表紙 > 曹魏 > 『魏書』巻5・后妃伝

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后妃伝の序文と評

后妃伝をやります。陳寿にしてはめずらしく、序文が書いてある。ほかの正史類では、わりに見かける形式だとは思うのだが。
まずは盧弼が「后妃伝」という名称に注釈する。

『礼記』曲礼はいう。天子の妃を「后」という。鄭玄注はいう。后は後であり、夫の後ろにあるからだ。
『白虎通』はいう。天子の妃を「后」というのはなぜか。后は「君」である。天子の妃は、至尊であるから、君=后という。
ぼくは思う。「妃」は一般名詞なのね。
郝経はいう。魏呉では「后妃」と称さず、欧陽脩『五代史』のように、曹氏の庶子とともに「魏家人伝」とまとめられる。
潘眉はいう。曹操、曹丕、曹叡の皇后は列伝があるが、曹芳、曹髦、曹奐の皇后に列伝がない。曹芳は、正史4年4月に甄皇后を立てた。嘉平3年7月、甄皇后が崩じた。嘉平4年2月、張皇后を立てて、嘉平6年3月に廃した。翌4月に王皇后を立てた。曹髦は正元2年に卞皇后を立てた。曹奐は景元4年10月に卞皇后を立てた。いずれも三少帝紀にある。
曹芳の甄皇后は、曹丕の甄皇后伝にくっつく。曹髦と曹奐の卞皇后は、曹操の卞皇后にくっつく。

派生して思いついたこと1。魏晋革命の件。

ぼくは思う。『魏志』后妃伝は、明帝の皇后までしか列伝がない。また司馬師の妻は、夏侯尚の娘、曹操の孫娘でもある。つまり司馬師は婚姻により、曹操の孫の世代だと事後的に確定された。司馬炎は曹操の曽孫の世代。曹丕-曹叡-司馬炎、という即位順にすれば世代が揃う。だから『三国志』では三少帝を黙殺するか。曹叡と、司馬師と司馬昭は同世代だ。曹叡の死後、司馬師と司馬昭が身代わりとなって駆動する。曹叡の死は、司馬昭の死まで先送りされる。
偶然だけど、曹叡の死後に魏帝の一族を代行したのが、郭太后。郭太后は、曹叡の身代わりであり、曹叡の「霊」が、司馬師と司馬昭に憑依することを保障するシャーマンである。郭太后が死ぬと、曹叡の「霊」が司馬昭から抜き取られ、その衝撃で司馬昭もすぐに死ぬ。ほんとうは、曹叡から司馬炎に渉れば良かったが、曹叡の早死により継承に失敗した。ゆえに、曹叡-郭太后-司馬師と司馬昭、という同世代でバトンをパスして、やっと次世代の司馬炎に渡された。
あ、シャーマンは比喩ですよ。曹芳、曹髦、曹奐が、あたかも存在しないかのように黙殺する、『三国志』の形式、編纂方針を理解しやすくするために、便宜的に挿入している言葉です。意味が通じたら、消去してください。
魏晋革命のとき、「もし曹叡が存命なら」60歳ぐらい。曹叡は60歳まで「生きて」子世代の司馬炎に、禅譲をしたのでした。郭太后と司馬昭は、この「降霊祭」の主催者であり、曹芳、曹髦、曹奐は、できのわるいワラ人形、使い捨てのヨリシロみたいなもの。ヨリシロは、もの自体に価値があるのでなく、軽々しく廃棄することで、却って曹叡の「霊」の実在性を実感させる。つまり、曹芳、曹髦、曹奐は、彼ら自身に価値があるのでなく、「使い捨てられる」という粗雑な扱いによって、彼らの背後に偉大なもの(曹叡の霊)があることを、人々に想像させる。
たとえば、書類をザツに汚して捨てていたら、それが原本でなく、いくらでも手に入るコピーであることが判明する。原本を大事にしていても、なかなか原本の大切さに気づかないが、コピーを粗雑に扱うことで、却って原本の貴重さを浮かび上がらせる。
曹魏の歴史がそうだったと、ぼくが言うのではない。三少帝もまた、権力の確立を模索して、挫折した人々だと思う。しかし三少帝を、上記のような「物語に回収」することで、魏晋革命を理解しやすくした。クリアカットに編集して、すとんと理解されたものは、その正統性に疑義が投げかけられることは減る。みんな分かりやすさを求めるから。禅譲に疑義がくるのは、分かりにくいからであり、「分かりやすい禅譲」ならば、大歓迎なんだ。現代における「B層」は近代を大歓迎して、思考を停止した人々らしい。当時における「B層」とは「儒教国家」を大歓迎して、思考を停止した人々だろう。きっと儒経典を読んだこともないくせに、孫引きにして、知識人ぶる。価値観が固定されていて、ぎゃくに強い。そして数がおおい。

派生して思いついたこと2。漢魏革命の件。

ぼくは思う。曹操が受禅しない理由。天子が爵位で、爵位は上から下世代、もしくは同世代で継承されるなら。もし曹操が献帝から天子を継承したら「子から親」への逆行となる。曹操が受禅しないのは、世代の問題か。曹丕は、わざわざ献帝の娘をめとり、献帝の子世代に自らを意識的に位置づけ、天子の爵位を継承した。
ぼくは思う。適菜収『B層の研究』を読んだ。B層とは、近代の価値観を無批判に受容する大衆のこと。ある価値観が徹底して浸透すると却って退廃する。渡邉義浩先生の「儒教国家」でもまた、儒教的な価値観が浸透して体制が完成したら、儒教B層が出現するはず。漢魏革命は、儒教B層に支持されるように演出されたか。
この爵位を継承する世代の問題も、同じかなあ。「分かりやすさ」が「正しさ」なんだ。


陳寿の前文

易稱「男正位乎外、女正位乎內。男女正、天地之大義也」古先哲王、莫不明后妃之制、順天地之德。故二妃嬪媯、虞道克隆。任姒配姬、周室用熙。廢興存亡恆此之由。春秋說云天子十二女、諸侯九女。考之情理、不易之典也。而末世奢縱、肆其侈欲、至使男女怨曠、感動和氣。惟色是崇、不本淑懿、故風教陵遲而大綱毀泯。豈不惜哉。嗚呼、有國有家者、其可以永鑒矣!

『易経』家人はいう。男は外で、女は内で、正しい場所を得る。これが天地の大義であると。古代の哲王は、后妃の制度を明らかにした。虞舜も周室も同じである。興廃は、后妃による。『春秋』のいう、天子は12人、諸侯は9人という后妃の人数は、不易の制度である。人数をこれ以上に増やすと、国家が衰亡する。

『尚書』堯典、『詩経』大雅、『列女伝』などに、虞舜と周室の故事が書いてある。『春秋緯』、『公羊伝』などに、后妃の人数について書いてある。


漢制、帝祖母曰太皇太后、帝母曰皇太后、帝妃曰皇后、其餘內官十有四等。魏因漢法、母后之號、皆如舊制。自夫人以下、世有增損。太祖建國、始命王后、其下五等。有夫人有昭儀有倢伃有容華有美人。文帝、增貴嬪淑媛脩容順成良人。明帝、增淑妃昭華脩儀、除順成官。太和中、始復命夫人登其位於淑妃之上。自夫人以下爵、凡十二等。

漢制はいう。皇帝の祖母を、太皇太后という。皇帝の母を、皇太后という。皇帝の妃を、皇后という。その他、14等級があった。魏制は漢制とおなじ。夫人より以下は、皇帝の代により増減した。

『漢書』外戚伝の序、『後漢書』皇后紀の序に、等級と人数がある。上海古籍579頁。『宋書』后妃伝序はいう。夫人は、曹操が初めて設置した制度である。

曹操が建国すると、王后を設けて、その下を五等とした。五等とは、夫人、昭儀、倢伃、容華、美人である。

侯康はいう。曹魏を建国したとき、丞相や御史大夫などの官をおき、漢制と同じだった。ゆえに内官もまた、漢制と同じ五等をおいた。
『太平御覧』31にひく『陸雲が兄に与える書』で、曹操は倢伃がいないのでは、という。周方叔は、曹操が後漢の後宮を奪っただけで、曹操は漢制を知らないのではという。だが曹操の遺令や『銅雀台』には、倢伃が出てくる。倢伃の等級はあった。

曹丕が増やした等級は、貴嬪、淑媛、脩容、順成、良人である。

趙一清はいう。『拾遺記』はいう。曹丕は薛霊芸を愛し、。盧弼はいう。この『拾遺記』は誤りである。すでに文帝紀の黄初2年の注釈にある。ぼくは思う。盧弼が誤りというので、引用しない。

曹叡が 増やした等級は、淑妃、昭華、脩儀、除順、成官である。太和のとき、夫人の等級を、淑妃の上に置いた。夫人より以下、12等級あった。

貴嬪夫人、位次皇后、爵無所視。淑妃位視相國、爵比諸侯王。淑媛位視御史大夫、爵比縣公。昭儀比縣侯。昭華比鄉侯。脩容比亭侯。脩儀比關內侯。倢伃視中二千石。容華視真二千石。美人視比二千石。良人視千石。

貴嬪と夫人は、皇后につぐ等級で、該当する男性の臣下の官爵はない。淑妃は、官位は相國、爵位は諸侯王にあたる。淑媛は、官位は御史大夫、爵位は縣公にあたる。昭儀は縣侯、昭華は郷侯にあたる。脩容は亭侯、脩儀は関内侯にあたる。倢伃は中二千石、容華は真二千石にあたる。美人は比二千石、良人は千石にあたる。

顔師古はいう。中2千石とは、実際に2千石を得る。中とは「満」のことである。月に180石を得て、12ヶ月で2160石をもらう。2千石とは、ざっくりとした計算である。
顔師古はいう。真2千石とは、月に150石を得る。12ヶ月で1800石をもらう。
顔師古はいう。2千石とは、月に120石を得る。12ヶ月で1440石をもらう。
『続百官志』はいう。比2千石とは、月100石をもらう。千石は、月に90石をもらう。
盧弼はいう。武文世王公伝で、貴人や姫と結婚する者がある。毛后伝で才人がある。貴人、姫、才人について、この序文には言及がない。


陳寿による評

評曰。魏后妃之家、雖云富貴、未有若衰漢乘、非其據、宰割朝政者也。鑒往易軌、於斯爲美。追觀陳羣之議、棧潛之論、適足以爲百王之規典。垂憲範乎後葉矣。

陳寿は評する。曹魏で后妃の家は、富貴である。だが、衰弱した漢室に乗じるように、外戚が朝政を取り仕切らない。陳羣と桟潛の議論は、

林国賛はいう。桟潛は、郭皇后を立てるなと諫めた。この后妃伝にある。陳羣は、平原公主を追封するなと諫めた。『魏志』陳羣伝にある。陳羣の議論が、この列伝にないのに、評文に書くのはおかしい。ほかに、劉放伝で「劉放が辛毗を抑えて、王思を助けない」を評するが、辛毗伝に載る。また劉焉伝で「劉焉が呉氏に求婚した」を評するが、これは二主妃子伝に載る。列伝にない内容を、列伝の末尾で評するなよ。

後世の規範となる。

或る者はいう。人臣が諫めたとき、当時の君主が聞き入れなくても、後世の規範になることがある。君主が聞こうが、聞くまいが、規範になるものは、規範になる。
ぼくは思う。目の前の君主に聞き入れられなくても、記録に残され、未来の君主に聞いてもらえる。そういう、時間軸に幅のある視野で、発言するのね。これは換言だけに限定されなかろう。すごい文化!!

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曹操の卞皇后:袁術の娘との交友

音楽者は、秩序の内部か外部か

武宣卞皇后、瑯邪開陽人、文帝母也。本倡家。

武宣卞皇后は、瑯邪の開陽の人。文帝の母である。

ぼくは思う。曹操の事績で、瑯邪に行くことはあったか? 徐州を平定するとき、瑯邪には行かないはず。「諸葛亮が焼き出されたと聞くが、じつは曹操軍は瑯邪を通らない」という確認をした。ちがったら、すみません。
開陽は武帝紀の興平2年の瑯邪の注にある。『郡国志』はいう。開陽はもとは東海に属し、建初5年から瑯邪に属した。『春秋』の哀公3年、啓陽に築城したというが、この開陽である。もとは瑯邪の郡治だった。
『魏志』はいう。曹丕、曹彰、曹植、曹熊の母である。

もとは倡家だった。

『史記』馮唐伝はいう。趙王たる遷の母は「倡」だった。索隠はいう。『列女伝』では、邯鄲の「倡」とされる。『史記正義』はいう。趙幽王の母は「楽家」の娘だった。
『漢書』外戚伝はいう。武帝の李夫人は、もとは「倡進」だった。顔師古はいう。「倡進」とは、楽人である。ショウと読む。
『後漢書』光武の郭皇后紀はいう。「倡飲して甚だ歓ぶ」と。章懐はいう。『説文』によると「倡」とは「楽」である。『後漢書』桓譚伝は、桓譚が「性は倡楽をたしなむ」とする。章懐はいう。「倡」とは俳優である。
周寿昌はいう。曹操の父・曹嵩は、すでに出生が明らかでない。曹丕の母は「倡」家である。曹叡の母は、袁熙の妻である。陳寿は曹氏に事情を、隠さずに書いた。「直筆」である。
盧弼はいう。声楽や音律は、秩序を調えるものだ。後世のように淫らで賤しくない。卞皇后の列伝に、おとしめる記事がにあ。『世説』では賢者に記される。また夏侯惇伝で、曹操から楽倡を賜る。出自の記述は、卞皇后をおとしめない。
ぼくは思う。卞皇后が「秩序の外部からきた者」と捉えつつも、卞皇后をけなさない。そういう視点で論じたい。「楽人は秩序の外部だから賤しい」と「楽人は秩序の内部だから賤しくない」は、卞皇后に対する評価は正反対だけど、前提を共有した、共犯関係にある。この前提と共犯に、ぼくは賛成しない。うーん、いろいろな象徴的な意味を背負わせられる出自だ。おもしろい。


魏書曰。后以漢延熹三年十二月己巳生齊郡白亭、有黃氣滿室移日。父敬侯怪之、以問卜者王旦、旦曰「此吉祥也。」

『魏書』はいう。卞皇后は、後漢の延熹3年(160)12月己巳に、斉郡の白亭でうまれた。

曹操が5歳、年長である。皇后は太和4年、71歳で死んだ。斉郡の治所は、臨菑である。斉郡は、武帝紀の建安4年にある。白亭は詳らかでない。ぼくは思う。白帝が分からないことが分かれば、ものすごく充分だ。

部屋に黄気がみちた。父の敬侯が怪しんだ。卜者の王旦が「吉祥だ」といった。

『世説』の注釈では、卜者の王越である。
ぼくは思う。卞皇后の父は、出てくるのかなあ。曹操の「外戚」って新鮮だ。さかのぼって諡号だけもらったのか。


年二十、太祖於譙納后爲妾。後隨太祖至洛。及董卓爲亂、太祖微服東出避難。袁術傳太祖凶問、時太祖左右至洛者皆欲歸。后止之曰「曹君吉凶未可知。今日還家、明日若在、何面目復相見也?正使禍至、共死何苦!」遂從后言。太祖聞而善之。建安初、丁夫人廢、遂以后爲繼室。諸子無母者、太祖皆令后養之。

卞皇后が20歳のとき、譙県で曹操がめとった。のちに曹操にしたがい、洛陽にゆく。董卓の乱により、曹操は微服して、東して避難する。

曹操にめとられたのは、霊帝の光和2年。すでに曹操は、頓丘令だった。
『世語』賢媛篇の注釈はいう。卞皇后は、倹約して、華麗せず、母としての徳行があった。ぼくは思う。『世語』に出てくるのか! 曹操は「うそつき」として扱われ、卞皇后は良妻賢母として扱われる。「卞皇后が曹操を善導した」という結末までには、到らないのね。物語のカタには、はめないのね。
董卓の乱とは、献帝の中平6年である。卞皇后は30歳。すでに曹丕を生んでいる。ぼくは思う。董卓の乱のとき、曹操は35歳なのかあ。知ってはいたが、遅咲きだなあ。まだあと6年は、曹操が咲かないままだし。

袁術が、曹操の凶問(お悔やみの使者か)をよこした。ときに曹操の左右で、洛陽にいる者は、みな故郷に帰りたい。だが卞皇后がとめた。「曹操の生死がわからない。いま家に還れば、曹操が生きていた場合に、会わせる顔がない。禍いがくるなら、曹操とともに死のう」と。

ぼくは思う。あとから、つくりましたねw

左右の者は、卞皇后にしたがった。曹操は、卞皇后の采配を、善しとした。建安初、丁夫人を廃して、正妻となった。母のない子を、卞皇后に養わせた。

『左伝』恵公に「室を継ぐ」という同じ表現がある。杜預注はいう。正妃が死んだので、次妃が「内事を摂行」した。これを「室を継ぐ」という。


魏略曰。太祖始有丁夫人、又劉夫人生子脩及清河長公主。劉早終、丁養子脩。子脩亡於穰、丁常言「將我兒殺之、都不復念!」遂哭泣無節。太祖忿之、遣歸家、欲其意折。後太祖就見之、夫人方織、外人傳云「公至」、夫人踞機如故。太祖到、撫其背曰「顧我共載歸乎!」夫人不顧、又不應。太祖卻行、立于戶外、復云「得無尚可邪!」遂不應、太祖曰「真訣矣。」遂與絕、欲其家嫁之、其家不敢。初、丁夫人既爲嫡、加有子脩、丁視后母子不足。后爲繼室、不念舊惡、因太祖出行、常四時使人饋遺、又私迎之、延以正坐而己下之、迎來送去、有如昔日。丁謝曰「廢放之人、夫人何能常爾邪!」其後丁亡、后請太祖殯葬、許之、乃葬許城南。後太祖病困、自慮不起、歎曰「我前後行意、於心未曾有所負也。假令死而有靈、子脩若問『我母所在』、我將何辭以答!」

『魏略』はいう。曹操には、丁夫人と劉夫人がいた。劉夫人は、曹昂と清河長公主を生んだ。劉氏が早く死んだので、丁氏が曹昂を養った。

『魏志』夏侯惇伝はいう。夏侯惇の子・夏侯楙は、清河長公主をめとる。
『漢書』外戚伝はいう。竇姫が皇后となり、竇姫の娘は館陶長公主となったと。顔師古はいう。最年長の娘を、長公主という。
『後漢書』皇后紀はいう。皇女は、みな公主に封じられる。儀服は列侯とおなじ。尊崇された者を長公主という。儀服は蕃王とおなじ。のちに、安帝と桓帝の妹は長公主となった。皇女と同じ待遇である。皇女で公主に封じられた者が生んだ子は、母たる公主を世襲して列侯となった。
ぼくは思う。公主のこと、なにも知らなかった!
章懐はいう。蔡邕によると、皇帝の娘は公主であり、皇帝の姉妹が長公主である。だが建武15年、武陽公主を長公主とした。皇帝の娘のうち、尊崇された者も長公主となれる。蔡邕のいうように姉妹だけでない。
ぼくは思う。蔡邕は、後漢の制度とちがうから、わざわざ公主に関する規定をつくった。後漢の実態に適合していれば、蔡邕がわざわざ述べる必要がない。蔡邕は、そういう人だなあ。「当為」さん。

曹昂が死んだ。丁夫人が怒ったので、曹操は「真に訣なり」と別れた。卞皇后は、丁夫人に礼儀をもって接した。曹操が死にかけた。「死後に霊があり、もしも曹昂の母の所在を聞かれたら、答えられないなあ」といった。

ぼくは思う。わりに物語として、おもしろいのだが。完成されて「閉じている」がゆえに、ぼくが加えることがない。『三国志集解』の注釈も、めぼしいものがない。


魏書曰。后性約儉、不尚華麗、無文繡珠玉、器皆黑漆。太祖常得名璫數具、命后自選一具、后取其中者、太祖問其故、對曰「取其上者爲貪、取其下者爲偽、故取其中者。」

『魏書』はいう。卞皇后は倹約した。文繡や珠玉はつかわず、道具は、黒漆である。曹操が宝物をあたえると、卞皇后は中ほどを選ぶ。曹操が理由をきいた。卞皇后はいう。「上をとれば貪りで、下をとれば偽りとなる。だから中ほどを取ったのだ」と。

ぼくは思う。「賢者」のテンプレートがあって、主語を卞皇后に置き換えただけだろうなあ。こういう「賢者キャラの集合的データベース」に編纂者がアクセスして、データベースを消費して、逸話がひろがってゆく。コモデティ。


曹丕と曹植を、メタ・ダブルバインドする

文帝爲太子、左右長御、賀后曰「將軍拜太子、天下莫不歡喜。后、當傾府藏、賞賜」后曰「王、自以丕年大、故用爲嗣。我但當以免無教導之過、爲幸耳。亦何爲當重賜遺乎!」長御還、具以語太祖。太祖悅曰「怒不變容、喜不失節。故是最爲難。」

(建安22年) 曹丕が太子となる。卞皇后の左右の長官が慶賀した。「天下は歓喜する。卞皇后は、貯蔵品を天下にくばれ」と。卞皇后はいう。「曹丕は年長だから、継嗣になっただけ。天下にバラまきをするほど、めでたくない」と。長官が曹操に報告した。曹操は、卞皇后の態度を悦んだ。

ぼくは思う。曹丕が後継者になれた理由。「年長だから」それだけ。『魏志』后妃伝で、卞皇后が断言している。まあ諸氏が想像をふくらますように、実態はこればかりじゃないのかも。卞皇后が自制して、あえて「つまらん」ことを言った。抑止のきく卞皇后は素晴らしい、という記事だと読むべきかもしれない。それなら、ぎゃくに、曹丕が選ばれたことがドラマチックな事件となる。
ぼくは思う。もしも、曹彰、曹植だけが競争者であるのなら、卞皇后は曹丕が選ばれても喜ばなかろう。つまり、曹丕、曹彰、曹植でない者が、後継者になる可能性を、曹操も卞皇后も共有していたのでは。だから左右の長官も、曹操も、卞皇后がじつは嬉しいことを見透かしていた。曹沖の死後も、卞皇后でない者が生んだ子が、後継者になる可能性があったのね。
ツイッター用まとめ。曹沖の死後、曹操の後継者は、曹丕と曹植、これにくわえて、せいぜい曹彰かと思いきや。曹丕が太子に選ばれたとき、曹操は卞皇后の喜悦を見透かした。つまり曹操と卞皇后は、「卞皇后が生んでない子が、後継者に指名される」ことの可能性を、暗黙であっても共有していたということになる。だれだろう。

曹操はいう。「怒っても喜んでも、顔色をかえないのは、難しいことだ」と。

『古文苑』は、曹操の卞夫人が、楊彪の夫人の袁氏=袁術の妹に送った文書を載せる。ぼくは思う。ちゃんと原文を引用しよう。書き写す。袁術の没落後、漢臣の代表者ともいえる楊彪は、曹操や曹丕と対立する。でも女同士の贈物による交際は続いてた。という文書です。
卞頓首。貴門不遺、賢郎輔位、毎感篤念、情在凝至。賢郎盛徳熙妙、有蓋世文才、闔門欽敬、宝用無已。方今騒擾、戎馬屢動、主簿股肱近臣、征伐之計、事須敬咨。官立金鼓之節、而聞命違制。明公性急忿、然在外輒行軍法、卞姓当時亦所不知、聞之心肝塗地、驚愕断絶、悼痛酷楚、情自不勝。夫人多容、即見垂恕、故送衣服一籠、文絹百匹、房子官錦百斤、私所乗香車一乗、牛一頭。誠知微細、以達往意、望為承納。おしまい。
ぼくは思う。董卓が乱を為したとき、洛陽にいる卞氏に曹操の死を告げるのは、袁術の使者。卞氏は、袁術の妹(楊彪の妻)と贈物による交際がある。もしや袁術と曹操は、倡たる卞氏を媒介?にして、洛陽で親密だったのかも。洛陽の曹操は、袁紹との友情が戯画化された。いっしょに遊ぶとか、袁紹が曹操の暗殺を試みるとかね。これに加え、曹操と袁術との関係も、べつのジャンルで戯画的だと思う。すなわち物語のネタになり得るのかも。
つくづく曹操政権は、袁紹と袁術の「三遊間のゴロ」から発生したなあ、と思える。実際にそうだと言いたいのでなく、結果論的にふりかえった上で、曹操が二袁と類似していると思う。この着想にもとづいて、「洛陽における曹操の二袁の物語」を遡及的につくる。たのしい遊び!
曹丕が袁術の子で、曹叡が袁熙の子とか。どうしようもないなー。
@Golden_hamster さんはいう。袁術は琅邪の人間と関係が深いんでしたね。
ぼくは補う。卞皇后は瑯邪の人。なんて楽しい、推論の悪ふざけでしょう!
長くなってますが、、
ぼくは思う。日本の中世史の本を読んでいると。「やめておけば良いのに」政敵と通婚する。同格の協調者、同格の敵対者、と通婚する。協調者とは関係を強固にし、敵対者とは関係を融解させるためかな。その結果、2世代くらい経過すると、「だれだれ氏の人間」というアイデンティティが壊れる。敵対者の義兄弟でありながら、協調者の従兄弟であり、、と、ぐちゃぐちゃになる。「結婚」という人類学的な戦略の場は、ダイナミックな歴史をつくる。ブルデューにも『結婚戦略』という本がある。三国志ばかり見ていると、男性ばかりが登場して(まあ前近代史は似たようなものか)、数世代を経る前に終わってしまう。ゆえに、日本中世史のような複雑さが生じない。わかり良いけど、つまらない。べつにフェミニズムじゃなくても、女性を(男性と対等の)主役にして、歴史的事実の経過を追ってみたら面白そう。この分野では「古今東西、わりに同じ」という連想が許されやすいと思うので、いろいろ裏から話を膨らませそう。
残念ながら、というか、幸運にも、というか、人間は男女がいないと、子づくりできない。必然的に、勢力は静止することができず、流動させられる。「世襲」がフィクションなのは、男女という異質な者の結婚が、かならず避けられない(避ける必要もない)からだなあ。
袁紹と曹操のオトコの対立は、袁熙と曹丕という次世代に持ち越されて、おもしろくなる。むしろ袁紹と曹操は、「曹叡の父は、袁熙か曹丕か」という論題を提供するために、戦ったとすら思える。袁術とも人脈が接続する卞皇后により、袁術と曹操という、献帝をめぐる対立は厚みがでてくる。オトコの袁術、オトコの曹操、不完全なオトコの献帝、というオトコばかりの対立では、いかにも仕方がない。
もしくは献帝を「象徴的な女」と見なせば。曹操は袁術から、卞皇后と献帝という2人の女を奪うことによって、漢仲革命を失敗させ、漢魏革命を成功させたのだろう。
こういう読解を楽しめるのが、「女」の列伝を読んだ甲斐である。嬉しいなあ!


二十四年、拜爲王后。策曰「夫人卞氏、撫養諸子有母儀之德、今進位王后。太子諸侯陪位、羣卿上壽。減國內死罪一等」二十五年太祖崩。文帝卽王位、尊后曰王太后。及踐阼、尊后曰皇太后、稱永壽宮。明帝卽位、尊太后曰太皇太后。明帝卽位、尊太后曰太皇太后。

建安24年、魏王后となる。策していう。「夫人の卞氏は、諸子を撫養して、母儀之德がある。いま王后に進める。太子と諸侯は、卞氏に陪位せよ。羣卿は祝辞をのべよ。国内の死罪1等を減じる」と。

武帝紀はいう。建安24年(219)、秋7月、卞氏を王后とした。『通鑑』はいう。詔して、魏王の曹操の夫人を王后とした。盧弼はいう。王后を立てる策文は、まさに魏国の策命である。後漢の天子が、詔したのでない。死罪1等を減じたのも、曹魏の国内だけである。『通鑑』は誤りである!

建安25年、曹操が崩じた。曹丕が魏王につき、卞氏は王太后となる。

『世説新語』賢媛篇はいう。曹丕は、曹操の後宮をすべて嗣ごうとした。武帝紀の建安25年の注釈にある。

曹丕が践祚すると、卞氏は皇太后となる。永壽宮と称された。

『晋書』職官志はいう。太后の三卿とは、衛尉、少府、太僕である。漢代に設置された。みな太后宮の官号と同じである。同名の(朝廷の)九卿よりも上位である。太后がいなければ、すぐに廃止された。曹魏は漢制を改めた。太后の三卿を(朝廷の)九卿よりも下位とした。
銭大昭はいう。文帝紀の注釈はいう。延康元年11月、すでに永寿少府という官職の毛宗がいる。永寿宮の呼称は、曹丕が践祚したとき、初めて設置されたのでない。

曹叡が即位すると、卞太后は太皇太后となる。

魏書曰。后以國用不足、滅損御食、諸金銀器物皆去之。東阿王植、太后少子、最愛之。後植犯法、爲有司所奏、文帝令太后弟子奉車都尉蘭持公卿議白太后、太后曰「不意此兒所作如是、汝還語帝、不可以我故壞國法。」及自見帝、不以爲言。
臣松之案。文帝夢磨錢、欲使文滅而更愈明、以問周宣。宣答曰「此陛下家事、雖意欲爾、而太后不聽。」則太后用意、不得如此書所言也。

『魏書』はいう。卞皇后は節約した。卞皇后は、末子の曹植をもっとも愛した。

ぼくは思う。卞皇后は、曹丕を圧迫するが、曹丕が皇帝だから、表だって尊ばざるを得ない。卞皇后は曹植を愛しながらも、表だって尊ぶこともなく、庇いもしない。
曹丕に対しては「言葉がやわらかく、態度がキツい」ので、日本の親。曹植に対しては「言葉がキツく、態度がやわらかい」ので、アメリカ風の親。まあ日本とアメリカは、単純化した例で、あくまでイメージです。日本の親は、働かない子に対して、文句を言いながらも、家にいさせてやる。アメリカの親は、働かない子に対して、文句を言わないが、家から追いだすんだって。
賢母たる卞太后は、曹丕にも、曹植にも、ダブルバインドを課する。2人の子は、母に抑圧をされる。曹丕も曹植も、なんだか成熟が阻害されて、気持ちわるい感じで滅びてゆく。ただし「母さんの子育ての方針は、こういうふう」と子供が理解できれば、まだ救いがある。曹丕と曹植を、正反対の方法でダブルバインドするから、曹丕と曹植は、メタ・ダブルバインドとでも言うべき状態になる。曹丕と曹植は、「母さん、本心はどこにあるの」という、「子供の問い」を立てる。大人が答えを知っていて、子供が知らないという非対象がある、という後手に回った問いかけだ。「子供の問い」を発した瞬間、相手に機先を制せられ、身動きが取れないそうだ。

のちに曹植が法をおかした。有司が、曹植の罪を上奏した。曹丕は、卞太后の弟の子・奉車都尉する卞蘭に、公卿の議論を持たせ、卞太后に報告させた。卞太后はいう。「還ってから曹丕に伝えろ。私に気をつかって、国法を壊すな。国法どおり、曹植を罰せよ」と。卞太后が曹丕にあっても、曹植のことは言及しない。

ぼくは思う。卞太后の複雑な態度は、「皇帝の母」と「息子の母」という2種類の葛藤のせいなのか。さらに複雑化するなあ。少なくとも現代日本の臨床で「天下の母として自覚が」なんて、悩みを抱えた家族はいない。だろう。

裴松之はいう。曹丕は夢をみた。銭をみがき、刻印を消したいのだが、かえって刻印が鮮明となる。周宣が教えた。「曹丕の家の問題だ。曹丕の欲望を、卞太后が抑圧している」と。裴松之が考えるに、卞太后は『魏書』で「私に気づかいなく、曹植を罰せよ」というが、曹丕にできるわけない。

ぼくは思う。この銭の夢は、いろいろ解釈ができそう!
ぼくは思う。母が「私は子を抑圧していない」と自己申告することと、子が母の抑圧から自由なことは、べつの次元の話だ。裴松之は、卞太后の意図が、そのまま曹丕のなかで実現すると考えているようだが、あまりにも心理学を分かっていないと思う。
何焯はいう。卞皇后は権数がある。もし顕わに曹植をすくえば、武姜や叔段と同じになる。曹植を救えと明言しないが、曹植を救うように仕向けたのだ。
盧弼はいう。曹植伝はいう。黄初2年、有司が曹植の罪を奏した。曹丕は卞太后に気づかい、曹植を安郷侯とした。『魏志』方技伝の周宣伝でも、この話がある。黄初2年でよい。史料のなかで、曹植を東阿王とするが、曹植が東阿王となるのは、つぎの明帝の太和3年である。王号が、年代と一致しない。
ぼくは思う。このページも「卞皇后」と書き始めたせいで、呼称がめちゃくちゃです。まあ、わかるので放置します。すみません。
『世説』悔尤篇はいう。曹丕が曹彰を毒殺した。卞太后は曹丕にいう。「私の任城=曹植を殺したね。私の東阿=曹植を殺させるものか」と。ここでも曹植が東阿王と記されるが、まだ東阿王になってない。いいじゃん。


魏書又曰。太后每隨軍征行、見高年白首、輒住車呼問、賜與絹帛、對之涕泣曰「恨父母不及我時也。」太后每見外親、不假以顏色、常言「居處當務節儉、不當望賞賜、念自佚也。外舍當怪吾遇之太薄、吾自有常度故也。吾事武帝四五十年、行儉日久、不能自變爲奢、有犯科禁者、吾且能加罪一等耳、莫望錢米恩貸也。」帝爲太后弟秉起第、第成、太后幸第請諸家外親、設下廚、無異膳。太后左右、菜食粟飯、無魚肉。其儉如此。

『魏書』はいう。卞太后はいつも随軍した。高齢の兵士をいたわった。卞太后は節約して、親族を優遇しない。「家族は私を薄情だというかも知れない。だが節約と禁令遵守は、家族にも適用されるべき規則だ。家族に、銭米を特別に貸さない」と。
曹丕は、卞太后の弟・卞秉のために、建物をつくった。卞太后は、節約した食糧でもてなした。このように倹約が徹底していた。

盧弼はいう。このあとに『魏略』では、卞太后が卞秉に銭帛をたまわった、という記述がある。この妥当性について、裴松之が論じている。甄后伝の注釈にある。
ぼくは思う。自制のきいた外戚。後漢の反動として、高評価なのは、自然なことだと思う。母として、どこまで子育てに成功したのか、それは分析がむずかしい。しかし倹約だけは、かたい「史実」と見なして良さそうだ。というか、これだけの倹約の記事を読まされて、「卞太后は散財して、威信を故事するタイプの外戚だ」と言えば、そもそも歴史の読者でいられなくなるw


曹叡が、卞太后の祖父母を追封する

黃初中、文帝欲追封太后父母。尚書陳羣奏曰「陛下、以聖德應運受命、創業革制。當永爲後式。案典籍之文、無婦人分土命爵之制。在禮典、婦因夫爵。秦違古法、漢氏因之。非先王之令典也」帝曰「此議、是也。其勿施行。以作著詔下藏之臺閣、永爲後式」至太和四年春、明帝乃追諡。太后祖父廣、曰開陽恭侯。父遠、曰敬侯。祖母周、封陽都君。及恭侯夫人。皆贈印綬。其年五月、后崩。七月合葬高陵。

黄初のとき、曹丕は、卞太后の父母を追封したい。尚書の陳羣が奏した。「『礼記』は、婦人は無爵という。妻の爵位は、夫の爵位と同じと見なす」と。曹丕は「陳羣が正しい。尚書の台閣に、陳羣の文書をしまえ。ながく参照せよ」という。太和4年春、曹叡は陳羣にさからい、卞太后の父母に追封した。

ぼくは思う。曹叡は、曹丕の決定をくつがえした。

卞太后の祖父・卞広を、開陽恭侯とする。父の卞遠を、開陽敬侯とする。(卞太后の) 祖母の周を、陽都君に封じる。母を、恭侯夫人とする。みな印綬を贈る。

陽都は、諸葛誕伝にある。『独断』はいう。異姓の婦女を、恩沢によって封じれば「君」とよぶ。長公主に比する。
ぼくは思う。「比2千石」が、「中2千石」の俸禄の55%しか与えられない。月100石と、月180石だ。ページの上部参照。つまり異姓の婦女「君」は、長公主の55%だけ、尊ばれたのだろう。数字はあくまでイメージです。
陳景雲と盧明楷は「祖母」が誤りというが、盧弼によれば「祖母」でよい。

同年5月、卞太后は崩じた。7月、曹操の高陵に合葬された。

ぼくは思う。死ぬ前提で、曹叡は封爵したのか。「生前の追贈」みたいなもの。いやあ、気持ちはわかるけど、前例があるのかな。ところで、出世するとは、年齢が増えて、現役の社会から押し出されること。このごろ、わかってきた。
明帝紀では、6月戊子に卞皇太后が崩じた。明帝紀の太和4年に詳しい。
侯康はいう。魏收『魏書』礼志2はいう。卞太后が崩じると、同6月中に葬られた。王粛と韋誕は古礼に則れと主張した。高堂隆もう王粛に賛成した。よくわからん。というか、礼志を完備した三国時代の史書があったのか。惜しいなあ! 散逸させちゃダメでしょ。どうせぼくには、読めないけど。
曹操の高陵は、武帝紀の建安25年にある。曹植が卞太后への誄表をつくった。上海古籍586頁にある。はぶきます。


すごく無能な卞秉伝

初、太后弟秉、以功封都鄉侯。黃初七年進封開陽侯、邑千二百戶、爲昭烈將軍。秉薨。子蘭嗣。

はじめ卞太后の弟・卞秉は、功績により、都郷侯に封じられた。黄初7年、開陽侯にすすめて封じられた。食邑は1200戸。昭烈将軍となる。卞秉は薨じた。

銭大昕はいう。東京(洛陽)には、都郷侯に封じられるものが、とても多い。都郷とは、洛陽の近郭の郷である。郷侯の上位である。
洪飴孫はいう。昭烈将軍は、定員1名、第5品。


魏略曰。初、卞后弟秉、當建安時得爲別部司馬、后常對太祖怨言、太祖答言「但得與我作婦弟、不爲多邪?」后又欲太祖給其錢帛、太祖又曰「但汝盜與、不爲足邪?」故訖太祖世、秉官不移、財亦不益。

『魏略』はいう。はじめ卞秉は、建安のとき、別部司馬となる。卞皇后は曹操に、怨言する。曹操は卞皇后にいう。「卞秉は、私の妻の弟になれただけでも、充分すぎないか」と。卞皇后は曹操に「銭帛をくれ」という。曹操は「卞皇后がぬすみ、卞秉に与える。これで足りないのか」という。曹操の時代、卞秉は官職も財産もふえない。

ぼくは思う。ふつうに卞秉は、無能だったんじゃないか。「曹操が外戚を抑えるという方針で」などと、大きな話じゃあるまい。倹約が好きな卞皇后から見ても、卞秉は冷遇されていたが、それも能力に釣りあうものだったのだろう。


子の卞蘭が(開陽侯を)嗣いだ。130115

ぼくは思う。ここからは、高貴郷公の皇后の話になるので、後ろに飛ばします。陳寿は、卞氏でまとめてしまったが。やっぱり順序がおかしいと、ぼくは思うのです。
2013年の正月休みに、冒頭と陳寿の評だけ、『三国志集解』を見ながらつくった。会社で部署移動して、1週間半くらい、とても忙しかった。今日は残業せずに帰れたので、卞皇后をやれた。卞皇后は、異動後にやった記念すべき列伝になりました。

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曹丕の甄皇后:曹叡がつくる架空の皇后

甄氏1:王莽の大将軍の子孫、冀州の資本

文昭甄皇后、中山無極人、明帝母。漢太保、甄邯後也、世吏二千石。父逸、上蔡令。后三歲失父。

文昭甄皇后は、中山の無極の人である。曹叡の母である。

『後漢書』袁紹伝で、袁紹は「天子を鄄城にうつせ」という。「甄」を「ケン」と読むか、「シン」と読むかについて。上海古籍591頁にある。
『万姓統譜』はいう。舜陶甄河浜。「シン」氏である。中山の著姓である。
『郡国志』はいう。冀州の中山国の毋極県である。『寰宇記』はいう。唐代の武后のとき「無極」に改められた。無極県に、甄豊、甄邯、甄像らの墳墓がある。県城の西南35里にある。

前漢の太保した甄邯の後裔である。世よ吏2千石である。

『漢書』王莽伝はいう。王莽は、大司馬の孔光が名儒なので、孔光の娘婿の甄邯を、侍中・奉車都尉とした。建議と定策をやり、甄邯は承陽侯となる。居摂元年、甄邯は太保になった。翟義が郡国に檄をうつして、「王莽が平帝を毒殺した」という。王莽は太保の甄邯を大将軍として、天下の兵を領させた。始建国元年、太保後丞・承陽侯の甄邯を、大司馬・承新公とした。始建国4年2月、死んだ。
ぼくは思う。翟義の討伐を仕切ったのだから、甄邯は片腕である。
@bb_sabure さんはいう。甄氏は、元は袁氏の嫁ですから袁紹は王莽と同じく後漢を滅ぼす気だった!ということでしょうか。
ぼくはいう。王莽にとっての翟義は、袁紹にとっての曹操にあたる。どういうことか。翟義は「王莽が平帝を殺した」という、デマ?を檄文に載せました。新政権をジャマして、旧政権の忠臣ぶるという点で、翟義と曹操は似てます。そして、甄氏は翟義を平定する大将軍でした。甄氏も「曹操を平定すべき将軍」の位置かも。甄氏は「曹操を殺す将軍」として期待されながら、曹操に屈服して、娘を曹氏に提供させられた。「翟義が王莽を滅ぼす。翟義の子が、甄邯の娘をめとる」のと同じだ。

父の甄逸は、上蔡令となる。甄皇后が3歳のとき、甄逸が死んだ。

趙一清はいう。『世説』惑溺篇にひく『魏略』で、甄皇后の父を「甄会」とする。梁商鉅も同じという。盧弼がみるに、甄逸でよい。文中の副詞「たまたま」が、父の名と誤読された。
『郡国志』はいう。上蔡は、豫州の汝南郡である。ぼくは思う。袁氏の故郷である郡で、甄皇后の父が県令をやっていた。さすがに県までは一致しないが、存在くらいは認識したのかも。
甄皇后は光和5年に生まれたので、父が死んだのは中平元年である。
ぼくは思う。甄后の父は、汝南の黄巾に殺されたのではないか? 黄巾は郡県の城を目指したので。「曹叡の祖父が、黄巾の乱で落命した」って、おもしろいなあ。かたや曹叡の祖父たる曹操は、黄巾を平定した。もう1人の祖父たる甄逸は、黄巾に殺害された。いい対比!!


魏書曰。逸娶常山張氏、生三男五女。長男豫、早終。次儼、舉孝廉、大將軍掾、曲梁長。次堯、舉孝廉。長女姜、次脫、次道、次榮、次卽后。后以漢光和五年十二月丁酉生。每寢寐、家中髣髴見如有人持玉衣覆其上者、常共怪之。逸薨、加號慕、內外益奇之。後相者劉良相后及諸子、良指后曰「此女貴乃不可言。」后自少至長、不好戲弄。年八歲、外有立騎馬戲者、家人諸姊皆上閣觀之、后獨不行。諸姊怪問之、后答言「此豈女人之所觀邪?」年九歲、喜書、視字輒識、數用諸兄筆硯、兄謂后言「汝當習女工。用書爲學、當作女博士邪?」后答言「聞古者賢女、未有不學前世成敗、以爲己誡。不知書、何由見之?」

『魏書』は甄皇后の兄弟をいう。甄逸は、常山の張氏をめとり、3男5女をもうけた。次男の甄𠑊は、孝廉にあがり、大将軍掾、曲梁長となる。3男の甄堯も、孝廉にあがる。

ぼくは思う。中山と常山。冀州のなかでの通婚。袁紹は、この通婚圏をまるごと抱え込んだのだろう。袁氏は甄氏と結婚することで、冀州の通婚圏にみずからを接続した。甄皇后という1人の女性を、袁紹の子、曹操の子が奪いあうことは、冀州の通婚圏=統治権を奪いあうことに近似できるのかも。
ぼくは思う。甄皇后の「美貌」とは、「冀州の豊かさ」を象徴化したもの。「冀州の豊かさが」、「冀州の豊かさが」と力説すると、ダサい。だから、甄皇后の美貌に置き換えられた。袁氏と曹操が奪いあった。
ぼくは思う。光武は、冀州の郭氏を皇后として、冀州の支持をえて、天下をとった。天下をとったら、郭氏が不用になり、陰皇后にかえた。光武にとっての郭皇后とは、袁紹にとっての甄氏であり、曹操にとっての甄氏でもある。曹丕がのちに甄氏を疎んじたのは、光武の故事とおなじだ。そこまでマネしなくてもw
ツイッター用のまとめ。光武帝の故事どおり、甄氏を虐げた曹丕。光武帝は、冀州を味方にするため、冀州の著姓である郭氏から皇后を迎えた。天下の平定後、陰皇后に代えた。後漢末の甄氏も、冀州に通婚圏をもつ著姓。袁紹、曹操にねらわれた。中原の平定後、曹丕は郭皇后に代えた。「光武帝への準拠=正解」という図式ならば、曹丕は正解を選んだ。
ぼくは思う。ところで、後漢初に冀州の郭氏は虐げられ、皇后を降ろされた。後漢末の郭氏(じつはこれも冀州の人)は、曹丕により皇后にしてもらえた。郭氏にはじまり、郭氏におわる。この「ねじれ」が良いなあ! おそらく、光武帝は陰皇后と仲が良く、曹丕は郭皇后と仲が良かったのだろう。1人目の正妻は、冀州をめぐる政略結婚だから、「仕事上のお付き合い」だったのだ。

5女が甄皇后である。光和5年12月丁酉に生まれた。甄皇后が寝ると、玉衣をかける者が家人に見えた。甄逸が死ぬと、まだ3歳の甄皇后は号泣した。9歳で書をよろこぶ。兄に「お前は女の仕事をならえ。書物をもちいて、学問をやるが、お前は女の博士になるのか」と。甄皇后は「賢女の前例を学び、戒めにするには、書物を知らねばならない」という。

ぼくは思う。このあたりの美談は、曹叡の時代に組み立てられたのだろう。曹丕に虐げられた甄皇后を、実子の曹叡がもちあげるにあたり、美談が必要とされた。甄皇后の問答は、「どういう美談が要請されたか」を知るのに使うべきであり、「甄皇后はどういう人物だったか」を知るためには使えない。関係がないのだ。


後天下兵亂加以饑饉、百姓皆賣金銀珠玉寶物。時后家大有儲穀、頗以買之。后年十餘歲、白母曰「今、世亂而多買寶物。『匹夫無罪、懷璧爲罪』又左右皆飢乏。不如、以穀振給親族鄰里、廣爲恩惠也」舉家稱善、卽從后言。

天下で兵乱おき、飢饉となる。百姓は、金銀や珠玉や宝物を売ってでも、食物がほしい。甄氏は穀物をもっていたので、もうけた。甄皇后は母に「罪なき匹夫も、宝璧を持ったばかりに罪をえる。穀物を売った利益を、親族や隣里に分配せよ」という。甄氏は、家をあげて分配をした。

ぼくは思う。価値のある「資本」は、ときと場合によって代わる。もちろん飢えた者には、穀物がもっとも価値がある。さらに甄皇后の見立てで、どうやら兵乱のもとでは、金銀でもなく、穀物でもなく、圧倒的な贈与により、心理的な債権を得ることに価値があるみたいだ。これなら、盗賊にも奪われない。金銀を持っていれば、暴力によって奪われるから、潜在的にマイナスですらある。
ぼくは思う。このあたりのエピソードは、『三国志集解』が沈黙する。ただの逸話だから、おもしろいけれど、事実関係の注訳をつけにくい。せいぜい語釈だ。かってな読解をするのは、盧弼の仕事じゃないし。


魏略曰。后年十四、喪中兄儼、悲哀過制、事寡嫂謙敬、事處其勞、拊養儼子、慈愛甚篤。后母性嚴、待諸婦有常、后數諫母「兄不幸早終、嫂年少守節、顧留一子、以大義言之、待之當如婦、愛之宜如女。」母感后言流涕、便令后與嫂共止、寢息坐起常相隨、恩愛益密。

『魏略』はいう。甄皇后が14歳のとき、兄の甄𠑊が死んだ。甄皇后は母にたのみ、兄嫁を、じつの姉妹と同然に処遇させた。

ぼくは思う。データベースの消費です。甄皇后をもちあげるために、こういう「つまらない」話で水増しする。あとで裴松之が、ウソだと断じるので、ぼくが言うまでもない。曹叡の当局によって、ありそうな話が挿入されていく。それを陳寿がはぶく。


甄氏2:非業の死と矛盾する、裴注の美談

建安中、袁紹爲中子熙、納之。熙、出爲幽州。后、留養姑。及冀州平、文帝納后于鄴有寵。生明帝及東鄉公主。

建安のとき、袁紹は袁熙に、甄皇后をめとらせた。袁熙は、幽州にでた。

ぼくは思う。建安だから、196年以降。わりに遅いか。袁紹は、192年あたりに冀州牧となるが、冀州の通婚圏に食いこむまで、5年くらい要したことが分かる。袁紹が、黙っていても冀州を従えるのなら、甄氏を早く獲得しただろう。
幽州には、公孫瓚がいる。袁熙は公孫瓚と戦った? それとも、公孫瓚を滅ぼしたあと、袁熙が幽州にいったか? 公孫瓚が死ぬのは、199年。官渡がその翌年。官渡の前後の袁紹は、急撃な膨張により、曹操と衝突したのかも知れない。袁紹が冀州にいた190年代の10年弱は、わりに袁紹は動かない。冀州に「善政」を布いたのがこの時期。というか袁紹は、冀州を動く必要がなく、また領土を拡大する必要がなかったのかも。皮肉なもので、「李傕による平和」が崩れたことで、時代はぐっと前進してしまう。献帝が動いたことで、河北まで巻きこまれたか。

甄皇后は、冀州にとどまり、袁紹の妻をやしなう。(建安9年8月)曹操が冀州を平定すると、曹丕の妻となり、曹叡と東郷公主を生んだ。

魏略曰。熙出在幽州、后留侍姑。及鄴城破、紹妻及后共坐皇堂上。文帝入紹舍、見紹妻及后、后怖、以頭伏姑膝上、紹妻兩手自搏。文帝謂曰「劉夫人云何如此?令新婦舉頭!」姑乃捧后令仰、文帝就視、見其顏色非凡、稱歎之。太祖聞其意、遂爲迎取。
世語曰。太祖下鄴、文帝先入袁尚府、有婦人被髮垢面、垂涕立紹妻劉後、文帝問之、劉答「是熙妻」、顧擥髮髻、以巾拭面、姿貌絕倫。既過、劉謂后「不憂死矣」!遂見納、有寵。

『魏略』はいう。袁熙は幽州にゆき、甄皇后は鄴県にいる。鄴県が破られると、甄皇后は、袁紹の妻・劉氏のひざに頭を伏せた。劉氏が、両手を自縛した。曹丕は「劉氏はなぜ自縛するか。ひざの婦人に頭をあげさせろ」という。顔色が非凡なので、曹丕は甄皇后を妻とした。

『世説新語』惑溺篇にある。盧弼はいう。『後漢書』孔融伝で、孔融は曹操を非難して、「袁氏の婦女のおおくが、侵略された。曹丕は甄皇后を、私納した」という。侵略されたのは、甄皇后だけでない。また「私納」とあるから、正式な婚礼の儀式がない。戦勝した者が、掠奪したのだ。

『世語』はいう。甄皇后は、顔を髪でかくし、垢でおおった。

『三国志集解』に、めぼしい注釈なし。


魏書曰。后寵愈隆而彌自挹損、後宮有寵者勸勉之、其無寵者慰誨之、每因閑宴、常勸帝、言「昔黃帝子孫蕃育、蓋由妾媵衆多、乃獲斯祚耳。所願廣求淑媛、以豐繼嗣。」帝心嘉焉。其後帝欲遣任氏、后請於帝曰「任既鄉黨名族、德、色、妾等不及也、如何遣之?」帝曰「任性狷急不婉順、前後忿吾非一、是以遣之耳。」后流涕固請曰「妾受敬遇之恩、衆人所知、必謂任之出、是妾之由。上懼有見私之譏、下受專寵之罪、願重留意!」帝不聽、遂出之。

『魏書』はいう。甄皇后は、曹丕の他の妻を支援した。甄皇后はいう。「黄帝の子孫がさかえたのは、妾媵が多かったからだ。曹丕も、妾媵をふやせ。後嗣をたくさん生ませろ」という。

ぼくは思う。めぼしい後継者が、曹叡しか残らなかった。曹丕は、曹叡を立てたくなさそうだったのに、年長の子がなかった。この「私の嫉妬よりも、家の繁栄を思う」セリフは、曹叡の当局による皮肉だと思うなあ。
『史記』五帝本紀はいう。黄帝は25子がいて、姓を得たのは14人だ。ぼくは思う。甄皇后が書物を学んだ成果が、ここに現れた。これを言うために、学問をしていた(という当局の設定)である。

のちに曹丕は、任氏とケンカした。甄皇后はいう。「任氏は、郷党の名族だ。追いだすな」と。曹丕は任氏の性格に問題があるという。甄皇后は流涕した。「もし曹丕が任氏を追いだせば、私が任氏をそしったと思われる」と。曹丕は甄皇后に従わず、任氏を追いだした。

ぼくは思う。曹丕は個人の感情で判断する。甄氏は、男女の問題を「郷党の名族」から理解するように、個人の感情を見ていない。甄皇后は、甄氏が郷党の名族だから、自分が曹丕の寵愛を受けていると知っている。個人の感情で、議論しない。また曹丕の好き嫌いにより、任氏が追いだされれば、甄氏と任氏の対立に発展することを恐れている。「郷党の名族」同士の対立である。男性社会では、もっぱら戦闘や官爵によって、競われるけど。女性の側から見れば、だれが君主の寵愛を受けるかという仕方で、男性社会と同じくらい熾烈な戦いがある。曹丕は、それに鈍感な者として描かれている。どこまで、曹叡の当局によるディフォルメがされているのか。
『三国志集解』は任氏のことを注釈しない。そこ、がんばってください。
ぼくは思う。甄皇后の「美貌」とは、甄皇后の政治性を隠蔽するために、史料で意図的に選ばれている表現だと思うなあ。「甄氏が年齢をかさね、美貌が衰えたので、曹丕は甄氏を軽んじた」という、チープなストーリーに回収することで、ぎゃくに曹丕の政治的な冷静さを隠している。
ぼくはこの列伝を読み始める前、「所詮は、甄皇后の列伝なんて、男女の愛憎劇が書かれているだけでしょ。きっと、つまらないに違いない。適当に終わらせよう」と思っていた。このように、甄皇后を「見くびらせる」ことが、曹魏の当局による情報操作、印象操作だったのかもなあ。ハマるところだった。


(魏書曰)十六年七月、太祖征關中、武宣皇后從、留孟津、帝居守鄴。時武宣皇后體小不安、后不得定省、憂怖、晝夜泣涕。左右驟以差問告、后猶不信、曰「夫人在家、故疾每動、輒歷時、今疾便差、何速也?此欲慰我意耳!」憂愈甚。後得武宣皇后還書、說疾已平復、后乃懽悅。十七年正月、大軍還鄴、后朝武宣皇后、望幄座悲喜、感動左右。武宣皇后見后如此、亦泣、且謂之曰「新婦謂吾前病如昔時困邪?吾時小小耳、十餘日卽差、不當視我顏色乎!」嗟歎曰「此真孝婦也。」二十一年、太祖東征、武宣皇后、文帝及明帝、東鄉公主皆從、時后以病留鄴。二十二年九月、大軍還、武宣皇后左右侍御見后顏色豐盈、怪問之曰「后與二子別久、下流之情、不可爲念、而后顏色更盛、何也?」后笑答之曰「(諱)[叡]等自隨夫人、我當何憂!」后之賢明以禮自持如此。

『魏書』はいう。建安16年7月、曹操は潼関にゆく。卞皇后は孟津にゆき、曹丕と甄皇后は鄴県にいる。甄皇后は、卞皇后の体調を気づかった。建安17年正月、曹操と卞皇后が鄴県にもどる。卞皇后と再会した甄皇后は、快癒を喜んだ。卞皇后は「孝婦だ」と甄皇后を評価した。

武帝紀で、曹操が潼関から帰還したのは、建安17年3月である。
ぼくは思う。どうでもいい、データベースの消費だなあ!! 甄皇后よりも、体調不良のくせに、孟津まで出張っていた、卞皇后の行動理由のほうが気になる。

建安21年(10月)曹操は東征した。卞皇后、曹丕、曹叡、東郷公主は、みな従軍する。甄皇后だけ、病気で鄴県に留まる。建安22年9月、曹操らが帰還した。卞皇后が「曹叡と東郷公主と離れたのに、甄皇后は顔色がよい。なぜだ」ときく。甄皇后は笑って「卞皇后に預けてたから」という。

ぼくは思う。『三国志集解』でも「或る者」が、のちに甄皇后は死を賜るのに、ここは美辞に溢れるなあ、という。やはり、ウソではないが、あえて誇張して収録した美談なのだろう。本紀のように、時系列が詳細なのが、気になるけれど。まあその他は、とくに気にかからない記事である。


延康元年正月文帝卽王位。六月南征、后留鄴。黃初元年十月帝踐阼。踐阼之後、山陽公奉二女以嬪于魏。郭后、李、陰貴人並愛幸。后愈失意有怨言。帝大怒。二年六月遣使賜死、葬于鄴。

延康元年正月、曹丕が魏王につく。6月、曹丕が南征したが、甄皇后は鄴県に留まる。

『後漢書』献帝紀はいう。建安25年3月、延康と改元した。ぼくは補う。建安25年、延康元年、黄初元年は、いずれも同一の年である。ややこしいけど。

黄初元年10月、曹丕が魏帝に践祚した。献帝の2娘が、曹丕にとつぐ。郭皇后、李貴人、陰貴人は、曹丕に寵愛された。甄皇后は怨み言をいう。

ぼくは思う。献帝の娘までも、曹丕に寵愛され、甄皇后から寵愛が去る原因になったような書き方だ。どうなんだろう。献帝の皇后・曹氏も、曹操の娘だが、献帝と仲が良かったという。男性原理では、決定的な対立者で、ゼロサム・ゲームで傷つけあいそうな家同士でも。結婚という、男性原理を越えた行為により、構造が切りかわるのかも。どうみても「損失」でしかない禅譲は、女性の交換によって推進される。これは人身御供とも言い切れず、わりと本人たちは円満だったり。まあね、「円満でした」とウソでも書くのが、歴史家の仕事なのかも知れないが。
ぼくは思う。さっき裴注で、甄氏は「いくらでも妻妾を増やしてね」と言っていた。だが陳寿によると、甄皇后は寵愛が去るのを嫌った。以上から分かるのは、「男女関係は、史料に何とでも書けてしまう」ということだ。官爵の上下、戦闘の勝敗のように、カッチリ固まらない。円満なようで険悪、険悪なようで円満。そもそも男女の関係は、言語という象徴界に馴染まない。だから、陳寿と裴注で、正反対となる。
ぼくは思う。前近代において、女性は(ある論者が唱えるほど)虐げられてきたのでは、ないかも。歴史とは、史料の読解である。史料に写しとれないことは、「なかったこと」になる。「女性は存在しない」のはラカンだが、同じノリで「女性史は存在しない」のだ。現実界に存在しないのでなく(存在しているよね)、象徴界に存在し得ないから、歴史において、存在しないことになる。
ぼくは思う。そういう意味で、皇后の本紀や列伝は、「不得意なことを、敢えてやった」という奮闘である。まるで、「数字を一切つかわずに、数学をやる」ようなもの。これが苛酷すぎるなら、「横文字を一切つかわずに、野球をやる」でも良い。そんなバカな、ムリすんなよ、と思いつつも、この制約を課することで、かえって数学の本質に気づいたり、野球の特性に気づいたりするかも知れない。この事故的な発見をさせてくれるのが、皇后の記録です。
ぼくは思う。いま甄皇后の列伝にも出てくる「怨み言」は、卞皇后伝にもあった。卞皇后は、兄弟を昇進させてもらえないので、「怨み言」をした。正統的な手続を踏まないけれど、破壊的に効果のある、皇后による要望提出を、「怨み言」と書くのかなあ。

曹丕は大怒した。黄初2年6月、曹丕は使者をやり、甄皇后に死を賜った。鄴県に葬った。

『魏志』郭皇后伝はいう。甄皇后の死は、郭皇后を寵愛したことによる。李貴人は、『魏志』曹操と曹丕の子たちの列伝にある。
『史通』曲筆篇はいう。王沈『魏録』は、甄皇后を貶める詔書を載せる。郭延年はいう。王沈は、曹魏に不忠である。甄后を貶めることで、曹魏に醜さを強調したのだ。周寿昌はいう。王沈『魏録』は散逸して、裴注にもない。
『魏志』方技伝の周宣伝はいう。曹丕は「青い気が、地から天につながる」夢を見た。周宣は「とうとい女子が冤死する兆候だ」という。曹丕は、すでに甄皇后に死ねと命ずる文書を発行したあとで、間に合わず。
盧弼はいう。甄皇后の死の原因は、文帝紀の黄初2年にある。ぼくは思う。まえに『魏志』文帝紀をやったときも、省いたみたい。いかんなあ。上海古籍298頁。
曹植と甄皇后のことは、『魏志』曹植伝にある。


魏書曰。有司奏建長秋宮、帝璽書迎后、詣行在所、后上表曰「妾聞先代之興、所以饗國久長、垂祚後嗣、無不由后妃焉。故必審選其人、以興內教。令踐阼之初、誠宜登進賢淑、統理六宮。妾自省愚陋、不任粢盛之事、加以寢疾、敢守微志。」璽書三至而后三讓、言甚懇切。時盛暑、帝欲須秋涼乃更迎后。會后疾遂篤、夏六月丁卯、崩于鄴。帝哀痛咨嗟、策贈皇后璽綬。 臣松之以爲春秋之義、內大惡諱、小惡不書。文帝之不立甄氏、及加殺害、事有明審。魏史若以爲大惡邪、則宜隱而不言、若謂爲小惡邪、則不應假爲之辭、而崇飾虛文乃至於是、異乎所聞於舊史。推此而言、其稱卞、甄諸后言行之善、皆難以實論。陳氏刪落、良有以也。

『魏書』はいう。有司は、長秋宮を建てよと奏した。曹丕は璽書により、甄皇后を迎える。甄皇后は3たび辞退した。

『後漢書』皇后紀はいう。永平3年春、有司は長秋宮を建てよと奏した。章懐はいう。長秋宮とは、皇后の宮殿である。「長」は永いこと、「秋」は万物の成熟する季節である。甄氏に「皇后になれ」と言わず、「長秋宮にこい」と言ったが、皇后になれという意味である。
ぼくは思う。曹叡のとき、甄氏に皇后が追贈された。曹叡の当局にすれば、「曹丕は甄氏を皇后にする意図があったが、甄氏が主体的に辞退しただけだ。甄氏に皇后を追贈することは、政治的に正統である」と主張したい。だから、この『魏書』の逸話があるんだと思う。3回辞退したら、やはり皇后ではないのだけど。
ぼくは、このページで「甄皇后」と書いてるけど、これは遡って記しているだけだ。史家の筆法。文帝紀では「甄夫人が卒した」と、そっけない。

たまたま甄皇后が死んだ。曹丕は哀しみ、皇后の璽綬を贈った。
裴松之はいう。『春秋』の義では、国内において、大きな悪を諱んで記さず、小さな悪は記さない(記す)ものだ。

ちくま訳は、文義から「記す」を採用する。たしかに、大きな悪を記さず、小さな悪を記さなければ、ただ隠せば良いだけになり、わざわざ『春秋』の義として語る必要がない。ちくま訳の言うとおり。

曹丕が甄氏を皇后に立てずに殺したのは、明白である。曹魏の史官が、甄氏の殺害を「大きな悪」だと思うなら、記さないはずである。「小さな悪」だと思うなら、これほど言葉を飾らない(甄皇后の良識を称えない)はずである。

ぼくは思う。「小さな悪」だと思うなら、シレッと甄皇后を殺しておけば良い。甄皇后が、良い妻だったか、悪い妻だったか、それすら分からないようにして、ただ名前だけを記せばよい。という意味だろう。けっきょく、裴松之から見れば、曹魏の史官は、甄皇后の事件を「大きな悪」でもなく、「小さな悪」でもなく、「よくわからない」と扱ったように見えるようだ。ほんとにそうか?

裴松之が思うに『魏書』は、『春秋』が定めた、歴史の書き方を逸脱している。このように(歴史の書き方を知らない曹魏の史官がつくったなら)卞皇后の美談も、甄皇后の美談も、事実だと見なしがたい。陳寿が、卞皇后の美談と、甄皇后の美談を削除したのは、良い判断である。

梁商鉅はいう。裴松之がひく各書は、甄皇后の美談を記す。結末と一致しない。以上から梁商鉅が考えると、甄皇后は、曹丕と良好な関係になく、わるい最期になった。当然の結末であり、怪しむほどでない。裴松之が「美談はウソ」というが、同時からすでに、甄皇后の悪い評価が定まっていたのだ。
ぼくは思う。「美談はウソ」とも言い切れない。2つ補足したい。
1つは、女性の行動、男女の関係などは、言語によって写しとるのが難しいから、ウソっぽくなる宿命がある。曹魏の史官がバカなんじゃない。史官は、そもそもムリな他流試合を挑んでいるのだから、苦戦して当然だ。
2つ、美談は内容はウソなのでない。というか、ウソと決めることはできない。甄氏の美談について、「わざわざ強調したこと」の過剰さが、ウソっぽいのだ。他の箇所との、バランスを崩しているんだ。甄皇后が、父の死を悲しみ、義母の卞皇后に尽くしたのは、事実かも知れない。しかし、あまり過剰に書くから、浮いてしまったのだ。思うに、曹叡による「皇后」の追贈を正統化するため、裏づけを増やし過ぎたのでは。「甄氏に皇后を贈ろう。なぜなら、、」以下に続く根拠の文書が、列伝の体裁に編集されると、他から浮いたのだろう。「記録者」の重層性に注目して、裴注『魏書』を擁護したい。
ぼくは思う。生前の事績でなく、死後に遺された者の都合により、記述の方向性が決まる。甄皇后は、袁術の反対のパターンである。袁術は死後に不自然なまでに貶められ、甄皇后は死後に不自然なまでに貶められた。「だから史料はアテにならない」のではなく、「だから史料の読解はおもしろい」と思います。
盧弼はいう。甄皇后伝で「死を賜った」とある。『魏志』明帝紀で「母が誅された」とある。ゆえに曹叡は、まだ継嗣に建てられない。事実は明らかである。諱んで記述を避けるべきことはない。


甄氏3:従子の伏波将軍・甄像伝、不毀の廟

明帝卽位、有司奏請追諡。使司空王朗持節奉策以太牢告祠于陵、又別立寢廟。

曹叡が即位すると、有司は「甄氏に追諡せよ」と要請した。司空の王朗に持節させ、策書を奉じ、太牢を陵墓に祭る。べつに寝廟をたてる。

『魏志』明帝紀の太和元年2月、景初元年12月にある。王朗伝にもある。『宋書』礼志2にもある。上海古籍597頁。廟のあるなしは、巨大な問題群ですね。はぶきます。


魏書載三公奏曰「蓋孝敬之道、篤乎其親、乃四海所以承化、天地所以明察、是謂生則致其養、歿則光其靈、誦述以盡其美、宣揚以顯其名者也。今陛下以聖懿之德、紹承洪業、至孝烝烝、通於神明、遭罹殷憂、每勞謙讓。先帝遷神山陵、大禮既備、至於先后、未有顯諡。伏惟先后恭讓著於幽微、至行顯於不言、化流邦國、德侔二南、故能膺神靈嘉祥、爲大魏世妃。雖夙年登遐、萬載之後、永播融烈、后妃之功莫得而尚也。案諡法。『聖聞周達曰昭。德明有功曰昭。』昭者、光明之至、盛久而不昧者也。宜上尊諡曰文昭皇后。」是月、三公又奏曰「自古周人始祖后稷、又特立廟以祀姜嫄。今文昭皇后之於萬嗣、聖德至化、豈有量哉!夫以皇家世(祀)[妃]之尊、而克讓允恭、固推盛位、神靈遷化、而無寢廟以承享(禮)[祀]、非所以報顯德、昭孝敬也。稽之古制、宜依周禮、先妣別立寢廟。」並奏可之。

『魏書』は三公の上奏を載せる。「文昭皇后と諡号せよ」、「周制にならい、寝廟を建てよ」と。上奏はどちらも曹叡に許可された。

『三国志集解』は、『宋書』礼志と、こまかく文字の異同をのべる。『宋書』にも載っているのだ。じつは、それ以外に、あまり注釈がない。結論ありきで、裏づけたのだ。新しい事実が、ポンポンと飛び出すような史料ではない。
ぼくは思う。諡号や寝廟をつくるとき、礼志に載るようなロジックのほかに、列伝に載るような事績が必要とされたのだと思う。いま上奏で、甄皇后の人柄をほめているが、このような要請による裏づけを整理したのが、列伝の体裁による記録だろう。「何のために事績を記録するか」を忘れちゃダメだなあ。もしも、「列伝は、虚心坦懐に事実を記録するもの」という観点で、歴史の史料を読むのなら、じつはそれは「誤読」というべきかも知れない。ほんとうは縦書きなのに、横書きとして読むような意味での誤読だ。そもそも前提から誤っている。さきの裴松之は、この種類の誤りを犯しているように見えるが、さすがにそこまでは言えませんw
作成の動機が違う文書を、前後のつじつま(合理性)に基づき、無自覚的にであっても、削除したのなら、やっぱり陳寿はすごいなあ! 削除された部分を補って、立体的に見せてくれた裴松之は、ありがたいなあ! 批評家としての裴松之は、いまひとつかも知れないなあ! と思います。


太和元年三月、以中山魏昌之安城鄉戶千、追封逸、諡曰敬侯。適孫像襲爵。四月初營宗廟。掘地得玉璽、方一寸九分、其文曰「天子羨思慈親」。明帝爲之改容、以太牢告廟。又嘗夢見后、於是差次舅氏親疏高下、敍用各有差、賞賜累鉅萬。以像爲虎賁中郎將。是月、后母薨、帝制緦服臨喪、百僚陪位。四年十一月、以后舊陵庳下、使像兼太尉持節詣鄴、昭告后土。十二月、改葬朝陽陵。像還、遷散騎常侍。青龍二年春、追諡后兄儼曰安城鄉穆侯。夏、吳賊寇揚州。以像爲伏波將軍、持節、監諸將東征。還、復爲射聲校尉。三年薨、追贈衞將軍、改封魏昌縣、諡曰貞侯。子暢嗣。又封暢弟、溫、𩏧、豔、皆爲列侯。四年、改逸儼本、封皆曰魏昌侯、諡因故。封儼世婦劉爲東鄉君、又追封逸世婦張爲安喜君。

太和元年3月、甄皇后の父・甄逸に追贈した。安城郷1千戸、敬侯とした。孫の甄像に、安城郷侯を嗣がせた。

ぼくは補う。甄皇后の従子が、郷侯となった。
安城の場所について、上海古籍598頁。

4月、はじめて宗廟をいとなみ、曹叡が大牢をささげる。曹叡は、母の甄皇后の夢を見たので、甄氏に官爵と財産をあたえた。甄像を虎賁中郎將とした。

虎賁中郎将について、上海古籍598頁。どこかで引用したはず。

この月、甄皇后の母(曹叡の祖母)が死んだので、曹叡は緦服した。

侯康は、『通典』巻81をひき、外祖母のために服喪すべきか、という議論を載せる。太常の韓暨は、前例がないから反対した。尚書の趙咨は賛成した。『漢旧儀』にほんとうに前例がないか、確認させろと提案した。散騎常侍の繆襲は奏した。後漢の鄧太后の母・新野君が薨じたとき、安帝は緦服した。百官も素服した。安帝は、和帝を嗣いだ。鄧太后の母は、安帝の外祖母にあたる。ほら前例があるよと。前例はもう1つある。後漢の光禄大夫の樊宏が薨じた。樊宏は光武帝の妻の父である。光武帝は、みずから喪葬にのぞんだ。このように後漢には、女系の親族のために服喪することがあったと。
ぼくは思う。ぼくらが受けとるべきメタメッセージは、「曹叡が、慣例を破ってまで、甄皇后を尊んだ」ということだ。服喪することの妥当性を、現代から議論しても仕方ない。ムリして前例をひかねば正当化できないことを、曹叡がやったのだ。

太和4年(230)11月、甄皇后の陵墓が低地にあるので、甄像に太尉をかねさせ、持節して鄴県にゆき、甄皇后を朝陽陵に改葬させた。

太尉でなく「太常」だろう。太常は祭祀をつかさどる。けだし、すでに甄像は太尉となっていないと、つづきで「散騎常侍に遷った」と書けないはずだ。あるいは太尉でなく「校尉」かも知れない。つづきの記述で「また射声校尉となった」とあるから、射声校尉だったのかも。
『寰宇記』巻55はいう。鄴県には、3陵がある。曹操、曹丕、甄皇后である。盧弼はいう。曹丕は、河南の偃師県の西北、首陽山の南にほうむられた。『寰宇記』は誤りであろう。

甄像は散騎常侍にうつる。
青龍2年(234)春、甄皇后の兄・甄𠑊に「安成郷穆侯」を追贈した。同年夏、孫呉が揚州を寇したので、甄像を伏波将軍とした。持節して諸将を監し、東征した。

『宋書』百官志はいう。伏波将軍は、前漢の武帝が、南越を征伐するときに置いた。路博之が伏波将軍となった。だれやねん。

帰還して、また射声校尉となった。青龍3年、甄像は薨じた。衛将軍を追贈され、魏昌県侯に改封された。貞侯を贈られた。
子の甄暢が嗣ぎ、その兄弟も列侯となる。青龍4年、さかのぼって、甄逸-甄𠑊-甄像-甄暢の血筋を、みな魏昌侯とよぶことにした。甄𠑊の妻・劉氏を、東郷君とする。甄逸の妻・張氏を安喜君とした。

景初元年夏、有司議定七廟。冬又奏曰「蓋帝王之興、既有受命之君。又有聖妃協于神靈、然後克昌厥世、以成王業焉。昔、高辛氏卜其四妃之子、皆有天下。而帝摯、陶唐、商、周、代興。周人、上推后稷、以配皇天。追述王初本之姜嫄、特立宮廟、世世享嘗。周禮所謂『奏夷則、歌中呂、舞大濩、以享先妣』者也。詩人頌之曰『厥初生民、時維姜嫄』言、王化之本、生民所由。又曰『閟宮有侐、實實枚枚、赫赫姜嫄、其德不回』詩禮所稱、姬宗之盛、其美如此。大魏、期運繼于有虞。然、崇弘帝道、三世彌隆、廟祧之數、實與周同。今、武宣皇后、文德皇后、各配無窮之祚。至於文昭皇后、膺天靈符、誕育明聖、功濟生民、德盈宇宙、開諸後嗣。乃道化之所興也。寢廟特祀、亦姜嫄之閟宮也、而未著不毀之制。懼、論功報德之義、萬世或闕焉。非所以昭孝示後世也。文昭廟、宜世世享祀奏樂、與祖廟同永著不毀之典。以播聖善之風」於是與七廟議、並勒金策、藏之金匱。

景初元年(237)夏、有司が議して、七廟を定めた。同年冬、有司が奏した。「曹操、曹丕、曹叡の3代にいたり、周代の霊廟の数と同じとなる。曹操の卞皇后、曹丕の甄皇后は、あわせて永遠に祭られるべきだ。甄皇后を不毀の廟とせよ」と。七廟の議論と、甄皇后を不毀の廟とする議論を、金属に刻んで保管した。

『宋書』礼志4はいう。高堂隆はいう。「甄皇后を、周室の姜嫄と同じように廟で祭れ」と。『宋書』楽志1はいう。侍中の繆襲はいう。甄皇后の廟を、4県の楽によって祭れ。曹操の廟の名にあわせて「昭廟」といえと。
ぼくは思う。金属に刻んだのは、永遠にするためだなあ。


やがて甄氏は、曹芳の皇后をだす。あとにゆずる。130117

ぼくは思う。曹叡は晩年に向け、甄氏に連なる者の爵位をあげまくる。建設ラッシュと並行している。曹叡は「示威行動」が好きだなあ。曹叡は、甄皇后が永遠に生きられるように「呪術」をかける。曹叡の晩年において、血縁でない曹芳が、つぎの皇帝になりそうだ。それなら曹叡は、曹芳よりも甄氏を重んじ、曹魏に自分の血痕(血縁者が重職を占めることによる影響力)を遺そうとしたのかも。甄氏が、ヒステリックに爵位をあげていることから、かえって曹芳が「他人」であることが分かる。
曹叡が、生前なのに烈祖という廟号を定めたのは、子がないからだなあ。建設ラッシュ、生前の廟号、甄皇后の不毀廟。いずれも、子孫の代償物なんだろう。子孫が遺らないから、せめて遺るものをつくりたい。
ツイッター用まとめ。曹叡は、母の甄氏の廟を「不毀」に定め、外戚の甄氏の爵位を釣りあげる。曹叡は子孫が遺らず、曹芳は実子でない。曹叡は自分の「血痕」を遺すことに執着したかも。生前の廟号(烈祖)も、同じ執着か。過剰な建設も、永遠への固執が動機かなあ。曹叡に健在の男子がいれば、曹魏の国力が温存されたかも。

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曹丕の郭皇后:征呉の留守を務める

郭氏1:曹丕に知謀をさずけ、後嗣にする

文德郭皇后、安平廣宗人也。祖世長吏。

文德郭皇后は、安平の広宗の人。祖先は、世よ長吏である。

安平は、武帝紀の建安9年にある。
胡三省はいう。漢代の広宗県は、鉅鹿に属した。『晋書』地理志では、安平に属する。魏代に、安平に遷ったのだろう。銭大昕、趙一清も合意する。
『魏志』杜恕伝にひく『魏略』はいう。孟康は安平の人。黄初のとき、郭氏の外属(婚姻者)となった。九親の賜拝をうけたと。けだし郭皇后の姉が、孟氏にとついだ。ゆえに曹氏から「九親」と見なされた。
ぼくは思う。孟氏は、女系を媒介にして、曹氏の広義の外戚なのかー。
ぼくは思う。さっきの甄皇后は、河北の官僚の家。いま郭皇后も、河北の官僚の家。郭氏と通婚した、孟氏もまた、河北の官僚の家。曹魏は、魏国のある冀州が本拠だから、どうしても冀州と関係が深くなるのか。その意味で曹魏は、大きいけれども「地方政権」に過ぎないなあ!! つぎの曹叡にいたり、毛皇后が河内の人だから、「中央政権」ぽくなる。曹丕の妻が、いずれも冀州の通婚圏から出ているというのが、おもしろい。


魏書曰。父永、官至南郡太守、諡敬侯。母姓董氏、卽堂陽君、生三男二女。長男浮、高唐令、次女昱、次卽后、后弟都、弟成。后以漢中平元年三月乙卯生、生而有異常。

『魏書』はいう。郭皇后の父は、郭永という。南郡太守となる。敬侯と諡される。

ぼくは思う。卞皇后、甄皇后、郭皇后の父は、みな「敬」侯だ。

郭皇后の母は、董氏である。堂陽君である。3男2女をうむ。長男は高唐令となる。次女は郭昱である。

堂陽は、安平国にある県である。次女の郭昱は、孟武の母である。

郭皇后は、中平元年3月乙卯に生まれた。

ぼくは思う。『魏志』后妃伝にて、皇后たちは、裴注『魏書』で生年月日が特定される。どうやって情報が管理されたのだろう。曹操の卞皇后は、延熹三年十二月己巳。曹丕の甄皇后は、光和五年十二月丁酉。曹丕の郭皇后は、中平元年三月乙卯うまれ。後漢や曹魏の皇帝でも、誕生日が「記録される」ことがないのに。
ぼくは思う。生まれながらの皇太子ならまだしも(というか漢魏にそんな制度はない)、在野から娶られた皇后たちは、なぜ誕生日が分かるのだろう。捏造だとしたら、なぜ皇后ばかり、わざわざ捏造されるのだろう。曹操の誕生日のほうが、よほど捏造のニーズがありそうなのに。「産む」「産まれる」という性質は、女性にこそ重視されるのか。そんな理屈はなかろう。皇帝と皇后は一対なのに、皇后ばかり誕生日が判明するなんて、事実としても、史家の方針だとしても、おかしい。
盧弼はいう。郭皇后は、曹丕より3歳年長である。青龍3年、52歳で死んだ。


后少而父永奇之曰「此乃吾女中王也」遂以女王爲字。早失二親、喪亂流離、沒在銅鞮侯家。太祖爲魏公時、得入東宮。后有智數、時時有所獻納。文帝定爲嗣、后有謀焉。太子卽王位、后爲夫人。及踐阼、爲貴嬪。甄后之死、由后之寵也。

郭皇后は「女王」と名づけられた。両親を失い、流離した。曹操が魏公になったとき、東宮に入る。郭皇后が曹丕に知恵をあたえ、曹丕は後嗣となれた。曹丕が魏王となると、郭皇后は「夫人」となる。魏帝になると「貴嬪」となる。甄皇后が死んだのは、曹丕が郭皇后を寵愛するからだ。

妻の等級については、このページの冒頭。「貴嬪」というのは、漢制にないが、曹丕が創設したものらしい。郭皇后のためかも知れないなあ。
「美貌だから曹丕が掠奪した」甄皇后と、「知謀があり曹丕に王位を与えた」郭皇后。どう見ても、郭皇后が勝つという展開だ。陳寿は甄皇后に冷たいが、これは事実に近いのだろう。
ぼくは思う。陳寿は、甄皇后をきちんと列伝の前に置いている。いっぽう、魏晋の交替期の皇后は、省きまくっている。明帝の郭皇后は、存在が無視されないものの、さっぱり記事が書かれない。スカスカである。この乱暴さを以てすれば、甄皇后を「抹殺」するくらいは、可能だったはずだ。ああ! そうか! 甄氏が司馬氏と通婚したから、陳寿は、甄皇后のために列伝を設けたのか。どういうことか。
ぼくは思う。陳寿と韋昭は、対照的だ。韋昭が孫晧から「孫和に本紀を立てろ」と指示されたが、「事実と異なることを、遡及的に記すのはイヤ」と抵抗した。歴史家の「良心」として、公式見解よりも事実を優先するという風潮はある。だが陳寿は、甄氏が皇后でないにも関わらず、甄氏を皇后として扱い、曹丕の郭皇后の前に置いた。「事実と異なることを、遡及的に記した」のだ。この動機が、司馬氏に重んじられた甄氏の顔を立てることだったと。陳寿は「事実に対して忠誠を尽くす史家」でなく、「司馬氏に対して忠誠を尽くす史家」なのだ。もちろんぼくは、このことを以て、陳寿をけなす意図はない。むしろ、ひとつ覚えに「事実、事実、事実」という史家よりも、陳寿のように意図を複雑に潜める史家のほうが、よほど信頼できると思ってる。
余談だけど、「陳寿は曲筆したから、『三国志』は読むに値しない」という批判は、ピュアで幼すぎると思う。どのように曲筆したのか、という問いから出発するのが楽しいんでしょう。ありがたいことに、陳寿は魏晋の同時代人だから、『三国志』の内容を読むことと、陳寿の伝記を知ることは、わりに重複する。一石二鳥である。やらない手はない。司馬氏というキーワードで、問いに切り込めるという点も、適度な難易度を維持したまま、有力なヒントを得られるから、ちょうど良い。
ぼくは思う。甄氏が司馬氏と通婚して、司馬氏の西晋で高官にあったことは、陳寿だけを読んでも気づかない仕組みだ。陳寿は沈黙することで、自分の編集意図(司馬氏への目配り)を間接的に隠蔽した。予備知識のないぼくのような読者は、あっさり引っかかっただろう。だが陳寿にとって残念なことに、裴松之が甄氏のその後を補ったので、陳寿の思惑が浮き上がった。まあ陳寿は、「司馬氏に誅殺される」ことを回避できたのだから、時効である。裴松之の補足により、陳寿は司馬氏に殺されなかった(1百年以上の隔たりがあるしね)から、結果は陳寿の勝ちなのか。


郭氏2:結婚は社会的地位を変動させる

黃初三年、將登后位。文帝欲立爲后、中郎棧潛上疏曰「在昔帝王之治天下、不惟外輔亦有內助。治亂所由、盛衰從之。故西陵配黃、英娥降媯、並以賢明流芳上世。桀奔南巢、禍階末喜。紂以炮烙、怡悅妲己。是以、聖哲慎立元妃、必取先代世族之家擇其令淑、以統六宮虔奉宗廟陰教聿修。易曰『家道正而天下定』由內及外、先王之令典也。春秋書『宗人釁夏云、無以妾爲夫人之禮』。齊桓、誓命于葵丘、亦曰『無以妾爲妻』。今、後宮嬖寵、常亞乘輿。若因愛登后使賤人暴貴、臣恐、後世下陵上替開張非度、亂自上起也」文帝不從、遂立爲皇后。

黄初3年、曹丕は郭氏を皇后にしたい。中郎の桟潛が上疏した。「皇后は、先代世族の家から迎えろ。寵愛によって、郭氏を選んだら秩序が乱れる」と。

胡三省はいう。漢制では、三署の中郎と、虎賁、羽林の中郎がある。みな秩は比6百石である。曹丕は、五官中郎将だったので、五官将をはぶく。左中郎、右中郎、虎賁と羽林の中郎だけがある。
『何氏姓苑』はいう。桟氏は任城の一族で、けだし桟潛から始まる。盧弼はいう。桟潛のことは、高堂隆伝に詳しい。
ぼくは思う。甄皇后は、曹丕が好き嫌いで、任氏を追いだすことを、「一族の争いに発展する」と警告した。いま桟潛も、甄皇后と同じ論法である。つまり、実態はどうあれ、曹丕は「結婚が、社会資本の増減にきびしく影響する」という社会学的な事実を理解せず、ただ個人の感情で動いてしまう皇帝として描かれている。ひねくれて、「曹丕は結婚の戦略性を知った上で、あえて無視することで、臣下同士の秩序を撹乱した」と言うこともできるが、さすがにそれは無かろう。

曹丕は桟潛に従わず、郭氏を皇后とした。

甄氏は男性がおおく、官僚として活躍する。郭氏は両親を失って流離した。つまり曹丕は、甄氏という「冀州の通婚勢力」を敢えて捨ててまで、根無し草の郭氏を選んだのだ。曹丕は郭氏を選ぶことで、「冀州に依存した地方政権」から「だれにも規制されない中央権力」への脱皮を図ったのかもしれない。たまたま郭氏は冀州の出身だが、冀州への規制力という点で、甄氏に劣りそうだから。
ぼくは思う。『魏志』文帝紀を昨年夏に読んだときに書いた。曹丕は、首都を定めない。いや、首都を定めたかも知れないが、フラフラする。鄴県、許昌、洛陽、など。こうして「ムダに移動」することで、天下の領域を確定していった。こういう「移動する皇帝」の曹丕には、根がない皇后のほうが似合うのだ。桟潛は、まさにこの「根がない」ことが、秩序を損なうと批判したんだけどね。弱いからこそ、強がる。地方政権だからこそ、中央政権ぶる。逆説的な身振りだなあ。「移動する皇帝」は、不安を抱えた始皇帝に遡ることができる。
ぼくは思う。曹丕のやせ我慢は、曹叡が河内の毛皇后をめとり、好き嫌いによって廃することで、結実する。 曹魏を強くするために、あえて破滅的に振る舞うことで、ほんとに破滅する。元も子もない。でも、この「元も子もない」ことでしか、皇帝の統治というか、上位者の威信は維持できないのだろう。むずかし。


魏書曰。后上表謝曰「妾無皇、英釐降之節、又非姜、任思齊之倫、誠不足以假充女君之盛位、處中饋之重任。」后自在東宮、及卽尊位、雖有異寵、心愈恭肅、供養永壽宮、以孝聞。是時柴貴人亦有寵、后教訓奬導之。後宮諸貴人時有過失、常彌覆之、有譴讓、輒爲帝言其本末、帝或大有所怒、至爲之頓首請罪、是以六宮無怨。性儉約、不好音樂、常慕漢明德馬后之爲人。

『魏書』はいう。郭氏は上表して、皇后を辞退した。郭氏は寵愛されたが、曹丕とほかの妻とを取りなし、卞皇后を養った。郭氏は倹約して、音楽を楽しまない。郭氏は、後漢の明帝の馬皇后の人となりを慕った。

ぼくは思う。卞皇后をたたえる記述、甄皇后をたたえる記述。両者を切り貼りすれば、この記事ができる。制作者は、実際に切り貼りをしたのだろう。ロコツに筆写しなくても、筆写したに等しい。言語で女性の事績を書きとることは、たとえば雪に関する語彙をもたない言語で、雪のすばらしさを歌うようなものだ。できない。ぎこちない。多様性にとぼしい。つまらなくなる。
『後漢書』皇后紀はいう。馬皇后は、伏波将軍の馬援の小女である。太子宮に13歳で入る。陰皇后に奉承する。ぼくは思う。シュウトメと良好な関係をつくることが、よい皇后の条件なのね。そりゃそうかな。


后早喪兄弟。以從兄表繼永後、拜奉車都尉。后外親劉斐、與他國爲婚。后聞之、敕曰「諸親戚嫁娶、自當與鄉里門戶匹敵者。不得、因勢彊與他方人婚也」后姊子孟武、還鄉里求小妻。后止之、遂敕諸家曰「今世婦女少、當配將士。不得、因緣取以爲妾也。宜各自慎、無爲罰首。」
魏書曰。后常敕戒表、武等曰「漢氏椒房之家、少能自全者、皆由驕奢、可不慎乎」

郭皇后の兄弟は、早くに死んだ。従兄の郭表に、父の郭を嗣がせた。

『魏志』鮑勛伝はいう。曹丕の郭夫人の弟は、曲周の県吏となる。官庫の布を盗んだので、棄市された。史書は名を記さない。郭皇后の従弟だろうか。

郭表は奉車都尉となる。皇后の外親である劉斐は、他国の者と婚姻した。皇后は戒めた。「おなじ郷里のなかで、おなじ家格と通婚せよ」と。皇后の姉子は孟武である。孟武は、郷里で「小妻」をもとめた。

『漢書』外戚伝の許后伝にいう。許后は淳于長と私通して、淳于長の「小妻」となったと。『漢書』侫幸伝の淳于長伝もおなじ。おなじ侫幸伝で、張彭祖は小妻に毒殺されたという。『後漢書』陳球伝で、陳球の小妻が、程璜の娘である。
蘇輿はいう。めかけのことを「小妻」というのだ。『後漢書』趙王の劉良伝の章懐注にある。『呉志』孫晧伝の天紀元年にひく『江表伝』で、張俶が小妻30余人をとる。

郭皇后は「いまの世に、婦女が少ない。婦女は、将士に配分すべきだ。孟武が複数の妻をもつな」という。

何焯はいう。青龍のとき、諸士の娘のうち、士に嫁がない者は、ひきはがして戦士に嫁がせた。このような背景があり、郭皇后の発言があるのだろう。

『魏書』はいう。郭皇后は親族を戒めた。「漢代の外戚で、全うできた者が少ないのは、驕奢したからだ。慎みなさい」と。

五年、帝東征。后留許昌永始臺。時霖雨百餘日、城樓多壞。有司奏、請移止。后曰「昔楚昭王出游。貞姜、留漸臺。江水至、使者迎而無符。不去、卒沒。今帝在遠、吾幸未有是患。而便移止、奈何?」羣臣莫敢復言。六年、帝東征吳、至廣陵。后留譙宮。時表、留宿衞、欲遏水取魚。后曰「水當通運漕、又少材木。奴客、不在目前當復私取官竹木、作梁遏。今奉車、所不足者豈魚乎?」

黄初5年、曹丕が東征した。郭皇后は、許昌の永始台に留まる。霖雨が1百余日ふる。城楼が壊れまくった。有司が「永始台から出ろ」というと、郭皇后は拒んだ。「楚の昭王が外遊たとき、妻の貞姜は留守をまもり、長江に沈んで水死した。水死の心配もないのに、移動するものか」と。

『文選』が載せる何晏の賦に、永始台がある。李善はいう。永始台とは、倉廩のあるところである。 『列女伝』に、貞姜がある。上海古籍608頁に引用がある。
ぼくは思う。曹丕が征呉から帰って、城門が崩れたのは、雨のせいだね。曹丕はガッカリしたけど、いかにも合理的な理由である。いや、その雨は、天が曹丕を罰するために降らせたのだから、ガッカリすべきなのか。

黄初6年、曹丕が征呉して、広陵にゆく。郭皇后は、譙県の宮殿に留まる。ときに、皇后の従子・奉車都尉の郭表が、譙県で宿衛をする。郭表が「水を堰きとめ、魚を捕りたい」という。郭皇后は「水運の妨げになるし、材木も必要になる。魚なんて必要ないだろ。やめろ」という。

ぼくは思う。曹丕は、何度も征呉をして、さっぱり成果があがらなかった。郭皇后は、ちゃんとバックアップした。皇后の役割を果たしている。甄氏の皇后は、まさに「名ばかり」である。史料にあるだけ。事績はない。
ぼくは思う。曹丕は、郭皇后と司馬懿という2人が、国内にいてくれるから、外征をやれた。という構図である。


郭氏3:曹叡による殺害が、遡及的に作られる

明帝卽位、尊后爲皇太后稱永安宮。太和四年詔封表安陽亭侯、又進爵鄉侯增邑幷前五百戶、遷中壘將軍。以表子詳爲騎都尉。其年、帝追諡太后父永爲安陽鄉敬侯、母董爲都鄉君。遷表昭德將軍、加金紫位特進。表第二子訓爲騎都尉。及孟武母卒、欲厚葬起祠堂。太后止之曰「自喪亂以來、墳墓無不發掘、皆由厚葬也。首陽陵可以爲法」青龍三年春、后崩于許昌、以終制營陵。三月庚寅、葬首陽陵西。

曹叡が即位すると、郭皇后を皇太后として、永安宮と称した。太和4年(230)、郭表を安陽亭侯とした。郷侯にすすめ、合計で5百戸を封じた。郭表を中壘將軍に遷した。

ぼくは思う。郭表は、いかにも「小者」である。そういう記事がつづく。曹丕は、官僚の裏づけがない家を皇后にしたので、曹魏の政権を強められなかった。曹丕は、皇族を弱めるだけでなく、わざわざ弱い外戚を選んで、曹魏を危うくした。ほんとに、なにをやっているのか、分からない。「君主権力」とやらを集中しようとしたのか。まさか。

同年、郭太后の父母を郷侯に封じた。郭表を昭德將軍として、金紫をくわえ、特進とする。孟母の母(郭太后の姉)が死んだが、郭太后は厚葬を許さなかった。「曹丕の首陽陵にならえ」と。

ぼくは思う。分不相応に、皇后を出してしまった郭氏は、凡人の外戚である。社会関係資本が蓄積されていない家が、皇后という圧倒的な資本を獲得してしまっても、使いこなせない。せめて、資本に圧倒されぬよう、現状を維持するのみ。という話か。曹丕は、ほんとに親族を強化する気がなかったことが、よくわかる。
曹丕が、近代的な「個人」の概念を知っていたはずがないが。曹丕は「個人」を信望するあまり、血縁者の集団が蓄積する諸資本を軽んじるなあ。皇帝は1人で尊いのだが、「個人」主義者では務まらない。

青龍3年(正月丁巳)郭太后は、許昌で崩じた。3月庚寅、曹丕の首陽陵の西に葬られた。

魏略曰。明帝既嗣立、追痛甄后之薨、故太后以憂暴崩。甄后臨沒、以帝屬李夫人。及太后崩、夫人乃說甄后見譖之禍、不獲大斂、被髮覆面、帝哀恨流涕、命殯葬太后、皆如甄后故事。
漢晉春秋曰。初、甄后之誅、由郭后之寵、及殯、令被髮覆面、以糠塞口、遂立郭后、使養明帝。帝知之、心常懷忿、數泣問甄后死狀。郭后曰「先帝自殺、何以責問我?且汝爲人子、可追讎死父、爲前母枉殺後母邪?」明帝怒、遂逼殺之、勑殯者使如甄后故事。

『魏略』はいう。曹叡は、甄皇后が薨じたことを、ぶり返して痛んだので、郭太后は憂暴して崩じたのだ。甄皇后は死ぬとき、曹叡を李夫人に託した。李夫人は、甄皇后の不名誉な埋葬のことを曹叡に教えた。曹叡は、甄皇后と同じように、郭太后を埋葬した。

盧弼はいう。甄皇后が死んだのは、黄初2年である。曹叡は17歳である。どうして曹叡は、甄皇后の死にざまを知らず、李夫人に教えてもらったか。ぼくは思う。この疑問は、『魏略』がウソという解決を導くらしい。
何焯はいう。郭太后の死後も、郭氏は厚遇された。ゆえに陳寿は、「曹叡が郭太后を怨んだ」という話を採用しなかった。しかし曹叡は、毛皇后を殺して、同族の毛曽を退ける。やはり曹氏は、えげつないのだ。ぼくは思う。毛曽の話、関係ないよね。

『漢晋春秋』はいう。曹叡は郭太后を怨んでいた。

ぼくは思う。どうせ『漢晋春秋』なので、抄訳すら必要なし。


魏書載哀策曰「維青龍三年三月壬申、皇太后梓宮啓殯、將葬于首陽之西陵。哀子皇帝叡親奉冊祖載、遂親遣奠、叩心擗踊、號咷仰訴、痛靈魂之遷幸、悲容車之向路、背三光以潛翳、就黃壚而安厝。嗚呼哀哉!昔二女妃虞、帝道以彰、三母嬪周、聖善彌光、既多受祉、享國延長。哀哀慈妣、興化閏房、龍飛紫極、作合聖皇、不虞中年、暴罹災殃。愍予小子、煢煢摧傷、魂雖永逝、定省曷望?嗚呼哀哉!」

『魏書』は、曹叡が郭太后の崩御を哀しむ策書を載せる。

『通典』巻79はいう。郭太后が死んだとき、侍中の蘇林はいう。皇后には、みな諡号がある。郭太后を葬るまでは、郭太后を「大行」とよぶのがよいと。曹叡は詔した。「大行」と称するのは、べつに存亡の号があるからだ。蘇林の言うように、郭太后を「大行」とよぼうと。うーん。


帝、進表爵爲觀津侯、增邑五百幷前千戶。遷詳爲駙馬都尉。四年追改封永、爲觀津敬侯。世婦董、爲堂陽君。追封諡后兄、浮爲梁里亭戴侯、都爲武城亭孝侯、成爲新樂亭定侯。皆使使者奉策、祠以太牢。表薨、子詳嗣。又分表爵封詳弟述、爲列侯。詳薨、子釗嗣。

曹叡は、郭表の爵位をすすめて、観津侯として、合計で1千戸とする。郭太后の父母の封地を整理する。郭太后の兄弟に亭侯を追贈して、大牢をささげる。郭表が死ぬと、子の郭詳、孫の郭釗に嗣がせた。130117

ぼくは思う。ここから読みとるのは、「曹叡が郭氏を虐げていない」という、一事でよい。その他は、大した内容じゃないから。この事実から、曹叡の心的風景を2つに分けることができる。
1つは郭太后の死まで。郭太后は、彼女の事績が正真正銘に曹丕の皇后だったから、曹叡は当然のこと「継母」として仕える。べつに普通のこと。甄皇后については、確かに非業の死だったけど、すでに過去のこととして整理されている。郭氏は、順当に爵位を与えられて、尊ばれる。
2つは曹叡が成熟してから死ぬまで。諸葛亮が死に、建設ラッシュに移るころ。曹叡は永遠を志向して、自分の「血痕」を王朝の歴史に残すために、現実から遊離する。すると、甄皇后が遡及的に、過剰なまでに尊ばれる。新たな「物語」が生成されて、曹叡は遡及的に、かつ過激なまでに郭太后を怨んだことになる。「模造記憶」が膨らんで、甄皇后が神聖視されてゆく。2つめの時期の「物語」は、よほど魅力的だったので、『漢晋春秋』のような紛い物が、後世にさらに過激さをくわえて、おもしろい話にする。
ちょっと待った。いま時系列で分けたが、適切じゃないかも。曹叡と郭太后の関係性は、政治的な文脈(もしくは解釈の次元)を異にして、2種類が並存しているのかも知れない。曹魏の現実としての前者と、曹魏の公的なフィクションとしての後者。では後者はウソかと言うと、そうではない。曹叡が甄皇后を「不毀の廟」に設定するにあたり、強烈な「事実」に位置づけられたはずだ。だって、もし事実に沿ってしまうのならば、立廟されるべきは、正真正銘の皇后だった郭皇后のはずだから。曹叡は、後者を公式見解にすえることで、郭皇后を黙殺した。その意味で、「曹叡が郭皇后に危害を加えた」と言えなくもないか。うーん。
ぼくは思う。曹丕は、廟のなかで甄皇后に会いながら、「なんで合祀されるのが、郭皇后じゃないの。よりによって甄氏なんて」と、ウンザリしているに違いない。不毀だから、曹丕の気まずさは永遠に続くのだ。曹叡は、親不孝であるw
ぼくは思う。甄皇后というのは、曹丕と曹叡のあいだにあり、歴史的評価がコロコロかわる。列伝を読むだけで、なんども往復させられる。すごい素材だなあ。さすが皇帝を補完するものだ。厚みがちがう。

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曹叡の毛皇后:早死を惜しまれた愛妻

毛氏:卑賤な言葉づかいをする父の毛嘉

明悼毛皇后、河內人也。黃初中、以選入東宮。明帝時爲平原王、進御有寵、出入與同輿輦。及卽帝立、以爲貴嬪。太和元年、立爲皇后。后父嘉、拜騎都尉、后弟曾、郎中。

明悼毛皇后は、河内の人。黄初のとき、東宮に入る。曹叡が平原王となると、寵愛されて同乗した。

銭大昭はいう。明帝の毛皇后と郭皇后は、どちらも出身郡のみで、出身県がない。史書の体裁とちがう。盧弼はいう。微賤から皇后になった場合、出身県が書かれない事例はおおい。銭大昭は正しくない。
ぼくは思う。毛皇后の出身県を考察してくれるかと思った。ちがうのか。
『漢書』外戚伝はいう。制定が班ショウジョと同乗しようとすると、班氏は「聖賢な君主は、名臣と同乗した。末代の王は、女性と同乗した。私は同乗してあげない」と。ぼくは思う。曹叡はすでに「末代の王」である。わりと正しい。曹叡のつぎは、世代としては司馬炎に接続される。

曹叡が魏帝となると「貴嬪」となる。

ぼくは思う。曹丕の故事に照らせば。貴嬪という、漢制にない地位を与えられた女性は、皇后になれる。「個人的には愛しいけれど、出身が賤しいので、世間の風当たりが強い」ときに、仮置きするポジションだろうか。

太和元年(227)、毛氏は皇后となる。父は騎都尉、弟は郎中に。

初、明帝爲王、始納河內虞氏爲妃。帝卽位、虞氏不得立爲后。太皇后卞太后、慰勉焉。虞氏曰「曹氏自好立賤、未有能以義舉者也。然、后職內事君聽外政、其道相由而成。苟不能以善始、未有能令終者也。殆必由此、亡國喪祀矣!」虞氏遂絀還鄴宮。進嘉爲奉車都尉、曾騎都尉、寵賜隆渥。頃之、封嘉博平鄉侯、遷光祿大夫、曾駙馬都尉。嘉、本典虞車工、卒暴富貴。明帝令朝臣會其家飲宴、其容止舉動甚蚩騃。語輒自謂「侯身」、時人以爲笑。後又加嘉、位特進、曾遷散騎侍郎。青龍三年嘉薨、追贈光祿大夫、改封安國侯、增邑五百幷前千戶、諡曰節侯。四年、追封后母夏爲野王君。

曹叡が平原王のとき、河内の虞氏を王妃とした。だが魏帝となると、虞氏を皇后としない。曹操の卞太后が、虞氏をなぐさめた。虞氏は卞太后にいう。「曹氏は賤者を皇后に立てたがる。国がほろび、祭祀が失われる」と。虞氏は鄴宮に追いだされた。

胡三省はいう。曹操の卞氏、曹丕の郭氏は、どちらも正室でない。
何焯はいう。漢代の諸侯は、みな同姓だから、同格の諸侯から娘をめとれない。諸侯どうしが婚姻した、周制にこだわるべきでない。前漢の景帝は王氏を、武帝は衛氏を皇后にした。賤者を立てたとすべきか。これらは漢代の故事であり、曹魏とはべつに議論すべきだ。
ぼくは思う。曹操は、ただの1官僚として卞氏をめとった。曹丕は、まだ冀州の1勢力だった。曹叡は、後嗣になれない可能性が強かった。いずれも「皇帝としての妻えらび」をしない段階で、卞氏、甄氏、虞氏を正妻とした。のちに立場がかわった。あながち秩序を乱したと、責められない。というか、賤者を貴者に逆転させることができる!! というのも、皇帝サマの力能ではないか。

毛皇后の父と弟は、官爵を上昇させた。父の毛嘉は、もとは馬車の工人である。曹叡が朝臣をあつめて飲宴したとき、毛嘉は「侯身」と自称して、失笑を買った。

ぼくは思う。口語において、「文化資本の貧困さ」が露見する。ド真ん中で、ブルデューの論題である。同じように、外国語の学習では、外国人の教師が、不当なまでに圧倒的な支配権力を手にする。方言が丸だしの動画を流すと、その内容がいかに優れていても、ウソくさくなる。こういう、後天的な学習では、ぬぐい去れない格差というか、差異がある。この差異に、人間は敏感な動物だと思う。

青龍3年、毛嘉が死んだ。光禄大夫を追贈して、安国侯に改封する。合計1千戸を食ませ、節侯とする。青龍4年、毛皇后の母を野王君とする。

孫盛曰。古之王者、必求令淑以對揚至德、恢王化於關雎、致淳風于麟趾。及臻三季、並亂茲緒、義以情溺、位由寵昏、貴賤無章、下陵上替、興衰隆廢、皆是物也。魏自武王、暨于烈祖、三后之升、起自幽賤、本既卑矣、何以長世?詩云「絺兮綌兮、淒其以風。」其此之謂乎!

孫盛はいう。曹魏の3代は、幽賤な出自の者を皇后とした。だから短期間で滅んだ。『詩経』の言うとおりだ。

ぼくは思う。「秩序を軽んじる曹氏」と「秩序を重んじて支持された司馬氏」というのは、あまりにも面白くない総括の仕方だ。おそらく、曹氏も司馬氏も、ドロドロの試行錯誤をやった。この試行錯誤を、美談にまとめてくれる編者を獲得できるか、が異なるのだ。短期間で滅亡した王朝の主君は、悪く書かれる、というのは真理だ。
とは言え、これを割り引いても、曹氏は、社会を流動させるような結婚戦略を採用する。儒教を「国教」にすえた漢室が滅んだので、その反動でもあるんだろうか。編集の誤差だけではない。なんでも編集の誤差だよ、と片づけたら、現実界に対する洞察が貧困になる。
ぼくは思う。孫盛の議論は、いつもつまらない。「なぜ孫盛がつまらないか」と、素直でない問いを立てて、孫盛について調べてみても良いかもなあ。「なんでも儒教的な二元論で解釈して、思考を掘り下げないから」という気がするが、これで片づけるには惜しいテーマだ。それほど孫盛はつまらない。


帝之幸郭元后也、后愛寵日弛。景初元年、帝游後園、召才人以上曲宴極樂。元后曰「宜延皇后」、帝弗許。乃禁左右、使不得宣。后知之、明日、帝見后、后曰「昨日游宴北園、樂乎?」帝以左右泄之、所殺十餘人。賜后死。然猶加諡、葬愍陵。遷曾散騎常侍。後徙、爲羽林虎賁中郎將原武典農。

曹叡が元郭皇后(次に記す)を寵愛すると、毛皇后は、ほっとかれる。景初元年、曹叡は毛皇后を仲間はずれにして、遊宴した。毛皇后は曹叡に「北園の遊宴は、楽しかったか」と聞いた。

ぼくは思う。毛皇后の父が「侯身」と自称して失笑されたのも、同じような飲宴だった。毛氏が憂うとしたら、自分が仲間はずれにしたのでなく、毛氏が「飲宴で関係を強化すべき家柄」と見なされていなかったことだ。ということは、曹叡は秩序を尊重しなおしたことになる。宴会の雰囲気をこわし、笑うに笑えない無教養な人物を置きたくない。後期の曹叡ならば、とくにそうだろう。

毛皇后は殺された。

ぼくは思う。この「小説的でおもしろ過ぎる話」は、おそらくウソである。しかしウソだから、無視して良いのではない。腕の良い史家たちは、「見たわけじゃないが、いかにもありそうな話」をつくる。曹叡と毛皇后の関係は、「いかにも」こんな感じだったんだろう。
漢代を通じて、「皇后の家が賤しい」、「皇后が途中で交代する」という事例を洗ってみねば。曹魏と比較することで、はじめて曹魏の性格が明らかになる。曹魏が「賤しい家から皇后を迎え、好き嫌いで恣意的に交替させる」のは事実だが、これは特異なことではないのかも。いま論じる準備がない。

諡されて愍陵に葬られた。

毛皇后の諡は「悼」である。『諡法』はいう。生きてる途中に死んだら「悼」という。ほしいままに行動して、礼がない者を「悼」という。
『晋書』司馬孚伝はいう。毛皇后が死んだとき、銘旌に「魏」の皇后と書くのか、「毛」皇后と書くのか、議論が分かれた。「魏の毛」皇后と書けという意見もある。司馬孚はどちらも書くなと言った。「魏」と書けば、「魏」が天下に唯一の王朝ではなく、列国の1つであり、他国と区別する必要があることになる。周室では、わざわざ「周」と書かないじゃないかと。「毛」と書けば、皇后が唯一の正妻でなく、他氏と区別する必要があることになる。「皇后」とだけ書けばよいと。
ぼくは思う。司馬孚は、曹魏の忠臣をやる人。司馬孚から見れば、毛皇后こそ正統であり、「聖人の明制」どおりに尊ばねばならない。

弟の郭曽は、散騎常侍に遷された。のちに、羽林虎賁中郎将となり、原武の典農となる。

原武とは、河南尹にある県である。
ぼくは思う。ちくま訳は「左遷された」とあるが、ぼくは左遷だと思わない。郭氏は、微賤の生まれだから、官僚の実務ができない。それでも、名誉職についたり、洛陽のそばで典農を任されたりした。過剰な官爵のインフレが除かれ、通常に戻ったのでは。いや、もともと馬車の職人であり、ろくに言葉づかいも知らない家の出身だから、充分に名誉を与えられている。

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曹叡の郭皇后:司馬氏の真の敵

郭氏1:蜀漢に実家をつぶされる

明元郭皇后、西平人也、世河右大族。黃初中、本郡反叛遂沒。入宮。明帝卽位、甚見愛幸、拜爲夫人。叔父立、爲騎都尉、從父芝、爲虎賁中郎將。帝疾困、遂立爲皇后。

明元郭皇后は、西平の人である。世よ、河右の大族である。

ぼくは思う。河右の大族とは、後漢に何代もの皇后を出す、名門の家々と同じ属性である。孫盛は「曹魏が賤者を皇后にするから、滅びた」というが、ちがうじゃん。ちゃんと「修正」された。
西平は武帝紀の建安19年にある。斉王紀の嘉平5年にもある。

黄初のとき、西平で反乱があり、実家が没落した。後宮に入る。

ぼくは思う。蜀漢が手をつっこむ方面である。そして、またしても「曹氏は賤者を皇后にする」という、孫盛の指摘が復活してしまった。しまったw
ぼくは思う。曹魏は、既存の統治にかんするノウハウ(日本史がいう「有職」)に頼らず、個別に官僚を把握した。曹操の人材登用と、同じ文脈で理解すれば良いだろう。「個別人身支配」なんて、おそろしい術語をぼくは使わないが。被支配層はべつとして、少なくとも支配層のなかでは、曹氏と官僚とのあいだで、個別の関係を、いちから構築することが重視された。だから曹氏は、賤者から皇后を見つけるのだろう。社会を流動して、耕し直すのだ。後漢は、「同じ土地で、同じ作物をつくり続けた」状態だったから、枯れた。曹氏は、掘り起こさねば、つぎの農業ができない。

曹叡が即位すると、愛幸されて、夫人となる。叔父の郭立が、騎都尉となる。從父の郭芝が、虎賁中郎將となる。曹叡が疾困となり、ついに皇后に立てられる。

ぼくは思う。毛皇后は「郭氏を皇后にするため」に殺されたのではなかろう。『諡法』の建前? を信じるなら、残念ながら、早死にしたのだ。「悼」という諡号には2つの意味がある。本来は、早死にして残念だ、という意味の諡号だった。しかし史家が、もう1つの意味、行動がでたらめ! に着目して、逸話を膨らました。曹叡の宴遊を咎めるような発言を、史料においてさせた。この推理は、わりにアリだと思う。
曹叡が前後不覚に寝こんでから、郭氏が皇后に立てられたのは、後漢のような「太后の臨朝」を期待されたからかな。郭皇后は、わりにしぶとく、魏晋の交替期に、司馬氏とわたりあう。司馬昭とポトラッチをして、ギリギリで競り負ける。健闘する。郭皇后は、「生前から曹叡の皇后として政治に参加し、死後もその役割を担った」のではない。「曹叡の死後に、はじめて政治に着手した」という感じだ。なかば曹叡の交代要員である。これが、おそらく曹叡の期待以上に、うまくいった。曹魏の君主で、功績ある者をあげるなら、1番目はもちろん曹操だが、2番目は郭皇后だと思ってます、ぼくは。


郭氏2:廃帝する郭芝のめい、甄徳と郭建の姉妹

齊王卽位、尊后爲皇太后、稱永寧宮。追封諡太后父滿、爲西都定侯。以立子建、紹其爵。封太后母杜、爲郃陽君。芝、遷散騎常侍、長水校尉。立、宣德將軍。皆封列侯。

曹芳が即位すると、皇太后となり、永寧宮と称される。父の郭満を、西都定侯とした。郭満の子・郭建(郭太后の兄弟)に爵位をつがす。郭太后の母を、郃陽君とする。

ぼくは思う。この郭満が、諸葛亮の北伐で殺されていたら、おもしろい! 地理的には、充分にあり得るのです。
西平の郡治は、西都である。『郡国志』はいう。司隷の左馮翊に、郃陽がある。

従父の郭芝は、散騎常侍、長水校尉にうつる。叔父の郭立は、宣德將軍となる。みな列侯に封じられる。

魏略曰。諸郭之中、芝最壯直。先時自以他功封侯。
『魏略』はいう。郭氏のなかで、郭芝がもっとも壮直である。外戚ゆえに郭氏に爵位が撒かれる前に、みずから功績によって侯に封じられていた。
郭芝のことは、『魏志』斉王紀の嘉平6年にひく『魏略』にある。ぼくの抄訳より。
『魏略』はいう。郭芝が郭太后のところにゆく。郭太后と曹芳が向き合って座る。郭芝が曹芳に「司馬師は曹芳を廃して、彭城王の曹拠(曹丕の子)を立てる」と。曹芳は立ち去った。太后は郭芝に「司馬師に会わせろ」という。郭芝が断った。郭太后は曹芳に、皇帝の璽綬を返上させる。司馬師は曹芳に、斉王の印綬を与える。曹芳は司馬孚に見送られた。。なにこれ。。
ぼくは思う。司馬孚に目を奪われて、この史料をよく分かっていなかった。再読しなければ。郭太后と郭芝が、従父とめいの関係にあるなんて、知らなかった。曹芳を廃することの意味につき、郭太后と郭芝の関係で、ちがった解釈をできる気がする。


建兄悳、出養甄氏。悳及建、俱爲鎭護將軍、皆封列侯、並掌宿衞。值三主幼弱、宰輔統政。與奪大事、皆先咨啓於太后而後施行。毌丘儉鍾會等作亂、咸假其命而以爲辭焉。景元四年十二日崩、五年二月、葬高平陵西。

郭建の兄・郭徳は、郭氏を出て、甄氏を養った。

ぼくは思う。甄氏のことは、曹丕の甄皇后の列伝に付属していた記述を、読まずに下に回してある。つづけて読む予定です。

郭徳と郭建は、ともに鎮護将軍となり、列侯に封ぜられ、宿衛を掌握する。

趙一清はいう。鎮護将軍とは、鎮軍将軍のことか。あるは護軍将軍のことか。『宋書』では、中護軍と護軍が書かれるが、護軍将軍はいない。中護軍や護軍のうち、資質がおもいものが護軍将軍とされたか。
洪飴孫はいう。鎮護将軍は、定員1名、第3品。盧弼はいう。郭徳=甄徳と、郭建は、どちらも鎮護将軍だとされる。1人じゃないよね。
ぼくは思う。甄徳と郭建が2人で中央の軍権をにぎる。つまり、曹丕の甄皇后の家と、曹叡の郭皇后の家が、協力して曹魏を支えている。しかも、甄徳、郭徳、郭太后は、実の兄弟である。曹魏は、郭氏の兄弟によって、しっかり固められている。曹芳が廃されても、揺らぐものか。というか曹氏は、司馬氏ではなく、郭氏に牛耳られている。
直接は関係ないが、曹丕の郭皇后も「郭」氏だから、郭氏に力を与えている。言語の連想ゲームの次元で、呪術的な力を送っている。ぼくのこの指摘は、わりにバカバカしいが(自覚あり)呪術をあなどってはいかんなあ。
司馬氏は、甄徳と婚姻をむすぶ。郭氏の権力の原資は、曹氏との婚姻だった。司馬氏は、ロコツに郭氏と婚姻するのをはばかるが、甄氏に移った甄徳となら婚姻することができたみたいだ。司馬氏から見ると、形式的には甄氏との婚姻だが、実態は、まさに中枢にある郭氏との婚姻に等しい。司馬氏のいちばんのライバルは、めだたないが、郭氏だなあ!! 司馬師は郭氏に接近して、いっしょに曹芳の廃帝などをやりつつ、郭氏の権力をかすめとる。これが司馬氏の戦略。司馬氏に張りあうのが、郭氏だからこそ、毋丘倹や鍾会は、郭太后の詔をつかう。
曹爽は、司馬懿の政敵だかどうかも怪しい。しかし、司馬懿の功績に数えたいし、「曹氏の愚か者を、宣帝さまが殺す」という連想ゲームに動員されたので、曹爽は物語的な主役の地位を与えられる。いま「物語」と書いたが、これは「史料編纂」と同じ意味です。早々と退場する曹爽よりも、よほど根深いのが、郭氏である。
司馬氏と郭氏の闘争の最終形態が、郭太后と司馬昭のポトラッチ。タッチの差で、司馬昭が生き残ったが、ほぼ同時に死んだようなものだ。

曹魏は3少帝がたち、宰相が執政した。魏帝を廃立するときも、さきに郭太后に諒解を取ってから行われた。毋丘倹、鍾会が反乱したとき、みな郭太后の命令という名目がとられた。

ぼくは思う。ここに、あまりにおおくの省略があるなあ! 陳寿によって(不可抗力であれ)不当に圧縮されてしまった、明元郭皇后伝を復元することが、魏晋の交替期をするために、もっとも有効な手段だと思う。そのうちやる。『莽新書』もやりたい。忙しいなあ。本紀や列伝の再編成、すなわち象徴界のなかの遊戯は、歴史的事実を知るために、わりに有効な作業だと思うのです。
曹魏の皇后は、卑賤の出自であり、統治能力がなく、文化資本に欠けて、王朝の寿命を縮めた。この認識は、「司馬氏に敗れた」という結果から、遡及的に設定されたものだ。つぎに読むように、卞氏、甄氏、郭氏は、後漢の竇氏、鄧氏、梁氏ように、外戚の一族となり、安定的に皇后を供給した。3少帝の時代を支えた。これら外戚が、曹魏を守りきれなかったから、陳寿は「滅亡の原因を見つけてやろう」という視線を送り、皇后の記事を編集した。その結果、誇張や省略だらけで、ツギハギの痕跡が見えまくる、じつに「読みごたえのある」后妃伝になった。
「結果から遡及して、事実群を図式化する、単純化する」というのは、歴史の読者として、もっとも避けるべき行為である。なぜなら、せっかくの史料たちを「だいなし」にするから。后妃伝は、いい試金石だ。
ぼくが会社で部署異動して、一発目に読む列伝が、こんなに面白いとは、まったく予期してなかった。2013年の正月休みの最後に、R堂に遠足に行かなければ、ササッと終えられるような内容だと思ってた。第3四半期決算のとき、ずっと「宿題」として留まっていた。だが「宿題」として、やっつけられるほど、単純な内容じゃなかったなあ!

景元4年(263)12月、郭太后は崩じた。翌年2月、高平陵の西に葬られた。

翌年の景元5年とは、咸熙元年(264)である。高平陵は、明帝紀の景初3年にある。ぼくは思う。明帝と合葬されたのだ。

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曹芳の甄皇后、曹氏と司馬氏の外戚の甄徳

史料の順序をいじくった、ここからが、このページの「オリジナリティ」です。
曹丕の甄皇后の列伝のつづきから。

曹叡の娘と、曹叡の母の従孫が冥婚する

帝思念舅氏不已。暢尚幼、景初末、以暢爲射聲校尉、加散騎常侍。又特爲起大第、車駕親自臨之。又於其後園、爲像母起觀廟。名其里曰渭陽里、以追思母氏也。嘉平三年正月暢薨、追贈車騎將軍、諡曰恭侯。子紹嗣。

曹叡は、母方の甄氏のことを思念した。母の甄皇后の兄・甄𠑊の孫は、甄暢である。曹叡の景初末、甄暢は射声校尉となり、散騎常侍を加えらる。曹叡は甄暢に大きな邸宅を与えて、みずから訪問する。甄暢の父・甄像をまつり、渭陽里と名づけて、曹叡の母系の甄氏を祭る。

『秦詩』渭陽篇にある。「わたしは母系の親族を送る。渭陽(咸陽)に至るという」と。曹叡は、これにちなむ。『世説』言語篇で、邸宅をつくったときの曹叡の話がある。
ぼくは思う。このあたりの滑稽さは、「永遠の血痕」をほしがる曹叡の性質である。すでに上に書きました。

嘉平3年(251)正月、甄暢が薨じた。(曹芳が)車騎将軍を追贈して、恭侯とする。甄暢の子・甄紹がつぐ。

ぼくは思う。曹叡の母系として、官爵がインフレした甄氏。曹芳の時代になっても、扱いは変わらないのね。これで「曹芳の母」が登場すると、複雑になっておもしろいのだが、それはなかった。


太和六年明帝愛女、淑薨。追封諡淑爲平原懿公主、爲之立廟。取后亡從孫、黃與合葬、追封黃列侯。

太和6年(232)、曹叡の娘・曹淑が薨じた。曹淑を平原懿公主として、立廟した。母・甄皇后の従孫である甄黄を、曹淑と婚姻させた。

ちくま訳はいう。いわゆる「冥婚」である。
『宋書』礼志4はいう。曹叡は、曹淑を南陵にほうむり、京師に廟をたてた。典籍に根拠がない。礼に違反すると。
曹植は『平原懿公主の誄』を書いた。上海古籍602頁。ながい。


曹叡の郭皇后の従弟・郭徳が、甄氏を嗣ぐ

以夫人郭氏從弟、悳爲之後。承甄氏姓、封悳爲平原侯、襲公主爵。

曹叡の郭夫人の従弟・郭徳に、平原懿公主をつがせた。郭徳を「甄」氏として、平原侯とした。

ぼくは思う。もともと曹叡は、平原王である。曹叡は、死んだ娘を「平原公主」とした。ほんとうは息子を「平原王」にして、嗣がせたかったのだろうが、男子がいないから仕方ない。そして、平原公主と甄黄を、死後に結婚させた上で、郭皇后の従弟・郭徳を平原公主に接続させるため、郭徳を甄徳に「姓転換」させて、平原公主の親族にした。平原公主-甄徳という関係が成立し、甄徳を平原侯にした。これにより、曹叡が思慕する母系の甄氏と、曹叡が寵愛する皇后の郭氏が、1つになった。曹叡の妻と同世代の郭徳が、曹叡の娘の平原公主をついだ。平原公主は、曹叡の母の従孫(つまり曹叡の子世代)である甄黄と冥婚している。ふかく考えるのは、よそう。。


孫盛曰。於禮、婦人既無封爵之典、況于孩末、而可建以大邑乎?悳自異族、援繼非類、匪功匪親、而襲母爵、違情背典、於此爲甚。陳羣雖抗言、楊阜引事比並、然皆不能極陳先王之禮、明封建繼嗣之義、忠至之辭、猶有闕乎!詩云「赫赫師尹、民具爾瞻。」宰輔之職、其可略哉!

孫盛はいう。礼制において、婦人に封爵はなく、まして女児を大邑に封爵するなんて、おかしいね。甄徳は、もとは郭氏なのに、義母の爵位を継承した。なんだこれ。陳羣と楊阜は、この継承を止められなかったから、宰相の職務ができてない。

陳羣と楊阜の言い分は、上海古籍603頁。陳羣は、8歳の女児に嗣がせること、楊阜は「赤子」に嗣がせることに反対してる。


晉諸公贊曰。悳字彥孫。司馬景王輔政、以女妻悳。妻早亡、文王復以女繼室、卽京兆長公主。景、文二王欲自結于郭后、是以頻繁爲婚。悳雖無才學、而恭謹謙順。甄溫字仲舒、與郭建及悳等皆后族、以事宜見寵。咸熙初、封郭建爲臨渭縣公、悳廣安縣公、邑皆千八百戶。溫本國侯、進爲輔國大將軍、加侍中、領射聲校尉、悳鎭軍大將軍。泰始元年、晉受禪、加建、悳、溫三人位特進。悳爲人貞素、加以世祖姊夫、是以遂貴當世。悳暮年官更轉爲宗正、遷侍中。太康中、大司馬齊王攸當之藩、悳與左衞將軍王濟共諫請、時人嘉之。世祖以此望悳、由此出悳爲大鴻臚、加侍中、光祿大夫、尋疾薨、贈中軍大將軍、開府侍中如故、諡恭公、子喜嗣。喜精粹有器美、歷中書郎、右衞將軍、侍中、位至輔國大將軍、加散騎常侍。喜與國姻親、而經趙王倫、齊王冏事故、能不豫際會、良由其才短、然亦以退靜免之。

『晉諸公贊』はいう。郭徳=甄徳は、司馬師の娘をめとる。娘が死ぬと、司馬昭がまた娘を甄徳にめとらせる。司馬昭の娘とは、京兆長公主である。

『晋書』文明王皇后伝はいう。王元姫は、京兆公主をうむ。
ぼくは思う。司馬師の娘、司馬昭の娘をめとったのは、郭徳=甄徳。郭徳としては、曹叡の郭皇后の従弟。甄徳としては、曹叡の娘の継嗣。つまり曹叡の孫。そして2人目の妻は、司馬炎の同母姉。おおお。
ぼくは思う。司馬氏は、郭太后と戦いながら、「郭氏だが郭氏でない」という甄徳をたらしこむことで、うまく郭氏を無力化した。郭氏と調和しつつ、じつは郭氏を骨ヌキにするという高等テクニックをやった。結果から見れば、これが言えるのだが、いかにも結果論的である。つまり、あまり説得力がない。アイディアのある読解ではないなあ。もっと司馬氏のことを、詳しくみないと。淮南の三叛とか、派手なことに目を奪われるが。郭氏と甄氏との関係、曹魏の外戚との関係こそ、魏晋革命の成否を決める。だって、淮南の戦闘なんてね、勝てば正義なんだ。分析のしがいがない。だが魏帝の中枢で、婚姻という女性原理をふくむ闘争をするのは、かなり難しいはず。
渡邉義浩先生の西晋の本、買ったけど、司馬氏の結婚の話をきちんと読んでない。これを先に読むべきだったか。先走って史料を見ちゃった。

司馬師と司馬昭は、郭皇后と結びたくて、かさねて郭徳=甄徳に娘を送りこんだ。咸熙元年(264)、甄徳は鎮軍大将軍となった。泰始元年(265)、魏晋革命のとき、甄徳を特進とした。甄徳は、宗正、侍中となる。太康のとき、司馬攸の帰藩に反対した。 左衛将軍の王済が、いっしょに帰藩に反対した。

ぼくは思う。甄温、郭建の記述もあるが、煩雑なので、郭徳=甄徳の記述だけにしぼって、抄訳しています。

司馬炎は、甄徳を大鴻臚に出して、侍中、光禄大夫を加えた。甄徳が病死した。中軍大將軍として、開府と侍中はもとのまま。恭公と諡した。

甄徳の子は、甄喜。これもはぶく。


曹芳の甄皇后

青龍中、又封后從兄子毅及像弟三人、皆爲列侯。毅、數上疏陳時政、官至越騎校尉。嘉平中、復封暢子二人爲列侯。后兄儼孫女爲齊王皇后、后父已沒、封后母爲廣樂鄉君。

青龍のとき、甄皇后の従兄の子・甄毅と甄像の弟ら3人を、みな列侯とした。甄毅は、時政について上疏して、越騎校尉となる。

侯康はいう。『御覧』巻215は、『魏名臣奏』をひく。駙馬都尉の甄毅はいう。尚書郎の人選と役割について。疲れたのではぶく。先行研究が、たくさんあるでしょう。

嘉平のとき、また甄暢の2子が列侯となる。甄皇后の兄・甄𠑊の孫が、曹芳の皇后となる。皇后の父はすでに死んでいるので、母を広楽郷君とした。

ぼくは思う。系図を書きたくなります。

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曹髦の卞皇后、曹奐の卞皇后

史料の順序をいじくった、ここからが、このページの「オリジナリティ」です。
曹操の卞皇后の列伝のつづきから。

曹髦の卞皇后

子蘭嗣。少有才學、爲奉車都尉游擊將軍、加散騎常侍。

魏略曰。蘭獻賦贊述太子德美、太子報曰「賦者、言事類之所附也、頌者、美盛德之形容也、故作者不虛其辭、受者必當其實。蘭此賦、豈吾實哉?昔吾丘壽王一陳寶鼎、何武等徒以歌頌、猶受金帛之賜、蘭事雖不諒、義足嘉也。今賜牛一頭。」由是遂見親敬。

曹操の卞皇后の弟は、卞秉である(既述)。卞秉が薨じると、子の卞蘭が爵位をつぐ。卞蘭は、わかくして才学がある。奉車都尉、遊撃将軍となる。
『魏略』はいう。卞蘭は、曹丕の徳美する賦をつくった。

卞蘭による『賛述太子賦』と『上賦表』は、上海古籍588頁にある。ながい!

曹丕は返書した。「賦とは、対象に関する記述をおこなうもの。頌とは、対象をほめるために描写するもの。卞蘭の賦は、事実を記述したものか。事実を記述していない気もする(曹丕をほめすぎだ)けれど、卞蘭には牛1頭をあげよう」と。卞蘭は、曹丕に親敬された。

ぼくは思う。ただのお世辞も、教養たっぷりに味付けすると、嫌味でなくなる。すなおに喜んでもらえる。お世辞の本来の効果を期待できる。なんだかなあ。
曹丕と卞蘭の関係は、従兄弟である。まあ、馴れあっても良いじゃん。


蘭薨、子暉嗣。

魏略曰。明帝時、蘭見外有二難、而帝留意於宮室、常因侍從、數切諫。帝雖不能從、猶納其誠款。後蘭苦酒消渴、時帝信巫女用水方、使人持水賜蘭、蘭不肯飲。詔問其意?蘭言治病自當以方藥、何信於此?帝爲變色、而蘭終不服。後渴稍甚、以至於亡。故時人見蘭好直言、謂帝面折之而蘭自殺、其實不然。

卞蘭が薨じると、子の卞暉がつぐ。
『魏略』はいう。曹叡のとき、卞蘭は曹叡の建設を諫めた。「呉蜀がいるから、宮室は待て」と。卞蘭が病気になると、曹叡は、曹叡が信じている巫女の水を卞蘭にあたえたが、卞蘭は飲まない。曹叡「なぜ飲まないか」

銭大昭はいう。巫女とは、青龍3年に寿春に現れた、農民の娘である。盧弼はいう。明帝紀の景初2年にある。

卞蘭「方薬なら聞くが、巫女の水は効かない」と。卞蘭は病死した。ときの人は、「卞蘭は曹叡を諫めすぎたので、自殺させられた」というが、病死である。

又分秉爵、封蘭弟琳爲列侯、官至步兵校尉。蘭子隆女、爲高貴鄉公皇后。隆以后父爲光祿大夫、位特進、封睢陽鄉侯。妻王、爲顯陽鄉君。追封隆前妻劉、爲順陽鄉君。后親母故也。

卞秉の爵位を分割して、卞蘭の弟・卞琳を列侯とした。卞琳は、歩兵校尉となる。卞蘭の子は、卞隆である。卞蘭の孫、つまり卞隆の娘が、曹髦の皇后となった。卞隆は皇后の父として、光禄大夫、特進、睢陽郷侯となる。卞隆の妻の王氏は、顕陽郷侯となる。卞隆の前妻で、卞皇后の実母である劉氏を、順陽郷侯とする。

曹奐の卞皇后

琳女又爲陳留王皇后、時琳已沒、封琳妻劉爲廣陽鄉君。

卞琳の娘は、曹奐の皇后となる。卞琳はすでに死んでいたので、卞琳の妻の劉氏を、広陽郷君とする。

どうやら司馬氏にとって、卞氏は「無害だけれど、格好はつく」皇后の家なんだろう。曹髦と一緒に、失墜したんじゃないかな。曹奐がワラ人形であり、ワラ人形の妻は、ヒナ人形である。「人形だから無力」なのではなく、人形ゆえに、卞氏という曹魏にとって重要なファミリー・ヒストリーをもつ家から、皇后を選ぶ必要があった。


ぼくは思う。さっぱり「終わり」にふさわしくないが。曹奐の皇后の記述が、ここだけだ。曹奐が最後の皇帝なんだから、これで「終わり」で良いのだ。なんだこれ。
甄皇后の列伝のつづきを、曹叡の皇后のあとにおく。はじめの卞皇后の列伝のつづきを、最後に持ってくる。たった2工程で、ちゃんと皇帝の即位順になった。曹芳の張皇后と王皇后が、いないけれど。ほかの列伝で補わないと、全体像が見えない仕組みなのか。わざとやった意地悪である。

司馬氏との関係により、后妃伝から抹殺されたり、過度に省略されたりする。ほんとに読みごたえのある本だなあ、『三国志』は。

ともあれ異動後、2週間が終了。130118
おまけで系図をつくりました。
曹氏の外戚・卞氏、甄氏、郭氏の婚姻系図

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