表紙 > 曹魏 > 『魏志』明帝紀を読む上・太和年間

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黄初7年、皇帝即位、孫呉が江夏・襄陽を攻撃

曹丕は、京兆王の曹礼を皇太子にしたい

明皇帝諱叡,字元仲,文帝太子也。生而太祖愛之,常令在左右。

魏書曰:帝生數歲而有岐嶷之姿,武皇帝異之,曰:「我基於爾三世矣。」每朝宴會同,與侍中近臣並列帷幄。好 學多識,特留意於法理。

明皇帝は、いみなを叡という。あざなを元仲。文帝の太子。曹操に愛され、つねに曹操の左右にいた。 『魏書』はいう。曹叡は生まれて数年で、「岐嶷」で頭が良さそうな容姿。曹操に「私の基礎は、お前で3代目」と言われた。宴会に「朝」するとき、曹叡は曹操に同席した。

『毛』伝はいう。「岐」とは知意のこと。「嶷」とは、識ること。鄭箋はいう。「岐」とは知識がおおいこと、「嶷」とはよく識別できること。
ぼくは思う。知識を得るとは、たくさん水を飲むように、大量のメモリを頭にためこむこととイコールでない。水をガブ呑みしようとする、自認「知識人」がいるけどね。思うに、モヤモヤとした現実世界や思考世界のなかを、どんな尺度で切り分けて、秩序づけるか、その秩序づけるための方法を多く持っていることが、知識であり知恵である。「岐」「嶷」の解釈を読んでて、そんなことを思った。
『周礼』はいう。春にあうことを「朝」という。夏は宗、秋は観、冬は遇である。

侍中や近臣とともに、帷幄にならぶ。知識がおおく、とくに法理をこのむ。

年十五,封武德侯,黃初二年為齊公,三年為平原王。以其母誅,故未建為嗣。

魏略曰:文帝以郭后無子,詔使子養帝。帝以母不以道終,意甚不平。後不獲已,乃敬事郭后,旦夕因長御問起 居,郭后亦自以無子,遂加慈愛。文帝始以帝不悅,有意欲以他姬子京兆王為嗣,故久不拜太子。
魏末傳曰:帝常從文帝獵,見子母鹿。文帝射殺鹿母,使帝射鹿子,帝不從,曰:「陛下已殺其母,臣不忍復殺其 子。」因涕泣。文帝即放弓箭,以此深奇之,而樹立之意定。

15歳で武德侯、黄初2年に齊公、3年に平原王。母が誅され、後嗣にたてず。

裴注は、建安9年8月に、曹操が鄴を定めた。曹叡は、建安10年に生まれた。盧弼はいう。裴松之を信じるなら、延康元年に、曹叡は16歳である。
武徳は文帝紀の延康元年にある。鄭称は武徳侯の傅=もりやくになった。文帝紀の延康元年にひく『魏略』にある。吉茂は、武徳侯の庶子になった。常林伝にひく『魏略』にある。
甄后が死んだのは、黄初2年である。

『魏略』はいう。郭皇后に子がないから、皇后に曹叡を養わせた。はじめ仲が悪いが、曹叡が妥協して皇后に仕えた。曹丕は、徐姫の子・京兆王の曹礼を後嗣にしたいと思っていた。

『晋書』閻讃伝はいう。曹叡は、母が罪をえたので、廃して平原侯にされた。師友や文学は、みな正しい人だった。おとなしく曹叡は刑罰にしたがった。父には孝をつくし、母にもよく仕えたから、天下にほめられた。
盧弼はいう。この閻讃伝は、甄氏の死後、背が後嗣に建てられず、後嗣から廃されて平原侯になったという、ことの経緯を補ってくれる。

『魏末伝』はいう。曹丕が猟にゆき母鹿を殺した。曹叡は子鹿を殺さずに泣いた。曹丕は弓矢をなげて、曹叡に感じいり、曹叡を後嗣とした。

『魏末伝』は、選者がわからない。他からの引用や重複、ミスがおおい。上海古籍350頁。
『世説新語』言語篇にシカの逸話をひく。梁商鉅はいう。このシカの逸話は、曹丕の甄氏殺しが事実であることを裏づける。盧弼はいう。裴松之のコメントは、『魏志』甄后伝にある。
ぼくは思う。シカによって後嗣を決めるって、どうかなあ。ちょっとドラマチック過ぎる。ひとり平原王だけでなく、ほかの兄弟も猟に参加していなかったか。他の兄弟が、もっと面白いエピソードを叩き出したり、狩猟をめぐる父子のエピソードを叩き出しそうなものだ。曹丕は、シカを逃がした群臣を殺す人だから。
ぼくは思う。曹叡が後嗣を外されたのは、母の罪によってである。曹叡の罪でない。ここで曹丕が曹叡を後嗣にしたなら、シカを通じて「甄氏を殺したのは私の過ちだった」と認めたに等しい。そんなことあるのかな。仮にも皇帝だし、関係ないシカに仮託して、自分の政治判断を撤回するか。むしろ撤回するほうが問題でないか。
つづく記述のように、死の直前まで決まらずに、ムリに長男で決まったのではないか。


黄初7年夏、曹叡が皇帝に即位する

七年夏五月,帝病篤,乃 立為皇太子。丁巳,即皇帝位,大赦。尊皇太后曰太皇太后,皇后曰皇太后。諸臣封爵各 有差。癸未,追諡母甄夫人曰文昭皇后。壬辰,立皇弟蕤為陽平王。

世語曰:帝與朝士素不接,即位之後,羣下想聞風采。居數日,獨見侍中劉曄,語盡日。眾人側聽,曄既出,問「何 如」?曄曰:「秦始皇、漢孝武之儔,才具微不及耳。」 癸未,追諡母甄夫人曰文昭皇后。壬辰,立皇弟蕤為陽平王。

黄初7年夏5月、曹丕が病篤なので、皇太子にたつ。5月丁巳、皇帝に即位した。大赦。卞皇太后を太皇太后、郭皇后を皇太后とする。諸臣に爵位をくばる。

曹丕には9子いて、曹丕が死ぬ時点で4子が死去。のこりは短命。東海王の曹霖は、曹丕に愛寵されたが、諸国で凶暴だった。曹叡が後嗣となることに納得できない。曹叡から奪おうとした。

6月癸未、甄夫人を「文昭皇后」とする。
6月壬辰、皇弟の曹蕤を陽平王とする。

『魏志』甄后伝に詳しい。癸未の前に月が書かれていないが、6月である。
曹蕤は、潘淑媛の生んだ子である。列伝では、陽平県侯である。黄初5年に、諸王がおとされたとき、郡王から県王におとされたのだろう。

『世語』はいう。曹叡は朝士と接しないから、侍中の劉曄が偵察した。劉曄は「秦始皇、漢孝武のともがらだが、才具がちょっと及ばない」という。

盧弼はいう。上に『魏書』で、曹操のとき、いつも侍中や近臣と同席したという。いま、朝士と接さないという。矛盾するやないか。盧弼は考える。曹操の時代はみんなと同席したが、曹丕の時代は引きこもった。
ぼくは思う。盧弼の言うとおりなら、曹叡は、曹操の時代は3代目を確約され、みんなと会えたが、曹丕の時代に一転して不遇になった。普通なら、ぜったいに拗ねる。30歳になっても、両親の離婚を呪い続けてツイートする人がいるように、曹丕と甄氏の不仲、甄氏を殺した曹丕を怨むだろう。
梁商鉅はいう。後期の曹叡は、土木をやる。これも、始皇帝や漢武帝と同じである。劉曄は、すごく見通しているなあ。
ぼくは思う。個人的な性質の問題というより、「権力にあふれた君主」は、個人的な素質に優れるだけでなく、必ず土木をやるのだ。劉曄の評はあたっているかも知れないが、背後に、始皇帝ですら覆せない「構造」があるのだろう。君主の文法があるのだろう。


秋、孫権が江夏を、諸葛瑾が襄陽を攻める

八月,孫權攻江夏郡,太守文聘堅守。朝議欲發兵救之,帝曰:「權習水戰,所以敢下船 陸攻者,幾掩不備也。今已與聘相持,夫攻守勢倍,終不敢久也。」先時遣治書侍御史荀禹 慰勞邊方,禹到,於江夏發所經縣兵及所從步騎千人乘山舉火,權退走。

秋8月、孫権が江夏郡を攻める。文聘が堅守した。曹叡は「舟を下りた孫権なんて怖くない」と判断した。

江夏は、武帝紀の建安13年にある。
胡三省はいう。文聘は石陽にいた。祝穆はいう。曹操が荊州を定めたとき、沔陽にいて重鎮とした。盧弼はいう。祝穆は「沔陽」でなく、沌陽とすべきだ。ぼくは思う。祝穆が誤っているなら、ほっといてよ。
『魏志』文聘伝はいう。孫権が5万で文聘を石陽で囲んだ。文聘は動かず、孫権は20余日で去った。『呉志』孫権伝はいう。曹丕が死んだので、江夏を攻めてみた。
盧弼はいう。文聘がいた石陽は、沌陽とは別の場所である。

曹叡は、治書侍御史の荀禹に、文聘を慰労させた。荀禹は、県兵で山に火をたかせた。孫権は撤退した。

『晋書』職官志はいう。前漢の宣帝は、侍御史2人を侍らせた。治書をそばにおいた。もとは起源がちがうが、治書侍御史と言われたのは、宣帝が初めである。『宋書』百官志はいう。治書侍御史は、官品6以上を弾劾するのが職務。
盧弼はいう。荀禹は、あざなを景伯という。晋代に尚書となる。『魏志』荀彧伝の注釈にある。
ぼくは思う。刺史も同じだけど。皇帝の代理として、わずかな人数のくせに、絶大な権限をもって、官僚の働きぶりを裁きにくる人たち。こういうのが、いちんば「怖い」なあ。大軍勢なんて「怖くない」のだ。荀禹は、慰労にきつつ、文聘を裁きにきたかも知れない。いちばん恐がったのは、孫権ではなく文聘だろう。荀禹がちょっと動くだけで、文聘が震え上がり、「戦いの空気」が変わる。わずかな経済的コストだけで、おおきな効果を引きだすのが、秩序の醍醐味。


辛巳,立皇子冏為清河王。吳將諸葛瑾、張霸等寇襄陽,撫軍大將軍司馬宣王討破之, 斬霸,征東大將軍曹休又破其別將於尋陽。論功行賞各有差。

8月辛巳、皇子の曹冏を清河王とする。

趙一清はいう。曹冏は、列伝では曹貢である。盧弼はいう。清河王の曹貢は、文帝の子で、黄初4年に死んだ。子がなく、国が除かれた。曹冏は明帝の子である。趙一清は混同しており、誤りである。

吳將の諸葛瑾、張霸らは、襄陽を寇した。撫軍大將軍の司馬懿がやぶり、張覇を斬った。

ぼくは思う。諸葛瑾が司馬懿に斬られる流れだなあ!とくに先入観なく読むと、諸葛瑾が司馬懿に斬られても、とくに違和感がない流れ。賊軍が、王朝の名将に蹴散らされるというテンプレートだから。人間は、テンプレートから逃げられないのだ!
@korekorebox さんはいう。夷陵で朱然が殺されるのと一緒!!

征東大將軍の曹休は、別将を尋陽で破った。論功の行賞はそれぞれ差等あり。

「別将」について。『漢書』高帝紀にある。項梁は別将を召したと。顔師古はいう。別将とは、小部隊の将で、別の場所にいる者である。
『郡国志』廬江郡の尋陽である。南には九江があり、東に長江と合わせる。胡三省はいう。これは長江の北で、漢代の故県である。
『地理通釈』はいう。西晋の恵帝のとき、廬江を分けて、武昌に尋陽郡をたてた。豫章の郡治は柴桑である。このように尋陽の名が、乱れている。東晋の成帝が江州の郡治を尋陽とした。これは長江の南にある尋陽である。長江の北の尋陽は、廃されて、柴桑に組みこまれた。
呉増僅はいう。『呉志』周瑜伝はいう。建安4年、周瑜が皖城をぬき、尋陽を攻めて、劉勲を破った。これが、孫呉が尋陽を統治した始まりである。のちに皖城は曹魏に入ったが、尋陽は孫呉に入っていた。建安19年、呂蒙を廬江太守として、尋陽に屯させた。このとき尋陽は、廬江に属したと分かる。建安25年、廬江を武昌に属させた。黄武2年、武昌は、薪春に属した。三国の終わりまで、尋陽が曹魏に属したことがない。
尋陽は、『魏志』曹休伝、『呉志』孫策伝にひく『江表伝』にある。


冬、三公や、比三公の将軍を任じる

冬十月,清河王冏薨。十二 月,以太尉鍾繇為太傅,征東大將軍曹休為大司馬,中軍大將軍曹真為大將軍,司徒華歆為 太尉,司空王朗為司徒,鎮軍大將軍陳羣為司空,撫軍大將軍司馬宣王為驃騎大將軍。

冬10月、清河王の曹冏が薨じた。
12月、太尉の鍾繇を太傅とした。征東大將軍の曹休を大司馬に、中軍大將軍の曹真を大將軍に、司徒の華歆を太尉に、司空の王朗を司徒に、鎮軍大將軍の陳羣を司空に、

『晋書』百官志はいう。太宰、太傅、太保は、周制の三公である。魏初に太傅がおかれて、鍾繇が任じられた。
華歆は、管寧に官位を譲ったが、曹叡に許されず。曹叡は繆襲を使わし、華歆を太尉にした。
『呉志』諸葛瑾伝はいう。孫権は諸葛瑾にきく。「曹叡は曹丕におとる。曹丕は曹操におとる。陳羣と曹真は、ただの文人や親戚である。猛将を統御して、天下を制せられるわけがない」と。ぼくは思う。ここに諸葛瑾伝を入れて、曹魏をそしった盧弼は、偉いなあ! よく思い出した! ここは曹叡の人材の豊富ぶりを、めでるべき史料の場所だ。

撫軍大將軍の司馬懿を驃騎大將軍にした。

『続百官志』はいう。将軍は常設しない。三公に比せされるのは4つ。大将軍、驃騎将軍、車騎将軍、衛将軍の序列である。銭大昭はいう。太和元年、驃騎将軍の司馬懿に討伐させた。太和4年、驃騎将軍の司馬懿を、大将軍とした。驃騎「大」将軍でない。衍字かな。
周寿昌はいう。司馬懿は、もとは撫軍大将軍だった。晋代の驃騎将軍は、つねに「大」がつくから、うっかり驃騎「大」将軍としたか。このとき、鎮軍大将軍、征東大将軍という言い方をした。魏初には、制度が定まっていなかったか。
盧弼はいう。『晋書』宣帝紀では、驃騎将軍とする。「大」がない。

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太和元年、洛陽の廟ができ、新城の孟達が叛く

春、曹操と曹丕を祭り、江夏南部都尉をおく

太和元年春正月,郊祀武皇帝以配天,宗祀文皇帝於明堂以配上帝。

太和元年春正月、

『宋書』礼志はいう。明帝初、司空の王朗が議した。古代は年号をつかわず、皇帝の年数だけをつかった。前漢の武帝までは、そうだった。中元、後元という区別だけで足りず、めでたい名を年号にしうるようになった。だが本来でないと。曹叡は王朗に反対して、詔した。曹丕は魏王になり、延康と改元し、受禅して黄初と改元した。このように年号を定めるのがよい。『易経』を出典にして、太和とした。
ぼくは思う。王朗の意図はなんだろう。いまの天下を、前漢の文帝や景帝になぞらえようとしたか。武帝の前という意味で。呉蜀が残っているのは、武帝以降もしくは後漢よりま、前漢の前期ににている。もしくは、現状がパッとしないから、ザクッと復古してしまおう! という。そんな日本人みたいなことは言わないか。笑

曹操を郊祀して、天に配した。曹丕を明堂で宗祀して、上帝に配した。

侯康はいう。日付がないが、『晋書』『宋書』『通典』では、正月丁未とする。完成では、郊祀と明堂は同日に祭らなかったが、曹叡のときから同日の祭りが始まった。『南斉書』礼志上は、高堂隆の表を載せる。9日に南郊、10日に北郊、11日に明堂、12日に明堂を祭る。へー!
など、魏代の祭祀について。上海古籍356頁。


分江夏南部,置 江夏南部都尉。西平麴英反,殺臨羌令、西都長,遣將軍郝昭、鹿磐討斬之。二月辛未,帝 耕於籍田。辛巳,立文昭皇后寢廟於鄴。丁亥,朝日于東郊。

江夏郡の南部をわけて、江夏南部都尉をおく。

江夏は、武帝紀の建安13年。
ぼくは思う。江夏は、さっき文聘が死守したが、わりに孫権に苦しめられた場所。太守レベルの都尉をおいて、防御をきめ細やかに強化したのか。だれが南部都尉になったのだろう。これこそ盧弼が書いてほしかった。文聘伝か?

西平の麴英がそむき、臨羌令、西都長を殺した。將軍の郝昭、鹿磐に斬らせた。

『郡国志』はいう。金城の臨羌である。呉増僅はいう。『元和志』によると、曹魏は破羌県をわけて、西都県をたてた。西平郡に属させた。盧弼はいう。西平郡は、武帝紀の建安19年にある。斉王紀の嘉平5年にある。

2月辛未,曹叡は籍田を耕す。

籍田は、武帝紀の建安19年に注釈あり。上海古籍356頁。
『宋書』百官志はいう。籍田令1名、丞1名。宗廟と社稷の田をつかさどる。周制に由来する。前漢の文帝が令1名、丞1名をおいた。後漢と曹魏では置かれない。など。

2月辛巳、母の甄后を鄴に祭る。2月丁亥、朝日を東郊で祭る。

胡三省はいう。甄后は、鄴で殺された。


夏、五銖銭をつくり、宗廟が完成!

夏四月乙亥,行五銖錢。甲申,初營宗廟。

夏4月乙亥、五銖錢を流通させた。

『通典』巻8はいう。曹丕は黄初2年に五銖銭をやめた。百姓には、穀物や布帛で、買い物をさせた。曹叡のとき、銭が廃されて、穀物で売買する経験がながいから、みんな銭を使わず、薄絹で買い物をした。銭を使わないと厳刑を科しても、銭が流通しない。司馬芝が「厳刑はやめなさい」といった。晋代には銭の流通が定着し、新たに鋳造して流通させよう! という記述がなくなる。

4月甲申、はじめて宗廟をいとなんだ。

池を掘って玉璽を得たと、甄后伝にある。
沈家本はいう。このあと、鄴県から神主(イハイ)を連れてくるから、曹丕のときは神主は洛陽にいなかった。黄初4年6月の洪水も、このせいだという。曹操が建安18年に魏公となり、魏の宗廟を鄴県につくり、そのままだった。『魏略』には5都の定めがある。曹丕は都を1つに定めず、洛陽や許昌をウロウロしていた。洛陽に別廟があったのでなく、鄴県に廟があったとしても不思議でない。
ぼくは思う。曹丕が5都をさだめ、洛陽を重視しなかったのは、洛陽に宗廟がないからか。「5都の制度だよ」とうそぶくことで、洛陽の居心地の悪さも、洛陽の宗廟が未完なことも、許昌が便利なことも、すべて説明がつく。宗廟を残してきた鄴県の格式が下がっていないと、主張することができる。なにが真因なんだ? 「宗廟の建築に時間がかかった」という、ただの建築のリードタイムの問題か? もしくは、洛陽を唯一の都にしたくないという、何らかの政治的な意図に基づいて、宗廟の完成を遅らせたか? 曹丕と洛陽の相性の悪さは、しばらく宿題だな。
曹叡になると、あっさり洛陽に宗廟を持ってきた。曹叡は、洛陽からほとんど動かない。曹叡と洛陽は相性がいい。宗廟、すぐ完成するなら、すぐに完成させろよ! と曹丕に文句を言いたくもなる。わからん!


秋冬、毛皇后を立て、孟達がそむく

秋八月,夕月于西郊。冬十月丙寅,治兵于東郊。焉耆王遣子入侍。十一 月,立皇后毛氏。賜天下男子爵人二級,鰥寡孤獨不能自存者賜穀。十二月,封后父毛嘉 為列侯。新城太守孟達反,詔驃騎將軍司馬宣王討之。

秋8月、夕月を西郊で祭った。

梁商鉅はいう。8月己牛である。『宋書』礼志より。
この歳の6月、詔して司馬懿を宛城に屯させた。督荊豫州2州諸軍事を加えた。『晋書』宣帝紀にある。

冬10月丙寅、東郊で治兵した。焉耆王が子を入侍させた。
11月、毛氏を皇后にたてた。

『晋書』五行志はいう。曹叡が平原王のとき、河南の虞氏を妃とした。曹叡が則したいとき、皇后にしてもらえなかった。毛皇后は、もとの性格は仄微で、宣升される者でなかった。盧弼はいう。河内の虞氏だけどな。
『魏志』夏侯玄伝はいう。夏侯玄は皇帝に進見した。皇后の弟の毛曾と同席させられ、恥じて悦ばず。ぼくは思う。毛氏は官位が低いからなー。

男子に2爵、鰥寡や貧者に賜穀した。 12月、皇后の父・毛嘉を列侯とした。

11月、詔して管寧を徴した。
毛后伝はいう。孟嘉は、博平郷侯に封じられた。

新城太守の孟達がそむいた。

以下、裴注『三輔決録注』『魏略』『晋紀』は、孟達伝のような感じ。後日。おもな記事だけメモる。涼州の人。父の孟佗が張譲の門番に散財。延康元年、4千家をひきいて曹魏に帰順。魏王に即位直後の曹丕に、人材と見なされる。譙県で曹丕と面会。同乗して「劉備の刺客では」と。散騎常侍、新城太守、西南を委ねらる。桓階、夏侯尚と仲がよい。魏興太守の申儀と仲が悪いので、諸葛亮に誘われる。司馬懿は、参軍の梁幾に入朝を促されビビる。
新城に入ったとき、白馬塞にのぼり「劉封、申耽はここを守れなんだか」と。

詔して、驃騎將軍の司馬懿に討たせた。

以下、『三国志集解』より。
盧弼はいう。『魏志』劉曄伝、『晋書』宣帝紀で、孟達の裏切りが見透かされた。
諸葛亮と孟達の文書は、『蜀志』費詩伝にある。『華陽国志』巻7はいう。諸葛亮は漢陽にきて、曹魏からの降人たる李鴻と会う。新城太守の孟達が、いよいよ諸葛亮を頼るつもりと知る。参軍の蒋琬、従事の費詩に、孟達を外援につかえると話す。
『華陽国志』巻2はいう。諸葛亮は孟達に文書した。孟達は劉封と対立して、蜀漢を去ったので残念だ。都護の李厳も、孟達に文書した。呉蜀なら孟達を迎えるが、司馬懿は孟達を許さないと脅した。
『御覧』359にひく『戦略』はいう。諸葛亮は、郭模にわざと魏興郡の申儀を通らせ、孟達の決意を促した。玉玦などを持って。
『晋書』宣帝紀にも記述あり。干宝『晋紀』は、上海古籍360頁。
『隋書』経籍志に『孟達集』3巻がある。
ぼくは思う。孟達も、曹丕に評価されるほどの文人だったんだなあ。容姿だけじゃなかったのね。諸葛亮が、文書で攻撃を仕掛けるに値するほどの人物。曹丕は司馬懿を信頼して許昌を任せたが、孟達を信頼して蜀漢を任せた。司馬懿にとって孟達は、ライバルだったのかも知れない。官位は司馬懿のほうが高いけどね。司馬懿がどっしりとした幹部で、孟達が裏切りやすい降将、という二項対立では捉えられないのか。司馬懿の子孫は、裏切るしなあ。いま「孟達伝」を省いたくせに、孟達に興味を持ってしまった。いまは本紀を読んでるから、いいのだ。
ぼくは思う。司馬懿と孟達はライバルか。曹丕は司馬懿に許昌をゆだね、孟達を愛して新城太守を任せ、蜀漢の封鎖をゆだねた。曹丕の時代、孟達は役目を完遂して、蜀漢は北伐してこなかった。曹丕は、孫呉に集中できた。孟達は侮れないぞ。官位は司馬懿のほうが高いが、1方面をほぼ全任されるという点では、孟達は立派な高官である。そもそも曹魏は降将を優遇するし、孟達は『孟達集』を遺せる教養人だし、桓階・夏侯尚と親しいし。司馬懿の孟達攻めは、旧ライバルを排除して、自分の地位を保全することが目的かも?
ぼくは思う。明帝の前半に司馬懿がしていたこと(荊州の北部で漢中の方向を見張り、蜀漢を封殺する)を、文帝の時期に担当したのは孟達。この意味で司馬懿は、「孟達の後任者」である。戦って防いだ司馬懿より、戦わずに防いだ孟達のほうが、功績が大きいなあ。笑

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太和2年、街亭と陳倉で諸葛を防ぎ、曹休は敗死

春、3郡が叛き、街亭の戦い

二年春正月,宣王攻破新城,斬達,傳其首。

魏略曰:宣王誘達將李輔及達甥鄧賢,賢等開門納軍。達被圍旬有六日而敗,焚其首于洛陽四達之衢。

太和2年春正月、司馬懿が新城をやぶり、孟達の首をとどける。
『魏略』はいう。司馬懿は、部将の李輔と、孟達のおいの鄧賢をさそい、開門させた。孟達の首は、洛陽の四達之衢で焼かれた。

『晋書』宣帝紀はいう。上庸は3面を水にかこまれる。司馬懿は水をわたり、柵をつくり、八道から攻めた。16日でやぶった。孟達のおいの鄧賢の部将・李輔らが開門した。司馬懿は孟達の首を斬った。

分新城之上庸、武陵、巫縣為上庸郡,錫 縣為錫郡。

新城郡を、上庸郡と錫郡にわけた。上庸郡に属する県は、上庸、武陵、巫縣である。錫郡に属する県は、錫県である。

盧文弨はいう。『宋書』では武陵の巫県だよ。
銭大昕はいう。黄初元年、西城、房陵、上庸をあわせて、新城郡とした。孟達を太守とした。孟達が誅されて、また3分割された。以下、3県の編成と、巫県とはどこにあるのか。はぶく。上海古籍362頁。上庸と錫は、武帝紀の建安20年にある。


蜀大將諸葛亮寇邊,天水、南安、安定三郡吏民叛應亮。

魏書曰:是時朝臣未知計所出,帝曰:「亮阻山為固,今者自來,既合兵書致人之術;且亮貪三郡,知進而不知退, 今因此時,破亮必也。」乃部勒兵馬步騎五萬拒亮。

諸葛亮が侵入した。天水、南安、安定の3郡で吏民がそむき、諸葛亮に応ず。

天水は、王粛伝にひく『魏略』にある。
胡三省はいう。漢陽郡は、晋代に天水と改められる。だから晋代を投影して、漢陽とすべきを天水と記してある。『蜀志』姜維伝にひく『魏略』で、天水太守の『魏略』がでてくる。『魏志』鄧艾伝にも、天水太守の王頎が出てくる。諸史料を見ると、漢代までは漢陽だが、曹丕の魏代からは天水である。魏初に改名したが、改名の記事がおちているのだ。盧弼はいう。後者が正解である。しかし『蜀志』馬超伝では、桓帝のとき天水という地名がでる。
漢陽は武帝紀の建安18年にある。南安は武帝紀の19年、安定は武帝紀16年。
ぼくは思う。天水と漢陽をイコールで結べば充分。ほかは、史料の書かれた時期によって、ユレがある。しかし、天水と漢陽の場所や範囲は問題になっていないので、扱いやすい問題。

『魏書』はいう。群臣はどうして良いか分からない。だが曹叡は焦らない。「阻固な祁山から出てきて、彼は撤退しにくい。破りやすい」と。5万で迎撃した。

胡三省はいう。兵法がうまい人は、曹叡の言うとおり、敵を誘いだす。
ぼくは思う。諸葛亮は出撃しなければ、地形に守られて負けない。これは兵法に達者な、曹叡も認めていることである。しかし当然ながら、出撃しないと勝てない。出撃して負けても、諸葛亮の求心力により、辛うじて国家を保てる。出撃せずにいると、存在意義がなくなり、かえって空中分解する。以上から蜀漢は「北伐する-負ける国」という、よく分からん位置が与えられる。
ほかには「北伐する-勝つ国」は、地形からムリ。「北伐しない-勝つ国」は戦わないからムリ。「北伐しない-負ける国」は、悲しいけど国是と矛盾するので、あり得る。というわけで蜀漢は、北伐して負けるか、北伐しないで負けるかしかない。おー。


遣大將軍曹真都督關右,並 進兵。右將軍張郃擊亮於街亭,大破之。亮敗走,三郡平。丁未,行幸長安。

大将軍の曹真が關右を都督した。右將軍の張郃が、街亭で諸葛亮をやぶる。3郡が平らぐ。正月丁未、長安にゆく。

『宋書』百官志はいう。左右前後将軍は、周末の官位。秦漢でおく。光武の建武7年にやめて、曹魏がもどした。『魏志』張郃伝では、張郃は右将軍でなく左将軍である。
胡三省はいう。『続郡国志』はいう。漢陽の略陽県にある街亭である。前漢の街泉県である。はぶいて略陽に編入された。
ぼくは思う。諸葛亮ファン、蜀漢ファンが、もっとも胸を踊らせ、馬謖に失望する戦い。本紀はそっけない! このそっけなさが、本紀らしくて、非常によい! 50文字ちょい。1ツイートどころか、その半分にも満たない。省略の美学が光るなあ。


魏略載帝露布天下并班告益州曰:「劉備背恩,自竄巴蜀。諸葛亮棄父母之國,阿殘賊之黨,神人被毒,惡積身滅。亮外慕立孤之名,而內貪專擅之實。劉升之兄弟守空城而己。亮又侮易益土,虐用其民,是以利狼、宕渠、 高定、青羌莫不瓦解,為亮仇敵。

『魏略』は、曹叡が天下に露布した益州に呼びかけた文書を載せる。

ぼくは思う。曹叡が長安にきたのは、諸葛亮を防ぐためでない。蜀漢に解体をうながすためだ。のちに司馬昭が長安にきて、鍾会と鄧艾の遠征を見守るでしょ。あれと同じことをしたのだ。さきに諸葛亮に攻めさせ、まったく望みが持てないことを思い知らせ、降伏と解体を呼びかける。まったく王者の行動だなあ! 孫権に先に仕掛ける曹丕とは、正反対である。
ぼくが諸葛亮という個性のある人物を知らなかったら、これにて蜀漢が解体しました、という結末になっても(なったほうが)、納得がゆく。蜀漢ファンは「馬謖さえドジらなければ」と思うだろうが、根本の問題は、そこではない。馬謖がどうしようが、そもそも蜀漢が曹魏を征服することはできない。益州しか持たないからね。交通事故でトラックに跳ねられて、全身がズタズタになった人が、「車輌と衝突する瞬間に、腕の角度をもうちょっとこうして、足の位置をこうしておけば、もしかしたらオレが競り勝ったかも」なんて、感想戦をするようなものだ。そもそも衝突を辞めておけ。つまり、そもそも益州に籠もって、虚勢を張るのをやめておけ。
曹叡の政治的メッセージは「蜀漢なんて王朝ごっこを辞めろよ。何かを守っているつもりで、じつは守るべきものがないのに、益州に閉じこめられて、不利益を被っていないか」である。これは、蜀漢の意義を貶めるため、蜀漢の魔法を解くための、呪いの言葉である。しかし、呪いの言葉のほうが、真実を突いていることだってある。王宮に乗り付けたシンデレラに、「御者はネズミ、車体はカボチャだよ。恥ずかしいぜ」と言った瞬間に、魔法がとけて、灰かぶりが地面に転がり落ちるようなもの。

劉備は背恩し、巴蜀をぬすむ。諸葛亮は父母の国を棄てる。劉禅の兄弟は、空城を守る。諸葛亮は、益州の人士をだます。利狼、宕渠、 高定、青羌などの異民族は、蜀漢に敵対するだろう。

ぼくは思う。曹叡の文書は、蜀漢の本質をつくなあ。そのなかで、やたら細かい固有名詞がでてきた。蜀漢を中原から見たとき、異民族との関係にだけは「見るべきものがある」のだろう。
『蜀志』後主伝はいう。建興元年、越巂の高定がそむく。『通鑑』はいう。諸葛亮の南中戦がある。諸葛亮は、越巂で、雍ガイと高定を斬った。益州、永昌、ショウ柯、越巂の4郡を平定した。曹叡が南中支配が「瓦解」するというが、信頼できない。
趙一清はいう。青羌は、青衣羌である。盧弼はいう。諸葛亮伝の注釈に、青羌などがある。胡三省はいう。青羌は、羌族の一種である。


而亮反裘負薪,裏盡毛殫,刖趾適屨,刻肌傷骨,反更稱說,自以為能。行兵於 井底,游步於牛蹄。自朕即位,三邊無事,猶哀憐天下數遭兵革,且欲養四海之耆老,長後生之孤幼,先移風於禮 樂,次講武於農隙,置亮畫外,未以為虞。而亮懷李熊愚勇之志,不思荊邯度德之戒,驅略吏民,盜利祁 山。王師方振,膽破氣奪,馬謖、高祥,望旗奔敗。虎臣逐北,蹈尸涉血,亮也小子,震驚朕師。猛銳踊躍,咸思長 驅。朕惟率土莫非王臣,師之所處,荊棘生焉,不欲使千室之邑忠信貞良,與夫淫昏之黨,共受塗炭。故先開示, 以昭國誠,勉思變化,無滯亂邦。巴蜀將吏士民諸為亮所劫迫,公卿已下皆聽束手。」

『魏略』つづき。諸葛亮は李熊の志をいだく。荊邯の戒がない。

『後漢書』公孫述伝にひく。功曹の李熊は、公孫述に称帝をそそのかした。李熊は大司徒になった。騎都尉の荊邯は、公孫述に外征を説いたが、公孫述に受け容れられなかった。盧弼はいう。荊邯は、曹叡の文脈と、『後漢書』公孫述伝があわない。ぼくは補う。荊邯は公孫述に「外征せよ」というが、曹叡の文脈で荊邯は「外征するな」と言わねばならない。
『後漢書』列伝3・隗囂と公孫述伝;隴をとられ蜀をのぞまれる

馬謖と高祥は、魏軍の旗を見て逃げた。

高祥は、『魏志』曹真伝、郭淮伝では、高詳である。どちらか不明。郭淮伝はいう。太和2年、諸葛亮が祁山にでて、馬謖を街亭につかわす。高詳は柳城に屯する。張郃が馬謖を撃ち、郭淮は高詳をやぶる。謝鍾英はいう。柳城は、街亭にちかい。

巴蜀で諸葛亮に脅された者は、曹魏に降るなら、とがめない。

ぼくなら、降るなあ。曹叡が、蜀漢を対等なケンカの相手として見ていないのが、すばらしい。さすが、始皇帝や漢武帝のともがら。曹丕よりスケールがでかい。曹叡の孫呉への対応は、どうだろう。楽しみにしとく。


夏、曹叡が長安で死んだというウワサ

夏四月丁酉,還洛陽宮。

魏略曰:是時譌言,云帝已崩,從駕羣臣迎立雍丘王植。京師自卞太后羣公盡懼。及帝還,皆私察顏色。卞太后 悲喜,欲推始言者,帝曰:「天下皆言,將何所推?」

夏4月、丁酉に洛陽宮にかえる。
『魏略』はいう。長安で曹叡が死んだというウワサした。群臣は、雍丘王の曹植を立てようとした。卞皇后も心配した。曹叡は「ウワサの出所を詮索せず」という。

ぼくは思う。曹丕が死んで、みんな心配しているのか。曹操が劉備の方面にむかって死んだ、悪い記憶がよみがえったか。諸葛亮の神威をおそれたか。曹丕は、よほどウロウロ外征してたのに、死去のウワサがなかった。曹氏にとって、関中方面は、運が悪いのかも知れない。曹爽も失敗した。だから司馬昭の総指揮を待たねばならない。


赦繫囚非殊死以下。乙巳,論討亮功,封爵增邑各有差。五月,大旱。六 月,詔曰:「尊儒貴學,王教之本也。自頃儒官或非其人,將何以宣明聖道?其高選博士,才 任侍中常侍者。申敕郡國,貢士以經學為先。」

死刑未満を減刑した。4月乙巳、諸葛亮を討った功績を論じて、爵位や戸数をくばる。5月、日照。
6月に詔した。「儒官の人材が足りない。博士をえらび、侍中や常侍とせよ。郡国は、経学を優先で人材をえらべ」と。

郡国から人材をつのるのは、文帝紀の黄初3年にある。『漢書』儒林伝の序にいう。丞相の公孫弘が上奏して、博士の官職をおかせた。はぶく。上海古籍366頁。


秋、曹休が皖城で陸議にやぶれる

秋九月,曹休率諸軍至皖,與吳將陸議戰於 石亭,敗績。乙酉,立皇子穆為繁陽王。庚子,大司馬曹休薨。

秋9月、曹休は皖城にゆく。

『漢書』地理志はいう。廬江は皖城を治所とする。『郡国志』はいう。廬江郡の皖城である。
『呉志』孫権伝はいう。建安18年、廬江、九江、薪春、広陵の10万余戸が、長江の東にわたり、江西はカラになる。合肥から南は、皖城があるだけ。19年、孫権は皖城でかち、皖城を孫呉に入れる。
ついでに、ぼくは思う。盧弼は『三国志集解』で、『蜀志』先主伝というが、『呉志』呉主伝といわず、『呉志』孫権伝という。蜀漢を尊重する立場なのか、孫呉をおとしめる立場なのか。陳寿の言葉づかいも微妙だったが、盧弼によるランクづけも、また違う。注釈によって、正統性を訴えることができる。もとの文書の正誤を切り替えることができる。たとえば『春秋』諸伝がそうか。

曹休は、陸議に石亭で敗れる。

周寿昌はいう。陸遜か陸議かを、諸史料で検討する。上海古籍366頁。盧弼はいう。陸遜伝に、「本名は議」とあるから、どちら正しい。
ぼくは思う。陸遜伝を書いた人が、陸遜と陸議というダブルネームの扱いに困って、こんな変則的な記述をして、折衷したんじゃないか。陸遜伝にそう書いてあるから良いというのでなく、陸遜伝そのものが、混乱の結果を反映したものでは。

9月乙酉、皇子の曹穆を、繁陽王とした。9月庚子、大司馬の曹休が薨じた。

『魏志』曹休伝で、曹休は謝罪して許された。だが病没した。胡三省はいう。敗軍したら必誅である。宗室だから、曹休は許されたのか。
ぼくは思う。曹叡は、曹休を殺しちゃったなあ。しかし宗室の「おじ」を殺すのは体裁が悪いから、病没という記述になった。曹叡に配慮したせいで、「宗室にあまい曹叡」ができ、胡三省に筆誅された。「背中の病気」は、背中というのがポイントじゃないか。背中は、本人の意図が及ばない、不可抗力、自然が定めた天命、さらには死、みたいな神話的な意味があると思う。曹仁の最期も同じだっけ。これが「顔の病気」だったら、本人の意図が及ぶ、人為的な死を感じさせるなあ。わからん、適当に言いました。


冬、郝昭が陳倉を諸葛亮から守る

冬十月,詔公卿近臣舉良將 各一人。十一月,司徒王朗薨。十二月,諸葛亮圍陳倉,曹真遣將軍費曜等拒之。

魏略曰:先是,使將軍郝昭築陳倉城;會亮至,圍昭,不能拔。以下略。

冬10月、公卿や近臣に、良将を1人ずつ挙げさせる。11月、司徒の王朗が薨じた。

この、王朗の死と、諸葛亮の北伐その2との時期の接近が、たのしい罵倒ドラマを『三国演義』で生むのだ。ワクワクする。

12月、諸葛亮が陳倉をかこむ。曹真は、将軍の費曜にふせがせる。

陳倉は、武帝紀の建安20年にある。費曜は、『魏志』曹真伝と『通鑑』では、費耀である。ぼくは思う。司馬昭がらみではないよなあ。
『魏志』曹真伝はいう。曹真は、郝昭と王生に陳倉を防がせた。『寰宇記』巻30はいう。陳倉は、上下2城があい連なる。上城は秦文公がつくる。下城は郝昭がつくる。『方輿紀』巻55はいう。後漢の興平2年、樊稠が韓遂に敗れ、陳倉まできた。これは陳倉の上城である。曹魏の太和2年、郝昭が守ったのは、陳倉の下城である。
ぼくは思う。『ぼっちゃん』では、郝昭は上城の内部に下城を作ってた。

『魏略』はいう。郝昭が陳倉城を築いていた。諸葛亮を防いだ。

ここから「郝昭伝」が始まるが、はぶく。本紀を読みたいので。これもやった。
小説『ぼっちゃん 魏将・郝昭の戦い』を、史料と照合する
明帝紀は、裴注で列伝のようなことが起きる。孟達伝と郝昭伝。どちらも魏蜀のあいだ。蜀漢に不利益を与えたので『蜀志』弾かれたが、『魏志』に列伝を立てるほど重要人物ではない。曹魏にとって蜀漢の戦線の都督ではないからね。そういう境界線上の人物かも知れない。蜀漢に大ダメージを与えるから、わりに無視できない人物なので、裴注にとどまった。
盧弼より。『寰宇記』巻30にひく『魏略』に記述あり。胡三省が「地突」の作戦を解説する。『魏志』張郃伝にも、陳倉の記述あり。孫資は郝昭と同郷人。『晋書』輿服志はいう、曹魏より以来、五時朝服または四時朝服という。皇太子より以下、官位につくと朝服が支給された。上海古籍368頁。


遼東太守公孫恭兄子淵,劫奪恭位,遂以淵領遼東太守。

遼東太守の公孫恭の兄子の公孫淵が、太守の官位をうばう。

公孫度伝にくわしい。ときに侍中の劉曄が「いまなら公孫淵は不安定だから、攻撃しろ」という。曹叡は従わず、のちに公孫淵がそむく。

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太和3年、傍流の追号を禁じ、洛陽に宗廟が完成

夏、宦官の曹騰を、高皇帝とする

三年夏四月,元城王禮薨。六月癸卯,繁陽王穆薨。戊申,追尊高祖大長秋曰高皇帝, 夫人吳氏曰高皇后。

太和3年夏4月、元城王の曹禮が薨じた。

この春、諸葛亮が、武都と陰平の2郡をぬく。夏4月、孫権が皇帝につき、黄龍と改元する。『魏志』はどちらも載せない。
ぼくは思う。つぎにある陳羣の議論は、孫権の称帝に関係ある? それから、数年前に書いて、レイアウトがくっちゃくちゃですが。孫権の動向の推測。
呉王孫権と呉帝孫権は、別の人だ

6月癸卯、繁陽王の曹穆が薨じた。

ぼくは思う。なぜ曹魏の皇族は、新たに封じられると、死ぬのか。新しい土地の水に慣れないのか。いや、赴任はしない? すると、改封が「死亡フラグ」と認識され、迫害に怯えて死んじゃう? 曹丕は皇族に冷たいというが、曹叡はどうなんだろう。
ぼくは思う。曹氏の血縁が繁栄しないのが、なぜだか分からない。曹操も、夏侯氏や、直系でない曹氏に囲まれた。曹操のときから、直系が豊かだったのでない。仮子をたくさん囲った。何晏とか秦朗とか。曹操の兄弟すら、定かでない。曹操の繁殖能力、もしくは健康は、いまいち遺伝子が優れていないのかも。とんでも議論なので、辞めよう。孫権のところは、いくらでも繁殖したのに。
銭大昭はいう。曹叡の子は、清河王の曹冏、繁陽王の曹穆、安平哀王の曹殷である。曹殷は追諡だが。みな早死にしたが、封地がある。しかし曹叡の子は、列伝がない。列伝は、曹操の子、曹丕の子だけである。宮省の秘事だから、列伝に書かれないのか。班固は、前漢の恵帝が3王3侯の子をもうけたが、『漢書』に列伝を立てなかった。それと同じか。
ぼくは思う。どういうこと? 分からないから「秘事」なのか。でもここまで言うなら、その秘事が何を指すのか、なかば公然としているのか。秘事の発生には「型」があるから。事実は誰にも分かりゃしないが、史家の「文法」に照らせば、曹芳が曹叡の子でないという暗示だと理解すれば良いのだろうか。

6月戊申、曹騰を高皇帝、曹騰の夫人の吳氏を高皇后とした。

『通典』巻72はいう。司空の陳羣が、どこまで皇帝号を遡るかを議論した。『通典』は、明帝の詔や、劉曄の議論を載せる。『魏志』劉曄伝には載らず。侍中の繆襲、太傅の鍾繇などが意見をのべる。上海古籍369頁。
何焯はいう。宦官の曹騰に皇帝号をおくるのは、曹丕が礼制を破りまくったのと同じくらい、ひどい。だから曹叡は、子を授からなかったのだ。7月の詔書に、子がいない曹叡の心情が見える。
ぼくは思う。曹叡が4代前まで皇帝にしたのは、孫権の称帝に対抗した部分がなかろうか。曹魏の人に聞いても、絶対に否定するだろうけど。表面上は孫権を無視するのが、政治的に正しい。しかし、曹魏のハクをつけねば、孫権に対して自己を際立たせることができないのも、現実的な状況かな。もう太古から続く、揺らがない王朝だよ! 一朝一夕の、長沙太守や会稽太守の家柄とは、違うんだよと。


秋、傍流から皇帝が出ても、遡って祭るな

秋七月,詔曰:「禮,王后無嗣,擇建支子以繼大宗,則當纂正統而奉公義,何得復顧私 親哉!漢宣繼昭帝後,加悼考以皇號;哀帝以外藩援立,而董宏等稱引亡秦,惑誤時朝,既 尊恭皇,立廟京都,又寵藩妾,使比長信,敍昭穆於前殿,並四位於東宮,僭差無度,人神弗 祐,而非罪師丹忠正之諫,用致丁、傅焚如之禍。自是之後,相踵行之。昔魯文逆祀,罪由 夏父;宋國非度,譏在華元。其令公卿有司,深以前世行事為戒。後嗣萬一有由諸侯入奉 大統,則當明為人後之義;敢為佞邪導諛時君,妄建非正之號以干正統,謂考為皇,稱妣為 后,則股肱大臣,誅之無赦。其書之金策,藏之宗廟,著於令典。」

秋7月、詔した。「礼制では、子がなければ、傍流から君主を迎える。しかし傍流から君主になった者は、傍流の父祖に皇帝号を送るな。前漢の宣帝、哀帝は傍流から入り、父祖に皇帝号を送った。曹魏でそれをやるな。宗廟の文書をしまえ。法令とせよ」と。

盧弼は『漢書』から引用あり。上海古籍370頁。胡三省はいう。後漢の安帝、桓帝、霊帝も、父祖に皇帝号をおくり、妃を皇后とした。
胡三省はいう。曹叡は子がないから、先を見越してこれを出したのか。何焯はいう。曹魏は、「帝」というが「宗」とう廟号をつけず、ろくに宗廟をつくらない。曹魏は礼制を軽んじた。ある人はいう。曹叡のあと、3少帝も子がない。曹叡はよくぞ見通した。
ぼくは思う。曹魏の廟制がデタラメなのは、ほんとうらしい。曹叡が傍流からの即位を警戒したのは、みずからの廟が打ち壊されるのを警戒するからだ。我が身が可愛い。それにしても曹氏は、子に恵まれず、祖先の祭祀もいい加減。身をもって「礼制は大事だよ」という教訓を後世に提供したか。盧弼の注釈に、曹氏の礼制を「無理筋でもいいから理解する」と弁護する意見がない。ぼくは正しいことを理解しないが、きっとダメだったことは分かる。
宗廟にしまえとか、法典にせよとか、曹丕も曹叡も命じる。詔は、このようにワザワザ支持しないと、前例として登録されなかったらしい。


冬、裁判に立ち会い、洛陽の宗廟が完成

冬十月,改平望觀曰聽訟觀。帝常言「獄者,天下之性命也」,每斷大獄,常幸觀臨聽之。

冬10月、平望觀を改めて聽訟觀という。

『水経』穀水注はいう。国師は、天淵池から東にゆき、華林園にでて、聽訟觀の南をとおる。もとは平望觀といった。

曹叡はつねにいう。「獄とは天下の性命だ」と。大獄を決定するときは、つねに曹叡は、觀臨聽でたちあった。

ぼくは思う。さすが曹操から法理を学んだ孫!
『晋書』刑法志はいう。曹叡は士庶の罰金の令を改めた。男性は罰金でゆるし、女性にはムチをうち、形体を露わにさせた。このとき秦漢の旧律をつぎ、馬融や鄭玄の解釈ら、10余家、10万言を参考にした。7万6千条、773万字の煩雑な法規があった。曹叡は『鄭氏章句』だけを参考にして、その他の解釈を用いない。
『通鑑』はいう。尚書の衛覬は、律博士を置けという。曹叡は律博士をおいた。司空の陳羣、散騎常侍の劉邵らに、漢代の法を研究させて、新律18篇をつくる。州郡令45篇をつくる。尚書官令と軍中令180余篇つくる。正律に9篇を増やし、それ意外をしぼった。
胡三省はいう。州郡令とは、刺史や太守が用いるルール。尚書令は国でもちい、軍中令は軍でもちいる。ぼくは思う。そりゃそうじゃ。


初,洛陽宗廟未成,神主在鄴廟。十一月,廟始成,使太常韓暨持節迎高皇帝、太皇帝、武帝、文帝神主于鄴,十二月己丑至,奉安神主于廟。

はじめ洛陽の宗廟ができず、神主は鄴県の宗廟にあった。11月、洛陽の宗廟がはじめて完成した。太常の韓暨に持節させ、曹騰、曹嵩、曹操、曹丕の新主を鄴県からむかえた。12月己丑、洛陽に新主が安置された。

『魏志』韓暨伝はいう。韓暨が上奏して、4つの神主を洛陽に迎えさせた。洛陽に宗廟を建立した。ぼくは思う。わざわざ韓暨が言わねば、曹丕の代から、洛陽に宗廟をつくる意図がなかったか。曹丕は、いちおう後漢をつぐ天下の王朝といいながら、自分が河北の一地方の王に過ぎないと、自認していたか。孫権を倒すまで、我慢していたか。曹丕が、志を遂げすに死んだから、よく分からない。5都制は、この本来の意図を隠すためのフェイクだな。
曹丕にとって、「天下の中心」として君臨できない洛陽ならば、許昌にいようと、譙郡にいようと、同じである。あえて「洛陽により付かない」という不自然な行動をすることで、現状の課題を忘れないようにした。世代がくだり、曹叡になると、洛陽への遷都が規制事実となり、曹丕の思いは断絶するのだが。曹丕が、袁紹と袁術を固有名詞で認識しないように、世代を経るごとに失われていくものがある。
ぼくは思う。孫権は、天地の祭祀を1度しかしない。天下を統一するまで、祭祀を手加減して、礼制をあえて踏み外すことで、「まだ現状に満足してない」を示したのだろうか。礼制を整備しないと、きちんとした王朝じゃないが、礼制を整備したら現状で止まってしまう。どちらがいいかは、為政者のサジ加減かなあ。この欠損ぶりが、『三国志』のおもしろさである。
社長が空席なのに、後継者が「副社長筆頭」の肩書で、いわば経営を「承制」する。業績があがったら、副社長筆頭から、あえて社長になる。こんな「言葉遊び」があったのかも。言葉遊びは、侮れないからなあ。なんて現代風の比喩を出さなくても、諸葛亮の「2階級を降格だが、実質は丞相」という話があった。しまった。
曹魏を「礼儀に適わない」と批判するのは、的外れだなあ。
ツイッター用まとめ。
わざとつくる欠損。曹丕は、わざと宗廟を鄴県から洛陽に移さない。孫権は天地の祭祀を、わざと1度きりで辞める。諸葛亮は敗戦で、わざと丞相から降格する。形式と建前では「うちが正統な王朝」と言うが、儀礼などにわざと欠損をつくりだし、昇りしろを確保する。三国ともが欠損を演出する楽しい時代。


臣松之按:黃初四年,有司奏立二廟,太皇帝大長秋與文帝之高祖共一廟,特立武帝廟,百世不毀。今此無高祖 神主,蓋以親盡毀也。此則魏初唯立親廟,祀四室而已。至景初元年,始定七廟之制。
孫盛曰:事亡猶存,祭如神在,迎遷神主,正斯宜矣。

裴松之はいう。黄初4年、有司は2廟を立てさせた。曹騰と曹嵩の廟をまとめ、曹操を特別に別の廟とした。曹操だけを永久に壊さない廟とした。いまここには、曹丕の高祖父(曹節)の記述がないので、世代が離れたから壊したのだろう。魏初には世代の近い廟だけがあり、4室だけ祭祀した。景初元年に、七廟之制が始まった。

『宋書』礼志3はいう。行太傅太常の韓暨、行大廟宗正の曹恪が、持節して神主を迎えにゆく。景初元年6月、群公や有司は、7廟制をつくれと奏した。

孫盛はいう。鄴県から洛陽に神主をうつしたのは正しい。そばに祭れ。

癸卯,大月氏王波調遣使奉獻,以調為親魏大月氏王。

12月癸卯、大月氏の王波調が奉獻した。親魏大月氏王とする。

大月氏は、『魏志』巻30の裴注『魏略』西戎伝にある。
ぼくは思う。『魏略』西戎伝は、東方に関心がいきがちな陳寿『三国志』を、みごとに補ってくれた。ありがたいなあ。

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太和4年、曹真が伐蜀、曹叡は受禅台を祭る

春、曹丕『典論』の石碑をたてる

四年春二月壬午,詔曰:「世之質文,隨教而變。兵亂以來,經學廢絕,後生進趣,不由 典謨。豈訓導未洽,將進用者不以德顯乎?其郎吏學通一經,才任牧民,博士課試,擢其高 第者,亟用;其浮華不務道本者,皆罷退之。」戊子,詔太傅三公:以文帝典論刻石,立于廟 門之外。

太和4年春2月壬午、詔した。「兵乱で、世の"質"と"文"が変わり、経学がすたれた。博士が郎吏を試験し、高第の者を抜擢せよ。試験がダメなら罷免せよ。浮華なやつはクビにせよ」と。

胡三省はいう。殷代は"質"を尊重し、周代は"文"をと尊重した。それぞれの教えが変成してしまった。
胡三省はいう。郎吏とは、尚書郎のことである。『通鑑』はいう。尚書する瑯邪の諸葛誕、中書郎する南陽の鄧颺らは、党友となり、ほめあった。行司徒事する董昭が上疏して、諸葛誕と鄧颺を免じさせた。

2月戊子、太傅と三公に詔し、曹丕『典論』を石碑に刻ませ、廟門の外にたてる。

ツイートして、それをまとめ、定型ブログにし、自作ウェブページにし、同人誌に刷り、雑誌に投稿し、書籍にしてもらう。この「形にしたい、残したい」というのは、人間の本能なのだろうか。どういう理路による本能なのか、ちょっと考えねば。あらゆる理路の説明ぬきの、当たり前のこと! ではないよ。
『典論』は、文帝紀の黄初7年の注釈にあり。『典論』を刻んだ石碑は、斉王紀の景初3年の注釈にある。『水経』穀水水に、太学の石碑がでてくる。霊帝の光和6年、五経の石碑をたてる。熹平4年、蔡邕のまとめた六経の石碑をたてる。曹魏の正始のとき、石経をたてる。曹叡は『典論』6碑をたてる、など。
『洛陽伽藍記』にも、石碑の話あり。
盧弼はいう。曹叡は『典論』を経典に次ぐものとして石碑にした。父親を尊崇しすぎで、きちんと価値を見極めてない。バカなことをしたと、気づいていない。


癸巳,以大將軍曹真為大司馬,驃騎將軍司馬宣王為大將軍,遼東太守公孫淵為 車騎將軍。

2月癸巳、大將軍の曹真を、大司馬とする。驃騎將軍の司馬懿を、大將軍とする。遼東太守の公孫淵を、車騎將軍とする。

盧弼はいう。曹真は曹休のあとをつぐ。曹休が死んでから、2年がたつ。なぜこの時期に、曹真が曹休をついだのか。
ぼくは思う。同年に蜀漢を討伐するための準備らしい。なぜ蜀漢を討伐するために、この人選と官位になったのかは、べつに考えるべき問題だけど。問題の回答が、問題を生むから楽しい。
趙一清はいう。公孫淵伝では、揚烈将軍にしてもらう。『宋書』百官志で、揚烈将軍は、建安のとき公孫淵がつくとする。誤りである。太和のとき公孫淵がついたというなら正しい。


夏、鍾繇と卞太皇太后が死ぬ

夏四月,太傅鍾繇薨。六月戊子,太皇太后崩。丙申,省上庸郡。

夏4月、太傅の鍾繇が薨じた。6月戊子、曹丕母の卞氏が死ぬ。

銭大昕はいう。『魏志』卞皇后伝によると、太和4年5月に薨じて、7月に高陵(曹操のハカ)に葬られたという。死んだ月が1ヶ月ちがう。潘眉はいう。この歳の5月に戊子はないから、6月が正しい。

丙申、上庸郡をはぶく。

武帝紀の建安20年、明帝紀の太和2年にある。


秋、曹真は伐蜀、曹叡は頴川で受禅台を祭る

秋七月,武宣 卞后祔葬于高陵。詔大司馬曹真、大將軍司馬宣王伐蜀。八月辛巳,行東巡,遣使者以特 牛祠中嶽。

秋7月、卞氏を高陵に葬る。詔して、大司馬の曹真、大將軍の司馬懿に伐蜀させた。

『晋書』宣帝紀はいう。大都督をくわえ、黄鉞を仮し、曹真とともに伐蜀した。西城から沔水をさかのぼる。雨にあった。『蜀志』後主伝の建興8年にある。

8月辛巳、曹叡は東巡した。使者に特牛を中嶽に祭らせた。

『宋書』礼志3はいう。秦漢の天子は、古代の制度とちがった。後漢の諸帝は、古代の制度どおりやった。曹丕は、天下三分の時代で忙しく、旧制とちがった。曹叡は3回の東巡をしたが、高齢や病人に施しをしながら回り、旧制の雰囲気があった。
『史記』封禅書はいう。古代の3君は、黄河と洛水のあいだにいた。ゆえに崇山(嵩高)を「中嶽」とよぶ。『漢書』武帝紀はいう。元封元年、嵩高にのぼり、そのふもとの奉邑を崇高とした。『白虎通』にもある。
ぼくは思う。きわめて儀礼的に意味がふかい、崇山の祭祀。蜀漢を滅ぼして、天下統一に見通しをつける意図があっただろう。その意図がなければ、伐蜀なんて、コストのかかることをしない。廟制などを整えて、いざ天下統一! という気運が高かっただろう。少なくとも曹叡において。
孫権が皇帝即位するせいで、曹叡は曹丕よりも、儀礼のインフレが多くなる。儀礼がインフレするとは、古代の制度に忠実になること。注釈家たちは「曹丕はデタラメだが、曹叡はヨロシイ」というかも知れない。でもそれは、劉禅と孫権と、張りあっているだけなのだ。曹操や曹丕のように、とりあえず動いちゃって、あとから考えるほうが、ビジネスの実務屋としては尊敬できる。曹叡のように儀礼を整備すると、どこに欠陥があるのか分からなくなり、ほころびが消え、実態が見えにくくなる。まあ曹叡の朝廷は、それが狙いなんだろうけど。曹魏は曹叡の時代が「全盛期」だな。意図はともかく、儀礼が整備されるし、曹芳以降は消去法でアウトだし。


魏書曰:行過繁昌,使執金吾臧霸行太尉事,以特牛祠受禪壇。
臣松之按:漢紀章帝元和三年,詔高邑縣祠即位壇,五成陌,比臘祠門戶。此雖前代已行故事,然為壇以祀天,而壇非神也,今無事於上帝,而致祀於虛壇,求之義典,未詳所據。

『魏書』はいう。繁昌をすぎ、執金吾の臧覇に太尉事を行させ、特牛を受禅台に祭った。

繁昌は、文帝紀の黄初元年。執金吾は、武帝紀の初平元年。
ぼくは思う。臧覇さん、こんなところに生きていやがった! そして受禅台を祭祀するには、太尉の肩書が、代行とはいえ必要だったのね。太尉は祭祀でなにか特別な役割があったっけ。っていうか、このとき太尉の華歆は、洛陽でお留守番か。

裴松之はいう。『漢紀』後漢の章帝の元和3年、光武の即位した壇をまつった。だが壇は神でないから、曹叡が壇を祭ったのはおかしい。

『後漢書』光武紀にいう、建武元年6月の即位のときにつかった壇である。章帝紀の元和3年3月に、高邑で壇をまつった。『郡国志』はいう。常山にある高邑である。
盧弼はいう。裴松之のいうとおり、壇を祭るのはおかしい。しかし『後漢書』章帝紀を見ると、壇ではなくて、壇で即位した光武を祭ったのである。裴松之は、結論は会っているが、後漢の章帝への理解は違うかも。
ぼくは思う。もとは瑣末なものが、世代をくだるに従って、象徴として神格を帯びていく。いいじゃないか! 後漢のときは、単なる土盛だった壇が、漢魏革命をきっかけに神様になっていく。むしろ、こういう変遷こそ、歴史を見る面白さ。そのうち、壇を作るために土を掘った場所とか、土を運ぶための台車をつくった切株とかも、神様にするといいと思うよ。観光資源にもなる。こういった、神様が「本気で」拡散する前に、王朝がつぎつぎ交代したらダメだけど。
桃太郎のおばあさんが、洗濯したときの足跡の石とか、祭られてるよね。


乙未,幸許昌宮。九月,大雨,伊、洛、河、漢水溢,詔真等班師。

8月乙未、許昌宮にゆく。9月、大雨あり。伊水、洛水、黄河、漢水があふれた。曹真をもどした。

『魏志』華歆伝はいう。太和のとき、曹真が子午道から伐蜀する。曹叡の車駕は、許昌にゆく。華歆が上疏していさめた。秋の大雨だから、曹真をひかせた。
『魏志』王粛伝はいう。太和4年、大司馬の曹真が征蜀した。王粛は上疏した。「月をまたぎ、曹真は遠征しているが、停滞している。よくない」と。『魏志』楊阜伝はいう。楊阜も上訴して、雨だから損害が大きいという。
ぼくは思う。曹真の撤兵をいったのは、華歆、王粛、楊阜。覚えましょう。


冬、洛陽に帰り、母を改葬する

冬十月乙卯, 行還洛陽宮。庚申,令:「罪非殊死聽贖各有差。」十一月,太白犯歲星。十二月辛未,改葬 文昭甄后于朝陽陵。丙寅,詔公卿舉賢良。

冬10月乙卯、洛陽宮にかえる。10月庚申、死刑未満をゆるし、保釈金は差等あり。11月、太白が歲星をおかす。

『晋書』天文志はいう。11月壬戌である。

12月辛未、母の甄后を朝陽陵に改葬した。

胡三省はいう。陵墓を立派なほうに移した。新旧とも鄴県。

12月丙寅、公卿にをあげさせた。

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太和5年、諸葛が天水に寇し、護匈奴中郎将おく

春、半年間も雨がふらず、諸葛亮が天水に寇す

五年春正月,帝耕于籍田。三月,大司馬曹真薨。諸葛亮寇天水,詔大將軍司馬宣王 拒之。自去冬十月至此月不雨,辛巳,大雩。

太和五年春正月、曹叡は籍田を耕した。

侯康はいう。『御覧』537は、繆襲『許昌宮賦』を載せる。太和6年正月、曹叡が籍田を耕したとある。曹魏の皇帝は、やたらと籍田を耕す。陳寿は太和6年の籍田を記さないが、省略したのか。『御覧』が5年を6年と誤ったか。
『晋書』礼志で、曹操、曹丕、曹叡がみずから籍田を耕したことをほめる。文帝紀に、曹丕が耕した記述がないが、陳寿がはぶいたか。
ぼくは思う。籍田につき、注釈がやまない盧弼に感心するなあ。

3月、大司馬の曹真が薨じた。諸葛亮が天水を寇するので、大将軍の司馬懿がふせぐ。昨年冬10月から、ずっと雨が降らない。3月辛巳、大雩する。

『礼経』月令にある。仲夏に山川を祭る。大雩とは、雨乞いである。
ぼくは思う。曹真は大雨で撤退したのに、こんどは雨が降らない。曹魏に天命がないのだなあ。夏でもないのに、雨乞いが必要。


夏、護匈奴中郎将をおき、清商殿が燃える

夏四月,鮮卑附義王軻比能率其種人及丁 零大人兒禪詣幽州貢名馬。復置護匈奴中郎將。

夏4月、鮮卑の付義王の軻比能と、丁零羌の大人が、幽州に名馬をとどける。護匈奴中郎将を復置する。

『魏志』鮮卑伝にある。曹丕がたつと、軻比能を付義王にした。丁零は、『魏志』30にひく『魏略』西戎伝をみる。
『続百官志』はいう。使匈奴中郎将は、比2千石、南単于の保護をつかさどる。李祖楙が後漢における変遷をいう。上海古籍377頁。盧弼はいう。曹魏の陳泰、田豫、孫礼、魯芝、石鑑は、みな并州刺史と使匈奴中郎将を兼務した
ぼくは思う。以下、時期にあわせて盧弼が注釈する。
『晋書』五行志はいう。太和5年5月、清商殿がもえた。妾らは妻の罰とした。これは毛皇后を立てたことに対する、ほかの妾らの抗議であろう。太和元年に立后された。


秋、諸葛亮が飢えて撤退し、諸侯王をゆるめる

秋七月丙子,以亮退走,封爵增位各有差。

魏書曰:初,亮出,議者以為亮軍無輜重,糧必不繼,不擊自破,無為勞兵;或欲自芟上邽左右生麥以奪賊食,帝 皆不從。前後遣兵增宣王軍,又敕使護麥。宣王與亮相持,賴得此麥以為軍糧。

秋7月丙子、諸葛亮を追い返したので、爵位をふやす。

『蜀志』諸葛亮伝、裴注『漢晋春秋』などによると、諸葛亮が勝ち、魏軍は大敗している。曹叡は、何にたいして爵位を与えたのは、賞罰が不明である。
諸葛亮伝はいう。建興9年、祁山を出て、張郃を殺す。!!『漢晋春秋』はいう。諸葛亮は上邽(漢陽郡)で司馬懿とたたかう。郭淮、費耀らは諸葛亮に破られ、麦を刈り取られた。司馬懿は、魏延、高翔、呉班らに軍資をとられた。
ぼくは思う。李厳が「兵糧が続かない」と言ったときか。

『魏書』はいう。諸葛亮は食糧を輸送しない。ある人は「上邽の麦を刈り、諸葛亮を飢えさせよう」という。曹叡はみとめず。曹叡は、司馬懿に麦を守らせ、司馬懿もこの麦を食べた。

『郡国志』はいう。漢陽(=天水)の上邽である。もとは隴西に属した。
『水経』はいう。上邽県は、天水の郡治である。5城が近かった。北城は湖水のなかにある。郷民は板蓋の家にすむ。『詩経』のいう西戎の板屋である。
『晋書』宣帝紀にある。はぶく。上海古籍377頁。
王鳴盛はいう。馬謖はミスったが、王双を斬り、郭淮を走らせ、武都と陰平をとった。魏軍はひっこみ、辛毗の制止を口実にして、ひっこんだ。司馬懿の功績を、晋代に飾っただけである。
林国賛はいう。『魏書』はウソである。李厳がウソをついたから、諸葛亮は撤退しただけで、曹魏の功績はない。張郃は死んだ。上邽の麦は蜀漢のものになった。『魏書』はウソである。魏軍の敗北を諱んだのだ。司馬懿は諸葛亮をトラのように懼れた。
胡三省はいう。司馬懿が諸葛亮を懼れ、張郃を殺されたので、引きこもったのだ。盧弼も同じ意見である。
ぼくは思う。みんな諸葛亮のファンだなあ。司馬懿がきらいだなあ。儒者の流れをくむ学者の皆さまは、「禅譲を受けられるほど功績が大きいが、禅譲を受けない」という、宙づりをもっとも評価する。以下、脱線します。
中沢新一氏によれば、節分の豆まきのマメは、鬼を「引き寄せて」から「追い払う」という両義性があるらしい。生者と死者を媒介しないものなら、鬼に投げても仕方がない。あたらない。しかし鬼が来てもらってはこまる。マメは、そういう媒介物。諸葛亮は、皇帝に匹敵するほどの権力がありながら、皇帝にならない。だからファンがつく。それを言うなら、司馬懿のほうが、自身で禅譲を経験していない重臣だが、子孫が受禅するという意味で、諸葛亮よりも境界線に近く、媒介者としての役割がつよい。
儒者のみなさんは、キワキワを好むなら、もっと司馬懿を好きになれば良いのに。「諸葛亮をトラのように懼れた」なんてレトリックで、やりこめたりせずに。


乙酉,皇子殷生,大赦。
八月,詔曰:「古者諸侯朝聘,所以敦睦親親協和萬國也。先帝著令,不欲使諸王在京 都者,謂幼主在位,母后攝政,防微以漸,關諸盛衰也。朕惟不見諸王十有二載,悠悠之懷, 能不興思!其令諸王及宗室公侯各將適子一人朝。後有少主、母后在宮者,自如先帝令, 申明著于令。」

7月乙酉、皇子の曹殷が生まれたので、大赦した。

『芸文類集』45は、夏侯玄『皇胤賦』をのせる。太和5年、皇子が誕生して良かったね! と。曹植伝はいう。太和5年、曹植は上訴して、親戚との交際を認めてもらった。

8月、曹叡は詔した。「古代に諸侯が朝廷に集まったのは、仲良くなるためだった。曹丕の法令により、諸王と洛陽で会えない。幼主がたち、母后が執政するのを防ぐためだった。私は諸王と12年も会っていない。宗室の公侯は、嫡子1名を洛陽におくれ。洛陽で母后と会っても、交際を禁じるのは、曹丕の法令のままとする」と。

胡三省はいう。黄初元年、曹丕が曹植を国にゆかせてから12年たつ。
『魏志』曹植伝はいう。太和5年冬、諸王に「太和6年の正月に洛陽にあつまれ」と連絡がきた。『晋書』礼志下はいう。魏制で、藩王は朝廷にでれない。明帝が朝廷にくるのを許したのは、特別な恩徳である。非常のことである。
ぼくは思う。曹叡のことを誰も知らなかったのも、曹丕のこの法令のせいだな。曹叡は曹丕の意図として「幼主在位,母后攝政」の防止をいう。これは後漢の外戚政治のことを言っているのだろうが。諸侯王が朝廷に来ないと、これを防げるのか? 因果がよく分からない。それより、お前が子供をちゃんと育てなさい。
ぼくは思う。曹叡は皇子が誕生したので、諸王を締めつける必要がなくなったか。諸王を甘やかしても、皇統は自分の血筋になる。乳児死亡率が高いのに、甘く見てるなあ。曹殷、死ぬしね。


冬、天体の異常が起きまくる

冬十一月乙酉,月犯軒轅大星。戊戌晦,日有蝕之。十二月甲辰,月犯鎮 星。戊午,太尉華歆薨。

冬11月乙酉、月が軒轅の大星をおかす。11月戊戌みそか、日食あり。

『晋書』天文志中はいう。明帝の太和初、太史令の許芝が上奏した。日食がありそうだから、太尉とともに霊星台で祈祷をしたいと。曹叡はいう。私が到らないことを、天が教えてくれてるのだと。臣下たちは私を助けてね。

12月甲辰、月が鎮星をおかす。12月戊午、太尉の華歆が薨ずる。

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太和6年、皇族を郡王とし、曹殷・曹植が死ぬ

春、県王16人を郡王とする

六年春二月,詔曰:「古之帝王,封建諸侯,所以藩屏王室也。詩不云乎,『懷德維寧,宗 子維城』。秦、漢繼周,或彊或弱,俱失厥中。大魏創業,諸王開國,隨時之宜,未有定制,非所以永為後法也。其改封諸侯王,皆以郡為國。」三月癸酉,行東巡,所過存問高年鰥寡孤 獨,賜穀帛。乙亥,月犯軒轅大星。

六年春2月、

銭大昭はいう。『晋書』天文志はいう。太和6年正月戊辰ついたち、日食した。『呉歴』にある。また正始元年7月戊辰ついたち、正始3年4月戊辰ついたち、正始6年4月壬子ついたち、10月戊辰ついたち、正始9年正月乙未ついたち、嘉平元年2月己未ついたち、甘露4年7月戊子ついたち、景元3年11月己亥ついたち、『晋書』で日食がある。陳寿は書きもらす。
趙一清はいう。『鼎録』はいう。太和6年に1鼎を鋳造した。3足ある。萬寿鼎という。小篆書である。

曹叡は詔した。「周代には王室の藩屏にするため、諸侯を立てた。秦漢の諸侯は、強すぎたり弱すぎたり。魏制も定まらない。諸侯王を、県王から郡王にあげる」と。

黄初5年、県王から郡王にした。『魏志』曹據伝にある。銭大昕はいう。この年に改封されて郡王になったのは16人である。任城王の曹楷(曹彰の子)、陳王の曹植、彭城王の曹據、燕王の曹宇、沛王の曹林、中山王の曹袞、陳留王の曹峻、瑯邪王の曹敏(范陽王の曹矩の子)、趙王の曹幹、楚王の曹彪、東平王の曹徽、曲陽王の曹茂、北海王の曹蕤、東海王の曹霖、梁王の曹悌(元城王の曹礼の嗣子)、魯陽王の曹温(邯鄲王の曹邕の嗣子)である。

3月癸酉、東巡する。高齢と鰥寡や孤獨に穀帛をたまう。3月乙亥、月が軒轅大星をおかす。

夏、皇子の曹殷が薨じる

夏四月壬寅,行幸許昌宮。甲子,初進新果于廟。五 月,皇子殷薨,追封諡安平哀王。

夏4月壬寅、許昌宮にゆく。

ときに曹叡が愛する娘・曹淑が死んだ。平原懿後主として、南陵にほうむる。みずから葬送した。陳羣と楊阜が諫めたが、曹叡は従わず。
ぼくは思う。曹丕の葬送は辞退したのに、愛娘はいっちゃう。もしくは、曹叡が自分で決められるだけの発言力を手に入れたか。みんな暑い時期に死ぬのだ。あー、暑い。

4月甲子、できたての宗廟にはじめて進む。

侯康はいう。『通典』49は、高堂隆をひく。四季の祭祀に関するコメント。周代のコヨミと、魏代のコヨミのズレからくる、正しい祭祀の時期について。上海古籍380頁。

5月、皇子の曹殷が薨じた。安平哀王とする。

ぼくは思う。皇子がもう死んじゃった。暑さはいかんなあ。祖先を大切にしても、子孫に恵まれない。曹叡は、かわいそうなパパでした。諸侯王を郡王にしてしまったが、その政策は撤回できない。だいじょうぶか。


秋冬、許昌に2殿を建築し、曹植が死ぬ

秋七月,以衞尉董昭為司徒。九月,行幸摩陂,治許昌 宮,起景福、承光殿。

秋7月、衛尉の董昭を司徒とした。8月、摩陂にゆき、許昌宮をなおす。

衛尉は、武帝紀の建安13年にある。董昭は、太和4年に行司徒事して、いま正式に司徒となった。
ぼくは思う。董昭のような、曹操の時代の人材が、まだ重鎮として残っている。いつごろ、曹操と接点があった人が引退するのだろう。
摩陂は、武帝紀の建安24年にある。胡三省はいう。摩陂は、頴川の郟県である。許昌は頴川であり、曹丕が許県から改めた。ぼくは思う。何をいまさら。

景福殿と承光殿を建てはじめる。

『水経』洧水注はいう。洧水は、許昌の東をとおる。許昌の城内に、景福殿の基礎がある。『文選』に何晏『景福殿賦』がある。景福殿の南に承光殿があるなあ、壮観だなあと。
『典略』はいう。曹叡が東巡した。夏の暑さをおそれ、許昌に宮殿を作った。景福殿と承光殿は、どちらも許昌の城内にある。『洛陽宮殿簿』にも歌われている。景福殿と承光殿は、どちらも7間である。


冬十月,殄夷將軍田豫帥眾討吳將周賀於成山,殺賀。十一月丙寅, 太白晝見。有星孛于翼,近太微上將星。庚寅,陳思王植薨。十二月,行還許昌宮。

冬10月、殄夷將軍の田豫は、吳將の周賀を成山で殺した。

胡三省はいう。殄夷将軍は、曹魏がおく。しかし沈約がまとめた40の将軍号にない。趙一清はいう。殄夷将軍は、一時的な官位だったのだ。
胡三省はいう。『漢書』地理志で、成山は東莱郡の不夜県にある。後漢は不夜県をはぶいた。盧弼はいう。田豫伝の注釈にくわしい。
ぼくは思う。呉将が東莱に出やがった。海沿いに侵入したか。
盧弼はいう。公孫淵は、しばしば孫呉と通じた。孫呉は、周賀を遼東にいかせた。周賀が帰ってきて、成山にいるとき、田豫に敗れた。

11月丙寅、太白が晝見した。星孛が翼にあり、太微の上將星に近づく。11月庚寅、曹植が薨じた。

潘眉はいう。『宋書』で曹植が死ぬのは12月である。12月には庚寅がないから、11月でよい。銭大昕はいう。『魏志』では、王の諡を載せない。陳「思」王というのは、衍字である。
ぼくは思う。曹植は上疏して、皇族の待遇を改善して、県王から郡王にしてから死んだ。やることはやって死んだんだなあ。立派な叔父さん。

12月、許昌宮にもどる。

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