表紙 > -後漢 > 『漢書』巻69: 王莽伝1(平帝の崩御まで)

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成帝期、おくれて大司馬となる

父が早死し、ポトラッチで名声を得る

王莽字巨君,孝元皇后之弟子也。元後父及兄弟皆以元、成世封侯,居位輔政,家凡九侯、五大司馬,語在《元後傳》。唯莽父曼蚤死,不侯。莽群兄弟皆將軍五侯子,乘時侈靡,以輿馬聲色佚游相高,莽獨孤貧,因折節為恭儉。受《禮經》,師事沛郡陳參,勤身博學,被服如儒生。

王莽は、あざなが巨君、孝元皇后の弟子である。王元后の父と兄弟は、元帝と成帝のとき封侯され、居位・輔政する。王氏から、9侯と5大司馬がでる。

詳細は、『漢書』巻68: 元帝の王皇后伝(王莽のおば)
師古はいう。外戚伝では、10侯という。王禁と王鳳の父子を1カウントとする。定陵侯の淳于長をカウントしない。など諸説あり。

王莽だけ、父の王曼が死んだので封侯でない。王莽の兄弟たちは、みな将軍や五侯の子である。奢侈で名声をかせぐ。王莽だけが孤貧で、折節で恭儉である。『礼経』を受け、沛郡の陣参に師事する。儒生のような服装をする。

ぼくは思う。「誰も知らない、失われた本来の儀礼を、私だけが知っている」とハッタリをかます。どうせ誰も正解を知らないのだから、自ら儀礼を創作する。誰も正誤を判定できない。とうか、誰も判定できない種類のものを、独自の知識だとする。内容を知らなくても、そこに知識があると想定することはできる。例えば「座禅で空を飛ぶ方法」は、内容を知らないが、その何らかの知識が存在しうることを知っている。
ぼくは思う。儀礼の「知識」の卓越性により、ライバルを打ち負かす。孔子の戦略と、王莽の戦略は、同型である。人間は、内容の開陳された知識には、魅了されない。教科書のように整理されたものは、退屈である。だが隠蔽の身振りに魅せられる。ヒッチコックのマクガフィンと同じである。だからマクドは、メニューをかくす。
ぼくは思う。学問は「問いの立て方」が生命線である。つまり、誰も「知りたいと思いつくことすらない」場所に、問題を設定して、その問題を解く。悪い言い方をすれば、マッチポンプである。「ここに知性の空白があるよ」と手を挙げて、指さす先にみんなの注目を集める。みんなが指先を注目するため、ちょっと立位置をずれ、身体をよじれば、元来は存在しなかった場所に、空白ができる。その空白に、自分なりの説明を埋めてあげれば、孔子=王莽の完成である。


事母及寡嫂,養孤兄子,行甚敕備。又外交英俊,內事諸父,曲有禮意。陽朔中,世父大將軍鳳病,莽侍疾,親嘗藥,亂首垢面,不解衣帶連月。鳳且死,以托太后及帝,拜為黃門郎,遷射聲校尉。

王莽は、母と寡嫂につかえ、孤児の兄子を養う。

ぼくは思う。王莽の家は、王元后が権力の場に出てしまったので、「後方支援するお母さん」がいない。王莽は、この地位で下積みした。「公職にない者のなかでは、もっとも血筋が尊い」という、微妙な立場が、王莽に同族を世話させたのだろう。「地球人のなかでは、いちばん強い」と同じである。

外では英俊な者と交わり、内では諸父(おじ)に仕える。陽朔のとき、世父の大將軍する王鳳が病気になる。王莽は看病した。みずから薬をなめ、首は乱れ、垢が面につく。王鳳が死ぬとき、王元后と成帝に王莽を託した。王莽は、黄門郎となり、射声校尉となる。

ぼくは思う。『補注』はわりと注釈が少ない。このまま地の文を、自分なりに抄訳(というより、ラベリング)するのが、ぼくのこのページの仕事だろうか。


久之,叔父成都侯商上書,願分戶邑以封莽,及長樂少府戴崇、侍中金涉、胡騎校尉箕閎、上谷都尉陽並、中郎陳湯,皆當世名士,鹹為莽言,上由是賢莽。

久しくして、叔父の成都侯の王商が上書した。「私の戸邑を分割して、王莽にあげたい」と。長樂少府の戴崇、侍中の金涉、胡騎校尉の箕閎、上谷都尉の陽並、中郎の陳湯は、みな当世の名士である。みな王莽を推薦した。成帝は、王莽を賢しとした。

ぼくは思う。固有名詞がたくさん。これが王莽の初期の仲間。覚えておこう。後漢初、これらの人々(子や孫)は、どんな位置にあったか。同族が、王莽を積極的に推薦したと書かれたら、後漢での出世が不利では。班固は「誰の名前を省略するか」に最も神経を使ったに違いない。後漢初を追ってみると、おもしろいかも。
ぼくは思う。後漢は、後世人が心配するほど、王莽に関する言論統制が厳しくないのかも知れない。班固『漢書』が、王莽を大きく扱うことが、おおきな証拠だ。後漢の制度は、おおくが王莽に拠っている。班固は、地の文でわりに王莽をがんばって書く。最大の「筆誅」は無視することだから、班固は王莽に優しいと言える。地の文で丁寧に記したあと、末尾の評文などで極めて抽象的にけなしても、そのけなしに説得力がない。班固と同時代の人は、果たして「班固は充分に王莽をけなした」と見なしたのか。そんなに「だまされやすい」のか。
ぼくは思う。例えば料理の素晴らしさを具体的に5分も語ったあと、「やっぱりマズイわ!バーカバーカ!」と評論家が述べた場合、この評論家は、「きちんと」料理をけなしたことになるのか。班固と同時代の読者が、そこまで「だまされやすい」とは思われない。王莽を賛美するのは遠慮するとしても、王莽はタブーでなく、むしろ積極的に参照すべき、故事や前例だったのでは。「王朝交代による善悪の二元論的交替」って、だれが言い出したんだろう。ぼくらは、このテーゼにしばられて、史料を読み過ぎなのでは。


永始元年,封莽為新都侯,國南陽新野之都鄉,千五百戶。遷騎都尉、光祿大夫、侍中。宿衛謹敕,爵位益尊,節操愈謙。散輿馬衣裘,振施賓客,家無所餘。收贍名士,交結將相、卿、大夫甚眾。故在位更推薦之,游者為之談說,虛譽隆洽,傾其諸父矣。敢為激發之行,處之不慚恧。

永始元年(前16)、王莽は新都侯に封じられた。新都国は、南陽郡の新野県の都郷にある。15百戸。騎都尉、光祿大夫、侍中にうつる。爵位が増えても、節操して謙譲した。輿馬・衣装に執着せず、賓客に振施した。家には残余がない。将相、卿、大夫と交結した。

ぼくは思う。この身振りは、董卓と同じです。ポトラッチして貧しくなることで、その財物以上のなにか(名声や人間関係など)を手に入れる。

官職にある者は、さらに王莽を推薦する。遊説する者が、王莽を話題にする。王莽の「虚誉」は隆洽する。諸父よりも名声がある。あえて激發之行をやり、その処世を恥じない。

ぼくは思う。班固は「虚誉」を、けなす意味で使っているのだろうが。名声は、その内容がないゆえに、意味があるのだ。物理的に計測できる資本ならば、すごいけれど、怖くない。王莽は、自分を虚ろにすることで、周囲に可能性の中心として見られた。期待された。王莽が親属に尽くし、名士と交わるのは、本人にとっては「儒教に外形的に準拠した戦略」かも知れないが、その効果は(本人の思惑から遊離して)絶大だと思う。「分からない」から「引きよせられる」のだ。その意味で、王莽のおじたちは、分かりやすく豪奢なので、すごいけれど、怖くない。未来もない。


莽兄永為諸曹,蚤死,有子光,莽使學博士門下。莽休沐出,振車騎,奉羊酒,勞遺其師,恩施下竟同學。諸生縱觀,長老歎息。光年小於莽子宇,莽使同日內婦,賓客滿堂。須臾,一人言太夫人苦某痛,當飲某藥,比客罷者數起焉。嘗私買侍婢,昆弟或頗聞知,莽因曰:「後將軍硃子元無子,莽聞此兒種宜子,為買之。」即日以婢奉子元。其匿情求名如此。

王莽の兄・王永は諸曹だが、若死した。子(王莽の従子)王光を、王莽は博士の門下で学ばせた。王莽は、王光の学師と同学を厚遇した。また王光は、王莽の子・王宇より年少だが、同日に結婚させた。また、王莽の賓客が病気で飲薬しているというと、王莽は気にかけた。かつて侍婢を購入した。昆弟に「なぜ侍婢を購入したか」と聞かれ、王莽は「後将軍の朱子元=朱博には子がないので、朱子元の子を産ませるために買った」という。朱子元に侍婢をあげた。

ぼくは思う。ここまで具体的に王莽の善行を書いたあと、つぎに断片的で抽象的な評価で、ひっくり返す。いや、ひっくり返すふりをするが、本当に王莽をけなす意図がないことが見え隠れする。さらに班固は、その真意を見抜かれても構わないと、班固が開き直っているようである。
ぼくは思う。長谷川宏氏の理解によると、ヘーゲルの「止揚」「揚棄」というのは、この訳語だと意味がわからないが、植物の生長のようなものだという。つまり種子を「否定」して若芽となり、若芽を「否定」して花が咲き、花を「否定」して果実となる。果実を「否定」して、また種子となると。このように否定による運動が、言い換えれば、前の状態を踏まえた前進が、ヘーゲルの考える理性の働きなんだとか。受け売りです。
ぼくは思う。『漢書』王莽伝は、やたら否定が多くて「班固は王莽が嫌い」のように見えるが、果たしてそうだろうか。いまの植物の比喩は、確かに「否定」の連続だが、決して植物の一生をスポイルするものでない。植物の一生を、ムダなもの、見るべき魅力がないもの、とはしない。班固が王莽の善行を記して、評価で「否定」して見せることで、理性によって突きつめた王莽の像を生成している。なんて考えたら、『漢書』王莽伝は、アウフヘーベンする王莽論である。

王莽が、真情をかくして名声を求めるのは、こんなふうだ。

成帝末、王根をつぎ、大司馬となる

是時,太后姊子淳於長以材能為九卿,先進在莽右。莽陰求其罪過,因大司馬曲陽侯根白之,長伏誅,莽以獲忠直,語在《長傳》。根因乞骸骨,薦莽自代,上遂擢為大司馬。是歲,綏和元年也,年三十八矣。莽既拔出同列,繼四父而輔政,欲令名譽過前人,遂克已不倦,聘諸賢良以為掾史,賞賜邑錢悉以享士,愈為儉約。母病,公卿列侯遣夫人問疾,莽妻迎之,衣不曳地,布蔽膝。見之者以為僮使,問知其夫人,皆驚。

このとき、王元后の姉子の淳于長は、才能により九卿となる。王莽より昇進する。ひそかに王莽は、淳于長の罪過を見つけ、大司馬・曲陽侯の王根にリークした。淳于長は誅された。王莽は忠直という名声を得た。淳于長伝にある。

ぼくは思う。「王莽がなぜ淳于長を悪んだか」は、必ず自分なりの仮説を提出しなければならない問題。「同世代のなかで、官爵のライバルに負けたくなかった」だけでは、説明がつかない。父が早死した王莽は、とっくに従兄弟たちに官爵を抜かれている。王鳳の後継者に指名された、王音にまったく匹敵していない。

王根は辞職を願い、代わりに王莽を推薦した。成帝は、王莽を大司馬とする。この歳は、綏和元年(前08)である。王莽は38歳である。王莽は4諸父にならび、輔政する。王莽は諸父にまさる名誉がほしいので、諸賢を掾史として、もらった賞賜・邑銭を、すべて人士に与える。自分は倹約した。

師古はいう。4諸父とは、王鳳、王商、王音、王根である。4人は大司馬となった。先謙はいう。「邑銭」とは、国邑からあがる金銭の収入である。

王莽の母が病むと、公卿・列侯は、夫人を使者にして見舞った。王莽の妻が使者を迎えた。妻の衣服がボロいので、使者は妻を「僮使」だと思って驚いた。

ぼくは思う。王莽の妻の服装に注釈あり。上海古籍6039頁。はぶく。

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哀帝期、新都国にゆく

王莽は辞職できず、哀帝のポトラッチに敗れる

輔政歲余,成帝崩,哀帝即位,尊皇太后為太皇太后。太后詔莽就第,避帝外家。莽上疏乞骸骨,哀帝遣尚書令詔莽曰:「先帝委政於君而棄群臣,朕得奉宗廟,誠嘉與君同心合意。今君移病求退,以著朕之不能奉順先帝之意,朕甚悲傷焉。已詔尚書待君奏事。」又遣丞相孔光、大司空何武、左將軍師丹、衛尉傅喜白太后曰:「皇帝聞太后詔,甚悲。大司馬即不起,皇帝即不敢聽政。」太后復令莽視事。

王莽による数年の輔政ののち、成帝が崩じ、哀帝が即位した。王皇太后を、王太皇太后とする。

ぼくは思う。称号が変わって複雑になるので、王莽のおば・王政君は、このあとも「王元后」と書き続けます。莽新が建国されて、漢室の元帝が否定されても、「王元后」とします。王元后伝のときと同じ。

王元后は王莽を帰宅(就第)させ、哀帝の外戚を避けさせた。

ぼくは思う。成帝期末、王莽は「謙譲の政治家」だった。だから王元后は、王莽を保護するように、王莽を長安の邸宅に帰宅させた。これは『漢書』王元后伝を読んだとき、ぼくが解釈したこと。解釈というか、まんま、そのとおりに書いてあるように見える。
ぼくは思う。哀帝の外戚と、正面から対立しない。これだけ雄弁な王莽伝に、記述がない。もし対立したら、格好の「王莽をけなすふり」のネタになるから、班固が逃すはずがない。ゆえに王莽は「謙譲の政治家」で良いだろう。

王莽は上疏して、辞職を願う。哀帝は、尚書令に詔を持たせる。「王莽とともに、先帝の意思を実現できない。私は悲傷する。尚書には、王莽からの上奏(政策立案)を待たせる」と。丞相の孔光、大司空の何武、左將軍の師丹、衛尉の傅喜は王元后にいう。

ぼくは思う。また「名前出し」である。こわいなあ。ちゃんとモザイクをかけない。つまり後漢において、王莽への賛同は、必ずしも「大逆レベルの悪事」ではなかった。事実は事実としてクールに記される。班固が隠蔽した真実があるかも知れず、勘ぐるとキリがない。だが、いまメンバーが、三公レベルだ。隠蔽されるとしても、三公より下位である。「軽微なウソ」になる。

孔光らはいう。「王元后が王莽を辞職させるので、相手は悲しむ。もし王莽が参政しないと、成帝は政治ができない」と。王元后はふたたび、王莽に参政させた。

時哀帝祖母定陶傅太后、母丁姫在,高昌侯董宏上書言:「《春秋》之義,母以子貴,丁姫宜上尊號。」莽與師丹共劾宏誤朝不道,語在《丹傳》。後日,未央宮置酒,內者令為傅太后張幄坐於太皇太后坐旁。莽案行,責內者令曰:「定陶太后籓妾,何以得與至尊並!」徹去,更設坐,傅太后聞之,大怒,不肯會,重怨恚莽。莽復乞骸骨。

ときに哀帝の祖母の傅太后、母の丁姫が長安にいる。高昌侯の董宏が上書した。「『春秋』の義で、母は子を以て貴い。丁姫に尊号をつけろ」と。王莽と師丹=史丹は、ともに「董宏が朝廷を誤らせる」と弾劾した。師丹伝にある。☆

ぼくは思う。哀帝の母系をどう扱うかは、「正解がない」問題である。王莽が誤りとも言えないが、董宏が誤りとも言えない。ぜひ師丹伝を熟読しよう。

後日、未央宮で酒宴する。内者令は、傅太后と王元后をとなりに座らせた。王莽は内者令を責めた。「傅太后は藩妾である。なぜ至尊な王元后と並べるのか」と。傅太后の座席を、べつに設置した。これを聞いた傅太后は怒り怨み、酒宴に出席しない。王莽は辞職を願う。

ぼくは思う。王莽は一貫して、辞職したかったのでは? 傅太后を怒らせたのは、辞職のキッカケづくりでは。王莽は40歳前まで、雌伏に耐えることができた。成帝末、大司馬となったが、めぼしい治績がない。王莽が哀帝期、外戚でもないくせに、大司馬をやる理由がない。むしろ危うい。どこまで「復活」の見通しがあったか分からないが(おそらく見通しがない)王莽は謙譲して辞職することを願ったように思われる。
傅太后を怒らせる理由が、席次の問題、序列の問題、というのは、王莽らしいけれど。もし王莽が力自慢なら、てきとうに器物破損して、辞職しただろう。もし王莽が金銭に執着するなら、手頃な窃盗をやるだろう。辞職が受理されるという結果が重要であり、ほどほどの失態を演じるなら、内容は何でも良かった。王莽が「傅太后は藩妾だ」と言ったのは、酒宴の準備のときである。どれだけの人間が直接聞いたのか、怪しいものだ。本文にある暴言は吐かないにしろ、同じ内容を述べたのだろう。傅太后の耳に入ることが前提で。どの段階で、王莽の口調が乱暴になったのかは、不明だが。傅太后にチクるときか、史家が記すときか、『漢書』が編纂されるときか、など。
ぼくは思う。少なくとも平帝期が始まるまで、王莽に「執政者になりたい」「執政者を続けたい」という強い気持ちは見られない。だって史料に書いてないもん。王元后が主導権をにぎり、王莽のスキルを使い倒すだけ。史料の読者が、どのようなモデルで人間を観察するか、という根幹に関わる問題だけど。ぼくは「確固たる自己」があり、その自己が歴史の局面を切り抜け、もしくは波に乗り、結果を出していくとは思ってない。状況に左右されて、特性のさまざまな局面が出てくる。王莽の場合、平帝期が始まるまでは、革命者の片鱗すら見えないのだ。


哀帝賜莽黃金五百斤,安車駟馬,罷就第。公卿大夫多稱之者,上乃加恩寵,置使家,中黃門十日一賜餐。

哀帝は王莽に、黄金5百斤、安車駟馬を賜り、帰宅させる。公卿・大夫は、おおくが哀帝をほめた。

ぼくは思う。王莽は大司馬だから、これ以上の官職がない。侯爵だから、これ以上の爵位がない。いずれも「公式」にはね。だが哀帝は、さらに王莽にポトラッチすることで、自身の威信を高めた。王莽に競争的な贈与を挑んだ。これは単なる「けんか別れ」でない。哀帝は、外戚でも何でもない王莽に、大司馬として執政させた。王莽は大司馬という贈物に耐えきれないから、わざと失言して、自らの威信を「損切り」してでも、大司馬を辞めたかった。哀帝に「王莽なんかに、贈与したくねえよ」と言わせたい。だが哀帝は、「王莽さんの寄与に対して、黄金が不足でしたか。帰宅の交通手段はおありですか」と、過剰に敬意を払って、可能な限りの贈物をした。すでに書いたように、これ以上の官職と爵位はあげられないから、その代わりなんだ。
その結果、哀帝の「気前の良さ」がほめられた。王莽は、哀帝(およびその)と政治権力を奪いあって、王莽が敗れたのでない。哀帝と王莽は、どちらが気前が良いか(自分の損失に寛容か)を競い合った。王莽は、大司馬を辞職するという程度のカードしかなかったが、哀帝はカードを使いたい放題だった。皇帝の前で、勝てる臣下は少ないよ。まずいないよ。王莽は「官職を辞退する」ことによってのみ、哀帝が有利な戦場の磁力圏から抜けられたが、それも失敗した。
ぼくは思う。王元后は、哀帝と王莽の勝負の本質を分かっていない。王元后は「退蔵を良しとする」タイプの政治家だ。五侯を輩出させた件から、明白である。だから哀帝が王莽を呼び出すと、歓んで王莽を参政させてしまった。あまりにカードの少ない王莽を、不利な戦場に引きずり出したのは、何も知らない王元后だな。
ぼくは思う。会社の経費で、盛大な宴会をして、料理が残ったとき。「もう食べられないから捨てろ」をカッコよく思うのが王莽と成帝。「もったいないから持って帰ろう」と弁当箱を出すのが王元后。王元后は、子を産める=成帝の母となった。女性は、神秘的な生産をできるから、男性原理の「セコい」ポトラッチなどに動じない。退蔵しても失墜しない。自らを失墜させないことができる。

哀帝はさらなる恩寵をくわえた。使家(王莽に賜与する担当官)をおく。中黄門は10日に1度、王莽に食事をたまわる。

蘇林はいう。黄門を、王莽の家中にいさせて、哀帝から王莽へのお世話を担当する。『六典』はいう。官人のうち官品のない者を「内給使」という。


下詔曰:「新都侯莽憂勞國家,執義堅固,朕庶幾與為治。太皇太后詔莽就第,朕甚閔焉。其以黃郵聚戶三百五十益封莽,位特進,給事中,朝朔望見禮如三公。車駕乘綠車從。」後二歲,傅太后、丁姫皆稱尊號,丞相硃博奏:「莽前不廣尊尊之義,抑貶尊號,虧損孝道,當伏顯戮,幸蒙赦令,不宜有爵土,請免為庶人。」上曰:「以莽與太皇太后有屬,勿免,遣就國。」

哀帝は詔をくだす。「王莽と統治をやりたい。王元后が王莽を帰宅させ、閔れむ。王莽に黄郵(南陽郡の棘陽県)350戸を増やし、位は特進、給事中とする。三公のように、新月と満月だけ朝政にでて、天子に会え。王莽の車駕は、緑車(皇孫の礼)とする」と。
2年後、傅太后と丁姫は、尊号をもらう。丞相の朱博が上奏した。「王莽は、哀帝の孝道を阻害して、尊号に反対した。死刑にすべきだが、王莽は赦された。爵土をうばい、庶人とせよ」と。

ぼくは思う。朱博は、王莽の敵対者なのか。妻を買ってもらったのに。朱博伝☆を読んで、哀帝期の王莽の立場について、さぐろう。

哀帝はいう。「王莽と王元后は親属である。王莽を庶人としない。就国させる」と。

ぼくは思う。朱博の言葉に、過剰なレトリックがないなら。哀帝は、王莽に寛大である。王莽がライバルのうちは、ポトラッチで追いこむ。王莽が失脚してから、2年も放置した。朱博が死罪を訴えても、就国でゆるす。「王莽は哀帝期に、政治的な敗者だった」は誤りだろう。見直すべきだろう。たしかに外戚として執政した、成帝末や平帝期に比べると、弱いかも知れない。でも、いち官僚としては、とても重視されている。


新都に就国し、子殺し、孔休にポトラッチ

莽杜門自守,其中子獲殺奴,莽切責獲,令自殺。在國三歲,吏上書冤訟莽者以百數。元壽元年,日食,賢良周護、宋崇等對策深頌莽功德,上於是征莽。

王莽は杜門・自守した。中子の王獲が「奴」を殺したので、王莽は王獲を切責し、自殺させた。

師古はいう。「王護」とする版本があるが、筆写ミスだろう。
ぼくは思う。「奴」が、この時代にどういう立場だったのか。端的には、「奴」を殺すことが、どのように認識されたのか。この前提をぬきに、へんに近代の発想を持ちこんでも、典型的に誤読するだろう。「奴隷を解放した光武帝は、先進的な名君」という、まったくワケの分からない恥ずべき誤読と同じである。

王莽は新都に3年いた。吏が100たび上書して、王莽の冤罪をいう。

師古はいう。「王莽の失敗は、長安から新都に就国させるほどではない」と主張したのである。ぼくは思う。就国は「刑罰」のような色合いを帯びたのか。だが封建の建前からすれば、就国して藩屏することは、儒教的には真っ当な役割である。長安で参政できなくても、べつに「不遇」ではない。いや「不遇」といってはいけない。荊州が当時のフロンティアであれば、王莽の役割は大きいよ。外圧から前漢を守る、もしくは外部に前漢の支配を浸透させる。そういう役割がある。
ぼくは思う。例えば会社に閑職があったとする。「清掃課」とする。そこの課長に異動したことを、「左遷」と言っていけないだろう。言っていけないという禁止が意識される時点で、これは「左遷」に違いないのだが。

元寿元年(前02)、日食あり。賢良の周護と宋崇らは、哀帝に対策した。王莽の功德を深頌した。哀帝は、王莽を長安によぶ。

ぼくは思う。王莽が長安にもどるキッカケは、日食って。もちろん漢代における、天変地異の重要性をかるく見積もるわけじゃないが。それでもやはり、人間の政治的事情と、天体の異変は、前者のほうが重要なウェイトを占めたと思う。というか、思いたい。だって、もし後者が重要であれば、無味乾燥な運命決定論であり、ぼくらが歴史を読むよろこびがなくなるから。
ぼくは思う。いま日食「ごときで」王莽は長安にもどることができた。つまり王莽の就国は、決定的な挫折とは言えまい。日食「くらいの」キッカケがあれば、帰ってこられる。執政者の総入れ替えなど、人間の政治的事情が急撃に変化しなくても、戻ってこられた。哀帝期の王莽を、不遇とする歴史観には問題があろう。王元后に介入されて混乱し、一時的に就国したものの、ちょっとした往復運動である。


始莽就國,南陽太守以莽貴重,選門下掾宛孔休守新都相。休謁見莽,莽盡禮自納,休亦聞其名,與相答。後莽疾,休侯之,莽緣恩意,進其玉具寶劍,欲以為好。休不肯受,莽因曰:「誠見君面有瘢,美玉可以滅瘢,欲獻其D046耳。」即解其D046,休復辭讓。莽曰:「君嫌其賈邪?」遂椎碎之,自裹以進休,休乃受。及莽征去,欲見休,休稱疾不見。

新野にいたとき、南陽太守は、王莽が貴重だから、門下掾する宛県の孔休を、新都相とした。孔休は王莽に謁見すると、いつも王莽は礼をつくす。孔休が王莽の名をきけば、いつも応答した。王莽が病気になると、孔休が見舞った。

ぼくは思う。とくにぼくが「曲解」しなくても、王莽と孔休の関係は、良好である。

王莽は恩義に感じたので、玉つきの宝剣を返報する。孔休との良好な関係をもちたい。孔休は受けない。王莽「孔休の顔面にキズがある。美玉ならキズを消せると思って贈るのだが。受けとらないなら、剣鼻=剣鐔だけでも受けとれ」と。孔休は辞退した。王莽は「価値があるものだから、受けとりたくないんだな」という。ついに王莽は剣鐔をくだく。孔休は受けとった。

ぼくは思う。ちくま訳が、『漢書』の悪意に引きずられて、この贈与を「恩を売るため」と記す。原文「莽緣恩意」である。この事件に関連し、東晋次氏の『王莽』を抜粋したとき、ぼくはこうまとめた。
東氏はいう。孔休は、南陽郡の儒教の名家だ。王莽政権にくみせず、同じ南陽郡から出た光武帝に高く評価された。王莽と孔休は、利害において対立した。南陽郡は、秦末に強制移民が送り込まれた、フロンティアだった。前漢のときの国境は、臨淮、沛郡、南陽、蜀郡の南側にあり、郡内では大土地開発が行なわれた。王莽と対立した豪族が、開発の主体だ。 王莽が限田策に関わったから、利害が対立した。だから孔休は、王莽を嫌ったのである。
ぼくは違うと思う。ちょっと違うのでなく、まったく違うと思う。確かに「莽緣恩意」は「王莽が恩意をむすぶため」とも読めるが。ぼくは「王莽が恩意によって」つまり「返報をするために」と読んでも良いと思う。孔休が辞退した理由は、「私が王莽を見舞った行為は、宝剣ほどの価値がない」からだろう。べつに王莽を嫌ったのでない。利害の対立でもない。その有力な証拠が、その前に王莽と孔休は、相互を最大に尊重しており、わざわざ孔休から、王莽の見舞にいった点から分かる。
ぼくは思う。班固による王莽のけなしかた。班固は「記述者」なので、ウソは書かない。このあたり、とても信用できる。そこで事実の背後に、「誰にも検証できないような当事者の思惑」を、事後的にこじつけて、当事者をけなす。たとえばAさんがBさんを車で送り、Bさんが「ここで良いよ」といって大通りで降りたとする。事実はここまで。しかし班固の筆が、AとBとを険悪で邪悪な関係にしたければ、ウソにすることなく、こう書ける。「Aは恩義を押売するため、Bを車で送った。BはAを不快に思うが、Aが有力者なので、断れなかった。しかしAが過剰につけあがるのを防ぐため、家の前まで送らせず、大通りで降りたいと言った。Aは下心があったが、Bの申し出を断るのは、かえって不自然に思われたので、Bを大通りで降ろした」など。王莽伝によくあること。

王莽が長安に帰るとき、孔休に会いたいが、孔休は病気といって会わない。

ぼくは思う。王莽は、過剰な贈与者である。孔休は、王莽と関わると、返済しきれない負債をおう。だから会わなかったのだ。どうせ面会したら、王莽はすごい贈物をくれるだろう。断るのも面倒くさい。というか、断るという行為によって、孔休自身に返済能力がないことが露見する。だから孔休は、会わないほうが良いと判断したのだ。
ぼくは思う。孔休は「王莽が奪う者」だから、会わないのでない。「王莽が贈る者」だから、会わないのだ。東氏の王莽の本は、モース『贈与論』で、ぼくなりには乗り越えることができるなあ。
沈欽韓はいう。『後漢書』卓茂伝はいう。孔休は、王莽が秉権すると、官を去って家に帰る。王莽が即位すると、孔休を国師にまねきたい。孔休は吐血して病気といい、門を閉じて絶えたと。孔休の高節はこのとおりである。
ぼくは思う。国師という官爵もポトラッチの対象。孔休はポトラッチへの参加を拒否した。だが「受納を拒否する」という振る舞いによって、すでにポトラッチの渦中にあり、「敗北しました」と宣言するに等しい。その証拠に、孔休はぐいぐい威信を高めたのでない。むしろ吐血して閉門した。社会的に自殺した。漢室に対する高節というよりは、王莽にポトラッチで負けただけである。

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平帝期の上、安漢公になり、娘を皇后に

車騎将軍の王舜が平帝を迎える

莽還京師歲余,哀帝崩,無子,而傅太后、丁太后皆先薨,太皇太后即日駕之未央宮收取璽綬,遣使者馳召莽。

王莽が長安にもどって1年余で、哀帝が崩じた。傅太后と丁太后が、すでに薨じた。王元后は、即日のうち、駕して未央宮にゆき、哀帝から璽綬をとった。

ぼくは思う。哀帝の祖母・傅太后が死んだのは、元寿元年である。王莽が長安にもどった歳だ。つまり、王莽を長安から追放したのは、哀帝でない。傅太后である。王莽のおばの王元后と、哀帝の傅太后との対立により、王莽は就国させられた。傅太后が死ねば、王莽を長安から遠ざける力(斥力)が足りなくなった。まだまだ「巨大なる母」たちの闘争が、政治の情勢を決めている。まあ外戚が執政する時代だし、奇異とするほどでもない。
ぼくは思う。いま哀帝から璽綬をひったくったのは、王元后である。璽綬は前漢の天子のものでなく、「祖母たちのもの」である。つまり王莽は、前漢の天子から璽綬を奪うのでなく、「母」から璽綬を奪うのである。思うに王元后は、「おばあちゃんの形見」のように、王皇后(王莽の娘)に璽綬を渡したかったが、男子の王莽に奪われてしまった。それを怒ったのではないか。男性の王氏(劉氏でない者)が手にすると簒奪になるが、女性の王氏(劉氏でない者)は合法的に璽綬を嗣いでゆける。というか、同姓不婚だから、劉氏は不可避的に、非劉氏の参加を要請する。王氏が、これを専属的に請け負いたい、という構想であろう。
ぼくにはよく分からないが、「おばあちゃんの形見だ」といって、お母さんが娘に、「嫁入り道具」や装飾品などをあげるらしい。女性のあいだで、継承すべきものを、男子が奪うのは無粋である。王元后が璽綬を地面に投げるとしたら、この「家族の物語」に違反することの怒りである。べつに大文字の王室の変遷に、それほど興味があるとは思えない。
ぼくは思う。王元后の理想は、魏郡の王氏を、日本史の蘇我氏や藤原氏にすることでは。みずから男系の君主を輩出しないものの、女系の君主(皇后、皇帝の母)を継続的に輩出する。同族の男性は、高位高官につく。

王元后は、使者を王莽に走らせた。

ぼくは思う。内海健『さまよえる自己・ポストモダンの精神病理』を読んだ。ピュシス(自然)としての母、があるという。子がエディプス・コンプレックスを抱くには、子から母への欲望が禁じられている必要がある。すなわち母は、子でなく父を欲望しなければならない。母はノモス(法掟)ハムレットのように、母が子に「私はだれを愛したら良いの」と質問したら、子はフリーズする。エディプス・コンプレックスが成立しない。
婚姻というノモスが成立する以前、母は「全ての生み出す沼」だった。子が生まれても、だれが父親か分からなかった。記紀神話にて、イザナギが、死せるイザナミに会いにいくと、身体には「男性」がいっぱい巻きつく。イザナギは、イザナミを断念した。イザナギが逃げ、イザナミに蓋をすることで、国が開闢する。ノモスが起動する。つまり、汚辱なる者「原母」を棄却する。「なかったこと」にされる。「原母」は「死せる母」となる。「死せる母」とは、原罪の意識を植えつけるフロイトの「死せる父」と対置される概念。男性は「良い乳房たる母を殺してしまった、悪い乳房に復讐されるのでないか」と恐怖するのでなく、クラインの自伝のように「母は死んだのだから、母にしてあげられることはない」と開き直ることになる。乳房がなくなり、空虚になった口には、代わりに言語が埋められる。法掟=ノモス=言語=国の開闢である。この始原には「原母」殺害があったわけだが、みんな「否認」している。
フロイトはメランコリーの原因を「トラウマ説」と「小児性欲説」の2つたて、後者をとった。後世の受容も「小児性欲説」がおおい。なぜか。「トラウマ」は語り=象徴化を拒否するからだ。つまり被分析者のなかで抑圧されるだけでなく、分析者にとっても抑圧したくなる。分析者の書きものを読んだ者も、抑圧したくなる。だから「トラウマ説」は、近年になるまで認められなかった。まるで「原母」のように「なかったこと」にされた。
ぼくは思う。断片的な引用ですみません。ちっとも『三国志』でない本だが、昨日読んで、これだけ引用したのは。「原母」がまさに王元后だと思うから。王元后は成帝を生み、成帝の子(∅帝)の「母」にもなりたがる。傅太后と争って、ひとんちの孫の哀帝の「母」にもなり、つぎの平帝の「母」にもなろうとした。夫が誰であろうが、夫が死のうが、あきずに「母」になりたがる。まさに生命の源泉=泥沼である。王元后は王莽の「母」としても振る舞う。さらに王莽の娘・王皇后の「母」にもなりたがる。王莽は、このままでは王元后に食われてしまう。「我が子を食らうサトゥルヌス」さながら。
王莽による革命とは、じつは漢室に対する謀反ではない。漢室といっても、「王元后の子」「王元后の孫」「王元后の「子」」がいるだけであり、『漢書』の体裁が伝えるほど、固定的な主体があるわけじゃない。王莽は、王元后という泥沼に、コンクリートを流しこむことで、漢新革命をやったのだ。「原母殺し」である。「原母」とは、ぼくの書いてきた「巨大なる母」でも同じです。ジュクジュクした大地を、コンクリートで固めて、上の構造物への影響を排除した。コンクリートは永遠でないが、すくなくとも人間が生得する時間感覚(例えば「孫の代まで」)なら、腐らずにカバーしてくれる。
ぼくは思う。「劇的ビフォアフター」というリフォームの番組は、多種多様に変形した、捉えどころのない家屋=家族模様を、すべてコンクリートで固めて解決する番組だ。斎藤環はこの番組を論じて、工事終了後は、どの家屋=家族関係も、ワンパターンになるという。だれかの「不幸は多様だが、幸福はワンパターン」という言葉を引きながら。あの番組は、極めて端的に、文字どおり、あの工事現場のコンクリートをつかうが。あの象徴界からきた均質な物体こそ、男性原理が得意とする、意識の産物である。
王莽の「原母殺し」は、王莽その人にとっても、「なかったこと」に抑圧されたが。後漢の人々にも抑圧された。班固『漢書』では、王莽の漢新革命を「原母殺し」としない。トラウマ的に抑圧した上で、「王莽が漢室を簒奪した」という疑似ストーリーで描く。原母殺しとは異なるストーリーで理解する。また『漢書』読者も、その見方を違和感なく踏襲する。男性原理と、男性原理の対立とする。本来は、「底なし泥沼に流しこんだコンクリートが、用意した容積では足りず、無力にも沈んで消えるのか。もしくは泥沼を溢れさせ、平地にしてくるのか」という戦いであった。劇的なビフォアフターの工事であった。これを「2つのコンクリートを衝突させて、どちらが壊れずに残ったか」という戦いに粉飾する。そんなわけないのに。


詔尚書,諸發兵符節,百官奏事,中黃門、期門兵皆屬莽。莽白:「大司馬高安侯董賢年少,不合眾心,收印綬。」賢即日自殺。太后詔公卿舉可大司馬者,大司徒孔光、大司空彭宣舉莽,前將軍何武、後將軍公孫祿互相舉。太后拜莽為大司馬,與議立嗣。安陽侯王舜,莽之從弟,其人修飭,太后所信愛也,莽白以舜為車騎將軍,使迎中山王奉成帝後,是為孝平皇帝。帝年九歲,太后臨朝稱制,委政於莽。莽白趙氏前害皇子,傅氏驕僭,遂廢孝成趙皇后、孝哀傅皇后,皆令自殺,語在《外戚傳》。

王元后は詔した。尚書は、發兵の符節、百官の奏事、中黃門と期門兵を、みな王莽に属させた。王莽はいう。「大司馬する高安侯の董賢は年少である。衆心を合わせない。彼から印綬をうばえ」と。董賢は即日に自殺した。

ぼくは思う。王莽の地位は、「原母」「巨大な母」王元后から与えられたものである。ママの目の届く範囲で、偉ぶっている限り、王莽は「お子ちゃま」である。いくら大司馬でも。しかし、まあ、どんな人間でも、父母の影響下にあるのだから、「だから王莽がしょぼい」と言うにも到らない。

王元后は公卿に詔した。「董賢に代えて、大司馬とすべき者をあげろ」と。大司徒の孔光、大司空の彭宣は王莽をあげた。前將軍の何武と、後將軍の公孫祿は、相互に推薦しあった。王元后は王莽を大司馬として、つぎの皇帝を議論させた。
安陽侯の王舜は、王莽の從弟である。王舜は人となりが「修整」なので、王元后に信愛された。

ぼくは思う。王莽の使者として、王元后から印璽をうばいにくるのは、王舜の役割である。王舜は、王莽とおなじく「王元后のおい」だが、王莽とおなじく、王元后の「子」として扱われる。だから王元后は、王莽と王舜を「兄弟」と呼ぶのだ。つまり「わが子たち」である。まあ当時の修辞として、世代が同じならば、父が誰かにこだわらず「兄弟」と言ったのかも知れないが。王元后のおいたちへの理解が窺われる。

王莽は「王舜を車騎将軍にして、中山王を迎えに行かせろ」という。これが平帝である。平帝は9歳。王元后は臨朝・称制する。政治は王莽に委任した。

ぼくは思う。後漢の外戚権力も、フロイトやラカンの理論に沿って理解すると、違う発見があるかも知れない。儒教が親属の規範について述べるとき、精神分析家の仕事に、対象が接近する。人間にとって、それだけ家族の存在がデカい、という一般的すぎる指摘をして終わってしまうのは、もったいない。

王莽は、成帝の趙皇后が皇子を殺し、哀帝の傅太后(哀帝の祖母でなく妻)が驕僭であるので、ついに趙皇后と傅太后を廃して、自殺させた。外戚伝にある。


人事の整理;孔光と甄邯を用い、王立を廃す

莽以大司徒孔光名儒,相三主,太后所敬,天下信之,於是盛尊事光,引光女婿甄邯為侍中奉車都尉。諸哀帝外戚及大臣居位素所不說者,莽皆傅致其罪,為請奏,令邯持與光。光素畏慎,不敢不上之,莽白太后,輒可其奏。於是前將軍何武、後將軍公孫祿坐互相舉免,丁、傅及董賢親屬皆免官爵,徙遠方。

大司徒の孔光は名儒である。3帝に仕え、王元后に敬われる。王莽は孔光を盛尊して、孔光の娘婿・甄邯侍中・奉車都尉とした。

ぼくは思う。これが曹丕の甄皇后の祖先である。
『魏書』巻5・后妃伝/曹丕の甄皇后:曹叡がつくる架空の皇后

哀帝の外戚と、哀帝期の大臣のうち、王莽と関係が良好でない者に、罪を着せた。 王莽は甄邯を動かし、孔光から罪人を上げさせようとした。孔光は畏慎な性質なので、あえて王元后に上奏しない。王元后は(孔光の沈黙を)許可した。

ぼくは思う。王莽が孔光を尊重した理由が、しっかり書かれていない。「名儒だから」で説明になるのか。班固が、王莽は恣意的な人事を行った、と仄めかすのか。孔光伝を読もう。☆
『後漢書』卓茂伝で、『全訳後漢書』に渡邉注がある。孔光は、交趾の14世の子孫。哀帝のとき、三公となる。外戚の傅氏、馮氏や董賢とぶつかる。王莽と、政治の立場がちかい。

前將軍の何武、後將軍の公孫祿は、相互に大司馬に推薦しあったので、免じられた。丁氏、傅氏、董賢の親属は、みな官爵を免じられた。遠方に徙された。

ぼくは思う。「官爵」が官職と爵位の総称として書かれる!


紅陽侯立,太后親弟,雖不居位,莽以諸父內敬憚之,畏立從容言太后,令已不得肆意,乃復令光奏立舊惡:「前知定陵侯淳於長犯大逆罪,多受其賂,為言誤朝;後白以官婢楊寄私子為皇子,眾言曰呂氏、少帝復出,紛紛為天下所疑,難以示來世,成襁褓之功。請遣立就國。」太后不聽。莽曰:「今漢家衰,比世無嗣,太后獨代幼主統政,誠可畏懼,力用公正先天下,尚恐不從,今以私恩逆大臣議如此,群下傾邪,亂從此起!宜可且遣就國,安後復徵召之。」太后不得已,遣立就國。莽之所以脅持上下,皆此類也。

紅陽侯の王立は、王元后の親弟である。王立は官職にないが、王莽はおじを敬憚する。王莽は、政策を思いどおりにできない。王莽は孔光に、王立の旧悪を上奏させた。「定陵侯の淳于長が大逆したとき、王立は賄賂を受けた。のちに王立は、官婢の楊寄が産んだ子を、成帝の子とウソついた。呂氏が少帝を、高帝の子とウソついたのと同じだ。とはいえ王立には功績があるので(死罪でなく)就国させろ」と。王元后は認めず。

ぼくは思う。王元后は王莽でなく、王氏の総体が繁栄することを願っている。もし王莽だけを溺愛したら、ピュシスとしての原母(貪婪で浮気性の母)でなくなる。いま王元后が、王立の保全を願ってくれたおかげで、王元后がピュシスとしての原母であることが、証明された。

王莽はいう。「大臣の孔光は、王立を就国させろという。だが王元后は、私恩によって大臣(孔光)に逆らう。これでは漢家の衰退を止められない」と。王元后はやむなく、王立を就国させた。

ぼくは思う。王元后の泥沼と、王莽のコンクリートが、はじめて対立した。王莽は「泥沼を突きつめると、うえにある構築物が倒れます。それでも宜しいか」と脅したのだ。王元后の泥沼は、じつはさらに下にはコンクリートが敷かれた「箱庭のなかの泥沼」である。つまり漢家がつぶれたら、泥沼は干上がるしかない。王元后は、忘れていた「泥沼のしたのコンクリート」を思い出させられた。王莽による「原母殺し」は、けっきょく、これと同じ構造である。
ぼくは思う。王元后の権力構造を図示すると、まず大地があり、その上にコンクリートの箱があり、その箱のなかに泥を敷きつめ、泥沼をつくり、その泥沼に王莽がコンクリートをさらに流しこみ、すべてを固めようとする。王莽は、まず泥沼の下にあるコンクリートに、基礎を打ちこむ。これを支柱にして、泥沼の締め出しを画策しているのだ。しかし王朝とは、すべてコンクリート製になると、それはそれで亀裂が走って崩れる。コンクリートのなかにも「固まらない泥」のようなものが、混ざり込んでいて、ときにスキマから吹き出して、コンクリート全体の形を変えるぐらいでないと、維持できない。全て固まってしまうと、割れて終わりだ。王元后の泥沼は柔らかすぎ、王莽のコンクリートは堅すぎる。両者を折衷したところに、「ときに外戚権力が強くなりすぎるが、外戚権力は1代限りで滅びる。しかし外戚は、いくつかの決まった名族から輩出される」という、硬さと柔らかさを併せもつ後漢が誕生する。当事者が制度設計したのでなく(生殖活動にからむことを原理的に人間は決定できない)偶然かつ必然で、そうなった。構造主義的な考え方だけど、王莽を踏まえた後漢とは、そういうものだったと思う。

王莽が上下の者を脅したのは、こんなふうだ。

ぼくは思う。王莽は「もっとコンクリートを固めないと、あんたの泥沼そのものが干上がるよ」といった。脅しというか、真実を述べただけ。しかし「真実をいう」という遂行の行為そのものが、脅迫となる。内容が問題なのでない。


於是附順者拔擢,忤恨者誅滅。王舜、王邑為腹心,甄豐、甄邯主擊斷,平晏領機事,劉歆典文章,孫建為爪牙。豐子尋、歆子B14B、涿郡崔發、南陽陳崇皆以材能幸於莽。莽色厲而言方,欲有所為,微見風采,黨與承其指意而顯奏之,莽稽首涕泣,固推讓焉,上以惑太后,下用示信於眾庶。

ここにおいて王莽は、附順する者を拔擢し、忤恨する者を誅滅した。
王莽の人材登用は以下のとおり。王舜と王邑は腹心となる。甄豊と甄邯は撃断をつかさどる。平晏は機事を領する。劉歆は文章を典する。孫建は爪牙となる。

周寿昌はいう。傅介子らの傅氏の賛はいう。「孫建は威が重くて顕なり」と。遊侠伝はいう。王莽は強弩将軍の孫建と関係がよい。孫建は、賊の漕中叔をかくまった。王莽は賊にきびしいが、孫建を不問とした。孫建は王莽につかえ、立国将軍、成新公となる。王莽は娘を平帝の皇后にしたが、漢新革命のあと「黄皇室主」と改めた。娘を孫建の嫁にしようとした。このように王莽は、孫建を寵任した。

甄豊の子・甄尋と、劉歆の子・劉フン、涿郡の崔發、南陽の陳崇は、みな材能ゆえに王莽に用いられた。
王莽は(見せかけでは)気色をはげまし、発言はまっすぐである。ただし希望があると、かすかに風采(そぶり)をみせた。党与は王莽の指示する内容を読解し、言語化して上奏した。

ぼくは思う。王莽の「ほのめかし=意味するもの」シニフィアンに、周囲が過剰に「意味されるもの」シニフィエを読みとる。まさに偉大なる父だなあ。前述の内海氏によると、シニフィエが読み取られた0.5秒あと(この0.5秒は実験結果に基づきつつも符牒に過ぎない)、シニフィアンがあったことが事後的に措定される。この遅れを取り戻し、「はじめに王莽の意思ありき」という物語を偽作するのが、人間=自己の意識の構造だと。

王莽は稽首・涕泣して(党与が自分の意思を先回りして作成した)上奏を固辞した。上は王元后を惑わし、下には信を示した。

ぼくは思う。王莽は、象徴界の怪物のくせに。言語化の不可能性を、態度(非言語)で表現する。王莽の発言は、いちおう言語で記されているが、それを理解することは難しい。難解さをもって、言語化の不可能性を、遂行的に読者に味わわせている。党与は「王莽の意思を読みとって上奏したはずなのに、なぜ王莽は歓ばないのだ」という、子供の問いにおかれる。党与の知性は、強制的に開かれた状態を維持させられる。さらなる知的なイノベーションが生まれ得る。ラカンみたい。


白雉が献じられ、固辞を通じて安漢公を定義

始,風益州令塞處蠻夷獻白雉,元始元年正月,莽白太后下詔,以白雉薦宗廟。群臣因奏言太后:「委任大司馬莽定策定宗廟。故大司馬霍光有安宗廟之功,益封三萬戶,疇其爵邑,比蕭相國。莽宜如光故事。」太后問公卿曰:「誠以大司馬有大功當著之邪?將以骨肉故欲異之也?」於是群臣乃盛陳:「莽功德致周成白雉之瑞,千載同符。聖王之法,臣有大功則生有美號,故周公及身在而托號於周。莽有定國安漢家之大功,宜賜號曰安漢公,益戶,疇爵邑,上應古制,下准行事,以順天心。」太后詔尚書具其事。

はじめ(王莽は)益州(刺史)に諷し、塞外の蛮夷から白雉を献じさせた。

ぼくは思う。「諷」1文字で、筆誅を加えている。事実を曲げることなく、ニュアンスで王莽をけなす。でもこれは、「充分に王莽をけなした」ことにはならない。想定されている『漢書』の読者は、そこまでバカじゃないだろう。

元始元年(後01)正月、王元后は白雉を宗廟にすすめた。群臣は王元后にいう。「大司馬の王莽は、宗廟を策定した。もと大司馬の霍光は、宗廟を安定させ、3万戸に益封された。爵邑は相国の蕭何にならんだ。王莽も、霍光なみとせよ」と。
王元后は公卿にいう。「王莽の功績は、霍光なみか。私の骨肉なので慎重に決めたい」と。
群臣はいう。「周成王のとき周公旦が輔政して、白雉が献上された。王莽が漢家を安定させた功績は、周公旦に同じだ。王莽を安漢公として、益戸して爵邑を(霍光と)あわせろ。古代の制度と、現代の行事にあわせ、天心を順えろ」と。

ぼくは思う。会話が噛みあっていない。群臣は「王莽は霍光と等しい。霍光は蕭何に等しかった」という。ここから三段論法するなら、「王莽は蕭何に等しい」であろう。論理的には正しい。しかし群臣は「王莽は周公旦に等しい」という。かといって、「霍光=蕭何は、周公旦に等しい」という議論をしていない。故意に、はぐらかすことで、王莽を安漢公にしたような感じ。はぐらかしたことに、意味がある。これを、べつの前漢の功臣と比したら、なんの発展性もない。
ぼくは思う。王莽は、古代の周公旦、現代の霍光=蕭何という、2つの参照ポイントを手に入れた。周公旦という2つめの参照ポイントを手に入れたのは、まさに創発である。創発とは何か。また内海健『さまよえる自己』によると。それを構成する要素に還元されない機能が生み出されること。例えば、時計を分解しても「時間」は出てこないが、時計は時間を創発した。脳と電気信号を分解しても「心」は出てこないが、脳と電気信号は心を創発した。王莽と霍光を徹底的に比較しても、周公旦との関連性は出てこないが、周公旦への連想を創発した。王莽は、周公旦から「公」の爵位を、霍光からは益封をもらった。
内海氏はいう。創発の現場に、気づくことはできない。創発が起きたあとに振り返ると、「創発が、あのあたりで起きたに違いない。起きたと考えないと、ツジツマが合わない」という仕方で気づかれる。ゆえに、安漢公の反対者が「王莽と周公旦はどこが等しいのか」と異議を立てられるのは、すでに創発が起きたあとである。なんだか、「王者」の本質にせまるような跳躍に関するアイディアが、このあたりに眠っていそうでおもしろい。王莽の皇帝即位への階梯だって、構造は同じようなものだ。
ぼくは思う。2つの参照ポイントにより位置が決まるのは、数学の図形の話に似ている。渡邉先生の「名士」論でも、涼州からの移住者は、荊州の誰々、益州の誰々、という2つの参照ポイントにより名声が決められた。

王元后は尚書に詔して、安漢公のことを具申させた。

莽上書言:「臣與孔光、王舜、甄豐、甄邯共定策,今願獨條光等功賞,寢置臣莽,勿隨輩列。」甄邯白太后下詔曰:「『無偏無黨,王道蕩蕩。』屬有親者,義不得阿。君有安宗廟之功,不可以骨肉故蔽隱不揚。君其勿辭。」莽復上書讓。太后詔謁者引莽待殿東箱,莽稱疾不肯入。太后使尚書令恂詔之曰:「君以選故而辭以疾,君任重,不可闕,以時亟起。」莽遂固辭。太后復使長信太僕閎承製召莽,莽固稱疾。左右白太后,宜勿奪莽意,但條孔光等,莽乃肯起。

王莽は上書した。「平帝の定策は、孔光、王舜、甄豊、甄邯とともにやった。彼らも功賞すべきだ。私への功賞はいらない」と。甄邯が王元后に「私よりも王莽を功賞せよ」という。王元后は詔した。「『尚書』洪範にいう。偏党がなければ、王道がさかえると。王莽は私のおいだが、おいを理由に功賞しなければ、それが偏党となる」と。王莽は上書して辞退した。王元后は謁者に命じて、王莽を東箱に待機させる。王莽は辞退した。

ぼくは思う。このあたりは、反復という形式が重要なのです。またしても内海健『さまよえる自己』より。ヘラクレイトスは「同じ川には二度とは入れない」という。水が流れてるから。だが、水が流れてつねに入れ替わっているとはいえ、それでも同じ川だと先に確信しているから「同じ川には二度と入れない」という発言がでてくる。同じ川だと思っているから、同じ川に入れないという。再帰的な反復がある。「再帰的」は内海氏は使ってないかも知れないが、まあ同じ意味でしょう。再説すると(これも反復だなあ)捉えられないものは、反復によって捕らえることができる。
王莽の辞退は(王莽に特有の)謙遜が過剰なレトリックからは、「そもそも私が何を功賞されるか、知りもしない」というだろう。「公」になるって、どういうことか、じつは王莽が初回に断ったとき、誰も知らないのだ。「周公の故事への準拠」だと、形式的に応えることができようが、それは何も言い表したことにならない。だが王莽辞退をすることで、なにを辞退したか明らかになっていく。辞退して初めて、「辞退すべきこと」が明確になり、獲得される。というか王莽が辞退している時点で、「なにを辞退しているかぐらい、王莽が知っていただろう」という想定が周囲に形成されていく。王莽は辞退をくり返すことで、彼自身が「辞退の対象」を見定めていくことができ、また周囲は「王莽が知っているに違いない」と確信してゆき、王莽はその確信(じつは具体的な根拠に乏しい憶測)をすることができる。
たとえば朝礼の前例がない会社で「朝礼の司会当番をやって」と言われたとしても、司会当番がなにを意味するのか分からない。指示者も被指示者も、なにを意味するのか、よく分からない。「司会って、あのテレビで芸人がやってるやつかな」と、故事や事例をもとに理解する。「そんなことイヤですよ」と、とりあえず闇雲に断りながら、「ところで私は何を断ったんだろう」と思い、かつ周囲も「彼は何を断っただろう」と考える。前例のないことを、みんなで一緒に考える。周囲は「彼がイヤがるぐらいだから、彼は朝礼の企画があるんだろうか」と思う。企画があるなら、ますます彼に頼まない法はない。被指示者は「それなら彼を、日程確認の当番に」と押しつけつつ、「朝礼の司会当番が”何ではない”か」を確定させてゆく。指示者は「じゃあ彼を日程確認の当番にするから、きみは朝礼の司会当番ね」と、再度いう。また彼は、、というくり返し。
精神分析のもっと上等な比喩では。子供が不快を訴えて泣く。泣くとお母さんが「空腹なのね」といい、授乳する。お母さんに、この不快感を命名されて初めて、「ぼくは空腹なのか」と分かる。はじめは確信がないが、反復されることで「空腹」という概念を取得する。この概念を取得し、「くうふく」という言語が口を占めるのようになると、乳房が対象化される。乳房が、暗がりから登場する、不思議な心地よいものでなく、お母さんの身体の一部だと理解される。乳房のかわりに「くうふく」という言語がある。輪郭がない全能者だった人が「お母さん」と象徴化される。フロイトの孫の糸巻きのように、いなくてもその代替に、心のなかを占めさせることができる。お母さんがいなくても、悲劇ではない。いないのは「お母さん」だと、名指されて理解=去勢できているから。
「安漢公とはこんなもの」という、確定的なものがないから、王莽は辞退の反復というプロセスを、あえて踏むことで、アウトラインを描いてゆく。「慎みぶかい性格ですね」と片づけては、誤りでないかも知れないが、事態の本質を見のがす。事実として、王莽は史料のつづきで、安漢公の定義について言及する。断りの文句のなかで、はじめて安漢公が定義されてゆくのだ。これで王莽が、安漢公をホイホイ受けてしまえば、王莽は何になったのか(何にならなかったのか)分からないままだ。

王元后は、尚書令の恂に王莽によばせる。「重要な官職にあるのに、ひきこもるな」と。王莽は固辞した。王元后は、長信太僕の閎に王莽をよばせる。王莽は固辞した。王元后は左右に、「王莽の言うとおり、孔光らも功賞すれば、王莽が出てくるかも」という。

ぼくは思う。安漢公の重み、安漢公になることの利益と不利益は、じつは王莽が安漢公になる前に、出揃っているのかも知れない。王莽が安漢公になるとき、周囲が王莽に対して、なにを言うか。どんな態度をとるか。いちど「安漢公」という言語が習得されてしまえば、それは自明になってしまい、ありがたくも何ともない。想像界にある「安漢公」が、象徴界に移行するとき。想像界の裂け目がみえる。この移行とは、王莽が安漢公を受納する瞬間です。
ぼくは思う。受納の瞬間、「始原の一撃」は、象徴界と想像界の接点を震源にして、想像界から現実界にも波及する。想像界の激震により、現実界に、想像界では捉えることができない変化が起こる(かも知れない。当事者の想像界はこれを捕捉できない)。いちど象徴界に移行してしまえば、そこでシニフィアンとして空を飛び、良くも悪くも、想像界から遊離する。
ぼくは思う。禅譲革命もまた、その受納の瞬間が重要なのであって、そのあとの施策は、惰性である。もちろん詳細に検討すべきだが、精神分析家のマターとして、おもしろさの種類がかわる。「浮動するシニフィアン」は、べつの話。


太后下詔曰:「太傅博山侯光宿衛四世,世為傅相,忠考仁篤,行義顯著,建議定策,益封萬戶,以光為太師,與四輔之政。車騎將軍安陽侯舜積累仁孝,使迎中山王,折衝萬里,功德茂著,益封萬戶,以舜為太保。左將軍光祿勳豐宿衛三世,忠信仁篤,使迎中山王,輔導共養,以安宗廟,封豐為廣陽侯,食邑五千戶,以豐為少傅。皆授四輔之職,疇其爵邑,各賜第一區。侍中奉車都尉邯宿衛勤勞,建議定策,封邯為承陽侯,食邑二千四百戶。」四人既受賞,莽尚未起,群臣復上言:「莽雖克讓,朝所宜章,以時加賞,明重元功,無使百僚元元失望。」太后乃下詔曰:「大司馬新都侯莽三世為三公,典周公之職,建萬世策,功德為忠臣宗,化流海內,遠人慕義,越裳氏重譯獻白雉。其以召陵,新息二縣戶二萬八千益封莽,復其後嗣,疇其爵邑,封功如蕭相國。以莽為太傅,干四輔之事,號曰安漢公。以故蕭相國甲第為安漢公第,定著於令,傳之無窮。」

王元后は詔する。「太傅・博山侯の孔光は、益封1萬戸、太師とする。車騎將軍・安陽侯の王舜は、益封1萬戸、太保とする。左將軍・光祿勳の甄豊は、廣陽侯、食邑5千戶、少傅とする。みな四輔之職を授け、爵邑をあたえ、第1區に邸宅をたまう。侍中・奉車都尉の甄邯は、承陽侯、食邑24百戶とする」と。

ぼくは思う。孔光、王舜、甄豊に、王莽を加えて四輔である。ちょっとランクがおちて、甄邯がいる。

4人が受賞しても、王莽は出てこない。群臣は上言した。「王莽は固辞する。だが王莽に適切な功賞をしないと、百姓が失望する」と。

ぼくは思う。群臣は、王莽の意図をまち、功賞を見送っている王元后を責めている。王莽を責めず、むしろ王莽をほめている。王莽の実質的なライバルは、王元后である。王元后に「功賞を退蔵させる」ことは、王元后の威信を失墜さえる、もっとも有効な方法である。
ここまで見ると、王莽の固辞は、もっぱら王元后を打ち負かすために、行われている雰囲気すらある。王元后を破ってしまえば、王莽は天子になれる。なぜなら天子になるだけの功績は、すでに充分である(と王莽が認識しているから)である。

王元后は詔した。「大司馬・新都侯の王莽は、3世(成帝、哀帝、平帝)に三公(大司馬)となる。周公のように輔政して、白雉が献じられた。召陵県と新息県の戸28千戸を益封する。相国の蕭何とおなじ爵邑とする。

ぼくは思う。時系列に沿っても、重要度に沿っても、王莽にとって重要なのは、蕭何よりも周公なのだ。王元后の詔により、ぶじに落ちついたことがわかる。

王莽を太傅とし、四輔之事をさせる。安漢公と号せよ。もと蕭何の邸宅を、王莽の邸宅とする」と。

於是莽為惶恐,不得已而起受策。策曰:「漢危無嗣,而公定之;四輔之職,三公之任,而公幹之;群僚眾位,而公宰之;功德茂著,宗廟以安,蓋白雉之瑞,周成象焉。故賜嘉號曰安漢公,輔翼於帝,期於致平,毋違朕意。」莽受太傅安漢公號,讓還益封疇爵邑事,雲願須百姓家給,然後加賞。群公復爭,太后詔曰:「公自期百姓家給,是以聽之。其令公奉、舍人賞賜皆倍故。百姓家給人足,大司徒、大司空以聞。」莽復讓不受,而建言宜立諸侯王后及高祖以來功臣子孫,大者封侯,或賜爵關內侯食邑,然後及諸在位,各有第序。上尊宗廟,增加禮樂;下惠士民鰥寡,恩澤之政無所不施。語在《平紀》。

王莽は惶恐して、やむなく起ち、受策した。王元后の策文にいう。「王莽は、四輔之職と三公之任をやる。白雉は周公と同じだ。安漢公を号して、平帝をたすけろ」と。王莽は、太傅と安漢公だけ受けたが、益封は受けない。王莽はいう。「私に益封するより、百姓に生産物を配分せよ」と。王元后はいう。「王莽は益封しないが、王莽の属官には2倍あたえる」と。王莽は固辞した。

ぼくは思う。「否認」といえば、ヘーゲル。王莽は、やみくもに王元后の意見を拒むのでない。否定しながら、より適切な自己の立場=待遇を探っている。まるで、コースの両サイドにぶつかりながら、コースのなかを前に進んでゆく、競技車両のプラモデルみたいな。

王莽はいう。「私よりも、諸侯王とその后、前漢の高帝より以来の功臣の子孫に、封戸と邸宅を配分すべきだ。宗廟をとうとび、礼楽をくわえ、士民・鰥寡に恩沢をほどこせ」と。

何焯はいう。宗廟の件は、元帝を「高宗」として、王元后を惑わしたことを指す。恩沢の件は、百姓への施しがある。王莽は虚言したのでなく、衆庶に信を示した。

政策の詳細は『漢書』平帝紀にある。

ぼくは思う。こちらでも、わりと省略したけど、政策の件は、
『漢書』巻10-12:成帝紀、哀帝紀、平帝紀
ぼくは思う。王莽は、百姓や劉氏、建国の功臣について言及することで、「安漢公が他者とどういう関係にあるか」を確定させている。思いつき的に、やみくもに、他者の名をあげているのでない。さっきの言語獲得の事例でいうなら。「空腹」と「のどが乾いた」はどうちがうのか。いろんな事例を集めている。からいものを満腹に食べたあと、「なにか口に入れてくれ」というつもりで、「空腹である」と言えば、「さっき食べたでしょ。それとも、のどが乾いたの」とお母さんに問い返される。こうして差異に気づく。王莽の安漢公も、異姓のくせに「公」をもらうというイレギュラーなので、劉氏や、前漢初に封じられた功臣たちとの関係を、明らかにしておく必要がある。象徴界のシニフィァンに存在するのは、ただほかのシニフィアンとの差異や関係性のみであるから。王元后との公的な往復書簡によって、安漢公がどういうシニフィアンなのか、確定させている。あたかも「辞書」に登録するかのような、作業である。のちのちのために、必要なことである。


王元后が王莽に政事をゆだねる

莽既說眾庶,又欲專斷,知太后厭政,乃風公卿奏言:「往者,吏以功次遷至二千石,及州部所舉茂材異等吏,率多不稱,宜皆見安漢公。又太后不宜親省小事。」令太后下詔曰:「皇帝幼年,朕且統政,比加元服。今眾事煩碎,朕春秋高,精氣不堪,殆非所以安躬體而育養皇帝者也。故選忠賢,立四輔,群下勸職,永以康寧。孔子曰:『巍巍乎,舜、禹之有天下而不與焉!』自今以來,惟封爵乃以聞。他事,安漢公、四輔平決。州牧、二千石及茂材吏初除奏事者,輒引入至近署對安漢公,考故官,問新職,以知其稱否。」於是莽人人延問,緻密恩意,厚加贈送,其不合指,顯奏免之,權與人主侔矣。

王莽はすでに衆庶をよろこばす。王莽は専断したい。王元后が政事にあきてるので、公卿に諷して上奏させた。

ぼくは思う。王莽は陰謀めいた使役がおおい。「益州刺史に諷し、白雉を献上させた」「王元后にもうして詔させた」「公卿に諷して上奏させた」と。班固は王莽をけなす(けなしたふり)をするのだろうが。ここまで影響力や調整力があるなら、ぎゃくに有能な政治家だと思う。『曹瞞伝』が、曹操をけなすために品位を欠いたエピソードをのせて、ぎゃくに親しみやすくなったのと似ている。

「むかし吏人は、功績があれば2千石になれた。州部が推挙した茂才の吏人は、みな王莽に会わせれば良い。王元后は(有能でないから2千石に到らない人材に会わず)小事を見るべきでない」と。
王莽は王元后に詔させた。「平帝が元服までは臨朝・称制しようと思った。だが政事が煩瑣で、私は高齢である。忠賢な者を四輔にしたので、四輔に委任する。『論語』で孔子はいう。舜禹はみずから天下に関与しなかったと。いま以降、封爵のことだけ私に報告せよ。他事は、王莽と四輔が決裁せよ。州牧、2千石および茂才の吏人は、王莽に勤務を考課してもらえ」と。人々は王莽に延問するようになる。王莽は官僚に恩義をくわえた。王莽が水準に満たないと判断した者は、免じられた。権限が王莽に集まった。

ぼくは思う。王莽が人事権をにぎった。「官職と爵位」で見たとき、官爵の部分が王莽に帰せられた。
ぼくは思う。10代のころ読んだ、遠山美都男『白村江』を読み返した。日本の敗因として、官位相当制が未整備なことがあるらしい。百済の王族に、官職を与えず、位階(≒爵位)だけしか与えないから、百済の王族が日本の思うとおりの役割を担わなかったと。白村江の敗戦のあと、反省して、官職の制度も整備したんだと。(ぼくが言うべきことではないが)本当かどうか分からない言説。ともあれ、爵位のみで官職を管理しない王元后は、この白村江の日本と同じになった。


莽欲以虛名說太后,白言:「新承前孝哀丁、傅奢侈之後,百姓未贍者多,太後宜且衣繒練,頗損膳,以視天下。」莽因上書,願出錢百萬,獻田三十頃,付大司農助給貧民。於是公卿皆慕效焉。莽師群臣奏言:「陛下春秋尊,久衣重練,減御膳,誠非所以輔精氣,育皇帝,安宗廟也。臣莽數叩頭省戶下,白爭未見許。今幸賴陛下德澤,間者風雨時,甘露降,神芝生,D67E莢、硃草、嘉禾、休徵同時並至。臣莽等不勝大願,願陛下愛精休神,闊略思慮,遵帝王之常服,復太官之法膳,使臣子各得盡歡心,備共養。惟哀省察!」

王莽は虚名かせぎ、王元后を悦ばせたい。王莽はいう。「哀帝の外戚・丁氏と傅氏のせいで、まだ百姓は奢侈をひきずる。王元后も衣食を節約して、天下の模範になれ」と。王莽は上書して、銭1百万、田3百頃を漢家に献上して、大司農から貧民に分配させた。公卿はみな王莽をしたう。

師古はいう。王莽が王元后に着ろという「繒練」とは、文様のない布地。

王莽は群臣をひきいて、王元后に上奏した。「王元后は高齢なので、衣食を節約すると健康に支障がある。衣食の節約をするな」と。

ぼくは思う。さっき王元后に節約しろと言ったのは、王莽である。なぜ前言撤回するか。王元后に問題意識をみずから持たせたのか。「節約しろ、節約しろ」よりも、「節約しろ、いいえ自由に浪費なさい」のほうが、言葉の内容とは裏腹に、節約すべき事態であることを強烈に、遂行的に王元后に伝えることができるのか。わからん。
ぼくは思う。王莽は「私は漢家に私財を供出しますが、王元后は私蔵なさい」という。これは、官爵の比喩でもある。王元后は王氏に1人でもおおい侯爵が出るように動く。王莽は、官爵の退蔵をきらう。「私の「功績は小さいから、他氏を任じなさい」という。王莽は「気前の良さ」対決を、王元后に挑んでいるんだ。


莽又令太后下詔曰:「蓋聞母后之義,思不出乎門閾。國不蒙佑,皇帝年在襁褓,未任親政,戰戰兢兢,懼於宗廟之不安。國家之大綱,微朕孰當統之?是以孔子見南子,周公居攝,蓋權時也。勤身極思,憂勞未綏,故國奢則視之以儉,矯枉者過其正,而朕不身帥,將謂天下何!夙夜夢想,五穀豐熟,百姓家給,比皇帝加元服,委政而授焉。今誠未皇於輕靡而備味,庶幾與百僚有成,其勖之哉!」每有水旱,莽輒素食,左右以白。太后遣使者詔莽曰:「聞公菜食,憂民深矣。今秋幸熟,公勤於職,以時食肉,愛身為國。」

王莽は王元后に詔させた。「母后之義は、家内から出ない。平帝が幼くて親政できない。孔子は、衛霊公に治道を説くため、南子(衛霊公の夫人)に会った。周公は周成王が幼いので輔政した。(家内に不安があるとき孔子や周公のような助言者が必要であり、平帝が幼い今日において王莽が助言者にあたるわけだが)私は王莽のいう倹約を達成できているか自信がない」と。

ぼくは思う。これを王莽が「言わせている」のだから、あざとい。本当に王莽が「言わせている」のだろうか。これでは王元后が王莽の操り人形である。腹話術士のように、1人2役して会話を成り立たせる。「王莽に簒奪された不幸な漢家のおばあさん」というイメージが出てくる。
ぼくが思うに王元后は、こういう男性原理の政事に、あまり関心がなかったのだと思う。王莽の人形だから、王莽の言いなりに詔するのでない。詔の内容に関心がうすいから、王莽に適当に作らせたのだと思う。史料に残りやすい詔において、王莽のひとり勝ちに見えるが。史料に表れないところで、王莽にとって「理屈の通じない、厄介な原母」として立ち塞がったのだと思う。

水旱のたび、王莽が素食した。王元后は王莽に詔した。「菜食して憂民すると聞いた。だが王莽は要職にあるのだから、肉食せよ。国のために身を愛せ」と。

ぼくは思う。王元后が関心があるのは、「王氏に権限を退蔵すること」だから。こういう「お母さん」としての詔ならできる。しかしそれは、故事と建前をふんだんに引用したものでなく、シンプルなものになる。王元后が政治的に弱いから、故事と建前がないのでなく、必要性を感じないから、故事と建前がないのだ。
師古はいう。「素食」とは菜食である。詳細は霍光伝に注釈した。


莽念中國已平,唯四夷未有異,乃遣使者繼黃金、幣、帛,重賂匈奴單于,使上書言:「聞中國譏二名,故名囊知牙斯今更名知,慕從聖制。」又遣王昭君女須卜居次入待。所以誑耀媚事太后,下至旁側長御,方故萬端。

漢家が平らいだが、王莽は、まだ自分が四囲に影響を与えていないと考えた。匈奴の単于に使者して、黄金や幣帛を贈与した。単于に上書させた。「中国では2字名はダメだとか。私は”囊知牙斯”という名だが、”知”の1文字に改める」と。

沈欽韓はいう。『公羊伝』定公6年の伝はいう。なぜ仲孫忌と名のるのか。2字名をそしる。2字名は礼にはずれると。何休はいう。その難のために、2字名を諱むと。

また王莽は、王昭君の娘・須卜居次を、漢家に入侍させた。王莽が、王元后やその側近の長御を、誑耀(良いニュースでたぶらかし)媚事(こびて、つかえる)するのは、万事がこんな感じである。

ぼくは思う。ふつうに政策を実行した記事なのに。末尾に班固がこのコメントを付けることで、王莽の政策が、まるで詐欺みたいになる。しかし、事実の記述に、手を突っこまないところは、記述者としての心意気を感じる。詔書の内容を改変されたら、まったくワケが分からなくなる。べつに近代歴史学の観点から、詔書に手を加えないのではない。史書の編纂ルールが、詔書の改変禁止なんだろう。たまたまニーズが一致しただけ。


王莽の娘を皇后にする

莽既尊重,欲以女配帝為皇后,以固其權,奏言:「皇帝即位三年,長秋宮未建,液廷媵未充。乃者,國家之難,本從亡嗣,配取不正。請考論《五經》,定取禮,正十二女之義,以廣繼嗣。博採二王后及周公、孔子世列侯在長安者適子女。」事下有司,上眾女名,王氏女多在選中者。莽恐其與已女爭,即上言:「身亡德,子材下,不宜與眾女並采。」太后以為至誠,乃下詔曰:「王氏女,朕之外家,其勿采。」

王莽は、娘を平帝の皇后にして、権限を固めたい。上奏した。「平帝は即位して3年たつが、まだ長秋宮がなく、掖庭に女官もいない。これまで漢家では、後嗣がなくて国難がおきた。『五経』に照らし、12名の妻を置くべきだ。

沈欽韓はいう。『列女伝』はいう。天子は12名、諸侯は9名、大夫は3名、士は2名の妻がいる。檀弓はいう。舜には3妃しかない。夏后氏は3*3=9名を増やして、12名とした。『春秋説』はいう。天子は12名を取ると。これは夏制である。

二王の後(殷周の子孫)、周公と孔子の子孫のうち、長安にいる子女から、平帝の妻をさがせ」と。有司が選ぶなかに、王氏の娘がおおい。王莽は、王氏の娘が他氏と争うことを恐れ(もしくは、王莽の娘が、他の王氏の娘と争うことを恐れ)上言した。「私は徳がなく、私の子は才がない。私の娘を候補からはずせ」と。王元后は、王莽を至誠として、詔した。「王氏の娘は、私の外家である。採用するな」と。

ぼくは思う。どこに王莽が恐れた「争」があるのか。王莽は「私の娘をはずせ」というが、王元后は「王氏の娘をはずせ」という。論点があっていない。これまでの傾向からすると、王莽は自分の娘を皇后にしたくて、王元后は王莽の娘でなくても、王氏ならば皇后にしたい。むしろ王莽は「原母」に突っかかるから、王莽の娘でないほうが良い。このあたり、王莽と王元后の思惑が交錯して、「公的に妥当な建前がつく範囲で」せめぎあったのだろう。だから噛みあわないか。


庶民、諸生、郎吏以上守闕上書者日千餘人,公卿大夫或詣廷中,或伏省戶下,鹹言:「明詔聖德巍巍如彼,安漢公盛勳堂堂若此,今當立後,獨奈何廢公女?天下安所歸命!願得公女為天下母。」莽遣長安以下分部曉止公卿及諸生,而上書者愈甚。太后不得已,聽公卿采莽女。莽復自白:「宜博選眾女。」公卿爭曰:「不宜采諸女以貳正統。」莽白:「願見女。」太后遣長樂少府、宗正、尚書令納采見女,還奏言:「公女漸漬德化,有窈窕之容,宜承天序,奉祭祀。」有詔遣大司徒、大司空策告宗廟,雜加卜筮,皆曰:「兆遇金水王相,封遇父母得位,所謂『康強』之占,『逢吉』之符也。」

庶民、諸生、郎吏より以上、守闕する者まで、1日に1千余人が上書した。公卿、大夫は、或者は廷中に詣で、或者は省戶の下に伏し、「王莽の娘が、天下の母=皇后になってほしい」という。王元后はやむなく、王莽の娘を採用した。

ぼくは思う。わかった。王莽は、もし公募すれば、王氏の娘が(王莽の娘以外にも)出てくる。ゆえに王元后が、王莽の娘以外を皇后に選んでしまう。だから全ての王氏をいちど除外させ、その上で王莽の娘だけを推薦させたのだ。この辞退の劇場は、王莽が王元后を牽制するだけのために、やっている。しかも天下から見ると、真意がバレないような仕方で。つまり、レヴィナスっぽく言うと、「牽制するのとは、べつの仕方で」牽制しているのだ。 ぼくは思う。ラカンに引きつけて、王莽について考えると。衒学めき、理解されにくく、破綻すらおこすのは、「容易には理解させないこと」が戦略の一部なのだ。ラカンは、それによってメタレベルで自説を補強した。現実界から、トラウマ部分を見落とすことにより、想像界が作られる。想像界をカタに嵌めることによってしか、象徴界が作られないなど。王莽は象徴界に住まう「父」なんだが、この象徴界の暴力をつかって、おもに想像界にいる王元后を翻弄した。
ぼくは思う。王莽は「殷周や孔子、周公の娘を入れろ。私の娘をはずせ」という。王元后は、王莽の娘をはずして、他の王氏を入れる理由がない。だって、王莽の娘でない王氏を、殷周の子孫と並べるなんて、おかしいから。じつはこれは王莽のトリックであり、他の王氏を外させておき、王莽の娘だけを推薦させた。王莽にとっての実際の敵は、王元后が推薦する、王莽の娘以外の王氏だった。群臣は、王莽のように複雑なことをやらず、直接的に「王莽の娘を皇后に」という。他の王氏が入る余地はない。結果、王莽は、自分の娘を皇后にするという、所期の目的を達成すると。
ぼくは思う。王莽の娘が皇后になれば、王元后よりも王莽のほうが「皇帝に近い血縁者」となり、王元后は用済になる。政事=象徴界に関心がうすい王元后でも、さすがにこれを感じとり、生き残りをかけ、あえて王莽の娘でない者を、皇后にしたい。この構図が見えて、良かったなあ!

王莽はいう。「ひろく女性を募集せよ」と。公卿はいう。「王莽の娘でない者を皇后にして、母系の正統を分裂させるのは良くない」と。王莽はいう。「公卿を、私の娘と会わせたい(皇后に適任か査定してほしい)」と。王元后は、長楽少府、宗正、尚書令をつかわし、王莽の娘と面会させた。彼らは還って上奏した。「皇后として祭祀を奉るのに適任だ」という。王元后は、大司徒と大司空から宗廟に策告させ、卜筮した。「金=王と、水=相とが遇って、父母が位を得るという。(王莽の娘が皇后になるのは)大吉である」と。

信郷侯佟上言:「《春秋》,天子將娶於紀,則褒紀子稱侯,安漢公國未稱古制。事下有司,皆曰:「古者天子封後父百里,尊而不臣,以重宗廟,孝之至也。佟言應禮,可許。請以新野田二萬五千六百頃益封莽,滿百里。」莽謝曰:「臣莽子女誠不足以配至尊,復聽眾議,益封臣莽。伏自惟念,得托肺腑,獲爵士,如使子女誠能奉稱聖德,臣莽國邑足以共朝貢,不須復加益地之寵。願歸所益。」太后許之。有司奏:「故事,聘皇后黃金二萬斤,為錢二萬萬。」莽深辭讓,受四千萬,而以其三千三百萬予十一媵家。群臣復言:「今皇后受騁,逾群妾亡幾。」有詔,復益二千三百萬,合為三千萬。莽復以其千萬分予九族貧者。

信郷侯の劉佟は上言した。

師古はいう。『王子侯表』によると、清河綱王の劉子豹は、はじめ新郷侯に封じられた。爵位は曽孫の劉佟まで伝えられた。漢新革命のとき、王姓をもらう。「新」と「信」は通じる。信郷侯とは、新郷侯である。

『春秋』によると、天子が子爵の紀から娘を娶るとき、侯爵にした。王莽の娘を皇后にするにあたり、王莽は紀侯ほどの待遇を受けていない」と。

師古はいう。この解説は、『外戚恩沢侯表』にある。
沈欽韓はいう。『公羊伝』隠公2年に、紀は子爵とよばれる。桓公2年、侯爵でよばれる。何休はいう。「紀侯」と侯爵とよぶのは、天子が紀の娘をめとり、宗廟を奉らせるから。ゆえに紀は100里に封じられた。『穀梁伝』の注解では、ときに魯王によって爵位が進められたとある。

有司はいう。「紀侯の前例があるとおり、天子の皇后の父母は、1百里に封じられる。王莽に新野の256百頃をふやし、合計で1百里とせよ」と。王莽は増封を辞退した。だが王元后は、王莽の増封を許した。

ぼくは思う。王元后を捉えるとき難しいのだが。王元后は、王氏の全体を盛りたてたい。王莽を敵対視するのでない。王莽が、王氏の一部であることを弁える範囲において、王莽を応援する。王莽の収入は、王氏全体の収入でもあるから。王莽が政治理念に駆られて、王氏の総和を減らす行動をとると、敵対する。なかなか敵味方が確定しないが、親子の闘争って、そんなもんだと思う。

有司はいう。「皇后の嫁入のとき、黄金を2万斤を与える。銅銭なら2億である」と。

沈欽韓はいう。『漢官儀』では、皇帝が皇后をもらうとき、黄金1百斤を与えると。『後漢書』梁皇后紀はいう。恵帝の皇后の故事にのっとり、黄金2万斤をもらうと。『宋書』礼志は、尚書の朱整の議論を載せる。漢高后の制度では、皇后をもらうとき、黄金2百斤と馬12匹をあたえた。夫人をもらうとき、金50斤と馬4匹をあたえたと。

王莽は辞退して、40百万だけもらう。うち王莽は7百万だけもらい、33百万を11の媵家に3百万ずつ分配する。群臣は上言する。「王莽の取り分が少なかった」と。さらに王莽に23百万を与える。合わせて王莽に30百万を与えた。王莽は10百万を、九族のなかの貧者に与えた。

ぼくは思う。王莽の1度目の分配は、他氏の視線を意識したもの。2度目の分配は、王元后の視線を分配したものだろう。王元后に「私は王氏を保全する者です」とアピールしたのだ。王莽は自分の子を殺すけどね。


陳崇時為大司徒司直,與張敞孫竦相善。竦者博通士,為崇草奏,稱莽功德,崇奏之,曰:

陳崇はときに大司徒司直である。張敞、孫竦と仲がよい。孫竦は博通の士なので、、陳崇のために草奏して、王莽の功徳をほめた。陳崇が上奏するには。

陳崇の上奏ははぶく。25百字ありました。これまでの王莽の功績を振り返る。というか、王莽伝の反復。まるで手芸の「本返し縫い」のように、王莽伝の復習が入る。
ぼくは思う。班固は、省略しようと思えばできた。なぜなら内容が重複するから。しかし「王莽伝に字数がほしい」という積極的な意図があったらしく、省略されない。確かに「そういう上奏があったから引用する」という態度は、正史の編集方針として正しい(他の箇所なみ)なので、奇妙ではないのだが。


◆王宇と呂寛の事件

太后以視群公,群公方議其事,會呂寬事起。
初,莽欲擅權,白太后:「前哀帝立,背恩義,自貴外家丁、傅,撓亂國家,幾危社稷。今帝以幼年復奉大宗,為成帝後,宜明一統之義,以戒前事,為後代法。」於是遣甄豐奉璽綬,即拜帝母衛姫為中山孝王后,賜帝舅衛寶、寶弟玄爵關內侯,皆留中山,不得至京師。莽子宇,非莽隔絕衛氏,恐帝長大後見怨。宇即私遣人與寶等通書,教令帝母上書求入。語在《衛後傳》。莽不聽。

王元后が群公に会い、平帝の皇后を選んでいるとき、呂寛の事件がおきた。
はじめ王莽は、王元后にいう。「前に王元后が哀帝を立てたが、哀帝は恩義にそむき、自分の母系の丁氏と傅氏を高位につけた。いま平帝に成帝を嗣がせたが、平帝の外戚を一本化して(平帝の実母の衛氏でなく、義母の王氏を外戚権力として)後世の法(参照すべき漢家の故事)としたい」と。甄豊に璽綬をもたせ、平帝の母の衛姫を中山孝王后とした。

ぼくは補う。平帝の母を、皇帝の母でなく、藩王の后とした。
ぼくは思う。王莽が哀帝の外戚を罰するときは、「私を虐げた」ことを理由とせず、「王元后の恩義に背いた」ことを理由とする。つまり哀帝の件は、王莽みずからの案件でなく、王元后の案件である。ただし、いま王莽の時代に、自分の政権を固めるのに有利であれば、都合よく前世代の王元后をひっぱりだし、王元后の名のもとで刑罰を実行する。いま平帝の実母に対処するため、もちだした。
ぼくは思う。元帝と王元后が成帝を生んだ。ここまでは生物学的な事実。つぎに、成帝の「子」である平帝を、王氏の「子」とする。そのために王莽が娘をめあわせる。王莽の娘婿なら、王氏の「子」だからね。王氏を「蘇我・藤原氏」タイプの外戚にするために、哀帝の母系、平帝の母系の排除は、必要な措置である。王莽の娘を皇后にする時点だからこそ、キレイにしたい。

哀帝のおじである衛宝と、その弟の衛玄を関内侯として、中山に留め、京師に到らせない。王莽の子・王宇は、衛氏を隔絶させれば、成長した平帝が王氏を怨むと考えた。ひそかに衛宝に文書をおくり、「平帝の実母・衛姫を、長安に入れたいと上書せよ」と指図した。『漢書』衛後傳にある。王莽はゆるさず。


宇與師吳章及婦兄呂寬議其故,章以為莽不可諫,而好鬼神,可為變怪以驚懼之,章因推類說令歸政於衛氏。宇即使寬夜持血酒莽第門,吏發覺之,莽執宇送獄,飲藥死。宇妻焉懷子,系獄,須產子已,殺之。 莽奏言:「宇為呂寬等所詿誤,流言惑眾,與管、蔡同罪,臣不敢隱,其誅。」
甄邯等白太后下詔曰:「夫唐堯有丹硃,周文王有管、蔡,此皆上聖亡奈下愚子何,以其性不可移也。公居周公之位,輔成王之主,而行管、蔡之誅,不以親親害尊尊,朕甚嘉之。昔周公誅四國之後,大化乃成,至於刑錯。公其專意翼國,期於致平。」

王宇は、師の吳章、婦兄の呂寬とともに議論した。呉章は「王莽を諫めてもムリだ。王莽は鬼神を好む。変怪をなし、王莽を驚懼させろ」と。呉章は、変怪を起せば、王莽が衛氏に政権を返すと考えた。王宇は呂寛に血酒を持たせ、王莽の第門にぬらせた。王莽の吏が発見した。王莽は、王宇を捕らえ、送獄した。王宇は服毒した。王宇の妻・焉は、妊娠したまま系獄され、子(王莽の孫)を産んでから殺された。王莽は上奏した。「王宇は呂寛を誤らせ、流言して衆を惑わした。管叔や蔡叔と同罪である。王宇はわが子だが、あえて隠さず誅殺した」

ちくま訳はいう。呉章のことは、『漢書』儒林伝☆にある。妊婦を処罰しないのは古制であり、王莽は古制に従って、妊婦を殺さなかった。
『論語注疏』はいう。孔曰:親而不賢不忠則誅之,管、蔡是也。仁人,謂箕子、微子。來則用之。

甄邯が申し、王元后に詔させた。「唐堯には丹硃、周文王には管蔡という、愚子があった。人間の本性は変化しないので、唐堯も周文も愚子を殺した。親親を以てせず、尊尊を害した。私は王莽の判断を適切と考える。周公は四国(三監と淮夷)を誅してから、天下の教化が成功した。王莽も教化に成功するだろう」と。

ぼくは思う。「親親」は後漢の儒教のキー概念だが。この概念を持ちだしても、子殺しを正統化できる。というか、子は親を殺せないが、親は子を殺せるのね。老父は体力的に劣るから、現実界では子が親を殺せる。現実界は、このように「何が起こるか分からない、どっちに転ぶか分からない」危うい世界だ。ゆえに儒教という象徴界は、まさに「父の名=否」のもと、親殺しを禁止する。まったくラカンに該当する話。


莽因是誅滅衛氏,窮治呂寬之獄,連引郡國豪桀素非議已者,內及敬武公主、梁王立、紅陽侯立、平阿侯仁,使者迫守,皆自殺。死者以百數,海內震焉。大司馬護軍褒奏言:「安漢公遭子宇陷於管、蔡之辜,子受至重,為帝室故不敢顧私。惟宇遭罪,喟然憤發作書八篇,以戒子孫。宜班郡國,令學官以教授。」事下群公,請令天下吏能誦公戒者,以著官簿,比《孝經》。

王莽は衛氏を誅滅した。呂寬を窮治して、下獄した。郡國の豪桀のうち、王莽をそしる者を連坐させた。連坐は、劉氏と王氏の内では、敬武公主(元帝の妹)、梁王の劉立、紅陽侯の王立、平阿侯の王仁におよぶ。使者が迫守して、自殺させた。死者は1百人をかぞえる。海内は震えた。

先謙はいう。敬武公主は、薛宣伝にある。☆

大司馬護軍の褒が上奏した。「安漢公の王莽は、子の王宇が管蔡と同罪をおかした。帝室のため私心をすてて、王宇を殺した。王莽は憤發し、この教訓を8篇の文書に記して、子孫の戒めとした。郡国にくばり、学官をたて、王莽の戒めを教授させろ」と。群公に下された。天下の吏のうち、王莽の戒めを暗誦した者は、官簿に名を記された。王莽の戒めは、『孝経』と同じ扱いである。

師古はいう。官簿に名を記されるとは、選挙される権利があること。
周寿昌はいう。漢文帝は『孝経』に博士を設置した。司隷には『孝経』の師がいる。『孝経』を暗誦したら官簿に名を記されるのだから、『孝経』の学官もあったのだろう。
ぼくは思う。『孝経』は、加地先生の翻訳と解説によると、だいぶ理路整然とした論文形式。おそらく漢代などに編集されたと。つまり王莽が、『孝経』にならぶ儒教の教科書をつくることは、充分にあり得たのだ。
ぼくは思う。『史記』は司馬遷が「発奮」して書いた書物だと、『漢書』に登録されている。発奮すると、理性を失って、ひどい内容になる。著者が奮発したというのは、書物に対する批判になるそうな。『『史記』と『漢書』―中国文化のバロメーター 』という本で読んだ気がする。班固は、ちょいちょい王莽に微細な攻撃をくわえる。

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平帝期の下、宰衡となり、居摂する

四年春,郊祀高祖以配天,宗祀孝文皇帝以配上帝。四月丁未,莽女立為皇后,大赦天下。遣大司徒司直陳崇等八人分行天下,覽觀風俗。

元始4年春、郊祀して高祖を天に配す。宗祀して孝文皇帝を上帝に配す。4月丁未、王莽の娘を皇后とした。天下を大赦した。大司徒司直の陳崇ら8人に、分担して天下をめぐらせた。風俗を観覧させた。

先謙はいう。8人とは。『恩沢表』によると、王惲、李オウ、郝党、陳崇、謝殷、並普、陳鳳である。


元始4年、王莽が宰衡となる

太保舜等奏言:「《春秋》列功德之義,太上有立德,其次有立功,其次有立言,唯至德大賢然後能之。其在人臣,則生有大賞,終為宗臣,殷之伊尹,周之周公是也。」及民上書者八千餘人,鹹曰:「伊尹為阿衡,周公為太宰,周公享七子之封,有過上公之賞。宜如陳崇言。」章下有司,有司請「還前所益二縣及黃郵聚、新野田,采伊尹、周公稱號,加公為宰衡,位上公。掾史秩六百石。三公言事,稱『敢言之』。群吏毋得與公同名。出眾期門二十人,羽林三十人,前後大車十乘。賜公太夫人號曰功顯君,食邑二千戶,黃金印赤□。封公子男二人,安為褒新侯,臨為賞都侯。加後聘三千七百萬,合為一萬萬,以明大禮」。

太保の王舜らが上奏した。「『春秋』に記される功德は、上から順に、立德、立功、立言である。最上の立徳は、大賢でないとできない。立徳した人臣は、生前は大賞、死後は宗臣とする。殷の伊尹、周の周公がこれにあたる」と。

ちくま訳はいう。『左伝』襄公24年より。

民の8千余人が上書して、皆いう。「伊尹は阿衡、周公は太宰となる。周公は7子を封じられ、上公の賞をもらう。陳崇のいうように、王莽にも同じ待遇をあたえよ」と。下章され、有司に議論させた。有司は上請した。
「まえに増やした2県と黃郵聚、新野田を王莽から返還させろ。伊尹と周公の称号をあわせ、王莽を”宰衡”とし、位は上公とせよ。宰衡の掾史の秩は6百石とせよ。三公が王莽に発言するときは、”敢えてこれを言う”とせよ。群吏に、王莽と同名を使わせるな。王莽の太夫人(母)を功顯君として2千邑とせよ。王莽の男子2人を、王安を褒新侯、王臨を賞都侯とせよ。王莽の娘の嫁入の資金に、37百万を増やして、併せて100百万とせよ」と。

ぼくは思う。なにがキッカケだっけ。まだ、王莽の娘が皇后となったことを、動機として引きずっているか。立徳なんちゃらとか言うが、けっきょくは嫁入の続きなんだ。


太后臨前殿,親封拜。安漢公拜前,二子拜後,如周公故事。莽稽首辭讓,出奏封事,願獨受母號,還安、臨印□及號位戶邑。事下太師光等,皆曰:「賞未足以直功,謙約退讓,公之常節,終不可聽。」莽求見固讓。太后下詔曰:「公每見,叩頭流涕固辭,今移病,固當聽其讓,令視事邪?將當遂行其賞,遣歸就第也?」

太后が前殿に臨み、みずから王莽を封拜した。王莽は拜前、2子は拜後した。周公の故事どおりである。王莽は稽首して辞譲した。「母への君号は受けるが、2子の封地、私の宰衡と戸邑はいらない」と。太師の孔光らがいう。「退譲が王莽のやりかただが、最後には受納せねばならんよ」と。

ぼくは思う。『贈与論』の世界を、見すかす孔光。

王莽は固辞したい。王元后は詔した。「王莽は、謁見のたびに叩頭・流涕して固辞する。いま病気といい、謁見せずに固辞する。王莽を朝廷にひっぱりだそう。王莽が受納するまで、帰宅させずにおこう」と。

ぼくは思う。王元后は「媒介者」なんだな。もっとザツに言えば、腹話術の人形。いまは漢帝というよりは、群臣の思いを代弁させられる。王莽の思いを代弁することもある。この中空のトーラスのような感じ、何でも入るし、何でも出てくる、という振る舞いが、いかにもラカンのいう「存在しない」女性である。
ぼくは思う。このように、1人で何役もこなすのは、ドラゴンボールのブルマです。娘、彼女、ヒロイン、友達、母、後方支援者(物質と資金と技術の面で)、理解者、保護者、驚かされる者、などの役割をすべて課せられる。少年漫画という「男性社会」のなかで、何でも入るし、何でも出てくるという存在。言語による物語とは、男性原理による象徴界の「男性社会」なので、こういう役割の女性が出てくる。
ぼくは思う。後漢における幼帝も、同じ「存在しない」女性としての役割を果たしたのかも。前漢において、父性権力である皇帝が良しとされた。高帝、武帝、宣帝など。それ以外の幼帝は「異常値」として処理された。しかし後漢の皇帝は、和帝以降、なかなか父性権力としての皇帝が出てこない。「なぜ父性権力のでない後漢が滅びないんだろう」という問いが立つ。「いいえ、桓帝も霊帝も、強権的な父でした」というのは、揺れ戻しの主張なんだろうが。しかし、桓帝も霊帝も、即位したときは子供だった。桓帝の後期、霊帝の後期に、点描的に父性権力が発動したとしても、それが後漢を維持したと考えるのはムリがある。というか、霊帝が中央集権を進めると、ぎゃくにガタがくる。党錮だって、過度な中央集権の副作用に見える。ここで発想の転換が必要なんだ。皇帝が「空虚な中心」であることで、王朝が維持されること。後漢は、そういう王朝なんじゃないか。この種類の議論は、天皇の歴史を知る日本人が、心理的にアドバンテイジがある気がする。イメージができるから。史書の冒頭に、ドーンと皇帝の事績=本紀が出てくるような思考法じゃあ、感覚的にこの発想を受けつけられないだろう。思考法は、「史料の作り方」に規定される。
ぼくは思う。無限に理由があげられるだろうが、日本で「正史」が編集されないのは、それなりに特徴(もしかしたら意図)があるかも知れない。『後漢書』の決定版が定まらないことは、後漢の皇帝権力が「空虚な中心」だったからかも知れず。
ロラン・バルト『表徴の帝国』を、ネット通販した。到着まち。


光等曰:「安、臨親受印□,策號通天,其義昭昭。黃郵、召陵、新野之田為入尤多,皆止於公,公欲自損以成國化,宜可聽許。治平之化當以時成,宰衡之官不可世及。納徵錢,乃以尊皇后,非為公也。功顯君戶,止身不傳。褒新、賞都兩國合三千戶,甚少矣。忠臣之節,亦宜自屈,而信主上之義。宜遣大司徙、大司空持節承製,詔公亟入視事。詔尚書勿復受公之讓奏。」奏可。

孔光はいう。「王安と王臨は、王元后から印綬をもらった。断れない。王莽が封地を私物にしたくないなら、王莽を認めてやれ。宰衡の称号は、世襲のオプションをつけず(贈物を小さくして)王莽に受納させろ。結納の貨幣は、王莽でなく王莽の娘にあげるのだから、王莽に断る権利はない。王莽の母の食邑は、1代限りにせよ(贈物を小さくする)。王莽の2子に与える、褒新と賞都の2国は、併せても3千戸だから、とても少ない(受けとらせても返報の義務は大きくないため、受けとるだろう)。大司徒と大司空に持節させ、王莽を朝廷に来させよう。尚書に”王莽はもう辞退するな”という尚書を作成させ、上奏させよう」と。

ぼくは思う。ポトラッチに補正が入った。このように、贈物の大きさが、真剣に補正されていることから、『贈与論』の諒解が、現実味をもって受け入れられていたことを証明できる。いや証明ができるというより、「同じ現象が観察されるので、同じ原因があると推測される」が本当だが。
ぼくは思う。王莽を迎えにいく三公に、大司馬がいないのはなぜか。王莽が大司馬だからだ。鏡像段階論!とは、ちょっと違うかw


莽乃起視事,上書言:「臣以元壽二年六月戊午倉卒之夜,以新都侯引入未央宮;瘐申拜為大司馬,充三公位;元始元年正月丙辰拜為太傅,賜號安漢公,備四輔官;今年四月甲子復拜為宰衡,位上公。臣莽伏自惟,爵為新都侯,號為安漢公,官為宰衡、太傅、大司馬,爵貴、號尊、官重,一身蒙大寵者五,誠非鄙臣所能堪。據元始三年,天下歲已復,官屬宜皆置。《穀梁傳》曰:『天子之宰,通於四海。』臣愚以為,宰衡官以正百僚平海內為職,而無印信,名實不副。臣莽無兼官之材,今聖朝既過誤而用之,臣請御史刻宰衡印章曰『宰衡太傅大司馬印』,成,授臣莽,上太傅與大司馬之印。」

莽は起って政治を視た。上書した。「元壽2年6月戊午の夜、私は新都侯として未央宮に入る。大司馬となる。元始元年正月丙辰、太傅となり、安漢公の号をもらう。四輔の官となる。今年の元始4年4月甲子、また宰衡となり、位は上公。私は、爵は新都侯、号は安漢公、官は宰衡、太傅、大司馬である。寵恩を5つ(宰衡、新都侯、安漢公、宰衡、太傅、大司馬)ももらって、分不相応です。

ぼくは思う。前漢末は五等爵をやらない。漢制の「侯」と、臨時の「公」が両立してる。明治の華族を先に知ってると誤りそう。

元始3年より、天下の収穫は回復した。漢制の官属は(財政難のリストラを停止して)みな設置せよ。『穀梁伝』はいう。”天子の宰は、四海に通ず”と。私は宰衡ですが、四海に通じるための印信がない。名実が一致しない。私に宰衡の印章をください。”宰衡・太傅・大司馬の印”と刻んでほしい。太傅と大司馬の印は返却する」と。

ぼくは思う。王莽は「恩寵をもらう代わりに、せっせと働きます」と言ってる。王莽は「欲深くも印を請求した」のではない。『贈与論』的には、そういう理解になる。また王莽が宰衡でいるかぎり、他に太傅と大司馬が立つことはできない。なぜなら、宰衡と(外科手術的に困りものという語感で)癒着してしまったから。
王莽は、ただ働きますと言うのでなく、『穀梁伝』を持ちだした。『穀梁伝』は、あまり日が当たらない。もう歴史的な役割を終えたもの。「宰相が天下を担当する」なんて記述は、どこにでもありそうだが。なぜ王莽は『穀梁伝』だったのだろう。王莽の気持ちになって、『春秋』の他の本には、適切な表現がなかったのか、検索するとおもしろい。


太后詔曰:「可。□如相國,朕親臨授焉。」莽乃復以所益納徵錢千萬,遺與長樂長御奉共養者。太保舜奏言:「天下聞公不受干乘之土,辭萬金之幣,散財施予千萬數,莫不鄉化。蜀郡男子路建等輟訟慚怍而退,雖文王卻虞、芮何以加!宜報告天下。」奏可。宰衡出,從大車前後各十乘,直事尚書郎、待御史、謁者、中黃門、期門羽林。宰衡常持節,所止,謁者代持之。宰衡掾史秩六百石,三公稱「敢言之」。

王元后は詔した。「王莽の特注の印章をつくろう。綬=ひもは、相國と同じにする。私みずから、王莽に授ける」と。

ぼくは思う。印綬のメーカーを主人公にした小説とか、おもしろそう。現代日本の大阪造幣局みたいに、国家権力を象徴化した「モノ」を作る場所って、なんだか神秘的だと思う。そりゃ、サクラも綺麗に咲くよね。貨幣の鋳造と、サクラの花の共通性とか、いろいろ見つかりそう。長安の印綬の工房にも、ウメか何かを植えさせて、小説のネタにすれば良いのだ。
ぼくは思う。いま王莽は相国のひもをもらった。漢家の相国とは、蕭何と曹参のみで、つぎは董卓とされる(あってるのかな)。見のがされがちだが、王莽もひそかに象徴的に「相国」を経由しているんだなあ。印章だけ見ていてはダメなんだ。たしかに王莽の官位は、相国を経由しないが。王莽は相国なみでもある。というか、ひもにも、象徴的な意味を紛れ込ませることができる。おもしろいなあ。
ところで、相国のひもって、何色だっけ。

王莽は、もらった金銭のうち10百万を、長楽長御とともに王元后を世話する者にわたす。太保の王舜は上奏した。「王莽が10百万銭も散財した。教化されない者はない。蜀郡の男子・路建らは、小銭をめぐって訴訟したが、恥じて取り下げた。周文王が虞と芮を教化したよりも、すごい教化である。

師古はいう。虞と芮は、どちらも国名である。黄河の東にある。2国は、田地をとりあい、対立した。2国は、周文王の徳を聞き、国境の田地をゆずりあった。「2国の土地でなく、周の土地である。私たちのような小人が、この土地を踏めない」と。国境の田地を、2国とも耕さなくなった。
ぼくは思う。緩衝地帯をつくり、そこの田地をムダにしてしまった。天下の生産力は減少したが。そんな尺度で評価すべきでないのだろう。このエコノミック・アニマルめが。

王莽の散財とその効果を、天下に広報すべきだ」と。王元后はゆるした。
王莽が外出すると、車馬がしたがう。つねに王莽が持節し、王莽が休止すると、代わりに謁者が持節する。宰衡の掾史は秩6百石で、三公は王莽に向けて「敢えてこれを言う」と前置きに言った。

劉フンはいう。宰衡の権限などは前出であるから、『漢書』は省略している。


◆学問と制度を整備する
是歲,莽奏起明堂、辟雍、靈台,為學者築捨萬區,作市、常滿倉,制度甚盛。立《樂經》,益博士員,經各五人。征天下通一藝教授十一人以上,及有逸《禮》、古《書》、《毛詩》、《周官》、《爾雅》、天文、圖讖、鐘律、月令、兵法、《史篇》文字,通知其意者,皆詣公車。網羅天下異能之士,至者前後千數,皆令記說廷中,將令正乖廖,一異說雲。

この歳、王莽は、明堂、辟雍、靈台をつくる。学者のために、10万区をつくる。市をつくり、つねに倉は満ちた。さかんに制度が定められた。

長安の街区について、上海古籍6071頁に、超くわしい。

『楽経』の学官をたて、博士の定員をふやす。経書1つに5人ずつ。天下から1分野の学問に通じた教授を、11人以上あつめる。逸『礼』、古『書』『毛詩』『周官』『爾雅』、天文、圖讖、鐘律、月令、兵法、『史篇』につき、文字と意味に通じるものを、公車でまねく。

孟康はいう。『史篇』とは。15篇の古文(今文でない)である。師古はいう。周宣王は、太子の史氏に、大篆書で史書を作成させた。王莽はこれを研究させた。

天下にいる異能之士を網羅した。長安にきた者は、前後で1千人を数える。みな廷中で記述と検討をして、正誤を判定した。

ぼくは思う。さすが、象徴界のバケモノ!王莽は、学者たちを招く場所をつくり、学者を管理するもの。王莽は、みずから「他者の他者」「言語にたいするメタ言語」になろうとした。大澤真幸氏は読んでみると、つまらなかったが、「第三者の審級」と言い換えても良い。しかしラカンによると、「メタ言語は存在しない」のです。また、夢判断において、夢はランガージュ(言語活動)と同じ構造であり、すでに象徴化されたものなので、「夢を象徴化する」のは、屋上屋を架すような、ムダなこと。むしろ誤ったことです。つまり王莽は、「他者の他者」「メタ言語」「夢の象徴化」をやろうとして、これからコケてゆく。
おお!できた。王莽は「メタ言語」になろうとして、失敗した男なんだ。
ツイッター用まとめ。王莽は「メタ言語」になりたかった。だが「メタ言語は存在しない(ラカン)」ので、王莽はコケた。説明します。言語は、現実や想像をいちど象徴化したもの。その言語をふたたび象徴化(メタ言語化)しようとしても、失敗する。いちどめの言語の次元に足をからめ取られる。王莽の挫折はこれと同じ構造!

王莽は学者たちに、

ぼくは思う。斎藤環『メディアは存在しない』で、斎藤環が「東浩紀による”象徴界”の使い方は誤りである」という。東浩紀は「めんどくさいなあ」という。どのように東氏は誤っているか。東氏は「近代という大きな物語」という象徴界が廃れて、「大きな物語は終わった」という象徴界の不在が現れたという。だが斎藤氏は「大きな物語は終わった」というのもまた、象徴界の1つの形態であり、なお象徴界は機能しているという。東氏は「斎藤氏の定義で象徴界というなら、抽象的すぎて、何でもアリになる」と文句をいう。斎藤氏は「その何でもアリで、事後的なところも含めて、ラカンのいう象徴界の定義なんだ」という。どれだけ理屈をコネても、そとに飛び出せないのが象徴界。この不可能性やズルさも含めて、人間の精神を構成している構造なのだ。という仮説です。
ええと。ぼくは王莽に関係ない話をしているのでは、ないつもりです。以下、ぼくは斎藤氏のラカン理解に肩をもちながら、王莽を読み解いてゆきます。
前漢と王莽の関係を、どう捉えるべきか、という話です。モダンは前漢、ポストモダンは莽新です
ぼくが思うに王莽は、「前漢は終わった。前漢の論理を包摂した、1つ抽象度のたかい莽新ができた」と考えたのでしょう。これは、東浩紀氏が誤解(というか定義を台無しにするまで単純化)したラカンの発想です。つまり「物語がないという物語」は、「物語」よりは次元の高いものだと。少なくとも王莽の認識によれば、前漢は終わったのでなく、象徴化されて莽新の一部になったのです。モダンとポストモダンは、後者が前者を包摂した、より大きな概念だと定義される(錯覚される)ように、前漢と莽新も、同じ関係にあるのだと思います。
しかし王莽のポストモダン的な発想は、受容されなかった。「”物語がない”というメタ物語」は不可能だからです。せいぜい「”前漢の代わりに莽新という象徴界がでてきた”という、単なる物語(メタでない無印の物語)」が出てきたにすぎない。王莽は、このように必然的に「誤読」されてしまった。王莽の発想は、素材的に不可能(ラカン)なので、正しく受容されなかった。前漢-莽新、という王朝の変遷だと捉えられてしまった。こんな変遷は、それこそ「ただの謀反」です。
王莽の挫折は、斎藤氏=ラカンのいう象徴界の用法に近づきます。ラカンが「メタ言語はない」つまり「象徴界の象徴界はない」と述べたように。王莽のやっていることは、なお前漢と抽象度の高さが同じでしかなかった。
この東氏による誤解(莽新のもとの百姓の誤解でもある)が1つ進むと、「前漢は終わった。何も正しいものはない」というニヒリズムが出てくる。「莽新は、ポスト前漢における、選択肢の1つに過ぎない」という、(王莽の思想から見れば)低俗な次元で発想される。既存のデータベースを、つまみ食いして消費するだけの、赤眉や更始帝の時代に突入していくのです。
莽新末、「動物化」した群雄が、「他者の欲望を欲望する」という気遣いをすることなく、かってに皇帝を自称しまくる。これに比べると、後漢末は「他者の欲望を欲望する」が機能していた。だから袁術は失敗した。だが莽新末、みなポストモンダン的に動物化して、生物学的な欲求を追及したから、皇帝を自称する者がおおく、またその自称を理由にして、威信が失墜することもなかった。つながった!
最後に補足すべく、王莽の失敗を会社の比喩にするなら。「いまの社長はカネの亡者だ。社長を追放して、会社とは違う、理想の経済機構をつくろう」と、内側から声を上げたのが王莽。そのために王莽は、経済史を徹底的に研究した。しかし王莽が、理想の経済機構のトップに就いてみると、はたから見れば「会社の社長とどこが違うのか」という程度の変化だった。それなら、前任の社長を追放しなくて良かったのでは、、という回顧から、組織は混乱状態になりましたと。これが莽新末の歴史だと思う。

異説を統一させた。

ぼくは思う。ラカンの特徴は「わからない」「わからせない」ことにある。いつか政治家が批判された「言語明瞭、意味不明」と同じ種類である。意味不明であるが、言語明瞭という道具は提供しているので、読者を考えさせることができる。大きな船が、目の前を通り過ぎるように、時間的な経過を、その理論のなかに包摂している。ラカンの「超・わからなさ」を以てすれば、王莽の「大・わからなさ」を圧倒することができる。知性の場において、毒を以て毒を制する系。しかし、ぼくが王莽×ラカンをやり終えるまでには(2013年の前半かな)、ちゃんと「わかるように」書きたいと思います。また、「わかるように」書けた時点をもって、書けることを原因に、このテーマは終了するのです。
ところで、
ぼくは思う。王莽を「アナクロニズム」というのは、間違っている。ヘーゲルやハイデガーは「思想史家」「哲学史家」であり、ここから思想家や哲学者になった。彼らは、自分以前のすべての著作を体系化して整理・総括し、全く新しい知の体系をつくろうとした。王莽も同じだと思う。王莽は、漢家という王朝を否定して、「理想の人的紐帯な統治機構X」を作ろうとした。その参考のために、古代の制度を研究した。
王莽とヘーゲルに共通するのは、ムリに単純化するのなら「進歩史観」だと思う。つまり、10年前に生まれた論者より、私のほうが、10年分の知性を読むことができるから有利であると。この発想がないと、古今の知性を、自分が総括・編集してやろうという気持ちが起こりにくい。だから(あくまでムリに分類するなら)王莽は、復古主義でなく、進歩主義なのだ。
しかしこれが理解されないと、復古主義になる。懐古主義になる。両者は、表裏一体なのかも知れない。ぼくはハイデガーを「偉大な思想史家」と説明している本を見て驚いたけれど。この近接(どちらに転ぶかの微妙)さは、王莽に共通する。
余談だが、ここに記した意味での、王莽や王莽の進歩主義は、インフレと同じだ。貯金の金額(自分の生年)は一定なのに、年数がたつごとに、みるみる価値が目減りする。自分が年長者を、年長であるという理由だけで打倒したように、自分は若者に打倒される。この不可逆的な自己嫌悪に、同意署名したことになる。これじゃあ、自殺するしかなくなる。年齢による焦りの病には、このビリーフが背景にあるなあ。


群臣奏言:「昔周公奉繼體之嗣,據上公之尊,然猶七年制度乃定。夫明堂、辟雍,墮廢千載莫能興,今安漢公起於第家,輔翼陛下,四年於茲,功德爛然。公以八月載生魄庚子奉使,朝用書臨賦營築,越若翊辛丑,諸生、庶民大和會,十萬眾並集,平作二旬,大功畢成。唐、虞發舉,成周造業,誠亡以加。宰衡位宜在諸侯王上,賜以束帛加璧,大國乘車、安車各一,驪馬二駟。」詔曰:「可。其議九錫之法。」

群臣は上奏した。「周公が周成王を助けると、7年で制度が定まった。明堂と辟雍は、1千年も廃れたままだ。だが王莽は、4年で制度を定めた。周公よりも早かった。8月辛丑に、王莽が建築を命じると、諸生や庶民が10万人あつまり、20日で完了させた。唐虞や成周の事業も、王莽ほどでない。宰衡の地位を、諸侯王の上とすべきだ。大国の王なみの馬車(馬4頭だてを2台分)使わせろ」と。

ぼくは思う。このあたりは差異の体系である。「実際にどのような馬車か」には、あまり意味がない。「諸侯王よりも上。大国の王と同じ」という記述にこそ、意味がある。

王元后は詔した。「九錫之法を議しなさい」と。

渡邉先生の『王莽』はいう。王莽は後05年、九錫を受ける。皇帝と同じ儀礼を行うための道具である。王莽が九錫を受ける理由は、『詩経』に基づいて霊台(天子の気象観測台)を建てたこと、『尚書』に基づいて周公の首都の制度(洛邑、鎬京、商邑)を復興したこと、「制礼作楽」したことに求められる。


冬,大風吹長安城東門屋瓦且盡。

元始4年冬、大風がふく。長安城の東門で、屋瓦がすべて飛んだ。

ぼくは思う。つぎあたりから、本紀の体裁になってきた。平帝紀は、元始5年で終了する。ここから王莽伝が、本紀の役割をバトンタッチされる。ついにここまできた。上海古籍で150頁ぐらい残ってる。王莽伝は、噛めば噛むほど、ラカンの味がするので(並行して読んでいるから)やりがいがある。


元始5年春夏、王莽に九錫をあたえる

五年正月,袷祭明堂,諸侯王二十八人,列侯百二十人,宗室子九百餘人,征助祭。禮畢,封孝宣曾孫信第三十六人為列侯,余皆益戶賜爵,金、帛之賞各有數。是時,吏民以莽不受新野田而上書者前後四十八萬七千五百七十二人,及諸侯、王公、列侯、宗室見者皆叩頭言,宜亟加賞於安漢公。於是莽上書曰:(省略)

元始5年正月、明堂を袷祭した。諸侯王28人、列侯120人、宗室子9百余人が、徴されて祭を助ける。祭礼が終わり、宣帝の曽孫・劉信ら36人を封じる。みな戸を増し、爵を賜い、金帛も与える。このとき「王莽は新野田を受納せよ」と上書する者が、48万7572人である。諸侯、王公、列侯、宗室は、みな叩頭して「王莽に賞を加えろ」という。王莽は上書した。

ぼくは思う。はぶきます。本文が長いワリに、『補注』もあんまり注釈がないし。王莽は「外戚として厚遇されるが、身に余る。天下が治まり、異民族が朝貢するのは、太師の孔光、太保の王舜の功績である。私は九錫をもらえない」といった。


甄邯等白太后,詔曰:「可。惟公功德光於天下,是以諸侯、王公、列侯、宗室、諸生、吏民翕然同辭,連守闕庭,故下其章。諸侯、宗室辭去之日,復見前重陳,雖曉喻罷遣,猶不肯去。告以孟夏將行厥賞,莫不歡悅,稱萬歲而退。今公每見,輒流涕叩頭言願不受賞,賞即加不敢當位。方製作未定,事須公而決,故且聽公。製作畢成,群公以聞。究於前議,其九錫禮儀亟奏。」

甄邯らが王元后に申し、王元后から詔した。「諸侯から吏民まで、みな庭に連なり、王莽に賞を加えろという。だが王莽は流涕・叩頭して、賞を受けない。賞を受けるなら、爵位を返上したいという。諸制度が未完成だが、諸制度を完成させるには、王莽が必要である。まずは王莽の意見に従い、九錫を与えない。だが諸制度が完成したら、王莽に九錫を与える。みな九錫の礼義を研究して(王莽に与えるときに備えて)上奏せよ」と。

ぼくは思う。どんな功績が九錫につりあうのか、条件交渉をしている。ただし、ラカン風に発想するなら、すべての褒賞は、過少か過剰である。いま王莽が「諸制度を完成させる」を、九錫の要件に入れることに成功した。王莽は、九錫をもらえる条件が厳しくなったので(ここは順接でなければならない)王莽にとって有利になった。


於是公卿大夫、博士、議郎、列侯張純等九百二人皆曰:「聖帝明王招賢勸能,德盛者位高,功大者賞厚。故宗臣有九命上公之尊,則有九錫登等之寵。今九族親睦,百姓既章,萬國和協,黎民時雍,聖瑞畢溱,太平已洽。帝者之盛莫隆於唐、虞,而陛下任之;忠臣茂功莫著於伊、周,而宰衡配之。所謂異時而興,如合符者也。謹以《六藝》通義,經文所見,《周官》、《禮記》宜於今者,為九命之錫。臣請命錫。」奏可。策曰:

ここにおいて、公卿、大夫、博士、議郎、列侯の張純ら920人は、みないう。「聖帝・明王は、徳のたかい者を賞する。ゆえに宗臣は、九命(九錫)上公の尊をもらう。忠臣のなかで功績が最大なのは、伊尹と周公であり、王莽は2者にひとしい。王莽に『六芸』に基づき、『周官』『礼記』から、今日に適用できるものをみつけ、九錫を設定すべきだ。(これから研究して設定する)九錫を、王莽にあげてほしい」と。

張晏はいう。宗臣とは、勲労があり、上公になった者。国の宗となった者。『周礼』は「上公九命」という。九命とは、九賜(九錫)である。
ぼくは思う。あらかじめ九錫があったのでなく、王莽のために九錫が研究され、新たに設定された。子育てをする夫婦に似ていると思う。長子のとき、たとえば「クリスマスをどう祝うか」という家族のルールがない。だから、まさに今から祝うために、ルールを検討する。前例(自分の子供時代)を参照にしつつも、これは儀礼的な創出である。「何をどうやって与えることで、祝福しようか」という問題。サンタクロースをどのように演出するか、という作法の問題もからむ。王莽も同じ。曹操の場合は、次子以降のクリスマスなので、踏襲するだけである。

王元后は許可した。王元后は策した。「九錫を受けろ」と。

はぶきます。また王莽伝の語り直しが行われる。王莽伝は、このように重複して、たびたび王莽の功績を復習する。文字数を膨らまし、かつ王莽をほめるためである。「成帝のために16年つとめ、哀帝の外戚が朝廷を乱せば、、」という調子です。最後には「九錫を加えるから、漢家の祭祀を助けなさい」と。
王莽がうけた九錫は、周寿昌が上海古籍6076頁にのせる。『公羊緯』『礼緯』『韓詩外伝』の記述は、みなちがう。武帝紀にひく応劭の説明も、またちがう。おそらく王莽の諸臣は、必ずしも経典どおりに九錫を決めなかった。
ぼくは思う。周寿昌は挫折ぎみだが、逆説的に周寿昌は、いい指摘をしたと思う。九錫は、具体的に何をもらうかでなく、「伊尹と周公なみで、漢家に前例がない特権」であることが重要。コンテンツよりも関係性。むしろコンテンツの意味がないほど、ラカンの「純粋なシニフィアン」であり、ファロスとして機能する。


於是莽稽首再拜,受綠□袞冕衣賞,B252琫B252珌,句履,鸞路乘馬,龍旂九旒,皮弁素積,戎路乘馬,彤弓矢,盧弓矢,左建硃鉞,右建金戚,甲冑一具,秬鬯二卣,圭瓚二,九命青玉珪二,硃戶納陛。署宗官、祝官、卜官、史官,虎賁三百人,家令丞各一人,宗、祝、卜、史官皆置嗇夫,佐官漢公。在中府外第,虎賁為門衛,當出入者傅籍。自四輔、三公有事府第,皆用傳。以楚王邸為安漢公第,大繕治,通周衛。祖檷廟及寢皆為硃戶納陛。陳崇又奏:「安漢公祠祖檷,出城門,城門校尉宜將騎士從。入有門衛,出有騎士,所以重國也。」奏可。

王莽は稽首・再拜して、九錫をうけた。

王莽の待遇は、文字バケなんかも起きており、詳細には書きません。というか、ぼくが『補注』を書き写しても、それが意味するところには、とくに近づけない。上海古籍6077頁あたり。

楚王の邸宅を、安漢公の第とした。邸宅を修繕して、周囲を護衛できるようにした。陳崇はいう「王莽が祖廟を祭るために外出するとき、城門校尉の騎兵をつけ、いくえにも護衛を囲むべきだ」と。王元后は認めた。

元始5年秋、居摂する

其秋,莽以皇后有子孫瑞,通子午道。子午道從杜陵直絕南山,逕漢中。
風俗使者八人還,言天下風俗齊同,詐為郡國造歌謠,頌功德,凡三萬言。莽奏定著令。又奏為市無二賈,官無獄訟,邑無盜賊,野無饑民,道不拾遺,男女異路之制,犯者象刑。劉歆、陳崇等十二人皆以治明堂,宣教化,封為列侯。

元始5年秋、王莽の娘・王皇后が身ごもるという孫瑞があり、子午道が通じた。子午道は、杜陵から直進して、南山を絶ち、漢中に通じる。

張晏はいう。王皇后は14歳である。婦人の道があった。「子」は水、「午」は火である。水は天、火は地なので、火は水の妃になる。ゆえに「子午」道と、名前が通じる。
師古はいう。「子」とは北方、「午」とは南方である。
ぼくは思う。こういうシニフィアンの遊びが、わりに統治には重要。とくに王莽にとっては、親和する。婦人の「道」というのも、ひっかかってる。
ぼくは思う。三国時代、魏延が子午道から、長安を直撃しろという。つまり、水と油、じゃなくて水と火のような魏蜀が、直進する子午道により混ぜっ返されて、天下の情勢が転がるという意味がある。また、蜀将のくせに「魏」延という名前なのも、循環を生み出しそうで、諸葛亮にとっては、めでたい名前。

風俗の観覧にいく8名の使者が、長安に還った。「天下の風俗は、均一である」と報告した。郡国で採録したと偽り、「王莽をほめる」歌詞3万言を報告した。

ぼくは思う。英語では単語数、中国語では字数(言の数)でカウントする。日本語は字数でカウントする。このカウントの仕方により、文章の長さに対する認識がかわるだろう。下手をすると、文章の書き方もかわるだろう。日本の素人のぼくらは、原稿用紙は文字数をカウントする道具だと思っているが、どうやら本当の目的は違うらしい。印刷業者が、活字を拾うときに、作業しやすいためらしい。というわけで、パソコンでプロポーショナル・フォントを使っているとき、「原稿用紙で何枚」という言葉は、もはや形骸化しているはず。しかし廃れないのは、日本語が内容のわりに、字数がインフレするからだろう。400で割りたくなるのだろう。

王莽が上奏して、著令を定めた。市場には価格が2つなく、官には獄訟がなく、邑には盜賊がなく、野には饑民がなく、道のものを拾う者がなく、男女の路を区別せよ、という制度を定めた。違反したら、象刑とした。

師古はいう。象刑は、『漢書』武帝紀、刑法志に注釈した。ちくま訳はいう。天の形象(かたどり)を、刑によって民に示すから「象刑」という。

劉歆、陳崇ら12人は、みな明堂を修治し、教化をひろめたから、列侯に封じた。

先謙はいう。官本『考証』はいう。陳崇ら8人は、教化をひろめたから封じられた。劉歆、平晏、孔永、孫遷は、明堂を治めたから封じられた。


◆西海郡を設置し、徙刑の地とする

莽既致太平,北化匈奴,東致海外,南懷黃支,唯西方未有加。乃遣中郎將平憲等多持金幣誘塞外羌,使獻地,願內屬。憲等奏言:「羌豪良願等種,人口可萬二千人,願為內臣,獻鮮水海、允谷鹽池,平地美草皆予漢民,自居險阻處為籓蔽。問良願降意,對曰:『太皇太后聖明,安漢公至仁,天下太平,五穀成熟,或禾長丈餘,或一粟三米,或不種自生,或繭不蠶自成,甘露從天下,醴泉自地出,鳳皇來儀,神爵降集。從四歲以來,羌人無所疾苦,故思樂內屬。』宜以時處業,置屬國領護。」事下莽,

王莽はすでに太平を致す。北は匈奴を教化し、東は海外に到り、南は黄支をなつける。だが西方は、王莽の功績がない。中郎將の平憲に金幣をもたせ、塞外の羌族を内属させた。

ぼくは思う。東西南北のコンプリートが、重要なのか。また、東西南北という4つに分節して、世界を捉えているのか。「天下は方形である」という、儒教的な地図がある。

平憲はいう。「羌族の良願ら12千人ほどが、王莽の漢家に内属をねがった。王元后と王莽をほめた。属国(都尉)をおいて、羌族を領護しましょう」と。

先謙はいう。『漢書』地理志を見ろと。そうよね。

この件が、王莽に下問された。

莽復奏曰:「太后秉統數年,恩澤洋溢,和氣四塞,絕域殊俗,靡不慕義。越裳氏重譯獻白雉,黃支自三萬里貢生犀,東夷王度大海奉國珍,匈奴單于順製作,去二名,今西域良願等復舉地為臣妾,昔唐堯橫被四表,亦亡以加之。今謹案已有東海、南海、北海郡,未有西海郡,請受良願等所獻地為西海郡。臣又聞聖王序天文,定地理,因山川民俗以制州界。漢家地廣二帝、三王,凡十三州,州名及界多不應經。《堯典》十有二州,後定為九州。漢家廓地遼遠,州牧行部,遠者三萬餘裡,不可為九。謹以經義正十二州名分界,以應正始。」奏可。又增法五十條,犯者徙之西海。徙者以千萬數,民始怨矣。

王莽は上奏した。「王元后が秉政してから数年で、越裳が通訳をかさね、白雉を献上した。黄支が3万里のむこうから、サイを献じた。東夷の王が、海を越えて珍宝をもってきた。匈奴の単于が、2字名をすてた。いま西域の羌族も、内属を申し出た。

ぼくは思う。東夷の王って、だれだろう。王莽のとき、日本と思わしき記述はない。平帝紀と王莽伝には、東夷の到来がない。わざわざ西方を埋めるため、羌族に(とくに緊急性もないのに)使者を送った王莽である。東方がウソだとは思えない。東夷の王って、誰だったんだろう。『漢書』に省略された、海の向こうの東夷の王が、いなければならない。東夷の末裔として、興味がある!

唐堯は四方を教化した。いま漢家で、東海、南海、北海という郡があるのに、西海郡がない。だから内属した羌族の地に、西海郡をおこう。いま漢家には、13州ある。州名や境界は、経典に合致しないが、現状を優先する。『堯典』は12州で、のちに9州に整理された。だが漢家は領土が広い。9州に統合したら、その州牧が管轄を回るとき、3万余里も巡らねばならない。9州では足りない。経義に基づいて、12州の州名と境界を再編成したい」と。

服虔はいう。唐堯と虞舜、周家が服させたのは、7千里の四方だった。夏家や殷家が服させたのは、3千里の四方だった。漢家は、南北の長さが13千里ある。
ぼくは思う。ちょっと正統さが薄まりそうな、夏家や殷家は、だいぶ国土が狭く見積もられていたのね。この数字は、理念上の意味でしょう。単純に割算して、「周は殷よりも、7/3倍すぐれる」といえる。すなわち、2.3倍、周のほうが立派な王朝である。面積で捉える発想がないから、2乗したら、差異を強調しすぎになるだろう。
ぼくは思う。漢家の現状13州に対して、ほんとに経典に併せるなら、9州にしたかった。だが妥協して、12州とした。王莽は、ちっともアナクロニズムでない。少なくとも堯代(の過渡期的な状況)とは同じにしましたよ、という現実的な折り合いを付けられた。

王莽は法を50条ふやし、違反者を西海にうつした。徙された者は、千人や万人である。民ははじめて王莽を怨んだ。

ぼくは思う。「千人や万人」って、いったい何人だよ。ほかでは、王莽を推薦した人数を、下1桁まで抑えている。しかしこれは、わざとザックリ。「万人を数える」でも良いのに、「千人や万人」って何だよ。班固は、王莽をけなすふりをしている。本気でけなしていないことは、事実に基づきにくい、意図的にザツな記述から窺うことができる。しかし班固に「王莽をほめたでしょ」と絶対に質問してはいけない。班固は、そのことを確信犯的に抑圧(ちょっと形容矛盾だな)している。みな共犯者として、「うむうむ、王莽は悪いヤツだな」と、読解せねばならない。


◆王莽を周公にならい、居摂させる

泉陵侯劉慶上書言:「周成王幼少,稱孺子,周公居攝。今帝富於春秋,宜令安漢公行天子事,如周公。」郡臣皆曰:「宜如慶言。」

泉陵侯の劉慶は上書した。「周成王は幼少で、孺子と称した。周公が居攝した。いま平帝は、春秋に富むので(幼少なので)王莽に天子の事を代行させろ。周公のように」と。

ぼくは思う。いま調べた。「春秋に富む」とは、寿命の年数がたくさんあること。『史記』斉悼恵王世家にあるらしい。
師古はいう。『王子侯年表』はいう。泉陵節侯の劉賢は、長沙定王の子。本始4年、載侯の劉真が、長沙定王をつぐ。22年、薨じた。黄龍元年、頃侯の劉慶がつぐ。この劉慶である。『漢書』翟義伝☆では、阜陵侯という。地理志で、泉陵は零陵郡にある。

群臣はみな「劉慶の言うとおりが良い」という。

ぼくは思う。「孺子」という称号は、劉嬰が出てくる前から、議論されていた。平帝もまた「孺子」だったのだ。平帝を毒殺する必要性が減る。平帝より劉嬰が若返っても、周公の故事である7年というリミットは、解除されない。それとも、劉嬰の即位から、改めて7年を数えても良いのか? 平帝の年数をリセットできるのか?


平帝が崩じて、王莽が践祚する

冬,熒惑入月中。
平帝疾,莽作策,請命於泰畤,戴璧秉圭,願以身代。藏策金滕,置於前殿,敕諸公勿敢言。十二月,平帝崩,大赦天下。莽征明禮者宗伯鳳等與定天下吏六百石以上皆服喪三年。奏尊孝成廟曰統宗,孝平廟曰元宗。時元帝世絕,而宣帝曾孫有見王五人,列侯廣戚侯顯等四十八人,莽惡其長大,曰:「兄弟不得相為後。乃選玄孫中最幼廣戚侯子嬰,年二歲,托以為卜相最吉。

元始5年冬、熒惑が月中に入る。
平帝が病気になる。王莽は策をつくり、泰畤に「私が交替したい」と願った。王莽の願文は、金箱にしまい、前殿に置かれ、「諸公は口外するな」と勅した。12月、平帝が崩じた。天下を大赦した。王莽は『礼』に明るい者を徴し、宗伯の王鳳とともに制度を定め、天下の吏6百石以上に、3年喪をさせた。成帝の廟を「統宗」、平帝の廟を「元宗」とした。

師古はいう。金箱に入れたのは、周公が、周武王の治癒を願ったときと同じである。
ぼくは思う。周公は、兄弟の治癒を願い、おいを摂政した。だが王莽は、幼児を摂政して、幼児の治癒をねがった。ちょっと倒錯してる。厳密にいうと、故事どおりじゃない。王莽は、あわてて故事に順応させたのか。
何焯はいう。王莽による欺偽(平帝をいたむ気持ちなどない)かも知れないが、臣下が君主に3年喪するのは、王莽のときから始まった。後に行われた。ぼくは思う。平帝はどれだけ若くても「臣下たちの父」なのだ。

元帝の子孫は絶えたので、宣帝の曽孫の王を5名、列侯の王を48名めす。列侯は、廣戚侯の劉顯らである。

先謙はいう。『通鑑』胡注によると、5王とは。淮陽王の劉縯、中山王の劉成都、楚王の劉紆、信都王の劉景、東平王の劉開明である。
先謙はいう。胡注によると、48人が明らかである。上海古籍6081頁。50名をあげておき、広戚侯の劉顕(劉嬰の父)と、栗郷侯の劉元成(免じられてる)を除き、48人となる。

王莽は年長者をにくみ、「世代の排行により、平帝の子の世代がよい。宣帝の玄孫の世代がよい。劉顕の子の劉嬰がよい。もっとも若く、まだ2歳だが、卜相が最吉である」という。

ぼくは思う。班固はきちんと「王莽は年長者をにくみ」と記すのを忘れない。内面なんか、だれも検証できまいに。しかし、政治の連続性を願うのは、王莽ならずとも、ありがちなこと。すでに王莽は「居摂」している。「正しすぎる世代論」を持ちだしたことも、あながち横暴ではない。だって正しいんだしね。
ぼくは思う。班固は、平帝が死ぬ前に、わざわざ前漢の皇族のセリフとして、「王莽に居摂させよ」と言わせている。王莽は、劉嬰に代わったことを幸いに、前漢を乗っ取ったのではない。と、読者が読み取れる可能性を残している。劉慶の言葉を、王莽伝に書かないこともできた。だって、ただの文書の公表であり、事実は動いていない。省略しても、史料の前後はとおる。


是月,前輝光謝囂奏武功長孟通浚井得白石,上圓下方,有丹書著石,文曰:「告安漢公莽為皇帝。」符命之起,自此始矣。莽命群公以白太后,太后曰:「此誣罔天下,不可施行!」太保舜謂太后:「事已如此,無可奈何,沮之力不能止。又莽非敢有它,但欲稱攝以重其權,填服天下耳。」太后聽許。舜等即共令太后下詔曰:「(中略)《書》不雲乎?『天工,人其代之。』(中略)其令安漢公居攝踐祚,如周公故事,以武功縣為安漢公采地,名曰漢光邑。具禮儀奏。」

この月、前輝光の謝囂は、武功長の孟通が井戸をさらったら、「安漢公の莽に告ぐ、皇帝になれ」と朱書した石を見つけたという。符命はこのとき始まった。

ぼくは思う。こういう『漢書』編者のコメントが、どうにも浮いていて、過剰である。ファロスである。「これを起点にして、解釈をふくらませ」と言わんばかりである。

王莽は群公に命じて、群公から王元后に言わせた。王元后は「符命は、天下をだますものだ。施行するな」という。太保の王舜はいう。「決まったことは動かない。王莽は居摂して権限をつよめ、天下を填服したいだけ」という。王元后は、王莽が皇帝になることを許した。王舜らは、王元后に詔させた。
「『虞書』咎繇謨は、”天の仕事を人が代わる”という。王莽に居摂・践祚させろ。周公の故事と同じに。武功県を、王莽の領地として、漢光邑と名づける」と。

何焯はいう。漢光邑は、光武帝が中興する吉祥である。ぼくは思う。バカを言ってはいけない。これこそ、前漢と後漢の連続性という、政治的主張に、目が曇った発言である。王莽は漢家の居摂皇帝なのです。そりゃ漢家を祝福するだろうさ。
先謙はいう。地理志によると、武功のことを、王莽は「新光」という。けだし簒奪したあと、改名したのだ。


於是群臣奏言:「太后聖德昭然,深見天意,詔令安漢公居攝。臣聞周成王幼少,周道未成,成王不能共事天地,修文、武之烈。周公權而居攝,則周道成,王室安;不居攝,則恐周隊失天命。

群臣は上奏した。「王元后が天意を理解して、王莽に居摂させた。周成王が幼少なので、武王と文王を継承できなかった。周公が居摂したので、周室は事業に成功した。もし居摂がなければ、周室は天命を失墜したはずだ。

ぼくは思う。王莽がいようが、いまいが、「前漢の現状ではいけない。なにかカンフル剤を」という認識はあった。哀帝の時代に、禅譲をほのめかしたり。王莽は、あとからやってきて、周公の位置に宛がわれた。という傾向が強いと思う。漢家は、周室の始めにもどりたかった。これは王莽の戦略でなく、漢家の願いだろう。漢家は周室を継承した王朝、という認識がある。いちど周室の始祖に、戻ってみるのは良い。
ぼくは思う。「漢家を再受命させたい」という要請は、一貫したものだ。王莽が叶えるか(叶えたことにする)か、光武帝が叶えるか(叶えたことにするか)という、手段と役者の問題でしかない。
昨年の秋に『書経』を読んだとき、周初に、わりと殷室の盛り返しが激しくて、周文王でもピンチだったことが分かった。『書経』を読む人たちも、バカじゃない。周室が、成立当初「聖なる王朝」として、殷室をみるみる打ち倒したとは思わないだろう。このリアリズムが、漢家の再受命を求めた。ふつうに理解できる話です。


《書》曰:『我嗣事子孫,大不克共上下,遏失前人光,在家不知命不易。天應F647諶,乃亡隊命。』說曰:周公服天子之冕,南面而朝群臣,發號施令,常稱王命。召公賢人,不知聖人之意,故不說也。《禮‧明堂記》曰『周公朝諸侯於明堂,天子負斧依南面而立。』謂『周公踐天子位,六年朝諸侯,制禮作樂,而天下大服』也。召公不說。時武王崩,E065粗未除。由是言之,周公始攝則居天了之位,非乃六年而踐阼也。

『周書』君奭篇はいう。召公奭は「周公旦が周王として振る舞えば、周室の天命は失墜する」といった。ここでは召公奭が、周公が天子の衣服を着て、群臣に南面したことに反対している。しかし召公奭は、聖人の意をわかっていない。『礼』『明堂記』はいう。「周公は6年だけ天子をやり、制礼作楽をやり、天下を大服させた」と。周公は、周武王の死後、すぐに天子になった。周武王の死後6年たって、天子に践祚したのでない(正しくは、死後6年、天子を務めた)。

ぼくは思う。このあたりは、周公を歴史学の対象として、研究しているのでない。極めて現実的な政治のために、前例を分析している。王莽がいかに天子をやり、いかに天子を返上すれば、漢家の天命が続くか。この最重要なテーマと戦っている。例えば、実際の周公がどうであったかは、とりあえず関係ない。
ぼくは思う。召公奭は、周公旦の政治のライバル。いま群臣は、召公奭を「典籍をろくに洞察的に読めず、周公旦を攻撃したバカ」として登場させている。これもまた、実際の召公奭がどうであったかとは、なんの関係もない問題である。
師古はいう。召公奭は「保」となり、周公旦は「師」となり、周成王の左右をたすけた。召公奭は、周公旦が周成王をのっとると考え、周公旦をせめた。


《書》逸《嘉禾篇》曰:『周公奉鬯立於阼階,延登,贊曰:假王蒞政,勤和天下。』此周公攝政,贊者所稱。成王加元服,周公則致政。《書》曰:『朕復子明辟』,周公常稱王命,專行不報,故言我復子明君也。臣請安漢公居攝踐祚,服天子□冕,背斧依於戶牖之間,南面朝群臣,聽政事。車服出入警蹕,民臣稱臣妾,皆如天子之制。郊祀天地,宗祀明堂,共祀宗廟,享祭群神,贊曰『假皇帝』,民臣謂之『攝皇帝』,自稱曰『予』。平決朝事,常以皇帝之詔稱『制』、以奉順皇天之心,輔翼漢室,保安孝平皇帝之幼嗣,遂寄託之義,隆治平之化。其朝見太皇太后、帝皇后,皆復臣節。自施政教於其宮家國采,如諸侯禮儀故事。臣昧死請。」太后詔曰:「可。」明年,改元曰「居攝」。

『書』逸『嘉禾篇』はいう。周公は階段を登らされ、「周王を仮り、政治をしろ」と賛された。周成王が元服したら、周公は政治を返却した。王莽も周公と同じく(劉嬰の元服まで)政治を仮るのだ。祭祀の賛では、周公のように「假皇帝」とよび、民臣は王莽を「攝皇帝」とよび、王莽は「予」と自称する。王莽が決定した政事は、皇帝の詔として「制」とする。
王莽が、おばの王太皇太后、娘の王皇后と朝見するときは、王莽は臣節にもどす。王莽が領地(新都国、武功県)で祭祀するとき、諸侯の礼儀をつかう」と。

ぼくは思う。王莽は、期限つきであることを明らかにして、居摂した。天子となった。

王元后は「そうしよう」という。翌年、居摂と改元した。

つぎ、居摂元年(後06)から、ページを改めます。130218

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