を立てることで、匈奴を分断した。


王舜を春秋斉に準え、太子に4師友を設置

太師王舜自莽篡位後病悸,劇,死。 莽曰:「昔齊太公以淑德累世,為周氏太師,蓋予之所監也。 其以舜子延襲父爵,為安新公,延弟襃新侯匡為太師將軍,永為新室輔。」

太師の王舜が病死した。

ぼくは思う。「簒奪したのち、悸を病み、劇して死んだ」と、みょうに具体的な病歴が書いてある。王莽が簒奪したせいで死んだんだよ!という、因果関係のコジツケである。王莽をけなすことが、過剰である。ゆえにぎゃくに、意図が見えすぎる。
病状について、上海古籍6134頁。

王莽はいう。「斉太公は、世代をかさね、周氏の太師となった。王舜の家系も同じになってほしい。王舜の子・王延に、爵位をつがせて安新公とする。王延の弟・襃新侯の王匡を太師將軍とし、同じく弟の王永を新室輔とする」と。

ぼくは思う。王莽は、自分を周公旦とした。王舜を、太公望の子孫である斉になぞらえた。『春秋』は、あらゆる行動や関係性が書き込まれており、その順列と組合せによってのみ、後世の歴史は展開される。


為太子置師友各四人,秩以大夫。以故大司徒馬宮為師疑,故少府宗伯鳳為傅丞,博士袁聖為阿輔,京兆尹王嘉為保拂, 是為四師;故尚書令唐林為胥附,博士李充為犇走, 諫大夫趙襄為先後,中郎將廉丹為禦侮,是為四友。又置師友祭酒及侍中、諫議、六經祭酒各一人,凡九祭酒,秩上卿。琅邪左咸為講春秋、潁川滿昌為講詩、長安國由為講易、平陽唐昌為講書、沛郡陳咸為講禮、崔發為講樂祭酒。遣謁者持安車印綬,即拜楚國龔勝為太子師友祭酒,勝不應徵,不食而死。

太子に、師4名と、友4名をおく。もと大司徒の馬宮を師疑、もと少府・宗伯の王鳳を傅丞、博士の袁聖を阿輔、京兆尹の王嘉を保拂とする。これが4師である。もと尚書令の唐林を胥附、博士の李充を犇走、 諫大夫の趙襄を先後、中郎將の廉丹を禦侮とする。これが4友である。

ぼくは思う。固有名詞が乱舞しているが、『補注』に人名の注釈がない。

師友祭酒、侍中祭酒、諫議祭酒をおき、六經に祭酒を1名ずつおく。以上で、9名の祭酒がいる。

先謙はいう。1+1+1+6=9である。

琅邪の左咸に『春秋』を講させる。潁川の滿昌に『詩』を講させる。長安の國由に『易』を講させる。平陽の唐昌に『書』を講させる。沛郡の陳咸に『礼』を講させる。

ぼくは思う。儒家経典『書』と、ラカン『エクリ』は、どちらも書かれたものという意味だから、同名の本なのね。『書』だけでは分かにくく、『尚書』や『書経』とよぶ。

崔發を講樂祭酒とした。謁者が安車にのり、印綬を持って迎える。謁者が、楚國の龔勝を太子師友祭酒を拝させたい。だが龔勝は応ぜず、食べずに死んだ

ぼくは思う。『漢書』龔勝伝☆を読みましょう。このハンガーストライキも、ポトラッチの1つ。ゆきすぎて破産したパターン。生命を賭金にして、王莽(の代理である謁者)と競ったのだ。「莽新を支持しないから、態度で示した」という理解では不足だろう。『後漢書』では、ほめられるパターンだが。


寧始將軍姚恂免,侍中崇祿侯孔永為寧始將軍。
是歲,池陽縣有小人景,長尺餘,或乘車馬,或步行,(據)〔操〕持萬物, 小大各相稱, 三日止。
瀕河郡蝗生。 河決魏郡,泛清河以東數郡。先是,莽恐河決為元城冢墓害。及決東去,元城不憂水,故遂不隄塞。

寧始將軍の姚恂を免じた。侍中・崇祿侯の孔永を、寧始將軍とする。

『補注』に注釈なし。ふーん。

この歳、池陽県に小人の景がいる。身長は1尺余。車馬に乗ったり、歩行したりした。小人の景は、万物を操った(ひとりでに動かせた)。3日でいなくなった。
黄河ぞいの(南北の両側の)郡でイナゴ。黄河が魏郡で決壊し、清河より東の郡に氾濫した。王莽は、元城の冢墓を浸水から守るため、堤防を築こうと思っていた。東に氾濫したので、浸水の心配がなくなった。堤防をやめた。130223

胡三省はいう。王莽の曽祖父・王賀の冢墓は、魏郡の元城にある。
何焯はいう。王莽は、私利のために、堤防のような公共事業をやった。ゆえに百姓は王莽になつかない。
ぼくは思う。まさに班固は、何焯のような注釈を付けさせたくて、この文章を書いたのである。思うツボすぎる。黄河の堤防には、莫大なコストがかかる。片側に決壊すれば、逆側の堤防がいらなくなるのは、(王莽の冢墓がなくても)ありそうな判断である。因果関係としては、「たまたま王莽は、反対側に浸水したおかげで、冢墓の浸水をまぬがれた。運が良かった」ということもできる。
ぼくは思う。心理学でも、「ほかの人が言ったことだから」という理由で、信憑性が増すことがある。班固は何焯をあやつって、記述の意図を成就させた。

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始建国4-5年、地理を整備し、王元后が死ぬ

夏、地方の行政区分をいじる

四年二月,赦天下。夏,赤氣出東南,竟天。

始建国4年2月、天下を赦した。夏、赤氣が東南に出て、天をおおう。

厭難將軍陳(歆)〔欽〕 言捕虜生口,虜犯邊者皆孝單于咸子角所為。莽怒,斬其子登於長安,以視諸蠻夷。

厭難將軍の陳歆(陳欽)が生口を捕虜にしたという。

銭大昭はいう。『漢書』匈奴伝では、陳欽とする。陳欽でいこう。

陳欽は「単于の咸の子である角が、辺境を侵犯する」という。王莽は怒り、その子の登を長安で斬って、諸蛮夷に見せしめた。

ぼくは思う。王莽の匈奴に対して強硬な態度が、どれぐらい前漢の故事を逸脱しているのか。前漢でもまた、王莽と同じくらいの振れ幅で、匈奴を圧迫したのなら。王莽は「判断ミス」こそしたものの、「バカ」ではなくなる。総体的に評価すべき問題なのだ。


大司馬甄邯死,寧始將軍孔永為大司馬,侍中大贅侯輔為寧始將軍。莽每當出,輒先索城中,名曰「橫」。 是月,橫五日。

大司馬の甄邯が死んだ。寧始將軍の孔永が大司馬となる。侍中・大贅の侯輔が寧始將軍となる。

ぼくは思う。王莽を支えた、第1世代が死に始めた。莽新を維持するためには、次代の心配をしなければならない時期にきた。また、王莽の成功の要因の1つが、長生きであることもわかる。

王莽が外出するごとに、城中を先索させた。これを「横捜」という。この月は5日、横捜がおこなわれた。

沈欽韓はいう。王莽が外出するとき、捜索させる。官吏が宮殿に入るとき、ボディチェックされた。漢制では、三公は兵を領して皇帝に謁見し、虎賁に刀を持たせた。『後漢書』伏皇后伝、『三国志』武帝紀注にある。唐代も同じである。
ぼくは思う。皇帝の安全を守るのは大切。だから「横捜」があるのは、前例を逸脱しない。ただし、月に5日は多いのか。王莽が頻繁に外出したことがわかる。王莽は、匈奴の問題など、忙しかったのかな。


莽至明堂,授諸侯茅土。下書曰:「予以不德,襲于聖祖,為萬國主。思安黎元,在于建侯,分州正域,以美風俗。追監前代,爰綱爰紀。惟在堯典,十有二州,衞有五服。 詩國十五,抪徧九州。 殷頌有『奄有九有』之言。 禹貢之九州無并、幽,周禮司馬則無徐、梁。帝王相改,各有云為。或昭其事,或大其本,厥義著明,其務一矣。

王莽は明堂にきて、諸侯に茅土を授けた。下書した。

ぼくは思う。「茅土」は大切な用語。あとで調べよう。

『堯典』では12州あり、周辺の五服を衛した。『詩経』では国風15に分類して目次を立てるが、州は9つである。『殷頌』玄鳥では「9州をおおう」とある。『禹貢』では9州がある。并州と幽州がない。『周礼』司馬では徐州と梁州がない。帝王は州の編成を改変して、統治の思想を反映した。

師古は、15国の内訳を記す。上海古籍6138頁。


昔周二后受命,故有東都、西都之居。予之受命,蓋亦如之。其以洛陽為新室東都,常安為新室西都。邦畿連體,各有采任。州從禹貢為九,爵從周氏有五。諸侯之員千有八百,附城之數亦如之,以俟有功。諸公一同,有衆萬戶,土方百里。侯伯一國,衆戶五千,土方七十里。子男一則,衆戶二千有五百,土方五十里。附城大者食邑九成,衆戶九百,土方三十里。自九以下,降殺以兩, 至於一成。 五差備具,合當一則。

周では2后(文王と武王)が受命し、東都と西都がならんだ。私の受命も、同じであった。ゆえに洛陽を新室の東都とし、長安を新室の西都とする。

ちくま訳はいう。2后とは、文王と武王である。
ぼくは思う。王莽はどういう意味で、文王と武王に準えているのか。もう革命は完了しているから、「漢室と新室が並ぶ」ではない。王莽の受命は、周室と同じである(周室の制度をマネている)から、周制のように2都をもうける。という意味だろう。もう漢家のことは、いう必要がない。
ぼくは思う。文王と武王も、2都で並立してない、、よね。認識がちがうかも。『尚書』を、あたかも『漢書』や『三国志』のように読む必要がある。つまり文学でなく歴史として読む必要がある。でないと、王莽の頭のなかが分からない。ぼくは思う。文学と歴史学は、隣接して、ついつい闘争的になる分野である(でもないか)。読者がどの時代を「欲望」するかにより、読み方が変わるなあ。殷周を欲望すれば、『尚書』は歴史学となる。王莽を欲望すれば、『尚書』は文学、『漢書』は歴史学となる。曹操を欲望すれば、『尚書』と『漢書』は文学、『三国志』は歴史学の対象となるのだ。
ぼくは思う。前漢と後漢のいちばんの差異は、首都の位置。だがその「過渡期」として、王莽は両都を定めていた。過渡期とは、後世の視点から「前漢と後漢の、両方の性質を折衷しているよね」と、ザツに総括する言い方ではない。王莽じしんが主体的に、首都がどうあるべきか考えている。前漢を受けて、後漢に働きかける。そういう語法。「曹魏の爵制は、後漢と西晋の過渡期的な様相であった」というときも、この意味らしい。聞いて納得しました。

畿内の統治単位には、それぞれ采任をおく。

ちくま訳はいう。「采」は男性の食邑、「任」は女性の食邑。

『禹貢』に従って9州とする。周制に従って5等爵とする。諸侯の員数は1800とする。付城(郡県の支城)の数も、同じく周制とする。

ぼくは思う。王莽が上で「帝王相改,各有云為。或昭其事,或大其本,厥義著明,其務一矣。」と言ったように。やりたい政策が先にあり、出典を後から切り貼りするのだ。帝王がやりたい政策は(王莽自身の政策も含めて)共通のところを目指しており、相互に矛盾しないという確信がある。だから、王莽はアナクロニズムというのは、まったく的外れである。王莽は自覚的に、アナクロニズムを否定する発言をしてる。というか、はじめに言い出したのは誰でしょう。また、王莽は古文学に依拠しつつも、今文学や漢故事を混同したから、論理的に破綻しているという批判も、まったく的外れである。王莽はもともと、古文学で一貫しようとなんて、してない。
確かに「どの時代の帝王も、目指すところは同じ」というのは、古典や前例への、圧倒的な信頼を意味しているが。この発想って、近代を除けば、わりに普遍的でしょう。「前世代より次世代のほうが進んでいる」という発想は、近代に特有の病理だから。

爵位ごとの戸数や面積は、はぶく。

今已受茅土者,公十四人,侯九十三人,伯二十一人,子百七十一人,男四百九十七人,凡七百九十六人。附城千五百一十一人。

茅土を受けた者は、公14人、侯93人、伯21人、子171人、男497人。合計で796人。附城は1511人。

ぼくは思う。莽新の五等爵は、周制とおなじ公侯伯子男であるが。この前段階に、王莽が「安漢公」の差異性を守る必要があったとき、五等爵から公が除かれ、下に付城があった。これで、見せかけの5等爵をつくった。いま「公」の差異性を守る必要がなくなった。だが付城を廃止もできない。付城はいわば「6番目の爵位」である。
というか、こうやって下書に出てくる時点で、じっさいに莽新は、6等爵制じゃないか。この剰余した6番目が「現実と折りあった」ところである。渡邉先生が好きそうなテーマである。理念と現実のすりあわせ。
銭大昭が「公」14人の名を記す。上海古籍6138頁。王延、平晏、劉歆、哀章、甄邯、王尋、王邑、王興、孫建、王盛、姫党、蘭包、載級、劉嬰。ぼくは思う。もと孺子だった、劉嬰が入っている!
銭大昭はいう。甄豊は有罪で国が除かれたので、14人に含まない。王莽の宗室は、14人の含まない。14人とは、王安、王臨、王干、王寿、王吉、王宗、王世、王利である。


九族之女為任者,八十三人。及漢氏女孫中山承禮君、遵德君、修義君更以為任。十有一公,九卿,十二大夫,二十四元士。定諸國邑采之處,使侍中講禮大夫孔秉等與州部衆郡曉知地理圖籍者,共校治于壽成朱鳥堂。予數與羣公祭酒上卿親聽視,咸已通矣。夫襃德賞功,所以顯仁賢也;九族和睦,所以襃親親也。予永惟匪解,思稽前人, 將章黜陟,以明好惡,安元元焉。」
以圖簿未定,未授國邑,且令受奉都內,月錢數千。 諸侯皆困乏,至有庸作者。

王莽の九族の娘は、83人が「任」となる。劉氏の女孫である中山承禮君、遵德君、修義君は「任」に改められる。11公、9卿、12大夫、24元士を任じる。
諸国の邑采の治所をさだめる。侍中・講禮大夫の孔秉らに、州郡にいる地理・図籍に詳しい者を管理させ、寿成の朱鳥堂で地図等をつくらせた。この地理の政策に功績がある者を褒賞せよ」と。

以上が、王莽の下書でした。

図簿が完成せず、国邑に配布されないので、月に数千銭だけを支給した。諸侯はみな困乏した。庸作(バイト)する諸侯もいた。

中郎區博諫莽曰: 「井田雖聖王法,其廢久矣。周道既衰,而民不從。秦知順民之心,可以獲大利也,故滅廬井而置阡陌,遂王諸夏,訖今海內未厭其敝。今欲違民心,追復千載絕迹, 雖堯舜復起,而無百年之漸,弗能行也。天下初定,萬民新附,誠未可施行。」莽知民怨,乃下書曰:「諸名食王田,皆得賣之,勿拘以法。犯私買賣庶人者,且一切勿治。」

中郎の區博が、王莽をいさめた。「井田制は聖王の法だが、廃れて久しい。周道が衰え、民は従わない。新室は順民の心を知り、大利を獲得した。ゆえに井田制に必要な、廬井を破壊した。その弊害は残っている。いま堯舜がいても、100年をかけねば井田制を復活できない。まだ井田制をやるのは早いのだ」と。王莽は、民の怨=愁を知る。
下書した。「名食・王田を売却してよい。売却した者を、処罰してはならない」と。

『補注』は、怨と愁が同義の漢字なので、版本によって異なっても、意味が大きく変わらないという。『説文』や『後漢書』明帝紀で同義とわかる。
ぼくは思う。王莽は、わりと妥協する。数年前の失策を、すぐに撤回した。王莽がなぜ失敗したのか。劉氏への贈与を撤回したことが、怪しかったが、まだ充分条件に到らない。見守らねば。


句町王が背き、厳尤が高句麗侯を殺す

初,五威將帥出,改句町王以為侯,王邯怨怒不附。 莽諷牂柯大尹周歆詐殺邯。邯弟承起兵攻殺歆。

はじめ五威の將帥が出撃したとき、句町王を句町侯に降格した。句町王の邯は怨怒して、莽新につかない。王莽は、牂柯大尹の周歆に、句町王を殺させた。句町王の弟が、周歆を殺した。

ぼくは思う。ふつうに句町の制御に失敗した。


先是,莽發高句驪兵,當伐胡,不欲行,郡強迫之,皆亡出塞,因犯法為寇。遼西大尹田譚追擊之,為所殺。州郡歸咎於高句驪侯騶。嚴尤奏言:「貉人犯法,不從騶起,正有它心,宜令州郡且尉安之。 今猥被以大罪,恐其遂畔, 夫餘之屬必有和者。 匈奴未克,夫餘、穢貉復起,此大憂也。」莽不尉安,穢貉遂反,詔尤擊之。

これより先、王莽が高句麗の兵を発して、胡族を伐ちたい。太守が高句麗を強迫した(兵を出させようとした)ので、高句麗は塞外に出て、莽新を寇する。遼西大尹の田譚が、高句麗を追撃して殺された。州郡は、高句麗侯の騶をとがめた。厳尤は上奏した。「高句麗のせいで、北方の異民族が莽新に従わない。まだ匈奴に勝たないのに、東北で兵乱を起こすのは良くない。東北を慰安せよ」と。
だが王莽が北方を慰安しないので、おおくの貉が謀反した。王莽は厳尤に、穢貉を撃たせる。

ぼくは思う。厳尤は、やりきれない。兵乱を避けろと言ったのに、王莽は(わざと)兵乱を起こした。王莽のバランス感覚を欠いたように見える、異民族への強硬政策は、どこに根拠があるのだろう。
ぼくは思う。もしくは、王莽の異民族の政策は、決して成功ではないが、それほど本質的な大打撃ではないのかも。『漢書』王莽伝中のちくま訳をザッと読むと、匈奴をしばき、討伐軍が自壊して、天下の物資が蕩尽され、、という物語が浮かび上がる。これは「班固が見せたい(見せたがったと思わせたい)世界」である。いちいち地の文に、過剰な修飾や説明をつける。
つまり「王莽は、なぜ異民族の政策にバランスを欠くのか」という問いを立てた時点で、王莽伝の読み方を誤っている。もしくは、班固の見せかけのミスリードに乗りすぎ、つまり「読み方が正しすぎる」のである。


尤誘高句驪侯騶至而斬焉,傳首長安。莽大說,下書曰:「乃者,命遣猛將,共行天罰, 誅滅虜知,分為十二部,或斷其右臂,或斬其左腋,或潰其胸腹,或紬其兩脅。 今年刑在東方, 誅貉之部先縱焉。捕斬虜騶,平定東域,虜知殄滅,在于漏刻。此乃天地羣神社稷宗廟佑助之福,公卿大夫士民同心將率虓虎之力也。 予甚嘉之。其更名高句驪為下句驪,布告天下,令咸知焉。」於是貉人愈犯邊,東北與西南夷皆亂云。

厳尤は、高句麗侯の騶を、誘って斬った。長安に首級を届けた。王莽は大悦した。「匈奴の討伐は成功しないが、高句麗の討伐は成功した。高句麗を下句麗とする。天下に報せろ」と。ここにおいて北方の貉は、いよいよ北辺を侵犯する。東北と西南で、夷族が戦乱をおこしたという。

ぼくは思う。最後の「云」とは「という」だろうけど。記述の最後に、この昔話の最後の「という話があったそうじゃ」という温度は、なんだろう。具体的に書かず、印象でくくっただけだ。けっきょく実証できない。実証できないことは「正しいと見なさない」のが、歴史学の態度だろう。史実には認定されない。ここでは、「厳尤が高句麗侯をだまし討ちにできた」という肯定的な事実を、言っているに過ぎない。過度に王莽の失敗をいう必要がない。匈奴討伐の12軍は失敗したが、それだけだ。


莽志方盛,以為四夷不足吞滅,專念稽古之事,復下書曰:「伏念予之皇始祖考虞帝,受終文祖,在璇璣玉衡以齊七政,遂類于上帝,禋于六宗,望秩于山川,徧于羣神,巡狩五嶽,羣后四朝,敷奏以言,明試以功。 予之受命即真,到于建國五年,已五載矣。陽九之既度,百六之會已過。歲在壽星,填在明堂,倉龍癸酉,德在中宮。觀晉掌歲,龜策告從, 其以此年二月建寅之節東巡狩,具禮儀調度。」

王莽は志が盛んである。四夷を吞滅だけでは満足せず、稽古(故事の研究)に専念した。

ぼくは思う。王莽を批判する観点が、すべて凝縮されている!

「私の祖先である虞舜は、唐堯から天命をもらって、善政をやり、五嶽を巡狩した。私は建国してから5年たつ。天文が良いので、私も(虞舜をマネて)来年2月から東方を巡狩する。礼儀を調度せよ」と。

天文に関する注釈は、上海古籍6141頁。
ぼくは思う。結論は「王莽は東巡の準備を命じた」である。それより前に記された、虞舜がどうの、天文がどうの、というのは、よくある前置きである。べつに王莽の研究成果でない。虞舜の事業は、『尚書』などを読めばそのまま書いてある。天文は、ぼくには分からないが、同時代の者が理解できないほど独創的ではなかろう。『補注』の注釈で、類似性の事例があがっているように。
というわけで、王莽は「故事の研究にかまけて、政事をミスった」という班固の地の文は、蛇足である。王莽を批判するなら、王莽が東巡することの是非を論じるべきだった。四夷についても、四夷が それにしても。天文の解釈は、日常生活からは遊離していないと、意味がない。しかし同時代の教養者のなかに、理解者を見出さなければ、政事につかえない。だから天文や『易経』は、一見すると難解で多義的だが、見る者が見れば、理解できるレベル、でないといえない。べつに神秘的でも何でもない。


羣公奏請募吏民人馬布帛綿,又請內郡國十二買馬,發帛四十五萬匹,輸常安,前後毋相須。 至者過半,莽下書曰:「文母太后體不安,其且止待後。」

群公が提案した(王莽の東巡につかう物資を徴発した)。吏民に人馬・布帛・錦を供出させ、内地の軍国12に馬を買わせ、帛45万匹を出させ、長安に運ばせた。輸送は途切れない。過半が到着した。王莽が下書した。「おばの文母太后が健康でない。輸送を止めろ」と。

ぼくは思う。唐堯=文祖に、漢家の劉氏をなぞらえた。だから王元后は、「文母」なのだ。漢家の母という意味。
ぼくは思う。この徴発は、東巡するためのもの。五嶽を祭るとは、泰山の封禅も含まれるだろう。王莽は封禅をしようとしたが、おばが倒れて、阻止された。というか「王元后が命をかけて、王莽の封禅をジャマした」とも言える。これはコジツケだけど。因果関係の錯誤だけど。

是歲,改十一公號,以「新」為「心」,後又改「心」為「信」。

この歳、11公の爵号を改める。「新」を「心」さらに「信」と置換した。

始建国5年、王元后が死に、洛陽遷都が中止

五年二月,文母皇太后崩,葬渭陵,與元帝合而溝絕之。 立廟於長安,新室世世獻祭。元帝配食,坐於牀下。莽為太后服喪三年。

始建国5年2月、文母皇太后が崩じた。渭陵に葬る。元帝と(同じ司馬門の内に)合葬したが、溝で断絶させる。

ぼくは思う。この矛盾が並記され、宙づりになるところが良い。ユダヤ教の研究書のようだ。矛盾を両論併記して、論争を「開かれた」状態にする。王元后は、漢家の皇后でありつつ、新家の尊属でもあるから、こうなった。王莽は、こういう宙づりに耐えることができる理論家である。だから興味がわく!
掘られた溝は、対象aである。いや、言ってみただけ。

王元后の廟を長安につくり、新室は世よ獻祭する。

ぼくは思う。長安を常安と改名したはずだが、まだ長安がある。長安県? は、都城とはべつにあるのだろうか。それとも漢家の陵墓のあたりは、長安のまま? 混同しやすいが、劉嬰は「定安」国に封じられている。こっちは漢音で「テイアン」と読まねば。「ジョウアン」と読むと、常安と混ざって、地獄がおとずれるのだ。

元帝を配食して、牀下に座させる。王莽は王元后のために服喪3年する。

大司馬孔永乞骸骨,賜安車駟馬,以特進就朝位。同風侯逯並為大司馬。
是時,長安民聞莽欲都雒陽,不肯繕治室宅, 或頗徹之。莽曰:「玄龍石文曰『定帝德,國雒陽』。符命著明,敢不欽奉!以始建國八年,歲纏星紀, 在雒陽之都。其謹繕脩常安之都,勿令壞敗。敢有犯者,輒以名聞,請其罪。」

大司馬の孔永が骸骨をこう。安車駟馬を賜い、特進として朝位につく。同風侯の逯並が大司馬となる。

「逯」は、木へんに「録」のつくり。もしくは木へんに「大」。いずれも同音である。ぼくは思う。いちばん文字ばけしないのは、どれだろう。いずれも頻度が低い漢字だなあ。

このとき長安の民は、王莽が洛陽に都したいと聞いて、室宅の修繕せず、室宅を破壊する者もある。

ぼくは思う。修繕せず破壊する者は、王莽の積極的な支持者である。王莽が天命を改めてくれる。長安を脱出したい。そう思うから、この行動に出た。すべての行動は、欠損か過剰だから(ほどよいことはない)この事件が起きたのだろう。
ぼくは思う。都市は人口を調整する、安全弁らしい。農村の次男や三男が、都市に出稼ぎにゆく。すると、子供を作れずに、不衛生な環境で早死にする。ゆえに前近代、人口は増えすぎない。まあ一理あるか。いま象徴界の王莽を支持するのは、こういうヒステリックな都市の住民だろう。王莽は、農村と折り合いの悪い政治家だ。いや、農村については現状維持しかできないが(井田制の延期など)、都市については大胆に改革できる。まあ都市のほうが惰性が小さいから、1代で変革ができるのだが。

王莽はいう。「玄龍石文は「帝徳を定め、雒陽に国す」とある。符命は著明であるが、あえて(王元后の喪中なので)遷都しないのだ。(服喪が明ける)始建国8年、洛陽に都する予定だ。常安の都を修繕せよ。破壊するな。修繕せず破壊すれば、罪とする」と。

周寿昌はいう。光武帝が洛陽に都を建設する兆しだ。
ぼくは思う。あえて因果関係を取り違えるなら。「もしも王莽が東巡し、天下の中心・洛陽にゆけば、王莽は革命王朝として長らえた。漢家の王元后が、命をかけて阻止した」となる。少なくとも後漢の当局は、この取り違えを確信的にやりたいので、この記事を置いたのだろう。


是歲,烏孫大小昆彌遣使貢獻。大昆彌者,中國外孫也。其胡婦子為小昆彌,而烏孫歸附之。莽見匈奴諸邊並侵,意欲得烏孫心,乃遣使者引小昆彌 使置大昆彌使上。保成師友祭酒滿昌劾奏使者曰:「夷狄以中國有禮誼,故詘而服從。大昆彌,君也,今序臣使於君使之上,非所以有夷狄也。奉使大不敬!」莽怒,免昌官。
西域諸國以莽積失恩信,焉耆先畔,殺都護但欽。

この歳、烏孫の大昆弥と小昆弥から、使者がきて貢献した。大昆弥は中国(漢民族)の外孫である。胡族の婦子が小昆弥となり、烏孫を漢家に帰付させた。匈奴に対抗するため、王莽は烏孫と結びたい。小昆弥の使者を、大昆弥の使者よりも上席におく。保成師友祭酒の満昌は、王莽にいう。「夷狄は中国に礼誼があるから、服従するのだ。大昆弥は君主である。小昆弥の下席においたら、使者に対して不敬である(礼誼に違反する)」と。王莽は怒り、満昌を免官した。

ぼくは思う。大昆弥と小昆弥の関係が、なんだか分からない。なぜ王莽は、大昆弥の協力を求めず、小昆弥の協力を求めたのか。

なんども王莽が恩信を失する。ゆえに西域の諸國は、さきに焉耆が叛き、都護の但欽を殺した。

ぼくは思う。また、ザツな因果関係を、、
大昆弥とその後、どうなったのか。まだ書いていない。ただ満昌を罷免しただけだ。まだ具体的な不利益が分からない。また、焉耆が叛いたのは事実だろうが、それ以外は、過度な一般化のバイアスがかかり、何も分かりゃしない。昆弥とのトラブル(がもし起きていたなら)との因果関係も分からない。事実のみを、淡々と書きましょう。結論ありきで、なんでも印象論でこじつけてはいけません。ぼくが最も苦手なことですw
ぼくは思う。班固の王莽伝は、歴史記述として読んじゃいかんかも。具体例が充実した、学術論文なのだ。ちょっと散文的ではあるが、「いかに王莽がダメか」を論証している。また、この論文をちょっと下手に書くことで、王莽への評価を「開かれた問題」にもしている。ラカンが、あえて難解に書くのと同じである。


十一月,彗星出,二十餘日,不見。 是歲,以犯挾銅炭者多,除其法。
明年改元曰天鳳。

11月、彗星が出た。20余日で消えた。
この歳、銅炭の所持を禁じる法が守られないので、法を除いた。

ぼくは思う。王莽は、わりと現実を見ながら、規則を変えられる。建物の足場は、建物が完成したら撤去される。では足場は不用かと言えば、不用でない。同じように、革命の直後、いちどは理念を開示する手続は、ムダではない。いくら法が除かれても、初めから法を制定しなかったのとは違うはずだ。

明年、天鳳と改元した。130223

ぼくは思う。王元后の死をもって、革命という「過渡期」「非日常」が終わった(ことにしたかった)。これで漢家との接点が消失した。

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天鳳元年、洛陽遷都を延期、地方区画を変更

春、東巡と遷都を6年後に延期

天鳳元年正月,赦天下。
莽曰:「予以二月建寅之節行巡狩之禮,太官齎糒乾肉,內者行張坐臥, 所過毋得有所給。 予之東巡,必躬載耒,每縣則耕,以勸東作。 予之南巡,必躬載耨,每縣則薅,以勸南偽。 予之西巡,必躬載銍,每縣則穫,以勸西成。予之北巡,必躬載拂,每縣則粟,以勸蓋藏。 畢北巡狩之禮,即于土中居雒陽之都焉。敢有趨讙犯法,輒以軍法從事。」 羣公奏言:「皇帝至孝,往年文母聖體不豫,躬親供養,衣冠稀解。因遭棄羣臣悲哀,顏色未復,飲食損少。今一歲四巡,道路萬里,春秋尊,非糒乾肉之所能堪。且無巡狩,須闋大服,以安聖體。 臣等盡力養牧兆民,奉稱明詔。」

天鳳元年正月、天下を赦した。
王莽はいう。「2月から巡狩する。太官は乾肉を用意せよ。

師古はいう。巡狩した先で、食費をかけないためだ。

東南西北を1年でまわり、帰ってきて、土中の洛陽に都する」と。群公はいう。「王莽は高齢であり、おばの看病をして体力が衰えた。乾肉を食べて、1年に4回も巡狩するのはムリだ」と。

莽曰:「羣公、羣牧、羣司、諸侯、庶尹願盡力相帥養牧兆民,欲以稱予,繇此敬聽, 其勗之哉!毋食言焉。更以天鳳七年,歲在大梁,倉龍庚辰,行巡狩之禮。厥明年,歲在實沈,倉龍辛巳,即土之中雒陽之都。」乃遣太傅平晏、大司空王邑之雒陽,營相宅兆,圖起宗廟、社稷、郊兆云。

王莽はいう。「今年の巡狩がダメなら、6年後の天鳳7年に巡狩しよう。つぎの天鳳8年、土中の洛陽に遷都する」と。

ぼくは補う。いま王莽は、60歳ぐらい。その6年後に遷都するという。長生きするつもりなんだ。そして王莽は、その時期も生きている。すごいなあ!

太傅の平晏、大司空の王邑を、洛陽にゆかせる。宗廟、社稷、郊兆の建設予定地を調査させた。

ぼくは思う。光武帝は、王莽のつくった路線に乗ったとわかる。


王莽の臣下たちのエピソード

三月壬申晦,日有食之。大赦天下。策大司馬逯並曰:「日食無光,干戈不戢,其上大司馬印韍,就侯氏朝位。太傅平晏勿領尚書事,省侍中諸曹兼官者。以利苗男訢為大司馬。」

3月壬申みそか、日食あり。天下を大赦した。王莽が、大司馬の逯並に策していう。「日食により光らず、干戈は戦わず。(日食は大司馬にとって不吉なので)逯並は、大司馬の印韍を返上して(官職でなく爵位の資格にて)侯爵として朝廷に出席せよ。太傅の平晏は、領尚書事するな。侍中・諸曹のうち、兼官する者をはぶけ。利苗男の苗訢を(逯並の後任の)大司馬とせよ」と。

ぼくは思う。よくわからん、命令である。まず逯並は、日食を理由に(儒家的には)辞めさせるべきだが、過失がないので、侯爵としてもとの立場を守らせた。平晏の権限を削ったのは、洛陽の調査に専心させるためか。
如淳はいう。利苗は食邑の地名。ちくま訳はいう。「利苗の男爵である苗訢」というと「苗」の文字がダブルカウントである。「利?の男爵である苗訢」が正しいか。


莽即真,尤備大臣,抑奪下權,朝臣有言其過失者,輒拔擢。孔仁、趙博、費興等以敢擊大臣,故見信任, 擇名官而居之。公卿入宮,吏有常數,太傅平晏從吏過例,掖門僕射苛問不遜, 戊曹士收繫僕射。 莽大怒,使執法發車騎數百圍太傅府,捕士,即時死。

王莽が真皇帝になってから、大臣が下権を抑奪することに備え、大臣の過失をチクったものを(ただちに)拔擢した孔仁、趙博、費興らは、あえて大臣をチクったので、王莽に信任され、名官に抜擢された。

ぼくは思う。これも王莽なりの「公正さ」なのか。王莽は、罪をおかせば自分の子すら殺したから。また、大臣を抑制することで、臣下が内部で分断され、王莽の権力が強化されるという結果もまねく。

公卿が入宮するとき、吏(従える部下)には定数がある。太傅の平晏は、定数より多くの吏をつれた。掖門僕射が平晏をとがめた。(平晏の配下の)戊曹士が(平晏にたてついた)僕射を收繫した。王莽は大怒して、車騎の数百人に太傅府をかこませ、戊曹士を捕らえて殺した。

応劭はいう。王莽は自ら土行(土=戊)なので、太傅に戊曹士をおく。「士」とは掾のこと。蘇林はいう。「士」とは曹掾であり、公府に属する。諸曹次第の名である。
ぼくは思う。平晏がつけあがったので、王莽が牽制した事例でした。


大司空士夜過奉常亭,亭長苛之,告以官名,亭長醉曰:「寧有符傳邪?」 士以馬箠擊亭長, 亭長斬士,亡,郡縣逐之。家上書, 莽曰:「亭長奉公,勿逐。」大司空邑斥士以謝。國將哀章頗不清,莽為選置和叔, 敕曰:「非但保國將閨門,當保親屬在西州者。」諸公皆輕賤,而章尤甚。

大司空士(大司空の王邑の属吏)が、夜に奉常亭を過ぎた。亭長が通行をとがめた。亭長は酔っており。「符傳を持っているか」と確認した。大司空士は、馬箠で亭長を撃った。亭長は(ムチで撃たれた報復に)大司空士を斬って郡県に逃亡した。(逃亡を受け入れた)亭長の家の者が、王莽に報告した。王莽はいう。「亭長は公のために働いた。追うな」と。大司空の王邑は、大司空士を斥けて謝った。

ぼくは思う。大司空の王邑の属吏が、権力をかさにきた行動をするのを「正しくない」と判定した事例でした。後漢の外戚権力も同じだが、取り巻きがつけあがるのだ。

國將の哀章は、不清である。王莽は「和叔」の官を選任して設置した。「国相は城門を守るだけが仕事でない。西州にいる親属を守るのも仕事である」と。諸侯はみな賎者を軽んじたが、哀章がもっともひどい。

師古はいう。特別に「和叔」の官を設置した。
沈欽韓はいう。王莽は国将に、北嶽(北方の国境)をまかせた。和叔は朔北にいて、国将の副官となる。のちに太師羲仲の景尚、太傅羲叔の士孫喜、国師和仲の曹仲は、四輔の属官となる。いずれも『虞書』に基づいて設置された。
胡三省はいう。王莽は国将に冬をつかさどらえる。ゆえに和叔の官をおく。
銭大昭はいう。「西州にいる親属」とはなにか。哀章は広漢の梓潼の人である。ゆえに西州という。
ぼくは思う。哀章は、担当である北方を守り、いばってはいけない。もし哀章の勤務態度が悪ければ、哀章の家属が(怨恨により)損害をうける。という王莽から哀章への、個人的なお説教だろうか。べつに国将が、益州の広漢を、職務上で守備するという意味でないだろう。


夏、王莽が地方の行政区分をいじる

四月,隕霜,殺木, 海瀕尤甚。 六月,黃霧四塞。七月,大風拔樹,飛北闕直城門屋瓦。 雨雹,殺牛羊。

4月、霜がおりて木を枯らした。海瀕でひどい。6月、黄霧が四塞した。7月、大風で樹がぬける。北闕で直城門の屋瓦が飛んだ。雹がふり、牛羊が死んだ。

ぼくは思う。冷夏なのね。


莽以周官、王制之文,置卒正、連率、大尹,職如太守;屬令、屬長,職如都尉。置州牧、部監二十五人。見禮如三公。監位上大夫,各主五郡。公氏作牧,侯氏卒正,伯氏連率,子氏屬令,男氏屬長,皆世其官,其無爵者為尹。

王莽は『周官』と『王制』にもとづき、卒正、連率、大尹をおく。いずれも太守と同じ。

胡三省はいう。『王制』はいう。30国に卒がおり、卒には正がある。10国に連がおり、連には卒がある。

属令、属長をおく。いずれも都尉と同じ。
州牧をおく。州牧の儀礼は三公と同じ。郡監を25人おく。郡監は大夫より上位で、それぞれ5郡をつかさどる。

ぼくは補う。王念孫に従い、意味がとおるように、原文の順序を入れ替えました。州牧と郡監についての叙述が混ざっていた。というか郡監は「部監」と誤記されており、意味をなさない。「其礼」が「見礼」と誤記されている。
『漢書』王莽伝の後ろで、州牧が三公なみであり、「郡監25人*5郡=天下125郡」という数式もツジツマがあう。『漢紀』はいう。州牧の礼は三公とおなじ。郡監25人は、大夫の上位。それぞれ5郡をつかさどると。
ぼくは思う。ゴチャゴチャ書いたが。ぼくの抄訳に反映してます。

公爵を州牧、侯爵を卒正、伯爵を連率、子爵を屬令、男爵を屬長として、みな官職を世襲させる。男爵より下なら、大尹とする。

ぼくは思う。もし男爵より上の者が、地方長官になったら、その地方を世襲できる。つまり貴族制である。部監は、皇帝に直属の監察官だろう。行政官でなさそう。行政官は、公爵は州牧、侯と伯は郡太守、子と男は県令長である。このように5等爵をわりふり、ほぼ「領国」のように世襲させた。
ツイッター用まとめ。王莽の貴族制。男爵以上の者が、州郡県の長官になったら、その官職を世襲できる(王莽伝中の天鳳元年)。これって、いわゆる「貴族制」だ。あたかも領国の君主のように、割拠できるのだから。もし莽新が世代を重ねたら、まったく違う歴史になった。周代みたいに封建諸侯が並立したのかな。
ぼくは思う。新末後漢初、各勢力が皇帝や王を自称して、並立する。自称したことにより、「不遜で無謀なやつめ」と言われ、威信が失墜することはない。王莽が、周末に春秋時代が始まるような風土を、あらかじめ作ったからだろうか。光武帝が戦ったのは戦国時代であり、秦始皇帝みたいに武力で統一したのだ。


分長安城旁六鄉,置帥各一人。分三輔為六尉郡, 河東、河內、弘農、河南、潁川、南陽為六隊郡, 置大夫,職如太守;屬正,職如都尉。更名河南大尹曰保忠信卿。益河南屬縣滿三十。置六郊州長各一人,人主五縣。及它官名悉改。大郡至分為五。郡縣以亭為名者三百六十,以應符命文也。緣邊又置竟尉,以男為之。 諸侯國閒田,為黜陟增減云。

長安のそばを6郷として、帥を1人ずつおく。三輔をわけて、6尉郡とする。

『三輔黄図』による、郡県の改名や編成について、上海古籍6148頁。

河東、河内、弘農、河南、潁川、南陽の6つは隊郡として、大夫(太守)と属正(都尉)をおく。河南大尹を「保忠信卿」とする。河南の属県を30に増やす。

周寿昌はいう。これは『周官』にもとづく変更である。鄭玄の注釈もつく。上海古籍6148頁。6隊とは6「遂」のこと。はぶきます。

6郊に州長を1人ずつおき、5縣をつかさどる。

劉奉世はいう。これも『周官』にもとづく。州牧は『虞書』にもとづくが、州長は『周官』にもとづく。
ぼくは思う。もう、何のこっちゃ、と思う。郡県のうち、とくに変遷が複雑なのは、長安と洛陽のまわりだ。君主の近辺の地域を、どのように認識するかというのが、主要な関心事である。ぎゃくにいうと、周囲は置いてきぼりである。

大郡は5つに分割する。郡県のうち亭が改名されたのは、360である。符命の文に応じて、改名された。

銭大昭はいう。王莽は郡県を改名した。『地理志』に記されるが、郡の記述が足りない。王莽伝には、翼平連率の田況、夙夜連率の韓博、寿良卒正の王コウがでてくる。翼平とは、北海の寿光県である。夙夜とは、東莱の不夜県である。寿良とは、東郡の県である。これは、北海から翼平郡を分けて、東郡から夙夜郡をわけて、東郡から寿良郡を分けている。
『後漢書』邳彤伝にひく『東観記』はいう。王莽は鉅鹿を分けて和成郡をつくる。郡治は曲陽である。地理志は全てを記さないと。河南の滎陽を祈隧としたと、王莽伝にある。汝南を分けて賞都郡をおく。地理志にある。

辺境には竟尉をおき、男爵が相当する。

ぼくは思う。これが日本史の「官位相当表」の世界なのね。

諸侯國の間田は、黜陟(人事考課)により増減したという。

ぼくは思う。また班固さんが、伝聞の口調だよ。


莽下書曰:「常安西都曰六鄉,衆縣曰六尉。義陽東都曰六州,衆縣曰六隊。粟米之內曰內郡, 其外曰近郡。有鄣徼者曰邊郡。合百二十有五郡。九州之內,縣二千二百有三。公作甸服,是為惟城;諸在侯服,是為惟寧;在采、任諸侯,是為惟翰; 在賓服,是為惟屏; 在揆文教,奮武衞,是為惟垣;在九州之外,是為惟藩: 各以其方為稱,總為萬國焉。」

王莽は下書した。「常安(長安)は西都であり、6郷という。周囲の県を6尉という。義陽(宜陽、洛陽)は東都であり、6州という。周囲の県を6隊という。

ぼくは思う。2つの都があり、2つの畿内がある!

粟米を長安に運べる範囲を内郡とし、その周囲を近郡とする。鄣徼する郡は邊郡とする。合計で125郡ある。9州の内には、2203県ある。
公は甸服とし、「惟城」とする。侯服は「惟寧」とする。采服や任服(男服)と諸侯は「惟翰」とする。賓服は「惟屏」とする。揆文教、奮武衞にあれば「惟垣」とする。9州の外は「惟藩」とする。

ぼくは思う。えー、わかりません。『禹貢』にある、同心的な正方形を、じっさいの莽新の領土にあてはめています。『禹貢』を読んで、出直さねば。該当する『禹貢』の記事は、こちら。ただ距離ごとに名づけているだけで、内容がなさそう。これは固有名詞と同じで、「わかる」ものでなく「きめる」だけのものか。
『禹貢』はいう。五百里甸服:百里賦納總,二百里納銍,三百里納秸服,四百里粟,五百里米。 五百里侯服:百里采,二百里男邦,三百里諸侯。 五百里綏服:三百里揆文教,二百里奮武衛。 五百里要服:三百里夷,二百里蔡。 五百里荒服:三百里蠻,二百里流。


其後,歲復變更,一郡至五易名,而還復其故。吏民不能紀,每下詔書,輒繫其故名,曰:「制詔陳留大尹、太尉:其以益歲以南付新平。 新平,故淮陽。以雍丘以東付陳定。陳定,故梁郡。以封丘以東付治亭。治亭,故東郡。以陳留以西付祈隧。祈隧,故滎陽。陳留已無復有郡矣。大尹、太尉,皆詣行在所。」其號令變易,皆此類也。

1年で5回も改名した郡があった。吏民は記録できず、詔書には旧名がカッコ書きされた。陳留の事例など。はぶく。

単于が代替わりし、益州の蛮夷が叛く

令天下小學,戊子代甲子為六旬首。冠以戊子為元日, 昏以戊寅之旬為忌日。 百姓多不從者。

天下の小学に、甲子でなく戊子から、六旬(60日)を数えろという。戊子を元旦として、みそかの戊寅を忌日とした。だが百姓は従わない。

周寿昌はいう。王莽がつくった『王光暦』を適用させようとした。
銭大昭はいう。戊寅の10日間には、「子=ネ」がない。子孫が増えなくて不吉だから、(結婚すべきでない)忌日としたのだ。何焯はいう。王莽は土徳なので、戊子(戊=土)から60日を起算させようとした。戊寅は、枝が幹に勝つから、忌日とした。


匈奴單于知死,弟咸立為單于,求和親。莽遣使者厚賂之,詐許還其侍子登,因購求陳良、終帶等。單于即執良等付使者,檻車詣長安。莽燔燒良等於城北,令吏民會觀之。

匈奴の単于である知が死に、弟の咸が単于となる。匈奴から、莽新に和親を求めた。王莽は使者をやり、匈奴の使者を厚賂した。王莽は「匈奴の登を返還するから、莽新の陳良と終帯を返還してほしい」という。単于は、陳良と終帯を、檻車で長安に返還した。王莽は(せっかく匈奴から返還してもらった)陳良らを、長安の城北で焼き殺して、吏民に見せた。

ぼくは思う。王莽の行動の理由がわからない。「匈奴につかまりやがって」という処罰だろうか。また匈奴に、きちんと人質の登を返却したのか、書いてない。本文では「詐って返還を許した」とあるから、王莽は人質を帰さずに終わらせたか。
ああ!すでに王莽は、匈奴の登を殺したあとだったのか。それにしては、せっかく返還された陳良らを、殺さなくても良さそうなのに。
どういう条件で、何をしようとしたのか、よくわからん。なにか政治的な意図があったのに、意図の合理性が見えないように、班固が情報を断片化したんじゃないのか。「詐って」の一語で、なんだか邪悪な作戦をやり、かつ失敗したように見せた?


緣邊大飢,人相食。諫大夫如普行邊兵, 還言「軍士久屯塞苦,邊郡無以相贍。今單于新和,宜因是罷兵。」校尉韓威進曰:「以新室之威而吞胡虜,無異口中蚤蝨。臣願得勇敢之士五千人,不齎斗糧,飢食虜肉,渴飲其血,可以橫行。」莽壯其言,以威為將軍。然采普言,徵還諸將在邊者。免陳欽等十八人,又罷四關填都尉諸屯兵。會匈奴使還,單于知侍子登前誅死,發兵寇邊,莽復發軍屯。於是邊民流入內郡,為人奴婢,乃禁吏民敢挾邊民者棄市。

匈奴の討伐軍は、辺境で飢えた。諫大夫の如普が「もう匈奴の討伐はムリです」という。だが校尉の韓威が「まだ頑張れます」という。王莽は韓威を将軍とした。(もとの討伐軍をひきいて失敗した)陳欽ら18人を免じた。四關の守備兵をやめて(匈奴討伐の)都尉の屯兵に補填した。

ちくま訳では、「填都尉と諸屯兵をやめた」とある。これが正しいのなら、すぐに修正します。「填都尉」なんて、ないと思うんだけどなあ。

たまたま匈奴の使者が、単于のもとに帰還した。「人質の登は、すでに王莽に殺されていた」と知った。単于は辺境を寇した。王莽はまた軍屯を発した。辺境の民が(戦乱を嫌って)内郡に流入した。流入した者が奴婢となった。王莽は、奴婢にするのを禁じた。

益州蠻夷殺大尹程隆,三邊盡反。遣平蠻將軍(馬)〔馮〕茂將兵擊之。

益州の蠻夷が、大尹の程隆を殺した。3方面の辺境が、すべて反した。平蠻將軍の馬茂に、益州の蛮夷を攻撃させた。130223

馬茂は、馮茂とも記される。
ぼくは思う。「3方面の辺境が、すべて」という記述、蛇足だよね。異民族の政策も、地方の行政区分をいじる仕事と、連続した仕事として捉えるべきだろう。国内では名称をいじり、国外では異民族を帰服させられないと。「だから王莽に天命がない」と言いたいのだろうが。異民族が帰服しない点では、後漢と同じ。
ぼくは思う。君主には2つの称号がある。天を祭り、異民族と外交する「天子」。国内に号令する「皇帝」。王莽伝の場合、「異民族との外交が下手だから、王莽に天命がなかった」と、班固が主張したいのだろうか。「君主であれば、かくあるべし」の反例を示す(ふりをする)ことで、王莽に天命がないことを強調した(ことになる)のだ。
国内の混乱は、一過性のもの。また、畿内の近辺だけである。「地名をもてあそぶから、莽新が滅びた」というのは、あまりに短絡的である。班固も、そこまで言おうとは思ってないだろう。傍証の1つね、くらいだ。
ぼくは思う。三国志を自分なりに読むなら、王莽の読解は必須(という確信が今月の作業で持てた)。三国ファンのうち、班固の提示する(実は班固自身も納得してなさそうな)王莽像をカッコに入れ、王莽を吟味した人って少なそう。東晋次先生と渡邉義浩先生に続き、日本人が通読できる第3の王莽の伝記をまとめたい。

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天鳳2年、匈奴と和親し、君主権力が確立

春、単于に使者して和親ができる

寧始將軍侯輔免,講易祭酒戴參為寧始將軍。 二年二月,置酒王路堂,公卿大夫皆佐酒。 大赦天下。 是時,日中見星。 大司馬苗訢左遷司命,以延德侯陳茂為大司馬。
訛言黃龍墮死黃山宮中,百姓犇走往觀者有萬數。莽惡之, 捕繫問語所從起,不能得。

寧始將軍の侯輔を免じた。講易祭酒の戴参を、寧始將軍とした。
天鳳2年2月、王路堂で置酒した。公卿・大夫は、みな佐酒した(行酒を助けた)。天下を大赦した。このとき、日中に星が見えた。

ぼくは思う。星の意味が、『補注』にない。

大司馬の苗訢を、司命に左遷した。延德侯の陳茂を大司馬とした。
「黄龍が黄山の宮中で墜落して死んだ。百姓は1万が見物した」と訛言がある。王莽は「見物した者を捕繫しろ」というが、だれが見物したのか、特定できなかった。

師古はいう。王莽は黄徳だから、黄龍の墜落がイヤだ。


單于咸既和親,求其子登屍,莽欲遣使送致,恐咸怨恨害使者,乃收前言當誅侍子者故將軍陳欽,以他辠繫獄。欽曰:「是欲以我為說於匈奴也。」 遂自殺。莽選儒生能顓對者 濟南王咸為大使,五威將琅邪伏黯等為帥,使送登屍。敕令掘單于知墓,棘鞭其屍。

単于の咸は「子の登の、死体を返せ」という。王莽は将軍の陳欽を自殺させた。かつて陳欽は「匈奴の人質を殺せ」と王莽に建議したので、匈奴の登を殺した責任を負わされた(王莽は単于に対して誠意を繕った)。

ぼくは思う。陳欽にとっては、やりきれない。「確かに私が建言したが、採用したのは王莽じゃねえか」と。だが、莽新の全体としては、陳欽だけをスケープゴートにすれば、外交がうまくいく。冷徹だが正しい政治判断だろう。

王莽は問答のうまい儒生を、匈奴の使者にした。 濟南の王咸を大使とし、五威將する琅邪の伏黯らを帥として、匈奴の登の死体を単于に返した。(王莽が単于に命じて)前の単于である知の死体に、ムチをうたせた。

ぼくは思う。なんだか班固さん、故意に支離滅裂に書いてるだろ、と思えてくる。きっと王莽は「莽新と和解したければ、単于は、莽新に叛いた前の単于(いまの単于の父)の死体をムチうて」と命じた。王莽はこのような理不尽な要求をするから、せっかく和解しそうな匈奴と、また対立してしまうのだ。と言いたいのか。んな、バカな。
つぎの記述で判明するのだが、王莽は匈奴との和親に成功している。国境から盗賊がいなくなる。これって、成功じゃん。「国境が小康状態になる」というのは、漢代で最も評価される成果じゃん。
ツイッター用まとめ。天子の仕事は2つ。祭天と外交。班固の王莽伝は「異民族との外交が下手だから、王莽には天を祭る資格がない」と主張するために記された(結論ありきの)論文に見える。王莽の外交が、過剰に支離滅裂に記されている。班固の地の文に撹乱されがちだが、事実だけ追えば、王莽の外交は少なくとも漢代なみ。


又令匈奴卻塞於漠北,責單于馬萬匹,牛三萬頭,羊十萬頭,及稍所略邊民生口在者皆還之。莽好為大言如此。咸到單于庭,陳莽威德,責單于背畔之辠,應敵從橫,單于不能詘,遂致命而還之。入塞,咸病死,封其子為伯,伏黯等皆為子。

王莽は匈奴を漠北に閉め出したい。単于に、馬牛羊を要求し、辺境の生口を返還させた。王莽が大言を好むのは、このようであった。

ぼくは思う。でました。過剰にザツな総括。ほのめかし。

使者の王咸は、単于に王莽の威德を説いた。単于は反論できない。王咸は帰国したが、病死した。王咸の子を伯爵として、伏黯らを子爵とした。

ぼくは思う。単于の子である登を殺したが、チャラになった。外交の使者は成功した。だから王莽は、伯爵をあげた。めでたし、めでたし、である。


制度の研究で遊ぶ/君主権力の確立

莽意以為制定則天下自平,故銳思於地里,制禮作樂,講合六經之說。公卿旦入暮出,議論連年不決,不暇省獄訟冤結民之急務。縣宰缺者,數年守兼, 一切貪殘日甚。

王莽は、制度さえ整備すれば、天下はおのずと平らぐと思った。ゆえに地理、礼楽、六経を研究した。

ぼくは思う。みなの王莽観はこれだ。すくなくとも東晋次先生の『王莽』は、これを骨格にして、研究成果を肉づけしたものだった。「儒家の理想に憑かれた男」が副題だったので。だがぼくが思うに、これだけ明白に、班固が王莽観を宣言してくれるのだから。ぎゃくに、この観点を除去すれば、べつに「可能王莽」が出てくる(「可能世界」と同じ用法の「可能」ですw)。

公卿が朝から晩まで何年も議論しても、結論がでない。いそぎの訴訟や行政がとまる。県宰が欠員しても、県宰のポストが数年も守兼された。日に日に貪欲で無惨な統治をした。

師古はいう。正官を拝さず、兼務した者が権限を代行した。
ぼくは思う。まず「結論がでない」のは、良いことでしょ。王莽は「改革者」だから。どこまで訴訟や行政を止めたかは、それこそ帰納的に検討すべきだが。班固は、そこまで書いていない。「漢家に比べると煩雑だが、移行期の混乱としては通常のレベル」ではなかろうか。知らんけど。ぼくも印象で語ってるので、信憑性が同レベルなんだけど。
ぼくは思う。正官が任命されないから、貪欲で無惨になったって。因果関係が、成立してないじゃん。というかそれは、王莽のせいなのか。もとは漢家の官僚だった者が、横滑りして、百姓を苦しめているだけじゃん。ていうか、ほんとうに苦しめたのか?これも帰納的に議論しないと、まったく生産性がない。


中郎將、繡衣執法在郡國者,並乘權勢,傳相舉奏。又十一公士分布勸農桑,班時令,案諸章,冠蓋相望,交錯道路,召會吏民,逮捕證左,郡縣賦斂,遞相賕賂,白黑紛然, 守闕告訴者多。莽自見前顓權以得漢政,故務自衆事, 有司受成苟免。 諸寶物名、帑藏、錢穀官,皆宦者領之; 吏民上封事書,宦官左右開發,尚書不得知。其畏備臣下如此。

中郎將、繡衣執法は、郡国にいて、権勢に乗じて挙奏しあう。

ぼくは思う。これも王莽のせいなのか?「統治に失敗すると、こんな悪い時代が訪れます」という、ステレオタイプであろう。後漢の桓帝や霊帝のときだって、この定型句で語られた。帰納的に出した結論でなく、さきに結論ありきの演繹法なのだ。

11公士は、各地に分布して、農桑を進め、時令を班し、諸章を案じた。冠は相望を蓋い、道路を交錯し、吏民を召會し、證左を逮捕し、郡縣は賦斂し、賕賂を遞相した。白黒(清濁)は紛然とする。訴訟する者もおおい。

胡三省はいう。漢代の三公府には掾属がいた。王莽は11公をおき、掾を「士」とした。ぼくは補う。つまり公の属官たちが、全国で統治をやっているのだ。
ぼくは思う。何のひねりもなく、「11公の属官が仕事しました」としか言ってないよね。善政もあり、汚職もあり。ふつうじゃん。「清濁が紛然」と班固が書いている時点で、必ずしも「王莽=暗黒史観」ではない。きっと班固の時代、王莽の当事者たちの子や孫が残っている。王莽の行動は悪く書いても、群臣の行動を悪く書けば、不快に感じる者もあるだろう。だから、なんだかよく分からないように、わざとグチャグチャとしてある。

王莽がすべてを決裁した。宝物等の経済財は、宦官が管理した。吏民が封書して、宦官から王莽にとどくので、尚書は内容を関知できない。王莽が臣下を「畏備」するのは、以上のようである。

ぼくは思う。これって「皇帝の親政」が強まった形態だ。ふつうに起こることだ。皇帝が、宦官を手足のように使って独裁する。これは後漢の霊帝である。群臣の上層を牽制して、下級の官僚にチクらせる。これは孫権らの校事である。臣下を「畏備」するというが、これって普通の皇帝権力じゃん。
班固は、意図せずに(と見えるように意図的に)王莽の君主権力が、きちんと確立したことを説明した。冒頭で、王莽が儒教の研究ばかりやって、遊んでいるように見せながら。統治活動は活発化しており、王莽の権力も揺るぎない。


又好變改制度,政令煩多,當(奏)〔奉〕行者, 輒質問乃以從事, 前後相乘,憒眊不渫。 莽常御燈火至明,猶不能勝。尚書因是為姦寢事,上書待報者連年不得去,拘繫郡縣者逢赦而後出,衞卒不交代三歲矣。穀常貴,邊兵二十餘萬人仰衣食,縣官愁苦。 五原、代郡尤被其毒,起為盜賊,數千人為輩,轉入旁郡。莽遣捕盜將軍孔仁將兵與郡縣合擊,歲餘乃定,邊郡亦略將盡。

王莽は、制度の変改を好み、政令は煩多である。問合せの使者が連なり、決裁が進まない。王莽は徹夜するが、仕事が追いつかない。

ぼくは思う。これって、諸葛亮と同じタイプの「精神病」である。

尚書は姦悪であり、報告を握りつぶすので、上書の返事を待つ者が滞留する。郡県に拘繋された者は(判決が届かないので)大赦まで出られない。

ぼくは思う。

衞卒は3年も交替がない。
穀物が高騰し、辺境の兵20余万は衣食がくるしい。五原と代郡がひどい。盗賊が数千になり、辺境の郡にでる。王莽は、捕盜將軍の孔仁と郡県の兵に、盗賊を攻撃させた。1年余で平定された。だが辺境の郡では(盗賊の討伐がちょっと遅かったので)すべてが略奪されそう。

ちくま訳は「ほぼ盗賊がいなくなった」とある。「辺郡もまた略し、将に尽くさんとす」だが、何が尽くされたんだろう。盗賊が一掃されたのか、盗賊が財物を一掃したのか。
ぼくの抄訳の内容であれば、盗賊は、盗むものが尽きたから、盗むのをやめた、という程度の意味になる。生まれながらの盗賊はおらず、ふつうの生活者が盗賊になる。「攻撃」の意味も、あいまいになるだろう。
ぼくは思う。辺郡は、よくバカを見る。べつに莽新に限らず、漢代もしかり。地方の末端は、惰性がつよい。前漢の負債が継続して積もっているだけ。


邯鄲以北大雨霧,水出,深者數丈,流殺數千人。 立國將軍孫建死,司命趙閎為立國將軍。寧始將軍戴參歸故官,南城將軍廉丹為寧始將軍。

邯鄲より北で、雨霧がひどい。洪水があり、水深は数丈。数千人が死んだ。
立國將軍の孫建が死んだ。

ぼくは思う。王莽の軍事活動で、いちばん信頼できそうな将軍だったのに。王莽はこのあと、呂母と戦わねばならない。勝てるかなあ。

司命の趙閎が、立國將軍となる。寧始將軍の戴參は、もとの官職にもどる。南城將軍の廉丹が、寧始將軍となる。130223

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天鳳3年、給与を支払い、句町・西域と戦う

春夏、給与支払の制度を施行

三年二月乙酉,地震,大雨雪, 關東尤甚,深者一丈,竹柏或枯。大司空王邑上書言:「視事八年,功業不效,司空之職尤獨廢頓,至乃有地震之變。願乞骸骨。」莽曰:「夫地有動有震,震者有害,動者不害。春秋記地震,易繫坤動,動靜辟脅,萬物生焉。 災異之變,各有云為。天地動威,以戒予躬,公何辜焉,而乞骸骨,非所以助予者也。使諸吏散騎司祿大衞脩寧男遵諭予意焉。」

天鳳3年2月乙酉、地震と大雪。大司空の王邑が上言した。「私は8年も大司空をしたが、地震が起きた。辞職したい」と。
王莽はいう。「王邑は悪くない。地震も悪くない。『春秋』は地震を記す(孔子サマは地震を忌避しない)。『易経』には「動」から生命が生まれるとある。諸吏散騎司祿大衞・脩寧男の遵は、私の意図を王邑に伝えろ」と。

ぼくは思う。王莽は王邑にあまい。『春秋』と『易経』で照れ隠しをしているが。王莽は古典に通じつつも、現実に対応した使い方をする人である。「理想に取り憑かれた」というのは、ちょっと言い過ぎ。


五月,莽下吏祿制度,曰:「予遭陽九之,百六之會,國用不足,民人騷動,自公卿以下,一月之祿十緵布二匹, 師古曰:「緵音子公反。」 或帛一匹。予每念之,未嘗不戚焉。今會已度,府帑雖未能充,略頗稍給,其以六月朔庚寅始,賦吏祿皆如制度。」四輔公卿大夫士,下至輿僚,凡十五等。僚祿一歲六十六斛,稍以差增,上至四輔而為萬斛云。

5月、王莽は吏禄の制度(給与支払の制度)を下した。6月ついたち庚寅から、給与を支払うからねと。

ぼくは思う。王莽は革命して8年も、官僚に正規の給料を払っていなかったのか!

四輔、公卿、大夫、士は、15等級の給与テーブルがある。1等級あたり66石で、差をつけ増えてゆく。最上の四輔は、1万石である。

莽又曰:「『普天之下,莫非王土;率土之賓,莫非王臣。』 蓋以天下養焉。周禮膳羞百有二十品,今諸侯各食其同、國、則; 辟、任、附城食其邑; 公、卿、大夫、元士食其采。 多少之差,咸有條品。歲豐穰則充其禮, 有災害則有所損,與百姓同憂喜也。其用上計時通計,天下幸無災害者,太官膳羞備其品矣;即有災害,以什率多少而損膳焉。東嶽太師立國將軍保東方三州一部二十五郡;南嶽太傅前將軍保南方二州一部二十五郡;西嶽國師寧始將軍保西方一州二部二十五郡;北嶽國將衞將軍保北方二州一部二十五郡;大司馬保納卿、言卿、仕卿、作卿、京尉、扶尉、兆隊、右隊、中部左洎前七部; 大司徒保樂卿、典卿、宗卿、秩卿、翼尉、光尉、左隊、前隊、中部、右部,有五郡;大司空保予卿、虞卿、共卿、工卿、師尉、列尉、祈隊、後隊、中部洎後十郡; 及六司,六卿,皆隨所屬之公保其災害,亦以十率多少而損其祿。郎、從官、中都官吏食祿都內之委者,以太官膳羞備損而為節。 諸侯、辟、任、附城、羣吏亦各保其災害。幾上下同心, 勸進農業,安元元焉。」
莽之制度煩碎如此,課計不可理,吏終不得祿,各因官職為姦,受取賕賂以自共給。

王莽はいう。「給与の金額は、こうやって決めるよ。災害のときは減らすよ。生産管理の管轄は、この範囲だよ。以上のような計算方法を理解して(給与が減らないように)勧農せよ」 と。
王莽の制度は、このように煩瑣であるから、計算もむずかしい。官吏は秩禄をもらいそびれた。官職にある者は、給与未払のために姦悪となった。埋め合わせのため、賄賂を欲しがった。

ぼくは思う。班固は「歴史を私作している」と告発され、のちに後漢の史官になった。最後のザツなコメントが、史官になってから付け足したものだろう。
ぼくは思う。給与で足りない分を、賄賂(やチップ)で補うのは、「日本にはその風習がないが、外国では普通にあること。とくに中国では」と言われる。正しいのか誤りなのか知らん。王莽に特有でなかろう。班固は一般論だから付け足せた。
先生に「歴史性」について教わった。「古今東西、どこにでも言える」ことには、歴史性がない。そのテーマをやる必然性がない。要請がない。この題材だから言えることに、こだわりなさいと。班固の「給与に不満があるから、賄賂をとった」は、歴史性がない。その前の、ぼくが抄訳を放棄した部分に「歴史性」がある。班固の「私作」した部分だろう。
上海古籍6156頁に注釈あり。


是月戊辰,長平館西岸崩,邕涇水不流,毀而北行。 遣大司空王邑行視, 還奏狀,羣臣上壽,以為河圖所謂「以土填水」, 匈奴滅亡之祥也。乃遣并州牧宋弘、游擊都尉任萌等將兵擊匈奴,至邊止屯。

5月戊辰、長平館(長平観)の西岸が崩れた。涇水が流れず、北に蛇行する。大司空の王邑に、状況を報告させた。群臣は「河図がでた。土が水を填めると。匈奴が滅亡する前兆である。并州牧の宋弘、游擊都尉の任萌らに、匈奴を攻撃させよう」という。辺境に駐屯した。

秋冬、句町を破り、西域で敗れる

七月辛酉,霸城門災,民間所謂青門也。 戊子晦,日有食之。大赦天下。復令公卿大夫諸侯二千石舉四行各一人。 大司馬陳茂以日食免,武建伯嚴尤為大司馬。

7月辛酉、霸城門がもえた。民間のいう青門である。

師古はいう。『三輔黄図』にでてくる。色が青いから、青門という。

7月戊子みそか、日食あり。天下を大赦した。公卿・大夫・諸侯・二千石に、四行する者を1名ずつ挙げさせた。

師古はいう。「四行」とは、漢代の光禄の四科である。劉奉世はいう。徳行、言語、政事、文学である。べつに光禄を復活したのでなく、王莽がふたたび命令したのだ。

大司馬の陳茂を、日食のために免じた。武建伯の嚴尤を大司馬とする。

ぼくは補う。厳尤は、光武帝が挙兵して、昆陽で戦うときに、王莽の司令官として出てくる。もうすぐ光武帝が出てくる。如淳はいう。厳尤は、王莽の伯爵である。ぼくは思う。『三国志』では、官職と出身地をつけるが、『漢書』王莽伝では、名前の前に爵位もつける。爵制が、後漢や三国よりも、活発に政事に用いられたのだろう。


十月戊辰,王路朱鳥門鳴,晝夜不絕,崔發等曰:「虞帝闢四門,通四聰。門鳴者,明當修先聖之禮,招四方之士也。」於是令羣臣皆賀,所舉四行從朱鳥門入而對策焉。

10月戊辰、王路の朱鳥門が鳴った。崔發らはいう。「虞帝は4門を開き、四聡を通した。門が鳴ったのは、先聖之禮のように、四方之士を招けというサインだ」と。羣臣に祝賀させ、四行する者を朱鳥門から長安に入れ、意見を提出させた。

ぼくは思う。王朝が隆盛にむかっている!符命や怪異において、めでたいことばかり。また、めでたさを挫くような反例がない。


◆益州の異民族(句町)との戦い

平蠻將軍馮茂擊句町,士卒疾疫,死者什六七,賦斂民財什取五,益州虛耗而不克,徵還下獄死。更遣寧始將軍廉丹與庸部牧史熊擊句町,頗斬首,有勝。莽徵丹、熊,丹、熊願益調度,必克乃還。復大賦斂,就都大尹馮英不肯給,上言「自越巂遂久仇牛、同亭邪豆之屬反畔以來,積且十年, 郡縣距擊不已。續用馮茂,苟施一切之政。僰道以南,山險高深,茂多敺眾遠居, 費以億計,吏士離毒氣死者什七。 今丹、熊懼於自詭期會, 調發諸郡兵穀,復訾民取其十四, 空破梁州,功終不遂。 宜罷兵屯田,明設購賞。」莽怒,免英官。後頗覺寤,曰:「英亦未可厚非。」復以英為長沙連率。

平蠻將軍の馮茂は、句町を攻撃するが、損害と費用が大きい。益州は疲弊した。馮茂は長安に徴されて獄死した。寧始將軍の廉丹と、庸部牧の史熊に、句町を撃たせた。

胡三省はいう。王莽は州牧・部監をおく。州は州、部は部という。史熊は庸州牧であるが、州牧と同じようなものだ。 ぼくは思う。1州に州牧と部監という、長官が2人いるか。もしくは、州ごとに牧か部のどちらかがいるか。なお庸部とは、益州です。

王莽が廉丹らを長安に徴すと、廉丹はいう。「もっと軍資を徴発すれば、句町に圧勝できる」と。就都大尹の馮英は「もう徴発をやめろ」という。王莽は馮英を免官したが、思い直し、馮英を長沙連率とした。

ぼくは思う。益州の異民族政策とは、のちに蜀漢がやるのと同じ。また益州で異民族の統治に、見識があると見こまれたので、馮英は荊州の長沙太守となる。益州も荊州も、南蛮との接点であり、戦闘の起こる地域なのだ。このあたりも、前漢と後漢との連続性こそあれ、王莽の独自性(独自にやって、醜く失敗したこと)はない。


翟義黨王孫慶捕得,莽使太醫、尚方與巧屠共刳剝之, 量度五藏,以竹筳導其脈,知所終始, 云可以治病。

翟義の残党・王孫慶を捕らえて、医者に解剖させ、治療の研究をさせた。

ぼくは思う。よく錯誤的に「王莽の近代性、先進性」が語られる記事です。逆賊も自分も、同じような身体の持主だと見抜いていたのね。彼らの「前近代性」を過大評価するのも危険だなあ。「石器時代の」とかかげたマリノフスキは、同時代の「未開の民族」を研究している。このような錯誤は、近代人が犯しがち。


◆西域との断絶

是歲,遣大使五威將王駿、西域都護李崇將戊己校尉出西域,諸國皆郊迎貢獻焉。諸國前殺都護但欽,駿欲襲之,命佐帥何封、戊己校尉郭欽別將。 焉耆詐降,伏兵擊駿等,皆死。欽、封後到,襲擊老弱,從車師還入塞。莽拜欽為填外將軍,封劋胡子, 何封為集胡男。西域自此絕。

この歳、五威將の王駿、西域都護の李崇は、戊己校尉をひきいて西域にゆく。諸国は莽新に、郊迎・貢獻してきた。
かつて諸国は、都護但の但欽を殺した。王駿は但欽の仇討をしたい。王駿は、佐帥の何封、戊己校尉の郭欽を別將にして、諸国と戦わせた。 焉耆は詐って降り、伏兵して何封らを皆殺した。

あーあ!

郭欽が後からきて、諸国の老弱を襲撃した。諸国は、車師に従って入塞した。王莽は郭欽を填外将軍とし、劋胡子に封じた。何封を集胡男とした。これ以降、西域とは断絶した。130223

ぼくは思う。後漢でも共通して、関わるテーマ。車師は、出てくるから。

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