表紙 > 読書録 > 大室幹雄『干潟幻想_中世中国の反園林都市』

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1章-4章 野生から都市にうつる北魏

地の文は、大室氏をぼくが抜粋したものです。

この頁は、具体例をかなり省略していますし、ひどく誤読していると思います。しかし、大室氏の頭のなかにある構想を、ぼくなりに解凍して再現してみました、、という仕上がりです。言うまでもありませんが、大室氏の古代中国史にご関心を持たれましたら、原書にあたって頂きますよう、お願いします。


「干潟」とはなにか

タイトルな謎かけ形式なので、それを解読する、という方式で要約します。対象となるのは、前半が北魏、後半が隋帝国。
まず最大のなぞ「干潟幻想」とは何か。隋帝国を指します。

ウィキペディアより。121101時点。
干潟とは、海岸部に発達する砂や泥により形成された低湿地が、ある程度以上の面積で維持されている、朔望平均満潮面と朔望平均干潮面との潮間帯。潮汐による海水面の上下変動があるので、時間によって陸地と海面下になることを繰り返す地形である。砂浜と比べ、波浪の影響が少なく、勾配が緩やかで、土砂粒径が小さく、生物相が多様な平坦地形である。

これは、どうやら「反園林都市」である。

ぼくは補う。園林都市とは、南朝の建康。野生の土地のうえに、人工の都市が造られた。本来の都市は、脳内のマシカクを体現化して城壁でガチガチにするものである。しかし建康は文化と地形に妥協して、野生の持ち味も残した折衷的で「不完全な」都市だった。自然と人工のゆるい融合ぐあいが、いい感じだった。人工=都市=正統=脳=史書、というカタい価値観から見ると、南朝は不徹底だった。しょっちゅう禅譲が起きる。しかし、自然=野生=変遷=身体=文学、というユルい価値観から見ると、なかなか魅力的な時代だったと。ぼくなりに消化した説明は、こんな感じ。
大室幹雄『園林都市_中世中国の世界像』を読む

「反園林」の「干潟」とは、どういう比喩なのか。

これは最後の7章で種明かしされるが、先走って書いてしまおう。見通しが良くなるから。ぼくら読者にとって、500頁にわたる宙づりはつらい。

まず全てが海に沈んだ状態は、まったく陸がなく、すべてが自然の状態。人間による秩序が営まれていない。やがて引き潮になると、陸地が表れる。ポツンポツンと出現する陸地は、人間による秩序の空間=都市をあらわす。潮の加減により、陸地がつながったり、ひろがったりする。これが隋による天下統一。しかし、満ち潮になると、いちど都市に取りこまれた地は、ふたたび自然=野生=無秩序にもどる。
中国大陸は、ひろい大地のなかに(ひろい海のなかに)、ぽつぽつと都市があり(陸地があらわれ)、引き潮になると天下統一が成る(おおきな陸地ができる)。しかし統一は持続せず、煬帝は野生と融合した場所に逃げこみ(陸地の大生物が海に飛びこみ)、天下が混沌としてカニバリズムが起きる(干潟が海に水没する)。

南朝が「園林」で、隋が「干潟」である。隋に到るまでの北朝が、南朝に文化的なコンプレックスを持っていた。だから隋は、南朝に憧れつつも張りあっている。煬帝は、もと南朝の地で育ててしまったので、南朝の地こそ「子宮」らしい。中年の権力者になっても、子宮に逃げこみたい非成熟者。
というわけで、史実において、南朝と隋がライバル関係にあるのは分かるのだが、「園林」という比喩と「干潟」という比喩が、地理・地形・物理において対立するのではない。このあたりは、比喩の個別最適(イキアタリ・バッタリ)だな。「園林」の性質を、いくらか変化させると「干潟」になるのではない。
というかさあ、大室氏は漢魏までは、人口=都市=平地、野生=反都市=山林、という比喩だった。だから、平地の反対語は、ずっと山林だった。園林とは、平地と山林の融合である。ところが隋代になり、平地の反対語を、山林から海面に変更した。山林であれ、海面であれ、平地と対立するものである。どちらも人間が制御しにくく、住みにくい。しかし、この変更は、なかなかの「うらぎり」ですよ。困るなあ!

さきに種明かしをして、台無しにした上で、本文に行きます。

1章 殺された魔法の皇子の残影

殺された皇子とは、拓跋沙漠汗。北魏の祖先。
西晋の文明圏に入り、中華の最新技術を習得した。なんと、矢を使わずに、弾丸を飛ばして鳥を落とす。目にもとまらぬ弾丸により、鳥が落ちたのを見て、鮮卑たちは「皇子が魔法を覚えた=中華化した。危険である」と考えて、皇子を殺した。西晋による、異民族の分断政策は成功した。_005
西晋の洛陽では、異民族の子弟を人質にして、ポトラッチ風の奢侈合戦を見せて、言葉や衣服までも、中華化=都市化=文明化させた。_010
拓跋氏などの異民族は、祖先を漢民族に接続した。前漢の李陵の子孫などを名のった。文化的=歴史的=自己閉鎖的=自己肥大化=都市化したプライドを、異民族が持つようになった。都市化により、生命力を失った。辺境で強大化した異民族は、はじめは進取の気概をもち、生命力に溢れるが、都市化するたびに、文明の爛熟と衰退を経験する。_013

ぼくは思う。大室氏は、おもに北魏を念頭において、これをいう。ほかの五胡十六国は、出てこない。しかし、中原に次々と異民族の国家がたち、すぐに滅びるのは、この中華化=都市化による去勢のせいだなあ。
あとで出てくるが。人間は、都市化する誘惑に勝てない生き物だ。だから、どんな弱小勢力も、天子を自称して、官僚を任命して、カッチリした組織をめざす。大室氏の一連の著作のメインテーマだ。しかし、都市化すると衰退する。まるで、「ふぐは食いたし、ぱくっ!」と死ぬような感じ。「麻薬は吸いたし、すうっ!」と廃れるような感じ。
ぼくは思う。文化的になると、自己閉鎖的で、自己肥大化するのは、なぜか。ライバルに対して、「オレは卓越しているぞ」とアピールするからだと思う。ライバルに勝るためには、比較可能な共通の価値尺度のなかに自分をしばって、そのなかで自己犠牲すら厭わずにポトラッチして、(この価値尺度の内部において)すごいだろ!すごいだろ!という。価値尺度なんて恣意的なもので、生命とはなんの関係もないものだから、退廃する。しばるから、閉鎖的である。
「べつにライバルとか興味ない。ぼくは、ぼくのままで、わりに楽しい」という傾向ならば、ライバルに勝てずに言い負かされるが(というかライバルを作らない)、退廃はしない。よく言い負かされるし、組織的な戦闘に敗れるが、退廃するよりはマシだ、、なんて超然とした人間は、めったにいない。やっぱり「ライバルよりすごい!」と自己主張したくなる。そういうサガを、大室氏は中国王朝の歴史に見ている。とぼくは思う。


拓跋氏の祖先は、神話世界から出てきて、中国風=文明的で荘重な諡号を、史書で送られる。年代記の修辞学である。_015

ぼくは補う。史書というのは、もろ「都市」である。皇帝権力や秩序のがわからの要請。ぶよぶよとした無限の事実を、権力のニーズに基づいて取捨選択して、「権力の言語」で記す。「権力の言語」とは、たとえば「拓跋力微」を「始祖神元皇帝」に書き換えるようなもの。中2病ともいう。
ぼくは思う。現代日本の会社の組織も、「権力の言語」が好きかも知れない。やたら漢字ばっかりとか、へんな横文字とか。どちらにせよ、「日常言語と違うんやで」と表現している。というか、それしか表現していない。「コズミック生産技術特別開発技能パースペクティブ本部」とかね。なんじゃそりゃ。適当に作ったけど、どこでもこんな感じ!

文化に開明した子が、父の代王・イ盧を滅ぼした。拓跋什翼犍は、中華に親しんだ。孫の拓跋珪が、代王にき、元号を定め、魏王を称した。勃興期にある民族は、生命力をもつ。遊牧の拓跋氏は、敗戦しても、回復が早かった。_023
拓跋珪は鄴に遷都した。建設の労働者と住民を、強制して移住させる。中国において典型的な都市のつくりかた。拓跋珪は、要塞=都市を建設させた。中華を模倣して、宗廟や社稷、祭壇をつくった。_025
強制移住は、おおくの死者をだす。女子供や老人もいた。家畜の大群を移動させるかのように、人間を追いたてるのが、権力者=拓跋珪のやりかた。農耕地帯を征服したら、遊牧民の王は、定住民の王に変質する。文明化とは、農耕化である。儒教化でもある。_029
拓跋珪は、麻薬で興奮して死んだ。太祖道武帝。_032

ぼくは思う。さっき都市化を、期せずして「麻薬みたいなもの」とぼくは書いた。とくに考えもなく。いま、拓跋珪の死因が麻薬だと出てきた。偶然の一致。やっぱり、脳をトリップさせて、極端な夢想に走ると、身体がついてこない。
強制移住とは、自然=野生への反逆である。やっていることが不自然、横車である。たとえば古代日本は、生活道路でもない場所に、一直線に「七海道」を布いた。人民を強制労働させたが、その道路は100年も持たなかった。それよりも、地形に沿った曲がりくねった細い道とか、海路だとかが実用された。権力者=脳のやることは、無理があるなあ、という同じ話。



拓跋珪=道武帝は、仏教を尊んだ。仏教は、中華風でない。やがて仏教は、太武帝のとき、北魏の首都=平城で、儒教と衝突する。衝突を仕掛けたのは、崔浩である。_038
崔浩の地理理解が、043頁にある。
北魏より北は、過去-遊牧-沙漠である。北魏より南は、中華であり、黄河と淮河と長江が流れる。やがて南は、現在であり、南朝=呉賊がいる。黄河を境界にして、北が北魏の領域であり、南が敵地である。

ぼくは思う。南朝が現在になっているが、これは「未来」とすべきでないか。北端の暗闇から生じた遊牧民が、いま冀州まで降りてきて、やがて中原に南下して、南朝を滅ぼす。南朝には、これから北魏が目指すであろう、中華の完成形がある。もしくは、完成をすぎて爛熟した「園林」を作り出した漢族がいる。
いちど野生から出現した北魏は、完全なる都市=漢族にならない。どうしても、野生の部分を残す。だから、野生と都市のほどよい融合である「園林」は、北魏にとってのゴールのはずだ。北魏は南朝を滅ぼすことができず、隋代まで保留になる。隋代になり、園林を滅ぼして更地(農地)にしたくせに、園林に憧れて、煬帝が関中の首都を棄てるという結果をむかえる。

平城に奠都したあとも、夏になると北魏の皇帝は、北にもどって野外生活をした。中華化しすぎなかった。生命力を維持した。

ぼくは思う。洛陽に居着くようになると、すぐに退廃する。異民族の進取をなくす。おもしろい構図。「生命力を奪う」のに「人を引きつける」という点では、現代日本の東京が似てるかも。なぜか日本人は、一極集中のミヤコを作りたがってしまい、あまり好きでもないのに、そこに留まらねばならず、そして出生率の低い「死地」で朽ちてゆく。東京にインした人口は、それ以上のアウトを産まない。
定期的な里帰りとか、さらには近世の参勤交代とかは、東京=江戸が淀まないようにする工夫だったかも知れない。東京=江戸だけにいると、なぜか退廃する。「ライバルより豊か」にはなれるが、生命力を失う。


440年、太武帝は北中国を統一した。「太平真君」と道教の称号をなのる。仏教も愛好した。崔浩は、漢族の誇りにかけて、仏教を嫌忌した。_045
崔浩は『国書』を編纂した。拓跋氏の野生を野生のまま記した。結果、崔浩は道武帝に殺された。拓跋氏の反都市性を、暴露してはいけなかった。_050

2章 憑かれた一革命家の肖像

革命とは、北魏の7代皇帝・高祖孝文帝・拓跋宏の、洛陽遷都の件。493年、南朝を征伐すると偽って、平城を出発した。洛陽に遷都した。偽りの出陣は、芝居だった。_055
「憑かれた」というのは、歴代の漢族の皇帝の霊たちが、洛陽で儀式をした孝文帝に憑依して、彼に真正の皇帝を演じさせたという意味。

孝文帝が親政を始めたとき、漢族は70%だった。この皇帝のもと、中華化が行われた。遊牧民の北魏では、地方官への給与制度がなかった。中原は、西晋末から荒廃していた。だから地方官が収奪した。これを停止した。奴隷にも耕田を支給した。「均田制」である。李沖の三長制は『周礼』が典拠。_062
孝文帝は儒教の儀礼マニアとなり、明堂や太廟をつくった。堯舜禹や周文王を祭った。文より武を尊重した。_068
洛陽で、明堂と霊台を完成させると、漢族の血が、草原文化民族の皇帝に憑依した。演戯者である孝文帝は、恍惚として真正の皇帝となった。出身が蛮族であろうが、真正の皇帝となった。_076

ぼくは思う。大室氏も「ちょっと筆の調子が良すぎる」ことは弁明しつつだが、彼もまた恍惚として、孝文帝のことを書いている。都市-秩序-皇帝というのは、本来的に演技と遊戯、ごっこ遊びである。だから、極論すると、演者の素性はあまり関係ない。周王が異民族だったことを、大室氏も書いてる。それよりも、本気で演技の舞台を整え、本気で演技をする意欲のある者が、すばらしい役者になる。
人間社会は「仮面」をかぶって営まれるという比喩があるが、まさにこれ。おじさんが、ぶよぶよの顔に、真っ白の仮面をつけて、貴婦人の役割を演じたりする。そういうもの。皇帝の役は、いちばん難しいよね。孝文帝は、これに挑戦した。

以後、遷都をやめたい、故郷に帰りたい、という重臣たちの反対と戦う。494年、服装を漢族風に改めた。鮮卑の衣装を禁じた。

ぼくは思う。皇帝にしろ、「中原の支配王朝」にせよ、仮面であり、役割であり、憑依状態である。故郷に帰ってしまうとは、仮面をはがすこと。しかしねー、仮面と顔面は、もともとは別の者。たとえば、木製の仮面と、顔面の肉は、くっつかないのが普通。はがれるのが普通。ゆえに、剥がれを防ぐためには、エネルギーがいる。剥がれるときは、一瞬である。誰でもできる。ゆえに孝文帝は、エントロピーの増大を防がねばならない。

言語も「北俗」を禁じて、官房語に改めた。_084

ぼくは思う。言語の規制そのものが、権力である。フーコーがそんなこと言ってた? これから読もうとしている。ともあれ、衣服と言葉を改めたら、もう別の民族だなあ!

孝文帝の漢族化により、半病人となった。彼は、象徴的な幻想に取り憑かれた。黄帝を始祖とする神話、鮮卑語の抑圧、五行説による土の象徴性、洛陽遷都、によって漢族化した。_088
顕門清流の漢族を重んじた。范陽の盧氏、清河の崔氏、滎陽の鄭氏、太原の王氏、隴西の李氏を重んじた。彼らは、西晋末に逃げ遅れた者の末裔である。南朝に劣る文化しか持たない。だが、拓跋氏に重んじられた。_094
逃げ遅れた王粛は、史書で評価が低い。_098

強制移住のうえ、飢饉が起きた。遷都には必然性がないから、人民を疲弊させた。身体、風土、生活において「十損」が数えられた。被征服民を家畜のように、移動させたことに対して、遷都の反対論はおおい。_104

ぼくは思う。自然にしておくと、そうならない(洛陽に行こうと思わない)からこそ、権力者がわざわざ遷都したのだ。それを責めたら、権力そのものの存在を否定することになる。しかし、皇帝-都市の原理が発動すると、どうしても自然と齟齬をきたして、やがて自然の反逆=カニバリズムが起きる。むずかしいなあ。「だったら不自然なことを辞めろ」と提案しても、まったく有効な提案でないことは、人類史のすべてが証明している。
ぼくは、孝文帝みたいに、強迫的に幻想に取り憑かれて、無理を承知でも、理屈を通しちゃう人が好きだ。「権力者による無茶」をやらずにいられない人が好きだ。というか、権力があるか否かは、無茶を押しとおしてみないと分からない。愚かな権力者が無茶をやるのでなく、無茶をやるから権力者であることが判明するのだ。無茶をしない人は「名君」ではなく、「存在しない」である。

環境との結びつきを失った孝文帝の生命力は、破滅した。疎外された鮮卑族などに、洛陽を攻められてしまった。_117

3章 反園林都市、倣びの陶酔と江南コンプレックス

わりとストレートなタイトル。園林=江南。北魏はこれを模倣しながら、とても文化的には勝てないので、劣等感=コンプレックスをもっていた。

草原遊牧文化の征服者が、被征服者を強制移住させるのは、北魏が初めてでない。牧畜と農耕が溶けあうのでなく、牧畜民をむりに農耕地に連れてくるという形式をくり返した。征服者の権力は、城壁に囲われた都市をつくり、強制労働で建設させ、強制的に住まわせた。_124
城壁にブロックされた内部は、安全である。しかし、外部に逃げる自由がない。都市のなかでは、逃亡や潜伏が不可能である。まるで、遊牧の家畜を囲いこむように、被征服民は都市に押し込まれた。_126

ぼくは思う。網野善彦先生のいう「アジール」「無縁」の場所がないのだ。権力者は、これをなくすことに血道をあげる。というか権力者って、「アジール」「無縁」をなくす以外に、ほかにすることがない。

洛陽に移住させられたせいで、備蓄がなくなり、行き倒れた。洛陽は、社会と文化を養分として、育った。「土中」をコンセプトにして、中国思想を現実化した。平面プランが、131頁。
原則は後漢の再現であり、文教の施設がつくられる。しかし、501年に後漢と異質な施設が作られた。323坊の異民族の居住区である。ゲットー=強制収容キャンプに、東西南北の異民族を連れてきて、天下を表現した。_133

遷都と革変をやった孝文帝は、自己閉鎖的な昂揚をした。盲目的にマジメである。停滞的な内実しか意識できなくなった。自己礼賛の多幸症になった。自縄自縛して閉じ籠もった。_136
せっかく洛陽をつくったのに(洛陽をつくったからこそ)北魏の皇族は、自家中毒めいた、隠微な退廃の気配をもらした。鳳凰が降りてくると期待した。_139

ぼくは思う。大室氏は、よほど都市に「警戒」している。よほど都市がキライらしい。都市の洛陽のなかで、言葉遊びなどに享楽してゆく。

孝文帝は、自分と弟を曹丕と曹植になぞらえ、七歩詩をパロディした。_140 孝文帝の子孫は、周室などに自分をなぞらえ、政治に失敗した。沙漠と草原の民であった孝文帝の兄弟は、成功に耽溺して、中華の文化と過度に一体化した。退廃した。堯舜にまさると自負した。_150

北魏の文化者は、江南からの亡命者と、優劣を競った。江南のロココにまるで敵わなかった。おおくの逸話あり。コンプレックスがあった。江南に憧憬した。長江と淮河のあいだは、南北朝の緩衝地帯であるが、ここで 血筋や文化の混合が行われた。尚書の李孝伯など。_162

李孝伯は「わたしは鮮卑だ。名のらない」とウソをつく。漢族のくせに。素性を隠して、有利に運ぼうとする。サンデルかよ。正体を隠すのは、ゲリラ戦法。_177
彼は南朝を、赤眉や黄巾に準えたりする。こういう言葉の応酬は、三国の魏呉であった。どちらが文化的に優れているかを競う。言葉による享楽的な対決であり、また競われているものが文化の優劣。とても都市的な対決である。魏呉の対決は、都市と反都市ではなく、大都市と中都市の対決なんだなあ。知性を蕩尽して、お互いが疲弊するまで戦う。人間の悪いクセ!
ともあれ、164頁あたりの李孝伯は、南北朝の意地の張り合いの事例として、とてもおもしろい。あとで読み返そう。北魏をやるとき、読み返そう。

南北朝は、珍しい産物を贈答した。_164

贈物は、共通の価値尺度で比較できないものがいい。だから、「観光地でしか買えない煎餅」というのは、最高の贈物のひとつだ。どこでも買えるものなら、値段で換算されるが、パッケージに限定販売と書かれるだけで、カネ換算が不可能になる。北海道の名物を、通常ルートでは、名古屋で2倍のカネを積んでも買えない。もちろん、ネット販売とか、物産展とかは例外。
南北で、名産を贈りあうのは、ポトラッチ抑止の機能が期待されているのでは。とくに大室氏は言っていないが。

南朝は「北朝はウマぐらいしか名産がないが、べつにウマなんか要らない」という。北朝は、南朝の文物「南貨」をほしがった。北朝の劣等感が、贈物によっても刺激された。_168
北魏は、漢族の名族を高官につけて、南朝を応対した。言語の修辞など、知識や理知が欲された。門閥の発想がつよい貴族制社会で、北朝は蔑まれた。「士庶のキワは、おのずから天隔す」という。首都に招きあい、感嘆と賞賛をひきだして、おのれの優越を確信するまで、死力をつくして、せめぎあうゲームとなった。ポトラッチである。_173
機智合戦=ウィットコンバット!_174
南北朝の史書に、使者どうしの応酬が正しく記録された。事後に宮廷に報告されるルールがあった。北朝は劣等感を表出させた。_181

4章 性愛する皇太后の最期

北魏が文明化する前に、孝文帝は死んで、混乱した。封禅の議は、時期尚早だと反対されたが、孝文帝・拓跋宏は、確かに革命を成し遂げた。
孝文帝の子・宣武帝は『歴帝図』を献上された。歴代の皇帝と、北魏を比較したもので、現存しない。自己陶酔の絶頂史観が、これを作らせたのだろう。_193
北魏洛陽伽藍図が、198頁にある。りっぱ!
北魏から見て、北方に残る異民族は、蔑視の対象になった。北狄のゼンゼンが504年に北方で挙兵すると、「動物みたいな野蛮なヤツラめ」と蔑視他。もとは同族の鮮卑だったはずである。大軍を沙漠に出して、平定した。弁髪を蔑視した。_202
孝荘帝(528-530)のとき、梁武帝の使者にけなされて、コンプレックスを味わった。平城に出てきて、1世紀たっても、コンプレックスがのこった。北魏は、洛陽に「江東の野蛮人が、至尊の皇帝を慕ってきた移住者の地区」をつくるが、北魏は南朝に劣等感があった。洛陽の居住区のブロックで、天下に対する観念を表現した。_209

ぼくは思う。漢代から、都市とは、天下のレプリカだから。空間は、それじたいが雄弁に主張するものだから。大室氏は、ずっとこの話をしている。文献資料をただ読むだけでなく、地形や空間から、歴史を解釈する。「北魏の洛陽」というのが、この本の前半のカギである。北魏の洛陽の話ばかりしている。

北魏はコスモス志向、宇宙の中心定位、自然の征圧、古代的な城壁都市。南朝は風景志向。周辺に拡散、中心を逸脱、自然に解放。

ぼくは思う。城壁が好きそうな漢族が、洛陽を陥落させられたので、「ぎゃくに良い意味で吹っ切れて」自然と対流している。片方に固着すると、ロクなことがない。媒介者をおき、対流を維持しなければならない。中沢先生が言ってた。北魏は、せっかく自然のなかで自由だったのに、わざわざ古代の漢族を模倣して、カチカチになった。隋の煬帝が逸脱するまで、ひたすら硬化する。折れちゃうよ。


北魏が硬くなるころ、南朝の園林都市は、カチカチの「経史」からい逸脱して、亡霊の出現を記録した。これまで奇怪な現象の記録がなかったほうが、不自然である。都市のなかで意図的に、記すべきことの取捨選択が行われていた。奇怪な記録は、園林都市だから可能となった。_229

ぼくは思う。この章は、北魏の皇太后の話をしてくれるはずが、前の本の園林都市の事例を、さらに列挙している。もう園林都市のことは分かったので、いちいち引用しない。今日は北魏の話なんだ。

自然を自然のままでなく、都市の景観の一部として、うまく飼い慣らして、自然を楽しんだ。_235

北魏の洛陽では、政治が衰えた。洛陽が繁栄したゆえに、犯罪が防げず、貴戚が結託して、市場で強盗した。

ぼくは思う。都市の発達とは、統治の徹底ではない。都市のなかだからこそ、こういう、ぶよぶよした退廃や無秩序がおこる。一周まわる。もともと市場とは「無縁」だ。都市のなかに市場なんか、設けちゃダメなんだ。ほんとに、権力を徹底したいなら。しかし、そこまで徹底した途端に、人民の生活は停止して、壊死するけど。ジレンマ!往復運動!

官僚は「産業」への参加をこばむ。いっぽう、洛陽の「僕隷」たちは、官憲からのがれて「産業」をする。警察権がうまく働かない。_238
石碑を築いて、統治=都市=権力を永遠に固定しようとする。地方都市に、石碑が建てられる。だがリアリストが「どうせウソだ。ヘツライだ」とあばく。当時の文士は、このセリフを聞いて恥じ入った。石碑や墓碑銘は、ウソばかりだ。_241

ぼくは思う。石碑とか永遠とか、美辞麗句とか、いずれも都市=権力が好みそうなもの。しかし、人民はマシンではないから、この欺瞞を知っている。じつは高級官僚だって、身体を持った人間だから、石碑のウソ加減を知っていると。孝文帝による洛陽遷都=銀の流線型の宇宙船の世界は、こうして実現を阻害されましたと。

孝明帝(孝文帝の孫)のとき、人民は貧窮と飢餓に追いつめられた。10戸のうち9戸が、ろくに葬儀もやれない。孝文帝の副作用「文華」で、組織が退廃した。
孝明帝は6歳で即位したので、母の胡氏が皇太后になり臨朝した。「朕」と自称した。霊太后である。29歳だった。

この霊太后が、この章の主役。やっと出てきた!

霊太后は、鮮卑の風習に少し維持し、身体性をとりもどした。性愛をたのしみ、遊牧民の反乱軍をやぶった。健康的な生命力で、草原文化の噴きあげた。しかし最後は失敗した。臨朝を批判された。

ぼくは思う。女性は、自然=大地=反都市である。この女性が、権力のトップにくる。「雌鳥が雄鳥に」みたいな凶事かも知れないが、陰陽の対流をうながすのだから、北魏には良かったのだろう。大室氏も「あまりネタがない」のに、わざわざ霊太后を章のタイトルにして、活躍を特記している。
これにて北魏がおわる。つぎから、本の後半、隋室の話。北魏が分裂して、、という経緯については、あまり詳しく書かれていない。ともあれ、振り返ると。孝文帝が横車をおして洛陽にきた。中華帝国の完成度をあげたかと思いきや、南朝にコンプレックスをもった。文化は完全にならないのだが、都市の退廃は確実にすすんだ。遷都の無理もたたった。霊太后という女性の君主により、都市の固着はリセットされたかと思いきや、さすがに無理だった。次代にバトンを渡さざるを得なかった。
というわけで、前半はおわり。121101

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5章-7章 都市から園林(都市+野生)にうつる隋帝

5章 できすぎの夫婦と不肖の息子たち

できすちの夫婦とは、初代の隋帝・楊堅と、その皇后である。

隋帝の楊堅は「天に二日なく、土に二王なし」の引喩(アリュージョン)をつかう。これは古代中国の天子がよくつかう。北魏、東魏、北斉、西魏、北周が滅亡した。漠北の使者から、皇帝として承認された。_278
588年、楊堅は陳征伐を詔書した。「唐堯は有苗をうち、司馬炎は孫皓を滅ぼした」と宣言した。南朝は、半神話から三国まで、悖徳と暴戻の地であるという認識。最後の皇帝・陳叔宝は、詩人皇帝として退廃していた。江南の「園林都市」としての風景は絶息しそうだった。_286
尚書僕射の袁憲が陳帝に近侍して、「梁武帝のように毅然として降伏せよ」と言った。しかし陳帝は詩人であり「史家」でないから、内向きに後宮でふぬけになり、逃げかくれた。建康は、破壊されて平地にならされた。「土に二王なき」現実の反構築による具象化であった。_293

ぼくは思う。梁武帝は都市であり、陳帝は半都市+半野生=海面=ぶよぶよだった。袁憲は、姓が立派なことから分かるとおり?、都市だった。だから陳帝に、都市としての対応を要請した。
大室氏は、「小説じみた」史書の統一戦争を、いきいき「小説のように」紹介している。敗者の陳帝=野生に、親しみと哀れみを感じている。勝者の隋帝=都市が、つまらないステレオタイプだと断じているように見える。べつに隋帝を批判していない。むしろ隋帝は初代だから、野生との交渉も維持しつつ、生命力にあふれる。だが、ステレオタイプに回収されると、とたんに魅力がなくなる。まあね、史家の立場になれば、ついに南北朝統一だから「史家のレトリック」を存分に揮いたいのは分かるよ。隋帝に「ついに統一かあ!」と叫ばせるところなど、いかにも史家らしい。史家は都市である。
ぼくは思う。勝者はいつもワンパタンである。野生から生じて都市を築く。おわり。敗者は、いろんなパタンがある。都市に対抗する野生、過剰に都市化する野生(北魏)、都市に野生を融合させつつ、都市の退廃に食いつぶされた者(陳帝)など。


隋帝・楊堅は儀式をした。江南世界まで制覇した、楊堅の中心定位を視覚化した。全体の構図は、天上と地上の垂直関係をなぞり、都市内の南北をつらぬいた。天の徳が流出して、陳帝を寛恕してあげた。_294
軍事と儀礼によって、皇帝の単一至尊と天下支配の正統性が承認された。かたい石碑に「史」を記述する、官僚士人たちである。かたい文化の記述を書く者たちである。_296

ぼくは思う。「男性」なんだろうね。南北朝には、ラカンに言うように「女性はいない」のだ。北朝は、父親に挑みかかる成長期の少年。北魏にいたって青年となり、青春(最後の分裂期)を経て、成人した(隋室)。南朝には、「去勢」された男性たちが逃げた。うまく「女性化」したが、もとは男性であるから、王朝を営んだ。「女性」は、ひとつの王朝が永遠に継続して、血統を保つことにこだわらない。だから、最後の東晋で「皮いちまい」まで切りとられたあと、コロコロと禅譲した。そんなこと「男のおばちゃん(女性ジェンダ化したおじさん=園林都市)」にとって、悩むことでない。
成人した息子(隋室)は、かつて彼の父親が振りかざしたような腕力でもって、「男のおばちゃん」となった父親を殺した。父殺し。オイディップス。これが隋帝による天下統一。しかし隋室の2代目・煬帝は、かつて自分を可愛がってくれた「男のおばちゃん」の住処の居心地の良さを忘れられず、江南に逃げこんでしまう。
「女性がいない」とは、南北朝とは、まがりなりにも天子を名のった者たちの歴史だから、「反天子」の世界観が記述されないという意味である。史書からこぼれた場所に、おおくの「女性」がいたはずだ。野生の集団が、身体運動をしていたはずだ。

南朝では刑法が弛緩したと、隋室で認識された。世襲の権門貴族がゆるやかな統治をした。厳格な官僚制度にもとづく、中央集権的権力が弱かった。ゆえに南方は、隋室の厳しい支配をおそれた。反乱したが、鎮圧された。_298

ところで、大室氏と関係ないけど、「男のおばさん」と「男でおばさん」は違う。前者は「まんじゅうのアイス」であり、雪見だいふくという別名をもつまでに融合している。後者は「まんじゅうだが、アイスかよ」という疑義を含んでおり、ムリヤリ感のぬぐえない不味い食べ物である。後者は、抑圧状態にあるから「男のおじさん」と、うっかり何度も口走ってしまうのだ。両者は、概念を共有しているかに見えて、前者が後者にイメージを押しつけているだけである。『日本の文脈』より。園林都市は、はじめは気持ちのいい「男のおばさん」だったが、やがて「男でおばさん」に退化して、ついに男性=都市の悪い性質(蕩尽による退廃)と、女性=野生の悪い性質(求心の低下)がどちらも出てしまった。
ツイッター用まとめ。
斎藤環『生き延びるためのラカン』と、大室幹雄『干潟幻想』を併読すると、「南北朝に女性はいない」ことを言える。北朝は成長して父を殺す青年であり、南朝は「男のおばちゃん」化した父親である。ぼくが目標としている『2人のラカン(羅貫中とジャックラカン)で読む三国志』に、一歩近づいたなー!
ぼくは思う。おじさん性とは、硬質な権力である。おばさん性とは、柔軟なノリである。南朝には、おばさんのノリを身につけたおじさんが、おばさんに混じって、楽しく暮らしていた。いま、成長した青年が、おばちゃんの寄り合いを蹴散らした。おばちゃんは敗れた。男のおばさんも敗れた。ふたたび、おばちゃんが口やかましく群れたので、青年がふたたび蹴散らした。というのが、江南の反乱。

隋室は、若者は、礼経、経史を規範とする。_301

楊堅の皇后は、独孤伽羅である。_302

やっとでてきた。できすぎた夫婦。

楊堅の男子5人は、すべてが皇后の子。一夫一婦。秩序のある「家事」が、天下をうまくおさめた。秩序は、都市である。楊堅は公式の場で、北中国の言葉を話した。いっぽう、2人だけのときは鮮卑語をつかったと推測できる。都市と、鮮卑の野生をうまく並存させたので、楊堅は成功した。_309

ぼくは思う。隋帝は天子なんだから、基本属性は都市である。しかし、ただの都市でなく、野生からの回路を確保している。成功者はいつもこんな感じだと、大室氏は説明する。一夫一婦の「硬さ」は都市っぽいが、皇后の性格は健康的だったそうで、これまた都市に偏重しない。
まあね、歴史の理論なんて「あとづけ」だからね。成功者には、都市と野生が、うまく融合していたことを述べる。失敗者には、どちらかに偏重していたことを述べる。「何とでも言えてしまう」のは、理論としては最強だが、「つまらない」リスクをともなう。

皇后を「一婦人」と呼んでしまった漢族の官僚が怨まれた。モンゴルでは男女が対等である。漢族のように、一夫多妻でない。漢族の「史」では、皇后は「妬忌」と記されるが、これはモンゴルと漢族の文化の相違である。_310
楊堅の5人の息子は、不肖であり、兄弟殺しした楊広が二代の煬帝。

6章 始原児皇帝の世界遊戯と母胎回帰

始原児とは、胎児のこと。皇帝とは、二代の煬帝。煬帝は天下をうろうろしたが、最後は、彼の育った懐かしの場所=母胎=江南に逃げこんだ。首都を放棄して、隋室を滅ぼしてしまった。

ぼくは思う。大室氏にしたがうなら。煬帝は、北朝という父親と、南朝という母親(ほんとうは男のおばさん)のあいだに生まれた子である。黄河と長江をつないだのも、象徴的な受精なのかな。


煬帝は、女性におぼれた。声をこのんだ。「南貨」を好んだ。

ぼくは思う。男性の官僚に対して、女性。書き文字に対して、声色。北朝のウマに対して、南朝の文物。すべてにおいて、都市よりも野生をこのむ。野生とまでは言えなくても、「都市と野生が融合したもの」をこのむ。こういう両性的な性格により、煬帝は大室氏に愛される資格があるように見える。もちろん煬帝は「通史的」に重要な人物であるが、大室氏はその意味において、煬帝の「歴史的意義 」を強調しない。通史に対する個人史、歴史的意義よりも「古今東西かわらない人間のサガ」をこのむ。煬帝は、そちらへの回路が開かれている。
ぼくは思う。ゼミで聞いてきた「歴史性」というのは、「この時代だけ、この場所だけ、でしか言えないこと。この史料を扱う必然性」だという。もし、どの時代でも、どの場所でも、どの史料でも、けっきょく「いつもの話」に回収されるなら、これは「歴史性」の欠如により、歴史学の成果としてはおもしろくない。
前者の「歴史学」とは、男性原理であり、都市である。後者を名づけるなら「人類学」とは、女性原理であり、野生である。そうかあ、歴史学と人類学は、男女としてツイをなすものだったのか。そして、おもしろいのは、歴史学と人類学が、ほどよく融合しているものである。個別性ばかり強調して、小さな差異をいちいち言い立てて、硬い言葉で難しく書き、注釈ばかり付けてもダメ。共通性ばかり強調して、小さな差異を見落としまくって、ほんわか書き、ろくに注釈を付けなくてもダメ。大室氏は、後者の性質が強くなってくるので、「おもしろくなくなる」のだろう。「男のおばさん」は融合的で面白かったのに、手術で身体改造までして「ただのおばさん」になると、つまらないのだ。もともとが、男だったという来歴があるだけに、その徹底した変身がつまらないのだ。はじめから女なら、べつにスポイルは起こっていない。
そう考えると、「おじさん化する女」は、なかなか魅力があることになるのか。たしかに「女のおばさん」は、悪くはないけれど、議論の対象にはなりにくい。「女のおじさん」上野千鶴子みたいのが、見ていておもしろいのだね。笑

煬帝は、政治は荘重な身体技法でおこなった。内朝に退くと、無分節に女性的なものに溶解した。_334
男性が好色であることは、女性への侵犯を意味しない。だが、女性の体液に浸りすぎると、内臓になってしまい、混沌にもどる。自己閉鎖する。高句麗に敗れたとき、煬帝は恐がった。_337
天下をめぐって、天下が1つであることを示しつつ、これは富裕だった。江都で立ち止まってしまい、天下が1つであるという示威に挫折した。江都に居着いてしまった。_347

ぼくは思う。皇帝なら、平面な板の上を、順調に転がり続けてはいけない。どの土地を好んでもいかんし、どの土地を嫌ってもいかん。均質に目を掛けなければならない。もとは起伏のある地形を、脳内でのっぺりとした平面にすることが、都市=天子の機能であったはずだ。江都に居着いちゃ、そりゃいかん。

運河を掘削した。経済も軍事も活発になった。江南のさらに南の反乱を平定するためにも、江南に行ける運河が大切だった。
煬帝にとって、世界巡業は、天子としての巡狩儀礼である。洗練された文化の意匠をともなって巡業することは、天子舜や漢武帝にも勝る行為だと思っていた。しかし江南ロココに憧れをもつ煬帝は、じつは疑似バロック(古代天子の品質のわるい模造)だった。_358

煬帝がどれだけハデにやったか。個別の具体的なものを、羅列的に描写するのは、大室氏の得意とするところ。そして、ぼくの引用が苦手とするところ。というわけで、論旨のホネグミだけ抜いて、あとは削ぎました。っていうか、一読したときは「この表現、おもしろい!これも!これも!」と付箋を貼ってあるのだが。付箋を剥がしながら、該当部分を引用している現在、「あれも同じ話、これも言い換えに過ぎない、それは新しい事例ね」と消化してしまう。いちいち引用するに到らない。まあいいや。

江都にいると、天子でいられなくなる、と諫言されたが、煬帝は江都にのこった。天-天子=皇帝-父-赤子=人民という中心軸がくずれた。_388
煬帝のハデな建築は、「史」の範型から外れた。

ぼくは思う。皇帝権力よりも、「史」の定型の圧力のほうが、よほど権力的だと思う。権力的とは、その規範から逸脱したものを、きびしく罰するということ。ゆるす範囲が狭いし、逸脱した場合の罰がひどい。煬帝は皇帝に違いないが、偽者とはいえ南朝ロココにかぶれて、文化の蕩尽をやった。派手な巡狩をやり、豪勢な建築をした。ゆえに、天子でありながら、「史」の権力によって裁かれた。「史」は最強である。
しかし、ぼくらがおもしろいと思う歴史とは、都市=儒教的で厳格な「史」でなく、その周辺なんだと思う。まったく天子と関係ない庶民の生活に興味は持てないけど、天子の威光がギリギリ届かなくなるあたり、歴史書のこぼれ話に見えるものに興味をおぼえる。その意味で煬帝は、すべてが「こぼれ話」っぽい雰囲気かも。天子なのにね!

晋王だったときの煬帝は、江都に王府の図書館をつくった。技芸などの技術者を愛した煬帝は、書物も愛した。皇帝権力の確立のために、編纂事業は重要だったが、同時に煬帝の個人的な趣味でもあった。_410
全国的に反乱が起きた。江都でくつろいだ煬帝は呉語で話し、「誰が私の首を斬りにくるのかな」と話した。南朝は隋室に滅ぼされた30年後に、煬帝を破滅に導いた。南朝ロココは、本来はバロックである統一権力の隋室を、疑似バロックに貶めた。煬帝は、ロココくずれの疑似バロック。_414

7章 干潟幻想_コスモス再建と解体と修復

ぼくは思う。なにがどう「干潟」なのか、冒頭で書いてしまった。

想定されるもっとも広大な空間は、幾何学的空間である。それを構成しているのは、同質性、恒常性、無限性である。のっぺらぼうの同一性のままの無限の宇宙である。上下や左右がない。_418
人間は、身体の延長=建物によって、幾何学的空間をくぎる。地理学的な理解により、大地を物理的に計測する。差異性、変動性、有限性を出現させる。これは、無数の事実を、出来事として認識し、その出来事を記述するという過程に似ている。歴史とは言語であり、記述であり、物語である。_429

ぼくは思う。歴史哲学の講義なら、もっとおもしろい本が、べつにあるのだがなあ、と思ってこのあたりを読みました。まだ100頁残ってますが、唐代には進んでくれなかった。

「史」の眼差しは、二重の仮死状態である。1つ、民衆の生活や生存に、関心をむけない。道徳と当為ばかり説く。皇帝と官僚だけのための記述である。2つ、こういった記述の方式が、伝統として定着していた。

ぼくは思う。そういうジャンルなんだから、べつにいいじゃん。中国の史料に、べつの観点から過去に興味を持ったものが、「ここが足りないよ!」と指摘するのは、フェアでない。八百屋で「自動車ください」と言うようなものだ。まず八百屋に、自動車は売っていない。また八百屋は、自動車を売らないことが、問題だと思っていない。野菜ばかり売っている。これって、八百屋を批判する材料になるのだろうか。まあね、「八百屋は野菜を売るところだよ」を確認しておく必要はあるけどさ。


462頁に、ぼくが別ルートでつくったのと同じ図がある!121103

渡邉先生にレジュメを見て頂き、「ああ、大室幹雄だな、と思った」と言われました。その言葉が気持ちわるくて、大室幹雄を読みました。どのあたりが似ているのか、ぼくが大室氏から抜けるとしたら、どちらの方面か、というのも直感も浮いてきた。
以降、この本の最終章は特に「同じ話」ばかりなので、もういいや。「大室氏を考える(対象)」のでなく、「大室氏で考える(手段やヒント)」「大室氏によって考える(動機づけ)」という段階に入ってきた。満足した!

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