表紙 > 曹魏 > 武帝紀の建安22年-巻末を読む

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建安22年、天子旌旗,冕十二旒,金根車,駕六馬 open

春、居巣から濡須を攻め、夏侯惇を留める

二十二年春正月,王軍居巢,二月,進軍屯江西郝谿。權在濡須口築城拒守,遂逼攻 之,權退走。三月,王引軍還,留夏侯惇、曹仁、張遼等屯居巢。

建安22年春正月、曹操は居巢に進軍する。

『郡国志』はいう。揚州の廬江にある居巣である。『寰宇記』はいう。いにしえの居巣城は、陥ちて巣湖となった。えー!
胡三省はいう。居巣県は、春秋時代の巣国である。宋白はいう。いまの無為軍という地は、もとは巣県におかれた、無為鎮である。曹操が孫呉を攻めるとき、築城した。功績なく撤退したから「無為鎮」という。濡須水に接する。秦漢代の居巣であり、春秋時代の巣国である。
『方輿紀』巻26はいう。巣湖は、合肥、舒城、廬江、巣県の4県の境界である。建安のとき、曹操がしばしば孫権と戦った土地である。諸葛亮がいう「曹操が4回も巣湖にきたが、勝てなかった」という場所である。趙一清はいう。建安14年、建安18年、建安19年、建安22年の4回である。『通鑑考異』はいう。孫権伝で、曹操は居巣にきて、濡須を攻めた。どちらも前年の冬の記事である。

2月、曹操は、江西の郝谿に屯した。

趙一清はいう。『続礼儀志』は『献帝起居注』をひく。建安22年2月壬申、詔書があり、立春の寛緩を絶った。詔書は復た行われず。盧弼はいう。『続礼儀志』は「立春の日に、寛大の書を下した」という。恵棟はいう。『後漢書』侯覇伝にある。毎春、寛大書を下した。侯覇が建てたものだ。
ぼくは思う。ただ「2月」に関連した注釈である。
謝鍾英はいう。郝谿は、居巣の東、濡須の西にある。盧弼はいう。江西とは、長江の西のこと。建安18年の胡注にある。あったね。

孫権は、濡須口に築城して、曹操をこばんだ。曹操が濡須にせまり、孫権がにげた。

濡須口は、建安18年にある。胡三省はいう。孫権が守ったのは、建安17年にたてた濡須塢である。ぼくは補う。呂蒙が建てろと提案した城?
趙一清はいう。『文選』がのせる陳琳の檄文は、このときである。檄文がいつのものか、建安17年に注釈した。

3月、曹操は軍をかえした。夏侯惇、曹仁、張遼らを居巣に留めた。

夏侯惇伝はいう。夏侯惇に26軍を都督させ、居巣に留める。
孫権伝はいう。孫権が都尉の徐詳を曹操のもとに行かせて、降伏しますと言った。曹操は修好して、婚姻を結んだと。厳衍『通鑑補』はいう。甘寧が曹操を襲って、曹操に孫権の降伏をみとめさせたのは、このときである。『通鑑』では、孫権が降伏を求めたのは戦いの後である。だが、曹操が撤退したあとに、なぜ孫権は降伏を申し出なければならんか。おかしい。


夏、刑賞の大権、冠服の制度が天子と同じ

夏四月,天子命王設天子旌旗,出入稱警蹕。五月,作泮宮。六月,以軍師華歆為御史大夫。

夏4月、天子は魏王に、天子旌旗を設けさせ、出入を警蹕と称させた。

建安17年、贊拜不名、入朝不趨、劍履上殿。18年、魏公、九錫。19年、諸侯王の上、金璽、赤紱、遠遊冠、ボウ旗、鍾キョ。20年、承制して諸侯と守相をおける。21年、魏王。22年、天子のハタなど。刑賞の大権、冠服の制度は、天子と同じである。王莽の居摂と何が異なるのか。周公や文公になぞらえて、天下を盗むのは奸雄である。
『続漢書』輿服志、劉昭がひく鄭衆、鄭玄がある。『宋書』礼志5が『漢儀』をひく。このとき曹操がもらった特権の内容については、はぶく。

5月、泮宮をつくる。

『宋書』礼志1はいう。献帝の建安22年、魏国は鄴城の南に、泮宮をつくる。

6月、軍師の華歆を、御史大夫とした。

『後漢書』献帝紀はいう。丞相軍師の華歆を、御史大夫とした。銭大昕はいう。『魏志』華歆伝はいう。魏国は、御史大夫を初めて建てて、華歆を御史大夫とした。後漢でなく曹魏の御史大夫である。
劉昭のひく『百官志』はいう。建安13年、司空をやめて、御史大夫をおく。御史大夫の郗慮を免じてから、後任を補さず。建安19年に伏皇后を拝したとき、郗慮はまだ御史大夫をしていた。21年、曹操を魏王に封じたとき、宗正の劉艾が、御史大夫の仕事を代行した。25年、禅位のとき、太常の張音が、御史大夫の仕事を代行した。つまり、郗慮のあと、御史大夫はいない。
『魏志』武帝紀で、華歆が御史大夫となるが、これは魏臣としての御史大夫である。華歆の除授は、『後漢紀』にない。鍾繇が魏国の相国になったことは、そのとおり書くのに、なぜ華歆は後漢の御史大夫になったような書き方をするか。范曄が官制に詳しくないのだ。


秋冬、天子と完全に同じ移動の飾り

魏書曰:初置衞尉官。秋八月,令曰:「昔伊摯、傅說出於賤人,管仲,桓公賊也,皆用之以興。蕭何、曹參,縣吏 也,韓、陳平負汙辱之名,有見笑之恥,卒能成就王業,聲著千載。吳起貪將,殺妻自信,散金求官,母死不歸, 然在魏,奏人不敢東向,在楚則三晉不敢南謀。今天下得無有至德之人放在民間,及果勇不顧,臨敵力戰;若文 俗之吏,高才異質,或堪為將守;負汙辱之名,見笑之行,或不仁不孝而有治國用兵之術:其各舉所知,勿有所遺。」

『魏書』はいう。はじめて衞尉の官をおく。

衛尉は建安13年にある。趙一清はいう。はじめ6卿で、前年に2卿を置き、いま1卿をおいたから、これで9卿が完備された。朝家(朝廷)と同じである。

秋8月、曹操は令した。「殷代の伊尹と傅説は、出身が賤しい。管仲は桓公の賊だった。蕭何、曹参は、県吏である。韓信、陳平は、笑い者だった。呉起は、敵国からもらった妻を殺してでも、三晋(韓魏趙)から恐れられた。

『史記』呉起伝にある。

これらの前例のように、いまの身分や評判にこだわらず、治國と用兵の術ができる人材をあげよ。もらすな」と。

冬十月,天子命王冕十有二旒,乘金根車,駕六馬,設五時副車,以五官中郎將丕為魏太子。

冬10月、

趙一清はいう。『後漢書』献帝紀はいう。22年冬、東北に星孛があり、大疫があった。『五行志』は魏文帝が呉質に与えた文書をのせる。曹植はいつも、疫病のことを哀しんだと。趙一清はいう。建安23年の冬に疫病があり、曹操が「穀物を貸し出して、全滅した家を復興する令」をだした。
ぼくは思う。曹操が魏王となり、天子と同じ待遇を与えられるタイミングで、天文が拒否して、疫病が流行る。ひどいなあ、曹操。

天子は曹操に、冕十有二旒,乘金根車,駕六馬をつかわせ、五時の副車を設けさせた。

胡三省は董巴『輿服志』をひく。趙一清は『続輿服志』をひく。はぶく。上海古籍203頁。『宋書』礼志はいう。魏晋の制では、太子と諸王公は駕4つである。駕6つの曹操は、全く天子と同じである。
ぼくは思う。曹操が「なにを」もらったのかは、はぶいた注釈に書いてある。前にぼくは、称号が天子でなくても、待遇が天子なら、天子と同じじゃないかという話をした。天子は、称号によって天子になるのか、待遇によって天子になるのか。恐らく、どちらか区別できず、表裏から癒着しているのだ。「悲しいから泣くんじゃなく、泣くから悲しいのだ」「青いから青いと言うのでなく、青いというから青くなるのだ」という類いの命題である。クリプキの、グルーと、ブリーンによって、曹操と天子を理解できるだろう。
曹操は皇帝にならないが、天子と同じ待遇を許されていた。よく「曹操は禅譲を受けなかった」ことを強調するが、禅譲を受けなかったという事実は、大した意味がないのかも知れない。天子と同じ待遇なのだから、天子になったも同然である。こうやって、安全に離陸できるように、そっとやるのだ。

五官中郎將の曹丕を、魏太子とした。

劉備遣張飛、馬超、吳蘭等屯下辯;遣曹洪拒之。

劉備は、張飛、馬超、吳蘭らを、下辯に屯させる。張飛らは、曹洪をふせぐ。

下弁は武都の郡治である。建安20年に注釈あり。ときに劉備は、法正の策を入れて、漢中に兵を進めた。漢中とは別の部隊を、武都においた。
ぼくは思う。武帝紀の本文に、劉備ごときが出てくるとか、盧弼が『蜀志』から引用するとか、なんだか新鮮だなあ。文帝紀、明帝紀まで読んだら、つぎは先主伝、孫権伝を読みたい。

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建安23年、許都の丞相軍が攻められる open

春、吉本、耿紀、韋晃が許県を攻める

二十三年春正月,漢太醫令吉本與少府耿紀、司直韋晃等反,攻許,燒丞相長史王必營,

建安23年春正月、漢の太醫令する吉本と、少府する耿紀、司直する韋晃らが反して、許県を攻めた。

『続百官志』はいう。太医令は、1名、6百石。『風俗通』はいう。吉本は、周代の尹吉甫の子孫である。漢代には、漢中太守の吉恪がいた。
吉本の名が「吉丕」で、魏文帝を諱んだのか。諸説ある。はぶく。
袁宏『後漢紀』では、耿紀は「耿熙」とある。『後漢書』耿秉伝はいう。耿秉の曽孫・耿秉は、曹操に敬異され、少府になる。曹操が簒奪しそうなので、建安23年に挙兵して、夷三族。このとき、衣冠の盛門(高官の家)で、耿紀に連坐した者はとても多かった。
ぼくは思う。曹操は、実質的に皇帝である。だから、この反乱はタイミングを得たものである。耿紀に連坐して、たくさんの高官の家が滅ぼされたのは、曹操が権力を集中するためである。曹操は、皇帝を蔑ろにして権力を持ったのでなく、曹操を魏王にすることで威信を増した献帝に対抗するために、権力を振るわざるを得なかったのだ。曹操が権力を振るわねば、献帝につぶされる。歴代の外戚、とくに梁冀などは、曹操ほどの圧力を皇帝からかけられていない。外戚というだけで、立場は固定されているから。曹操ほど、後漢の皇帝に圧迫された重臣はいないかも知れない。

丞相長史する王必の軍営を焼いた。

胡三省はいう。曹操は、なお後漢の丞相の官位をもつ。だから、丞相長史に兵をつかさどらせ、許県においた。
ぼくは思う。曹操は、鄴県で「王」であり、許県で「丞相」である。もと袁紹と、もと曹操を、兼任しているようなもの。両方の「都」を均等に目配りできない。だから、許県で反乱を起こされた。


魏武故事載令曰:「領長史王必,是吾披荊棘時吏也。忠能勤事,心如鐵石,國之良吏也。蹉跌久未辟之,捨騏驥 而弗乘,焉遑遑而更求哉?故教辟之,已署所宜,便以領長史統事如故。」

『魏武故事』は、曹操の令を載せる。「丞相長史の王必は、昔からつかっている有能な人材である。名馬を放置して、ほかを探しても仕方ない。王必は、もとのまま丞相長史とする。

ぼくは思う。攻められた王必を不問にしたのだ。王必のことは、また下の裴注に出てくる。まだよく分からん。
@Golden_hamster さんはいう。王必に「敢えて栄誉ある辟召を受けさせた上で同じ長史を留任させる」という意味ではないでしょうか。つまり王必死後の責任問題ではなく王必生前の栄誉です。(辟召を) 私はいわゆる吉本の乱の前のこととしてとらえていました。陸遜を敢えて後から茂才にしたのと同じと理解していました。「辟召」はむしろもっと低い属官に任命するときですね。ただし、低いといってもいきなり任命されるには高位なので、高名な儒者・名士だけが受けられる名誉、というのが後漢での認識だったはず。王必は曹操の元で官吏として出世したがために、「辟」で属官にはなってなかった。だからこそ、敢えて「辟」で低い属官に任命して名士と同じ扱いにしてやって面目を保った上で「領丞相長史はそのままにする」と注意書きして実際の職務は変えなかったのでしょう。つまり、王必にそういう特別待遇を与えるという形で名誉を加えたのではないかと。昔からの曹操の属官、言い換えると身分の低い官吏という認識から、一流の名士にも劣らないのだということを示したのではないかと。陸遜の茂才も似て非なる例として参考にできるのでは。
ぼくは思う。王必と陸遜の対比ですね。その観点で見てみます!


必與潁川典農中郎將嚴匡討斬之。

王必は、頴川_典農中郎将の厳匡とともに、吉本を斬った。

胡三省はいう。頴川の典農中郎将は、許県のもとに屯田する。盧弼はいう。建安元年にひく『魏書』はいう。民田をつのり、許県のもとにおく。州郡のように、田官をおく。
ぼくは思う。屯田のための典農中郎将が、きちんと実戦に役立つことが証明された。許県の丞相軍は、内部だけでなく、屯田のあたりにウロウロしている。うまいこと考えた!


三輔決錄注曰:時有京兆金禕字德禕,自以世為漢臣,自日磾討莽何羅,忠誠顯著,名節累葉。覩漢祚將移,謂可 季興,乃喟然發憤,遂與耿紀、韋晃、吉本、本子邈、邈弟穆等結謀。紀字季行,少有美名,為丞相掾,王甚敬異之, 遷侍中,守少府。邈字文然,穆字思然,以禕慷慨有日磾之風,又與王必善,因以閒之,若殺必,欲挾天子以攻魏, 南援劉備。時關羽彊盛,而王在鄴,留必典兵督許中事。文然等率雜人及家僮千餘人夜燒門攻必,禕遣人為內 應,射必中肩。必不知攻者為誰,以素與禕善,走投禕,夜喚德禕,禕家不知是必,謂為文然等,錯應曰:「王長史 已死乎?卿曹事立矣!」必乃更他路奔。一曰:必欲投禕,其帳下督謂必曰:「今日事竟知誰門而投入乎?」扶 必奔南城。會天明,必猶在,文然等眾散,故敗。後十餘日,必竟以創死。

『三輔決録注』はいう。ときに京兆の金禕は、あざなを徳禕という。祖先の金日磾は莽何羅を討った。金禕も漢室のためにがんばる。

『三輔決録注』7巻は、後漢の太僕・趙岐が戦した。『後漢書』趙岐伝はいう。趙岐は、扶風の馬融の兄女である。京兆尹の功曹となる。以下、こちら。
袁紹に違約され、劉表に洛陽を修理させる趙岐
注釈したのは、摯虞である。『晋書』摯虞伝にある。父の摯模は、曹魏の太僕卿。摯虞は、わかいとき皇甫謐に仕えた。以下、はぶく。
趙岐と摯虞、『三輔決録注』の注釈をはぶいたので上海古籍205頁をみる。 『後漢書』献帝紀にひく『決録』では、あざなを徳偉とする。ぼくは思う。名とあざなを同一にすると、ややこしいから「偉」が正しいのだろう。
『漢書』金日磾伝で、金日磾が莽何羅を倒したエピソードあり。

金禕は、耿紀、韋晃、吉本とその子の吉邈、吉邈の弟の吉穆とともに結謀した。
耿紀は、丞相掾となり、曹操に敬異され、侍中にうつり、少府を守る。金禕には金日磾の風があり、王必と仲が良い。

耿紀は侍中となる。『魏志』杜畿伝にひく『傅子』にあり。
『初学記』は『決録』をひく。金禕は郡上計となり、許都にいる。ときに曹操は、長史の王必に兵をひきいさせ、天子を許都で守る。金禕と王必は仲が良い。王必は、金禕がもつ胡族の婢に会った。胡族の婢は、射術がうまい。王必はかつて金禕に、「胡族の婢がほしいなあ」と願ったことがある。?

吉邈と吉穆は、王必を殺し、天子をさしはさみ魏国を攻め、劉備と結べば、曹操に勝てると考えた。吉氏のウッカリのおかげで、王必は守りきったが、肩を射られて、10余日後に死んだ。

『蜀志』先主伝はいう。劉備は武陵太守の金旋をくだした。『決録注』はいう。金旋は劉備に殺された。金旋の子が金禕である。盧弼はいう。もし金旋が劉備に殺されたなら、「金禕と劉備を結ばせる」という、吉邈の作戦は成り立たない。陳寿のように、金旋は劉備に降ったのであり、『決録注』のように劉備に殺されたのでない。
ぼくは思う。ぼくがはぶきまくったが、いま『三輔決録注』の主人公は、吉邈と吉穆の兄弟だった。金禕と王必の関係に注目し、劉備と関羽に目を配ったのは、吉氏ということになっている。失敗をまねいたもの、吉氏になっている。話としておもしろいけど、「見てきたような話」なので、はぶいた。


獻帝春秋曰:收紀、晃等,將斬之,紀呼魏王名曰:「恨吾不自生意,竟為羣兒所誤耳!」晃頓首搏頰,以至於死。
山陽公載記曰:王聞王必死,盛怒,召漢百官詣鄴,令救火者左,不救火者右。眾人以為救火者必無罪,皆附左; 王以為「不救火者非助亂,救火乃實賊也」。皆殺之。

『献帝春秋』はいう。耿紀と韋晃らが斬られそうなとき、耿紀は魏王の名をよんだ。「群児のせいで、曹操を殺しそこねた」と。

ぼくは思う。群児とは、吉邈と吉穆か。

『山陽公載記』はいう。魏王は王必が死んだと聞いて怒った。後漢の百官を、鄴県にあつめた。許県で消火活動をしたと、自己申告したものを皆殺しにした。

盧弼はいう。曹操は後漢の丞相だから、鄴県に百官を呼びつける権限があったのだ。これが漢帝を尊重する者のやることか。また消火した者を殺すのは、徐州の虐殺とおなじ残酷である。
ぼくは思う。曹操ですら、だれが消火したか分からないのに、どうして吉氏の子供たちと王必との、克明なやりとりや錯誤を、記録できるのであろうか。アトヅケだなー。
王必のことは、『魏志』呂布伝にひく『献帝春秋』にある。


◆蜀方面のこと

曹洪破吳蘭,斬其將任夔等。三月,張飛、馬超走漢中,陰平氐強端斬吳蘭,傳其首。

曹洪は、吳蘭を破った。呉蘭の將の任夔らを斬った。

これは曹休の功績である。曹休伝にある。

3月、張飛と馬超が、漢中ににげた。陰平氐の強端は、呉蘭を斬って、そのクビを曹洪に送ってきた。

『通鑑』には、逃げ先が「漢中」とない。胡三省はいう。不利だから、張飛らは逃げたのだ。盧弼はいう。漢中には夏侯淵がいる。張飛と馬超は、陽平で夏侯淵とむきあう。張飛らは、漢中には逃げられない。『通鑑』が、武帝紀から「漢中」の文字を省いたのは正解である。
ぼくは思う。すごく目が行きとどいているなあ!
『郡国志』はいう。益州の広漢属国には、陰平道がある。


夏、曹彰が烏丸を破り、曹操が生前墓を拡げる

夏四月,代郡、上谷烏丸無臣氐等叛,遣鄢陵侯彰討破之。

魏書載王令曰:「去冬天降疫癘,民有凋傷,軍興於外,墾田損少,吾甚憂之。其令吏民男女:女年七十已上無夫 子,若年十二已下無父母兄弟,及目無所見,手不能作,足不能行,而無妻子父兄產業者,廩食終身。幼者至十二 止,貧窮不能自贍者,隨口給貸。老耄須待養者,年九十已上,復不事,家一人。」

夏4月、代郡、上谷の烏丸である無臣氐らがそむいた。鄢陵侯の曹彰がやぶる。

代郡、上谷は、建安12年、13年にある。銭大昕はいう。曹彰伝は「代郡の烏丸」としか記さない。上谷はない。無臣氐とは、能臣氐がなまったもの。銭大昭はいう。烏丸伝も「代郡の烏丸」としか記さない。上谷はいらない。
くわしくは曹彰伝をみよ。

『魏書』は曹操の令を載せる。昨年の疫病のために、戸数が存続できそうにない。貧しい家は優遇する。

ぼくは思う。陳寿が『魏書』の王令を載せない。曹操が、魏公、魏王、曹丕が魏帝になるための文書を、いまいち欠いてしまう。「蜀漢の正統を言いたい」のではなく、「ほかにもっと良い『魏書』がある」から、わざわざ書かなかったのではないか。


六月,令曰:「古之葬者,必居瘠薄之地。其規西門豹祠西原上為壽陵,因高為基,不封 不樹。周禮冢人掌公墓之地,凡諸侯居左右以前,卿大夫居後,漢制亦謂之陪陵。其公卿 大臣列將有功者,宜陪壽陵,其廣為兆域,使足相容。」

6月、曹操は令した。私の生前墓のエリアを拡げて、曹魏の重臣の墓をエリアのなかに作れるようにせよ。

曹操の墓について、去年は流行ったなあ。
『水経』濁漳水注、『周礼』とその鄭注などがある。はぶく。こういう、儀礼のコンテンツには、ほんとうに興味がない。上海古籍208頁。
ぼくは思う。曹操は、死を予感しているのかな。「君主が死ぬ」は、タブーだが、みんなが知っていること。「生前墓をつくる」ことの、文化人類学的な意味について、考えたいなあ。「生前の葬儀」と同じかなあ。遺される者の準備だろう。心理だけでなく、政治のためにも、準備が必要である。政治のための墓。ふつうにアリだな。墓前や墓上で、継承の儀式だってなされる。墓の形式や序列、墓をあばくことは、物理的な現象をうわまわる意味を背負っている。


秋に曹操が長安へ、冬に宛県で侯音がそむく

秋七月,治兵,遂西征劉備,九月,至長安。
冬十月,宛守將侯音等反,執南陽太守,劫略吏民,保宛。初,曹仁討關羽,屯樊城,是月 使仁圍宛。

秋7月、曹操は治兵(訓練がわりの閲兵)する。西して劉備を征する。9月、長安にいたる。

このとき劉備は、陽平関にいる。
劉廙伝はいう。曹操が長安にいるとき、劉廙は長安でいさめた。曹操はいう。「わたしに西伯の徳があることを、座して示せというのか。うまくいかないかも知れない。わたしは劉備を自ら討って、徳があることを示すのだ」
ぼくは思う。曹操の最期の遠征が、劉備との戦い。ふつうにドラマチックだ。まるで、背後に脚本家がいるようだ。怖いなあ。

冬10月、宛県の守將である侯音らが反した。南陽太守を捕らえて、吏民を劫略した。宛県をたもつ。はじめ曹仁が、関羽を討つために樊城に屯していたが、同月に曹仁が宛県をかこんだ。

宛県は、南陽の郡治である。前にある。
樊城は、建安13年の注釈にある。
ぼくは思う。武帝紀の年末って、いつもブツン! と話が切れる気がする。おもな話題は、春夏あたりに書いて、曹操が直接にコミットしない話題を、後半に持ってくるからだろうか。でも建安23年については、冬に侯音が背いているから、年末にどうでもいい話題を寄せ集めたのでない。次年が楽しみ!

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建安24年、長安から漢中にゆき、死ぬ? open

春、夏侯淵が殺される

二十四年春正月,仁屠宛,斬音。

建安24年春正月、曹仁は宛城をほふり、侯音を斬る。

曹瞞傳曰:是時南陽閒苦繇役,音於是執太守東里袞,與吏民共反,與關羽連和。南陽功曹宗子卿往 說音曰:「足下順民心,舉大事,遠近莫不望風;然執郡將,逆而無益,何不遣之。吾與子共勠力,比曹公軍來,關 羽兵亦至矣。」音從之,即釋遣太守。子卿因夜踰城亡出,遂與太守收餘民圍音,會曹仁軍至,共滅之。

『曹瞞伝』はいう。このとき南陽は、繇役に苦しんだ。

胡三省はいう。南陽は、曹仁の軍に供給するために、徴発がつらかったのだ。ぼくは思う。南陽がそむいた原因を、曹操軍のまずさに求める。ウソとは言い切れないが、ホントとも言えない。なぜなら、あらゆる事件の原因は「仮説」でしかないから。曹操軍のまずさを、わざわざ意識させてくれるのが、『曹瞞伝』のすばらしさ。
ぼくは思う。劉備とか関羽とかは、直接的には関係ない。「曹操の敵で、近距離にいるどこかの勢力」という条件に、たまたま劉備が該当した。

侯音は、南陽太守の東里袞をとらえ、、吏民とともに反し、関羽と連和した。

『魏志』三少帝紀はいう。むかし南陽で、太守の東里袞がつかまった。功曹の應余のおかげで、東里袞は死なずにすんだ。應余は、東裡袞の代わりに死んだ。
胡三省はいう。はいう。鄭子産は、東里にいた。子孫は、東里氏を名のった。

南陽の功曹する宗子卿は、侯音にいう。「(曹仁軍の徴発に苦しむ)民心に従ったのはよい。だが、東里袞を捕らえたのは悪い。東里袞を釈放せよ。曹操軍がくるころ、関羽軍もくるだろう」と。

趙一清はいう。南陽の功曹は、應余と宗子卿がいる。功曹は定員1名でないから、どちらも功曹であっても、おかしくない。

侯音は東里袞を逃がした。宗子卿は逃げて、ぎゃくに侯音を囲んだ。曹仁軍がきて、侯音を滅した。

ぼくは思う。宗子卿は「侯音をあざむいた」のだろう。
田豫伝はいう。田豫は南陽太守となった。これより前に、郡人の侯音がそむいた。数千人が、山中で群盗となった。田豫の前任の太守は、群盗5百余人をとらえて殺そうとした。田豫が助命したので、群盗が散った。
ぼくは思う。田豫の前任とは、捕らえられた張本人の東里袞??


夏侯淵與劉備戰於陽平,為備所殺。三月,王自長安出斜谷,軍遮要以臨漢中,遂至陽 平。備因險拒守。

夏侯淵は、陽平で劉備と戦い、殺された。

夏侯淵、戦死!!
陽平は、建安20年にある。
盧弼はいう。夏侯淵は、漢中に4年いた。年をまたぎ、劉備と攻めあった。劉備は匹夫の勇だから、劉備にクビをプレゼントしてしまった。劉備は漢中を領有した。
ぼくは思う。レトリックだと思うが、「クビを授ける」という、贈与のような表現がおもしろい。クビの授受にまつわる諸義務を考えたら楽しそう。そりゃ、クビを差し出すのは、ふつうはイヤだけど。本人は不本意ながら斬られるのだろうけど。「曹操は劉備に、夏侯淵のクビを贈与した」なんちゃって。へんな表現をするところから、何か思いつかないかなー。

3月、曹操は長安から斜谷に出た。陽平にゆき、険阻な地形によって、劉備と拒守しあった。

『郡国志』はいう。司隷の右扶風の武功に斜谷がある。劉昭のひく『西征賦』にでてくる。『史記』貨殖伝にある。『華陽国志』はいう。光武帝は臧宮をつかわし、公孫越を征した。臧宮は斜谷道から入る。
『蜀志』諸葛亮伝はいう。建興6年、声をあげて、斜谷道から郿県をとりにいく。
『方輿紀』巻56はいう。むかし秦の恵王が、蜀を取った道である。へえ!


九州春秋曰:時王欲還,出令曰「雞肋」,官屬不知所謂。主簿楊脩便自嚴裝,人驚問脩:「何以知之?」脩曰:「夫 雞肋,棄之如可惜,食之無所得,以比漢中,知王欲還也。」

『九州春秋』はいう。曹操がかえろうとして「鶏肋」という。官属はわからん。主簿の楊脩がわかった。

楊脩のことは、曹植伝にひく『典略』にある。


夏秋、関羽と魏諷が片づく

夏五月,引軍還長安。
秋七月,以夫人卞氏為王后。遣于禁助曹仁擊關羽。八月,漢水溢,灌禁軍,軍沒,羽 獲禁,遂圍仁。使徐晃救之。

夏5月、曹操は長安にもどる。

『蜀志』先主伝はいう。劉備は曹操がきても、どうしようもない。漢川を守ってたら、曹操が帰ってくれた。何焯はいう。朱温(後梁の朱全忠)は、曹操を参考にした。
ぼくは思う。移動時間をぬくと、曹操が正味で劉備と対峙したのは、どれだけの時間だろう。意外に短い?

秋7月、卞氏を王后とする。于禁に曹仁を助けさせ、関羽を撃つ。8月、漢水があふれる。于禁が水没した。于禁はとらわれ、曹仁が囲まれる。徐晃に救わせる。

于禁伝、満寵伝、関羽伝にある。秋の長雨で于禁7軍がしずみ、許県の南がさわぎ、洪河より南は漢の領土でない。曹操は許都を移そうと議した。
『通鑑』はいう。関羽は、将軍の呂常を襄陽でかこむ。荊州刺史の胡脩、南郷太守の傅方は、関羽にくだった。
盧弼はいう。曹操は洛陽にもどり、曹仁を救おうとする。司馬懿と蒋済の策略もむなしく、呉蜀が同盟したら、どうなったか分からない。
ぼくは思う。曹操が陽平から引き上げていなかったら、曹操は漢水で沈んでいたかも。早めに撤退した曹操は、ヒキがあったなあ。ちゃんと、長安、洛陽に帰ることができた。


◆魏諷のこと

九月,相國鍾繇坐西曹掾魏諷反免。

9月、相国の鍾繇は、西曹掾の魏諷に座して免じられた。

胡三省はいう。魏諷がいたのは、曹魏の相国府にある西曹掾である。
ぼくは補う。魏諷は魏国のなかで、鍾繇の属官だった。あと、「カストロとカダフィ」が「カタストロフィ」に空目されるのだが、「ギコク」と入力して変換すると「偽国」とATOKが変換する。なにかを暗示している。笑


世語曰:諷字子京,沛人,有惑眾才,傾動鄴都,鍾繇由是辟焉。大軍未反,諷潛結徒黨,又與長樂衞尉陳禕謀襲 鄴。未及期,禕懼,告之太子,誅諷,坐死者數十人。

『世語』はいう。魏諷は、沛郡の人。惑衆の才があり、鄴都をかたむける。これにより鍾繇に辟された。曹操軍が漢中からもどる前に、長樂衞尉の陳禕とともに鄴都を襲った。

趙一清はいう。『漢書』百官公卿表はいう。長楽、建章、甘泉衛尉がいた。『続百官志』はいう。長信宮、長楽宮には、少府1名、のこりは宮名を官号とした。長楽には衛尉もいた。僕は太僕となる。みな2千石。少府の上におかれる。
蕭常『続後漢書』はいう。魏諷は、長楽衛尉の陳禕、列侯の張泉らとともに、鄴県を襲い、曹操を誅そうとした。ぼくは思う。曹操、いないじゃん! 迎撃するつもりか?
ぼくは思う。鍾繇が魏延を辟したのは「惑衆の才」が理由なのか。鍾繇は、どういう基準で人材をあげているのだろう。もともと鍾繇が、李傕の長安にいるとき、「惑衆の才」がありそうな? 曹操を見こんで、献帝と曹操のルートを開通させた人。曹操と魏諷はおなじタイプか。
関中~河東の秩序を破壊し、曹操色にぬりかえた鍾繇伝
ぼくは思う。鍾繇は、かきまわすのが好きだなあ。

陳禕が曹丕にバラしてしまい、誅された。数十人が座した。

袁宏『後漢紀』はいう。丞相掾の魏諷は、曹操に殺されたと。『通鑑』は連坐して数千人が死んだという。盧弼は、どちらが正しいか分からない。
殺されたのは以下の人々。『魏志』劉廙伝で弟の劉偉が、王粲伝で王粲の2子が、鍾会伝にひく『博物記』でも王粲の2子が、『蜀志』尹黙伝、蕭常『続後漢書』で宋忠の子が、劉表伝にひく『傅子』で傅巽が死んだ。
劉曄伝にひく『傅子』で、劉曄は魏諷の謀反を見ぬく。張繍伝で、子の張泉が死ぬ。毋丘倹伝にひく『魏書』で、文欽が下獄された。
ぼくは思う。おおいなあ! 盧弼に、まとめてもらい、便利だ。これで「数千人でもおかしくない」と、盧弼は言っているのだろう。そうかもなー。


王昶家誡曰「濟陰魏諷」,而此云沛人,未詳。

『王昶家誡』では、魏諷の出身は済陰である。沛郡か済陰か、分からない。

王昶伝で、子姪を戒める書がある。郭嘉伝にひく『御覧』697でも『王昶家誡』がでてくる。だが、『隋書』『唐書』にない。
『晋書』鄭袤伝はいう。済陰の魏諷は、相国掾となる。鄭袤の同郡の任覧は、魏諷と仲がよい。鄭袤は「魏諷はあやしい」と、魏諷から遠ざかる。鄭袤は、見目があったので、ほめられた。
盧弼はいう。各史料にのる魏延は、魏諷の「忠烈才智」を示す。曹操を殺せなかったから、貶められたのである。ぼくは思う。盧弼は、曹操がキライで、魏諷の味方らしい。曹操がキライで、よくぞ『三国志集解』のような大きな仕事ができたなあ! 偏向とかあるんだろうか。曹操ギライは、陳寿も同じか?


冬、洛陽の死体と、漢魏革命のすすめ

◆曹操が死んじゃった

冬十月,軍還洛陽。

曹瞞傳曰:王更脩治北部尉廨,令過于舊。

冬10月、曹操は洛陽にかえった。

何焯はいう。陸機『魏武を弔う文』はいう。建安24年、曹操は西行するが、志を得ずに(劉備を倒せず)、発病した。襄陽と樊城はきつく囲まれ、ヤバい状況で曹操は死んだ。史書は、曹操の最期をきちんと記さないと。何焯はいう。陸機の文は、『魏志』武帝紀とちがう。武帝紀は、曹操が洛陽に帰れず、収拾がつかないまま死んだことを諱んだのだろう。諸葛亮『正議』はいう。曹操は数十万をひきいたが、漢中で死んだ。洛陽に帰れずに、感毒して死んだ。
盧弼はいう。『正議』は、諸葛亮伝にひく『諸葛亮集』にある。
ぼくは思う。曹操がおかしな漢中撤退をしたのは、死にかけたから? そして、ぶじに洛陽に到達せずに、死んでしまった。せめて洛陽までは死をかくした。許県まで行くとか、ほんとうなら鄴県に帰るとかが「ほんとう」なのに、洛陽で死が発表された。腐るからなあ。もしも、諸葛亮のいうように、漢中で死んだとしたら、「鶏肋」の逸話すら、時系列を誤って挿入されたか、ただの創作である。敗者である楊脩に口なし。漢中で死なないにしろ、長安に還った時点で、そうとうヤバかった。漢中の滞在が短いのは、そういう意味か! 劉備が曹操を間接的に殺した。もしくは、死にかけてでも曹操は、劉備を片づけに行った。いいなあ!
呉蜀の文章家によって暴かれるのもまた、いいなあ!
@bb_sabure さんはいう。夏侯惇はこの撤退中に合流して初めて、陪乗、寝室出入りの許可が出てますから病状悪化で動けない曹操の代わりにNo2として軍を取り仕切っていたのかもしれませんね。
@sosokan さんはいう。夏侯惇が寝所出入りOKになったのは曹操が寝たきりだったからかも。
@bb_sabure さんはいう。夏侯淵も若かりし頃、影武者やってますし夏侯一族は影武者技能でも持ってたのかもしれません。
ぼくは思う。曹氏と夏侯氏の関係は、『三国志』で夏侯氏が皇族扱いとか、異姓養子のタブーとか、曹丕が夏侯惇に「同姓としての葬儀」をやるとか、いろいろ怪しい。影武者のような役割があるとしたら、さらに怪しいネタが増えた。

『曹瞞伝』はいう。曹操は、北部尉のひさしを修繕した。

洛陽の北部尉は、武帝紀の巻首にある。ぼくは思う。『曹瞞伝』は後発の作品だから、「この世に未練を残す、みみっちい曹操」を描くために、むかしを懐かしませた。そしてこの創作が、曹操への共感を呼ぶという、よくあるパタン。


◆曹操に禅譲革命を勧める人たち

孫權遣使上書,以討關羽自效。王自洛陽南征羽,未至,晃攻 羽,破之,羽走,仁圍解。王軍摩陂。

孫権は曹操の上書して「関羽うちます」という。曹操は洛陽から南して、関羽を征するが、徐晃が関羽をやぶった。関羽はにげ、曹仁の囲みが解けた。曹操は摩波に進軍する。

胡三省はいう。『水経』によると、摩陂は頴川の郟県である。曹魏の青龍元年、摩陂に龍が現れたので「龍陂」と改められた。
ぼくは思う。曹操が死んでいると思うと、このあたりは、曹操の死体を洛陽に安置したまま、大軍だけが動いているんだなー。関羽を斬って、とりあえず落ち着かないと、曹操の死を発表できない。あ! 曹操のほうが関羽より先に死んでいると、曹操が関羽のクビを見ることができないのか! 大好きな関羽の死を知らなくて、曹操は幸せだったのかなー。どっちがドラマチックか、という問題である。関羽の死-曹操の死という順序は、魏国の政治的には変えられない。


魏略曰:孫權上書稱臣,稱說天命。王以權書示外曰:「是兒欲踞吾著爐火上邪!」侍中陳羣、尚書桓階奏曰:「漢 自安帝已來,政去公室,國統數絕,至於今者,唯有名號,尺土一民,皆非漢有,期運久已盡,曆數久已終,非適今 日也。是以桓、靈之間,諸明圖緯者,皆言『漢行氣盡,黃家當興』。殿下應期,十分天下而有其九,以服事漢,羣生 注望,,遐邇怨歎,是故孫權在遠稱臣,此天人之應,異氣齊聲。臣愚以為虞、夏不以謙辭,殷、周不吝誅放,畏天知命,無所與讓也。」

『魏略』はいう。孫権は臣と称して、曹操の天命を説いた。曹操は孫権の上書を示して「私を火の上に座らせるか」と言った。

盧弼はいう。孫堅は董卓を討ち、孫策は袁術と絶縁して、許県をねらった。みな漢室の大義のためである。孫権は曹操に媚びた。父と兄におとる、恥知らずめ。
ぼくは思う。孫権と曹操の関係は、見所。曹丕にわたって、見所。ここで孫権を「曹操に媚びやがって」と切り捨てて、話を終わりにしたくない。孫権なりの「戦略」があるはずだ。いずれ言語化したい。
胡三省はいう。孫権は、火徳の漢室の上に、曹操を置きたかった。曹操が上書をみなに見せたのは、みなの反応を見たかったからだ。
ぼくは思う。胡三省の言うとおりなら、袁紹とまったく同じである。袁紹は、周囲があまりに反対するので、袁氏の天命を言った人を斬ってしまった。

侍中の陳羣、尚書の桓階は上奏した。「安帝から皇帝の血筋が絶えがち。地も民も漢のものは1つもない。桓帝や霊帝のとき、図緯が後漢の終わりをいう。曹操は天下の10分の9をもつ。

ぼくは思う。陳羣と桓階は、漢魏革命をやりたい派。
盧弼はいう。このとき、益州は蜀漢、荊州、揚州、交州、広州は孫呉である。10分の9も曹操にあるか。ある人がいう。孫呉が称臣したので、のこりは益州だけ。だから10分の9である。

民衆は、曹操が漢室に仕えていることを、怨歎している。虞、殷、周とも革命をやった。曹操も革命せよ」と。

魏氏春秋曰:夏侯惇謂王曰:「天下咸知漢祚已盡,異代方起。自古已來,能除民害為百姓所歸者,即民主也。今 殿下即戎三十餘年,功德著於黎庶,為天下所依歸,應天順民,復何疑哉!」王曰:「『施于有政,是亦為政』。若天 命在吾,吾為周文王矣。」

『魏氏春秋』はいう。夏侯惇は曹操にいう。「漢の天命は尽きた。百姓は曹操に帰する。曹操は30余年も戦った。百姓の支持にしたがえ」と。曹操はいう。「"政"において"施"することを、これもまた"政"とする。もし天命が私にあっても、周文王となろう」と。

ぼくは思う。夏侯惇に言われたら、しょうがないなー。
司馬光はいう。教化は、国家の急務である。風俗は、天下の大事である。後漢の光武、孝明、孝章は、教化と風俗をきちんとした。和帝より以降、ダメになった。上は、袁安、楊震、李固、杜喬、陳蕃、李膺があらそい、下は、符融、郭泰、范滂、許劭がすくおうとした。曹操は、教化と馮風俗をきちんとしなかった。


曹瞞傳及世語並云桓階勸王正位,夏侯惇以為宜先滅蜀,蜀亡則吳服,二方既定,然後遵舜、禹之軌,王從之。及 至王薨,惇追恨前言,發病卒。
 孫盛評曰:夏侯惇恥為漢官,求受魏印,桓階方惇,有義直之節;考其傳記,世語為妄矣。

『曹瞞傳』および『世語』は、どちらも桓階が曹操に皇帝を勧めた文書を載せる。夏侯惇は「先に蜀を滅ぼせば、呉は服する。そのあとで舜や禹のように禅譲を受けろ」と。曹操は夏侯惇に従い、禅譲を見送った。曹操が死んでから、夏侯惇は後悔して死んだ。

ぼくは思う。夏侯惇は、いつもおいしいところを持っていく。曹操のそばにいて、曹操に言うことを聞かせられる。だから、曹操を際立たせるために、便利なキャラである。小説だけでなく、史料においても。ここで夏侯惇は、曹操に禅譲を見送らせる役割をしている。記号としての役割において、いいペア。

孫盛はいう。夏侯惇は、漢官よりも魏印をほしがった。桓階は、曹操に禅譲を勧めるようなヤツじゃない。『曹瞞伝』『世語』は、でたらめである。

ぼくは思う。なんとも言えんなー。
ぼくは思う。曹操は、漢中ですでに死んだわけですが(笑)、このあたりの革命に関する史料は、時期が前後するだろう。漢中から帰り、一気に言われたのでない。時系列があっているのは、孫権ぐらいだろう。関連する記事をまとめたのだ。

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建安25年、曹操を葬り、武王と諡する open

春、洛陽で死ぬ

二十五年春正月,至洛陽。權擊斬羽,傳其首。
庚子,王崩于洛陽,年六十六。

建安25年春正月、洛陽にいたる。孫権は関羽のクビを送る。
正月庚子、洛陽で奉じた。66歳。

『魏志』曹彰伝はいう。曹操が洛陽で病気になると、曹彰を駅召した。曹彰が到着する前に、曹操は死んだ。ぼくは思う。このあたり、本紀のくせに、月しか書いてない。日を書いてあるのは、曹操の命日だけ。『後漢書』なら、ちゃんと日付まで分かるのに。王沈『魏書』とか、魚豢『魏略』とかなら、書いてあったのかな。単なる記録の不備だろう。
姚範はいう。曹操は、桓帝の永寿元年に生まれた。


世語曰:太祖自漢中至洛陽,起建始殿,伐濯龍祠而樹血出。
曹瞞傳曰:王使工蘇越徙美梨,掘之,根傷盡出血。越白狀,王躬自視而惡之,以為不祥,還遂寢疾。

『世語』はいう。曹操は漢中から洛陽にもどり、建始殿を建てた。濯龍祠を斬って、樹が出血した。

『御覧』952は『元中記』をひく。百歳の樹は、樹液が血のように赤い。へー!

『曹瞞伝』はいう。曹操は、工人の蘇越に、美梨を移させるために、掘らせた。根から出血した。曹操はこれを見て、病気になった。

遺令曰:「天下尚未安定,未得遵古也。葬畢,皆除 服。其將兵屯戍者,皆不得離屯部。有司各率乃職。斂以時服,無藏金玉珍寶。」諡曰武 王。二月丁卯,葬高陵。

曹操は遺令した。「天下は定まらない。葬ったら喪服をぬげ。持ち場をはなれるな。珍宝を副葬するな」

『宋書』礼志2は、曹操が臨終のときの遺令をしるす。曹丕が副葬品をふやした。『文選』陸機の「魏武帝を弔う文」にも、曹操の遺令が引かれている。『御覧』も曹操の遺令をのせる。
盧弼はいう。陳寿がのせた曹操の遺令は、わずかに軍事と国家に関する部分の抜粋である。埋葬品の話、オンナ子供の話などが、べつの史料に散って残っている。オンナ子供の今後を心配するのは、前漢の文帝の遺令もおなじである。曹操が情けないとはいえない。
ぼくは思う。文章の残りかたを考える上で面白い。もともと一連の文章だったはずが、記録する者の思惑、引用する者の思惑、保存する者の思惑、伝承する者の思惑などによって、断片的に散らばる。つなぎ合わせることで、内容の広さを復元することができる。

武王と諡した。2月丁卯、高陵に葬る。

胡三省はいう。高陵は鄴城の西である。曹操は、西門豹のほこらの西原上に葬らせた。趙一清はいう。『元和郡国志』によると、、など。『方輿紀要』巻49はいう。曹操は、72の陵墓をつくらせた。漳水のそばにある。一昨年に流行ったやつ。

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曹操の性格と評価、それらしいエピソード等 open

ぼくは思う。本紀でも列伝でも、ひととおり時系列で論じたら、最後には、人物評とか、「いかにもその人らしい逸話」が載っている。ひとさまの意見はソコソコに、新たな「事実」と思しき部分を中心に抄訳します。

王沈『魏書』による絶賛の評

魏書曰:太祖自統御海內,芟夷羣醜,其行軍用師,大較依孫、吳之法,而因事設奇,譎敵制勝,變化如神。自作兵 書十萬餘言,諸將征伐,皆以新書從事。臨事又手為節度,從令者克捷,違教者負敗。與虜對陳,意思安閒,如不 欲戰,然及至決機乘勝,氣勢盈溢,故每戰必克,軍無幸勝。知人善察,難眩以偽,拔于禁、樂進於行陳之間,取張 遼、徐晃於亡虜之內,皆佐命立功,列為名將;其餘拔出細微,登為牧守者,不可勝數。

『魏書』はいう。曹操は『孫子』『呉子』の兵法ができた。兵書10余万言をつくり、『新書』とする。

官本では「10万余言」という。誤りである。ぼくは思う。10万1千字でも、13万字でも、どちらも長いけどなあ。『隋書』経籍志には、『太公陰謀』3巻、という曹操が注釈した本がある。曹操は『司馬法』の注釈書もある。
先主伝にひく『益部耆旧雑記』はいう。楊脩は張松に、曹操の兵法書をみせた。飲宴のその場で、張松が覚えてしまった。
ぼくは思う。「たくさん暗記できる」「はやく暗記できる」「忘れない」というタイプの知性は、それができない人から見れば、まるで魔法のようなもの。できない人には、できないから、畏怖すらする。パソコンとネットのおかげで、ほんとに、ここ10年足らずで、忘れっぽい人間も「考えごと」を許されるようになった。いい時代に生まれたなあ。

于禁や楽進をひろい、降伏した張遼や徐晃をもちいた。

是以剏造大業,文武並 施,御軍三十餘年,手不捨書,晝則講武策,夜則思經傳,登高必賦,及造新詩,被之管絃,皆成樂章。才力絕人, 手射飛鳥,躬禽猛獸,嘗于南皮一日射雉獲六十三頭。及造作宮室,繕治器械,無不為之法則,皆盡其意。雅性 節儉,不好華麗,後宮衣不錦繡,侍御履不二采,帷帳屏風,壞則補納,茵蓐取溫,無有緣飾。攻城拔邑,得美麗之 物,則悉以賜有功,勳勞宜賞,不吝千金,無功望施,分毫不與,四方獻御,與羣下共之。常以送終之制,襲稱之 數,繁而無益,俗又過之,故預自制終亡衣服,四篋而已。

南皮で1日に63頭のキジをとらえた。

36頭となっているバージョンもあるらしい。もう「数がおおい」と分かれば、どちらでも良い。袁氏の子供たちを追いつめに行って、キジを飼ってたんだなあ。さすがの余裕!

器物は質素で、戦利品は気前よく与えた。

盧弼はいう。秦宜禄の妻を、なぜ関羽に与えなかったか。王沈は、曹操の気前よさを脚色しすぎである。
ぼくは思う。「気前よいトップ」というのは、神話的な記号だと思う。しかし曹操は、それほど気前がよくなかった。曹丕と、袁熙の妻をとりあったりしたし。「曹操を貶めるため、曹操の気前わるさを宣伝しよう」という、史家の悪意が働いているとしたら、とても興味ぶかいこと! 気前の悪い曹操は、たんなるケチ(資本主義における守銭奴)とはちがう。もっと破滅的に、君主としての素質がないことが暴露される。

曹操は質素だから、陵墓もかんたんにした。

盧弼はいう。曹操と曹丕は、漢室の皇帝の陵墓が、すべて盗掘されているのを見た。ゆえに厚葬するなと命じたのだ。
ぼくは思う。王沈は「質素な曹操はすばらしい」と主張している。それを盧弼が台無しにする。盧弼、やっぱり曹操がキライだな。


傅子曰:太祖愍嫁取之奢僭,公女適人,皆以皁帳,從婢不過十人。
傅子曰:漢末王公,多委王服,以幅巾為雅,是以袁紹、崔鈞之徒,雖為將帥,皆著縑巾。魏太祖以天下 凶荒,資財乏匱,擬古皮弁,裁縑帛以為帢,合于簡易隨時之義,以色別其貴賤,于今施行,可謂軍容,非國容也。

『傅子』はいう。曹操は、ゴージャスな嫁取をいやがった。曹操の女を皇帝にわたすときは、布をかぶせ、婢を10人もつけなかった。

ぼくは思う。じつは中身は高級品のギフトでも、包装紙を地味にする。これにどういう意味があるのか、考えないと。「倹約すると、利益がでるから、それって賢い経営者の習慣だなあ」なんて考えてはいけない。倹約することは、ただ費用を浮かすことではない。倹約は、人間関係を変成させる「戦略」の1つである。
王沈『魏書』、『傅子』は、ともに曹操の倹約をいい、曹操をほめている。曹操が倹約家だったのは、まあ「事実」にカウントしても、痛い目にあうことはなさそう。

『傅子』はいう。漢末の王公は、みな王服をぬいで、幅巾をつけて「雅」とした。袁紹や崔鈞は、戦場でも縑巾をつけた。

崔鈞は、袁紹とともに山東で起兵した。『後漢書』崔駰伝にある。

曹操は、古代の質素な皮冠をかぶった。色で貴賤を区別した。これは戦場でやられたが、国家の制度にはならなかった。

『博物志』はいう。後漢の士人は、葛巾をかぶった。建安のとき、曹操が白[巾合]をつくり、葛巾がすたれた。ただ2学の書生だけは、葛巾をつけた。
『中華古今注』はいう。曹魏の軍中では、かぶりものを5色にぬりわけて、方面を表した。ぼくは補う。貴賤だけでなく、配属も表現したのか。形を変えるよりも、コストが安そう。聖徳太子『冠位12階』とかあったなあ。あれは伝承だっけ。わからん。


毒薬を飲んでも生きている曹操

張華博物志曰:漢世,安平崔瑗、瑗子寔、弘農張芝、芝弟昶並善草書,而太祖亞之。桓譚、蔡邕善音樂,馮翊山子 道、王九真、郭凱等善圍棊,太祖皆與埒能。又好養性法,亦解方藥,招引方術之士,廬江左慈、譙郡華佗、甘陵 甘始、陽城郄儉無不畢至,又習啖野葛至一尺,亦得少多飲鴆酒。

張華『博物志』はいう。漢代にいた、安平の崔瑗、崔瑗の子・崔寔、弘農の張芝、張芝の弟の張昶は、草書がうまい。曹操は、彼らのつぎにうまい。

ぼくは思う。書道は「遺伝」する。文化資本だなー! 張華と、張華の『博物志』について、くわしい注釈がある。はぶく。上海古籍219頁。
『晋書』衛恒伝、張懐瓘『書断』に、草書の名人が書いてある。曹操も字を書いたが、曹植も字を書いた。

桓譚、蔡邕は音楽をやる。馮翊の山子道、王九真、郭凱らは、囲碁がうまい。曹操も匹敵する。
養性の法を好み、方術之士をまねく。廬江の左慈、譙郡の華佗、甘陵の甘始、陽城の郄儉らである。曹操は、野葛なら1尺まで、すこしの鴆酒なら食べることができた。

『本草目』はいう。野葛は毒草である。上海古籍221頁。
なんのために鍛えていたのだろう。毒薬と知らずに食べていたのか、毒薬と知って克服しようとしてたのか。少なくとも鴆毒が有害なことは、知っていただろうに。「養生」って何だろうなあ。文化の違い!


『曹瞞伝』が軽々しい曹操をいう

曹瞞傳曰:太祖為人佻易無威重,好音樂,倡優在側,常以日達夕。被服輕綃,身自佩小鞶囊,以盛手巾細物,時或 冠帢帽以見賓客。每與人談論,戲弄言誦,盡無所隱,及歡悅大笑,至以頭沒杯案中,肴膳皆沾汙巾幘,其輕易如 此。然持法峻刻,諸將有計畫勝出己者,隨以法誅之,及故人舊怨,亦皆無餘。其所刑殺,輒對之垂涕嗟痛之,終 無所活。

『曹瞞伝』はいう。曹操は音楽が好き。

杭世駿はいう。『楽府解題』はいう。曹操の宮人に、盧の女がいた。もと将軍の陰叔の娘である。7歳で漢宮に入り、音楽や歌声を学んだ。

大笑して、お椀のなかに冠り物が入った。自分より良いアイディアがある者や、ふるい怨念がある者を、法によって誅殺した。

『魏志』崔琰伝はいう。魯国の孔融、南陽の許攸、婁圭らを殺した。『世説新語』捷悟篇にひく『文士伝』で、楊脩が曹操に殺された。
『世説新語』方正篇で、司空の曹操は、南陽の宗世林から仕官を断られた。宗世林は『楚国先賢伝』にある。曹操が袁紹に勝ったあと、宗世林が仕官したが、曹操は怨みに思って、官位をあげなかった。上海古籍222頁。


初,袁忠為沛相,嘗欲以法治太祖,沛國桓邵亦輕之,及在兗州,陳留邊讓言議頗侵太祖,太祖殺讓,族其 家,忠、邵俱避難交州,太祖遣使就太守士燮盡族之。桓邵得出首,拜謝於庭中,太祖謂曰:「跪可解死邪!」遂殺 之。

はじめ、袁忠は沛相になった。法に照らして、曹操を裁こうとした。沛国の桓邵も曹操を軽んじた。曹操が兗州にいるとき、陳留の辺譲を殺した。

『後漢書』文苑伝に、辺譲伝がある。孔融、王朗、蔡邕と交流がある。九江太守となる。上海古籍222頁。『御覧』691に『譲別伝』がある。孔融が曹操に、辺譲を推薦する。つじつまが合わない。

袁忠と桓邵は、交州ににげた。曹操は士燮に使者をやり、袁忠と桓邵を族殺させようとした。桓邵は出頭して、庭中にひざまづいた。曹操は「そんなことで許されるかよ」と言い、桓邵を殺した。

侯康はいう。『後漢書』桓曄伝はいう。桓曄は、交趾で獄死した。曹操に殺されたのでない。桓邵と混同してはいけない。『曹瞞伝』が正しい。
侯康はいう。袁忠は、『後漢書』袁閎伝にある。交趾ににげた。献帝が許県にくると、衛尉となった。許県に到着する前に死んだ。曹操に殺されたのでない。范曄が「曹操に殺された」を省略したのか。
ぼくは思う。侯康は、曹操の悪事を再検討している。必ずしも曹操が殺したのでなく、曹操と関わった前後に死んだ人物を、「曹操のせいで死んだ」という方式で、こじつけているようにも見える。真相は分からないが。例えば、建安末期に死んだ人たちが「みんな関羽に殺された」とこじつけられるのと、同じである。検証ができない種類の問題である。こまるなあ。この時期、混乱しているから、客死したり、戦死したり、事故死したりする人がおおい。
黄山はいう。袁忠の子・袁秘は、すでに黄巾に殺された。袁忠の弟の袁宏は、徴辟に応じないで、家で死んだ。袁忠の一族は他にない。袁忠は官位を棄てて、乱を避けた。桓邵とともに交趾ににげた。必ずしも一族全員でない。曹操は、どうやって一族をまとめて殺せたか。ましてや、『後漢書』桓栄伝で、初平のとき交趾に行ったのは、桓曄である。「桓邵」でない。桓曄は合浦で獄死したが、族殺まではされない。『曹瞞伝』が誤りである。


常出軍,行經麥中,令「士卒無敗麥,犯者死」。騎士皆下馬,付麥以相持,於是太祖馬騰入麥中,勑主簿議 罪;主簿對以春秋之義,罰不加於尊。太祖曰:「制法而自犯之,何以帥下?然孤為軍帥,不可自殺,請自刑。」因 援劍割髮以置地。又有幸姬常從晝寢,枕之臥,告之曰:「須臾覺我。」姬見太祖臥安,未即寤,及自覺,棒殺之。 常討賊,廩穀不足,私謂主者曰:「如何?」主者曰:「可以小斛以足之。」太祖曰:「善。」後軍中言太祖欺眾,太祖 謂主者曰:「特當借君死以厭眾,不然事不解。」乃斬之,取首題徇曰:「行小斛,盜官穀,斬之軍門。」其酷虐變詐, 皆此類也。

進軍のとき「麦畑に入ったら死刑」と決めたが、自分で入った。主簿に「曹操に法は適用されない」と言わせて、髪を切った。

『魏志』高柔伝はいう。ときに校事の盧洪、趙達らをおいた。高柔がこれを諫めた。校事が暴走したので、曹操は校事を殺して、高柔にわびた。

起こしてくれない姫を殺し、軍糧が不足したとき倉庫係を殺した。曹操の「酷虐變詐」はこのとおりである。

『世説新語』仮譎篇で、眠って近づいたら殺す話がある。


陳寿による曹操評

評曰:漢末,天下大亂,雄豪並起,而袁紹虎眎四州,彊盛莫敵。太祖運籌演謀,鞭撻宇 內,擥申、商之法術,該韓、白之奇策,官方授材,各因其器,矯情任算,不念舊惡,終能總御 皇機,克成洪業者,惟其明略最優也。抑可謂非常之人,超世之傑矣。

曹操は、申不害、商鞅の法術をつかった。曹操は、韓信、白起の奇策をつかった。さいごまで曹操は、皇帝をたすけた。非常の人、超世の傑である。

袁山松はいう。むかし田常は、湯王や周王にこじつけ、主君を殺した。曹操は、帝堯や帝舜にこじつけ、漢室をぬすんだ。曹操は盗賊である。
郝経はいう。堯と舜、殷湯王と周武王、斉桓公と晋文公の前例が、曹操が天下を盗むことに利用された。曹操は天子をおびやかし、母后を殺し、貴人を殺し、皇子を毒殺し、大臣を誅殺し、名士を殺戮し、みずから九錫をくわえ、魏公や魏王になった。
ぼくは思う。曹操がどのような意味で、儒教の罪人なのか。なぜ曹操は、いかなる筋合いで、批判されなければならないか。
思うに、古典の読解と引用の仕方が誤っているから、糾弾されているように見える。堯舜の前例は、儒教において、いろんな意味を持たされている。曹操が自分の行動を堯舜になぞらえるとき、その「なぞらえたこと」が罪深いのである。極端な話、曹操がどんな迷惑なことをしようと、儒教的にはベツにイイ。皇帝を殺して身体を刻もうが、1百万人を殺そうが、ベツにイイ。当事者にとっては迷惑千万で、逃げられるものなら逃げたい。そりゃね、痛いのはイヤだし、死にたくないからだ。だが後世の批評家にとっては、曹操の暴力は、自分と関係ないことである。それよりも、その行動を堯舜になぞらえるのが良くない。等しくないものを、等号で結んだという、その論理の誤りが「儒教に対する罪」なんじゃないかな。
曹操の行動を、ただそれだけで「あー! ひどい!、なんてひどいんだ!」という純粋な糾弾は、わりと少ない。そうでなく、引用の不適切さ、等号の胡散臭さがイカンのだ。もし曹操が、儒教的な裏づけをせず、ただ暴力を振るうだけのフリーザだったら、こんなに批判は受けない。無惨な死に様を描いて、「ふー、スッキリした!」と後世人に思われるだけ。論題にならない。
しかし、まあ、後漢の内側にいて、爵位をもらっていくのだから、不可避的に儒教と接点がうまれる。「曹操がこの爵位をもらうのは、いかなる根拠があるのか」が必ず問われる。曹操が体制内にいる限り、かならず批判されることになるのか。
陳寿を評価を見ると、個人の能力は評価されているし、業績だって輝かしく記してある。ぼくらは、個人の能力の優劣(どんな才能や努力があるか)を気にかけたり、業績の大小(中原平定はすごいが、呉蜀の討ちモレは越度だなあとか)に目が行きがち。そもそも、目の付け所がちがう。やはり「解釈のあやまり」「堯舜へのこじつけ」が批判のマトである。モノサシの違いを意識して、諸評を読みたい。
ツイート用にまとめ。
なぜ曹操は史家に批判されるか。ぼくらが着目しがちな、才能の有無、人格の善悪、業績の大小(中原を平定したが呉蜀をのこした等)は主要な論題でない。禅譲の過程で、曹魏の歴史的意義を、堯舜・湯武・桓文に準えたことを批判された。「等しくないものを等号で結んだ」という論理の誤りが批判の対象。以上、140文字。

つぎは文帝紀だなー。もうすぐ12年の夏休み!

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