表紙 > 曹魏 > 『魏志』明帝紀を読む下・青龍年間

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青龍元年、鮮卑が并州で叛き、遼東が呉使を斬る

春、摩陂の青龍を見にいって改元

青龍元年春正月甲申,青龍見郟之摩陂井中。

青龍元年春正月甲申、郟県の摩陂で、青龍が井中にいた。

摩陂は前年に注釈あり。ぼくは思う。曹操が死んだ地かな。
『初学記』30にひく繆襲『青龍賦』はいう。めでたいかな青龍! 上海古籍381頁。
『宋書』符瑞志中はいう。青龍がでたので、曹叡は群臣をつれて見た。画工にスケッチさせ、スケッチが終わったころに消えた。『宋書』五行志5はいう。瑞祥が時機を得ずにでるのは、ぎゃくに不吉であり、改元したのは失敗である。晋代では青龍を祝わない。
干宝はいう。魏代に青龍は黄龍が見えまくるのは、皇帝がコロコロ変わることの予兆である。曹魏は土徳だが、青は木徳の色じゃないか。青は、土徳が天命を失う色である。ゆえに曹髦は敗れたのだ。劉向によれば、龍が井戸に埋もれているのは、龍が困窮している。
また干宝はいう。西晋の武帝の太康5年正月癸卯、2龍が武庫の井中にいた。武帝は悦んだが、劉毅が不吉だと警告した。
ぼくは補う。井中の青龍は、ともかく不吉なのだ。このとき曹叡の朝廷で、だれもそれを指摘しなかったということは、だれも曹叡の国運が傾いていると予感しておらず、凶兆と言える雰囲気ではなかったのだ。占いは超能力カードゲームではないから、一義的に吉凶を当てるのでない。「どのようにも解釈できる」という開かれた知性への入口を担保するものだ。吉だけど凶、凶だけと吉、そのこころは、、という思考を活性化させるための道具。「何とでも言える」と貶すのでなく、「この解釈で全てではない」と、俯瞰的なマップを与えてくれる。このとき「青龍は吉兆だ」といい、その反対意見が出ないなら、曹叡の朝廷は固着している。吉兆という占いが当たりかどうか、とは別の次元で、失敗を招きやすい状況だ。また、曹魏が滅びたあとに、寄ってたかって青龍を批判するのも、同じように固着した発想だけどね。
曹叡のリアルタイムで青龍を凶兆といい、曹魏が滅びたあとに青龍が吉兆という解釈が出てきてこそだ。


二月丁酉,幸摩陂觀龍,於是改年;改 摩陂為龍陂,賜男子爵人二級,鰥寡孤獨無出今年租賦。三月甲子,詔公卿舉賢良篤行之 士各一人。

2月丁酉、曹叡は摩陂で龍を見て、青龍と改元した。摩陂を龍陂とした。男子に2爵、鰥寡・孤獨に今年の租賦を免除した。

爵位を賜うのは、武帝紀の建安20年、文帝紀の黄初元年の注釈にある。

三月甲子、公卿に詔して、賢良篤行の士を1人ずつ挙げさせた。

夏、鮮卑の軻比能と歩度根が并州をあらす

夏五月壬申,詔祀故大將軍夏侯惇、大司馬曹仁、車騎將軍程昱於太祖廟庭。

魏書載詔曰:「昔先王之禮,於功臣存則顯其爵祿,沒則祭於大蒸,故漢氏功臣,祀於廟庭。大魏元功之臣功勳優 著,終始休明者,其皆依禮祀之。」於是以惇等配饗。

夏5月壬申、夏侯惇、曹仁、程昱を、太祖廟に祭らせ、配饗した。

繆襲『神芝賛』はいう。青龍元年5月庚辰、神芝がはえた。許昌の典農中郎将の蒋充が報告した。上海古籍382頁。これは、『芸文類集』98、『御覧』873、『御覧』986にある。

『魏書』は詔を載せる。先王の礼では、功臣は生前に爵禄をあたえ、死後に大蒸にまつる。漢代の功臣も廟庭に祭られたと。ここにおいて夏侯惇らに配饗した。

『通典』50は高堂隆に議論をひく。高堂隆が『燕礼』『周志』をもとに、功臣をまつれという。上海古籍383頁。


戊寅,北海王蕤薨。閏月庚寅朔,日有蝕之。丁酉,改封宗室女非諸王女皆為邑主。詔諸 郡國山川不在祠典者勿祠。六月,洛陽宮鞠室災。

5月戊寅、北海王の曹蕤が薨じた。
閏5月庚寅ついたち、日食あり。閏5月丁酉、宗室の娘を改封し、諸王の娘でないものを邑主にした。詔して、諸郡國の山川で、祠典のリストに登録されない祠を廃止した。

『宋書』礼志4にあり。ぼくは思う。曹操、曹丕、曹叡とも、漢代に数量がふえた「淫祠邪教」のリストラに取り組んだ。民間信仰から、アニミズム的に崇拝対象が増えるのを嫌ったのか。「曹氏を敬えよ」ってことか。中国の指導者は、民間の宗教や結社を、とても警戒するというから。

6月、洛陽宮の鞠室がもえた。

胡三省はいう。鞠室とは、地面をくぎって蹴鞠をするコートのこと。


保塞鮮卑大人步度根與叛鮮卑大人軻比能私通,并州刺史畢軌表,輒出軍以外威比 能,內鎮步度根。帝省表曰:「步度根以為比能所誘,有自疑心。今軌出軍,適使二部驚合 為一,何所威鎮乎?」促敕軌,以出軍者慎勿越塞過句注也。

鮮卑の歩度根と軻比能が私通した。

『魏志』鮮卑伝はいう。歩度根は、太原の雁門の人。黄初5年、曹丕に貢献して、辺境を守ると曹魏に約束した。ぼくは思う。曹丕の約束が、解消されちゃった。曹叡、ぜんぜん北方の政治してなかったから。
『魏志』鮮卑伝はいう。青龍元年にこの記事があり。盧弼はいう。太和5年、軻比能は幽州に名馬を届けた。たった数年で叛いたのはなぜか。曹叡が北方がおろそかだった。諸葛亮が軻比能をそそのかした。『魏志』牽招伝と、その『漢晋春秋』にある。軻比能が歩度根をさそった。

并州刺史の畢軌が、両者を攻めたいという。曹叡は「歩度根は誘われただけ。歩度根の句注を攻めるな」という。

畢軌は、東平の人。曹爽伝と裴注『魏略』にある。
胡三省はいう。霊帝末に羌胡がおおさわぎ。定襄、雲中、五原、朔方、上郡は散らされた。建安20年に新興郡をおき、山より北を棄てた。句注は、曹操が棄てた北方の地である。応劭はいう。句注は山の名で、雁門郡の陰館県である。

曹叡の詔書がきたとき、畢軌は陰館にいた。詔に叛いて、2将(蘇尚と董弼)に鮮卑を追わせたために、2将は鮮卑に殺された。

『郡国志』はいう。陰館は、雁門である。潘眉はいう。曹叡は「句注にいくな」と言うが、すでに畢軌は句注をすぎて、陰館まで深入りしていたのである。
『魏志』鮮卑伝で、蘇尚と董弼が戦死する。

歩度根と軻比能は、合流した。驍騎將軍の秦朗が平らげた。鮮卑は漠北ににげた。

『晋書』職官志はいう。驍騎将軍、遊撃将軍は、漢代の雑号将軍である。魏代には、中軍におかれた。『宋書』百官志下はいう。行基将軍は、魏代に内軍におかれた。功績の高い者がつかさどる。潘眉はいう。驍騎将軍は、禁軍をつかさどるので、中軍という。禁軍とは中軍である。
ぼくは思う。漢代に雑号だった驍騎将軍は、魏代に慣例化して昇格し、皇帝の直属部隊をひきいた。并州刺史が鮮卑をへたに刺激したから、曹叡は直属軍をおくって平定した。準皇族に任せた。呉蜀のトップに、曹氏や夏侯氏を使うのと同じノリだろう。秦朗は、新興の人なので、この平定する地域の出身者。


秋冬、秦朗が鮮卑を鎮め、遼東が呉の使者を斬る

秋九月,安定保塞匈奴大人胡薄居姿職等叛,司馬宣王遣將軍胡遵等追討,破降之。冬十月,步度根部落大人戴胡阿狼泥等詣并州降,朗引軍還。

秋9月、安定の匈奴がそむく。司馬懿は、將軍の胡遵に降させる。

胡遵は、安定の臨涇の人。鍾会伝にひく『晋諸侯賛』にある。

冬10月、歩度根の部落の者が并州にくだり、秦朗は禁軍を中央にもどす。

ぼくは思う。ここから裴注で、秦朗伝、孔桂伝が展開される。
秦朗伝は、『魏氏春秋』『献帝伝』『魏略』『世語』など。父の秦宜禄が呂布の使者として袁術を訪問し、袁術が秦宜禄に、漢室の宗女を結婚させた、とかおもしろそうだけど、はぶく。つぎの孔桂は、秦朗とともに『魏略』侫幸篇 に収録された人物。魚豢が言うように、秦朗も孔桂も、曹叡が厳しくする法規の外部にいて、曹叡に気に入られてフラフラしていた。
ぼくは思う。外部がいるから、内部がクッキリする。共同体には、こういうピーターパンみたいな人間が必要なのだよ。全員がピーターパンになると、始末が悪いけど。魚豢のように、杓子定規に嘆かなくてよい。


十二月,公孫淵斬送孫權所遣使張彌、許晏首,以淵為大司馬樂浪公。

12月、公孫淵は孫呉の使者、張彌と許晏の首を届ける。公孫淵を、大司馬・樂浪公とする。

『呉志』孫権伝はいう。嘉禾2年3月、太常の張弥、執金吾の許晏、将軍の賀達に1万をひきいさせ、珍宝と九錫をもたせ、海路から公孫淵に授ける。みなが諫めたが孫権がやめないので、兵士も物資も曹魏にとられてしまった。
『漢書』地理志はいう。楽浪郡の朝鮮である。応劭はいう。故朝鮮とは、箕子の故都である。
楽浪の郡治が朝鮮である。
ぼくは思う。曹魏は、孫権や公孫淵に、軍事の最高位を与える。こういう「軍事の最高位を与える」という方法による抱きこみは、前例がおおいのかな。前漢の初期とか、後漢の初期とか、調べてみないと。知らないから。


◆おまけの裴注、ふしぎなお話

世語曰:并州刺史畢軌送漢故度遼將軍范明友鮮卑奴,年三百五十歲,言語飲食如常人。奴云:「霍顯,光後小 妻。明友妻,光前妻女。」
博物志曰:時京邑有一人,失其姓名,食啖兼十許人,遂肥不能動。其父曾作遠方長吏,官徙送彼縣,令故義傳供 食之;一二年中,一鄉中輒為之儉。
傅子曰:時太原發冢破棺,棺中有一生婦人,將出與語,生人也。送之京師,問其本事,不知也。視其冢上樹木可 三十歲,不知此婦人三十歲常生於地中邪?將一朝欻生,偶與發冢者會也?

『世語』はいう。并州刺史の畢軌は、350歳で前漢を知る者を見つけた。
『博物志』はいう。京邑に10人分を食べて、肥満する者がいた。故郷に届けてやると、その故郷の者は、節食するようになった。

『博物志』はいう。大司馬の曹休のもとにいる中郎の謝璋の部曲の娘は、4歳で病没したが、埋葬して5日で蘇生した。太和3年、曹叡は、曹休に娘を連れてこさせた。その年の4月3日に病死して、翌日に埋めたが、埋葬地を見ると、8日には飲酒をしていたという。
盧弼はいう。明帝紀の太和2年9月庚子、大司馬の曹休が薨じた。曹休の死後に、この逸話ができるはずがない。ウソである。ぼくは思う。じつは死者の怪異譚を皇帝に報告していた、曹休が死者だった。怪談としてはアリじゃないか。なしか。

『傅子』はいう。30年前の棺から、生者がでてきた。

共同体がメメントモリするための逸話かなあ。

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青龍2年、献帝と諸葛亮の死、孫権が合肥新城へ

春、山陽公の劉協が死ぬ

二年春二月乙未,太白犯熒惑。癸酉,詔曰:「鞭作官刑,所以糾慢怠也,而頃多以無辜 死。其減鞭杖之制,著于令。」三月庚寅,山陽公薨,帝素服發哀,遣使持節典護喪事。己酉, 大赦。

太和2年春2月乙未、太白が熒惑をおかす。

銭大昕はいう。『宋書』天文志では己未とする。『宋書』が正しい。

2月癸酉に詔した。「官人をムチで打つのは、怠慢を正すためである。近ごろは、無罪なのにムチで死ぬ者がいる。ムチを軽くせよ。法令に著せ」と。

『晋書』刑法志にある。

3月庚寅、山陽公が薨じた。

『後漢書』献帝紀はいう。青龍2年3月庚寅、薨じた。遜位してから14年。54歳、孝献 皇帝。8月壬申、漢の天子の礼にて、禅陵に葬られた。『帝王紀』はいう。禅陵は、濁鹿城の西北10里にある。禅譲したから禅陵という。
何焯はいう。3月に献帝が死に、秋に諸葛亮が死んだ。漢の命数がおわった。王先謙はいう。献帝の死を、范陽は「薨」と印、曹魏の年号で記録した。献帝を貶める意図がある。『春秋』で公爵を「薨」と記すのに倣ったか。
ぼくは思う。范曄が『後漢書』を、惜しむべき現代史ではなくて、結末が見えた客観的な事件の記録? と扱っていたことが分かる。べつに後漢を貶めるつもりはないが、後漢バンザイという魔法がかかっていなかった。まるで全編にわたり、後漢が滅びる理由を探し、魏晋南北朝の「現状」を招いた原因を探求した本なのでは。
吉川忠夫氏によると、范曄は、「今日(南朝宋)の淵源を探す」ために『後漢書』をつくた。南朝宋は分裂期、混乱期だ。南朝宋へと接続する献帝を、そんなに尊敬できないなあ。
吉川忠夫「『後漢書』解題」で剥がすニセ後漢史の仮面

曹叡は素服で發哀した。使者に持節させ、喪事を典護させた。3月己酉、大赦した。

夏1、山陽公に「漢孝献皇帝」を贈る

夏四月,大疫。崇華殿災。丙寅,詔有司以太牢告祠文帝廟。追諡山陽公為漢孝獻皇帝,葬以漢禮。

夏4月、大疫あり。崇華殿がもえた。

胡三省はいう。この年に修復して、崇華殿を九華殿と改めた。盧弼はいう。改称のことは、青龍3年に出てくる。『晋書』五行志上はいう。青龍2年4月に焼けて、南閣まで延焼した。青龍3年7月にまた燃えた。盧弼はいう。崇華殿は2回も燃えた。胡三省はこの年に「九華殿」に改称したというが、誤りである。

4月丙寅、有司が文帝廟(曹丕)に太牢を供えた。山陽公に、漢孝獻皇帝を追諡した。漢礼でほうむった。

『魏志』王粛伝はいう。王粛は、称皇を議して、その諡号をもって配そうとした。曹叡は従わず。漢孝献皇帝と追諡した。


獻帝傳曰:帝變服,率羣臣哭之,使使持節行司徒太常和洽弔祭,又使持節行大司空大司農崔林監護喪事。詔 曰:「蓋五帝之事尚矣,仲尼盛稱堯、舜巍巍蕩蕩之功者,以為禪代乃大聖之懿事也。山陽公深識天祿永終之運, 禪位文皇帝以順天命。先帝命公行漢正朔,郊天祀祖以天子之禮,言事不稱臣,此舜事堯之義也。昔放勛殂落, 四海如喪考妣,遏密八音,明喪葬之禮同於王者也。今有司奏喪禮比諸侯王,此豈古之遺制而先帝之至意哉? 今諡公漢孝獻皇帝。」

『献帝伝』はいう。行司徒する太常の和洽に、使持節させて弔祭させた。行大司空する大司農の崔林に、使持節させて喪事を監護させた。

銭大昭はいう。このとい司徒の董昭、司空の陳羣は、みずから山陽にゆかない。和洽と崔林でごまかした。有名無実な葬礼であるなあ。「大」司空でなく、司空でよい。

詔した。「献帝は、漢の天命が永久に終わったことを深く認識して、禅譲してくれた。堯舜と同じ、良い判断でしたよ」と。

使太尉具以一太牢告祠文帝廟,曰:「叡聞夫禮也者,反本脩古,不忘厥初,是以先代之君, 尊尊親親,咸有尚焉。今山陽公寢疾棄國,有司建言喪紀之禮視諸侯王。叡惟山陽公昔知天命永終於己,深觀 曆數允在聖躬,傳祚禪位,尊我民主,斯乃陶唐懿德之事也。黃初受終,命公于國行漢正朔,郊天祀祖禮樂制度 率乃漢舊,斯亦舜、禹明堂之義也。上考遂初,皇極攸建,允熙克讓,莫朗于茲。蓋子以繼志嗣訓為孝,臣以配命 欽述為忠,故詩稱『匪棘其猶,聿追來孝』,書曰『前人受命,茲不忘大功』。叡敢不奉承徽典,以昭皇考之神靈。今 追諡山陽公曰孝獻皇帝,冊贈璽紱。命司徒、司空持節弔祭護喪,光祿、大鴻臚為副,將作大匠、復土將軍營成陵 墓,及置百官羣吏,車旗服章喪葬禮儀,一如漢氏故事;喪葬所供羣官之費,皆仰大司農。立其後嗣為山陽公, 以通三統,永為魏賓。」

太尉が、文帝廟に大牢を祭って、曹丕に献帝の死を告げた。

ぼくは補う。曹叡が曹丕に「献帝が死んだから、こういう対応をします。ぼくのやり方を承認してね」と、諒解を求めているのだ。会社で、途中から仕事をバトンタッチされた人が、半年たって、前任者に「ああ、あの件ですけどね、こういう結果になりましたんで、いちおう報せときます」とメールを飛ばすようなものだ。前任者は、うっすら気になっていたが、もう自分の担当業務ではないので、「あ、ああ、そんな仕事もあったね。報せてくれてありがとう、ふーん」という感じだ。

「父さんが受禅したあと、漢の正朔や祭祀や礼楽を、献帝に許してくれた。謙譲が行き届いた、良い対応だった。山陽公に孝献皇帝と追諡して、冊書で璽紱を贈らせます。司徒と司空に持節させ、弔祭して護喪させます。光祿、大鴻臚に補佐させます。將作大匠、復土將軍が、陵墓を造営します。大司農がコストを負担します。劉氏を、永久に曹魏の賓客とします」と。

ぼくは思う。たかが山陽公に対して、皇帝としての諡号を贈るのは、曹氏から劉氏への贈与なんだな。陵墓を造営してやるのも、そのコストを負担するのも、後継者を山陽公に立ててやるのも、曹氏から劉氏への贈与なんだなあ。
つぎに、嘆きの冊書を発行して、さらに劉氏に贈与する。


於是贈冊曰:「嗚呼,昔皇天降戾于漢,俾逆臣董卓,播厥凶虐,焚滅京都,劫遷大駕。于 時六合雲擾,姦雄熛起。帝自西京,徂唯求定,臻茲洛邑。疇咨聖賢,聿改乘轅,又遷許昌,武皇帝是依。歲在玄 枵,皇師肇征,迄于鶉尾,十有八載,羣寇殲殄,九域咸乂。惟帝念功,祚茲魏國,大啟土宇。爰及文皇帝,齊聖廣 淵,仁聲旁流,柔遠能邇,殊俗向義,乾精承祚,坤靈吐曜,稽極玉衡,允膺曆數,度于軌儀,克厭帝心。乃仰欽七 政,俯察五典,弗采四嶽之謀,不俟師錫之舉,幽贊神明,承天禪位。祚(建) 〔逮〕逮 據吳勉學刊本改朕躬,統承洪業。蓋聞昔帝堯, 元愷既舉,凶族未流,登舜百揆,然後百揆時序,內平外成,授位明堂,退終天祿,故能冠德百王,表功嵩嶽。自往 迄今,彌歷七代,歲暨三千,而大運來復,庸命厎績,纂我民主,作建皇極。念重光,紹咸池,繼韶夏,超群后之遐 蹤,邈商、周之慚德,可謂高朗令終,昭明洪烈之懿盛者矣。非夫漢、魏與天地合德,與四時合信,動和民神,格于 上下,其孰能至於此乎?朕惟孝獻享年不永,欽若顧命,考之典謨,恭述皇考先靈遺意,闡崇弘諡,奉成聖美,以 章希世同符之隆,以傳億載不朽之榮。魂而有靈,嘉茲弘休。嗚呼哀哉!」

ここにおいて曹叡は、冊書を贈った。「献帝は苦労したが、曹操と曹丕ががんばった。曹丕の遺令どおりに、皇帝号を贈ったからね」と。

ぼくは思う。献帝が死に、しこたま贈与をしたことによって、初めて漢魏革命が完成した。献帝がくたばったので、劉氏は曹氏に返報することができない。これで一方的に、曹氏の威信が高まりつづける。劉氏の威信は、低まりつづける。曹叡が土木工事に本格的に凝り出すのは、諸葛亮が死んで防衛費がかからないのでなく、献帝が死んで、漢魏革命が安心して完了したからだなあ。諸葛亮と献帝が同年に死ぬから分かりにくいが。諸葛亮は小手先の軍略で、司馬懿が追い返してくれる。献帝の問題は、曹魏の存続そのものを揺るがす、最大の問題。
そして、諸葛亮の死によって、どうして『三国志』に飽きる人が増えるのかが分かった。諸葛亮の死前と死後では、別の物語なのだ。歴史的事実の集積かも知れないが、あえて「物語」という。出来事の類型が変わるのだ。楽しみ方もファン層も、変わって当然かも。諸葛亮の死前は、「1つだったものが分かれる話」である。黄巾から説き起こされ、後漢がバラける。曹魏は最強だけど、内部には献帝、外部には諸葛亮という、曹魏の欺瞞をあばく存在がある。献帝がいる限り、いつ曹魏が漢室に覆されるか分からない。諸葛亮がいる限り、漢室のまま「分かれていなかった」という結末が用意される可能性がある。諸葛亮と献帝が同年に死ぬと、魏晋が「分かれたものを、1つに併せる話」になる。後者も楽しいが、前者とは楽しみ方とファン層が違う。
魏明帝が、建設ラッシュを開始する理由。「諸葛亮が死に、北伐される精神的負担と防衛費が浮いたから」と、「献帝が死んで、"魏漢"革命が起きる可能性から解放されたから」の2つを、どんな比率と配列で捉えるか、考えねばなあ。諸葛亮と献帝が同時に死ぬから、原理的に2つを分離・抽出するのは不可能。論者の腕が試される。ぼくが思うに、後者の理由を思いついたのが今日だから、後者に重きをおいて、どうやって前者を緩めるかがキモかな。下にあるように、曹魏は山陽公国を厳重に管理した。わりに懼れていたんだ。


八月壬申,葬于山陽國,陵曰禪陵, 置園邑。葬之日,帝制錫衰弁絰,哭之慟。適孫桂氏鄉侯康,嗣立為山陽公。

8月壬申、山陽國に葬り、禪陵という。園邑をおく。葬礼の日、曹叡は錫衰弁絰を制止し、哭慟した。

『儀礼』喪服はいう。錫衰弁絰とは、、上海古籍394頁。
ぼくなりの献帝の葬儀まとめ。青龍2年3月庚寅、劉協が薨ず。司徒と司空の代理が喪事。詔「劉協さん、禅譲は良い判断だった、ありがとう」。4月丙寅、太尉が文帝廟に大牢を供え、「孝献皇帝の号を贈るよ」と曹丕に諒解をとる。曹叡は「受禅後、劉協に、漢の正朔を許したのは、良い判断だった」とパパを称える。冊書で、贈物を再確認。8月壬申、山陽の禅陵に葬る。孫の劉康が山陽公、曹魏の永久の賓客。

献帝の孫・桂氏鄉侯の劉康を山陽公とした。

『後漢書』献帝紀はいう。献帝の太子は早くに卒した。孫の劉康は51年たち、西晋の太康6年に死ぬ。子の劉瑾が4年たち、太康10年に死ぬ。子の劉秋が20年たち、永嘉のとき胡族に殺された。
趙一清はいう。『晋書』武帝紀の泰始2年11月、山陽公国の督軍をやめ、禁制をのぞく。おそらく曹氏が山陽公国を武装して見張っており、弑逆していなかっただけ。泰始4年2月庚子、山陽公国に国相、郎中令、陵令、雑工、宰人、鼓吹、車馬をそれぞれおく。ぼくは思う。山陽公国には、こういう普通の国としての行政組織がなかったのだ。オオヤケの監獄だなあ。
侯康はいう。『通典』72によると、後嗣の劉康が、どのように献帝に服喪するかをモメている。上海古籍394頁。王粛が議論をしたが、けっきょく自然の感情に押し切らせたらしい。冠や服、期間について、はぶく。


夏2、諸葛亮が渭南に、孫権が合肥新城に

是月,諸葛亮出斜谷,屯渭南,司馬宣王率諸軍拒之。詔宣王:「但堅壁拒守以挫其鋒, 彼進不得志,退無與戰,久停則糧盡,虜略無所獲,則必走矣。走而追之,以逸待勞,全勝之 道也。」

この4月、諸葛亮が斜谷をでて、渭南に屯する。司馬懿がふせぐ。

斜谷は、武帝紀の建安24年にある。
渭水の南である。『晋書』宣帝紀で諸葛亮は、郿県にある渭水の南原にくる。
『蜀志』諸葛亮伝はいう。武功の五丈原による。司馬懿と渭南でむきあう。渭水の沿岸で屯田する。『晋書』宣帝紀で、布陣をめぐる攻防がある。宣帝紀のままだから、はぶく。いずれ読まないとなあ。

曹叡から司馬懿に詔した。「手を出すな。敵のスキをつけ」と。

魏氏春秋曰:亮既屢遣使交書,又致巾幗婦人之飾,以怒宣王。宣王將出戰,辛毗杖節奉詔,勒宣王及軍吏已下, 乃止。宣王見亮使,唯問其寢食及其事之煩簡,不問戎事。使對曰:「諸葛公夙興夜寐,罰二十已上,皆親覽焉; 所啖食不過數升。」宣王曰:「亮體斃矣,其能久乎?」

『魏氏春秋』はいう。諸葛亮はしばしば使者を司馬懿におくり、婦人の飾りを贈る。司馬懿が怒ったが、辛毗が杖節して奉詔する。司馬懿は動かず。使者に諸葛亮の様子をきいて、寿命をさぐる。

諸葛亮の贈物に関する、字釈は上海古籍395頁。
『晋書』宣帝紀で、蜀将の姜維が、辛毗がきたと情報をつかみ、云々。
胡三省はいう。司馬懿は諸葛亮を、はばかった。軍事の話をしなくても、諸葛亮の寿命だけ知れば、司馬懿は充分だったのである。盧弼はいう。司馬懿が軍事を聞いても使者は教えないが、動静のことを話してしまった。諸葛亮は54歳で、8月に病没する。司馬懿に見通しどおりになった。
『御覧』650に『晋陽秋』をひく。諸葛亮は杖20以上をみずから決めた。
諸葛亮の小食について、上海古籍396頁。
ぼくは思う。みるみる興味がないなー。


五月,太白晝見。孫權入居巢湖口,向合肥新城,又遣將陸議、孫韶各將萬餘人入淮、 沔。

5月、太白が晝見した。

趙一清、梁商鉅は『晋書』天文志と年月が合わないという。

孫權が居巢の湖口に入り、合肥新城にむかう。

居巣は、武帝紀の建安22年。胡三省はいう。巣湖口は、いまの柵江口である。
合肥は、武帝紀の建安13年にある。合肥新城は、満寵伝にある。胡三省はいう。太和6年に満寵が新築した。盧弼はいう。満寵伝はいう。青龍元年、満寵が上疏した。合肥の南は、長江と湖に接する。北は寿春に達する。合肥の西30里、地形が険しい場所に、新城を作りたい。その年、孫権が自ら出てきて、新城を囲もうとした。翌年、孫権が10萬にひきいて、合肥新城にきた。以上より、満寵が新築をねがったのは青龍元年である。『通鑑』は太和6年というが、胡三省まで誤りである。

孫権は、陸議と孫韶に1萬余人ずつひきいさせ、淮水と沔水に入る。

孫権伝はいう。嘉禾3年5月、孫権は陸遜と諸葛瑾らを、江夏の沔口におく。孫韶と張承らを、広陵の淮陽にむかわす(盧弼は淮陰だと考える)。孫権は大軍で合肥新城をかこむ。
『通鑑』はいう。呉郡は、居巣の湖口に入り、合肥新城にむかう。10萬。また、陸遜と諸葛瑾は1萬余人ずつで江夏の沔口に入り、襄陽にむかう。将軍の孫韶と張承は、淮水に入り、広陵の淮陰にむかう。
盧弼はいう。諸葛亮が孫呉と約束して、同時に大挙したのだ。孫呉は3路に分かれた。孫権の合肥新城が1路。陸遜は江夏の沔口で2路。孫韶は淮陰にむかい3路。ゆえに「おのおの1万余をひきいて、淮水や沔水に入る」という。孫権伝と『通鑑』が一致している。


六月,征東將軍滿寵進軍拒之。寵欲拔新城守,致賊壽春,帝不聽,曰:「昔漢光武遣兵 縣據略陽,終以破隗囂,先帝東置合肥,南守襄陽,西固祁山,賊來輒破於三城之下者,地有 所必爭也。縱權攻新城,必不能拔。敕諸將堅守,吾將自往征之,比至,恐權走也。」

6月、征東將軍の滿寵がふせぐ。満寵は新城を撤退し、孫権を寿春まで引き込みたい。

『魏志』劉放伝はいう。孫権と諸葛亮は連和する。孫権の文書を入手したので、劉放が改竄して、孫権が満寵に降りたいと書いた。孫権は、諸葛亮に疑われることを懼れて、同時の進軍をやめた。
寿春は、文帝紀の黄初5年にある。

曹叡が撤退を許さず。詔した。「光武は、略陽を動かないから、隗囂を降すことができた。先帝は、東に合肥、南に襄陽、西に祁山を置いた。ここは必争の地だから、堅守すべきだ。私が出陣するころには、孫権は逃げるだろう」と。

略陽は、文帝紀の黄初2年。
祁山について、上海古籍398頁。『魏志』牽招伝はいう。諸葛亮は祁山にて、軻比能に連結の依頼をだした。軻比能は、もと北地郡の石城にいて、祁山の諸葛亮と連なった。そういう地勢的位置だよと。


秋、孫権が曹叡にびびり、諸葛亮が病没する

秋七月壬寅,帝親御龍舟東征,權攻新城,將軍張穎等拒守力戰,帝軍未至數百里,權遁走,議、 韶等亦退。羣臣以為大將軍方與諸葛亮相持未解,車駕可西幸長安。帝曰:「權走,亮膽 破,大將軍以制之,吾無憂矣。」遂進軍幸壽春,錄諸將功,封賞各有差。
八月己未,大曜兵,饗六軍,遣使者持節犒勞合肥、壽春諸軍。辛巳,行還許昌宮。

秋7月壬寅、曹叡は龍舟で東征した。孫権は、張穎が守る新城から逃げた。陸遜と孫韶もひく。

孫権伝はいう。孫権は、曹叡が出てこないと思った。曹叡が寿春にくる前に撤退した。満寵伝はいう。満寵は、孫権の弟の子の孫泰を射殺した。

群臣は「つぎは長安にゆけ」というが、曹叡は「孫権がひけば、諸葛亮もひく」という。曹叡は、寿春で功績に褒賞した。
8月己未、六軍に饗宴させ、使者に持節させて、合肥と寿春の諸軍をねぎらう。8月辛巳、許昌宮に帰る。

司馬宣王與亮相持,連圍積日,亮數挑戰,宣王堅壘不應。會亮卒,其軍退還。

司馬懿は、諸葛亮と戦わず。諸葛亮が死に、蜀軍がひいいた。

『晋書』宣帝紀はいう。撤退後を見て「天下の奇才だ」といった。


冬、京都で大地震

冬十月乙丑,月犯鎮星及軒轅。戊寅,月犯太白。十一月,京都地震,從東南來,隱隱 有聲,搖動屋瓦。十二月,詔有司刪定大辟,減死罪。

冬10月乙丑、月が鎮星および軒轅をおかす。10月戊寅、月が太白をおかす。11月、京都で地震あり。東南より振動がきて、隠隠と音がして、屋瓦が搖動した。12月、有司に大辟を刪定さえ、死罪を減じた。

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青龍3年、洛陽を改修・増築し、曹芳を斉王とする

春、

三年春正月戊子,以大將軍司馬宣王為太尉。己亥,復置朔方郡。京都大疫。丁巳, 皇太后崩。乙亥,隕石于壽光縣。

青龍3年春正月戊子、

盧文弨はいう。正月に戊子があるなら、正月48日になる。閏正月か。『宋書』も同じで、おかしい。ぼくは思う。『魏志』の本紀は、もはやコヨミを間違えまくって、曹魏を貶めようと思っているようにしか思えない。そういう「筆誅」ってあるのか。
ぼくは思う。陳寿が曹魏をそしるには、コヨミを誤りまくるだけでいい。「何がいつ起きているか記録できず、コヨミの管理ができない。これでは天命があるはずがない」という、間接的だが強烈なメッセージ。どの個人(とその子孫たち)も傷つかないから、陳寿の身は安全。しかし、曹魏はボロボロの印象。盧弼はコヨミが出るたびに修正するほど。

大将軍の司馬懿を太尉とした。

華歆をついだのだ。『晋書』宣帝紀はいう。青龍3年、太尉にうつる。かさねて増邑。馬岱が入寇したので、牛金に1千余級を斬らせた。武都氐王の符双強端が、6千余人をひきいて来降した。
ぼくは思う。諸葛亮が死んでも、蜀漢は戦争を続けていたという記事。
ぼくは思う。献帝が死んだとき、『献帝伝』で文帝廟に大牢を届けたのは太尉だったはず。このとき、すでに前任の太尉・華歆は死んでた。ゴースト華歆が届けたのか。死んでも、やることはやるなあ! もしくは、太尉の代理か。まさかね。山陽の献帝の喪には三公の代理をよこすが、洛陽の文帝廟に、三公の代理で済ますはずがない。

正月己亥、朔方郡を復置した。

武帝紀はいう。建安20年、雲中、定襄、五原、朔方郡をはぶき、新興郡にまとめる。『晋書』地理志に記載がない 。置いても、すぐに配されたか。
呉増僅はいう。甘露のとき、并州諸郡をもって晋公に封じられたが、その諸郡に朔方を含まない。どの県の上に朔北郡が置かれたかも分からない。盧弼はいう。『晋書』文帝紀で、甘露3年に晋公に封じられる。

京都で大疫あり。正月丁巳、 皇太后が崩じた。

『魏志』郭后伝にひく『漢晋春秋』はいう。曹叡が、母の死にざまを詰問して、曹丕の妻・郭后を殺してしまった。

正月乙亥、隕石が青州の楽安国の壽光県にあり。

三月庚寅,葬文德郭后,營陵于首陽陵澗西,如終制。

顧愷之啟蒙注曰:魏時人有開周王冢者,得殉葬女子,經數日而有氣,數月而能語;年可二十。送詣京師,郭太 后愛養之。十餘年,太后崩,哀思哭泣,一年餘而死。

3月庚寅、文德郭后を葬る。終制のごとく、首陽陵の澗西に葬る。

首陽陵は、文帝紀の黄初3年。曹丕がねむる。

顧愷之『啓蒙注』はいう。周王に殉死した女子が復活し、郭太后に養われた。10余年たち、郭太后が死ぬと、1年余で死んだ。

『晋書』文苑伝に、顧愷之の列伝がある。
趙一清はいう。同じ話が『博物志』にあるが、前漢の皇帝に殉死した女子である。
ぼくは思う。「だからデタラメだ」ではない。「むかしの陵墓」ならば何でも良く、ただこの復活という話形が重要だったと分かる。話形の分析は、思いつかないので、また後日。


是時,大治洛陽宮,起昭陽、太極殿,築總章觀。百姓失農時,直臣楊阜、高堂隆等各數 切諫,雖不能聽,常優容之。

魏略曰:是年起太極諸殿,築總章觀,高十餘丈,建翔鳳於其上(後略)

このとき、洛陽宮を大改修した。昭陽太極殿をたてた。總章觀を建てた。

胡三省はいう。諸葛亮が死んだので、建設しまくった。何焯はいう。せっかく防衛費が浮いたのに、『孟子』のいう中人とは違うなあ。
ぼくは思う。みんな諸葛亮のことを言うけど、やっぱり献帝の死だと思うなあ! 上に書いた。これから展開していく予定。
@bb_sabure さんはいう。地震で洛陽の建物が破損したことも関連しているかと思います。特に青龍2年の地震は大きかったようです。地震の事実だけでなく被害も書かれています。諸葛亮最後の北伐を防いでる頃で土木作業員としての兵士もいないし予算もなくて修理できてなかったのではないでしょうか。
ぼくは思う。諸葛亮の死は青龍2年8月、地震は11月。『晋書』宣帝紀では、青龍3年に馬岱の北伐がある。兵士を戻して着手したら、青龍3年に本格的に建設を開始できそう。

農時にまで、人民を建設に駆りだしたので、直臣の楊阜、高堂隆らがきつく諫めた。曹叡は聞かず。

盧弼はいう。司空の陳羣、廷尉の高柔、衛尉の辛毗、散騎常侍の蒋済、中書侍郎の王基、右僕射の衛臻、尚書の孫礼、みな諫めた。それぞれの列伝にある。

『魏略』はいう。沛国の張茂、あざなは彦林も諫めた。はぶく。

ぼくは思う。陳羣たちと同じように、張茂に列伝があれば、ここに長い裴注が挿入されることがなかった。気が向いたら後日。
趙一清はいう。『晋書』刑法志はいう。衛覬が上奏するには、張茂は獄吏の偏考のために殺されたという。このとき諫めた張茂と同一人物だろうか。ぼくは思う。五胡十六国の涼州にも、張茂っていた。


秋冬、曹芳を斉王、曹詢を秦王とする

秋七月,洛陽崇華殿災,八月庚午,立皇子芳為齊王,詢為秦王。丁巳,行還洛陽宮。 命有司復崇華,改名九龍殿。

秋7月、洛陽の崇華殿がもえた。

『魏志』高堂隆伝に、この宮殿に関する問答あり。

8月庚午、皇子の皇子の曹芳を齊王に、曹詢を秦王とした。

『魏志』三少帝紀はいう。明帝には子がないから、曹芳と曹詢を育てた。宮省の秘事だという。
盧弼はいう。景初3年、曹芳は8歳、曹詢は9歳である。裴注にひく『魏氏春秋』によると、太和5年と6年に生まれたはず。だが、太和5年に曹殷が生まれ、本紀に大きく書いてある。これが実子でない疑惑の証拠1。曹芳が即位したとき、曹芳の母に皇太后を贈らず、毛太后がのこる。これが証拠2。裴注『魏氏春秋』では、曹楷の子かも知れないというが、それなら曹楷が厚遇されるべきだが、されない。これが証拠3。曹操が魏晋南朝の簒奪をスタートさせたが、すでに曹芳の代で、曹氏の血筋が途絶えて「簒奪」が起きていたのだ。
盧弼はいう。明帝に男子はないが、娘はいた。『晋書』任愷伝で、任愷が明帝の娘をもらう。また任愷の妻である、斉長後主は、魏時の御器をもらった。
ぼくは思う。曹芳が、曹叡の実子でないことは、揺らがない、でいいかな。

8月丁巳、洛陽宮にもどる。 有司に命じ、修復した崇華殿を九龍殿と改名した。

『魏志』高堂隆伝はいう。ときに郡国で9件、龍の目撃があった。ゆえに九龍殿とした。『通鑑』はもう1つ、高堂隆と曹叡の問答を載せる。『通鑑』は青龍3年におくが、『晋書』五行志によると景初元年の問答だ。


冬十月己酉,中山王兗薨。壬申,太白晝見。十一月丁酉,行幸許昌宮。

冬10月己酉、中山王の曹兗が薨じた。10月壬申、太白が晝見した。11月丁酉、許昌宮にゆく。

この年、曹叡は孫権に馬をおくり、翡翠などの珍宝を交換せよと命じた。『呉志』孫権伝にある。


魏氏春秋曰:是歲張掖郡刪丹縣金山玄川溢涌、、
世語曰:又有一雞象。
搜神記曰:初,漢元、成之世,先識之士有言曰、、
漢晉春秋曰:氐池縣大柳谷口夜激波涌溢,其聲如雷、、

魏晋革命を予期させる符瑞などを裴松之がまとめる。はぶく。

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青龍4年、天体の異常が頻発する

春夏、董昭が死に、刑罰を慎重にさせる

四年春二月,太白復晝見,月犯太白,又犯軒轅一星,入太微而出。夏四月,置崇文觀, 徵善屬文者以充之。五月乙卯,司徒董昭薨。丁巳,肅慎氏獻楛矢。

青龍4年春2月、太白がまた晝見して、月が太白をおかし、軒轅一星をおかし、太微に入って出る。

盧文弨はいう。『宋書』では3月己巳である。

夏4月、崇文觀をおく。善く屬文する者をあてる。

王粛伝はいう。王粛は常侍をもって、秘書監を領した。崇文觀の祭酒をかねた。

5月乙卯、司徒の董昭が薨じる。5月丁巳,肅慎氏が楛矢を献じた。

『国語』と韋昭注あり。『後漢書』東夷伝に肅慎氏があり。上海古籍411頁。


六月壬申,詔曰:「有虞氏畫象而民弗犯,周人刑錯而不用。朕從百王之末,追望上世 之風,邈乎何相去之遠?法令滋章,犯者彌多,刑罰愈眾,而姦不可止。往者按大辟之條, 多所蠲除,思濟生民之命,此朕之至意也。而郡國斃獄,一歲之中尚過數百,豈朕訓導不 醇,俾民輕罪,將苛法猶存,為之陷穽乎?有司其議獄緩死,務從寬簡,及乞恩者,或辭未出 而獄以報斷,非所以究理盡情也。其令廷尉及天下獄官,諸有死罪具獄以定,非謀反及手 殺人,亟語其親治,有乞恩者,使與奏當文書俱上,朕將思所以全之。其布告天下,使明朕 意。」

6月壬申、詔した。「廷尉および天下の獄官は、謀反者と殺人者でなければ、慎重に取り調べよ」と。

『晋書』刑法志は、魏明帝は法律を改めた。明帝の太和3年の注釈にある。盧弼はいう。曹叡は即位してから、慎重に刑罰せよと命じた。名君である。だが王粛伝や高堂隆伝によると、軍事や建設が多すぎる。刑罰が濫用されたという記述もある。なぜ矛盾した記述があるのだろうか。
ぼくは思う。この矛盾から、何が言えるかを考えるのが楽しいんじゃないか。


秋冬、星空の異常が頻発し、陳羣が死ぬ

秋七月,高句驪王宮斬送孫權使胡衞等首,詣幽州。甲寅,太白犯軒轅大星。

秋7月、高句麗王が、孫権の使者・胡衛らの首をもち、幽州をもうでた。7月甲寅、太白が軒轅大星をおかした。

高句麗王は「宮」でなく「位宮」である。


冬十月己卯,行還洛陽宮。甲申,有星孛于大辰,乙酉,又孛于東方。十一月己亥,彗星見,犯宦者天紀星。十二月癸巳,司空陳羣薨。乙未,行幸許昌宮。

冬10月己卯、洛陽にもどる。10月甲申、星孛が大辰にある。10月乙酉、また星孛が東方である。

胡三省はいう。『公羊伝』で大辰とは、大火という。何休と蔡邕らが注釈する。盧弼はいう。高堂隆伝で、この年に太歳で星孛があり、高堂隆がいさめた。

11月己亥、彗星があらわれ、宦者天紀星をおかす。12月癸巳、司空の陳羣が薨じた。12月乙未、許昌宮にゆく。

ぼくは思う。なんだか天文が終末の様相をおびてきた。董昭と陳羣が死んで、曹操の時代の重鎮たちが退場してきた。12年夏休みの『魏志』本紀は、ここで、いちど打ち止め。呉主伝や先主伝を読みたい。「諸葛亮の死によって、急速に興味を失ってきた」ので。ほんとに、違う話形、違う時代の段階になってきた。

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景初元年、後日作成

景初元年春正月壬辰,山茌縣言黃龍見。茌音仕狸反。於是有司奏,以為魏得地統,宜以 建丑之月為正。三月,定曆改年為孟夏四月。[一]魏書曰:初,文皇帝即位,以受禪于漢,因循漢正朔弗改。帝在東宮著論,以為五帝三王雖同氣共祖,禮不相襲, 正朔自宜改變,以明受命之運。及即位,優游者久之,史官復著言宜改,乃詔三公、特進、九卿、中郎將、大夫、博 士、議郎、千石、六百石博議,議者或不同。帝據古典,甲子詔曰:「夫太極運三辰五星於上,元氣轉三統五行於 下,登降周旋,終則又始。故仲尼作春秋,於三微之月,每月稱王,以明三正迭相為首。今推三統之次,魏得地 統,當以建丑之月為正月。考之羣藝,厥義章矣。其改青龍五年三月為景初元年四月。」服色尚黃,犧牲用白,戎事乘黑首白馬,建 大赤之旂,朝會建大白之旗。[二]臣松之按:魏為土行,故服色尚黃。行殷之時,以建丑為正,故犧牲旂旗一用殷禮。禮記云:「夏后氏尚黑,故戎 事乘驪,牲用玄;殷人尚白,戎事乘翰,牲用白;周人尚赤,戎事乘騵,牲用騂。」鄭玄云:「夏后氏以建寅為正, 物生色黑;殷以建丑為正,物牙色白;周以建子為正,物萌色赤。翰,白色馬也,易曰『白馬翰如』。」周禮巾車 職「建大赤以朝」,大白以即戎,此則周以正色之旗以朝,先代之旗即戎。今魏用殷禮,變周之制,故建大白以朝,大 赤即戎。改太和曆曰景初曆。其春夏秋冬孟仲季月雖與正歲不同, 至於郊祀、迎氣、礿祠、蒸嘗、巡狩、蒐田、分至啟閉、班宣時令、中氣早晚、敬授民事,皆以正 歲斗建為曆數之序。
五月己巳,行還洛陽宮。己丑,大赦。六月戊申,京都地震。己亥,以尚書令陳矯為司 徒,尚書(左) 〔右〕右 趙一清據衞臻傳及宋書百官志改僕射衞臻為司空。丁未,分魏興之魏陽、錫郡之安富、上庸為上庸郡。省 錫郡,以錫縣屬魏興郡。 有司奏:武皇帝撥亂反正,為魏太祖,樂用武始之舞。文皇帝應天受命,為魏高祖,樂 用咸熙之舞。帝制作興治,為魏烈祖,樂用章(武) 〔斌〕章斌 從周壽昌侯康說之舞。三祖之廟,萬世不毀。其餘 四廟,親盡迭毀,如周后稷、文、武廟祧之制。[一]孫盛曰:夫諡以表行,廟以存容,皆於既沒然後著焉,所以原始要終,以示百世也。未有當年而逆制祖宗,未終而 豫自尊顯。昔華樂以厚斂致譏,周人以豫凶違禮,魏之羣司,於是乎失正。
秋七月丁卯,司徒陳矯薨。孫權遣將朱然等二萬人圍江夏郡,荊州刺史胡質等擊之, 然退走。初,權遣使浮海與高句驪通,欲襲遼東。遣幽州刺史毌丘儉率諸軍及鮮卑、烏丸 屯遼東南界,璽書徵公孫淵。淵發兵反,儉進軍討之,會連雨十日,遼水大漲,詔儉引軍還。 右北平烏丸單于寇婁敦、遼西烏丸都督王護留等居遼東,率部眾隨儉內附。己卯,詔遼 東將吏士民為淵所脅略不得降者,一切赦之。辛卯,太白晝見。淵自儉還,遂自立為燕王, 置百官,稱紹漢元年。 詔青、兗、幽、冀四州大作海船。九月,冀、兗、徐、豫四州民遇水,遣侍御史循行沒溺死 亡及失財產者,在所開倉振救之。庚辰,皇后毛氏卒。冬十月丁未,月犯熒惑。癸丑,葬悼 毛后于愍陵。乙卯,營洛陽南委粟山為圜丘。[一]魏書載詔曰:「蓋帝王受命,莫不恭承天地以章神明,尊祀世統以昭功德,故先代之典既著,則禘郊祖宗之制備 也。昔漢氏之初,承秦滅學之後,采摭殘缺,以備郊祀,自甘泉后土、雍宮五畤,神祇兆位,多不見經,是以制度無 常,一彼一此,四百餘年,廢無禘祀。古代之所更立者,遂有闕焉。曹氏系世,出自有虞氏,今祀圜丘,以始祖帝 舜配,號圜丘曰皇皇帝天;方丘所祭曰皇皇后地,以舜妃伊氏配;天郊所祭曰皇天之神,以太祖武皇帝配;地 郊所祭曰皇地之祇,以武宣后配;宗祀皇考高祖文皇帝於明堂,以配上帝。」至晉泰始二年,并圜丘、方丘二至 之祀於南北郊。十二月壬子冬至,始祀。丁巳,分襄陽臨 沮、宜城、旍陽、邔邔音其己反。四縣,置襄陽南部都尉。己未,有司奏文昭皇后立廟京都。分 襄陽郡之鄀葉縣屬義陽郡。[二]魏略曰:是歲,徙長安諸鐘、駱駝、銅人、承露盤。盤折,銅人重不可致,留于霸城。大發銅鑄作銅人二,號曰翁 仲,列坐于司馬門外。又鑄黃龍、鳳皇各一,龍高四丈,鳳高三丈餘,置內殿前。起土山于芳林園西北陬,使公卿 羣僚皆負土成山,樹松竹雜木善草於其上,捕山禽雜獸置其中。    漢晉春秋曰:帝徙盤,盤折,聲聞數十里,金狄或泣,因留霸城。    魏略載司徒軍議掾河東董尋上書諫曰:「臣聞古之直士,盡言于國,不避死亡。故周昌比高祖於桀、紂,劉輔譬趙 后於人婢。天生忠直,雖白刃沸湯,往而不顧者,誠為時主愛惜天下也。建安以來,野戰死亡,或門殫戶盡,雖有存 者,遺孤老弱。若今宮室狹小,當廣大之,猶宜隨時,不妨農務,況乃作無益之物,黃龍、鳳皇,九龍、承露盤,土 山、淵池,此皆聖明之所不興也,其功參倍于殿舍。三公九卿侍中尚書,天下至德,皆知非道而不敢言者,以陛下 春秋方剛,心畏雷霆。今陛下既尊群臣,顯以冠冕,被以文繡,載以華輿,所以異于小人;而使穿方舉土,面目垢 黑,沾體塗足,衣冠了鳥,毀國之光以崇無益,甚非謂也。孔子曰:『君使臣以禮,臣事君以忠。』無忠無禮,國何以 立!故有君不君,臣不臣,上下不通,心懷鬱結,使陰陽不和,災害屢降,凶惡之徒,因間而起,誰當為陛下盡言事 者乎?又誰當干萬乘以死為戲乎?臣知言出必死,而臣自比於牛之一毛,生既無益,死亦何損?秉筆流涕,心與 世辭。臣有八子,臣死之後,累陛下矣!」將奏,沐浴。既通,帝曰:「董尋不畏死邪!」主者奏收尋,有詔勿問。 後為貝丘令,清省得民心。

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景初2年、後日作成

二年春正月,詔太尉司馬宣王帥眾討遼東。[一]干竇晉紀曰:帝問宣王:「度公孫淵將何計以待君?」宣王對曰:「淵棄城預走,上計也;據遼水拒大軍,其次也; 坐守襄平,此為成禽耳。」帝曰:「然則三者何出?」對曰:「唯明智審量彼我,乃預有所割棄,此既非淵所及,又 謂今往縣遠,不能持久,必先拒遼水,後守也。」帝曰:「住還幾日?」對曰:「往百日,攻百日;還百日,以六十 日為休息,如此,一年足矣。」    魏名臣奏載散騎常侍何曾表曰:「臣聞先王制法,必於全慎,故建官授任,則置假輔,陳師命將,則立監貳,宣命遣 使,則設介副,臨敵交刃,則參御右,蓋以盡謀思之功,防安危之變也。是以在險當難,則權足相濟,隕缺不預,則 才足相代,其為固防,至深至遠。及至漢氏,亦循舊章。韓信伐趙,張耳為貳;馬援討越,劉隆副軍。前世之迹, 著在篇志。今懿奉辭誅罪,步騎數萬,道路迴阻,四千餘里,雖假天威,有征無戰,寇或潛遁,消散日月,命無常 期,人非金石,遠慮詳備,誠宜有副。今北邊諸將及懿所督,皆為僚屬,名位不殊,素無定分,卒有變急,不相鎮 攝。存不忘亡,聖達所戒,宜選大臣名將威重宿著者,盛其禮秩,遣詣懿軍,進同謀略,退為副佐。雖有萬一不虞 之災,軍主有儲,則無患矣。」毌丘儉志記云,時以儉為宣王副也。
二月癸卯,以大中大夫韓暨為司徒。癸丑,月犯心距星,又犯心中央大星。夏四月庚 子,司徒韓暨薨。壬寅,分沛國蕭、相、竹邑、符離、蘄、銍、龍亢、山桑、洨、虹洨音胡交反。虹音 絳。十縣為汝陰郡。宋縣、陳郡苦縣皆屬譙郡。以沛、杼秋、公丘、彭城豐國、廣戚,并五縣 為沛王國。庚戌,大赦。五月乙亥,月犯心距星,又犯中央大星。[一]魏書載戊子詔曰:「昔漢高祖創業,光武中興,謀除殘暴,功昭四海,而墳陵崩頹,童兒牧豎踐蹈其上,非大魏尊崇 所承代之意也。其表高祖、光武陵四面百步,不得使民耕牧樵採。」六月,省漁陽郡之狐奴 縣,復置安樂縣。
秋八月,燒當羌王芒中、注詣等叛,涼州刺史率諸郡攻討,斬注詣首。癸丑,有彗星見 張宿。[一]漢晉春秋曰:史官言於帝曰:「此周之分野也,洛邑惡之。」於是大脩禳禱之術以厭焉。    魏書曰:九月,蜀陰平太守廖惇反,攻守善羌侯宕蕈營。雍州刺史郭淮遣廣魏太守王贇、南安太守游奕將兵討 惇。淮上書:「贇、奕等分兵夾山東西,圍落賊表,破在旦夕。」帝曰:「兵勢惡離。」促詔淮敕奕諸別營非要處者, 還令據便地。詔敕未到,奕軍為惇所破;贇為流矢所中死。 丙寅,司馬宣王圍公孫淵於襄平,大破之,傳淵首于京都,海東諸郡平。冬十一月,錄 討淵功,太尉宣王以下增邑封爵各有差。初,帝議遣宣王討淵,發卒四萬人。議臣皆以為 四萬兵多,役費難供。帝曰:「四千里征伐,雖云用奇,亦當任力,不當稍計役費。」遂以四 萬人行。及宣王至遼東,霖雨不得時攻,羣臣或以為淵未可卒破,宜詔宣王還。帝曰:「司 馬懿臨危制變,擒淵可計日待也。」卒皆如所策。 壬午,以司空衞臻為司徒,司隸校尉崔林為司空。閏月,月犯心中央大星。十二月乙 丑,帝寢疾不豫。辛巳,立皇后。賜天下男子爵人二級,鰥寡孤獨穀。以燕王宇為大將軍, 甲申免,以武衞將軍曹爽代之。[一]漢晉春秋曰:帝以燕王宇為大將軍,使與領軍將軍夏侯獻、武衞將軍曹爽、屯騎校尉曹肇、驍騎將軍秦朗等對輔 政。中書監劉放、令孫資久專權寵,為朗等素所不善,懼有後害,陰圖間之,而宇常在帝側,故未得有言。甲申, 帝氣微,宇下殿呼曹肇有所議,未還,而帝少閒,惟曹爽獨在。放知之,呼資與謀。資曰:「不可動也。」放曰:「俱 入鼎鑊,何不可之有?」乃突前見帝,垂泣曰:「陛下氣微,若有不諱,將以天下付誰?」帝曰:「卿不聞用燕王 耶?」放曰:「陛下忘先帝詔敕,藩王不得輔政。且陛下方病,而曹肇、秦朗等便與才人侍疾者言戲。燕王擁兵 南面,不聽臣等入,此即豎刁、趙高也。今皇太子幼弱,未能統政,外有彊暴之寇,內有勞怨之民,陛下不遠慮存 亡,而近係恩舊。委祖宗之業,付二三凡士,寢疾數日,外內壅隔,社稷危殆,而己不知,此臣等所以痛心也。」帝 得放言,大怒曰:「誰可任者?」放、資乃舉爽代宇,又白「宜詔司馬宣王使相參」,帝從之。放、資出,曹肇入,泣 涕固諫,帝使肇敕停。肇出戶,放、資趨而往,復說止帝,帝又從其言。放曰:「宜為手詔。」帝曰:「我困篤,不 能。」放即上牀,執帝手強作之,遂齎出,大言曰:「有詔免燕王宇等官,不得停省中。」於是宇、肇、獻、朗相與泣 而歸第。
初,青龍三年中,壽春農民妻自言為天神所下,命為登女,當營衞帝室,蠲邪納福。飲 人以水,及以洗瘡,或多愈者。於是立館後宮,下詔稱揚,甚見優寵。及帝疾,飲水無驗,於 是殺焉。

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景初3年、後日作成

三年春正月丁亥,太尉宣王還至河內,帝驛馬召到,引入臥內,執其手謂曰:「吾疾甚, 以後事屬君,君其與爽輔少子。吾得見君,無所恨!」宣王頓首流涕。[一]魏略曰:帝既從劉放計,召司馬宣王,自力為詔,既封,顧呼宮中常所給使者曰:「辟邪來!汝持我此詔授太尉 也。」辟邪馳去。先是,燕王為帝畫計,以為關中事重,宜便道遣宣王從河內西還,事以施行。宣王得前詔,斯須 復得後手筆,疑京師有變,乃馳到,入見帝。勞問訖,乃召齊、秦二王以示宣王,別指齊王謂宣王曰:「此是也,君 諦視之,勿誤也!」又教齊王令前抱宣王頸。    魏氏春秋曰:時太子芳年八歲,秦王九歲,在于御側。帝執宣王手,目太子曰:「死乃復可忍,朕忍死待君,君其與 爽輔此。」宣王曰:「陛下不見先帝屬臣以陛下乎?」即日,帝崩于嘉 福殿,[二]魏書曰:殯于九龍前殿。時年三十六。[三]臣松之按:魏武以建安九年八月定鄴,文帝始納甄后,明帝應以十年生,計至此年正月,整三十四年耳。時改正 朔,以故年十二月為今年正月,可彊名三十五年,不得三十六也。癸丑,葬高平陵。[四]魏書曰:帝容止可觀,望之儼然。自在東宮,不交朝臣,不問政事,唯潛思書籍而已。即位之後,褒禮大臣,料簡 功能,真偽不得相貿,務絕浮華譖毀之端,行師動眾,論決大事,謀臣將相,咸服帝之大略。性特彊識,雖左右小 臣官簿性行,名跡所履,及其父兄子弟,一經耳目,終不遺忘。含垢藏疾,容受直言,聽受吏民士庶上書,一月之 中至數十百封,雖文辭鄙陋,猶覽省究竟,意無厭倦。    孫盛曰:聞之長老,魏明帝天姿秀出,立髮垂地,口吃少言,而沉毅好斷。初,諸公受遺輔導,帝皆以方任處之,政 自己出。而優禮大臣,開容善直,雖犯顏極諫,無所摧戮,其君人之量如此之偉也。然不思建德垂風,不固維城 之基,至使大權偏據,社稷無衞,悲夫!
評曰:明帝沉毅斷識,任心而行,蓋有君人之至概焉。于時百姓彫弊,四海分崩,不先 聿脩顯祖,闡拓洪基,而遽追秦皇、漢武,宮館是營,格之遠猷,其殆疾乎!

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