表紙 > -後漢 > 『漢書』巻10-12:成帝紀、哀帝紀、平帝紀

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成帝紀の上:前33-前25年

2年ちょい前にやった、以下の記事の改訂版。
三国志を知るため『漢書』成帝紀を抄訳する
三国志を知るため『漢書』哀帝紀と平帝紀を抄訳する
ちがいは『漢書補注』を加筆していること。この差異はデカい!!

宣帝に愛され、定陶恭王と皇位をあらそう

孝成皇帝,元帝太子也。母曰王皇后。元帝在太子宮生甲觀畫堂,為世嫡皇孫。宣帝愛之,字曰太孫,常置左右。年三歲而宣帝崩,元帝即位,帝為太子。壯好經書,寬博謹慎。初居桂宮,上嘗急召,太子出龍樓門,不敢絕馳道,西至直城門,得絕乃度,還入作室門。上遲之,問其故,以狀對。上大說,乃著令,令太子得絕馳道雲。其後幸酒,樂燕樂,上不以為能。而定陶恭王有材藝,母傅昭儀又愛幸,上以故常有意欲以恭王為嗣。賴侍中史丹護太子家,輔助有力,上亦以先帝尤愛太子,故得無廢。

成帝は、元帝の太子だ。母は、王皇后だ。

この王皇后というのが、王莽のおばです。
荀悦はいう。成帝は劉驁という。「驁」は「俊」シュンと読む。応劭はいう。安民して立政した者を「成」という。師古はいう。「驁」の音は、五到の反、つまり「ゴウ」である。

元帝が太子宮にいたとき、成帝を甲観の画堂で生んだ。嫡皇孫である。

応劭はいう。甲観は、太子宮の甲地(1号の地)にあり、おもに乳生=出産に用いた。画堂には、9子母が描かれる。
如淳はいう。『漢書』元后伝に「乙殿」が出てくる。甲乙丙、と順序づけて建物をよんだ。元后伝で応劭は、「官人が甲地にいる」とあるが、誤りである。乳生が使っている。堂に飾る画像は、どうして9子母といえるか。霍光は室内に画像をとどめた。宮殿のなかに、画像の堂室があったのだ。
補注はいう。応劭は9母子の画像を、自分の目で見たのだろう。周寿昌はいう。『漢宮閣疏』はいう。未央宮には、画堂の甲観があった。常住する部屋ではないと。けだし漢制で、干支を名づけることがおおい。律令を「甲令」「乙令」といい、計簿を「甲帳」「乙帳」といい、時刻を「甲夜」「乙夜」という。『後漢書』劉慶伝はいう。長じたら丙舎に別居したと。『後漢書』百官志はいう。丙舎長は定員1名と。「甲舎」「乙舎」の名が後漢にもあった。

まだ父の元帝が太子のとき、祖父の宣帝に愛され、あざなを太孫とつけられた。つねに宣帝の左右に置かれた。

補注はいう。何焯はいう。高帝、宣帝、光武は、民間から即位したので、あざなが記される。献帝は帝位をゆずったので、あざなを記される。成帝は「太孫」のあざながある。古代より「太孫」の号はない。宣帝の嫡孫だから、特別に呼ばれた。ついに後世、嫡皇孫を「太孫」と言うようになる。
周寿昌はいう。太孫とは「太子」あのような呼称である。武帝のとき、戻太子の子を「太孫」とよび、太孫の子を「皇曽孫」という。あざなではなく、ただの呼称である。まだ宣帝の子・元帝が皇太子でないのに、孫の成帝が「太孫」と呼ばれたのは、成帝が宣帝に愛されたからだ。
ぼくは思う。父系の強固な連なりは、院政期の日本史を思い出す。子よりも孫を可愛がるのは、身体的な実感のある愛着というより、「父系の王朝」という理念への愛着という気がする。子は、自分の身体を介在させてつくる(当然だが)。だが孫は、自分の身体が介在しない。息子の元帝は「他者の身体」をもつ。他者の身体から産まれた、孫の成帝は、宣帝から見ると「他者による製造物」であり、結びつきを感じるとしても、もはや理念的なものだ。もし身体感覚を確かに愛するなら、孫を「皇孫」とよぶ前に、子を皇太子にするだろうから
ぼくは思う。宣帝は、武帝の曽孫、戻太子の孫。劉氏の父系を信望する者だなあ。血の濃度なら、武帝は16分の1なのに、皇帝になれた。この「やましさ」から『春秋』の注釈を整備させるほど。16分の1を「紛れもない1だ」と主張するには、父系の信望が必要である。身体の部分否定が必要である。そして、父系の信望ゆえに、あいだを飛んで阻害された元帝が、母系の怪物・外戚の王氏を皇后とする。宣帝の父系願望は、皮肉にも元帝が破綻の原因をつくる。王莽の伏線!!

3歳のとき宣帝が死に、元帝が即位した。太子となった。経書をこのんだ。
あるとき成帝は、元帝の呼びだしに遅れた。元帝は、遅刻のわけを問うた。成帝は、長安に通れない道があり、遠回りしたことを云った。元帝は、ショートカットできる道の通行をゆるした。

成帝が、身の程をわきまえる性格だ。というエピソード?
父のお召しに遅れるのは、最悪。でも、太子の身分で(おそらく)皇帝専用の道を通らなかった。三国で、曹植が通行禁止の門をとおり、失点をした。皇帝のまわりは、かなり交通規制がきびしかったらしい。
上海古籍418頁に、地理の説明がある。はぶく。
原文で文末に「雲」というか「云」がある。「焉」と同じ用法。
ぼくは思う。「規則を守っていたら、時間に遅れた」とは、「前例を墨守したので、現実に対応しそこねた」という比喩かなあ。前漢は肥大化して、規則が複雑になり、前例が雑多となった。皇太子すらも、この規則と前例に縛られて、日常に支障をきたすほどだと。これは「改革者」の登場が望まれるなあ。王莽の伏線!!
ぼくは思う。時間どおりに出席することが、「皇帝に即位すること」の暗喩かも。皇太子の目的地とは、皇位そのものだし。また、皇太子が時間どおり来る=父の皇帝の死に目に間に合う、という連想ができよう。前漢では、皇帝の死のあと、即日に次の皇帝は即位しないけど。確かそうだった。

のちに成帝は、酒と音楽におぼれた。父の元帝は、定陶恭王の才芸を愛し、定陶恭王をつぎの皇帝にしたいと考えた。定陶恭王は、母の傅昭儀が、元帝から寵愛をうけた。しかし侍中の史丹が、太子である成帝をたすけた。また成帝は、祖父の宣帝に愛されたことから、つぎの皇帝になれた。

王皇后の危機です。この皇位あらそいは、列伝でおぎなうべきだ。
補注はいう。師丹伝に詳しい。師丹伝を読もう。定陶恭王も列伝あるかな。☆


前33年、王鳳が大司馬となる

竟甯元年五月,元帝崩。六月已未,太子即皇帝位,謁高廟。尊皇太后曰太皇太后,皇后曰皇太后。以元舅侍中衛尉陽平侯王鳳為大司馬大將軍,領尚書事。
乙未,有司言:「乘輿車、牛、馬、禽獸皆非禮,不宜以葬。」奏可。
七月,大赦天下。

前33年5月、元帝が崩じた。6月已未、成帝は即位して、高廟に謁した。皇太后を太皇太后とした。母の王氏を、皇太后とした。

銭大昭はいう。即位が6月「已未」は誤りである。『漢紀』は6月乙未とする。王先謙はいう。『通鑑』も『漢紀』に従う。
周寿昌はいう。太皇太后とは、卭成王皇后である。皇太后とは王氏である。

母方のおじで、侍中衛尉する陽平侯の王鳳を、大司馬大将軍とし、尚書のことを領させた。

王莽のおじです。外戚が大司馬となり、政権を担当する。
先謙はいう。王氏の政権は、ここに始まる。
ぼくは思う。元帝の末期くらい、本紀を読んでおこうかな。☆

6月乙未、有司はいう。輿車車、牛馬、禽獣は、礼制に違反するから、副葬するな」と。成帝は許可した。7月、天下に大赦した。

前32年、王氏が関内侯、怪異ラッシュ

建始元年春正月乙丑,皇曾祖悼考廟災。立故河間王弟上郡庫令良為王。有星勃于營室。罷上林詔獄。
二月,右將軍長史姚尹等使匈奴還,去塞百餘裏,暴風火發,燒殺尹等七人。賜諸侯王、丞相、将軍、列侯、王太后、公主、王主、吏二千石黄金、宗室諸官吏千石以下至二百石及宗室子有屬籍者、三老、孝弟、力田、鰥、寡、孤、獨錢、帛,各有差,吏民五十戶牛、酒。

前32年正月、宣帝の父・史皇孫の廟がもえた。もと河間王の弟・上郡庫令の劉良を王に封じた。

如淳はいう。漢官では、北辺の郡には「庫」がある。官軍の兵器をしまう倉庫である。倉庫の長官として「令」が置かれた。劉良はこれに就いていた。

彗星が營室におちた。上林の詔獄をやめた。

先謙はいう。五行志によると、青白色で、長さや6,7尺。広さは1尺余。
師古はいう。『漢旧儀』はいう。上林の詔獄は、苑中の禽獣の宮館をつかさどる。水衡に属する。ぼくは思う。水衡って、なんだっけ。

2月、右将軍長史の姚尹が、匈奴に使いした。暴風で火災がおこり、姚尹ら7人が焼け死んだ。

先謙はいう。『漢紀』では10余人が死んだ。

諸侯王、丞相、将軍、列侯、王太后、公主、王主、吏二千石に、黄金を賜る。

張晏はいう。天子の娘を公主といい、秩は公に比す。王の娘を王主という。師古はいう。王主とは「翁主」である。"王"が婚姻を"主"するから、王主という。

官吏の1千石以下から、二百石まで、宗室の子で属籍にある者、三老、孝弟な者、力田する者、鰥、寡、孤には、錢か帛だけをそれぞれ賜る。吏民50戸には、牛や酒を賜る。

ぼくは思う。爵位と同じような再配分の対象である。


詔曰:「乃者火災降于祖廟,有星孛於東方,始正而虧,咎孰大焉!《書》雲:『惟先假王正厥事。』群公孜孜,帥先百寮,輔朕不逮。崇寬大,長和睦,凡事怒己,毋行苛刻。其大赦天下,使得自新。」
封舅諸吏光祿大夫關內侯王崇為安成侯。賜舅王譚、商、立、根、逢時爵關內侯。

詔した。「祖廟が燃えて、東方に隕石があったのは、私の即位への咎めだ。『書経』商書で高宗肜の臣・祖己が「仮王がそれを正す」と言った。大赦して政治を刷新しよう」と。
おじで諸吏の光祿大夫する、関内侯の王崇を、安成侯とした。おじの王譚、王商、王立、王根、王逢は、ときに関内侯になった。

王莽のおじたちです。王莽の父・王曼はすでに死んでいる。
応劭はいう。『百官表』はいう。諸吏とは、法をあげて違反者を弾劾できる。職掌は、御史中丞と同じである。武帝が初めて置いた。みな他の官位と兼ねた。列侯、将軍、卿大夫らが、諸吏を加えられた。定員なし。


夏四月,黃霧四塞,博問公卿大夫,無有所諱。六月,有青蠅無萬數集未央宮殿中朝者坐。
秋,罷上林宮、館希禦幸者二十五所。八月,有兩月相承,晨見東方。九月戊子,流星光燭地,長四五丈,委曲蛇形,貫紫宮。十二月,作長安南北郊,罷甘泉、汾陰祠。是日大風,拔甘泉畤中大木十韋以上。郡國被災什四以上,毋收田租。

4月(五行志では壬寅)に黄色い霧。公卿や大夫に、かくさずに対策を言わせた。6月、無数の青いハエが、未央宮の殿中にある、朝臣の席にむれた。

服虔はいう。公卿より以下、朝会のとき座る場所である。晋灼はいう。内朝の臣が朝座する場所である。師古はいう。朝臣が宮殿のなかで座る場所。服虔が正しく、晋灼はちがう。

秋、上林宮をやめる。皇帝があまり行かない、25の館をやめる。8月(五行志では戊午)、月が東の空にふたつ。

服虔はいう。2つの月が「相承」とは、上下に2つ出ること。つまり、2つめの月が、1つめを追いかけて出てくる。応劭はいう。『京房易』はいう。君主が婦女のように弱いと、陰が乗じられ、2つめの月が出てくる。
先謙はいう。2つの月は、8月じゅう毎夜でない。日付を書くべきだ。五行志では「8月戊午」とある。戊午の夜だけである。
ぼくは思う。君主の弱さは、婦女に例えられる。やっぱそうだよね。昨日、以下のツイートをしたところ。
両漢と三国も両晋も「幼帝が踏みにじられて滅亡」しない。幼帝の即位は、王朝の危機(だから長君が良い)という言説は史料にも多いのに。なぜか。父殺しより母殺しが難しいから。強権的な父を暴力で破るのは単純。例えば孫晧。だが柔弱な母を倒すのは困難。母は「優しい」ゆえに、無自覚であっても、子供を圧迫する。しかし「優しさ」を理由に、母を攻撃するのは難しい。孝幼帝は陽より陰。男性性より女性性。例えば献帝。献帝のように、ちゃんと「弱い」と、ぎゃくに倒しにくい。完結した成人男性であれば、戦闘で殺せるのに。

9月、流星が紫宮をつらぬく。12月、長安に南北郊をつくり、甘泉と汾陰の祠をやめる。この日は大風がふく。甘泉の畤中にある、10囲以上もある大木がぬけた。郡国のうち、4割以上の耕地を被災をしたら、田租を納めさせない。

ぼくは思う。南北郊をやり、甘泉らを辞めただけで、天地がくるった。儒教による南北郊が整備される日は、まだとおい。王莽を待たなければならない。
ぼくは思う。『漢書』は、外戚の王氏の進出を、前漢の滅亡にむすびつけたいか。後漢末と同じくらい、怪異の連続だ。ただし、この怪異の原因は、儒教の整備によって鎮められる(はずだ、べきだ)。なぜなら後漢の公式見解がそれだから。しかし、儒教を整備するのが王莽である。天地を狂わせた外戚により、天地が手懐けられる。ねじれてる。王莽の歴史上の扱いが「不当」だから、ねじれる。という好例。


前31年、南北郊を始め、許皇后をたてる

二年春正月,罷雍五畤。辛已,上始郊祀長安南郊。詔曰:「乃者徙泰畤、後士於南郊、北郊,朕親飭躬,郊祀上帝。皇天報應,神光並見。三輔長無共張徭役之勞,赦奉郊縣長安、長陵及中都官耐罪徒。減天下賦錢,算四十。」閏月,以渭城延陵亭部為初陵。二月,詔三輔內郡舉賢良方正各一人。

前31年正月、雍の五畤をやめる。

先謙はいう。前年に郊をつくり、いま祠を辞めた。匡衡の提案だ。ぼくは思う。匡衡伝☆を読もう。また、王莽に到るまでの祭祀の変遷は、渡邉先生の本を読もう。

正月辛巳、成帝は初めて、長安の南郊でまつった。「泰畤と后土をやめて、南北郊にうつせ。私は南北郊を祭ったら、天が応えた。南北郊をおいた、長安県と長陵県と、中都官(京師の諸官府)の罪を軽減して、天下の賦銭を40減らせ」と。

応劭はいう。天郊は、長安の城南にある。地郊は、長安の城北にあり、長陵との県境である。2県では、祭祀のための労務が発生したので、その他の労務が免除された。
孟康はいう。賦銭は120なので、いま40減らして80とした。

閏月、渭城の延陵亭の部を、初陵とする。2月、三輔と内郡(辺境でない郡)から、賢良方正を1人ずつ挙げさせた。

三月,北宮井水溢出。辛醜,上始祠後土於北郊。丙午,立皇后許氏。罷六廄、技巧官。夏,大旱。東平王宇有罪,削樊、亢父縣。秋,罷太子博望苑,以賜宗室朝請者。減乘輿廄馬。

3月、北宮の井戸水が溢れた(五行志に詳しい)。3月辛丑、成帝は初めて后土を北郊に祭る。3月丙午、許氏(許嘉の娘)を、皇后にたてた。

師古はいう。許嘉の娘である。許嘉伝をみよう。☆

六廐と技巧の官を廃した。

師古はいう。技芸のうまい者である。倡楽のうまい者でない。つまり技術者であり、音楽家でない。『百官表』か『漢旧儀』などの注釈を、上海古籍423頁がひく。はぶく。

夏、ひでり。東平王の劉宇は、罪により、樊県と亢父県を削られた。

師古はいう。どちらも東平郡である。先謙はいう。亢父県は高帝紀にある。

秋、太子の博望苑をやめて、宗室の朝請する者に賜った。乗輿と廐馬を減らす。

文頴はいう。武帝は衛太子のために、苑をつくった。賓客を受けるためだ。先謙はいう。『漢書』武五子伝にある。
ぼくは思う。武帝によるバブルを、まだ是正する途中なのね。
ぼくは思う。1年あたりの記事がすくない。『後漢書』の後半とちがうのは、フロンティアの反乱がまったく記されていないこと。范曄は、ぜったいに『漢書』を手本にした。差異を意識して、書いたにちがいない。


前30年、地震と日食により、人材をつのる

三年春三月,赦天下徒。賜孝弟、力田爵二級。諸逋租賦所振貸勿收。
秋,關內大水。七月,シ上小女陳持弓聞大水至,走入橫城門,闌入尚方掖門,至未央宮鉤盾中。吏民驚上城。
九月,詔曰:「乃者郡國被水災,流殺人民,多至千數。京師無故訛言大水至,吏民驚恐,奔走乘城。殆苛暴深刻之吏未息,元元冤失職者眾。遣諫大夫林等循行天下。」
冬十二月戊申朔,日有蝕之。夜,地震未央宮殿中。詔曰:「蓋聞天生眾民,不能相治,為之立君以統理之。君道得,則草木、昆蟲鹹得其所;人君不德,謫見天地,災異婁發,以告不治。朕涉道日寡,舉錯不中,乃戊申日蝕、地震,朕甚懼焉。公卿其各思朕過失,明白陳之。『女無面從,退有後言。』丞相、禦史與將軍、列侯、中二千石及內郡國舉賢良方正能直言極諫之士,詣公車,朕將覽焉。」
越巂山崩。

前30年3月、天下の刑徒をゆるす。孝弟する者、力田する者に、爵2等を賜う。滞納された租税の回収をやめた。
秋、関内で洪水した(五行志に詳しい)。7月、陳持弓という少女が、洪水を触れ回って、未央宮の鉤盾の中に入りこんだ。役人も人民も、パニクった。

少女が移動した地名等は、上海古籍424頁にある。
周寿昌はいう。『百官表』で、鉤盾は少府に属する。鉤盾五丞両尉である。鉤盾が、未央宮の苑中にあったことがわかる。

9月、成帝は詔した。「郡国は水害にあう。人民は流れ殺される。京師で、洪水のデマがでた。官吏の暴政により、生業をうしなう民衆がある。諫大夫の林らに天下をめぐらせよ」と。

ちくま訳も『漢書補注』も「林」が誰なのか教えてくれない。
ぼくは思う。都市の住人が、自然災害をおそれまくった。しかし成帝は、あくまで「官吏の暴政」に原因を帰している。前近代の非合理的な呪縛が、、ということはない。

12月戊申ついたち、日食あり。その夜、未央宮で地震あり。
「日食も地震も、即位して日の浅い、わたし成帝のせいだ。『虞書』益稷篇に、面従するくせに、退出してから本音を言うなよ、とある。丞相、禦史と將軍、列侯、中二千石および内郡国の者は、賢良方正で、直言と極諫する人材をあげよ。わたしが面接しよう」

ぼくは思う。日食と地震が併発すれば、へこむ。対策として「賢良方正」「直言極諫」をつのるのは、後漢と同じだ。いや、後漢がマネしたのだ。

越巂で山がくずれた。

前29年、司隷校尉が殺され、黄河が大洪水

四年春,罷中書宦官,初置尚書員五人。
夏四月,雨雪。五月,中謁者丞陳臨殺司隸校尉轅豐于殿中。
秋,桃、李實。大水,河決東郡金堤。冬十月,御史大夫尹忠以河決不憂職,自殺。

前29年、中書の宦官をやめた。

先謙はいう。五行志はいう。正月癸卯、隕石が4つと1つおちる。
臣瓚はいう。漢初、中人には中謁者令があった。武帝は、中謁者令に加えて、中書謁者令として、僕射をおく。宣帝のとき、中書官の弘恭を、中書謁者令とした。石顕を中書謁者僕射とした。元帝が即位して数年たち、弘恭が死んで、石顕が中書令にかわる。石顕が、用事を専権した。成帝のとき、この官位がはぶかれた。
銭大昭はいう。臣瓚は誤りである。『百官表』少府で、中書謁者、黄門、鉤盾などの8官に令と丞がいる。もろもろの僕射、署長、中黄門がみな属する。また『百官表』はいう。成帝の建始4年、中書謁者令を、中謁者令と改めたと。銭大昭が考えるに。漢初には中書謁者令があり、成帝が中書の名をはぶき、中謁者令としただけである。武帝に言及しなくてよい。僕射も武帝が設置したのでない。
ぼくは思う。政治の改変は、武帝期が画期となる、という強迫観念かw

はじめて尚書5人おいた。

ちくま注釈はいう。もともとは、常侍尚書、二千石尚書、戸曹尚書、主客尚書の4人だった。これに、三公尚書をくわえた。断獄のことを司る。
師古はいう。『漢旧儀』はいう。尚書4人を「四曹」という。常侍尚書は、丞相、御史のことをつかさどる。二千石尚書は、刺史と二千石のことをつかさどる。戸曹尚書は、庶人の上書のことをつかさどる。主客尚書は、外国のことをつかさどる。成帝が5人をおいた。三公曹は、断獄のことをつかさどる。
銭大昭はいう。『漢官儀』は尚書の定員が4名とする。武帝が設置した。成帝が1人を増員した。侍曹尚書、戸曹尚書、主客尚書、二千石尚書である。成帝が三公尚書を加えて、断獄のことをつかさどらせた。『後漢書』光武帝紀の注にある。
ぼくは思う。ちくま訳は、銭大昭に拠ったのね。

夏4月、雪がふった。

先謙はいう。五行志では、燕がおおく死んだ。

5月、中謁者丞の陳臨が、司隸校尉の轅豐を、殿中で殺した。

応劭はいう。轅豊は長安令となり、有能な統治により、司隷校尉となった。陳臨はもとより、轅豊と怨恨があった。陳臨は、轅豊が司隷校尉に昇ったので、殺害されると思い、ぎゃくに轅豊を刺殺した。
銭大昭はいう。陳臨の官職のこと。『百官表』には中書謁者には令と丞がいる。このとき、すでに中書謁者令は、中謁者令に改められている。中書謁者丞も、中謁者丞となった。『漢紀』では轅豊を「袁豊」とするが、古字が通じる。
ぼくは思う。長安令は激務だから、出身地にかかわらず有能な人材をおく。ここで成功したら、出世できる。厳耕望氏の本に書いてあった。そして司隷校尉となれば、私怨ある人物を(少なくとも陳臨が怯えるほどには)自由に殺害できるようだ。

秋、桃李がみのった。東郡の金堤が黄河にやぶられた。冬10月、御史大夫の尹忠が、治水がうまくいかないので憂い、自殺した。

治水の失敗で自殺! 後漢や三国で、その例をぼくは知らない。つぎの歳、黄河がらみで改元している。まれにみる大洪水だった?


前28年、黄河の治水をもって、改元してしまう

河平元年春三月,詔曰:「河決東郡,流漂二州,校尉王延世堤塞輒平,其改元為河平。賜天下吏民爵,各有差。」
夏四月己亥晦,日有蝕之,既。詔曰:「朕獲保宗廟,戰戰慄栗,未能奉稱。傳曰:『男教不修,陽事不得,則日為之蝕。』天著厥異,辜在朕躬。公卿大夫其勉,悉心以輔不逮。百寮各修其職,□任仁人,退遠殘賊。陳朕過失,無有所諱。」大赦天下。六月,罷典屬國並大鴻臚。秋九月,複太上皇寢廟園。

前28年春、

先謙はいう。五行志によると、2月に日が赤くなり、3月乙未に日が黄になった。黒気が、銭のようにたち、日の中央にかかる。

3月、詔した。「東郡で黄河が決壊して、兗州と豫州が水没した。校尉の王延世が、堤をつくった(溝ジュツ志に詳しい)。河平と改元する。天下の吏民に、爵をくばる」と。
夏4月己亥みそか、皆既日食あり。詔した。「私は先帝の事業を嗣げていない。『伝』は、男子が陽事をできないと、日食があるという。私の過失があったら言ってくれ」と。大赦した。6月、典属国をやめて、大鴻臚にあわせた。秋9月、太上皇を廟園寝をもどして祭った。

先謙はいう。平当(人名)が要請したものだ。
ぼくは思う。成帝にとっての「父」は、生物学的には元帝だが、象徴的には宣帝のようです。宣帝という「父」を祭ることで、成帝は男子としての「陽」性を身につけて、天下の「父」となることができる。
ぼくは思う。あまりに記事がすくない。いま、太后の王氏が政治をしている。本紀の役割は、元后伝にうつしてしまった?班固はひそかに、王莽を研究していた=王莽を史書でも、特別あつかいしたようだ。後日、くわしく考えるべきテーマ。


前27-25年、5人の王氏が列侯の時代

二年春正月,沛郡鐵官治鐵飛,語在《五行志》。夏六月,封舅譚、商、立、根、逢時皆為列侯。

前27年正月、沛郡で鉄が飛んだ。くわしくは「五行志」にある。

意味が分からない。沛郡は、劉邦の故郷だけど、、 先謙はいう。五行志はいう。4月、楚国で雹がふる。斧の大きさ。飛鳥に当たって死んだ。

6月、成帝のおじの王譚、王商、王立、王根、王逢は、列侯になった。

ぼくは思う。五侯です。王莽は父が死に、この栄華にあずかっていない。
蘇輿はいう。五侯は同日に封じられた。『漢書』表より、6月乙亥と分かる。


三年春二月丙戌,犍為地震、山崩、雍江水,水逆流。秋八月乙卯晦,日有蝕之。光祿大夫劉向校中秘書。謁者陳農使,使求遺書於天下。

前26年春2月丙戌、犍為で地震あり。山がくずれ、長江が逆流した。秋8月乙卯みそか、日食あり。

先謙はいう。五行志はいう。柏江山がくずれた。捐江山がくずれた。地震は21日つづく。124回も揺れた。余震だなあ。

光禄大夫の劉向が、中秘書を校訂した。謁者の陳農をおくって、天下にある書物をあつめた。

師古はいう。はいう。「中」秘書とは、「外」との対比である。何焯はいう。劉向は中秘書を校訂して、帝紀を大書して、経籍を尊んだ。
劉向の父子は、とても王莽とからむ。儒学者だから、理解するのは難しいだろうが。禅譲を知るには、避けられない人だと思う。 ぼくは思う。 ☆


四年春正月,匈奴單于來朝。赦天下徒,賜孝弟、力田爵二級,諸逋租賦所振貸勿收。二月,單于罷歸國。三月癸醜朔,日有蝕之。遣光祿大夫博士嘉等十一人行舉瀕河之郡水所毀傷困乏不能自存者,財振貸。其為水所流壓死,不能自葬,令郡國給□櫝葬埋。已葬者與錢,人二千。避水它郡國,在所冗食之,謹遇以文理,無令失職。舉惇厚有行、能直言之士。壬申,長陵臨涇岸崩,雍涇水。夏六月庚戌,楚王囂薨。山陽火生石中,改元為陽朔。

前25年正月、匈奴の単于がきた。天下の刑徒を許し、孝弟と力田の者に爵2等をくばる。租税の未納の貸し分をチャラにした。2月、単于はかえった。
3月癸丑ついたち、日食あり。光祿大夫・博士の孟嘉ら11人に、黄河に浜した郡県の被害をしらべさせた。生活の修復のため、金品を貸し付けた。水害で埋葬できない者を、郡国に埋葬させた。すでに自力で埋葬した者には、1人あたり経費2千銭を与えた。他の郡国に避難して食えない者に、食物をくばり、生業に就かせた。惇厚で直言できる士を挙げさせた。

ぼくは思う。黄河が暴れるのは、王莽のとき始まったのでない。成帝の時期から、豫州と兗州をひたした。史家は「王莽のせいで黄河が暴れた」という。これは政治声明である。いくら天人感応の社会とはいえ、「王莽のせい、とは言い切れない」ことは共通理解だったのではないか。例えば今日の政治家が、政敵を散々になじっても、頭から受け入れないのと同じように。日本国憲法を「否定はしないが、必ずしも全員が文字どおりに、頭から信じていない」ように。現実を極度に単純にして、現実と乖離した表現だからこそ、「わざわざ言う意味がある」のだ。

3月壬申、長陵の涇水に接する岸が崩れたので、補強した。6月、楚王の劉囂が死んだ。山陽郡で、火が石に生じた。陽気がはじまる兆しだから、陽朔と改元した。

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成帝紀の中:前24-前13年

陽嘉:前24-21年、定陶王と王鳳が死ぬ

陽朔元年春二月丁未晦,日有蝕之。三月,赦天下徒。
冬,京兆尹王章有罪,下獄死。

前24年2月、日食あり。

応劭はいう。ときに陰が盛んで、陽が微かだ。ゆえに「陽朔」と改元して、陽の蘇生をねがった。師古はいう。応劭はウソである。石に火が生じたから、陽朔と改元したのだ。
ぼくは思う。応劭のいう意図があるから、石に火が生じたと「報告させた」もしくは「報告を大々的に取りあげた」のだろう。どちらも誤りではなかろう。
ぼくは思う。成帝が10歳で幼いし(陽より陰)、女系である外戚(陽より陰)が盛んである。漢代は、男系=陽と、女系=陰が、交互に出現して調和したのかも。幼帝や女系=陰が執政する期間を、「一時しのぎ」「異常な事態」「克服すべき事態」と認識すると、おかしくなる。「漢室は衰微しまくっているのに、なぜか存続する。なぞだ」と悩むことになる。問いの立て方がおかしいのだ。陰は、それ自体では自立しないから、捉えにくいが。「「陽の体制が衰微する」という体制」である。体制の一種には変わりなく、逆説的だが安定期なんだろう。
「男系の成人皇帝が親政する時代」のみを、正しい姿だと認識するのは、『易経』を理解しない態度だなあ。そんな硬直した態度こそ、王朝を固くて折れやすくする。

3月、天下の刑徒を赦した。冬、京兆尹の王章が、獄死した。

何焯はいう。王章は、ほんとうは王鳳に殺されたのに、そう書かない。史書の体裁が統一されていない。


二年春,寒。詔曰:「昔在帝堯,立羲、和之官,命以四時之事,令不失其序。故《書》雲『黎民于蕃時雍』,明以陰陽為本也。今公卿大夫或不信陰陽,薄而小之,所奏請多違時政。傳以不知,周行天下,而欲望陰陽和調,豈不謬哉!其務順四時月令。」三月,大赦天下。夏五月,除吏八百石、五百石秩。

前23年、寒かった。詔した。『尚書』堯典で、帝堯が羲氏と和氏を天地の官にしたとき、四季の月令を整備して、陰陽を調整させた。いま公卿や大夫で、月令に違反する者がある。四時の月令を順守せよ」と。3月、大赦した。

ぼくは思う。本来は境界がなく連続した気候を、四時=四季に区切り、それをさらに12ヶ月に区切る。こうして「象徴界」を形成することで、支配を実現する。いま公卿や大夫は、この象徴化の働きを軽視したのだろう。「自然のまま」を受容してしまったのだろう。皇帝権力として、それはダメです。

夏5月、秩禄を切り下げ、8百石を6百石、5百石を4百石とした。

秋,關東大水,流民欲入函穀、天井、壺口、五阮關者,勿苛留。遣諫大夫博士分行視。八月甲申,定陶王康薨。九月,奉使者不稱。詔曰:「古之立太學,將以傳先王之業,流化於天下也。儒林之官,四海淵原,宜皆明於古今,溫故知新,通達國體,故謂之博士。否則學者無述焉,為下所輕,非所以尊道德也。『工欲善其事,必先利其器。』丞相、禦史其與中二千石、二千石雜舉可充博士位者,使卓然可觀。」
是歲,御史大夫張忠卒。

前23年秋、関東で洪水があった。函穀、天井、壺口、五阮の関をひらき、関中への人口の流入を、とどめない。諌大夫や博士をおくり、被害をしらべた。

応劭はいう。天上は上党の高都にある。壺口は壺関にある。五阮は代郡にある。その他『漢書補注』の地理の説明ははぶきます。上海古籍432頁。

8月、定陶王の劉康が死んだ。

成帝と、皇位をあらそった人。劉康の子が、つぎの哀帝になる。

9月、成帝の期待した役割を果たさない使者がいた。

先謙はいう。期待はずれの使者とは誰か。洪水の被害を見にいった、諫大夫や博士であろう。べつの年月に書いたから、記事が分断された。

詔した。「古代に太学をつくったのは、先王の事業を天下に伝えるためだ。『論語』で孔子はいう。うまく加工したければ、器具を鋭くせよと。丞相、御史は、中二千石、二千石とともに、博士にふさわしい人材をあげよ」と。
この歳、御史大夫の張忠が死んだ。

師古はいう。月を記さないから、年の末に記事が或る。あとで出てくる、王駿も同じである。ぼくは思う。『通鑑』で多用される表現なので、馴れっこです。


三年春三月壬戌,隕石東郡,八。
夏六月,潁川鐵官徒申屠聖等百八十人殺長吏,盜庫兵,自稱將軍,經歷九郡。遣丞相長史、禦史中丞逐捕,以軍興從事,皆伏辜。秋八月丁已,大司馬、大將軍王鳳薨。

前22年3月、東郡に隕石が8つおちた。

先謙はいう。五行志はいう。2月、白馬県に隕石が8つおちた。本紀と五行志で、地名(郡と県のどちらを書くか)も、月も異なる。

潁川郡で、鉄官の申屠聖ら180人が、長吏を殺して将軍を称し、9郡をめぐった。討伐した。申屠聖らは罪にふくした。

銭大昭はいう。頴川の陽城に鉄官がある。
周寿昌はいう。申屠聖は月をまたがずに伏誅した。なぜ同月内に9郡もゆけるか。郡の名もない。「9県をめぐる」の誤りでは。鴻嘉3年、広漢の鄭躬は、年をまたいで4県をめぐった。申屠聖と似ている。『漢紀』では「郡県をめぐる」に修正されている。
師古はいう。追捕の方法は、軍法によった。

秋8月、大司馬・大将軍の王鳳が死んだ。

銭大昭はいう。大司馬の死を「薨」とするのは、霍去病の死からだ。姓を記さないのは、丞相の死の記事の前例がある。ただ王鳳と王音と王商の死では、姓が記される。王氏の場合、丞相の前例と一致しない。


四年春正月,詔曰:「夫《洪範》八政,以食為首,斯誠家給刑錯之本也。先帝劭農,薄其租稅,寵其強力,令與孝弟同科。間者,民彌惰怠,鄉本者少,趨末者眾,將何以矯之?方東作時,其令二千石勉勸農桑,出入阡陌,致勞來之。《書》不雲乎?『服田力嗇,乃亦有秋。』其□之哉!」二月,赦天下。秋九月壬申,東平王宇薨。
閏月壬戌,御史大夫于永卒。

前21年正月、詔した。「『尚書』洪範篇は、食糧の規則から始まる。食糧が充分なら、犯罪もなくなる。二千石は農桑を勧めろ。『尚書』の商書の盤庚篇で、耕作すれば収穫があるという。食糧を生産に励め」と。
2月、天下を赦した。

先謙はいう。五行志はいう。4月に雪がふり、燕雀が死んだ。

9月、東平王の劉宇が死んだ。閏月、御史大夫の于永が死んだ。

師古はいう。于永とは、于定国の子である。だれ。


鴻嘉:前20-17年、爵位の販売、広漢郡の叛乱

鴻嘉元年春二月,詔曰:「朕承天地,獲保宗廟,明有所蔽,德不能綏,刑罰不中,眾冤失職,趨闕告訴者不絕。是以陰陽錯謬,寒暑失序,日月不光,百姓蒙辜,朕甚閔焉。《書》不雲乎?『即我禦事,罔克耆壽,咎在厥躬。』方春生長時,臨遣諫大夫理等舉三輔、三河、弘農冤獄。公卿大夫、部刺史明申敕守、相,稱朕意焉。其賜天下民爵一級,女子百戶牛、酒,加賜鰥、寡、孤、獨、高年帛。逋貸未入者勿收。」壬午,行幸初陵,赦作徒。以新豐戲鄉為昌陵縣,奉初陵,賜百戶牛、酒。
上始為微行出。冬,黃龍見真定。

前20年2月、成帝は詔した。
「私は宗廟を継承したが、統治も刑罰も適切でなく、陰陽と寒暖が乱れた。『尚書』文侯之命にいう。失政は私の責任であると。諫大夫の理らを使わす。三輔、三河、弘農の冤罪者を釈放せよ。公卿や大夫、部刺史は、太守や国相に私の意思を伝えよ。天下の民に1等爵をあげる。滞納した租税は、回収しない」と。
2月壬午、初陵にゆく。刑徒を赦して、初陵の作業者とする。新豊の戯郷を昌陵県とする。初陵を奉じて、1百戸に牛酒を賜る。

師古はいう。戯水の郷である。銭大昭はいう。郡国志は、新豊の戯亭という。『御覧』37にひく『三輔旧事』はいう。成帝は延陵をつくり、廟をたてた。竇将軍は、「青竹が廟の南にあり、踏んでしまうので、廟の建設に適さない」という。ゆえに昌陵に移設したと。この5年後の永始元年、詔して「廟を作って5年たつが、運んだ土が良くない」という。まさにこの移設のことをいう。

はじめて成帝は、微行(おしのびで外出)した。

張晏はいう。後門から出て、期門郎と私奴客10余人を従える。白衣を着て、単騎で市里に出入りする。微賤のように行動するから、微行という。
ぼくは思う。皇帝が「市里」という、網野善彦のいう「無縁」の場にいくのが、すごいこと。本来、皇帝とは「有縁」の究極の中心である。下賤な身なりで、皇帝がうろつくのは、思想的?に危険だ。皇帝が、誤って殺害されるという、物理的な危険性は、あまり関係がない。もしかして成帝が誤って切り殺されても、代わりの劉氏を選べばよい。そうでなく、皇帝という肩書の保持者(これは劉驁でなくても良い)が、無縁の場で殺されることが、まずい。漢室の滅亡と同じだ。
ぼくは思う。哀帝のとき「劉邦の天下だから、哀帝の判断では禅譲はできないよ」と諫められた。まさに同じ。劉驁が死ぬのは勝手だが、劉邦の天下を損なう行為だ。切り殺されずとも、市里に行くことが、劉邦の天下を損なう行為だ。せっかく劉邦が故郷を捨てて、「天下」をつくったのに、それを台無しにしてる。
ぼくは思う。ぎゃくに成帝が斬られかかったほうが、ことの重大さに気づくかも。漢室にとって利益が大きいかも。成帝は「生命が危ないから慎もう」という理由で、微行をやめる。結果、「天下」が「市里」に穢されることが避けられる。ただし、もし「対流こそが時代を前に進める」と考えるなら、成帝の微行、哀帝のリベラルは、歓迎すべきことなのか。王莽による受禅は、少なくともすでに成帝の微行によって用意されているなあ。

冬、真定県で、黄龍があらわれた。

師古はいう。もとは趙国の東垣県であったが、高祖11年に真定と改名。
ぼくは思う。黄色は、漢室にとって不吉か。前後関係を確認せねば。「漢室は赤の火徳であり、黄の土徳がこれに代わる」という発想が確立するのは、王莽を待たねばならない。それなら、この時点の黄龍を、良いとも悪いとも言えない。


二年春,行幸雲陽。三月,博士行飲酒禮,有雉蜚集於庭,曆階升堂而雊,後集諸府,又集承明殿。詔曰:「古之選賢,傅納以言,明試以功。故官無廢事,下無逸民,教化流行,風雨和時,百谷用成,眾庶樂業,咸以康寧。朕承鴻業十有餘年,數遭水、旱、疾疫之災,黎民婁困於饑寒,而望禮義之興,豈不難哉!朕既無以率道,帝王之道日以陵夷,意乃招賢選士之路鬱滯而不通與,將舉者未得其人也?其舉敦厚有行義、能直言者,冀聞切言嘉謀,匡朕之不逮。」
夏,徒郡國豪傑貲五百萬以上五千戶於昌陵。賜丞相、禦史、將軍、列侯、公主、中二千石塚地、第宅。六月,立中山憲王孫雲客為廣德王。

前19年春、成帝は雲陽にゆく。3月、成帝は博士と飲酒の礼をおこなう。

銭大昭はいう。『漢紀』では「郷飲酒礼」とする。周寿昌はいう。五行志では「大射礼」とする。『通鑑』も同じ。胡三省はいう。古代の天子や諸侯と大夫は、みな大射の礼をおこなう。博士がおこなる、士の射礼である。

キジが飛んできて、階段をのぼる。キジが諸府と承明殿にあつまる。

先謙はいう。諸府とは、太常、宗正、丞相、御史大夫、車騎将軍の府である。師古はいう。承明殿は、未央宮のなかにある。

「古代の賢者は、人材に意見を言わせて活用した。私は帝位を嗣いで10余年たつが、洪水や日照、水害や冷害ばかりだ。わが帝王の道は陵夷である。敦厚で直言する者をあげよ」と。

師古はいう。陵夷とはなにか。陵とは丘陵であり、たかい。夷は平らかなこと。丘陵がじわじわ低くなりったこと。陵遅と同じ。
王念孫はいう。師古は誤りである。陵も夷も、どちらも平らかの意味。各書の用例が上海古籍438頁にある。はぶく。ぼくは思う。どちらも「平らか」が正解のようです。
ぼくは思う。キジは、人材が集まっていることの比喩か。しかし成帝は「まだまだ足りない」と、自戒したのかな。それにしても、現任の博士たちを前にして、こんな詔を出しますか。つまり「お前たちが無能だから、天はお怒りなのだ」という、アテツケにもなる。責任転嫁である。マネジメントとして、最低の発言である。

夏、郡国の豪傑で、財産が5百万銭以上の者を、5千戸をあたえて昌陵に移住させた。丞相、禦史、將軍、列侯、公主、中二千石らに対して、昌陵にある塚地と第宅を与えた。

矢野氏の「寄生官僚」の話。土地と家屋をプレゼントされたら、引っ越さねばならない。都市住民に再編成して、皇帝権力に寄生する存在にしましょうと。それにしても、西嶋定生の言うとおり、前漢の皇帝は、臣下にいろいろバラまく記事がおおい。曹魏では、こうはいかない。
先謙はいう。5月癸未、隕石が杜衍に3つあり。

6月、中山憲王で、(弟の)孫の劉雲客を、廣德王とした。

銭大昭はいう。諸侯王表によると、本紀に「弟の」を足さないといけない。系図について、上海古籍439頁。


三年夏四月,赦天下。令吏民得買爵,賈級千錢。大旱。
秋八月乙卯,孝景廟闕災。冬十一月甲寅,皇后許氏廢。廣漢男子鄭躬等六十餘人攻官寺,篡囚徒,盜庫兵,自稱山君。

前18年、吏民が爵位を買えるようにした。1等級で1千銭である。

蘇輿はいう。買爵の令は、恵帝のときに始まった。文帝のときも爵位を売った。恵帝のとき1等爵で1万銭である。恵帝元年の本紀はいう。中郎になり1年に満たない者には、皇帝から1級を与えた。外郎になり2年に満たない者には銭1万を与えたと。ここから蘇輿が考えるに、1級をもらう資格がない者が、代わりに銭1万をもらった。1級は、銭1万より価値があるのだ。
食貨志はいう。武帝のとき、武功によってもらう爵位は1級で銭17万の価値があった。武功の爵位は、通常の爵位より価値があったが、それにしても高額である。のちに「千夫」の等級を除き、「五大夫」を吏とした。工事、労務、馬を提供した者に爵位を与えたが、買いたがる者は少なかった。ゆえに爵位の価額が暴落した。おおきな変事なので、いま本紀に記された。
ぼくは思う。前漢を通じて、価値が下洛したのだ。後漢の霊帝ファンには、本郷恵子氏の『中世人の経済感覚』がおすすめ。250頁かけて「売官」が論じられてます。日本中世史の話ですが。後漢との共通点は、前近代で、非資本主義で、君主の発する位階(爵位に類似)や官職が欲望の対象なところ。ここでも官位の価値が、長い時間をかけて下落してゆきます。欲望の対象として厳密に管理され、どれだけでも貨幣が支払われたのに、だんだんゴミの扱いになる。ときに後漢に「寺社権門」に相当する勢力ってないのかな。位階や官爵を購入するための、仲介の手続者、金融業者、信用保障者、価値の宣伝者などの機能がある。

日照あり。8月、景帝廟の(北)門が燃えた。

先謙はいう。五行志はいう。5月乙亥、天水の冀県にある南山で、大きな石が鳴いた。時期として補うならここだ。
王念孫はいう。ほかの本紀の記事では、どの方角の門が燃えたのか、記すものである。五行志と『漢紀』では、北門が燃えたと書いてあるから、「北」と追記すべきだ。

11月甲寅、皇后の許氏を廃した。広漢郡で、鄭躬ら60余人が、官府をおそい、囚人をうばい、武器倉庫をぬすんだ。鄭躬は、みずから「山君」と称した。

周寿昌はいう。五行志はいう。広漢の鉗子某は、牢を攻めて、死刑囚の鄭躬を奪い返した。これによると鄭躬は、囚人を奪ったのでなく、囚人の側だったのだ。
ぼくは思う。王朝がもうすぐ滅びるのに、叛乱がすくない!
前漢の叛乱の少なさでなく、後漢の叛乱の多さにおどろくべきなのだろうか。三国志の見方を変えねば。黄巾の乱より、はるか前。西暦100年代に入ってからを「乱世」と呼んで、さしつかえない。班固が『漢書』を書いたのは、全国が統一されたとき。范曄が『後漢書』を書いたのは、全国が分裂したとき。この環境のちがいも、影響しているのかも知れないが。范曄は、分裂を強調したくなる。


四年春正月,詔曰:「數敕有司,務行寬大,而禁苛暴,訖今不改。一人有辜,舉宗拘系,農民失業,怨恨者眾,傷害和氣,水旱為災,關東流冗者眾,青、幽、冀部尤劇,朕甚痛焉。未聞在位有惻然者,孰當助朕憂之!已遣使者循行郡國。被災害什四以上,民貲不滿三萬,勿出租賦。逋貸未入,皆勿收。流民欲入關,輒籍內。所之郡國,謹遇以理,務有以全活之。思稱朕意。」
秋,勃海、清河河溢,被災者振貸之。
冬,廣漢鄭躬等黨與浸廣,犯曆四縣,眾且萬人。拜河東都尉趙護為廣漢太守,發郡中及蜀郡合三萬人擊之。或相捕斬,除罪。旬月平,遷護為執金吾,賜黃金百斤。

前17年、詔した。「有司による統治が苛暴である。農民が生業を失っている。水害などで、青州、幽州、冀州では流浪者がいる。使者に郡をめぐらせ、4割以上の耕地が被災したり、財産が3万未満の者は、租税を免除する。滞納した租税は、回収するな」と。

ぼくは思う。成帝は「与える」なあ!後漢に比べると、前漢はさらに生産力が弱かったので、租税の回収が難しかったのかも。もしくは黄河による水害が、前漢と王莽を滅ぼした原因なのか。いくら優れた為政者でも、水害を「自分のこと」と受け止めてしまえば、失政を問われなければならない。光武帝のときは、水害が鎮静したのか?というか、水害が鎮静したから、後漢が成立することができたと捉えるべきかも。
ぼくは思う。もし黄河が鎮まるのが、あと20年早ければ、王莽による王朝が世襲されていた。もし黄河が鎮まるのが、あと40年早ければ、前漢が継続されていた。かも。
ぼくは思う。前漢-王莽-後漢の連続性を言うことが、いつまでも「新説」めく。だって史書が断絶姓ばかり言うからね。しかし、人間のやる統治なんて、自然と相対したとき、だいたいワンパターンである。連続して当然なのだ。前漢と王莽が滅びて、後漢が続いたのは、自然のご機嫌によるのでは。

秋、渤海と清河で、黄河があふれた。

先謙はいう。五行志は、この秋に信都で魚が降ったとする。

冬、廣漢の鄭躬の叛乱は、4県で1万人にふくらんだ。河東都尉の趙護を、廣漢太守とした。趙護は、郡兵3万人で平定した。賊軍のなかでも仲間を捕斬した者は赦された。旬月のうちに平らぎ、趙護は執金吾になった。

朱一新はいう。公卿表によると、趙護が執金吾になったのは、元延元年である。この平定の直後でない。最終的にのぼった官位を、本紀が記したのだろう。
ぼくは思う。叛乱を足かけ2年かけて平定した。ただ、乱世も序の口だ。4県なんて、黄巾の乱にくらべたら小規模である。


永始:前16-13年、賑恤した者に官爵を贈る

永始元年春正月癸醜,太官淩室火。戊午,戾後園闕火。夏四月,封婕妤趙氏父臨為成陽侯。五月,封舅曼子侍中騎都尉光祿大夫王莽為新都侯。六月丙寅,立皇后趙氏。大赦天下。
秋七月,詔曰:「朕執德不固,謀不盡下,過聽將作大匠萬年言昌陵三年可成。作治五年,中陵、司馬殿門內尚未加功。天下虛耗,百姓罷勞,客土疏惡,終不可成。朕惟其難,怛然傷心。夫『過而不改,是謂過矣』。其罷昌陵,及故陵勿徒吏民,令天下毋有動搖之心。」立城陽孝王子俚為王。
八月丁醜,太皇太后王氏崩。

前16年正月癸丑、太官の淩室で火災。正月戊午、戾後園闕で火災あり。

先謙はいう。五行志はいう。この春、北海で大魚がでた。
師古はいう。淩室とは、氷をしまう部屋。先謙はいう。五行志では、戾後園の「南」闕が燃えたとある。

4月、趙婕妤の父・趙臨を成陽侯とした。5月、成帝のおじ王曼の子、侍中・騎都尉・光祿大夫をつとめる王莽を、新都侯とした。

本紀に、はじめて王莽が出てきました。

6月、皇后に趙婕妤(趙飛燕)をたてた。大赦した。
7月、詔した。「將作大匠の解萬年が、3年でできると云った昌陵の移設が、5年かかってもできない。解萬年を信じた私が誤った。建設で百姓が疲弊した。『論語』で孔子は、過ちを改めないのが過ちだという。昌陵の移設を中止せよ。移設する前の故陵(延陵)から、吏民を動かすな」と。

陳景雲はいう。これより前に、劉向が「昌陵をやめろ」と諫めた。移設をやめ、移設前の故陵の修復に着手したら、翌年に侍中・衛尉の某長が諫めて、修復をやめさせ、吏民の移動を止めさせた。
移転前の「故陵」とは、渭城の延陵のことである。前述あり。

城陽孝王の子・劉俚を、王とした。8月、太皇太后の王氏が崩じた。

先謙はいう。鴻嘉2年、哀王の劉雲が死んだ。後嗣なし。いま劉俚が嗣いだ。
師古はいう。宣帝の王皇后である。ぼくは補う。王莽のおばは、元帝の皇后だから、まだ死んでない。
先謙はいう。五行志によると、9月丁巳みそか、日食あり。


二年春正月己醜,大司馬車騎將軍王音薨。
二月癸未夜,星隕如雨。乙酉晦,日有蝕之。詔曰:「乃者,龍見於東萊,日有蝕之。天著變異,以顯朕郵,朕甚懼焉。公卿申敕百寮,深思天誡,有可省減便安百姓者,條奏。所振貸貧民,勿收。」又曰:「關東比歲不登,吏民以義收食貧民、入穀物助縣官振贍者,已賜直,其百萬以上,加賜爵右更,欲為吏,補三百石,其吏也,遷二等。三十萬以上,賜爵五大夫,吏亦遷二等,民補郎。十萬以上,家無出租賦三歲。萬錢以上,一年。」
冬十一月,行幸雍,祠五畤。
十二月,詔曰:「前將作大匠萬年知昌陵卑下,不可為萬歲居,奏請營作,建置郭邑,妄為巧作,積土增高,多賦斂徭役,興卒暴之作。卒徒蒙辜,死者連屬,百姓罷極,天下匱謁。常侍閎前為大司農中丞,數奏昌陵不可成。侍中衛尉長數白宜早止,徙家反故處。朕以長言下閎章,公卿議者皆合長計。長首建至策,閎典主省大費,民以康寧。閎前賜爵關內侯,黃金百斤。其賜長爵關內侯,食邑千戶,閎五百戶。萬年佞邪不忠,毒流眾庶,海內怨望,至今不息,雖蒙赦令,不宜居京師。其徙萬年敦煌郡。」是歲,御史大夫王駿卒。

前15年正月、大司馬・車騎將軍の王音が薨じた。

成帝と王莽の、共通のおじ。

2月、隕石と日食。成帝は詔した。「東莱に龍があらわれ、日食したのは、私のせいだ。貧民に振貸した財物は、回収するな」と。また成帝は詔する。「関東は連年、不作である。吏民のうち、貧民に穀物を恵んだ者には、県の貯蔵を与えよ(立替を精算したという形態とせよ)。1百万銭以上を恵んだ者には、14等の右更を与える。新たに吏に就きたい者は、初任を3百石の吏とせよ。すでに吏であれば、官職を2等級あげよ。30万銭以上を恵んだ者は、9等の五大夫を賜い、すでに吏であれば官職を2等級あげ、民なら郎の官爵に就けよ。10万銭以上を恵んだ家は、3年の租税を免除せよ。1万銭以上を恵んだ者は1年の租税を免除せよ」と。

師古はいう。貧民を恵んだ者は、物資を提供することで、郡県の統治を助けたことになる。助けるのに必要だった費用を前漢が補填し、さらに褒賞として官爵や租税免除をあたえた。
何焯はいう。このように官爵を与えれば、国体を損なわない。後漢の安帝や桓帝のように、金額を指定して官爵を販売し、市場で販売すれば、国体を損なう。安帝と桓帝は、関内侯の爵位まで売ってしまった。高い等級の爵位を売りすぎである。
ぼくは思う。もし成帝の方法をとっていても、あまりに反復する場合、安帝や桓帝と同じになる。むしろ、さきに賑恤させておき、あとから官爵を配らなかった場合、暴動が起きる。しかし、官爵を配らないという反例を作らないと、成帝の政策は、安帝や桓帝と同じになる。おもしろい。

冬11月、成帝は雍県にゆき、五畤をまつった。

何焯はいう。建始2年、雍の五畤をやめた。いま再開した。

12月、成帝は詔した。「前の將作大匠・解萬年は、昌陵の建設を長びかせ、民に負担をかけた。解萬年を、敦煌郡にうつせ。常侍の王閎と、侍中・衛尉の淳于長は、しばしば建設をいさめた。彼らが正しかった。淳于長を関内侯、食邑1千戸とせよ。王閎を食邑5百戸とせよ」と。

如淳はいう。衛尉の淳于長は、しばしば工事の中止を提案した。淳于長の要請により、同じく工事に反対する王閎の文書を公卿たちに下して、中止を議論させた。中止が決まった。
ぼくは思う。淳于長は王莽のライバルたる外戚だから。王閎よりも、恩賞が手厚い。淳于長が、王閎の手柄を持っていってしまった感じもある。

この歳、御史大夫の王駿(王吉の子) が卒した。

三年春正月乙卯晦,日有蝕之。詔曰:「天災仍重,朕甚懼焉。惟民之失職,臨遣太中大夫嘉等循行天下,存問耆老,民所疾苦。其與剖刺史舉□朴遜讓有行義者各一人。」冬十月庚辰,皇太后詔有司複甘泉泰畤、汾陰後土、雍五畤、陳倉陳寶祠。語在《郊祀志》。
十一月,尉氏男子樊並等十三人謀反,殺陳留太守,劫略吏民,自稱將軍。徒李譚等五人共格殺並等,皆封為列侯。十二月,山陽鐵官徒蘇令等二百二十八人攻殺長吏,盜庫兵,自稱將軍,經歷郡國十九,殺東郡太守、汝南都尉。遣丞相長史、禦史中丞持節督趣逐捕。汝南太守嚴訢捕斬令等。近訢為大司農,賜黃金百斤。

前14年正月乙卯みそか、日食した。詔した。「天災は、わたしのせいだ。民衆は生業を失う。太中大夫の許嘉らに、天下を巡らせる。部刺史は、惇朴で謙譲する人材を1名ずつ挙げろ」と。

師古はいう。五行志はいう。夏4月、おおいに日照あり。

冬10月庚辰、皇太后は、甘泉の泰畤、汾陰の后土、雍県の五畤、陳倉の陳寶などの祭祀を再開させた。詳細は『郊祀志』にある。
11月、陳留郡の尉氏県の男子・樊並ら13人が、謀反した。樊並らは、陳留太守を殺し、吏民を劫略し、みずから將軍を称した。 徒の李譚ら5人が、樊並らを殺した。李譚らは、列侯に封じられた。

銭大昭はいう。殺された陳留太守とは、厳普である。天文志にある。先謙はいう。功臣表を見ると、李譚ら4人の名がある。1人たりない。
ぼくは思う。規模の小さな事件だ。前漢末の平穏がわかる。しかし、前漢にあだなし太守を殺した者を討伐すると、高額の賑恤よりも優遇され、列侯の爵位をもらえる。つまり「貧民を見殺すことより、太守の殺害を放置するほうが、前漢としてはNGである」となる。貧民の救済は、貧民を救ったことが立派なのでなく、太守の仕事を手伝った部分を評価されるのだ。そりゃあね、仕事の手伝いよりも、仇討のほうが「感謝されるべき」仕事だよなあ。

12月、山陽郡の鐵官徒・蘇令ら282人が、長吏を殺して、庫兵をぬすみ、みずから将軍を称した。19郡国をめぐり、東郡太守と汝南都尉を殺した。成帝は、丞相長史や禦史中丞に持節させ、追捕させた。汝南太守の嚴訢は、蘇令らを斬った。嚴訢は、大司農にうつった。

ぼくは思う。人数の記録が細かい。そして鎮圧が一瞬!
師古はいう。厳「訢」は「キン」と読む。蘇令を斬った。県令じゃない。
周寿昌はいう。短期間で、19郡国もまわれない。『漢紀』も『通鑑』も19郡国のままだが、おかしい。広すぎる。誤りである。


四年春正月,行幸甘泉,郊泰畤,神光降集紫殿。大赦天下。賜雲陽吏民爵,女子百戶牛、酒、鰥、寡、孤、獨、高年帛。三月,行幸河東,祠後士,賜吏民如雲陽,行所過無出田租。
夏四月癸未,長樂臨華殿、未央宮東司馬門皆災。六月甲午,霸陵園門闕災。出杜陵諸未嘗禦者歸家。詔曰:「乃者,地震京師,火災婁降,朕甚懼之。有司其悉心明對厥咎,朕將親覽焉。」

前13年、成帝は甘泉に行幸して、泰畤を祭った。神光が紫殿に降りて集まった。天下を大赦した。雲陽の吏民に爵位をあたえる。女子は1百戸ごとに牛と酒をあたえる。鰥寡、孤獨、高年な者に、布帛をあたえる。3月、河東にゆき、后土を祭った。雲陽と同じく吏民にあたえ、通過した土地は田租を免除した。

ぼくは思う。祭祀の歴史は、論文でまとめて読むべきだ。いま『漢書補注』にも注釈がないので、言葉どおり読んでスルーする。儒教的な整合性の祭祀は、後退している。

夏4月癸未、長樂の臨華殿と、未央宮の東面の司馬門で火災あり。6月、霸陵園の門闕が火災した。杜陵(宣帝陵)を護衛していない役人を、家に帰した。

前漢は後漢より、圧倒的に火事がおおい。どんな意味が?
先謙はいう。臨華殿は、五行志にある。覇陵門の火災は、五行志にある。
何焯はいう。宣帝を葬ったのは、36年前である。杜陵に住む役人の家のうち、役人の継嗣がない家を帰したのである。

成帝は詔した。「京師の地震と火災は、私の責任である。私への意見を提出せよ。私が目を通そう」と。

又曰:「聖王明禮制以序尊卑,異車服以章有德,雖有其財,而無其尊,不得逾制,故民興行,上義而下利。方今世俗奢僭罔極,靡有厭足。公卿列侯親屬近臣,四方所則,未聞修身遵禮,同心憂國者也。或乃奢侈逸豫,務廣第宅,治園池,多畜奴婢,被服綺□,設鐘鼓,備女樂,車服、嫁娶、葬埋過制。吏民慕效,浸以成俗,而欲望百姓儉節,家給人足,豈不難哉!《詩》不雲乎?『赫赫師尹,民具爾瞻。』其申敕有司,以漸禁之。青、綠民所常服,且勿止。列侯近臣,各自省改。司隸校尉察不變者。」
秋七月辛未晦,日有蝕之。

また成帝はいう。「聖王は礼制を整備して、尊卑の序列をつくる。車服を区別して、秩序とした。しかし奢侈な者は、礼制に違反し、卑賤なのに豪奢な行動をする。列侯や近臣は、みずから改めよ。司隷校尉は、違反する者を取り締まれ」と。

ぼくは思う。統制者から見れば、ポトラッチは危険である。人間は、根源的にポトラッチに傾倒するからこそ、聖王の礼制があるんだなあ。

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成帝紀の下:前12-前07年

元延:前12年-09年、毎年、五畤と后土を祭る

元延元年春正月己亥朔,日有蝕之。三月,行幸雍,祠五畤。
夏四月丁酉,無雲有雷,聲光耀耀,四面下至地,昏止。赦天下。
秋七月,有星孛于東井。詔曰:「乃者,日蝕、星隕,謫見於天,大異重仍。在位默然,罕有忠言。今孛星見於東井,朕甚懼焉。公卿大夫、博士、議郎其各悉心,惟思變意,明以經對,無有所諱。與內郡國舉方正能直言極諫者各一人,北邊二十二郡舉勇猛知兵法者各一人。」封蕭相國後喜為酂侯。
冬十二月辛亥,大司馬大將軍王商薨。是歲,昭儀趙氏害後宮皇子。

前12年、正月巳亥ついたち、日食あり。

先謙はいう。五行志によると、長安の章城門、函谷関の次門で、牡鹿が消えた。ぼくは思う。先謙は、五行志と本紀を合体させるべきだと思っているようです。五行志を見ればわかることも、時系列で補足せずには、いられない。

3月に雍県で五畤を祭る。
4月丁酉、雲がないのに雷。大赦した。7月、彗星が東井に(五行志に詳しい)。成帝は詔した。「公卿や大夫、博士や議郎は、忠言が足りない。公卿と、内地の郡国の長官は、方正で直言極諫する人材を、1名ずつあげよ。北辺の22郡は、勇猛で兵法を知る人を1名ずつあげよ」と。

ぼくは思う。出身地ごとに、あげる人材の種類がちがう。首都圏は政治家、辺境は軍人をつのる。個人の資質は、出身地に左右されるのかなあ。人材を育てる土壌と、その地域から見つけ出す長官の力量と、どちらに規定されるのだろう。

蕭何の子孫・蕭喜を、酂侯にした。

『漢書補注』はいう。蕭「喜」と蕭「嘉」の2種の記述が各書にある。

12月、大司馬・大将軍の王商が薨じた。
この歳、趙飛燕の妹・昭儀の趙氏が、後宮の皇子を殺害した。

成帝の失点は、この趙氏がらみ。男女問題がこじれて、死んだ?らしい。
先謙はいう。外戚伝に詳しい。☆ぼくは思う。見るべきだ。


二年春正月,行幸甘泉,郊泰畤。三月,行幸河東,祠後土。
夏四月,立廣陵孝王子守為王。
冬,行幸長楊宮,從胡客大校獵。宿萯陽宮,賜從官。

前11年、春正月、甘泉にゆき泰畤を祭る。3月、河東にゆき后土を祭る。

先謙はいう。『通鑑』はいう。祭り終わったら、龍門にゆき、歴観に登る。西岳にゆき、成帝は長安にかえる。

4月、廣陵孝王の子・劉守を、王にした。

先謙はいう。『通鑑』では劉「守」だが、劉「宇」とする版本もある。『通鑑考異』では『漢紀』が劉「憲」とするが、『漢書』に従うとある。

冬、成帝は長楊宮にゆき、胡族の客に大いに校猟させた。

校猟とは、禽獣を柵の中に閉じこめて、狩猟をすること。校猟の内容や、登場する史料について、上海古籍450頁。

萯陽宮に宿泊させ、胡客の従官に賜った。

三年春正月丙寅,蜀郡岷山崩,雍江三日,江水竭。二月,封侍中衛尉淳於長為定陵侯。三月,行幸雍,祠五畤。

前10年正月丙寅、蜀郡の岷山が崩れた。崩れた土のせいで、長江が3日せき止められた。

長江が枯れることがあるのか? 極端だなあ。
先謙はいう。五行志によると、江水は逆流した。3日で通じた。

2月、侍中衛尉の淳於長を、定陵侯にした。3月、雍県で五畤を祭る。

よく成帝は、雍で五畤をまつる。甘泉郡や河東郡にいく。渡邉先生のいう「儒教国家」が、まだまだ成立していないことは、成帝紀を読むだけで、よくわかる。


四年春正月,行幸甘泉,郊泰畤。二月,罷司隸校尉官。三月,行幸河東,祠後土。甘露降京師,賜長安民牛、酒。

前09年正月、甘泉で泰畤を祭る。2月、司隷校尉の官をやめた。3月、河東にゆき、后土を祭った。

先謙はいう。五行志によると、隕石が都関に2つある。
ぼくは思う。成帝にとって、泰畤と后土を祭ることは、強迫的な行動である。本紀に書くべきことが、とくになく、ひたすら祭祀をしている。「呪術王」なんて術語でごまかさずに、成帝が何をしようとしたのか、考えないと。『漢書』元后伝、王莽伝などに、政治の記事が移動しているのだろうか。

甘露が京師でふったので、長安の民に、牛酒をたまわった。

綏和:前08-07年、在位25年で死ぬ

綏和元年春正月,大赦天下。二月癸醜,詔曰:「朕承太祖鴻業,奉宗廟二十五年,德不能綏理宇內,百姓怨恨者眾。不蒙天晁,至今未有繼嗣,天下無所系心。觀于往古近事之戒,禍亂之萌,皆由斯焉。定陶王欣於朕為子,慈仁孝順,可以承天序,繼祭祀。其立欣為皇太子。封中山王舅諫大夫馮參為宜鄉侯,益中山國三萬戶,以慰其意。賜諸侯王、列侯金,天下當為父後者爵,三老、孝弟、力田帛,各有差。」又曰:「蓋聞王者必存二王之後,所以通三統也。昔成湯受命,列為三代,而祭祀廢絕。考求其後,奠正孔吉。其封吉為殷紹嘉侯。」三月,進爵為公,及周承休侯皆為公,地各百里。行幸雍,祠五畤。

前08年正月、大赦した。1月、成帝は詔した。「私は25年も、太祖の事業を嗣いで皇帝をやったが、統治できず百姓に怨まれた。継嗣もない。定陶王の劉欣は、私の子である。皇太子とする。

李慈銘はいう。劉欣は、成帝の子の世代である。古代、兄弟の子も「子」という。

劉欣の舅・諫大夫の馮参を、宜卿侯とする。中山国に3万戸をふやす。諸侯王と列侯に金をあたえる。天下で父の爵位の後継となる者に、布帛をあたえる。三老、孝弟、力田にも布帛をあたえる」と。

何焯はいう。成帝は子の世代から後嗣を迎えたが、哀帝は世代を守らない。だから元后は、哀帝のために心を傷めた。
師古はいう。中山国の戸数を増やしたのは、中山の国王を皇帝に取られて、中山国が断絶する怨みを恐れるからである。ぼくは思う。へえ!

また成帝はいう。「王者は二王の後を封じて、天地人の三統に通じるものだ。成湯が受命したとき、夏殷周の3代を封じた。だが3代の祭祀は絶えた。殷室の子孫は、孔子の子孫でもある孔吉が正統である。孔吉を、殷紹嘉侯とする」と。

銭大昭はいう。王者は、2王と自王朝で、2+1=3とする。漢室は周室をつぐ。周室は殷室をつぐ。だから殷周漢の3代である。もし夏室を3代に含めるなら、夏室の子孫を探すべきだが、成帝は探さない。3つめは自王朝なのである。
沈欽韓はいう。成帝の詔では、「殷湯を3王の代わりに封じる(殷湯1つで、3王をまとめたもの見なす)。殷湯を封じるために、殷室の子孫である孔吉を祭る」というロジックである。周や漢を祭る話をしていない。銭大昭は、論点がズレている。
蘇輿はいう。元帝のとき、梅福と匡衡が、孔子の子孫を封じて、殷湯を祭ろうと議論した。この議論が採用されたのだ。『漢書』梅福伝にある。☆

3月、孔吉の爵位を公にすすめた。周承休侯を公にした。封地は1百里である。

夏四月,以大司馬票騎將軍為大司馬,罷將軍官。御史大夫為大司空,封為列侯。益大司馬、大司空奉如丞相。秋八月庚戌,中山王興薨。
冬十一月,立楚孝王孫景為定陶王。定陵侯淳於長大逆不道,下獄死。廷尉孔光使持節賜貴人許氏藥,飲藥死。十二月,罷部刺史,更置州牧,秩二千石。

夏4月、大司馬・票騎將軍の王根を大司馬として、將軍の官をやめた。御史大夫を大司空と改め、列侯に封じた。大司馬と大司空の俸禄をふやし、(将軍号とセットでなくても)俸禄を丞相と同じにした。

如淳はいう。『律』において丞相、大司馬大将軍は、月6万銭である。御史大夫は、月4万銭である。
洪亮吉はいう。大司馬の俸禄を、丞相と同じくするとき、もとから月6万銭だから、増えていない。けだし宣帝の地節3年、大司馬を置いたとき、将軍を冠さなかった。印綬と官属がないから、大司馬の俸禄は減少していたか。いま丞相なみに増やしたか。注引『律』は武帝のときの制度を記しており、成帝期の俸禄を記さない。
百官表はいう。成帝の綏和元年、はじめて大司馬に金印紫綬をたまわる。けだし宣帝のとき、大司馬には印綬がなかった。「武帝期から宣帝期に減少し、成帝期に戻した」のでなく、大司馬は初めから俸禄が少なかったのでは。

秋8月、中山王の劉興が薨じた。11月、楚孝王の孫・劉景を、定陶王とした。

蘇輿はいう。ときに定陶王の劉欣が、皇太子となった。ゆえに別に定陶王を立てた。

定陵侯の淳於長は、大逆不道であるから、獄死した。廷尉の孔光に持節させ、貴人の許氏を服毒死させた。

ぼくは補う。王莽がライバルの淳于長を倒したのだ。
師古はいう。毒死したのは、前に皇后を廃された許氏である。沈欽韓はいう。貴人の称号は、皇后のような位号でないが、なお凡庶とは異なる。貴人の称号は、『漢書』李夫人伝に初出し、後漢では皇后に次ぐ位号となる。
ぼくは思う。後漢の前提を持ちこむと、「貴人は皇后の次位」が当然に思える。しかし前漢では、皇后を廃された者を、他の妻とは区別しながら、仮置きしておく称号なのね。必要が前例をうむパタン。

12月、刺史をやめて、州牧をおいた。秩は二千石だ。

ぼくは思う。後漢末に劉焉がやるのは、これと同じこと。後漢末の人は、『漢書』の後半を読んで、自分の時代と重ね合わせていたにちがいない。『漢書』の結末をにらんで、自分の未来を予測したはずだ。でも『漢書補注』は注釈なし。


二年春正月,行幸甘泉,郊泰畤。二月壬子,丞相翟方進薨。三月,行幸河東,祠後土。丙戌,帝崩于未央宮。皇太后詔有司複長安南北郊。四月己卯,葬延陵。

前07年春正月、成帝は甘泉にゆき、泰畤を祭る。2月、丞相の翟方進が薨じた。3月、河東で后土を祭る。

先謙はいう。五行志はいう。大廐の馬に角がはえた。天水の平襄で、燕が爵をうむ。
ぼくは思う。丞相の翟方進は、列伝を読んでおきたい。☆
成帝の行動記録は、2つしかない。天変地異に反省した詔と、行幸して祭祀した話と。政治の記録がすくない。「荒淫の皇帝」という悪評を形成するためにも、記録が少ない。正体が見えないが、天災の多さから、定型的に振る舞うしかなかったあと理解すれば良いのか。

3月丙戌、成帝は未央宮で崩じた。皇太后は詔して、有司に長安の南北郊を再整備させた。

臣瓚はいう。成帝は20歳で即位して、即位して26年、45歳で死んだ。師古はいう。即位の翌年に改元しており、享年は46歳である。
朱一新はいう。成帝は3歳のとき宣帝が崩じて、元帝の16年をすごした。19歳のとき元帝が崩じて、同年に即位した。年をまたいで改元して、在位は26年。享年は45歳。臣瓚が正しい。20歳のとき即位したのでない。師古の46歳は誤りである。
ぼくは思う。成帝は幼帝のイメージで、ずっと読んでた。本紀の記事が少ないから、年数が経過していることに気づかなかった。わりに立派な年齢まで、それこそ「天寿を全う」して死んだのだ。

4月己卯、成帝を延陵にほうむった。

臣瓚はいう。崩御してから埋葬するまで、54日である。延陵は扶風にある。長安から62里である。沈欽韓はいう。『長安志』に延陵がある。咸陽県の西北15里である。


班固の賛:趙氏と王氏にみだされた皇帝

贊曰:臣之姑充後宮為婕妤,父子昆弟侍帷幄,數為臣言:成帝善修容儀,升車正立,不內顧,不疾言,不親指,臨朝淵嘿,尊嚴若神,可謂穆穆天子之容者矣!博覽古今,容受直辭。公卿稱職,奏議可述。遭世承平,上下和睦。然湛于酒色,趙氏亂內,外家擅朝,言之可為於邑。建始以來,王氏始執國命,哀、平短祚,莽遂篡位,蓋其威福所由來者漸矣!

賛にいう。わたし(班彪)のおばは、成帝の後宮にはいった。父たちは、成帝につかえた。おばや父は、しばしば話してくれた。

同時代史の「うまみ」です。伝聞とはいえ、イキがいい情報だ。

成帝は、天子としての外見や態度をそなえた。『論語』郷党が言うように、馬車で姿勢を正し、きょろきょろせず、軽口せず、臣下を惑わさない。『礼記』が言うように、穆穆たる天子の容子があった。古今の文書を博覧して、直言を聞けた。官職にある公卿は、意見を提出できた。君臣が和睦した。

ちくま訳=師古の注によれば、本文のプラス面の形容は『論語』郷党、『礼記』からの引用である。苦戦して逐語訳しても、報われない。

しかし成帝は、酒色におぼれた。趙氏が宮中をみだし、外戚が朝廷をほしいままにした。外戚の王氏は、つぎの哀帝と平帝のみじかい治世で、政権をにぎる。さいごは王莽が、王氏の手柄の大きさを理由に、漢室をほろぼす。すでに成帝のときから、王莽の受禅が準備されはじめたと。20130122

ぼくは思う。火曜日だけど、会社を休みにしたので、1日で『漢書補注』初挑戦ができた。予想外に読めて安心した。いや、正確には「『三国志』で読めるような種類の記事は同じように読めて、『三国志』で読めないような記事は同じように読めない」ことを確認できた。前者より後者が圧倒的におおい。さらに、前者と後者の境界線を見誤っているかも知れない。読めない部分があるのに、境界線を正しくひくことは、原理的にできない。ともあれ、『漢書』だから読めないのでなく、ぼくの能力不足だから読めない、という、ぼくにとっては仕方がない理由に、頭をぶつけることができた。『漢書』への苦手意識は生じなかった。

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哀帝紀の上:前07-前06年

定陶王となり、中山王とくらべられる

孝哀皇帝,元帝庶孫,定陶恭王子也。母曰丁姬。年三歲嗣立為王,長好文辭法律。元延四年入朝,盡從傅、相、中尉。時成帝少弟中山孝王亦來朝,獨從傅。上怪之,以問定陶王,對曰:「令,諸侯王朝,得從其國二千石。傅、相、中尉皆國二千石,故盡從之。」上令誦《詩》,通習,能說。他日問中山王:「獨從傅在何法令?」不能對。令誦《尚書》,又廢。及賜食於前,後飽;起下,襪系解。成帝由此以為不能,而賢定陶王,數稱其材。

孝哀皇帝は、元帝の庶孫で、定陶恭王の子である。母は丁姬という。3歳で定陶王となった。成長してから、文辞と法律をこのんだ。

荀悦はいう。いみなは劉欣。あざなを「喜」という。応劭はいう。恭仁にして短折した者を「哀」と諡する。
ぼくは思う。法家っぽい皇帝なのかな、と期待させてくれる出だし。

元延四年(前09年)、入朝した。定陶王=哀帝は国許から、傅、相、中尉を、ことごとく従えた。おなじとき、成帝の少弟・中山孝王も、また来朝した。中山孝王は、傅だけをしたがえた。成帝はあやしみ、定陶王にきいた。定陶王はこたえた。
漢の律令では、諸侯王が入朝するとき、自分の国の2千石を、連れてくることができます。傅、相、中尉は、みな2千石です。だから、すべて連れてきました」
成帝は、『詩経』を暗誦させた。定陶王は、うまく暗誦して、意味を言えた。

ぼくは思う。物語としてよくできている。はじめ定陶王で、つぎ中山王がためされる。中山王は、成帝の少帝だ。成帝としては、中山王が勝つとうれしい。

べつの日に成帝は、中山王にも、哀帝にしたのと同じ質問をした。 「おまえが、傅だけを連れてきたのは、どんなルールに基づくのか」と。
中山王は、答えられなかった。

コジツケでいいから、典拠を述べれば、よかった場面である。笑

成帝は、中山王に『尚書』を暗誦させたが、途中で忘れてしまう。成帝は、中山王に食事を与えた。中山王が立つと、襪のヒモがとけた。成帝は、中山王をバカだと思い、定陶王の才能をほめた。

時王祖母傅太后隨王來朝,私賂遺上所幸趙昭儀及帝舅票騎將軍曲陽侯王根。昭儀及根見上亡子,亦欲豫自結為長久計,皆更稱定陶王,勸帝以為嗣。成帝亦自美其材,為加元服而遣之,時年十七矣。
明年,使執金吾任宏守大鴻臚,持節征定陶王,立為皇太子。謝曰:「臣幸得繼父守籓為諸侯王,材質不足以假充太子之宮。陛下聖德寬仁,敬承祖宗,奉順神祇,宜蒙福晁子孫千億之報。臣願且得留國邸,旦夕奉問起居,俟有聖嗣,歸國守籓。」書奉,天子報聞。後月余,立楚孝王孫景為定陶王,奉恭王祀,所以獎厲太子專為後之誼。語在《外戚傳》。

ときに定陶王の祖母・傅太后は、定陶王にしたがって来朝した。祖母は、成帝が気にいっている趙昭儀と、成帝のおじの票騎將軍で曲陽侯の王根に、ワイロした。趙昭儀と王根は、成帝に子がおらず、またみずからの政治的立場をたもつため、定陶王を皇太子におした。

王根は、王莽のおじですね。定陶王=哀帝の即位は、王氏にとって、あとで不利になるはずだったが。ともあれ、祖母の画策で、定陶王は有利になった。

成帝は、定陶王の才能をみとめた。成帝は、定陶王を元服させた。このとき定陶王は、17歳である。

日本史でいう「烏帽子親」ってやつなのか? 養子縁組のニュアンスがあるのだろうか。中国史で、ほかの例を知らないから、比べられない。。

翌年、執金吾の任宏を大鴻臚・持節として、定陶王を迎えにいかせ、皇太子とした。だが定陶王は、辞退した。「私は父をつぎ、定陶国を守ります。皇帝にふさわしくありません。皇太子宮を仮に充たし、長安の国邸にゆくのは遠慮します」と。

胡三省はいう。大鴻臚は、諸侯を掌握する。ゆえに任宏は、大鴻臚を守して、定陶王を迎えにゆく。「守する」とは権限をおびること。
ぼくは思う。定陶王(のちの哀帝)の父は、成帝と皇位をあらそった人である。成帝は、自分が皇帝になったものの、政敵の子をあとつぎにしたい。司馬昭は、司馬師の養子・司馬攸に皇位をわたそうとしたよなあ。
師古はいう。「仮に充たす」とか、太子宮でなく「国邸」に留まるとかいう。これは哀帝が謙譲して、言葉を遠回しにしているのだ。

成帝は、定陶王が辞退したと聞いた。1ヶ月あまりして成帝は、楚孝王の孫・劉景を、定陶王にした。このことは、外戚傳にある。

前07年、哀帝が即位し、外戚の王根が失脚する

綏和二年三月,成帝崩。四月丙午,太子即皇帝位,謁高廟。尊皇太后曰太皇太后,皇后曰皇太后。大赦天下。賜宗室王子有屬者馬各一駟,吏民爵,百戶牛酒,三老、孝弟、力田、鰥、寡、孤、獨帛。太皇太后詔尊定陶恭王為恭皇。
五月丙戌,立皇后傅氏。詔曰:「《春秋》『母以子貴』,奠定陶太后曰恭皇太后,丁姬曰恭皇后,各置左右詹事,食邑如長信宮、中宮。」追尊傅父為崇祖侯、丁父為褒德侯。封舅丁明為陽安侯,舅丁滿為平周侯。追諡滿父忠為平周懷侯,皇后父晏為孔鄉侯,皇太后弟侍中光祿大夫趙欽為新成侯。 六月,詔曰:「鄭聲淫而亂樂,聖王所放,其罷樂府。」

前07年3月、成帝が崩じた。4月丙午、哀帝は即位して、高廟に謁した。皇太后の王氏(王莽のおば)を、太皇太后とした。天下を大赦した。宗室、王子のうち親しくない者に馬4匹をあたえる。吏民には爵位を、1百戸ごとに牛酒をあたえる。三老、孝弟、力田、鰥寡、孤獨な者に布帛をあたえる。王太皇太后は、哀帝の父・定陶恭王を「恭皇」とした。

師古はいう。「有属」とは、親密さが尽くされておらず、なお服従しているような者のこと。ちくま訳では「属籍にある者」とする。ぼくは属する者(従者)がいる者だと思った。4頭だての馬車が必要なのは、従者がいるからでしょ。しかし、これはちがう。
ぼくは思う。皇帝になっていないが、子孫が皇帝になったから、皇帝号を追贈されるパタン。のちに女系の尊号について、王莽とケンカするんだっけ。

5月、皇后に傅氏(傅晏の娘)をたてた。哀帝は詔した。「『春秋公羊伝』隠公元年はいう。子が貴ければ、母も貴くなる。私の祖母を皇太后、母の丁氏を皇后とせよ。左右の詹事をおけ。食邑は、皇后の傅氏を、長信宮(成帝の母である王氏)と同じにせよ。食邑は、母の丁氏を、中宮(皇后)と同じとせよ」と。母系につらなる人物に、爵位をあたえた。はぶく。

応劭はいう。成帝の母・王太后が、長信宮である。李奇はいう。傅姫を長信宮と同じにして、丁姫を中宮=皇后と同じにした。
ぼくは思う。哀帝は、自分の皇后を、前の成帝の母と同じにした。自分の母を、皇后と同じにした。哀帝の皇后は、まぎれもなく皇后だが、成帝の皇后より上(成帝の母と同じ)とした。哀帝の母は、地方の王の妻にすぎないが、前漢の億号と同じにした。どちらも、食邑のランクを成帝よりも上げている。
ぼくは思う。傍流から即位した人は、自分の祖先に、名誉を与えたがる。後漢で、よくおきた現象です。

6月、哀帝は詔した。「春秋の鄭国の声楽は、聖王がやめたものだ。鄭国の声楽をやる、楽府をやめよ」

師古はいう。『論語』で孔子が、鄭国の声楽をやめたとある。
先謙はいう。武帝の元狩3年、楽府をつくる。このとき鄭国の声楽が、儒教の経法にあわないから、やめさせた。それ以外の声楽は、ほかの官署に属した。


曲陽侯根前以大司馬建社稷策,益封二千戶。太僕安陽侯舜輔導有舊恩,益封五百戶,太僕安陽侯舜輔導有舊恩,益封五百戶,及丞相孔光、大司空汜鄉侯何武益封各千戶。 詔曰:「河間王良喪太后三年,為宗室儀錶,益封萬戶。」

曲陽侯の王根は、大司馬として社稷の策を建て、2千戸をふやされた。太僕で安陽侯の王舜にも旧恩があるから、5百戸を増やされた。丞相の孔光、大司空で汜郷侯する何武も、それぞれ1千戸を増やした。

ぼくは思う。王氏以外、それぞれ列伝があるのかな。

詔した。「河間王の劉良は、太后のために3年喪をした。宗室の模範だ。1万戸をふやす」と。

周寿昌はいう。このとき3年喪をやる者がいないから、特別にほめられた。つぎに哀帝が詔する。博士、弟子は、父母が死んだら、3年喪をさせると。これは劉良の錫類の仁である。ぼくは補う。これは公務員の削減。
師古はいう。劉良を「儀表」したとある。礼儀の模範としたという意味である。『漢書補注』はここから用例を載せる。上海古籍460頁。はぶく。


又曰:「制節謹度以防奢淫,為政所先,百王不易之道也。諸侯王、列侯、公主、吏二千石及豪富民多畜奴婢,田宅亡限,與民爭利,百姓失職,重困不足。其議限列。」有司條奏:「諸王、列侯得名田國中,列侯在長安及公主名田縣道,關內侯、吏民名田,皆無得過三十頃。諸侯王奴婢二百人,列侯、公主百人,關內侯、吏民三十人。年六十以上,十歲以下,不在數中。賈人皆不得名田、為吏,犯者以律論。諸名田、畜、奴婢過品,皆沒入縣官。齊三服官、諸官織綺繡,難成,害女紅之物,皆止,無作輸。除任子令及誹謗詆欺法。掖庭宮人年三十以下,出嫁之。官奴婢五十以上,免為庶人。禁郡國無得獻名獸。益吏三百石以下奉。察吏殘賊酷虐者,以時退。有司無得舉赦前往事。博士弟子父母死,予寧三年。」

また哀帝は、詔した。 「奢淫をふせぐのは、君主にとって不変の仕事だ。皇族や官吏の、私有を制限したい。百姓の生業を維持させたい。奴婢や田宅について、私有の上限を話し合え」と。有司は、上奏した。「諸王や列侯が、国許にもっている私田は、30頃を越えさせない。奴婢と吏民の定員も制限する。身分を越えて、たくさん私有する者から、没収しよう。」

何焯はいう。哀帝の限田制である。上海古籍431頁。荀悦『漢紀』も、これと同じ政策を載せる。
ぼくは思う。原文の長さから分かるように、もっと有司は、たくさん述べた。土地の所有について、ぜったい綿密な研究があるでしょう。それを参照すべきだ。いま、およばな理解力をふるい、こまかく訳しません。役人の定数削減もある。

詔はいう。「察吏は、残酷な官僚をやめさせろ。有司は、大赦より前の罪をさばくな。博士、弟子は、父母が死んだら3年喪をして在宅しろ」と。

沈欽韓はいう。大赦の前の罪とは、司隷の解光が、趙氏を告発したことを指すのだろう。三年喪のこと、上海古籍462頁。


秋,曲陽侯王根、成都侯王況皆有罪,根就國,況免為庶人,歸故郡。詔曰:「朕承宗廟之重,戰戰兢兢,懼失天心。間者日月亡光,五星失行,郡國比比地動。乃者河南、潁川郡水出,流殺人民,壞敗廬舍。朕之不德,民反蒙辜,朕甚懼焉。已遣光祿大夫循行舉籍,賜死者棺錢,人三千。其令水所傷縣邑及他郡國災害什四以上,民貲不滿十萬,皆無出今年租賦。」

秋、曲陽侯の王根と、成都侯の王況は、罪があった。王根は任国にかえり、王況は庶人におとされて、魏郡に帰郷した。

先謙はいう。五行志はいう。8月、男子の王褒が剣を帯びて、前殿に侵入した。
銭大昭はいう。王根と王況は、山陵が完成しないのに、酒を置いて歌舞したから、罪とされた。ぼくは思う。 外戚の王氏が、哀帝にのぞかれた。王根になにがあったのか、このとき王莽が、どうしたのか。興味があるので、ほりさげたい。

哀帝は、詔した。「日月が光らず、地震がある。河南と潁川で、洪水があった。光禄大夫を使者にして、被害を調査せよ。死者には1人あたり3千銭の埋葬費をあたえよ。郡国で4割以上の耕地が被災し、民の財産が10万銭に満たなければ、今年の租賦はとるな」と。

先謙はいう。五行志はいう。綏和2年9月丙辰、地震あり。京師から北辺の郡国30で、城郭が壊れた。およそ415人が死んだ。これは本紀に書くべきである。


前06年、外戚王氏の土地は、墓地だけ残して没収

建平元年春正月,赦天下。侍中騎都尉新成侯趙欽、成陽侯趙皆有罪,免為庶人,徙遼西。 太皇太后詔外家王氏田非塚塋,皆以賦貧民。 二月,詔曰:「蓋聞聖王之治,以得賢為首。其與大司馬、列侯、將軍、中二千石、州牧、守、相舉孝弟□厚能直言通政事,延於側陋可親民者,各一人。」 三月,賜諸侯王、公主、列侯、丞相、將軍、中二千石、中都、郎吏金、錢、帛,各有差。 冬,中山孝王太后媛、弟宜鄉侯馮參有罪,皆自殺。

前06年、侍中・騎都尉・新成侯の趙欽と、成陽侯の趙訢は、罪があった。庶人におとされ、遼西にうつされた。

周寿昌はいう。古今注はいう。哀帝元年、芝草が生えた。仲長統はいう。芝草が生えたのは、長楽宮である。群臣が祝って、賜物をもらった。ぼくは思う。霊芝というやつか。
先謙はいう。五行志はいう。正月丁未、10の隕石が、北地にある。
師古はいう。趙欽と趙訢は、みな趙昭儀の兄である。ぼくは思う。なにが起きているか分からないが(ぼくが無知すぎる)哀帝が、敵対勢力を、きびしく裁いていることが分かる。さすが、法家の皇帝です。そして、つぎの行で、恐いことが起こる!

外戚の王氏の田地を、墓地をのぞき、すべて没収した。哀帝は、没収した土地を、貧民にあたえた。2月、哀帝は詔した。「大司馬らは、孝弟かつ惇厚で、直言できる人材で、さらに側陋=卑賤のなかにいて、民に親しむ者のあげよ」と。

師古はいう。卑賤でも、民政のわかる者をつのった。
王念孫はいう。「側陋」の話は、文脈がおかしい。これを削除すると文意がつうじる。ぼくは思う。丞相に「側陋の者を抜擢せよ」と言っても、そんなやつ、知らんなあ。そういう意味で、たしかに文脈があやしい。

3月、諸侯王、公主、列侯、丞相らに、金などを賜った。

先謙はいう。五行志はいう。9月甲辰、虞に隕石2つ。

冬、中山孝王の太后である馮媛(馮奉世の娘)と、その弟で宜郷侯の馮参は、罪があった。自殺させられた。

周寿昌はいう。中山孝王の劉興は、元帝の子である。その母=太后は、元帝の昭儀だった。くわしくは馮奉世伝にある。☆
ぼくは思う。中山王は、哀帝と皇位をあらそった。政敵の後始末である。中山王は、暗誦できないバカ皇族だとされるが、どこまでホントウか分かりません。

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哀帝紀の下:前05-前01年

前05年、漢の哀帝あらため、陳聖劉太平皇帝!

二年春三月,罷大司空,複御史大夫。夏四月,詔曰:「漢家之制,推親親以顯尊尊。定陶恭皇之號不宜複稱定陶。尊恭皇太后曰帝太太後,稱永信宮;恭皇后曰帝太后,稱中安宮。立恭皇廟于京師。郝天下徒。」 罷州牧,複刺史。 六月庚申,帝太后丁氏崩。上曰:「朕聞夫婦一體。《詩》雲:『穀則異室,死則同穴。』昔季武子成寢,杜氏之殯在西階下,請合葬而許之。附葬之禮,自周興焉。『鬱鬱乎文哉!吾從周。』孝子事亡如事存。帝太后宜起陵恭皇之園。」遂葬定陶。發陳留、濟陰近郡國五萬人穿複土。

前05年3月、大司空をやめ、御史大夫にもどす。

先謙はいう。五行志定襄で、牝馬が3本足の馬をうむ。また建平のとき、豫章で男が女にばけた。またいう。大司空をやめたのは、朱博の提案である。☆

4月、成帝が詔した。「漢家のルールでは、親族を大切にする。私の父を、定陶恭皇でなく、恭皇帝とよべ。母系も同じである。恭皇帝の廟を、京師に建てよ。天下の刑徒を赦せ」と。

蘇輿はいう。恭皇帝の立廟は、師丹伝に詳しい。☆
定陶といえば、地方の王だとバレるからだ。敬意がたりない。これで哀帝の血統は、代々ずっと皇帝を出してきたのと同じになった。称号の上では。

州牧をやめて、刺史にもどした。

ぼくは思う。大司空をやめ、州牧をやめた。まえの成帝の政策を、否定している。中央=哀帝に、権力をあつめたのだろうね。『補注』に注釈なし。

6月庚申、哀帝の母・丁氏が死んだ。哀帝はいう。「夫婦は同地に葬るべきだ。『詩経』王風の大車篇、『礼記』檀弓篇にもある。母の丁氏のために、父・恭皇帝の霊園を、定陶につくれ」と。定陶にちかい陳留や濟陰から、5万人を動員し、定陶に父母の陵墓をつくった。

さっき倹約しろと命じたのは、哀帝なのに。傍系から即位した。自分の血筋を、採算を度外視して正統化したがるのは、成帝のホンモノのキャラなのだろうか。それとも、歴史家がつくる、ステレオタイプなのかなあ。


待詔夏賀良等言赤精子之讖,漢家曆運中衰,當再受命,宜改元、易號。詔曰:「漢興二百載,歷數開元。皇天降非材之佑,漢國再獲受命之符,朕之不德,曷敢不通!夫基事之元命,必與天下自新,其大赦天下。以建平二年為太初元年。號曰陳聖劉太平皇帝。漏刻以百二十為度。」

待詔の夏賀良らがいう。「『赤精子』の讖文によれば、漢家の暦運は、200年たって衰退する時期にあたる。天命を受けなおし、改元して、尊号をかえるべきだ」

応劭はいう。高祖は赤龍に感応して生まれた。夏賀良はこれに基づいて讖文をつくった。斉召南はいう。「讖」の文字の初出である。張平子は、讖が哀帝と平帝のころに発生したというが、これは正しい。

哀帝は、太初元年と改元し、陳聖劉太平皇帝となのった。

ちくま訳では「太初元将元年」と書いてあったが、なんだかよく分からない。「元」の字は、「元年」が混ざりこんだようにも見える。これを『補注』上海古籍466頁で検討してる。4字の年号なんて、前例も後例もないが、あったかもなあと。
如淳はいう。「陳」は舜の後裔である。王莽も陳の後裔という。ぼくは補う。袁術も「陳」の子孫であるとした。言い出しっぺは哀帝だったのね!

漏刻のめもりを120とした。

師古はいう。もとは漏刻のめもりは、100にきざんだ。この新しい時計は、斉人の甘忠可がつくったものだ。1時を10刻としたから、120めもりになった。夏賀良が提案した。李尋伝にある。☆
『漢書補注』で時刻について注釈あり。上海古籍466頁。


七月,以渭城西北原上永陵亭部為初陵。勿徙郡國民,使得自安。
八月,詔曰:「待詔夏賀良等建言改元、易號,增益漏刻,可以永安國家。朕過聽賀良等言,冀為海內獲福,卒亡嘉應。皆違經背古,不合時宜。六月甲子制書,非赦令也皆蠲除之。賀良等反道惑眾,下有司。」皆伏辜。 丞相博、御史大夫玄、孔鄉侯晏有罪。博自殺,玄減死二等論,晏削戶四分之一。語在《博傳》。

7月、渭城の西北原にある永陵亭部を初陵とした。郡国の民を、この初陵に移住させない。民を安心させた。

ぼくは思う。前漢では、陵墓のまわりに、強制的に人口が「寄生」せざるを得ない状況をつくるのだが。郡国に混乱を生んでいることを、当局も分かっていたらしい。

8月、詔した。「夏賀良に、だまされた。改元しても、いいこと(嘉應)は起きなかった。夏賀良は、罪がある。大赦をのぞき、撤回する」と。みな罪に服した。

臣瓚はいう。大赦と戒厳により、利益がないから、その結果を怨んだのだ。
ぼくは思う。哀帝の怒りから、かえって哀帝が本気で夏賀良に期待したことがわかる。再受命なんて、よほどの「大改革」だったはずだ。たった2ヶ月で、即効性のある利益がないと、激怒するほどに、期待が大きかった。神秘的なものは、「ウソ」ではないが、扱いが難しい。という話。哀帝のこの判断ミスが、王莽や袁術に、「漢室の滅ぼし方」を教えてしまった。讖文をマジにしたのも哀帝だし、「陳」が漢をつぐと教えたのも哀帝だ。讖文は「哀帝が欲望するから」真実となりました。

丞相の朱博、御史大夫の趙玄、孔郷侯の傅晏は、罪をえた。朱博は自殺した。趙玄は、死2等を減じられた。傅晏は、4分の1の戸数をけずられた。詳しくは朱博伝にある。☆

先謙はいう。『漢紀』では趙玄は死2等、『通鑑』では死3等を減じられる。胡三省はいう。3等を減じられたら「隷臣妾」である。傅晏は5千戸を封じられていたから、1250戸を削られた。
ぼくは思う。朱博伝を読まねばなるまい。失脚の記事、多いなあ。


前04-03年、西王母が来るぞとパニクる

三年春正月,立廣德夷王弟廣漢為廣平王。癸卯,帝太太後所居桂宮正殿火。三月己酉,丞相當薨。有星孛於河鼓。夏六月,立魯頃王子□鄉侯閔為王。
冬十一月壬子,複甘泉泰畤、汾陰後土祠,罷南、北郊。東平王雲、雲後謁、安成恭侯夫人放皆有罪。雲自殺,謁、放棄市。

前04年正月、廣德夷王の弟・劉廣漢を廣平王とした。正月癸卯、哀帝の祖母の宮殿・桂宮正殿が、焼けた。

先謙はいう。五行志はいう。東莱の平度で、大魚がでた。

3月己酉、丞相の平当が薨じた。河鼓に彗星がでた。夏6月、魯頃王の子・ゴ郷侯の劉閔を、魯王とした。

蘇林はいう。吾βは、音は「魚」ギョである。県名で、東海郡に属する。師古はいう。音は「吾」ゴである。先謙はいう。魯頃王の子・文王の劉晙が薨じた。後嗣がないから、劉閔がついだ。

冬11月、甘泉で泰畤、汾陰で後土を祭った。南北郊をやめた。

ぼくは思う。まえの成帝は、泰畤と后土を、毎年やっていました。

東平王の劉雲、劉雲の后である謁、安成恭侯(王崇=王莽のおじ)の夫人の放は、みな罪をえた。劉雲は自殺した。謁と放は棄市された。

文頴はいう。恭侯の王崇は、王太后の弟である。先謙はいう。詳しくは『漢書』息夫躬伝にある。☆


四年春,大旱。關東民傳行西王母籌,經歷郡國,西入關至京師。民又會聚祠西王母,或夜持火上屋,擊鼓號呼相驚恐。二月,封帝太太後從弟侍中傅商為汝昌侯,太后同母弟子侍中鄭業為陽信侯。 三月,侍中駙馬都尉董賢、光祿大夫息夫躬、南陽太守孫寵皆以告東平王封列侯。語在《賢傳》。

前03年春、日照あり。関東の民が、西王母がくるとウワサし、文書が郡國をまわった。関所をとおり、長安に入った。或者は火を持って建物をのぼり、ある人は太鼓をうった。驚き恐れた。

師古はいう。西王母とは、王元后の寿考之象である。王莽が簒奪する前兆である。先謙はいう。王元后とは関係がない。
ぼくは思う。こういう革命が「母性」が起源となると、説得力をもつのが面白い。皇帝は陽性、民衆は陰性とすると、民衆は女性にひかれる。民衆の反乱は、陰性からおこる。黄巾は、陽性の儒教に対して、陰性の黄老だった。
王念孫はいう。五行志はいう。建平4年正月、民は驚き走った。つぎに2月の記事(侍中の傅商を汝昌侯とする)があるから、これは正月の記事であることが明らかである。『漢紀』哀帝孝でも正月とある。
ぼくは思う。2年前に夏賀良から「天命を受けなおせ」という進言があった。王莽がいようが、いまいが、世論は前漢の行き詰まりを感じていたらしい。なぜか。どうしてか。後漢末を読むときに、ぜったいヒントになると思うので、理解をふかめたいなあ。

2月に哀帝は、祖母の從弟・侍中の傅商を、汝昌侯とした。母の同母弟の子・侍中の鄭業を、陽信侯とした。

ぼくは思う。哀帝が頼れるのは、じぶんの外戚です。哀帝は、まえの成帝の外戚・王氏をつぶしつつ、外戚というポジションそのものを、政治から除こうとしたのではない。外戚のあつかいは、後漢の初期から、注目されたテーマだった。前漢からのつながりを知ると、後漢前期の皇帝のあたまの中も、分かるかも?

3月、前年に東平王・劉雲を告発した者が、列侯に封じられた。侍中・駙馬都尉の董賢、光祿大夫の息夫躬、南陽太守の孫寵である。詳しくは董賢傳にある。☆

本紀がリンクを貼っている。読まねばなるまい。


夏五月,賜中二千石至六百石及天下男子爵。六月,尊帝太太後為皇太太後。秋八月,恭皇園北門災。冬,詔將軍、中二千石舉明兵法有大慮者。

5月、中2千石から6百石と、天下の男子に爵位をあげた。

先謙はいう。五行志はいう。4月、山陽の湖陵で血がふる。

6月、帝太太后をとうとび、皇太太后とした。

「帝」より「皇」が上? 分からんが、外戚だのみで必死。

8月、恭皇(哀帝の父)園の北門が焼けた。同年に冬、哀帝は、将軍と中二千石に命じて、兵法に明るく、大慮のある人を推薦させた。

ぼくは思う。この募集の要件ははじめて。本紀には、軍事トラブルは載っていない。異民族とも、うまくいっているはず。西王母のパニック対策?
先謙はいう。この募集は、息夫躬の提案である。


前02年、日食でおちこんだ上、哀帝の祖母が死ぬ

元壽元年春正月辛醜朔,日有蝕之。詔曰:「朕獲保宗廟,不明不敏,宿夜憂勞,未皇寧息。惟陰陽不調,元元不贍,未賭厥咎。婁敕公卿,庶幾有望。至今有司執法,未得其中,或上暴虐,假勢獲名,溫良寬柔,陷於亡滅。是故殘賊彌長,和睦日衰,百姓愁怨,靡所錯躬。乃正月朔,日有蝕之,厥咎不遠,在餘一人。公卿大夫其各悉心勉帥百寮,敦任仁人,黜遠殘賊,期於安民。陳朕之過失,無有所諱。其與將軍、列侯、中二千石舉賢良方正能直言者各一人。大赦天下。」丁巳,皇太太後傅氏崩。三月,丞相嘉有罪,下獄死。 秋九月,大司馬票騎將軍丁明免。孝元廟殿門銅龜蛇鋪首鳴。

前02年正月辛丑ついたち、日食あり。哀帝は詔した。「日食は、私1人の責任だ。公卿と大夫は、任務を果たせ。将軍、列侯、中2千石らは、賢良方正で直言できる人材をあげよ。天下を大赦せよ」
正月丁巳、哀帝の祖母の傅氏が死んだ。4月、丞相の王嘉が、罪をえて、獄死した。9月、大司馬・票騎將軍の丁明を免じた。

周寿昌はいう。百官志では、9月に大司馬の丁明を免じる。11月、韋賞が大司馬、車騎将軍となり、卒する。12月、陶謙が大司馬、衛将軍となると。☆韋玄成伝はいう。韋賞は『詩経』に明るく、哀帝が定陶王のとき、韋賞が太傅となった。哀帝が即位すると、旧恩によって、大司馬と車騎将軍となる。だが、☆董賢伝によると、丁明が罷免されると、すぐに董賢が着任する。
先謙はいう。韋賞の在任は、ただの8日である。11月壬午に着任、己丑に卒した。だから本紀は、省略したのだ。

元帝の廟の門につけた、銅製のヘビとカメが、鳴いた。

ぼくは思う。ちくま訳は「鳴き叫んだ」とある。しかし原文は「鳴」だ。「カーン」とか「キュ」とか、だけかも。っていうか、ヘビとカメって、なんて鳴くのか?よく「銅人が鳴りひびいた」という話ならあるのだが。
銅製品は、鳴って王朝の衰退をつげる。王朝の評判を、落とすことはあっても、高めることはない。銅製品を、建造してはならない。


前01年、官制改革の途中に、哀帝は死ぬ

二年春正月,匈奴單于、烏孫大昆彌來朝。二月,歸國,單于不說。語在《匈奴傳》。 夏四月壬辰晦,日有蝕之。五月,正三公官公職。大司馬衛將軍董賢為大司馬,丞相孔光為大司徒,御史大夫彭宣為大司空,封長平侯。正司直、司隸,造司寇職,事未定。六月戊午,帝崩于未央宮。秋九月壬寅,葬義陵。

前01年、匈奴の単于と、烏孫の大昆彌が来朝した。2月、帰国した。単于は悦ばず。匈奴伝にある。☆

沈欽韓はいう。『東観記』で梁統が書状にいう。元寿2年、三輔の盗賊がおこり、茂陵の都邑が焼けた。煙火は、未央宮から見えた。かつてないことだ。のちに隴西、北地、西河などで、反乱がおきて郡の庫兵が劫略された。北地で起兵したのは、任横である。国家は封侯に追捕させたが、成果があがらなかった。沈欽韓が考えるに、任横のことは、平帝紀の元始のころだ。
ぼくは思う。三輔の周辺は、もう反乱。前漢末、すでにこんな状態。
李慈銘はいう。『後漢書』光武帝紀で、哀帝の元寿2年に、刺史から州牧にもどしたとある。しかし哀帝紀にない。書きモレである。

4月壬申みそか、日食した。
5月、三公の職掌を整理した。大司馬・衛將軍の董賢を、大司馬とした。丞相の孔光を、大司徒とした。御史大夫の彭宣を、大司空として、長平侯に封じた。司直、司隸を見直し、司寇を設置しようとしたが、制定に到らず。

先謙はいう。胡三省は三公の職掌をのべる。はぶく。
師古はいう。司直、司隷は、漢制にあるものだから、制度の変更である。司寇は漢制にないから、新設である。『補注』の解説が、上海古籍472頁にある。はぶく。

6月戊午、哀帝は未央宮で崩じた。

臣瓚はいう。哀帝は20歳で即位して、即位6年間。25歳だった。師古はいう。即位の翌年に改元したから、26歳である。
銭大昭はいう。哀帝は、13歳で定陶王をつぎ、元延4年に入朝した。17歳だった。翌年に皇太子となり、その翌年に即位した。即位は19歳であろう。年をまたいで改元した。享年は25歳である。朱一新はいう。臣瓚は改元をふくめたのだから、20歳の即位は誤りでない。
ぼくは思う。皇帝の年齢は、いつも数え間違えるなあ!皇帝が死ぬと、年齢の注釈があるのだが、いつに何歳で何をした、ということに関する注釈が、どちらも大モメにモメてた。改元などで混乱する。西暦などの通し番号がないと、数えるのが難しいらしい。曹叡の年齢が分かりにくいのも、仕方ないか。
ぼくは思う。そもそも西暦のような通し番号をつけていない時点で、「トータルで何年」を数える要請が小さかったのだと思う。史料家があとから検討すれば良いことで、生きているあいだは、あまり関係ない。クロノスの時間よりもカイロスの時間が流れている。ぼくらだって、西暦に縛られているようで、じつは通し番号は「人為的」で不自然なカウントなんだろう。通し番号で数えるときは、大抵は気が滅入る場合である。

9月壬寅、義陵に葬った。

臣瓚はいう。死んでから105日で葬った。義陵とは、扶風にある。長安から46里である。先謙はいう。『通鑑』では冬10月壬寅とする。『通鑑考異』が月を改変した理由をのべる。臣瓚が検討すると、『通鑑』が正しい。10月である。


班固の賛:藩国のウツワしかなかった

贊曰:孝哀自為籓王及充太子之宮,文辭博敏,幼有令聞。賭孝成世祿去王室,權柄外移,是故臨朝婁誅大臣,欲強主威,以則武、宣。雅性不好聲色,時覽卞射武戲。即位痿痹,末年B056劇,饗國不永,哀哉!

班固の賛はいう。哀帝は、定陶王から皇太子にうつった。文辞は、ひろく敏く、幼いときから令聞があった。哀帝は、外戚や大臣を誅して、武帝や宣帝にのっとった。だが、皇帝になってからは、しびれがきて、長持ちしなかった。哀しいなあ。130123

「痿痹」を、ちくま訳は「萎縮して」とする。定陶王としては自信たっぷりでも、皇帝には通用しない。ありえる話で、分かりやすい。まえの成帝の後継が、中山王か、この哀帝かの二択だったのだから、仕方ないか、、

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平帝紀の全:前01-後05年

前01年:9歳の平帝が、王氏に迎えられる

孝平皇帝,元帝庶孫,中山孝王子也。母曰衛姬。年三歲嗣立為王。元壽二年六月,哀帝崩,太皇太后詔曰:「大司馬賢年少,不合眾心。其上印、綬,罷。」賢即日自殺。新都侯王葬為大司馬,領尚書事。秋七月,遣車騎將軍王舜、大鴻臚左鹹使持節迎中山王。辛卯,貶皇太后趙氏為孝成皇后,退居北宮,哀帝皇后傅氏退居桂宮。孔鄉侯傅晏、少府董恭等皆免官爵,徙合浦。九月辛酒,中山王即皇帝位,謁高廟,大赦天下。

孝平皇帝は、元帝の庶孫である。中山孝王の子である。母は衛姬という。3歳で、中山王に立てられた。

荀悦はいう。平帝は劉カン、字曰く楽。応劭はいう。布綱治紀を「平」という。
陳景雲はいう。外戚伝に従えば、中山王になったのは2歳である。7年後に、平帝紀で「9歳で皇帝となる」とあるから、2歳とすべきだ。
ぼくは思う。いとこの哀帝は、3歳で定陶王になった。

元壽2年(前01年)6月、哀帝が報じた。太皇太后の王氏は詔した。「大司馬の董賢はわかく、民衆を統治できない。大司馬の印綬をかえして辞めろ」と。董賢は、その日のうちに自殺した。

董賢は、王氏の対立してる。列伝を読むべし。ぼくは思う。王元后の詔は、ただの適任、不適任の話でない。政治的な敗北の結果、この詔が出たのだろう。

新都侯の王葬は、大司馬となり、尚書事を領した。

やっと、出てきました! 真打登場。

7月、車騎將軍の王舜と、大鴻臚の左咸に節を持たせ、中山王を迎えさせた。
7月辛卯,皇太后の趙氏をランクダウンし、孝成皇后とした。哀帝の皇后である傅氏を、居桂宮にしりぞけた。

師古はいう。北宮および桂宮は、長安城中にある。だが未央宮の中にない。周寿昌はいう。北宮は、皇后を廃された者が居住する。恵帝の張皇后は、北宮にいた。ゆえに哀帝の趙太后を北宮にうつした。孔光伝☆はいう。孔光は「定陶太后=趙太后は、北宮を改築せよ」という。何武も「趙太后は北宮にいろ」という。北宮は未央宮と道がつながっているから、傅太后は朝夕に皇帝のところにいく。長安のなかの地理について、上海古籍476頁。成帝が太子のとき、はじめ桂宮にいた。のちに傅太后が桂宮にいた。哀帝の建平3年、帝太太の居住する桂宮の正殿で出火した、とある。

孔郷侯の傅晏、少府の董恭らを、官爵を免じて合浦にうつした。

師古はいう。董恭は董賢の父である。銭大昭はいう。公卿表はいう。建平4年、光禄大夫の董恭が少府となる。元寿元年、衛尉にうつる。同年2月、光禄大夫となると。いま董恭を少府というが、光禄大夫のはずである。あるいは光禄大夫のことを指して、少府と本紀が記したのか。

9月辛酉に、中山王は即位して、劉邦の高廟にもうでた。大赦した。

劉フンはいう。辛酉とは、哀帝の死去から64日が経過している。ぼくは思う。平帝の人選は、自明でなかったのね。哀帝の死去が突然すぎて、困った上に、つぎの皇帝の適任者がいなくて、モメたのだろう。王莽政権を知るために、この64日に意味を与えねば。単なる中山への往復の時間だろうか。


帝年九歲,太皇太后臨朝,大司馬莽秉政,百官總己以聽於莽。詔曰:「夫赦令者,將與天下更始,誠欲令百姓改行潔己,全其性命也。往者有司多舉奏赦前事,累增罪過,誅陷亡辜,殆非重信慎刑,灑心自新之意也。及選舉者,其曆職更事有名之士,則以為難保,廢而弗舉,甚謬於赦小過舉賢材之義。諸有臧及內惡未發而薦舉者,勿案驗。令士厲精鄉進,不以小疵妨大材。自今以來,有司無得陳赦前事置奏上。有不如詔書為虧恩,以不道論。定著令,佈告天下,使明知之。」

平帝は9歳なので、王太皇太后が臨朝した。大司馬の王莽が秉政した。百官は、すべて王莽に、決裁をあおいだ。王氏は詔した。「赦令とは、天下を更始して、過去を洗い流すものだ。『論語』で孔子が政治について聞かれ、仲弓に回答した。小さな過失を赦し、賢い人材を挙げよと。選挙する者は、わずかな前科を理由にして、有能な人材を除外するな」

何焯はいう。王莽が過剰な恩義をあたえるのは、自分のために働かせるためだ。曹操も「清廉な人士だけを採用していては、斉桓ですら結盟の指導者になれない」という。簒奪したい者は、この種類の政策をおこなう。鶏鳴のような下らない人材を集めて、簒奪のために働かせるのだ。


後01年:王莽の善政のはじまり、経済対策

元始元年春正月,越裳氏重譯獻白雉一,黑雉二,詔使三公以薦宗廟。
群臣奏言大司馬莽功德比周公,賜號安漢公,及太師孔光等皆益封。語在《莽傳》。賜天下民爵一級,吏在位二百石以上,一切滿秩如真。立故東平王雲太子開明為王,故桃鄉頃侯子成都為中山王。封宣帝耳孫信等三十六人皆為列侯。

元始元年(後01年)正月、越の裳氏が、通訳をかさねて朝貢した。白いキジ1羽と、黒いキジ2羽を献上した。三公に詔して、キジを宗廟にそなえた。

師古はいう。越裳は、南方の遠国である。先謙はいう。王莽は、益州の塞外にいる蛮夷に風して、キジを献上させた。

郡臣が「王莽の功徳は、周公とおなじ」と云った。王莽は、安漢公の号をもらった。太師の孔光らは、みな封戸が増えた。王莽伝にある。天下の民に爵1級をあたえる。2百石以上の吏には、「真」の待遇である、満額の秩禄をあたえた。

曹操が魏公になるとき、安漢公は絶対に意識されたはずだ。
如淳はいう。官吏が初めて任命されると、1年は「試」用期間であり、1年後に「真」の待遇となり、満額の秩禄をもらえた。平帝が即位したので、年が改まって1年が経過したとカウントして、「真」の待遇の秩禄をあたえた。
師古はいう。如淳はちがう。まだ「試」用期間の者にも、特別に加恩して、満額を支払ったのだ。みなの「試」用期間を終わらせたのでない。王莽が権力を確立するために、ルールとは異なる支払をしたのだ。
劉フンはいう。吏に就くと、職名はつけられるが、満額の秩禄はもらえない。平帝が即位したとき、満額が支払われた。たとえば「2千石」の官職にあれば、2千石がもらえた。
沈欽韓はいう。『公羊伝』隠公3年に何休は注釈する。父の死後、すぐに父の官職を襲うのは忍びない。だから1年は「試」用期間をつくり、あとで宗廟にて「真」に命じられると。漢代の制度は、「亡父に忍びない」という考え方に基づく。

もと東平王の劉雲の太子・劉開明を、東平王とした。もと桃郷頃侯の子・劉成都を、中山王とした。

先謙はいう。胡三省はいう。平帝が皇帝をついだので、劉成都に中山王を嗣がせたのだ。斉召南はいう。成帝が定陶王から皇太子になったので、楚王の孫・劉景に定陶王を嗣がせた。これと同じである。先謙はいう。劉開明をたてて、東平王の冤罪をすすぎ、衆望を獲得したのだ。ぼくは思う。東平王って、冤罪で死んで断絶したっけ。

宣帝の耳孫である劉信ら36人を、みな列侯に封じた。

先謙はいう。本紀では元年だが、王莽伝では五年の記事である。『通鑑考異』は王子侯表により、王莽伝が誤りという。みな元年2月丙辰に封じられている。
胡三省はいう。劉恢ら15人は、みな2月丙辰に封じられる。だが36人もいない。また劉信の名が王子侯表にない。けだし李恢らは、宣帝の曽孫である。耳孫でない。先謙はいう。『漢紀』では、宣帝の玄孫の劉信、とする。世代の表記が一致しない。
ぼくは補う。ちくま注釈によれば「耳孫」とは、玄孫の子。もしくは玄孫の曾孫。耳に聞くだけで、血縁がとおい子孫をさす。
ぼくは思う。王莽は、前漢の皇族をおおく封じた。曹操と同じだ。曹操は、献帝の皇子たちを、たくさん封じてやった。許靖だかに「曹操は、漢室をうばおうと思うから、ぎゃくに与えたのだ」とコメントされた。曹操の真意は知らんが、王莽のマネではある。


太僕王惲等二十五人前議定陶傅太后尊號,守經法,不阿指從邪;右將軍孫建爪牙大臣,大鴻臚鹹前正議不阿,後奉節使迎中山王;及宗正劉不惡、執金吾任岑、中郎將孔永、尚書令姚恂、沛郡太守石詡,皆以前與建策,東迎即位,奉事周密勤勞,賜爵關內侯,食邑各有差。賜帝征即位所過縣邑吏二千石以下至佐史爵,各有差。又令諸侯王、公、列侯、關內侯亡子而有孫若子同產子者,皆得以為嗣。公、列侯嗣子有罪,耐以上先請。宗室屬未盡而以罪絕者,複其屬。其為吏舉廉佐史,補四百石。天下吏比二千石以上年老致仕者,參分故祿,以一與之,終其身。遣諫大夫行三輔,舉籍吏民,以元壽二年倉卒時橫賦斂者,償其直。義陵民塚不妨殿中者勿發。天下吏民亡得置什器儲□。

王莽は、哀帝にあらがい、平帝をたすけた人を、関内侯にした。
太僕の王惲ら25人は、まえに傅太后の尊號を検討したとき、哀帝におもねらず、経法を守って反対した。右將軍の孫建は、爪牙たる大臣である。大鴻臚の左咸も、哀帝におもねらず、持節して平帝を中山に迎えた。
宗正の劉不惡、執金吾の任岑、中郎將の孔永、尚書令の姚恂、沛郡太守の石詡は、関を東に出て平帝を迎えた。関内侯になった。平帝が即位するとき、中山から長安のあいだで通過した県邑の吏を、2千石以下から佐吏にいたるまで、爵位をあげた。

ぼくは思う。個別の人名を、チェックしたい。通過した県は、行程をバックアップしたという功績だろう。成帝-哀帝-平帝は、ともに政権交替だった。血なまぐさいのも、仕方がない。哀帝期が特異で浮いているのね。

諸侯、公、列侯、関内侯で断絶した者は、子がなければ孫、孫がなければ兄弟の子に嗣がせた。公や列侯の嗣子のうち、耐罪より軽い者は、罰しない。宗室のうち、罪により属籍を除かれた者を、属籍にもどした。その宗室の吏を廉佐史に挙げ、4百石に補した。

師古はいう。宗室のうち吏となる者を、みな廉にあげさせ、本秩どおりにした。廉吏として佐史に遷った者は、4百石とした。
ぼくは思う。如淳、顔師古、ちくま訳があるが、官制をよく分かっていないので、後日でなおします。ともあれ、宗室の劉氏が、爵位が途切れないように、たかい官職につけるように、優遇した。王莽が劉氏に加恩しているのは、よくわかった。

引退した吏2千石以上に、老後の生活資金として、秩禄の3分の1をくばる。諫大夫を三輔をめぐらせ、吏民の戸籍を提出させ、哀帝が死んだ元寿2年に行った過剰な徴税分を、還付させた。義陵=哀帝陵にある民塚のうち、哀帝の殿中(哀帝の殿屋をかたどる陵墓の施設)のジャマにならないものは、あばいて移動させない。

如淳はいう。陵墓の上には、生前の殿屋をかたどった施設をつくる。殿中という。
ぼくは思う。王莽は「哀帝の陵墓の完成度をあげる」よりも、「民塚を保全する」ことを選んだ。つまり、政敵である哀帝をおとしめつつ、ここに先客として祭られた民塚を保全して、民たちに加恩した。

天下の吏民に、什器を備蓄させない。

師古はいう。軍法で、5人で「伍」といい、10人で「什」という。10人で1つの器物を共有して火を起こすので、この器物を「什器」という。
ぼくは思う。天下の吏民が、よぶんな備蓄を持たず、吐き出して共有しましょう、ということか。災害のとき、自分だけ買い占める人がいるように。ところで「什器」という名称そのものに、「同部隊の10人=みなで共有して使うもの」という意味がこめられる。「什器を私蔵する」って、矛盾なんだなあ。


二月,置羲和官,秩二千石;外史、閭師,秩六百石。班教化,禁淫祀,放鄭聲。乙未,義陵寢神衣在柙中,丙申旦,衣在外床上,寢令以急變聞。用太牢祠。
夏五月丁巳朔,日有蝕之。大赦天下。公卿、將軍、中二千石舉敦厚能直言者各一人。六月,使少府左將軍豐賜帝母中山孝王姬璽書,拜為中山孝王后。賜帝舅衛寶、寶弟玄爵關內侯。賜帝女弟四人號皆曰君,食邑各二千戶。封周公後公孫相如為褒魯侯,孔子後孔均為褒成侯,奉其祀。追諡孔子曰褒成宣尼公。罷明光宮及三輔馳道。

後01年2月に王莽は、羲和の官をおいた。秩は二千石だ。外史、閭師をおき、秩は六百石だ。教化をひろめ、淫祀を禁じ、鄭の声楽をやめた。

先謙はいう。「羲和」は初めて設置された。劉歆伝☆で、劉歆が提案する。莽新では、大司農を改めて、羲和とする。
応劭はいう。『周礼』で「閭師」は四郊の民をつかさどる。ときに民から賦を徴する。蘇輿はいう。「外史」もまた周官である。夏官の外史は、書外令をつかさどる。

2月乙未、哀帝を葬った義陵の寢神で、ひとりでに衣がゆかに出た。管理者である寝令は、非常時であるから、太牢をそなえた。

周寿昌はいう。『漢武故事』はいう。高廟のなかで、おのずと衣がハコから出て、殿上を舞った。『漢書』王莽伝で、宣帝を葬った杜陵の便殿、乗輿にて、虎もようの衣が出てきて立つ。しばらくして地に倒れた。武帝、宣帝、哀帝の陵墓でおきた衣の事件は、よく似ている。
ぼくは思う。「衣」とは、人間の象徴、とりわけ社会的地位の象徴だと思う。何者でもないナマモノの人間は、制度にそった衣服をつけて、社会的地位を明らかにする。いま前漢の皇帝たちは、ナマモノの身体を失ったが、象徴的な衣として立ち、現代の政治を見ているのだ。
ぼくは思う。『漢武故事』という本があるのね。『魏武故事』なら『三国志』の注釈に出てきますね。じつは曹操は、前漢の武帝の「つぎ」の武帝なのです。光武帝をのぞけば。『諡法』準拠であろうが、曹丕の時代に、曹操を前漢の武帝と比べる連想があったはず。不可避のはず。曹操に向けられた視線を考えると楽しいかも。

5月丁巳みそか、日食した。大赦した。敦厚で直言する人材をつのった。
6月、少府・左將軍の甄豊をやり、平帝の母系の親族に爵位や食邑をおくらせた。平帝の母に璽書をおくり、中山孝王后とした。平帝の姉妹4人を「君」として食邑2千戸ずつ。

周寿昌はいう。百官表によると、元始2年4月、少府・左将軍の甄豊を大司空とした。だがここでは少府が正しい。『漢書』中山衛姫伝も、大司空でなく少府とする。
周寿昌はいう。中山衛姫伝では、平帝の3人の姉妹が「君」となる。王莽伝もおなじ。4人とは誤りである。『通鑑』は3人、『漢紀』は平帝紀に釣られて』4人とする。

周公の子孫・公孫相如を、襃魯侯とした。孔子の子孫・孔均を、襃成侯とした。祖先を祭祀させた。孔子を尊んで「褒成宣尼公」とした。

先謙はいう。『通鑑』では、魯頃公の8世孫の公子寛を襃魯侯とする。孔均とは、孔覇の曽孫である。銭大昭はいう。「宣尼」の号は、初出である。

明光宮と、三輔の馳道をやめた。

ぼくは思う。『補注』に注釈なし。なんだろ。


天下女徒已論,歸家,顧山錢月三百。複貞婦,鄉一人。置少府海丞、果丞各一人;大司農部丞十三人,人部一州,勸農桑。
太皇太后省所食湯沐邑十縣,屬大司農,常別計其租入,以贍貧民。秋九月,赦天下徒。以中山苦陘縣為中山孝王后湯沐邑。

天下の女の刑徒のうち、すでに罪状が定まった(=論じた)者を、家に帰した。顧山して(労務刑として、女の刑徒が山で木を伐採する代わりに、伐採する者を雇う費用として)月3百銭をおさめることが、家に帰る条件である。

如淳はいう。女子の犯罪者は、山に6ヶ月ゆき労務刑をする。いま王莽は、人を雇って労務刑を代行させるのを赦した。師古はいう。詔をだす王元后は女性なので、女性にやさしい。沈欽韓はいう。楊惲伝☆はいう。「富める郎は銭を出す。山郎という」と。これも労務刑の代行者を、カネで雇うのだから、いまの政策と同じである。男性と女性の違いはあるが。
ぼくは思う。もともとカネで解決できたんだろうが、3百銭というのが、加恩を感じられるほどに安いのだろう。実質的には、労務刑をやすい罰金に代えたのだ。

少府に、海丞(海の税金をみる)果丞(果実の税金をみる)を1人ずつ、おいた。大司農に、部丞13人をおいて、1人1州を担当させ、農桑を勧めさせた。

先謙はいう。『通鑑』で胡三省はいう。武帝のとき、桑弘羊は大司農の部丞を数十人おく。郡国を分けて部した。均輸と塩鉄をつかさどる。いま13人をおき、1州ずつ見させた。ぼくは思う。郡国に数十人から、13人のみ。行政組織が、武帝のときより確立したから、13人だけで良いのだろう。
ぼくは思う。山税、海税、果税、農業と桑業。王莽の経済政策は、論文が多そうだが、、とりあえず財政を立てなおしたと理解して、誤りじゃなかろう。

太皇太后の王氏は、10県を大司農にかえした。大司農に返却された王氏の収入は、前漢の租税の収入として、貧民にわけた。
秋9月、天下の刑徒を赦した。中山の苦陘県を、中山孝王后の湯沐邑とした。

ぼくは思う。平帝の母に、食邑を増やした。少し前に、王莽のおば・元后の食邑を減らしたばかりだ。「王氏が損をして、平帝が得をした」という理解は誤りだと思う。「王氏は与える者、平帝の親族は与えられる者」である。平帝の親族は、受納することによって、かえって政権を主催する側の地位を得られない。


後02年:前漢の功臣の子孫を封じ、江湖が叛乱

二年春,黃支國獻犀牛。詔曰:「皇帝二名,通於器物,今更名,合于古制。使太師光奉太牢告祠高廟。」
夏四月,立代孝王玄孫之子如意為廣宗王,江都易王孫盱台侯宮為廣川王,廣川惠王曾孫倫為廣德王。封故大司馬博陸侯霍光從父昆弟曾孫陽、宣平侯張敖玄孫慶忌、絳侯周勃玄孫共、舞陽侯樊噲玄孫之子章皆為列侯,複爵。賜故曲周侯酈商等後玄孫酈明友等百一十三人爵關內侯,食邑各有差。

後02年、黄支國は、犀牛を献上した。

応劭はいう。黄支は、日南の南にある。京師から3万里だ。師古が「サイ」の描写をする。上海古籍482頁。ぼくは思う。サイを動物園で見たことがあるから、ぎゃくに漢文での表現がおもしろい。
先謙はいう。王莽は王を厚遇して、使者を長安に来させた。

王氏は詔した。「平帝の名『箕子』は、器物につうじる。カンと改名する」

ぼくは思う。皇帝の名前は、忌まねばならん。つかう頻度がたかい文字だと、万民が迷惑なのだ。そとから入った皇帝が、たびたび犯すあやまち。

4月、代王の子孫を広宗王に、江都王の子孫を広川王に、広川王の子孫を広徳王にする。霍光、張敖、周勃、樊噲の子孫を、列侯にした。酈商の子孫を、関内侯にした。113人が関内侯となり、それぞれ食邑をもらう。

『漢書』諸侯王表から、血筋か過去の経緯をのせる。上海古籍483頁。はぶく。『通鑑』は本文中の霍光の子孫らを含めて、合計で117人とする。荀悦『漢紀』は130人というが、誤りである。
ぼくは思う。王莽は、前漢の皇族だけでなく、前漢の功臣の子孫にも加恩した。皮肉なことに、王莽が執政する平帝の時点で、前漢はもっとも「きれい」で完成した形態となる。前漢の歩んできた歴史が、国土の上に整合的に表現されている。紆余曲折が「消毒」かつ「省略」されて、前漢があるべき姿となっている。この「きれい」とは、物理で暗記させられる「E=mc^2」と同じ種類の美しさである。これほどに美しいと、かえって記号的に抹消することが簡単である。つまり禅譲を受けられる。
例えば、ランダムに並んだトランプから、「ハートを除け」と言われても、すごく時間がかかる。しかし「七並べ」を遊んだあとのトランプならば、ハートを簡単に除くことができる。整理してランダムネスを奪うことで、かえって撃たれ弱くなる。


郡國大旱,蝗,青州尤甚,民流亡。安漢公、四輔、三公、卿大夫、吏民為百姓困乏獻其田宅者二百三十人,以口賦貧民。遣使者捕蝗,民捕蝗詣吏,以石、鬥受錢。天下民貲不滿二萬及被災之郡不滿十萬,勿租稅。民疾疫者,舍空邸第,為置醫藥。賜死者一家六屍以上葬錢五千,四屍以上三千,二屍以上二千。罷安定呼池苑,以為安民縣,起官寺市里,募徙貧民,縣次給食。至徙所,賜田宅什器,假與□、牛、種、食。又起五裏于長安城中,宅二百區,以居貧民。

郡国で、おおいに日照あり。いなご。青州がもっともひどい。安漢公の王莽、四輔、三公、卿大夫、吏民が、百姓の困窮者をすくう。

張晏はいう。王莽は太傅、孔光は太師、王舜は太保、甄豊は少傅。これが4輔である。王莽は大司馬もかね、馬宮が司徒、王崇が司空である。これが3公である。☆
ぼくは思う。いま名前があがった6人を詳しく知らねば。平帝期の四輔と三公なんて、実質的には莽新の幹部である。曹操の魏臣、司馬昭の晋臣と同じである。

いなごを買いとる。財産が2万銭に満たない民か、被災した郡内で財産が10万銭に満たない者は、租税を免除した。疫病者のために、住居と医薬を提供した。葬儀の費用をくばった。安定郡の呼池苑をやめて、安民県とした。

師古は中山国の安定県という。斉召南はいう。中山国に、安民県はない。長安のそばの安定県がただしい。ほかに上海古籍485頁は、地名の検証をしている。『後漢書』で隗囂と来歙が戦った記事などもひいて。どうやら関中で良いようです。

官寺や市里(官府や居住地区)をつくり、貧民をつのって食糧をあたえる。田宅や什器、耕作に必要なものを貸す。長安城から5里のところに、200区画をつくり、貧民を住ませる。

先謙はいう。五行志はいう。6月、隕石が鉅鹿に2つ。


秋,舉勇武有節明兵法,郡一人,詣公車。九月戊申晦,日有蝕之。赦天下徒。 使謁者大司馬掾四十四人持節行邊兵。 遣執金吾侯陳茂假以鉦鼓,募汝南、南陽勇敢吏士三百人,諭說江湖賊成重等二百餘人皆自出,送家在所收事。重徙雲陽,賜公田宅。冬,中二千石舉治獄平,歲一人。

秋、勇武で兵法に節明な者を、郡ごとにあげさせ、公車で迎える。9月戊申みそか、日食した。天下の刑徒を赦した。

先謙はいう。五行志では、皆既日食である。

謁者、大司馬掾の44人が、持節して辺境の兵を見た。
執金吾の候・陳茂に、汝南と南陽で3百人を集めさせた。陳茂は、江湖の賊・成重ら2百余人を投降させた。自ら降った賊には、本籍の県邑で賦役をさせた。賊のトップである成重は、本籍から雲陽に徙され、公田と宅をもらった。

晋灼はいう。百官表はいう。執金吾の属官には、2人の丞、候、芝がいる。つまり陳茂は、執金吾の属官である。応劭はいう。いま陳茂は、兵が少ないから、鉦鼓して、敵を威圧した。
ぼくは思う。前漢の首都は、長安だ。長安から見れば、汝南と南陽はフロンティアだ。荊州の南は、ほぼ外国である。『後漢書』で、荊州や揚州の叛乱がおおく記録されるのは、後漢が弱っているからではない? 荊州や揚州も、治めるべき国内だと認識するから、後漢から見たら「叛乱」が増えてしまう。とか?
蘇輿はいう。本文に「公田」とある。王莽伝では「わたしは大麓にあるとき、はじめて天下に公田口井をさせた」という。このときのことをいう。『穀梁伝』宣公15年はいう。古代、公田に居住したと。けだしこの制度とは、民が公田の上に(公田を借りて)廬舎をつくって住むから、「賜宅」というのだ。

冬、中2千石に、獄平を治める者を1人ずつあげさせた。

後03年、王莽が学校を建てつつ、息子を殺す

三年春,詔有司為皇帝納采安漢公莽女。語在《莽傳》。又詔光祿大夫劉歆等雜定婚禮。四輔、公卿、大夫、博士、郎、吏家屬皆以禮娶,親迎立軺並馬。夏,安漢公奏車服制度,吏民養生、送終、嫁娶、奴婢、田宅、器械之品。立官稷及學官:郡國曰學,縣、道、邑、侯國曰校,校、學置經師一人;鄉曰庠,聚曰序,序、癢置《孝經》師一人。

後03年、有司は、王莽の娘を、平帝の皇后にせよという。王莽伝にある。詔して、光祿大夫の劉歆らに、婚姻の礼法を決めさせた。四輔から吏の家まで、「軺」という立ち乗りの小さな馬車で、みずから嫁を迎えにゆくという婚姻の礼法をやった。

沈欽韓はいう。『御覧』717にひく『古今注』はいう。元始3年、延陵の西園にある神寝のなかで、大鏡から汗水が噴き出した。先謙はいう。五行志はいう。正月、天から草がふる。元帝の永光のときと同じ。ぼくは思う。王莽のせいで怪異が起きたかと思いきや、元帝のときも同じようなことがあった。王莽のせい、ばかりではない。
師古はいう。婚姻の礼法は、新たに定められた。ぼくは思う。平帝が王莽の娘を、わざわざ迎えに行くため、 この礼法ができたのだろうか。婚姻は、人類学的にとても重要なイベント。婚姻の礼法がかわるとは、婚姻の意味が変わることを意味する。わりに重大な転換点。もっと平たく言えば、外戚に禅譲する予兆。

夏、王莽は車服等の生活にかんする制度をきめた。官稷と学官をおいた。

如淳はいう。郊祀志によると、すでに官社があったが、官稷はなかった。ついに官社のあとに、官稷をたてたと。
臣瓚はいう。漢初、秦代の社稷をのぞき、漢代の社稷をたてた。のちに官社をたてて、夏禹をまつる。官稷は立てない。ここにいたり、王莽が官稷をたてた。後漢では、官社のみ立て、官稷を立てず。
師古はいう。如淳と臣瓚は言い尽くしていない。はじめ官稷を官社のあとに立てた。同じ場所である。いま別の場所に、官稷を立てたのだ。

学官は、郡國では「學」とよび、県道邑や侯國では「校」とよんだ。それぞれ経学の教師を1人ずつおく。郷では「庠」、聚では「序」といいう。それぞれ『孝経』の教師を1人ずつおく。

『隷釈』にのる官碑には「校」の実例がある。
ぼくは思う。郷などの下級の行政区分では、『孝経』に特化するのね。あんまり専門的な知識がなくても読めて、実用的でもあるから。『孝経』は、わりに編集のいきとどいた整合的な本だから、教えやすかろう。そのかわり、知性のダイナミックな躍動とか、解釈をめぐる刺激的な論争とか、そんなものはない。


陽陵任橫等自稱將軍,盜庫兵,攻官寺,出囚徒。大司徒掾督逐,皆伏辜。安漢公世子宇與帝外家衛氏有謀。宇下獄死,誅衛氏。

陽陵の任橫らが、将軍を称して、庫兵をぬすみ、官府をおそい、囚徒をだした。大司徒掾が鎮めた。王莽の子・王宇と、外戚の衛氏が、はかりごとした。王宇は獄死し、衛氏は誅された。

ぼくは思う。息子を殺す、王莽。有名な話です。王莽伝、外戚伝に詳しい。


後04年、王莽が宰衡となり、官名と地名を改変

四年春正月,郊祀高祖以配天,宗祀孝文以配上帝。改殷紹嘉公曰宋公,周承休公曰鄭公。 詔曰:「蓋夫婦正則父子親,人倫定矣。前詔有司複貞婦,歸女徒,誠欲以防邪辟,全貞信。及眊掉之人刑罰所不加,聖王之所以制也。惟苛暴吏多拘系犯法者親屬,婦女老弱,構怨傷化,百姓苦之。其明敕百僚,婦女非身犯法,及男子年八十以上七歲以下,家非坐不道,詔所名捕,它皆無得系。其當驗者,即驗問。定著令。」

後04年正月、前漢の高帝を天に配し、文帝を上帝に配した。殷の子孫を、宋公とした。周の子孫を、鄭公とした。
王元后は詔した。「夫婦が正しければ、父子の関係も安定する。前に女の刑徒を、やすい罰金で釈放したのも、家族の秩序を正しくするためだ。(女だけでなく、家族のなかで弱者にあたる)老幼に刑罰が及ばないのは、聖王が定めたことだ。

ぼくは思う。万人が抱える家族の問題。もっとも身近な人間関係で(不在というかたちであれ)人格形成に影響する。儒教の思想は家族に仮託され(因果関係が逆かも)、人類学者や精神科医の理論もまた、家族に仮託される(これも因果関係が逆かも)。家族に関する言葉をつかう諸理論は、儒教や三国志の読解に役立つかも知れない。それこそ、どの学問の分野も「家族的な類似」をしているw
ぼくは補う。因果関係が逆とはどういうことか。人間はもとは家族の関係があり、これを理解するために、儒教や人類学や精神医学がつくられた。だから儒教などは、家族に関する語彙をつかうのだと。儒教が言いたいことを、家族に仮託しているのでなく。家族について言うべきことを、儒教という顔つきや道具を通じて言っているかも知れない。ということです。

婦女や老幼を、家族に連坐させるな。

ぼくは思う。本文と関係ないが、いま書きたくなった。中沢新一、赤坂憲雄『網野善彦を継ぐ。』読了。網野先生が対峙したのは、中心、定住、西日本、稲作、天皇、抑圧、文明、実証に偏重する知の制度、組織。この二元論的?な構図は、中沢先生らも踏襲してるとぼくは思う。赤坂氏の本も似ていたが、あまりに「構図そのまま」なので、飽きてしまった。
ぼくが自分に照らすと、資本主義下の経理諸規則が対峙の相手。国家よりリアルな中心者だ。現代日本の国政を批判するよりも、もっと身近な抑圧者がいるので(会社で虐げられているという意味でなく、経理諸規則が抑圧的なものだという意味で)、わざわざツイッターで政治談義なんかしないし、天皇論を持ち出す必要がない。2013年のぼくの王莽論は、王莽を、抑圧者、過度に象徴化する者、特大文字の他者、として捉えること。短絡的に、「経理諸規則は悪だ、王莽も悪だ」なんて議論をしたいのではない。1歩ひいて、構造を見通さねば、つまらない。

婦女はみずからが犯罪したときのみ、捕らえろ。老幼は、家族が犯罪しても詔書が名指ししなければ、捕らえるな。訊問が必要なら、その場で(時間にかかわらず)訊問せよ。

周寿昌はいう。『後漢書』光武帝紀で、建武3年に同じ命令をだした。読解について、異論があるらしいが、だいたい同じでしょう。上海古籍488頁。ぼくは思う。苛酷な官吏が、召し捕った手柄を大きくするために、後出しで家族にまで、罪の範囲を拡げることを、禁じたのでしょう。罪があれば、その場で確定する。だらだら、膨張させない。
ぼくは思う。後漢のとき、袁安は章帝に期待されて、楚郡太守となり「楚王の謀反事件のせいで、連坐者が数千人」という自体に、歯止めをかけにいった。連坐者が増えすぎることは、各部署レベルでの個別最適である。なぜなら、各部署に功績があがるから。しかし中央ではそれを望まない。だが中央は、功績のある各部署を賞さずにはいられない。むずかしい!


二月丁未,立皇后王氏,大赦天下。遣太僕王惲等八人置副,假節,分行天下,覽觀風俗。賜九卿已下至六百石、宗室有屬籍者爵,自五大夫以上各有差。賜天下民爵一級,鰥、寡、孤、獨、高年帛。

2月、王莽の娘が皇后になった。天下に大赦した。太僕の王惲ら8人に副官をつけて、仮節させ、分担して天下の風俗をチェックさせた。

胡三省はいう。王惲が正使だから、持節する。副官は、副使として「仮節」した。

公卿から6百石までと、宗室の属籍にある者に、爵位をあたえる。五大夫(9等爵)より上の者にも爵位を与える。天下の民に、爵1等級を与える。鰥寡、孤獨、高年には布帛をあげる。

夏,皇后見於高廟。加安漢公號曰「宰衡」。賜公太夫人號曰功顯君。封公子安、臨皆為列侯。 安漢公奏立明堂、辟雍。尊孝宣廟為中宗,孝元廟為高宗,天子世世獻祭。 置西海郡,徙天下犯禁者處之。 梁王立有罪,自殺。 分京師置前輝光、後丞烈二郡。更公卿、大夫、八十一元士官名、位次及十二州名。分界郡國所屬,罷、置、改易,天下多事,吏不能紀。
冬,大風吹長安城東門屋瓦且盡。

夏、平帝の王皇后は、高帝廟にまみえた。安漢公の王莽に「宰衡」の称号をくわえた。王莽の夫人を「功顕君」とした。王莽の子である、王安と王臨を、列侯とした。

応劭はいう。周公は太宰となり、伊尹は阿衡となる。王莽の「宰衡」は両者をあわせた。周寿昌はいう。王莽の夫人とは、つまり平帝の皇后の母である。武帝の王皇后は、母の臧児が平原君に封じられた。これが皇后の母を「君」とする始まりである。後漢にもしばしばある。王莽の母も「君」とされた。
蔡邕『独断』はいう。異姓の婦女を、恩沢によって封じるとき、「君」という。待遇は、長公主に比す。
ぼくは思う。王朝の末期だからこそ、あるべき姿を整理できる。前漢末は王莽、後漢末は蔡邕。もし董卓政権が維持されていたら、董卓と蔡邕が「共犯」となり、王莽のような改革(もしくは革命)をしたかも。袁紹は後漢を見捨てて起兵したが、董卓と蔡邕による革命を挫折させ、かえって後漢を延命したかも。

王莽は上奏して、明堂と辟雍をたてた。宣帝を中宗とし、元帝を高宗とした。天子は、世々これを祭ることになった。

応劭は、明堂についていう。明堂は『孝経』にもある。上海古籍489頁、はぶく。渡邉先生の本を読もう。ところで、ぼく3年前に平帝紀を抄訳したとき、明堂と辟雍のことを省略していた。抄訳だから、省くことは良いのだが。明堂と辟雍を省くなんて、まったくセンスがない!バカやろう。
先謙はいう。王莽は元帝をとうとび、王元后を悦ばせた。 ぼくは思う。世々って、だれ? 王莽のときに、前漢は終わるのにw

西海郡をおいて、流刑地にした。

斉召南はいう。王莽が西海郡を置いたのは、金城郡の臨羌県の塞外、西北である。地理志に詳しい。ぼくは思う。長安にわりと近いはずである。後漢の洛陽よりも、長安は、羌族がいる金城に近い。それなのに、流刑地につかう。よほど羌族のエリアが、心理的に「遠い」のかが窺われるなあ。

梁王の劉立が、罪があり自殺した。

朱一新はいう。諸侯王表はいう。劉立は廃されて、漢中で自殺した。元始2年である。だが文三王伝によると、劉立の自殺は、廃された2年後、元始4年である。王莽が王元后に「劉音を梁王にしたい」というのは、元始5年である。諸侯王表と列伝があう。
先謙はいう。劉立は、衛氏と交通したので、罪とされた。

京師を分割して、「前輝光」「後丞烈」という2郡をおいた。

先謙はいう。胡三省によると、前輝光は、けだし長安より南の諸県を領した。後丞烈は、けだし長安より北の諸県を領した。

公卿、大夫、81元士につき、官名、位次を改めた。12州の州名を改めた。郡國の諸族を分界して、廃止、新設、改易した。複雑なので、吏は記録できない。

ぼくは思う。ここでこそ『補注』ががんばるべきだと思うが、沈黙している。しかし「吏が記録できない」とあるから、注釈を豊富につけることができたら、矛盾するわけで。
これは、ラカンが「分析家になるための資格は、自らを分析家と認めることである。他人による指示や承認は必要ない」と言ったとき、分析家のタマゴが「私は分析家を自認している。だから私は分析家だ」と言った瞬間に、「ラカンの言いなりじゃないか。お前は分析家じゃねえよ」と言われて、自殺するパターンである。昨日、新宮一成『ラカンの精神分析』で読みました。

冬、大風がふき、長安の東門の屋瓦が全て飛んだ。

後05年:皇族1千人が集合し、平帝が崩御

五年春正月,□祭明堂。諸侯王二十八人、列侯百二十人、宗室子九百餘人征助祭。禮畢,皆益戶,賜爵及金、帛,增秩、補吏,各有差。
詔曰:「蓋聞帝王以德撫民,其次親親以相及也。昔堯睦九族,舜B129敘之。朕以皇帝幼年,且統國政,惟宗室子皆太祖高皇帝子孫及兄弟吳頃、楚元之後,漢元至今,十有餘萬人,雖有王侯這屬,莫能相糾,或陷入刑罪,教訓不至之咎也。傳不雲乎?『君子篤于親,則民興於仁。』其為宗室,自太上皇以來族親,各以世氏,郡國置宗師以糾之,致教訓焉。二千石選有德義者以為宗師。考察不從教令有冤失職者,宗師得因郵亭書言宗信,請以聞。常以歲正月賜宗師帛各十匹。」

後05年正月、明堂でコウ祭した。諸侯王28人、列侯120人、宗室の子9百余人が徴され、祭礼をたすけた。祭礼がおわると、皇族の戸数を増やし、爵位をあげ、金帛をあたえ、官職をあげた。元后は、詔した。

応劭はいう。礼は5年ごとに殷祭をする。今回のコウ祭とは、いずれ毀される廟に祭られた祖先を、高祖に合わせて祭ることである。
銭大昭はいう。このとき諸侯王がきた。上海古籍491頁に出席者22人の、封地と名がある。はぶく。

『虞書』堯典によると、堯舜は九族をまとめ、うまく統治できた。いま宗室の劉氏は、みな高帝の劉邦か、その兄弟の呉頃王(劉邦の兄の劉仲)か、楚元王(劉邦の次兄の劉交)の子孫である。

師古はいう。劉仲は、はじめ代王になり、のちに廃されて合陽侯となる。子の劉ビが呉王となる。ゆえに劉仲は、呉頃王と追諡された。ケイ王と読む。

劉氏の皇族は、充分に助け合っていない。『論語』で孔子が言うように、君子が親族と良好な関係なら、民に仁が興るのだ。皇帝に血統が近い者が、宗族をまとめろ。2千石にある者を選び「宗師」としろ。冤罪で失職した者は「宗師」が官職を再配分しろ。正月ごとに「宗師」に布帛10匹ずつを贈れ」と。

ぼくは思う。1千人以上も皇族を集めて、王氏が叱ってしまった! 絵として、すごく面白い。そして、『漢書』本紀は、これが最後の歳になるのです。ただし、具体的な施策として「宗師」をつくり、これを管理者として、劉氏を盛りたてろと指示している。劉氏を失墜させているのではない。
ぼくは思う。王元后は、本人の意識においては、劉氏を叱咤激励しながら、じつは「劉氏はもうおしまいだ」という場を演出してしまった。まるで母親が、公衆の面前で成人した息子を「ちゃん」づけで呼び、叱りつけるみたいに。母親は息子を善導しているつもりだが、息子が成熟していないことを、かえって露呈している。


羲和劉歆等四人使治明堂、辟雍,令漢與文王靈台、周公作洛同符。太僕王惲等八人使行風俗,宣明德化,萬國齊同。皆封為列侯。 征天下通知逸經、古記、天文、曆算、鐘律、小學、《史篇》、方術、《本草》及以《五經》、《論語》、《孝經》、《爾雅》教授者,在所為駕一封軺傳,遣詣京師。至者數千人。 閏月,立梁孝王玄孫之耳孫音為王。

羲和の劉歆ら4人に、明堂と辟雍を管理させた。周文の霊台、周公の洛邑と同じものを作らせた。

先謙はいう。4人とは、劉歆、平晏、孔永、孫遷である。☆
師古はいう。文王は霊台をつくり、周公は洛邑をつくった。これと同じことを、王莽が前漢においてやったのだ。

太僕の王惲ら8人に、諸国をめぐらせ、風俗を均質にさせた。劉歆や王惲らは、みな列侯に封じられた。

先謙はいう。8人とは、王惲、閻遷、陳崇、李オウ、郝党、謝殷、ロク普、陳鳳である。オウは上に「合」下に「羽」。ロクは、録のつくりに、しんにゅうをつける。☆

天下から、諸分野の学問に詳しい者をあつめた。逸經、古記、天文、曆算、鐘律、小學、《史篇》、方術、《本草》である。また教授をたてた。『五経』『論語』『孝経』『爾雅』である。立ちのりの小馬車で京師に迎えた。数千人があつまる。

馬車を走らせるルールについて、上海古籍492頁。どういう権限をもち、どういう馬車と道具で、何人で、どのように走らせるかなど。はぶく。

閏月、梁孝王の玄孫の耳孫である劉音を、梁王にした。

先謙はいう。文三伝は、玄孫の曽孫という。
ぼくは思う。もう「誰やねん」という世界。ながい王朝が滅びそうになると、皇族の発掘が始まるのかも知れない。ひとりでも、有能な人物がでたら、ラッキーだから。有能さはランダムだ。母集団をふやし、確率をあげたい。もちろんぼくは、劉備を意識して、これを書いています。笑


冬十二月丙午,帝崩于未央宮。大赦天下。有司議曰:「禮,臣不殤君。皇帝年十有四歲,宜以禮斂,加元服。」奏可。葬康陵。詔曰:「皇帝仁惠,無不顧哀,每疾一發,氣輒上逆,害於言語,故不及有遺詔。其出媵妾,皆歸家得嫁,如孝文明故事。」

12月丙午、平帝は未央宮で崩じた。天下を大赦した。

臣瓚はいう。平帝は9歳で即位して、在位5年。14歳で死んだ。師古はいう。『漢注』はいう。平帝は年齢を増して大人になると、王莽に対して、母の衛皇后の旧怨があるから、よろこばず。ゆえに王莽は、平帝が自分を嫌うことを警戒して、毒酒を飲ませた。ゆえに翟義は「王莽が平帝を鴆殺した」という。

有司は議した。礼のルールでは、臣下は君主を、若死としない。平帝は14歳にすぎないが、元服させよう。成人して、死んだことにしようと。

沈欽韓はいう。『五経異義』で許君が案ずるに、臣は君を若死とせず、子は父を若死としない。君主に子がないので廟を立てなければ、礼義に反すると。ぼくは思う。「君主は成人して、後継者を遺したから、立廟して祭りましょう」という建前をつくることが重要だった。だれの視線を意識して、この礼のルールがあるのだろう。
ぼくは思う。前漢の皇帝としては、あまりに早い死だ。だから、王莽が平帝を毒殺したという人がいる。しかし、後漢の皇帝は、もっと安易に、わかく死にまくる。平帝の死は、不審ではない。笑

王元后は元服をゆるした。康陵に葬った。詔した。「平帝は病気により、言語に障害がでた。だから遺言がない。平帝の媵妾(皇后の従者)は家に帰し、再婚をゆるせ。文帝の故事のようにせよ」

臣瓚はいう。康陵は長安から北に60里。沈欽韓はいう。『長安志』によると、咸陽県から西に25里である。
何焯はいう。王莽が娘の王皇后の従者を、そとに出したのはなぜか。王莽はこれをキッカケに王皇后を味方につけて、王皇后の賢さに頼ろうとしたからだ。王莽は奸人だが、1つだけ良いことをした。これは漢室や、皇后の従者のためでなく、王莽1人だけのためである。
銭大昭はいう。平帝は王莽に鴆殺されたが、「弑された」と書かない。『春秋』では国内の大悪を記さないからだ。葬儀の日付を記さないのも、史書のルールと異なる。
ぼくは思う。ルールと異なることによって、何を言おうとしているか。こういう言語をめぐる謎かけは、キリがない。「なぜ分かりきったことを、わざわざ言うのか」「本当はドイツに行くくせに、なぜドイツに行くと言うのか。私にお前のせいで、『こいつはウソをつき、ドイツに行かないのでは』と疑わねばならない」「なぜいつも言わないことを、わざわざ言うのか」「なぜいつも言わないことを、わざわざ言うのか」「なぜ、この件は言わないようにしようと、わざわざ約束するのか」「なぜ、言う必要がないと合意したことを、わざわざ言うのか。例外が起こったのか」など。スラヴォイ・ジジェク『ラカンはこう読め!』を読んでます。


班固の賛:王莽は平帝の死の「去勢」に失敗

贊曰:孝平之世,政自莽出,褒善顯功,以自尊盛。觀其文辭,方外百蠻,亡思不服;休征嘉應,頌聲並作。至乎變異見於上,民怨於下,莽亦不能文也。

班固の賛はいう。平帝の時代は、王莽が政治をした。王莽は、みずからの善行をほめ、功績をあきらかにした。王莽のだした声明を読めば、辺境の異民族まで、すべて前漢に心服したとある。 しかし、平帝が急死したとき、民は怨みをいだいた。王莽ですら、うまく記録できなかった。

原文「觀其文辭」とは、なにか。ちくま訳は、指示語のまま放置して、よく分からない。「莽亦不能文也」とあるから、王莽が発表した、公式文書じゃないかと思います。詔書とか。ちくま訳は「莽亦不能文也」を、王莽もまたそれを粉飾することができなかった、とする。『補注』如淳に従っているのだが、かたよった訳文だと思う。作文できなかった、とあるだけだ。粉飾がねらいだと、決めつけてはいけない。
ぼくは思う。ある事件を「記録する」ことにより、事件を象徴化する。無数の事象をきりおとして、解釈して、既存の文脈のコードのなかに位置づける。君主の死にまつわる無数の文例=差異の体系のなかで、平帝の死という非常事態のもつ破壊力をいかに「去勢」するか。王莽はその「去勢」に失敗したのだろう。
ぼくは思う。「至乎變異見於上」は、平帝の死である。民が怨んだ相手は、どちらだろう。皇帝の寿命がもたない、頼りない漢室か。平帝毒殺をうたがわれた王莽か。班固は、後漢の人だ。王莽をわるく描く立場だ。だから毒殺をにおわせつつ、わざと漢室が怨まれた可能性ものこした書き方になっている。判定がむずかしい。
ぼくは思う。王莽は2つの悲劇を味わった。平帝が早く死んだことと、平帝の死をうまく記録して「去勢」できなかったこと。「去勢」に失敗したから、王莽が平帝を毒殺した!という翟義の政治声明がうまれて、信憑性を帯びてしまう。平帝を「きちんと殺しておく」のが、漢新革命を成功されるためのカギだったのに。祭祀のロジックを組み立て、平帝の死に無害な意味をあたえておかねばならなかった。


おわり。唐突感があるのは、班固のせいだ。班固は、王莽伝につなげたいのだろう。つぎは『漢書』のどこを読もうかなあ。100724+130126

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