表紙 > 曹魏 > 『魏書』巻4・三少帝紀;曹芳・曹髦・曹奐

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曹芳の正始年間;曹爽の執政期

三少帝紀の斉王・曹芳を『三国志集解』を見て読みます。

景初3年、曹爽と司馬懿が輔政する

齊王、諱芳字蘭卿。明帝無子、養王及秦王詢。宮省事祕、莫有知其所由來者。
魏氏春秋曰。或云任城王楷子。

齊王の曹芳は、あざなを蘭卿という。子がない曹叡は、曹芳と秦王の曹詢をやしない。宮省のことは秘密にされ、曹芳の血筋を知る者はいない。

盧弼はいう。明帝紀の青龍3年に説明がある。郭龍光はいう。曹操の武帝紀にも、血筋を知る者がないという表記がある。同じ意味である。
ぼくは思う。曹芳は血筋が分からないが、あとの曹髦と曹奐は、血筋がわかっている。曹操との関係が明らかである。なぜ曹芳だけ、むりに即位させたんだろう。曹叡のあとも、曹髦や曹奐で良かったじゃん。

『魏氏春秋』はいう。或る者は、曹芳は任城王の曹楷の子という。

青龍三年立爲齊王。景初三年正月丁亥朔、帝甚病乃立爲皇太子。是日卽皇帝位、大赦。尊皇后曰皇太后。大將軍曹爽太尉司馬宣王輔政。詔曰「朕以眇身、繼承鴻業、煢煢在疚、靡所控告。大將軍太尉奉受末命、夾輔朕躬。司徒司空冢宰元輔總率百寮、以寧社稷。其與羣卿大夫勉勗乃心、稱朕意焉。諸所興作宮室之役、皆以遺詔罷之。官奴婢六十已上、免爲良人。」
二月、西域重譯獻火浣布、詔大將軍太尉臨試以示百寮。
臣松之昔從征西至洛陽、歷觀舊物、見典論石在太學者尚存、而廟門外無之、問諸長老、云晉初受禪、卽用魏廟、移此石于太學、非兩處立也。竊謂此言爲不然。

青龍3年、曹芳は斉王に立てられる。
景初3年正月丁亥ついたち、皇太子となる。同時にに即位したて大赦した。皇后を皇太后とする。大將軍の曹爽、太尉の司馬懿が輔政する。

『晋書』宣帝紀はいう。斉王が即位すると司馬懿は、侍中・持節・都督中外諸軍・録尚書事となる。曹爽とともに、それぞれ3千をひきいる。司馬懿の乗輿は、殿中に入れた。
『晋書』職官志はいう。持節都督は、定員がない。曹丕の黄初3年、はじめて都督諸州軍事をおく、。録尚書事は、位は上公、三公の上である。漢制ではつねに置かれた。おさない皇帝がたつと、太傅・録尚書事がおかれた。古代の冢宰が、家事をすべて行うのと同じ。
胡三省はいう。録尚書事は、後漢の洛陽で、諸公の重任(兼任)であった。いま曹爽と司馬懿は、すでに中外諸事を督し、さらに尚書事も録する。すなわち文武の大権が、この2人に帰した。ここから六朝まで、権臣が国政をしきる。

曹芳は詔した。「わたしは眇身だが、皇帝をついだ。

『漢書』昭帝紀に、始元五年の詔で「わたしは眇身だ」とある。顔師古は「微のこと」と注釈する。小さい、幼いこと。

私は病気のようなものだ。何でも発言してくれ。曹爽と司馬懿は、私を輔けよ。官僚たちはがんばれ」と。
曹芳は、宮殿の建設を中止して、曹叡の遺詔をやめた。

『晋書』宣帝紀はいう。曹叡は宮室の建築が好きだから、百姓がつかれた。司馬懿が遼東からかえると、建設に1万余人が従事する。ムダなものが溢れる。司馬懿は「建設をやめろ」と上奏した。

官奴婢で60歳以上のものは、免じて良人とした。
2月、西域から駅伝をかさねて、火浣布が献じられた。曹爽に命じ、ほんとうに燃えないのか実験させ、百寮に本物だと示した。

搜神記曰。崑崙之墟、有炎火之山、山上有鳥獸草木、皆生於炎火之中、故有火浣布、非此山草木之皮枲、則其鳥獸之毛也。漢世西域舊獻此布、中間久絕。至魏初、時人疑其無有。文帝以爲火性酷烈、無含生之氣、著之典論、明其不然之事、絕智者之聽。及明帝立、詔三公曰「先帝昔著典論、不朽之格言、其刊石於廟門之外及太學、與石經並、以永示來世。」至是西域使至而獻火浣布焉、於是刊滅此論、而天下笑之。
臣松之昔從征西至洛陽、歷觀舊物、見典論石在太學者尚存、而廟門外無之、問諸長老、云晉初受禪、卽用魏廟、移此石于太學、非兩處立也。竊謂此言爲不然。

『捜神記』はいう。曹丕は「燃えない布なんてないよ、バーカ」と、『典論』に書いて石に刻み、太学と廟門外に立てた。西域から、ほんとうに燃えない布が届いたので、曹丕は記述を削りとった。
裴松之はいう。私が洛陽にいったとき、歴代の古いものを見た。『典論』を刻んだ石が、まだ太学にあった。廟門の外は、石がなかった。『捜神記』は誤りだろう。

『異物志』『東方朔神異經』が火浣布の話を載せる。はぶく。
裴松之はいう。『宋書』裴松之伝はいう。裴松之は、南朝宋の劉裕に従軍した。劉裕は東晋の司隷校尉を領し、裴松之は州主簿となり、侍中従事史になる。劉裕が洛陽につくと、裴松之の才能を活かすため、太子洗馬とした。
『宋書』武帝紀はいう。劉裕が北伐して、征西将軍、司州と豫州の刺史を領する。
ぼくは思う。『三国志集解』も、この燃えない布について、気合いをいれて、関連する文書を注釈する。そんなに重要なのか?本紀に書かれるぐらいだから、無視できない献上品だったんだろうが。曹丕が言及し、曹爽がわざわざ実験をするくらいだから。


丁丑詔曰「太尉、體道正直盡忠三世、南擒孟達西破蜀虜東滅公孫淵、功蓋海內。昔周成建保傅之官、近漢顯宗崇寵鄧禹、所以優隆雋乂、必有尊也。其以太尉爲太傅、持節統兵都督諸軍事如故。」三月、以征東將軍滿寵爲太尉。夏六月、以遼東東沓縣吏民渡海居齊郡界、以故縱城爲新沓縣以居徙民。秋七月上始親臨朝、聽公卿奏事。八月大赦。

2月丁丑、曹芳は詔した。「太尉は、曹操から3代に仕えた。

盧弼はいう。太尉とは司馬懿である。名を記さない。ほかにも、甘露5年、咸煕元年、咸煕2年に、司馬炎の名を記さない。のちの人が、詔書から司馬氏の名をぬいたのだ。

南に孟達、西に蜀漢、東に公孫淵をうつ。むかし周成王は保傅之官をつくる。ちかくは後漢の章帝は、鄧禹を崇寵した。太尉の司馬懿を(周公旦や鄧禹のように尊んで)太傅とする。持節統兵・都督諸軍事はもとのまま」と。

『三国志』曹爽伝では、丁謐が作戦をたてて、曹爽に「司馬懿を太傅にして、尚書の実権を曹爽が独占せよ」という。『晋書』宣帝紀にも記事がある。
盧弼はいう。曹爽伝も宣帝紀も、曹爽が司馬懿を尊ぶふりをして、ひそかに上奏の権限を握ろうとしたとする。この解釈では、わざわざ尚書に 「持節統兵・都督諸軍事はもとのまま」と明記された理由の説明が付かない。もし兵権があれば、司馬懿がその気になれば、曹爽を殺せる。曹爽は、ほんとうに司馬懿を敵視したのか疑問である。
ぼくは思う。盧弼に合意します。結果からたぐり、司馬懿と曹爽を敵対させる必要はない。司馬懿は、すでに60歳を越えている。ふつうに老人を尊敬して太傅として、曹爽が実務を任されたのでは?『晋書』は、司馬懿を初代に据えるから、司馬懿が単なる魏官では困るのかも知れないが。

3月、征東将軍の満寵を、司馬懿のあとの太尉とした。
夏6月、遼東郡の東沓県から、吏民が海をわたり、斉郡の境界にくる。もとの縱城県を、新沓県として、居住させた。

『郡国志』や胡三省などに、東沓県や新沓県の記述あり。上海古籍456頁。

秋7月、曹芳がはじめて臨朝して、公卿の奏事をきく。

盧弼はいう。8歳の小児が、どうして公卿の奏事を判断できたか。まさに魏国の政事は、児戯である。ぼくは思う。きびしいなあ!

8月、大赦した。

冬十月、鎭南將軍黃權爲車騎將軍。
十二月詔曰「烈祖明皇帝、以正月棄背天下、臣子永惟忌日之哀。其復用夏正。雖違先帝通三統之義、斯亦禮制所由變改也。又夏正於數爲得天正、其以建寅之月爲正始元年正月、以建丑月爲後十二月。」

冬10月、鎭南將軍の黃權を、車騎將軍とする。

盧弼はいう。黄権は蜀漢からくだり、鎮南将軍となる。文帝紀にある。『蜀志』黄権伝で、車騎将軍、儀同三司とある。銭大昕はいう。車騎将軍の任命が、わざわざ本紀に書いてあるのは初めて。曹仁、張郃のとき、本紀に書いてない。

12月に詔した。「烈祖明皇帝は、正月に死んじゃった。暦を夏正にもどす。建寅の月を、正始元年正月とする。建丑の月を12月とする」

盧弼は『宋書』礼志などをのせる。分からないので、はぶく。上海古籍457頁。


正始元年、斉郡への移民、雨ふらず

正始元年春二月乙丑、加侍中中書監劉放侍中中書令孫資爲左右光祿大夫。丙戌、以遼東汶北豐縣民流徙渡海、規齊郡之西安臨菑昌國縣界、爲新汶南豐縣、以居流民。

正始元年の

『晋書』宣帝紀はいう。曹魏の正始元年春正月、東倭から貢献あり。
ぼくは思う。どうして『三国志』は、これを書き漏らしたんだろう。「燃えない布」を書いている場合ではない。東からきたので、「曹魏への朝貢でなく、司馬氏への朝貢」と考えたのか。そうだとしたら、陳寿は西晋に配慮しすぎだ。

春2月乙丑、

潘眉はいう。2月でなく正月とすべきだ。この歳の2月に乙丑はない。正月16日である。沈家本はいう。このあと、丙戌がある。丙戌は、乙丑から21日後だ。16+21だと30を越えるので、丙戌が正月に収まらない。ここは2月乙酉を書き誤ったのでは。
ぼくは思う。わりと、何でもありなのね。単純な文字は、書き誤られる。しかし単純な文字ほど、象徴化が徹底しているとも言える。でも誤っちゃ、どうしようもないが。

侍中・中書監の劉放と、侍中・中書令の孫資を、左右光祿大夫とした。

侍中は、武帝紀の建安元年にある。中書監は、明帝紀の景初2年の注にある。『晋書』職官志はいう。左右の光禄大夫は、金章紫綬を仮す。洪飴孫はいう。光禄大夫は、青龍のとき、左右に分割された。のちにもどした。漢代の光禄大夫は、光禄勲に属する。魏代に光禄大夫は、位が三公につぐ。光禄勲の配下にもどらない。

2月丙戌、遼東郡の汶県、北豐県の民が、海を渡って斉郡にきた。西安、臨菑、昌國の県境をくぎって、新汶県、南豐県」をつくる。流民を住まわせる。

地名についての注釈。上海古籍458頁。
ぼくは思う。曹芳の初期は「司馬懿が公孫淵を滅ぼした直後」である。だから、8歳の曹芳のキャラクターよりも、曹叡の時代からの連続性がつよい。曹爽が司馬懿を虐げるにしても、これだけ遼東から、人口が曹魏に流れ込んでくると、司馬懿を尊ばざるを得ないなあ。


自去冬十二月至此月、不雨。丙寅詔令獄官「亟平寃枉、理出輕微。羣公卿士讜言嘉謀、各悉乃心。」夏四月車騎將軍黃權薨。秋七月詔曰「易稱、損上益下、節以制度不傷財不害民。方今百姓不足而御府多作金銀雜物、將奚以爲?今出黃金銀物百五十種千八百餘斤、銷冶以供軍用」八月車駕巡省洛陽界秋稼、賜高年力田各有差。

昨年の冬12月からこの2月まで、雨が降らない。3月丙寅、獄官に詔令し、冤罪をチェックさせ、罪の軽い者を出獄させた。

「3月」と書いてませんが、沈家本によると、丙寅は3月だそうです。
ぼくは思う。袁宏『後漢紀』も、陳寿『三国志』の曹魏の本紀も、暦を誤りまくっている。月ズレなどを、注釈者が干支をもとに復元している。「暦法の制定は、時間を支配すること」という観念がありそうなわりに、超ザツい。史料の不備なのか?それとも暦法の管理って「この程度で充分なもの」なのか?まさかねー。

夏4月、車騎將軍の黄権が薨じた。
秋7月、詔した。「宮中にある黄金や銀製品を、鋳つぶして軍用にあてろ」と。

ぼくは思う。あくまで軍用に、鋳つぶしたのだ。呉蜀とは、あんまり戦いが記録されていないが。同時代の呉蜀が、どんな状態だったか。先月に『資治通鑑』をやったのに、頭に入ってない。

8月、車駕は洛陽の境界をまわり、秋の収穫をみる。高年と力田の者に、それぞれ支給した。

『後漢書』明帝紀はいう。三老、孝悌、力田の者を、それぞれ3ランクにわけて、明帝が物資などを支給した。
章懐注はいう。三老、孝悌、力田というのは、郷官の名である。三老は、前漢の高帝がおく。孝悌と力田は、高帝の呂后がおく。郷里の教化をやる。前漢の文帝の詔にも出てくる。「孝悌とは、天下の大順である。力田とは、生命の根本である。三老は、みなの師である。戸数によって、人員を配置する」と。


正始2年、朱然が樊城を囲み、司馬懿と王淩が破る

二年春二月、帝初通論語、使太常以太牢祭孔子於辟雍、以顏淵配。 夏五月、吳將朱然等圍襄陽之樊城、太傅司馬宣王率衆拒之。

正始2年春2月、曹芳ははじめて『論語』に通じた。太常に太牢を以て、孔子を辟雍で祭らせた。辟雍に顔淵を配して祭った。

『後漢書』光武紀はいう。中元元年、はじめて明堂、霊台、辟雍をつくる。『漢官儀』が、儒教の施設と祭祀についてかく。はぶく。上海古籍459頁。
顔淵を祭ったことは、『宋書』礼志にある。
周寿昌はいう。曹芳はまだ10歳なのに、『論語』に通じた。孔子を祭り、顔淵を配することを知る。曹芳の素質は非凡である。
ぼくは思う。10歳で『論語』に通じたのは、早いのか?顔淵を配することは、周囲の学者が提案したのでは?曹芳の素質は気になる。議論が広がるといいなあ。

夏5月、吳將の朱然らが、襄陽の樊城をかこむ。太傅の司馬懿がふせぐ。

干寶晉紀曰。吳將全琮寇芍陂、朱然、孫倫五萬人圍樊城、諸葛瑾、步騭寇柤中。琮已破走而樊圍急。宣王曰「柤中民夷十萬、隔在水南、流離無主、樊城被攻、歷月不解、此危事也、請自討之。」議者咸言「賊遠圍樊城不可拔、挫于堅城之下、有自破之勢、宜長策以御之。」宣王曰「軍志有之。將能而御之、此爲縻軍。不能而任之、此爲覆軍。今疆埸騷動、民心疑惑、是社稷之大憂也。」六月、督諸軍南征、車駕送津陽城門外。宣王以南方暑溼、不宜持久、使輕騎挑之、然不敢動。於是乃令諸軍休息洗沐、簡精銳、募先登、申號令、示必攻之勢。然等聞之、乃夜遁。追至三州口、大殺獲。

干宝『晋紀』はいう。吳將の全琮は、芍陂を寇する。朱然と孫倫は、5万で樊城をかこむ。諸葛瑾と步騭は、柤中を寇する。全琮が敗走しても、樊城の包囲がきつい。

『呉志』孫権伝はいう。赤烏4年、衛将軍の全琮を淮南にゆかせ、芍陂を決壊させ、安城の邸閣を焼かせ、人民をとらえる。全琮と魏将の王淩は、芍陂で戦う。孫呉の中郎将・秦晃らは戦死した。『魏志』王淩伝はいう。正始二年、全琮が芍陂を寇した。王淩が力戦したので、全琮は退走した。
ぼくは思う。孫権伝に、いちばん情報がおおい。

司馬懿はいう。「柤中の民夷は10万いる。長江の南に隔てられ、曹魏が管理できない。樊城の包囲が、月をまたいで解けない。私が呉郡を討伐にゆく」と。議者は「司馬懿が行かなくても良い」というが、司馬懿は「国家の大憂だ」といい、自ら討伐にゆく。
6月、司馬懿は諸軍を督して南征する。曹芳の車駕が、津陽の城門のそとで見送る。司馬懿が軽騎でつっこみ、朱然は夜ににげた。3州の口で、呉郡を殺しまくった。

胡三省はいう。曹魏の荊州は、東にゆけば、江夏と豫州に通じる。南にゆけば、弋陽と揚州に通じる。西にゆけば六安に通じる。だから三州の入口なのだ。また王昶伝によると、王昶は、荊州と豫州の諸軍事を担当した。宛城から新野に移動した。三州の入口で水軍を練習した。荊州、豫州、揚州で三州である。
盧弼は諸説を引いてからいう。胡三省は、荊州、豫州、揚州の口という。正しくない。『三国志』王昶伝で、王昶が三州で水軍の演習をやる。こちらが正しい。趙一清は『水経』沔水注から、襄陽の城東に白沙があり、その北に三州があるというが、これが三州の場所である。
ぼくは思う。『資治通鑑』の胡三省だけ読んだら、騙されていたw
『晋書』宣帝紀はいう。天子は、侍中常侍をつかわし、宛城でねぎらった。司馬懿の食邑をふやし、子弟11人を列侯にした。ぼくは思う。八王の乱が起きちゃうよ!


六月辛丑、退。己卯、以征東將軍王淩爲車騎將軍。冬十二月南安郡地震。

6月辛丑、朱然が退走した。
6月己卯、征東將軍の王淩を車騎將軍とした。

ぼくは思う。本紀で省かれているが、この戦いでがんばったのは王淩。ところで、また車騎将軍の任命が、本紀に書いてあるじゃないか!いま司馬懿と王淩は、朱然を追いはらうため、共闘した。この2人が、最期はあんなことになるなんて。
李龍官はいう。この6月に己卯はない。官本では「己酉」とする。王淩伝によると、南郷侯に封じられて、車騎将軍となる。このタイミングである。

冬12月、南安郡で地震あり。

『宋書』五行志では11月である。南安郡は、武帝紀の建安19年にある。
盧弼はいう。この歳、鄧艾が「広漕渠を開けば、食糧がとれて、水害がなくなる」と建議した。鄧艾伝にある。


正始3年、太尉の満寵が死に、蒋済が太尉に

三年春正月、東平王徽薨。三月太尉滿寵薨。秋七月甲申南安郡地震。乙酉、以領軍將軍蔣濟爲太尉。冬十二月魏郡地震。

正始3年春正月、東平王の曹徽が薨じた。
3月、太尉の滿寵が薨じた。

『晋書』宣帝紀はいう。3月、司馬懿は「広漕渠をうがち、黄河を汴水にひきいれろ」と上奏した。東南の諸陂を潅漑した。はじめて淮北に、大きく農地がひろがった。
ぼくは思う。『三国志』の後半は、「それは司馬氏に功績ですから、『三国志』に載せません。きたるべき『晋書』にお任せしますよ」という態度のせいで、記事の脱落がおおいのだろうか。陳寿が、どの記事を「これは『晋書』ね」と保留したのか、知りたいなあ。

秋7月甲申、南安郡で地震あり。7月乙酉、領軍將軍の蔣濟が太尉となる。
冬12月、魏郡で地震あり。

正始4年、甄皇后をたて、功臣をまつる

四年春正月帝加元服、賜羣臣各有差。夏四月乙卯立皇后甄氏、大赦。五月朔日有食之、既。

正始4年春正月、曹芳は元服をくわえる。

『漢書』昭帝紀はいう。元鳳4年、昭帝は元服をくわえる。『後漢書』安帝紀も同じ。
『宋書』礼志はいう。曹魏の天子は、冠1つ加える。士礼では、3つ加える。臣民に臨む天子が、士礼と同じである必要ではない。孔子によると、30歳にして立つという。まだ曹芳は12歳である。いまだ学問を志す15歳でもない。曹魏では、太子は2つ加え、王子と三公の世子は3つ加える。よくわからん!
ぼくは思う。『魏志』斉王紀は、『漢書』昭帝紀との共通点がおおい。魏帝の曹芳は、前漢の昭帝になぞらえて、理解されていたらしい。当事者の見解かも知れないし、『魏志』を執筆した者たちの解釈かも知れないけど。

羣臣にそれぞれ賜う。
夏4月乙卯、皇后に甄氏をたてて、大赦する。

この甄皇后は、曹丕の甄皇后の兄・甄𠑊の孫である。
『宋書』礼志はいう。曹芳は、正始4年に皇后をたてたが、その儀礼は残らない。西晋の太康8年、尚書の朱整の議論によると、魏代の故事がわかる。王が妃をめとり、公主がとつぐとき、天子と諸侯は、皮馬を以て庭貫となし、、以下、儀礼のことをはぶく。上海古籍462頁。
銭大昭はいう。曹芳の甄皇后、曹髦の卞皇后、曹奐の卞皇后は、夫である3人の皇帝がすぐに退位したので、本紀がない。曹操の卞氏、曹丕の甄氏のあとに伝がつく。
盧弼はいう。この甄皇后は、嘉平3年7月に崩じた。嘉平4年に張皇后をたてた。6年3月に廃された。4月に王皇后をたて、9月に曹芳が天子でなくなった。曹髦が死んだとき、曹髦の卞皇后がどうなったか分からない。史料に記述がない。

5月ついたち、日食あり。皆既である。

『晋書』宣帝紀はいう。正始4年秋9月、司馬懿は諸軍を督して、諸葛恪をうつ。曹芳の車駕は、津楊門にきて見送る。司馬懿の郡は、舒県にきた。諸葛恪は、積みあげた軍資を焼き、城を捨ててにげた。
ぼくは思う。また司馬懿の記事がおちた。曹芳がみずから見送っているのだから、この『魏志』斉王紀に書いてあっても良さそうなのに。


秋七月詔祀故大司馬曹真、曹休、征南大將軍夏侯尚、太常桓階、司空陳羣、太傅鍾繇、車騎將軍張郃、左將軍徐晃、前將軍張遼、右將軍樂進、太尉華歆、司徒王朗、驃騎將軍曹洪、征西將軍夏侯淵、後將軍朱靈、文聘、執金吾臧霸、破虜將軍李典、立義將軍龐德、武猛校尉典韋、於太祖廟庭。冬十二月、倭國女王俾彌呼遣使奉獻。

秋7月、詔して、曹魏を建国した者を、太祖の廟庭にまつる。
祭られたのは、もと大司馬の曹真と曹休、征南大將軍の夏侯尚、太常の桓階、司空の陳羣、太傅の鍾繇、車騎將軍の張郃、左將軍の徐晃、前將軍の張遼、右將軍の樂進、太尉の華歆、司徒の王朗、驃騎將軍の曹洪、征西將軍の夏侯淵、後將軍の朱靈と文聘、執金吾の臧霸、破虜將軍の李典、立義將軍の龐德、武猛校尉の典韋である。

ぼくは思う。この顔ぶれと、陳寿『魏志』の列伝の並びを見比べると、何かが言えるのだろうなあ。

冬12月、倭國の女王・卑弥呼の使者が奉献した。

烏丸鮮卑東夷伝にくわしい。


正始5年、曹爽が征蜀に失敗する

五年春二月、詔大將軍曹爽率衆征蜀。夏四月朔、日有蝕之。五月癸巳、講尚書經通、使太常以太牢祀孔子於辟雍、以顏淵配。賜太傳大將軍及侍講者各有差。丙午、大將軍曹爽引軍還。

正始5年春2月、大將軍の曹爽に征蜀させた。
夏4月ついたち、日食あり。

銭大昭はいう。4月丙辰である。

5月癸巳、『尚書』を講じて経籍に通じた。太常に太牢を以て、孔子を辟雍で祭らせた。辟雍に顔淵を配して祭った。太傳の司馬懿、大將軍の曹操、および侍講にそれぞれ賜る。

趙一清はいう。『晋書』司馬駿伝はいう。司馬駿は、5,6歳のとき、経籍を暗誦できた。曹魏の景初のとき、平陽亭侯に封じられる。曹芳が即位したとき、司馬駿は8歳である。散騎常侍となり、侍講した。
ぼくは思う。曹芳よりも、ちょっと年下だが、勉強の先生なのだ。いい感じ。曹氏と司馬氏が、こういう感じで和んで、中原を統治すれば、三国志ももっと違う結末があったはずなのになあ。

5月丙午、大將軍の曹爽がかえる。

『晋書』宣帝紀はいう。尚書の鄧颺と李勝は、曹爽に功名を立てさせたい。司馬懿の反対を押しきって遠征した。『魏志』曹爽伝にも記事がある。『漢晋春秋』はいう。費禕は、三嶺によって、曹爽をふせいだ。『蜀志』王平伝にくわしい。
ぼくは思う。本紀のありがたみで、曹爽の帰還が日単位で分かっておもしろい。


秋八月秦王詢薨。九月鮮卑內附、置遼東屬國立昌黎縣以居之。冬十一月癸卯、詔祀故尚書令荀攸于太祖廟庭。

秋8月、秦王の曹詢が薨じた。
9月、鮮卑が内付した。遼東屬國をおき、昌黎縣を立てて、鮮卑を住ませた。

『漢書』地理志、『続郡国志』、などで地形の話がある。上海古籍464頁。

冬11月癸卯、もと尚書令の荀攸を、太祖の廟庭に祭らせた。

臣松之以爲故魏氏配饗不及荀彧、蓋以其末年異議、又位非魏臣故也。至于升程昱而遺郭嘉、先鍾繇而後荀攸、則未詳厥趣也。(徐佗)[徐他]謀逆而許褚心動、忠誠之至遠同于日磾、且潼關之危、非褚不濟、褚之功烈有過典韋、今祀韋而不及褚、又所未達也。

裴松之はいう。荀彧を祭らないのは、末年に曹操と意見が異なり、また漢臣だったからだろう。程昱をまつり、郭嘉を祭らない。

何焯はいう。郭嘉は魏臣でない。景元3年、郭嘉が祭られるが、けだし司馬氏が郭氏に気をつかったのだろう。
趙一清はいう。何焯はおかしい。何焯は「司馬氏は郭淮を味方にするため、郭嘉を祭った」と言いたいようだ。だが郭嘉は頴川の人、郭淮は太原の人である。また、前年に曹真から典韋まで20人をまつり、荀攸を加えたが、程昱がいない。魏末まで、程昱が祭られない。裴松之は「程昱を祭ったのに、郭嘉を祭らないとは」というが、それもおかしい。程昱は祭られてない。
陳景雲はいう。郭嘉、程昱、鍾繇、荀攸の3人は、祭られる時期がちがったが、すべて祭られている。景元3年の詔により明らかである。
ぼくは思う。けっきょく程昱は、ある部分では祭られたリストに含まれ、べつの部分でモレる。史料を見る場所によって違うから、このように議論が混乱する。

鍾繇をさきに祭り、荀攸を遅らせる。許褚は、暗殺と潼関から曹操を救った。だが天意をまつって、許褚を祭らない。おかしい。

己酉、復秦國爲京兆郡。十二月司空崔林薨。

11月己酉、秦國を京兆郡にもどす。

『魏志』倉慈伝にひく『魏略』はいう。顔斐は京兆太守となる。京兆は豊富であり、雍州10郡のなかで、もっとも収入がおおい。これは魏代に、京兆が雍州のもとにあり、京兆尹でなく京兆太守が置かれた証拠で或る。
呉増僅はいう。黄初2年、曹礼を秦公にした。京兆を秦国とした。黄初3年、京兆王に改めた。黄初6年、元城県王にして、京兆郡にもどす。青龍3年、曹詢を秦王にして、また京兆郡を秦国とした。いま曹詢が死に、京兆郡にもどす。
ぼくは思う。京兆郡と秦国とは、領域も治所もイコールで、コンバートする!

12月、司空の崔林が薨じた。

正始6年、王朗『易伝』を試験科目にする

六年春二月丁卯、南安郡地震。丙子、以驃騎將軍趙儼爲司空。夏六月儼薨。八月丁卯、以太常高柔爲司空。癸巳、以左光祿大夫劉放爲驃騎將軍、右光祿大夫孫資爲衞將軍。

正始6年春2月丁卯、南安郡で地震あり。

ぼくは思う。南安郡、よく揺れるなあ!
『晋書』五行志はいう。このとき曹爽が専政する。郭太后を永寧宮にうつす。太后と皇帝は、泣いて別れた。連年の地震は、曹爽のせいである。ぼくは思う。司馬氏へのおもねり、120点満点!
盧弼はいう。郭皇后伝はいう。曹芳が即位すると、郭太后は永寧宮とよばれる。曹爽が専政したのでない。

2月丙子、驃騎將軍の趙儼を司空とする。

『山左金石志』には、隷書22字がある。正始6年5月15日、中尚方造、銅香爐、重さ3斤、第26と。なんじゃこら。

夏6月、趙𠑊が薨じた。

馮本では、趙𠑊が4月に死んだとする。

8月丁卯、太常の高柔を司空とした。8月癸巳、左光祿大夫の劉放を、驃騎將軍とした。右光祿大夫の孫資を、衞將軍とした。

銭大昭はいう。衛将軍の叙任を本紀に書くのは、ここから始まる。のちに胡遵が衛将軍になったとき、本紀に書かれる。このほかに、司馬師、司馬昭、司馬望が衛将軍になるが、本紀に書かれない。
ぼくは思う。例外がすべて司馬氏というのも、なんだかねえ。陳寿が「その件につきましては、やがて完成するであろう『晋書』をご覧ください」というつもりだったかも知れない。胡遵と司馬氏のほかに、衛将軍になった者がいなさそうだから、永久に編集方針を明らかにすることができない。


冬十一月、祫祭太祖廟、始祀前所論佐命臣二十一人。十二月辛亥詔、故司徒王朗所作易傳、令學者得以課試。乙亥詔曰「明日大會羣臣、其令太傅乘輿上殿。」

冬11月、曹氏の祖先を太祖廟にまつる。佐命の臣21人のために祭祀をやる。

『説文』はいう。「祫」とは、先祖、親疎や遠近の者を、あわせて祭ること。『後漢書』章帝紀に、四時(四季)は、光武の堂でまとめてを祭れという上奏がある。前漢の文帝が、高祖をまとめて祭った故事のようにと。上海古籍466頁。
ぼくは思う。回数が少なくてラクだからまとめるの?
盧弼はいう。青龍元年3人を祭ったから、あわせると24人にはずだ。

12月辛亥に詔した。もと司徒の王朗がつくった『易傳』を、学者の課試で選べるようにした。

ぼくは思う。王朗の文化的な役割は大きいよ!
『魏志』王朗伝、『魏志』王粛伝に、おさめた学問が書いてある。
盧弼はいう。王粛伝にひく『世語』はいう。王粛の娘は、司馬昭にとつぎ、司馬炎と司馬攸をうむ。王粛伝はいう。ときに曹爽が専権して、何晏や鄧颺をもちいた。王粛は曹爽と距離をおき、司馬懿についた。
『後漢書』鄭玄伝はいう。鄭玄の孫は、鄭小同である。章懐注『魏氏春秋』はいう。司馬師は鄭小同の学問が好きだったが、王粛は鄭玄の学問とは異なる意見だった。つまり、政治では司馬氏に近づき、学問では司馬氏に同調しなかった。

12乙亥、詔した。「明日の集まりで、司馬懿は輿にのって上殿してよい」と。

『晋書』宣帝紀はいう。正始6年秋8月、曹爽は中塁と中堅の営をこわした。中塁と中堅の営の兵は、曹爽の弟・中領軍の曹羲がうばった。司馬懿は「中塁らは先代からの制度だから、違反するな」というが、曹爽はきかない。冬12月、司馬懿は朝会に、輿にのってゆく。
ぼくは思う。曹爽との争いが、『魏志』に落ちていると言いたいのか。
ぼくは思う。天子と帝。『晋書』宣帝紀の正始6年冬12月の記事。「天子詔帝朝会、乗輿升殿」と。魏帝の曹芳は「天子」で、このときは太傅だけど『晋書』では皇帝あつかいされる司馬懿は「帝」なのね。天子と皇帝の使い分け?の一例でした。


正始7年、朱然が柤中を攻め、曹爽が吏民を帰す

七年春二月幽州刺史毌丘儉討高句驪、夏五月討濊貊、皆破之。韓那奚等數十國各率種落降。秋八月戊申、詔曰「屬到巿觀見所斥賣官奴婢、年皆七十或癃疾殘病、所謂天民之窮者也。且官以其力竭而復鬻之、進退無謂、其悉遣爲良民。若有不能自存者、郡縣振給之。」

正始7年春2月、幽州刺史の毌丘儉が高句麗をうつ。夏4月、濊貊をうつ。高句麗と濊貊を、どちらも破る。韓那奚らの数十国は、種落をひきいてくだる。

『魏志』毋丘倹伝と東夷伝にある。

秋8月戊申、詔した。「市場にて、70歳の老病の奴婢を売買するな。良民にしてやれ。郡県は生活を保護せよ」と。

臣松之案。帝初卽位、有詔「官奴婢六十以上免爲良人」。既有此詔、則宜遂爲永制。七八年間、而復貨年七十者、且七十奴婢及癃疾殘病、並非可售之物、而鬻之於巿、此皆事之難解。

裴松之はいう。曹芳が即位したとき「60歳以上の官奴婢を良人とせよ」という。まだ7,8年しか経たないのに、70歳の奴婢がいるのはおかしい。

ぼくは思う。官奴婢でない者(私奴婢?)がいたのでは?


己酉、詔曰「吾乃當以十九日親祠、而昨出已見治道。得雨當復更治、徒棄功夫。每念百姓力少役多、夙夜存心。道路但當期于通利、聞乃撾捶老小、務崇脩飾、疲困流離、以至哀歎。吾豈安乘此而行、致馨德于宗廟邪?自今已後、明申勑之。」冬十二月、講禮記通、使太常以太牢祀孔子於辟雍、以顏淵配。

8月己酉、曹芳は詔した。「8月19日に、私は宗廟へ祭祀にゆく。祭祀のための道路の修繕が、百姓の負担になる。道路を修繕しなくてよい」と。

盧弼はいう。奴婢を良民にしたり、修繕を中止したり。曹芳は、百姓をいたわる。前漢で皇帝をおろされた、昌邑王とは異なる。ぼくは思う。だから曹芳を廃位するのはおかしい、、という意見が続くよね。

冬12月、『禮記』を講義させ、曹芳が『礼記』に通じた。太常に太牢を以て、孔子を辟雍で祭らせた。辟雍に顔淵を配して祭った。

習鑿齒漢晉春秋曰。是年、吳將朱然入柤中、斬獲數千。柤中民吏萬餘家渡沔。司馬宣王謂曹爽曰「若便令還、必復致寇、宜權留之。」爽曰「今不脩守沔南、留民沔北、非長策也。」宣王曰「不然。凡物置之安地則安、危地則危、故兵書曰、成敗、形也、安危、勢也、形勢御衆之要、不可不審。設令賊二萬人斷沔水、三萬人與沔南諸軍相持、萬人陸鈔柤中、君將何以救之?」爽不聽、卒令還。然後襲破之。

習鑿歯『漢晋春秋』はいう。この正始7年、朱然が柤中にはいり、数千を斬獲する。柤中の民吏は、1万余家が沔水を北にわたる。司馬懿は曹爽にいう。「沔水の北に、民吏を留めよう」と。曹爽は民吏を沔水の南に返した。朱然に襲われた。

『晋書』宣帝紀はいう。正始7年春正月、孫呉が柤中を寇した。司馬懿は、柤中の民吏を、沔水の北に留めろと主張した。ぼくは思う。『漢晋春秋』と同じだ。というか『晋書』が『漢晋春秋』を見て書いたか。


袁淮言于爽曰「吳楚之民脃弱寡能、英才大賢不出其土、比技量力、不足與中國相抗、然自上世以來常爲中國患者、蓋以江漢爲池、舟楫爲用、利則陸鈔、不利則入水、攻之道遠、中國之長技無所用之也。孫權自十數年以來、大畋江北、繕治甲兵、精其守禦、數出盜竊、敢遠其水、陸次平土、此中國所願聞也。夫用兵者、貴以飽待飢、以逸擊勞、師不欲久、行不欲遠、守少則固、力專則彊。當今宜捐淮、漢以南、退卻避之。若賊能入居中央、來侵邊境、則隨其所短、中國之長技得用矣。若不敢來、則邊境得安、無鈔盜之憂矣。使我國富兵彊、政脩民一、陵其國不足爲遠矣。今襄陽孤在漢南、賊循漢而上、則斷而不通、一戰而勝、則不攻而自服、故置之無益于國、亡之不足爲辱。自江夏已東、淮南諸郡、三后已來、其所亡幾何、以近賊疆界易鈔掠之故哉!若徙之淮北、遠絕其間、則民人安樂、何鳴吠之驚乎?」遂不徙。

袁淮は曹爽にいう。「呉楚の民は弱いが、長江と漢水に守られるので厄介である。孫権は水軍が厄介であり、陸地にひきずり出せば弱い。曹魏は、淮水と漢水の南を捨てろ。襄陽は漢水の南で孤立するので捨てろ。淮南の諸郡を、北に移して、国境のあたりをカラにしろ」と。曹爽はこれを実行せず。

姚範はいう。話者は、袁淮でなく、袁準である。『魏志』袁渙伝にある。
ぼくは思う。国境を後退させることで、孫権の攻撃を受けにくくする。もし孫権が攻撃するためには、陸地に出てこなければならない。これは満寵の合肥新城と同じ作戦だ。たしかに有効だろう。しかしこれは、曹魏が国境を後退させる、孫権が出てこない限り戦えない、という消極的な作戦だ。
ぼくは思う。曹魏は中原の王朝だから、ミクロな戦闘では明らかに不利でも、国境あたりに多くの城市をもち、「孫権が攻めようと思えば攻められる」「孫権の領地から、逃げてきた吏民が逃げ込める」状態を維持しなければならない。さもなくば、魏呉が対等の敵国になってしまう。曹魏はいちばん正統だから、戦闘がやりずらい。曹丕のときも、いまの曹爽も同じである。


正始8年、何晏と孔乂が諫め、司馬懿が引退

八年春二月朔、日有蝕之。夏五月、分河東之汾北十縣爲平陽郡。

正始8年春2月ついたち、日食あり。

『晋書』天文志はいう。正始8年32月庚午ついたち、日食あり。これは、曹爽、丁謐、鄧颺が、法度を改変するからである。群臣に得失を問うと、蒋済が上疏した。上疏は『三国志』蒋済伝にある。蒋済がきつく言ったのに、曹芳が採用できないから、曹魏が滅びたのだ。
ぼくは思う。なんという予定調和!『晋書』志は、かなりザツなつくりだ。

夏5月、河東の汾水より北の10県をわけ、平陽郡とする。

『郡国志』はいう。河東には20城がある。洪亮吉が『晋書』を見ると、平陽郡には12県がある。いつ2つ増えたのか。盧弼はいう。銭大昕によると、平陽郡は曹丕のとき置かれた。『三国志』徐邈伝の注釈にある。どっちだろね。


秋七月、尚書何晏奏曰「善爲國者必先治其身、治其身者慎其所習。所習正則其身正、其身正則不令而行。所習不正則其身不正、其身不正則雖令不從。是故爲人君者、所與游必擇正人、所觀覽必察正象、放鄭聲而弗聽、遠佞人而弗近、然後邪心不生而正道可弘也。季末闇主不知損益、斥遠君子引近小人、忠良疏遠便辟褻狎、亂生近暱。譬之社鼠。考其昏明、所積以然、故聖賢諄諄以爲至慮。舜戒禹曰『鄰哉鄰哉』言慎所近也、周公戒成王曰『其朋其朋』言慎所與也。詩云『一人有慶、兆民賴之』可自今以後、御幸式乾殿及游豫後園、皆大臣侍從、因從容戲宴、兼省文書、詢謀政事、講論經義、爲萬世法。」

秋7月、尚書の何晏が上奏する。「曹芳は、交流する人材をきちんと選ぶべきだ。今後は、式乾殿や豫後園にゆくとき、大臣を連れてゆき、ともに文書をみて、政事や経義について議論しないさい」と。

ぼくは思う。「オレと交際せよ」と何晏がいうのか。
李安渓はいう。曹爽や何晏の悪政は、司馬懿や司馬昭が勝ったのち、でっちあげられた。何焯はいう。何晏伝は曹爽伝についているのに、あえて本紀に上奏が引用される。よほど史家が後世に読ませたかったのだ。姚範はいう。本紀に諫めが載らないのに、何晏の諫めだけ載るのはなぜか。のちに曹魏の皇帝は、交流する人材を誤ったために、魏晋革命をまねく。この原因を明らかにするためだ。王坦之はいう。陳寿は魏末のことを、きちんと書かない。何晏が女装したなど、ウソだ。
盧弼はいう。李安渓や何焯はただしい。『魏志』王粛伝で、曹爽が何晏を戒めた語をみると、司馬懿に対する警戒や恐怖がたりない。また奢侈をしたから、司馬懿に負けてしまったのだ。
ぼくは思う。みんな何晏を支持するのね!


冬十二月、散騎常侍諫議大夫孔乂奏曰「禮、天子之宮、有斲礱之制無朱丹之飾、宜循禮復古。今天下已平君臣之分明、陛下、但當不懈于位、平公正之心、審賞罰以使之。可絕後園習騎乘馬、出必御輦乘車、天下之福、臣子之願也。」晏乂咸因闕以進規諫。

冬12月、散騎常侍・諫議大夫の孔乂が上奏した。

散騎常侍は、文帝紀の延康元年にある。『続百官志』はいう。諌議大夫は、6百石である。孔乂を「孔晏乂」とする文書があるが、何晏と混ざり込んだのだ。孔乂はあざなを元儁といい、『三国志』倉慈伝にある。

「曹芳は、後園で騎馬にのらず、馬車にのるように」と。何晏も孔乂も、曹芳の欠点にたいして諫めたのである。

『晋書』宣帝紀はいう。正始8年夏4月、曹爽が何晏、鄧颺、丁謐をもちいて謀略をする。太后を永寧宮におしこみ、兄弟で兵権をうばい、法制を改変する。これにより、司馬懿と曹爽は仲が悪くなった。正始8年5月、司馬懿は病気といい、政事をしないと。謠言で「何晏が京城をみだす」という。
胡三省はいう。晋臣が曹爽の悪事をふやすため、皇太后を押しこんだと書いた。『晋書』五行志でも、皇太后が永寧宮にうつされる。これも晋臣が書いたのだろう。
ぼくは思う。もしかして司馬懿は、ほんとに正始8年5月に病気になったのでは?『漢晋春秋』などの裴注で、司馬懿と曹爽は対立しているけれど、孫権との作戦に関わっていた証拠である。


正始9年、曹爽の誅殺の前兆である大風

九年春二月衞將軍中書令孫資、癸巳驃騎將軍中書監劉放、三月甲午司徒衞臻、各遜位。以侯就第、位特進。四月以司空高柔爲司徒。光祿大夫徐邈爲司空、固辭不受。秋九月、以車騎將軍王淩爲司空。冬十月大風發屋折樹。

正始9年春2月、衞將軍・中書令の孫資が、官位を返上した。2月癸巳、驃騎將軍・中書監の劉放が、官位を返上した。

盧弼はいう。孫資の返上も、2月癸巳か。

3月甲午、司徒の衞臻が、官位を返上した。侯爵を以て就第して、特進に位した。4月、司空の高柔を司徒とした。光祿大夫の徐邈を司空とした。徐邈は固辞して受けず。

盧弼はいう。魏代の三公は、老病の者がおおく、数ヶ月で死ぬ。ゆえに徐邈は「三公は欠員を出してはいかん。私は老病だから辞退する」と言ったのだ。盧欽は徐邈をほめた。ぼくは思う。このあたり『通鑑』でやった。『通鑑』だと、列伝からセリフや文書が引用されるのだ。

秋9月、車騎將軍の王淩を司空とする。
冬10月、大風が屋を發し、樹を折る。121209

杭世駿はいう。『魏略』では正始元年(じつは九年)、大風が吹いた。曹爽が誅殺される前兆である。趙一清はいう。『宋書』五行志と『晋書』五行志では正始9年11月、大風が数十日ふく。12月戊午(じつは辛卯)つごもり、もっとも強風がふき、太極東閣を動かした。翌年の正月ついたちも大風がふき、執政する大臣が憂いた。あとで曹爽が死ぬ前兆だとわかったと。
ぼくは思う。みんな、暦はきちんと書きましょうよ。

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曹芳の嘉平年間;司馬師が廃立

嘉平元年、司馬懿が曹爽を夷三族する

嘉平元年春正月甲午、車駕謁高平陵。太傅司馬宣王、奏免大將軍曹爽、爽弟中領軍羲、武衞將軍訓、散騎常侍彥官。以侯就第。戊戌、有司奏、收黃門張當付廷尉。考實其辭、爽與謀不軌。又尚書丁謐、鄧颺、何晏、司隸校尉畢軌、荊州刺史李勝、大司農桓範、皆與爽通姦謀。夷三族。語在爽傳。丙午大赦。丁未、以太傅司馬宣王爲丞相、固讓乃止。

嘉平元年の春正月甲午、車駕は高平陵を謁する。

裴注の孫盛『魏世譜』はいう。高平陵は、洛水の南にある大石山である。洛城から90里である。沈家本はいう。『魏世譜』は、『隋書』『唐書』に書名がない。盧弼は『水経』伊水注で、地理を説明する。はぶく。
『宋書』礼志2はいう。司馬懿は遺詔にて、子弟と群官に「謁陵するな」という。司馬師と司馬昭はまもった。ぼくは思う。曹爽と同じめに遭うのを避けたのだ。
梁商鉅はいう。曹爽は在位9年だが、謁陵はこの1回のみだ。だから、わざわざ本紀に記してある。盧弼はいう。この謁陵のとき、司馬懿のクーデターが起きたから、わざわざ謁陵のことを記したのだ。

太傅の司馬懿は、大將軍の曹爽、曹爽の弟・中領軍の曹羲、武衞將軍の曹訓、散騎常侍の曹彦の官を免じよと奏した。侯爵のまま、家に帰らせる。正月戊戌、有司は「黄門の張當を、廷尉にわたせ」と奏した。取り調べの結果、曹爽が不軌をはかると分かった。また、尚書の丁謐と鄧颺と何晏、司隸校尉の畢軌、荊州刺史の李勝、大司農の桓範も、みな曹爽に通じて不軌しようとするので、夷三族した。曹爽伝にある。

『晋書』宣帝紀はいう。曹爽の支党をみな夷三族した。男女とも年齢に関係なく、他家に嫁いだ者も殺した。東晋の明帝のとき、王導に「なぜ司馬氏が天下を取れたか」と聞いた。王導は、司馬懿のクーデターと、司馬師による曹髦の殺害をあげた。明帝は顔をふせて「もし王導の言うとおりなら、司馬氏の天命は長続きしない」という。
盧弼はいう。司馬懿が「曹爽の兄弟が兵権を独占していかん」と責めたが、このとき司馬師が中護軍である。ひそかに死士3千をやしなった。曹爽の兄弟が、独占していないじゃん。

正月丙午、大赦した。正月丁未、太傅の司馬懿を丞相にしたが、固辞したので、丞相にするのをやめた。

孔衍漢魏春秋曰。詔使太常王肅冊命太傅爲丞相、增邑萬戶、羣臣奏事不得稱名、如漢霍光故事。太傅上書辭讓曰「臣親受顧命、憂深責重、憑賴天威、摧弊姦凶、贖罪爲幸、功不足論。又三公之官、聖王所制、著之典禮。至于丞相、始自秦政。漢氏因之、無復變改。今三公之官皆備、橫復寵臣、違越先典、革聖明之經、襲秦漢之路、雖在異人、臣所宜正、況當臣身而不固爭、四方議者將謂臣何!」書十餘上、詔乃許之、復加九錫之禮。太傅又言「太祖有大功大德、漢氏崇重、故加九錫、此乃歷代異事、非後代之君臣所得議也。」又辭不受。

孔衍『漢魏春秋』はいう。曹芳は、太常の王粛に冊命をもたせた。司馬懿を丞相とし、1万戸をふやし、群臣が奏事するとき司馬懿の名を呼べないようにせよという。霍光の故事である。司馬懿はことわる。つぎに曹芳は、九錫の礼をくわえるが、司馬懿がことわる。

『晋書』宣帝紀はいう。2月、曹芳は司馬懿を、丞相と奏事不名をあげる。司馬懿がことわる。冬12月、九錫の礼、朝会不拝をあげる。司馬懿はことわる。盧弼はいう。これは建安の曹操とおなじである。「美悪は同調を嫌わず」である。
『晋書』は、増やすのを2万戸という。
『漢書』宣帝紀はいう。地節2年、大司馬・大将軍の霍光が薨じた。詔書にて「霍光の名を称さない」という。顔師古はいう。尊んで、名を言わなくしたのだ。
丞相は武帝紀の建安13年にある。『漢書』百官公卿表はいう。相国と丞相は、どちらも秦官である。金印紫綬である。秦代は左右がいた。高帝が即位すると、1人の丞相をおく。高帝11年、相国と改名して、緑綬とした。
ぼくは思う。司馬懿は、やたら高い官位や特権を与えられている。これは「曹芳が司馬懿を制するため」に行ってることだろう。曹芳が司馬懿を尊ぶためではない。ここ、使えるなあ!


夏四月乙丑、改年。丙子太尉蔣濟薨。冬十二月辛卯、以司空王淩爲太尉。庚子、以司隸校尉孫禮爲司空。

夏4月乙丑、嘉平と改元する。4月丙子、太尉の蔣濟が薨じた。

蒋済伝にひく『世語』はいう。蒋済は曹爽に「司馬懿はあなたを免官するだけだ」というが、曹爽が殺された。だから蒋済は病死した。

冬12月辛卯、司空の王淩を太尉とする。

『魏志』王淩伝はいう。司馬懿が曹爽を誅すと、王淩は太尉にすすみ、節鉞を仮された。『通鑑』はいう。即ち拝し、王淩を太尉となすと。胡三省はいう。「即ち拝す」とは、王淩が寿春で太尉を受けたということ。

12月庚子、司隸校尉の孫禮を司空とする。

盧弼はいう。孫礼は、曹爽を弾劾した功績である。曹爽の死後、洛陽に入って司隷校尉となり、司空にうつる。


嘉平2年、荊州で王昶が朱績をやぶる

二年夏五月、以征西將軍郭淮爲車騎將軍。

嘉平2年の

『晋書』宣帝紀はいう。嘉平2年正月、天子は司馬懿に、洛陽に立廟させ、左右長史をおけと命じた。掾属や舎人をふやした。10歳以上の者から、1年ごとに掾属をあげて、御史に任じる。秀才を1人ずつあげる。官騎1百人をふやし、鼓吹14人をふやす。曹芳の子・曹彤を平楽亭侯とする。曹倫を安楽亭侯とする。司馬懿は久しく病なので、朝請に任じない。重要なことがあると、曹芳はみずから司馬懿の家にゆき、司馬懿に諮問した。
ぼくは思う。曹爽を誅殺したのって、ほんとに司馬懿なのか?司馬懿は、曹芳までも「あざむく」必要がない。司馬懿は、死んではいないが、ほんとうは動けないのでは?曹爽が誤ったのは「司馬懿が病気だから警戒しなくて良い」でなく、「司馬師がそれほど怖くない」という読みではないか。『晋書』は司馬懿を、魏晋革命に参加させたいから、司馬懿の名を担ぎ出しただけだ。でないと、わりをくったのは司馬師で、登場したらすぐに眼球が飛び出す。
そうか!司馬昭から司馬炎の流れでは、司馬師の功績が小さいほうが良い。だから、クーデターを司馬懿の功績にしたのだ。司馬懿の拡大、司馬師の縮小。晋室から見たら、2つのニーズが合致したので、司馬懿に手柄が付けかえられた。司馬懿は方面司令官として活躍するが、中央で活躍する機会がない。老病してから、新しいことを始められないよ。やっぱり司馬師のおかげなんだなあ。司馬懿は飾りだ。

夏5月、征西將軍の郭淮を車騎將軍とする。

郭淮伝はいう。嘉平元年、征西将軍にうつり、雍州と涼州の諸軍事を督する。嘉平2年、詔あり。「郭淮は関右で30余年いる。郭淮を車騎将軍、儀同三司とせよ。持節と都督は、もとのまま」と。


冬十月、以特進孫資爲驃騎將軍。十一月司空孫禮薨。十二月甲辰東海王霖薨。乙未、征南將軍王昶渡江、掩攻吳破之。

冬10月、特進の孫資を驃騎將軍とした。11月、司空の孫礼が薨じた。12月甲辰、東海王の曹霖が薨じた。

曹霖伝では、嘉平元年とある。だが日付が同じなので、曹芳紀が正しい。

12月乙未、征南將軍の王昶が渡江して、孫呉をやぶる。

『呉志』孫権伝はいう。赤烏13年12月、曹魏の王昶が南郡をかこむ。曹魏の荊州刺史の王基が、西陵をせめる。孫呉は、将軍の載烈と陸凱がふせぐ。みな引く。
ほかに、朱績伝、王昶伝にもある。盧弼はいう。曹芳紀には、王昶が渡江したとあるが、これは漢水を渡ったのである。長江でない。孫呉の荊州は、南郡の江陵であり、長江の北である。王昶は長江を渡らなくても、荊州を州府を攻められる。


嘉平3年、甄皇后と司馬懿が死ぬ

三年春正月、荊州刺史王基、新城太守陳泰、攻吳破之。降者數千口。二月置南郡之夷陵縣、以居降附。三月、以尚書令司馬孚爲司空。四月甲申、以征南將軍王昶爲征南大將軍。壬辰大赦。丙午、聞太尉王淩謀廢帝立楚王彪、太傅司馬宣王東征淩。五月甲寅、淩自殺。六月彪賜死。

嘉平3年春正月、荊州刺史の王基、新城太守の州泰が、孫呉をやぶり、数千口をくだす。

盧弼はいう。この州泰を「陳泰」と書くものがあるが、誤りだ。ときに陳泰は雍州刺史である。また王昶伝でも、州泰がでてくる。『晋書』景帝紀はいう。嘉平4年、諸葛誕、毋丘倹、王昶、陳泰、胡遵は、四方を都督する。王基、州泰、鄧艾、石苞は、州郡を典すると。この表記から、やはり新城太守は州泰であるとわかる。

2月、南郡に夷陵県をつくり、くだした者を住まわせる。

趙一清はいう。南郡の夷陵は、漢代からの旧県である。曹操が荊州を平定すると、臨江郡をこの夷陵県におく。赤壁ののち、劉備がここを宜都とする。章武元年、劉備が陸遜にやぶれた。国境なので、呉蜀でそれぞれ夷陵という名をたてた。
盧弼はいう。王基伝によると、王基は荊州刺史となり、征南将軍の王昶にしたがい、孫呉をうつ。数千口を降して納れる。降した民を、夷陵県をつくって住ませたと。これは曹魏の夷陵である。孫呉の夷陵とちがう。孫呉の夷陵は、文帝紀の黄初三年にある。曹魏の夷陵は、王基伝にくわしい。

3月、尚書令の司馬孚を司空とした。

4月甲申、征南將軍の王昶を征南大將軍とする。

胡三省はいう。孫呉を破ったので、位を進めたのだ。銭大昭はいう。征南将軍なんかの叙任は、本紀のここにしか書かれない。なぜ前に夏侯尚が征南将軍に任じられたとき、書かないのか。
ぼくは思う。陳寿が司馬氏に配慮しているうちに、採録の基準がバラバラになったのだろう。夏侯尚の子は夏侯玄で、司馬氏に殺された。夏侯尚の娘は、司馬師の妻で、、と複雑なのだ。「夏侯尚のことを書いて褒められる」「夏侯尚のことを書いて譏られる」どちらに転ぶか分からないから、触れなかったとか。もしも陳寿が、無意識のうちに抑圧されて、夏侯尚を書き漏らしていたらおもしろい。

4月壬辰、大赦した。4月丙午、太尉の王淩が、楚王の曹彪を天子に立てると聞き、太傅の司馬懿が東征した。5月甲寅、王淩が自殺した。6月、曹彪は死を賜る。

『晋書』宣帝紀、『魏志』王淩伝にある。これより、曹魏の皇族は鄴城にぶちこまれた。『晋書』司馬伷伝で、司馬伷は寧朔将軍となり、鄴城を監守した。皇族の押しこめは、『晋書』石苞伝にもある。


秋七月壬戌皇后甄氏崩。辛未以司空司馬孚爲太尉。戊寅、太傅司馬宣王薨。以衞將軍司馬景王爲撫軍大將軍錄尚書事。乙未、葬懷甄后於太清陵。庚子驃騎將軍孫資薨。十一月有司奏、諸功臣應饗食於太祖廟者、更以官爲次。太傅司馬宣王功高爵尊、最在上。十二月以光祿勳鄭沖爲司空。

秋7月壬戌、皇后の甄氏が崩じた。7月辛未、司空の司馬孚を太尉とする。7月戊寅、太傅の司馬懿が薨じた。

『晋書』宣帝紀はいう。司馬懿は、賈逵と王淩のたたりで、秋8月戊寅に死んだ。73歳だった。9月庚申、河陰にほうむり、文貞と諡して、のちに文宣と諡する。盧弼はいう。『魏志』陳留王紀によると、咸煕元年5月癸未、舞陽宣文侯を晋宣王とした。宣文が正しいのであって、『晋書』宣帝紀は誤りである。
ぼくは思う。王朝の始祖の本紀で、諡号をミスるなんて。そんな歴史書、やめちまえ!と思います。

衞將軍の司馬師が、撫軍大將軍となり、錄尚書事する。

盧弼は『晋書』景帝紀をひいてくる。なんの変哲もなく、あたまから順番に引用する。『三国志』だけでは、この情報が手に入らないから、仕方ないのか!
ぼくは思う。司馬師は印象がうすい。曹爽の討伐は、司馬懿が主役。諸葛恪に東興で敗北し、昭のせいにする。李豊や張緝ってダレ?曹芳を廃したが、曹髦を殺した司馬昭のほうがハデ。懿の死から僅か4年で毋丘倹が叛き、眼球が突出して終了。晋室の当局が、懿昭炎衷の正統を言うため、師の功績を前後から浸食させた?つまり、司馬師の前半の功績は司馬懿に、後半の功績は司馬昭につけかえた。だから活躍がたったの4年になった。

乙未、曹芳の甄后を太清陵に葬る。庚子、驃騎將軍の孫資が薨じた。
11月、有司が奏した。「太祖廟に祭る功臣を、官位の順序で並べかえろ」と。司馬懿が最上に祭られた。12月、光祿勳の鄭沖を司空とする。

『続百官志』はいう。光禄勲は九卿であり、定員1名、中2千石。宮殿の門戸への宿衛をつかさどる。『晋書』鄭沖伝を盧弼がひく。魏晋革命のとき、鄭沖に策を奉らせた。司馬炎が践祚すると、太傅となり、公爵にすすむ。
王鳴盛はいう。『論語集解』では、光禄大夫の鄭沖とある。列伝は、光禄大夫の職歴を省略したのだろう。


嘉平4年、東関で諸葛恪に敗れ、司馬昭の責任

四年春正月癸卯、以撫軍大將軍司馬景王爲大將軍。二月立皇后張氏。大赦。夏五月魚二見於武庫屋上。冬十一月詔、征南大將軍王昶、征東將軍胡遵、鎭南將軍毌丘儉等、征吳。十二月吳大將軍諸葛恪拒戰、大破衆軍于東關。不利而還。

嘉平4年春正月癸卯、撫軍大將軍の司馬師を大將軍とする。

『晋書』職官志はいう。後漢で大将軍は常設されない。大将軍になった者は専権した。司馬昭が大将軍になったのも、非常の任である(専権した)。
『宋書』百官志はいう。後漢で大将軍は三公より上である。司馬懿は大将軍から太尉になる。それなら大将軍は、三公の太尉より下であるはずだ。のちにまた大将軍は三公の上になった。司馬師が大将軍となり、叔父の司馬孚が太尉となった。司馬師が上奏して「大将軍を太尉の下にせよ」という。のちにまた大将軍が上にもどる。

2月、張氏を皇后にたてる。大赦した。

『通鑑』はいう。皇后は、もと涼州刺史の張既の孫である。東莞太守の張緝の娘で或る。張緝は光禄大夫を拝した。胡三省はいう。張緝は司馬師に殺される。

夏5月、2匹の魚が、武庫の屋上にある。

『宋書』五行志4はいう。王粛がいうには、辺境の部将の鎧(ウロコのような装甲)が危うい前兆である。のちに諸葛恪に東関で敗れる。干宝は、曹髦が殺される前兆とする。魚を武事とむすびつける解釈は、王粛と干宝とも、班固『漢書』と同じである。


漢晉春秋曰。初、孫權築東興隄以遏巢湖。後征淮南、壞不復修。是歲諸葛恪帥軍更于隄左右結山、挾築兩城、使全端、留略守之、引軍而還。諸葛誕言於司馬景王曰「致人而不致於人者、此之謂也。今因其內侵、使文舒逼江陵、仲恭向武昌、以羈吳之上流、然後簡精卒攻兩城、比救至、可大獲也。」景王從之。

『漢晋春秋』はいう。孫権が東興に堤防をきずき、巣湖をせきとめる。のちに淮南を攻め、堤防が壊れたが、修繕しない。

巣湖は武帝紀の建安22年と、明帝紀の青龍2年にある。『呉志』諸葛恪伝はいう。孫権は黄龍元年に建業に遷都した。黄龍2年、東興に堤防をつくる。のちに淮南を征して敗れ、堤防を壊れたままとした。胡三省はいう。これは正始2年の孫呉の敗北をいう。巣湖をせきとめ、水軍で有利に戦おうとした。だが巣湖のなかで水軍が敗れた。(堤防があっても退路がなくなるだけなので)堤防を修繕しないのだ。

この歳に諸葛恪が、左右の山をつなげた。全端と留略が守った。

諸葛恪伝、『通鑑』にある。地理について、胡三省がモメはじめ、盧弼がひっぱる。上海古籍480頁。たしか『通鑑』をしたときも、ここで騒いだなあ。

諸葛誕は司馬師にいう。「孫呉が、魏領に入りこんでいる。王昶は江陵、毋丘倹は武昌を攻め、長江の上流を抑えたら、迎撃する呉軍を捕らえられる」と。司馬師は合意した。

冬十一月詔、征南大將軍王昶、征東將軍胡遵、鎭南將軍毌丘儉等、征吳。十二月吳大將軍諸葛恪拒戰、大破衆軍于東關。不利而還。

冬11月、曹芳は詔した。征南大將軍の王昶、征東將軍の胡遵、鎭南將軍の毌丘儉らは、征呉せよと。12月、諸葛恪が魏軍をふせぎ、魏軍は東關で大敗した。勝てないから還る。

盧弼はいう。いわゆる「東関の役」である。諸葛誕伝、毋丘倹伝、諸葛恪伝にある。『水経』沔水注にもある。諸葛恪は、冠軍の丁奉に塘を登らせた。朱異は水軍で浮橋をせめ、征東将軍の胡遵をやっつけたと。
諸葛誕も諸軍を督したはずだが、本紀には諸葛誕が記されない。あるいは、諸葛誕は鎮東将軍だから、征東将軍の胡遵の配下にいたか。


漢晉春秋曰。毌丘儉、王昶聞東軍敗、各燒屯走。朝議欲貶黜諸將、景王曰「我不聽公休、以至於此。此我過也、諸將何罪?」悉原之。時司馬文王爲監軍、統諸軍、唯削文王爵而已。是歲、雍州刺史陳泰求敕幷州併力討胡、景王從之。未集、而雁門、新興二郡以爲將遠役、遂驚反。景王又謝朝士曰「此我過也、非玄伯之責!」於是魏人愧悅、人思其報。

『漢晋春秋』はいう。(荊州を攻める)毋丘倹と王昶は、東軍が(東関で諸葛恪に)敗れたと聞き、屯所を焼いてにげた。

『通鑑』はいう。11月、王昶らに3道から孫呉を撃たせる。12月、王昶は南郡を、毋丘倹は武昌を、胡遵と諸葛誕は7万をひきいて東興を攻める。胡三省はいう。荊州の毋丘倹から見れば、東関は「東」にいる軍である。

朝議は敗将の官位をおとせというが、司馬師は「私が諸葛誕の発言を聴かなかったせいだ。過失は私にある。諸将はわるくない」という。司馬昭が監軍として諸軍を統べたので、司馬昭の爵位のみをけずった。

盧弼はいう。3道から征呉するのは、諸葛誕の提案である。諸葛誕の言うとおりやって負けたのだ。司馬昭が「諸葛誕を聴かなかった」とはおかしい。諸葛誕は、さらに別の兵略があったか。厳衍はいう。諸葛誕は伐呉をいう。伐呉に反対したのは、傅嘏だけだ。司馬師は「傅嘏の言うことを聴かないから」と言うべきか。

この歳、雍州刺史の陳泰は、并州の兵力をあわせ、胡族を討ちたいという。司馬師が許す。

并州の地理や郡制について、上海古籍481頁。

并州では、雁門と新興の2郡で「雍州に遠征したくない」と混乱がおきた。 司馬師は「私の過失だ。陳泰はわるくない」という。曹魏の人は、愧じつつ悅んだ。司馬師のために報いようと思った。

ぼくは思う。司馬師は失敗-責任とりキャラなのね。この流れでゆくと、「曹魏の人」のなかでも、もっとも司馬師から恩をうけた諸葛誕と陳泰は、司馬氏の革命に協力すべきだが。だが結果、2人とも司馬氏から距離をとるじゃん。司馬師の作戦は失敗だったのか。なんだか司馬師がらみの史料が、あやしい。曹魏をくさしつつ、司馬師もくさしてる。二重に隠蔽や加工がほどこされている。
ぼくは思う。単なる「曹魏はダメ、西晋はイイ」という構造であれば、史料批判はカンタンである。ただ評価や筆致をひっくり返せばいい。しかし、大きくは曹魏を、小さくは司馬師をおとしめる、というねじれた編集方針であれば、一次史料の復元がむずかしい。このおかげで、史料批判がむずかしくなった。読者が史料批判をしにくいことは、編者が編纂意図を見ぬかれないことを意味する。編者は歴史観を見ぬかれないから、その歴史観によって罰せられることもない。さすが陳寿は、晋初の人。陳寿『三国志』がすばらしいのは、司馬師への批判という、ギリギリは晋室の当局に許されるトリッキーな観点を盛りこむことで、魏晋の交替期の歴史を描ききったことかな。オモテなのか、ウラのウラがオモテになっているのか、区別がつかない。
ぼくは思う。読者は『三国志』に対して、自由な読みを許される。もと魏臣である同時代人は気まずさを解消される。陳寿は筆禍を免れる。陳寿は「事実をそのまま書きすぎて処刑」とならない。また逆に陳寿は「司馬氏におもねり過ぎている。政治的には正しいが、史書としての価値はない」という批判も受けにくくなる。ちゃんと後世に残り、歴史家としての自尊心も満たされる。
ぼくは思う。司馬師は、彼自身に関する記述によって「魅力ある人物」ではないが、史料編纂における「関数の変換」を考えるとき、おもしろい位置にいる。


習鑿齒曰。司馬大將軍引二敗以爲己過、過消而業隆、可謂智矣。夫民忘其敗、而下思其報、雖欲不康、其可得邪?若乃諱敗推過、歸咎萬物、常執其功而隱其喪、上下離心、賢愚解體、是楚再敗而晉再克也、謬之甚矣!君人者、苟統斯理而以御國、則朝無秕政、身靡留愆、行失而名揚、兵挫而戰勝、雖百敗可也、況於再乎!

習鑿歯はいう。司馬師は、失敗を自分の責任とした。だから司馬氏は人心を獲得した。春秋時代の楚国と同じである。

ぼくは思う。 司馬師の人望。東関の敗北を「諸葛誕の意見に従わぬ私のせい」とし、并州の混乱を「陳泰でなく私のせい」とする。習鑿歯は師の人望をほめる。だが待った!最も師の恩を受けたはずの諸葛誕も陳泰も、魏晋革命に反対した。習鑿歯の説明は成立しない。東関の件、司馬師の発言は矛盾してると盧弼もいう。
さっき司馬師は、諸葛誕の提案どおりに征呉したくせに、敗れたら「諸葛誕の提案に従わないから負けた、ごめんね」という。意味不明である。だが、意味不明であることに、意味(=執筆の意図)がある。どのように意図があるのか、考え中。


嘉平5年、諸葛誕と姜維が東西から攻める

五年夏四月大赦。五月吳太傅諸葛恪圍合肥新城、詔太尉司馬孚拒之。

嘉平5年夏4月、大赦した。5月、孫呉の太傅する諸葛恪が、合肥新城をかこむ。太尉の司馬孚にふせがせる。

合肥新城は、明帝紀の青龍2年と、満寵伝にある。
この戦いは、『晋書』司馬孚伝、『呉志』諸葛恪伝にある。


漢晉春秋曰。是時姜維亦出圍狄道。司馬景王問虞松曰「今東西有事、二方皆急、而諸將意沮、若之何?」松曰「昔周亞夫堅壁昌邑而吳楚自敗、事有似弱而彊、或似彊而弱、不可不察也。今恪悉其銳衆、足以肆暴、而坐守新城、欲以致一戰耳。若攻城不拔、請戰不得、師老衆疲、勢將自走、諸將之不徑進、乃公之利也。姜維有重兵而縣軍應恪、投食我麥、非深根之寇也。且謂我幷力于東、西方必虛、是以徑進。今若使關中諸軍倍道急赴、出其不意、殆將走矣。」景王曰「善!」乃使郭淮、陳泰悉關中之衆、解狄道之圍。敕毌丘儉等案兵自守、以新城委吳。姜維聞淮進兵、軍食少、乃退屯隴西界。

『漢晋春秋』はいう。姜維が狄道県(隴西郡)をかこむ。司馬師は、虞松に問う。

虞松のことは、鍾会伝にひく『世語』、曹髦紀の甘露元年の注にある。

「西は諸葛恪が合肥新城を、東は姜維が狄道城をかこむ。どうしよう」と。虞松はいう。「前漢の周亜夫は、景帝3年、山陽の昌邑を守りきり、呉王の劉ビを破った。諸葛恪は勢いがあるが、新城を囲んで止まる。姜維は兵糧がなくて止まるべきだが、勢いがある。姜維をくじけば良い」と。郭淮と陳泰にすべての関中の兵をつけ、狄道を救わせた。合肥新城の毋丘倹には、そのまま守らせた。姜維は、郭淮と陳泰がくると聞き、隴西の境界に撤退した。

『蜀志』姜維伝はいう。延熙16年夏、数万をひきいて石営をでて、南安をかこむ。曹魏の雍州刺史が、かこみを解いて洛門にゆく。姜維は食糧がつきたので撤退する。胡三省はいう。虞松の思ったとおりになった。


秋七月、恪退還。
是時、張特守新城。
魏略曰。特字子產、涿郡人。先時領牙門、給事鎭東諸葛誕、誕不以爲能也、欲遣還護軍。會毌丘儉代誕、遂使特屯守合肥新城。及諸葛恪圍城、特與將軍樂方等三軍衆合有三千人、吏兵疾病及戰死者過半、而恪起土山急攻、城將陷、不可護。特乃謂吳人曰「今我無心復戰也。然魏法、被攻過百日而救不至者、雖降、家不坐也。自受敵以來、已九十餘日矣。此城中本有四千餘人、而戰死者已過半、城雖陷、尚有半人不欲降、我當還爲相語之、條名別善惡、明日早送名、且持我印綬去以爲信。」乃投其印綬以與之。吳人聽其辭而不取印綬。不攻。頃之、特還、乃夜徹諸屋材柵、補其缺爲二重。明日、謂吳人曰「我但有鬭死耳!」吳人大怒、進攻之、不能拔、遂引去。朝廷嘉之、加雜號將軍、封列侯、又遷安豐太守。

秋7月、諸葛恪はしりぞいて還る。
裴松之はいう。このとき張特が新城をまもる。
『魏略』はいう。張特は涿郡の人。
さきに牙門将軍となり、鎮東将軍の諸葛誕の配下となる。

『通鑑』では、揚州牙門将の張特とされる。
洪飴孫はいう。牙門将軍は、あるいは牙門将ともよぶ。定員なし、5品。黄初に置かれた。諸葛誕伝はいう。諸葛誕は中央に徵されたので、諸牙門らと酒をのんだ。つまり牙門将軍はたくさんいる。定員がないから。
ぼくは思う。張特は「その他大勢」の1人だ。ところで、涿郡の張氏って、張飛とおなじだ。出自がいやしく、戦場の働きで出世するところが、張飛と張特の共通点である。

諸葛誕は、張特が無能なので、護軍にして中央に返したい。たまたま毋丘倹が諸葛誕にかわり、張特を合肥新城の守将につかう。諸葛恪に攻められた。城内に兵が3千いたが、過半が病気や戦死した。諸葛恪が土山を築いたので、いまにも陥落しそう。張特は「曹魏の法では、1百日攻められても援軍が来なければ、降伏しても家族が連坐しない」とウソをついて時間を稼ぐ。だまされた孫呉は、合肥新城を抜けない。朝廷をほめ、雑号将軍をくわえる。列侯に封じ、安豊太守とする。

『晋書』地理志はいう。豫州の安豊郡は、曹魏がおく。5県あり、治所は安風。『方輿紀要』21はいう。正元2年、毋丘倹が寿春で兵をあげて、黄権にすすむ。司馬師は、豫州刺史の諸葛誕をつかわし、安風から寿春に向かわせる。ここに出てくる安風というのが、安豊郡の郡治で或る。のちに省かれた。
安豊郡は、王基伝、毋丘倹伝にもある。


八月、詔曰「故中郎西平郭脩、砥節厲行、秉心不回。乃者蜀將姜維寇鈔脩郡、爲所執略。往歲偽大將軍費禕驅率羣衆、陰圖闚𨵦、道經漢壽。請會衆賓、脩於廣坐之中、手刃擊禕。勇過聶政、功逾介子、可謂殺身成仁、釋生取義者矣。夫追加褒寵、所以表揚忠義。祚及後胤、所以奬勸將來。其追封脩爲長樂鄉侯、食邑千戶、諡曰威侯。子襲爵、加拜奉車都尉。賜銀千鉼、絹千匹、以光寵存亡、永垂來世焉。」

8月、詔した。「もと中郎した西平の郭脩は、

『通鑑』では中郎将の郭循とする。西平は、武帝紀の建安19年。潘眉はいう。「循」「脩」は混同されやすい。『後漢書』袁紹伝で呉循とある者が、『魏志』袁紹伝では呉脩とされる。『呉志』孫皓伝で滕循とある者が、王隠『交広記』や『晋書』では滕脩とされる。いくらでもある。

姜維に捕らわれたが、蜀漢の大将軍する費禕を殺した。郭脩を長楽郷侯に追封して、食邑は1千戶、威侯と諡する。子に爵位をつがせ、奉車都尉をくわえる」

後主伝はいう。延熙13年、姜維は西平にでた。郭脩が姜維に捕まったのは、このときである。
費禕伝はいう。延熙16年、費禕は郭循に殺された。
『続百官志』はいう。奉車都尉は、比2千石、御乗輿車をつかさどる。


魏氏春秋曰。脩字孝先、素有業行、著名西州。姜維劫之、脩不爲屈。劉禪以爲左將軍、脩欲刺禪而不得親近、每因慶賀、且拜且前、爲禪左右所遏、事輒不克、故殺禕焉。
臣松之以爲古之舍生取義者、必有理存焉、或感恩懷德、投命無悔、或利害有機、奮發以應會、詔所稱聶政、介子是也。事非斯類、則陷乎妄作矣。魏之與蜀、雖爲敵國、非有趙襄滅智之仇、燕丹危亡之急。且劉禪凡下之主、費禕中才之相、二人存亡、固無關于興喪。郭脩在魏、西州之男子耳、始獲于蜀、既不能抗節不辱、于魏又無食祿之責、不爲時主所使、而無故規規然糜身于非所、義無所加、功無所立、可謂「折柳樊圃」、其狂也且、此之謂也。

『魏氏春秋』はいう。郭脩は西州に名声がある。姜維に屈服しない。劉禅から左将軍に任じられた。劉禅を殺せないから、費禕を殺した。
裴松之はいう。魏蜀は仇敵でない。郭脩は曹魏に恩がない。劉禅も費禕も怖くない。以上3つから、郭脩が命がけで費禕を殺したことは無意味である。えー!

自帝卽位至于是歲、郡國縣道多所置省、俄或還復、不可勝紀。

曹芳が即位してから14年、郡国や県道でおおくが設置され、おおくが省略された。省いて設けることもある。いちいち書けない。

趙一清はいう。『晋書』荀勗伝はいう。曹魏の太和のとき、天下の吏員を減らした。正始のとき、また郡県をあわせ、吏員を減らした。『水経』河水注にある碑文はいう。曹魏の甘露4年、散騎常侍・征南将軍・豫州刺史で、弘農太守を領する南平公が、この石碑をたてた。魏代に弘農は司隷に属したから、豫州に属さない。郡県を置いては省く、という記述の証左ではないか。
ぼくは補う。つまり司州をはぶいて、弘農を豫州にくっつけ、やっぱり司州にもどした、などの試行錯誤があったのか。それにしても「南平公」さんは、官位をくっつけすぎだ。


嘉平6年、李豊と張緝が死に、曹芳が廃さる

六年春二月己丑、鎭東將軍毌丘儉上言「昔諸葛恪圍合肥新城、城中遣士劉整出圍傳消息、爲賊所得。考問所傳、語整曰『諸葛公欲活汝、汝可具服』整罵曰『死狗、此何言也!我當必死爲魏國鬼、不苟求活、逐汝去也。欲殺我者、便速殺之』終無他辭。又遣士鄭像出城傳消息。或以語恪、恪遣馬騎尋圍跡索、得像還。四五人的頭面縛、將繞城表、勑語像使大呼言『大軍已還洛、不如早降』像不從其言、更大呼城中曰『大軍近在圍外、壯士努力!』賊以刀築其口、使不得言、像遂大呼、令城中聞知。整像爲兵、能守義執節、子弟宜有差異。」詔曰「夫顯爵所以褒元功、重賞所以寵烈士。整像召募通使、越蹈重圍、冒突白刃、輕身守信、不幸見獲、抗節彌厲、揚六軍之大勢、安城守之懼心、臨難不顧、畢志傳命。昔解楊執楚、有隕無貳。齊路中大夫以死成命。方之整像、所不能加。今追賜整像爵關中侯、各除士名、使子襲爵、如部曲將死事科。」

嘉平6年春2月己丑、鎭東將軍の毌丘儉が上言する。「諸葛恪が合肥新城を囲んだとき、使者をつとめた、士の劉整と鄭像は、功績がある。劉整は諸葛恪に拷問されても、情報を話さない。鄭像は、諸葛恪の強制にさからい、城中を励ました」と。 曹芳は詔した。「爵を顕らかにするのは、勲功を褒めるためである。2人の使者を関内侯とする」と。

ぼくは思う。ここ、使えるなあ!


庚戌、中書令李豐與皇后父光祿大夫張緝等、謀廢易大臣、以太常夏侯玄爲大將軍。事覺、諸所連及者皆伏誅。辛亥大赦。三月廢皇后張氏。夏四月立皇后王氏、大赦。五月、封后父奉車都尉王夔爲廣明鄉侯光祿大夫、位特進。妻田氏爲宣陽鄉君。秋九月大將軍司馬景王、將謀廢帝、以聞皇太后。

2月庚戌、中書令の李豐と、皇后の父・光祿大夫の張緝らは、司馬師をおろし、太常の夏侯玄を大将軍にしようとした。司馬師に発覚して、連なる者が誅された。

夏侯玄伝にくわしい。曹爽が殺されてから、皇族にとって厳しい。夏侯覇は蜀漢ににげた。『晋書』はこの事件を正月とするが、2月が正しい。

2月辛亥、大赦した。3月、皇后の張氏を廃した。

『晋書』景帝紀にある。胡三省はいう。曹操は伏皇后を殺し、司馬師は張皇后を殺した。司馬師は曹操を見習った。盧弼はいう。廃するのと殺すのは異なる。胡三省は司馬師が張皇后を殺したというが、ウソである。

夏4月、王皇后をたてて、大赦した。

ぼくは思う。短期間で、なんど大赦すんねん。

5月、皇后の父・奉車都尉の王夔を、廣明鄉侯に封じ、光祿大夫にして、位は特進。王夔の妻・田氏は、宣陽郷君となる。

『晋書』職官志はいう。司馬炎は、宗室や外戚を、奉車都尉、駙馬都尉、騎都尉の3都尉にした。都尉となり、朝請を奉った。

秋9月、大將軍の司馬師が、曹芳を廃するため、皇太后に聞いた。

『晋書』景帝紀はいう。曹芳は、夏侯玄と張緝が誅されたので不安である。司馬師もトラブルをおそれて、永寧皇太后に廃立をもちかける。
ぼくは思う。曹芳が緊張したぶんだけ、司馬師も緊張する。司馬師が緊張したぶんだけ、曹芳も緊張する。どちらに転んでもおかしくないのだ。史料にないが、曹芳から皇太后への働きかけも、あったと見なすべきだろう。


世語及魏氏春秋並云。此秋、姜維寇隴右。時安東將軍司馬文王鎭許昌、徵還擊維、至京師、帝於平樂觀以臨軍過。中領軍許允與左右小臣謀、因文王辭、殺之、勒其衆以退大將軍。已書詔于前。文王入、帝方食栗、優人雲午等唱曰「青頭雞、青頭雞。」青頭雞者、鴨也。帝懼不敢發。文王引兵入城、景王因是謀廢帝。
臣松之案夏侯玄傳及魏略、許允此年春與李豐事相連。豐既誅、卽出允爲鎭北將軍、未發、以放散官物收付廷尉、徙樂浪、追殺之。允此秋不得故爲領軍而建此謀。

『世語』と『魏氏春秋』はいう。この秋、姜維が隴右を寇した。ときに安東將軍の司馬昭は許昌にいる。姜維を撃つため、司馬昭が洛陽にかえる。曹芳は平樂觀にいて、司馬昭の通過をみた。

平楽観は、『後漢書』霊帝紀で、中平5年に霊帝が閲兵したところである。章懐はいう。平楽観は、洛陽城の西にある。

中領軍の許允は左右に「司馬昭を殺そう」という。曹芳は、鴨=押(司馬昭を殺せという詔への押韻)を仄めかされたが、司馬昭を殺せない。司馬昭が洛陽に入城したので、司馬師による廃帝が着手された。
裴松之はいう。夏侯玄伝と『魏略』を見ると、許允はここにいない。同年春に李豊に連なり、鎮北将軍に出された。出発する前に、廷尉にわたされ、楽浪に移されて殺された。許允が、この謀略をやれない。

盧弼はいう。裴松之の言うとおり。だが許允でなくても、左右の者がいれば、おなじ謀略をやれた。もし曹芳が押印すれば、司馬氏による殺戮がなかった。司馬師と司馬昭は皇太后の文書をもつが、道理はない。『晋書』景帝紀と文帝紀にこの逸話がないが、『世語』と『魏氏春秋』にある(あながちデタラメでもないはずだ)。陳寿は、根拠が足りないから『三国志』に載せなかったか。


甲戌、太后令曰「皇帝芳春秋已長、不親萬機、耽淫內寵、沈漫女德、日延倡優、縱其醜謔。迎六宮家人留止內房、毀人倫之敍、亂男女之節。恭孝日虧、悖慠滋甚、不可以承天緒、奉宗廟。使兼太尉高柔奉策、用一元大武告于宗廟、遣芳歸藩于齊、以避皇位。」

9月甲戌、太后が令した。「曹芳は年長になっても、万機を親政しない。女色にふける。司徒の高柔に太尉を兼ねさせ、宗廟に報告する。斉王に帰藩させる」と。

姚範はいう。陳寿は魏末のことを、みな引用や転載するのみ。亡国の蜀漢からきて、曹魏の歴史を自分で書くのを恥じたのだろう。何焯はいう。曹芳は、前漢の昌邑王のように女色に耽らない。皇太后の令も、司馬師が書かせたのだ。
梁商鉅はいう。曹芳が即位すると、建築をやめ、奴婢を良人とし、金銀をつぶした。2年で『論語』、5年で『尚書』、7年で『礼記』に通じた。孔子と顔淵を3たび祭った。皇太后の令はウソである。
趙翼はいう。『魏略』によると司馬師は、皇太后と意見が一致せず、郭芝が入宮して押し切った。陳寿『魏志』本紀は、太后の令を載せるが、ひどくウソである。
盧弼はいう。禅譲の詔や、勧進の章は、すべてウソである。ウソをウソと書いて、後世の読者に奸悪を示すのが、良い史書である。諸家は、陳寿が太后のウソの令を、本紀に載せたことを過失という。
ぼくは思う。盧弼には基本的には賛成ですが。これだけ諸家が「陳寿はウソだ」と騒げるのは、陳寿が曹芳の有能を列挙してきたおかげだ。この斉王紀は「曹芳は有能だ、曹芳は有能だ、曹芳は有能だ、曹芳は有能だ、曹芳は有能だ、曹芳は無能だから廃位せよ」という、明らかすぎる矛盾を記すことで、司馬師の奸悪をあばいている。読者に思考させる史書なのだ。ウソをウソと書いて、関係当局に、書物もろとも著者が粛正されるより、ずっと良い。
「曹芳は無能だ」という記事を、司馬氏のために省けない晋臣の陳寿は、全ての考証家が気づくほどに明確な矛盾を、わざと目立つようにハデに描き、却って廃位の不当さを示した。「曹芳は無能じゃないだろ」と言っている。ぼくが陳寿だったら、「陳寿は曲筆した」と咎める批評家の多さを知って、にんまりと笑うだろう。「そうそう。私はあなたたちに、そう批評してもらいたかったんだよ」と。
陳寿は紀伝体のかたちを借りながら、そのわりには『魏志』が軽いし、『蜀志』が重い。『呉志』は表現に特徴はすくないが、そもそも『呉志』という章立てがあるだけで、この構成が「曹魏は正統じゃないよ」と伝えている。かつて論じた。
もしも陳寿が、レヴィナスのように思想を語ったら
陳寿が優れるのは、こういう「書いてない」主張なんだなあ。もともと紀伝体は、その言葉づかいや章立てや形式によって、直接それと書くことなく、司馬遷や班固なりの歴史観を主張するものだった。陳寿がそれをアレンジして使ったのだ。


魏書曰。是日、景王承皇太后令、詔公卿中朝大臣會議、羣臣失色。景王流涕曰「皇太后令如是、諸君其若王室何!」咸曰「昔伊尹放太甲以寧殷、霍光廢昌邑以安漢、夫權定社稷以濟四海、二代行之于古、明公當之於今、今日之事、亦唯公命。」景王曰「諸君所以望師者重、師安所避之?」於是乃與羣臣共爲奏永寧宮曰

『魏書』は、この日に司馬師が皇太后から受けた令をのせる。司馬師が群臣に示した。司馬師は流涕して「皇太后の命令だもん」という。群臣は「もう司馬師が頼りだ」という。司馬師は群臣とともに、皇太后に上奏した。
上奏に参加したのは以下である。

「守尚書令太尉長社侯臣孚、大將軍武陽侯臣師、司徒萬歲亭侯臣柔、司空文陽亭侯臣沖、行征西安東將軍新城侯臣昭、光祿大夫關內侯臣邕、太常臣晏、衞尉昌邑侯臣偉、太僕臣嶷、廷尉定陵侯臣(繁)[毓]、大鴻臚臣芝、大司農臣祥、少府臣(褒)[袤]、永寧衞尉臣(禎)[楨]、永寧太僕臣(閎)[閣]、大長秋臣模、司隸校尉潁昌侯臣曾、河南尹蘭陵侯臣肅、城門校尉臣慮、中護軍永安亭侯臣望、武衞將軍安壽亭侯臣演、中堅將軍平原侯臣德、中壘將軍昌武亭侯臣廙、屯騎校尉關內侯臣陔、步兵校尉臨晉侯臣建、射聲校尉安陽鄉侯臣溫、越騎校尉睢陽侯臣初、長水校尉關內侯臣超、侍中臣小同、臣顗、臣酆、博平侯臣表、侍中中書監安陽亭侯臣誕、散騎常侍臣瓌、臣儀、關內侯臣芝、尚書僕射光祿大夫高樂亭侯臣毓、尚書關內侯臣觀、臣嘏、長合鄉侯臣亮、臣贊、臣騫、中書令臣康、御史中丞臣鈐、博士臣範、臣峻等稽首言。

守尚書令・太尉・長社侯の司馬孚。大將軍・武陽侯(正しくは舞陽侯)の司馬師。司徒・萬歲亭侯(正しくは郷侯)の高柔。司空・文陽亭侯・鄭沖。行征西安東將軍・新城侯(正しくは郷侯)の司馬昭。

東奔西走する司馬昭。曹芳を廃位するとき司馬昭の官位は、安東将軍、行征西将軍、新城郷侯。安東将軍をやりつつ、征西将軍を行する。こんな兼務もあるのね。斉王紀の嘉平5年の盧弼注で、征南将軍と豫州刺史と弘農太守を兼ねる南平公なる人物が出てくる。弘農は司隷に属するのに。いろんな兼務がある!

光祿大夫・關內侯の孫邕。太常の(任)晏。

孫邕は、管寧伝、鮑勛伝にでてくる。『論語集解』の序文にある。
銭大昕はいう。『晋書』任愷伝に、父の任昊が曹魏の太常とある。この人か。

衞尉・昌邑侯の満偉(満寵の子)。太僕の庾嶷。廷尉・定陵侯・鍾毓(鍾繇の子)。大鴻臚の魯芝。大司農の王祥。少府の鄭袤。永寧衞尉の何禎。。

つかれたので人物の特定作業の『三国志集解』をはぶきます。


臣等聞天子者、所以濟育羣生、永安萬國、三祖勳烈、光被六合。皇帝卽位、纂繼洪業、春秋已長、未親萬機、耽淫內寵、沈漫女色、廢捐講學、棄辱儒士、日延小優郭懷、袁信等於建始芙蓉殿前裸袒游戲、使與保林女尚等爲亂、親將後宮瞻觀。又於廣望觀上、使懷、信等於觀下作遼東妖婦、嬉褻過度、道路行人掩目、帝於觀上以爲讌笑。於陵雲臺曲中施帷、見九親婦女、帝臨宣曲觀、呼懷、信使入帷共飲酒。懷、信等更行酒、婦女皆醉、戲侮無別。使保林李華、劉勳等與懷、信等戲、清商令令狐景呵華、勳曰。『諸女、上左右人、各有官職、何以得爾?』華、勳數讒毀景。帝常喜以彈彈人、以此恚景、彈景不避首目。景語帝曰。『先帝持門戶急、今陛下日將妃后游戲無度、至乃共觀倡優、裸袒爲亂、不可令皇太后聞。景不愛死、爲陛下計耳。』帝言。『我作天子、不得自在邪?太后何與我事!』使人燒鐵灼景、身體皆爛。甄后崩後、帝欲立王貴人爲皇后。太后更欲外求、帝恚語景等。『魏家前後立皇后、皆從所愛耳、太后必違我意、知我當往不也?』後卒待張皇后疏薄。太后遭(合)[郃]陽君喪、帝日在後園、倡優音樂自若、不數往定省。清商丞龐熙諫帝。『皇太后至孝、今遭重憂、水漿不入口、陛下當數往寬慰、不可但在此作樂。』帝言。『我自爾、誰能奈我何?』皇太后還北宮、殺張美人及禺婉、帝恚望、語景等。『太后橫殺我所寵愛、此無復母子恩。』數往至故處啼哭、私使暴室厚殯棺、不令太后知也。每見九親婦女有美色、或留以付清商。帝至後園竹間戲、或與從官攜手共行。熙白。『從官不宜與至尊相提挈。』帝怒、復以彈彈熙。日游後園、每有外文書入、帝不省、左右曰『出』、帝亦不索視。太后令帝常在式乾殿上講學、不欲、使行來、帝徑去。太后來問、輒詐令黃門答言『在』耳。景、熙等畏恐、不敢復止、更共諂媚。帝肆行昏淫、敗人倫之敍、亂男女之節、恭孝彌頹、凶德寖盛。臣等憂懼傾覆天下、危墜社稷、雖殺身斃命不足以塞責。今帝不可以承天緒、臣請依漢霍光故事、收帝璽綬。帝本以齊王踐祚、宜歸藩于齊。使司徒臣柔持節、與有司以太牢告祀宗廟。臣謹昧死以聞。」奏可。

曹芳はあまりに天子の資格がない。霍光の故事にもとづき、斉国に帰藩させなさい。司徒の高柔に持節させ、宗廟に大牢を祭らせなさいと。太后は許可した。

ぼくは思う。陳寿がはぶいた原文がこれか。陳寿は、ほんとうにザックリと省いた。もし陳寿が、この上奏に共感するのであれば、もう少し省かずに載せただろう。もう日常的なグチのレベルだ。
まるで会社の社長を引きずり降ろすとき、オフの時間の迷惑を数え上げるようなものだ。平日の勤務時間中はカンペキに仕事をこなし、業績もあがっている。しかし帰宅後にちょっと緩む。その緩んだシーンを細かく描写すれば、こうなるさ。オフとオンを恣意的に混同して、オフの態度でオンの立場を弾劾するようなものだ。


是日遷居別宮、年二十三。使者持節送衞、營齊王宮於河內重門、制度皆如藩國之禮。

同日(9月甲戌)に、曹芳を別宮にうつす。23歳。使者が持節して、曹芳のために、斉王の宮を藩国の礼でつくる。

ぼくは思う。曹氏と司馬氏の呼称。『魏志』三少帝紀では引用史料ごとに呼称が異なり混乱する。曹氏が天子で司馬氏が帝。曹氏が天子で司馬氏が王。曹氏が帝で司馬氏が王。曹氏が王や侯にもおちることも。未見なのは、司馬氏を天子と呼ぶパタンだけか。天子って、帝・王・侯みたいに修飾語つきで個人を指せないから?


魏略曰。景王將廢帝、遣郭芝入白太后、太后與帝對坐。芝謂帝曰「大將軍欲廢陛下、立彭城王據。」帝乃起去。太后不悅。芝曰「太后有子不能教、今大將軍意已成、又勒兵于外以備非常、但當順旨、將復何言!」太后曰「我欲見大將軍、口有所說。」芝曰「何可見邪?但當速取璽綬。」太后意折、乃遣傍侍御取璽綬著坐側。芝出報景王、景王甚歡。又遣使者授齊王印綬、當出就西宮。帝受命、遂載王車、與太后別、垂涕、始從太極殿南出、羣臣送者數十人、太尉司馬孚悲不自勝、餘多流涕。
王出後、景王又使使者請璽綬。太后曰「彭城王、我之季叔也、今來立、我當何之!且明皇帝當絕嗣乎?吾以爲高貴鄉公者、文皇帝之長孫、明皇帝之弟子、於禮、小宗有後大宗之義、其詳議之。」景王乃更召羣臣、以皇太后令示之、乃定迎高貴鄉公。是時太常已發二日、待璽綬於溫。事定、又請璽綬。太后令曰「我見高貴鄉公、小時識之、明日我自欲以璽綬手授之。」

『魏略』はいう。郭芝が太后のところにゆく。太后と曹芳が向き合って座る。郭芝が曹芳に「司馬師は曹芳を廃して、彭城王の曹拠(曹丕の子)を立てる」と。曹芳は立ち去った。太后は郭芝に「司馬師に会わせろ」という。郭芝が断った。太后は曹芳に、皇帝の璽綬を返上させる。司馬師は曹芳に、斉王の印綬を与える。曹芳は司馬孚に見送られた。
太后は「曹拠は私より1世代上だ。私より1世代下の曹髦(曹叡の弟の子)がよい」と。太常は洛陽を出て、河内の温県で2日まつ。皇帝の璽綬が温県にとどいた。太后はいう。「明日、私から曹髦に璽綬を手渡したい」と。

ぼくは思う。この廃立は、もっぱら司馬氏のために行われた。だから太常は、司馬氏の故郷である温県にいたのだ。2日は長かっただろうが、温県が「もっとも安全」だった。司馬氏のためというのが、ロコツ過ぎないか。
曹髦の人選は、皇太后が司馬師を押し切ったかたち。


丁丑、令曰「東海王霖、高祖文皇帝之子。霖之諸子與國至親、高貴鄉公髦有大成之量、其以爲明皇帝嗣。」

9月丁丑、太后は令した。「東海王の曹霖は、曹丕の子である。曹霖の子・高貴郷公の曹髦は、大成之量がある。明皇帝を嗣がせよう」と。

ぼくは思う。けっきょく曹芳は、子のない曹叡が、個人的に可愛がっただけの子だった。可愛がられただけあって、才能にあふれ、良政をした。だが司馬師に勝てなかった。いま、明帝の1世代下で、血筋があきらかな皇族を連れてきて、仕切り直す。胡三省に先に言われてしまったが、まさかの曹髦が、曹魏をダメにするなんて。


魏書曰。景王復與羣臣共奏永寧宮曰「臣等聞人道親親故尊祖、尊祖故敬宗。禮、大宗無嗣、則擇支子之賢者。爲人後者、爲之子也。東海定王子高貴鄉公、文皇帝之孫、宜承正統、以嗣烈祖明皇帝後。率土有賴、萬邦幸甚、臣請徵公詣洛陽宮。」奏可。使中護軍望、兼太常河南尹肅持節、與少府(褒)[袤]、尚書亮、侍中表等奉法駕、迎公于元城。
魏世譜曰。晉受禪、封齊王爲邵陵縣公。年四十三、泰始十年薨、諡曰厲公。

魏書はいう。司馬師は群臣とともに、太后に上奏した。「曹髦は血筋も正しく、明皇帝を嗣ぐのに適任だ。曹髦を洛陽によぼう」と。

『晋書』景帝紀では、群臣が曹拠を立てたがるので、皇太后と議論が平行した。しかたなく、太后の意志に従った。この上奏では、曹髦を歓迎しているが、司馬師の意志とは異なる。

中護軍の司馬望、太常を兼ねる河南尹の王肅に持節させ、少府の鄭袤、尚書の袁亮、侍中の華表らとともに、曹髦を元城にむかえる。

ぼくは思う。司馬望と王粛という、司馬師の身内で固めるのだ。
元城の場所と、曹髦の経路が、上海古籍500頁で検討される。

『魏世譜』はいう。魏晋革命のとき、斉王の曹芳は、邵陵縣公となる。

召陵は、文帝紀の黄初6年にある。曹真を邵陵侯に封じて、曹爽が嗣ぐ。曹爽が武安侯に改封された。

43歳のとき、泰始10年に薨じた。厲公と諡された。

胡三省はいう。司馬氏に廃されたので、悪い諡号をつけられた。陳寿は三少帝紀に、天子になるまえの爵位を書く。『通鑑』では天子を廃されたあとの爵位をかく。ただ高貴郷侯だけは殺されたので、天子になる前の爵位をかく。
趙一清はいう。『刀剣録』はいう。曹芳は正始6年に、1ふりの刀を鋳した。つねに帯刀したが、のちに理由なく紛失した。じつはハコのなかにあった。のちに司馬氏に廃される前兆である。
『晋書』隠逸伝はいう。陳留の范粲は、漢代の范丹の孫。太宰中郎となる。曹芳が廃されると、金墉城にゆく。范粲は素服(喪服)で送る。ときに司馬師が輔政するが、范粲は朝廷にゆかない。乗車したまま、地面に足をつけず、太康6年に卒した。84歳で、36年間ものを言わなかった。
盧弼はいう。曹芳が廃され、金墉城に移されたという記述がない。范粲伝で補われる。『呉志』孫奐伝で、孫壱が曹魏に降伏すると、曹芳の貴人だった邢氏を孫壱が妻とした。邢氏は嫉妬ぶかい。失敗をして、孫壱と邢氏は殺された。曹芳はまだ存命だったが、邢氏を助けることもできなかった。

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曹髦の正元年間;司馬師から司馬昭へ

正元元年、曹髦が即位、司馬師が憂う

高貴鄉公、諱髦字彥士。文帝孫、東海定王霖子也。正始五年、封郯縣高貴鄉公。少好學夙成。齊王廢、公卿議迎立公。十月己丑、公至于玄武館、羣臣奏請舍前殿、公以先帝舊處、避止西廂。羣臣又請以法駕迎、公不聽。庚寅公入于洛陽、羣臣迎拜西掖門南、公下輿將答拜、儐者請曰「儀不拜」公曰「吾人臣也」遂答拜。至止車門下輿。左右曰「舊乘輿入」公曰「吾被皇太后徵、未知所爲!」遂步至太極東堂、見于太后。其日卽皇帝位於太極前殿、百僚陪位者欣欣焉。

曹髦はあざなを彦士という。曹丕の孫、曹霖の子。正始5年、郯県の高貴郷公に封じられる。

郯県は武帝紀の初平4年にある。

曹芳が廃されると、10月己丑、玄武館にいたる。

胡三省はいう。玄武館は、北ボウ山の尾にある。洛陽城の北。辛毗伝にあり。

群臣が玄武館の前殿に来いというが、曹芳の旧処なので、曹髦は前殿でなく西廂に止まる。群臣が法駕で迎えたいというが、曹髦はゆるさず。10月庚寅、洛陽に入る。群臣が、西掖門の南で迎える。曹髦は輿をおりて答拜した。「私は人臣だから」と。左右が「輿にのれ」というが、曹髦は徒歩で太極東堂にゆき、皇太后にあう。百僚はよろこんだ。

胡三省はいう。曹髦は、ちょっと賢いから作法を知っている。魯の昭公に似ている。外部から迎えられて即位したのは、前漢の文帝である。文帝は、功績のある権臣を退けた。周勃、陳平、朱虚、東牟らである。曹髦は権臣に殺される。ああ残念。
盧弼はいう。前漢の文帝は23歳で即位して、司馬氏のような者がいない。曹髦は14歳で即位して、司馬氏がいる。前漢の文帝に、曹髦を比べるのはムリがある。前漢の宣帝は、18歳で民間から即位した。霍光の没後に、宣帝は霍氏から権限を取り戻した。曹髦の場合、司馬師のつぎに司馬昭がつづいたので、司馬氏から権限を取り戻せなかった。
ぼくは思う。前漢の文帝や宣帝と比較して見るべきなのね。


魏氏春秋曰。公神明爽儁、德音宣朗。罷朝、景王私曰「上何如主也?」鍾會對曰「才同陳思、武類太祖。」景王曰「若如卿言、社稷之福也。」

『魏氏春秋』はいう。司馬師は鍾会に「曹髦はいかなる君主か」ときく。鍾会は「才能は曹植、武勇は曹操」という。司馬師は「もしそうなら、社稷之福だ」といった。

或る者はいう。司馬師の問いは、(実際に曹髦を刺す)成済の剣より鋭い。盧弼はいう。曹叡が即位したとき、群臣は劉曄に「曹叡はいかなる君主か」と確認した。司馬師の質問は、司馬師の罪とまでは言えない。
姚範はいう。鍾会がほめるから、司馬氏に警戒されて、曹髦は死ぬことになる。鍾会が曹髦を殺したようなものだ。
『晋書』景帝紀はいう。司馬師は曹髦の態度がリッパなので、憂えた。李慈銘はいう。司馬師は曹拠を立てたかったのに。陳寿は曹髦の有能さを削らずに書いた。裴松之の注釈に『晋書』からの引用がない。『魏志』曹拠伝に、司馬師が曹拠を迎えたがったという記述もない。(裴松之は南朝宋の人で司馬氏への配慮が必要ないから)曹髦が学問を好む名君だが、司馬昭に殺されたことを惜しんだのだろう。


詔曰「昔三祖神武聖德、應天受祚。齊王嗣位、肆行非度、顛覆厥德。皇太后深惟社稷之重、延納宰輔之謀、用替厥位、集大命于余一人。以眇眇之身、託于王公之上、夙夜祗畏、懼不能嗣守祖宗之大訓、恢中興之弘業、戰戰兢兢、如臨于谷。今羣公卿士股肱之輔、四方征鎭宣力之佐、皆積德累功、忠勤帝室。庶憑先祖先父有德之臣左右小子、用保乂皇家、俾朕蒙闇、垂拱而治。蓋聞、人君之道、德厚侔天地、潤澤施四海、先之以慈愛、示之以好惡、然後教化行於上、兆民聽於下。朕雖不德昧於大道、思與宇內共臻茲路。書不云乎『安民則惠、黎民懷之』」
大赦改元。減乘輿服御後宮用度、及罷尚方御府百工技巧靡麗無益之物。

曹髦は詔した。「曹芳が天命を覆した。四鎮将軍、四征将軍ががんばる。私もがんばる」と。大赦して正元と改元する。乘輿、服御、後宮の用度をけずり、尚方と御府にいる百工や技巧に、無益なものの製造をやめさせた。

『漢書』百官公卿表はいう。尚方と御府は、どちらも少傅に属する。はぶく。
ぼくは思う。司馬師は、ポトラッチ的に緊張がたかまった曹芳を廃した。べつに曹芳が手ごわくない。つぎに招く予定の曹拠が、特別に操りやすいのでもない。ただ、李豊や張緝を殺したせいで、曹芳とのあいだの緊張が(もしかしたら司馬師の想定よりも)高まり、サドンデスになったので、司馬師は身に危険を感じたのだろう。だから、曹髦が有能なのは残念だったが、とりあえず曹芳との緊張をリセットできたので、成功ではある。
まあね、曹髦がバカなら、ベストだったと思うけれど。まだ司馬師の時点では、禅譲までの道筋が見えない。
司馬懿が九錫などを断ったが、あれも曹芳からのポトラッチ的な先制攻撃である。曹操のときのように「だれが見ても、司馬懿に九錫を与えるしかない」という状況ではなかった。その意味では、曹爽、夏侯玄、何晏などの皇族たちと、司馬氏の対立は、単なる臣下の対立でなかった。曹芳は皇帝という資格を兼ねつつ、皇族の一員として、司馬氏と対決したんだと思う。このときの司馬氏側のリーダーは、老年の司馬懿でなく、司馬師だっただろう。
話は転がるけど。晋室の公式見解、晋室による歴史編纂において、もっとも「冒険的な跳躍」をしたのは、ただの魏臣である司馬懿を、晋室の始祖にしたことだろう。司馬懿のときは、ほんとに魏臣だった。有能な方面司令官であった。初めて司馬師のとき、皇族の権力が、曹爽のまわりに凝縮し始めた。本来は、皇帝権力は「空虚な中心」であるぐらいが適切である。だが曹爽が凝縮を、ちょっと急ぎすぎ曹芳を抱きこむ動作を見せたために、司馬師が過剰防衛して、曹爽を殺した。これ以降、曹芳と司馬師という対立が明確になってしまった。司馬師にしてみれば、曹芳をリセットして、曹爽のときに発生した対立の図式を除ければ、まずは安心のはずだ。
(というわけで司馬懿は、やはり前時代の忠臣で終わった人だ)
新たな気持ちで、曹髦の本紀を読もう。


正元元年冬十月壬辰、遣侍中持節分適四方、觀風俗、勞士民、察寃枉失職者。癸巳假大將軍司馬景王、黃鉞、入朝不趨、奏事不名、劍履上殿。戊戌黃龍見于鄴井中。甲辰、命有司論廢立定策之功、封爵增邑進位班賜各有差。

正元元年の冬10月壬辰、侍中に持節させて、四方を巡らせる。10月癸巳、大將軍の司馬師に黃鉞を仮し、入朝不趨、奏事不名、劍履上殿をゆるす。

潘眉は黄鉞を注する。どこかでやったような。上海古籍504頁。
『晋書』景帝紀はいう。司馬師は相国となり、大都督に進号し、黄鉞を仮された。
ぼくは思う。司馬師は、曹髦の定策に、それほど功績がない。かってに曹芳を廃した。曹髦でなく、曹拠を招こうとした。その司馬師に特権をあたえたのだから、曹髦によるポトラッチ的な先制攻撃だと思う。まだ即位の直後であり、司馬師はなにも動いてない。しかし曹髦は、四方に使者を出したし、司馬師に特権を与えた。
うーん、司馬氏が負けるような結末しか見えないんだけど。ゴテゴテに官爵をデコられて、身体が重くなって倒れるような。
あ!そうか。司馬氏は、ふつうなら贈物を受納しすぎて倒れるのだが、蜀漢を倒すという功績によって、突破するのか。もし天下が統一されていたら、司馬氏にような権臣は滅びるしかなかった。だが権臣が国外で功績をつくるチャンスをもつから、ポトラッチ的な後手攻撃が臣下によって可能になる。そして魏晋革命になる。魏晋革命のような、内輪でじんわり進む革命は、三国のような外部の強敵がいないと成立しにくい。あー、話が通りました。満足した。カルーア飲もうかな。

10月戊戌、黄龍が鄴県の井中にいる。10月甲辰、有司に廃立と定策の功績を議論させた。爵を封じ、邑を増やし、位を進め、賜をくばる。

ぼくは思う。すごい!曹髦は、定策の功績を論じる前に、さっさと司馬師に特権を与えてしまった。曹髦は、マジで司馬師をつぶすつもりだ。
ぼくは思う。「官打ち」という概念を小学生のとき知ったが、理解できなかった。「官職が分不相応に高くなり、不幸になること」らしい。高貴郷侯紀を見てると、曹髦が司馬師に「官打ち」を仕掛けたとわかる。曹髦の即位に反対した司馬師に、いちはやく入朝不趨等の特権を与える。即位を助けた他の功臣よりも先に賞する。司馬師は数ヶ月後に死んだ。べつに曹髦のせいで眼球が飛び出したのではないが、曹髦のせいで眼球が飛び出したに等しい。と思う。


正元2年、毋丘倹と司馬師が死ぬ

二年春正月乙丑、鎭東將軍毌丘儉揚州刺史文欽反。戊戌、大將軍司馬景王征之。癸未、車騎將軍郭淮薨。閏月己亥破欽于樂嘉、欽遁走遂奔吳。甲辰、安風淮津都尉斬儉、傳首京都。

正元2年春正月乙丑、鎭東將軍の毌丘儉と、揚州刺史の文欽が反した。正月戊戌、大將軍の司馬師が出征した。

毋丘倹伝にくわしい。『通鑑』では戊午に出征する。何焯はいう。乙丑は、癸未のなかにあるから、戊午だとおかしい。戊辰の誤りである。潘眉はいう。『晋書』景帝紀では戊午とするが、これも誤りである。なんだか日付で異論がおおく、「日付の順序がおかしい」「司馬師の行軍の日数が短い。神速かよ」「いや急いだと書いてあるじゃん。早くて良いのだ」など。盧弼が仲裁というか、まとめをしてくれない。上海古籍505頁。

正月癸未、車騎將軍の郭淮が薨じた。閏月己亥、文欽を樂嘉でやぶる、文欽は孫呉ににげた。

楽嘉について、胡三省や趙一清が注釈する。『寰宇記』はいう。博陽城は、宛丘県の西南40里である。正元のとき、兗州刺史の鄧艾が、毋丘倹を項城でうって、楽嘉にすすむ。楽嘉はここである。

閏月甲辰、安風(淮)津の都尉が毋丘倹を斬って、首級を京都におくる。

安風津は、斉王紀の嘉平5年に注釈あり。趙一清はいう。「淮」の字は要らない。安風津は、毋丘倹伝にある。潘眉はいう。毋丘倹伝、諸葛誕伝にも「淮」がない。淮南にある津だから、紛れこんだか。


世語曰。大將軍奉天子征儉、至項。儉既破、天子先還。
臣松之檢諸書都無此事、至諸葛誕反、司馬文王始挾太后及帝與俱行耳。故發詔引漢二祖及明帝親征以爲前比、知明帝已後始有此行也。案張璠、虞溥、郭頒皆晉之令史、璠、頒出爲官長、溥、鄱陽內史。璠撰後漢紀、雖似未成、辭藻可觀。溥著江表傳、亦粗有條貫。惟頒撰魏晉世語、蹇乏全無宮商、最爲鄙劣、以時有異事、故頗行於世。干寶、孫盛等多采其言以爲晉書、其中虛錯如此者、往往而有之。

『世語』はいう。司馬師は曹髦を項県(汝南郡、のち汝陰郡)につれだす。毋丘倹が敗れたので、曹髦はさきに還る。
裴松之はいう。諸葛誕が反したとき、司馬昭に連れられた。だがこのとき、曹髦は出てこない。誤りである。

裴松之が晋代の史官を、寸評してる。おもしろいが、本題じゃない。


壬子、復特赦淮南士民諸爲儉欽所詿誤者。以鎭南將軍諸葛誕爲鎭東大將軍。司馬景王薨于許昌。二月丁巳、以衞將軍司馬文王爲大將軍錄尚書事。

閏月壬子、淮南の士民で、毋丘倹や文欽に巻きこまれた者を特赦した。鎭南將軍の諸葛誕を、鎭東大將軍とした。司馬師が許昌で薨じた。

『晋書』景帝紀は、死を載せる。沈家本はいう。『晋書』では辛亥に許昌で死んだとするが、これより前に壬子と書いてあるので、順序がおかしい。

2月丁巳、衞將軍の司馬昭が大將軍となり、錄尚書事する。

『晋書』文帝紀にある。『三国志』に情報がないから、引用が長い。
盧弼はいう。『晋書』によると、朝廷は司馬昭に許昌を鎮させ、傅嘏が6軍をひきい洛陽に還れという。司馬昭は詔をやぶり、みずから洛陽に還った。大将軍にすすみ、侍中をくわえ、都督中外諸軍事、録尚書事、輔政。これは司馬昭が、兵で曹髦を脅したのだ。 傅嘏伝、鍾会伝から明らかである。
ぼくは思う。けっきょく司馬師の死後、司馬昭が武力に訴えて洛陽を脅さなければ、権限を伝えることができなかった。「司馬師の功績が大きいから、ぜひ司馬昭が嗣いでくれ」という歓迎ではなく、毋丘倹を討つための軍事力で、洛陽を脅して、司馬師の権限を継いだ。そりゃあね、司馬炎が、司馬師の系統である司馬攸に、権限を返却する筋合いはない。状況に合わせて判断するのみだ。適任者がやると。
曹魏の忠臣であった司馬懿。司馬懿のあとを、曲げて嗣ぎ、曹爽との政争を始めてしまった司馬師。曹爽にケンカを売ったのは司馬師であり、ケンカの末、いとどは曹爽を負かしたものの、皇太后と曹髦に負けたんだな、司馬師は。司馬師はけっきょく、曹髦に「官打ち」をやられて、病死した。司馬昭は、このかなりビハインドから(司馬師がザツだから)、始めねばならない。
司馬昭は司馬師から、稀有な特権を嗣いだように見えるけど。稀有な特権があるということは、小さな失敗でも失脚して、族滅されるということだ。司馬師の遺産は、けっしてプラスでない。乱高下する株券の山みたいなものだ。取得原価は、司馬懿がコツコツと稼いでくれた。だが司馬師が、元金が保障されないバクチに手を出して、財産のポートフォリオを荒らしてしまった。
毋丘倹に対して「あと数日待てば、司馬師が死ぬのに」とささやいた人物がいた。これは決して誇張じゃない。司馬氏の権力は、危うい緊張状態のなか、辛うじて高めで推移しているだけなんだ。ちょっとタイミングが狂うと、司馬氏は倒れる。その意味で毋丘倹は、ほんとに運がなかった。こればかりは、言っても仕方ない。


甲子、吳大將孫峻等衆號十萬至壽春、諸葛誕拒擊破之、斬吳左將軍留贊、獻捷于京都。三月立皇后卞氏、大赦。夏四月甲寅、封后父卞隆爲列侯。甲戌、以征南大將軍王昶爲驃騎將軍。秋七月、以征東大將軍胡遵爲衞將軍、鎭東大將軍諸葛誕爲征東大將軍。

2月甲子、孫呉の孫峻らが、10万と号して寿春にいたる。諸葛誕がふせぎ、孫呉の左將軍の留贊を斬る。

留賛は『呉志』孫峻伝注、注引『呉書』では左護軍とされる。

3月、

『宋書』礼志1はいう。正元2年3月ついたち、太史は「日食あり」と奏したが、日食がおきず。大将軍の司馬昭が史官に説明をもとめた。陰が陽をおかすと日食が起きるものだが、暦法だけで完全に日食を予測できないと。ぼくは思う。「司馬昭が曹髦をおかすから、日食が起きるかと思っちゃった」ということか。

皇后に卞氏をたて、大赦する。夏4月甲寅、皇后の父の卞隆を列侯とする。

卞皇后は、曹操の妻の卞氏の弟・卞秉の曽孫である。
卞皇后伝では、卞隆の爵位を睢陽郷侯とする。

4月甲戌、征南大將軍の王昶を驃騎將軍とする。 秋7月、征東大將軍の胡遵を衞將軍とする。鎭東大將軍の諸葛誕を征東大將軍とする。

八月辛亥、蜀大將軍姜維寇狄道、雍州刺史王經與戰洮西、經大敗、還保狄道城。辛未、以長水校尉鄧艾行安西將軍、與征西將軍陳泰、幷力拒維。戊辰、復遣太尉司馬孚爲後繼。九月庚子、講尚書業終、賜執經親授者司空鄭沖侍中鄭小同等、各有差。甲辰、姜維退還。冬十月詔曰「朕以寡德、不能式遏寇虐、乃令蜀賊陸梁邊陲。洮西之戰至取負敗、將士死亡計以千數。或沒命戰場寃魂不反、或牽掣虜手流離異域。吾深痛愍爲之悼心。其令所在郡、典農及安撫夷二護軍各部大吏慰卹其門戶。無差賦役一年。其力戰死事者皆如舊科、勿有所漏。」

8月辛亥、姜維が狄道を寇する。雍州刺史の王経が洮西で、姜維に大敗した。

『郡国志』に雍州はない。曹操が建安18年、涼州をはぶき、雍州に編入した。魏初、張既が雍州刺史となる。このとき涼州刺史はいない。雍州は京兆ら10郡をすべる。呉増僅『建安以来雍涼二州分合考』にある。へえ!
王権のことは、夏侯玄伝、陳泰伝にある。洮西とは洮水の西。

王経がもどって狄道城を保つ。8月辛未、長水校尉の鄧艾を行安西將軍とし、征西將軍の陳泰とともに姜維をふせぐ。

長水校尉は文帝紀の黄初元年。趙一清はいう。『宋書』百官志で魚豢はいう。四安将軍は、黄初と太和におかれた。一清は考える。漢末に陶謙が安東将軍となり、段猥が安西将軍となる。曹魏が置いたのではない。安南と安北は魏代からである。

8月戊辰、太尉の司馬孚が、鄧艾と陳泰につづく。

陳景雲はいう。戊辰だと、日付が逆転する。

9月庚子、『尚書』の講義がおわる。教授してくれた、司空の鄭沖、侍中の鄭小同らに賜る。9月甲辰、姜維が退還した。
冬10月、曹髦が詔した。「姜維に敗れ、将士で死亡した者は、千を数えた。各郡の典農と、安夷護軍と撫夷護軍の2護軍は、おのおの賑恤せよ。1年を免税とする」と。

『魏志』陳留王紀はいう。咸煕元年、屯田の官をやめた。典農を太守として、都尉を令長としたと。典農の諸官を、郡や県に展示させた。
洪飴孫はいう。『元和郡県志』がひく『魏略』によると、安夷護軍は定員1名、5品。治所は美陽で、降った氐族を典する。撫夷護軍も定員1名、5品。治所は雲陽で、降った氐族を典する。


十一月甲午、以隴右四郡及金城、連年受敵。或亡叛投賊、其親戚留在本土者不安、皆特赦之。癸丑詔曰「往者洮西之戰、將吏士民或臨陳戰亡、或沈溺洮水、骸骨不收棄於原野、吾常痛之。其告征西安西將軍各令部人、於戰處及水次鉤求屍喪收斂藏埋、以慰存亡。」

11月甲午、隴右4郡(隴西、南安、天水、広魏)と金城は、連年にわたり姜維に攻撃される。蜀漢に捕らわれた者は、親戚が曹魏にいる。捕らわれた者を特赦した。

ぼくは思う。特赦がなければ、蜀漢に捕らわれた者は「謀反」に扱われる?

癸丑に詔した。「洮西の戦いで、将吏や士民が殺され、死骸が原野に晒される。征西将軍と安西将軍は、死骸を収容せよ」と。

ぼくは思う。姜維ファンは残念がるが、ちゃんと曹魏もダメージを受けている。あながち無力だとは限らない。というか、ぼくは姜維を「過小評価」しているので、姜維の記事が本紀に出てくると、それだけで驚きだ。

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曹髦の甘露年間;司馬昭に九錫を勧める

甘露元年、

甘露元年春正月辛丑、青龍見軹縣井中。乙巳、沛王林薨。

甘露元年の春正月辛丑、青龍が軹縣(河内)の井中にあらわる。正月乙巳、沛王の曹林が薨じた。

魏氏春秋曰。二月丙辰、帝宴羣臣於太極東堂、與侍中荀顗、尚書崔贊、袁亮、鍾毓、給事中中書令虞松等並講述禮典、遂言帝王優劣之差。帝慕夏少康、因問顗等曰「有夏既衰、后相殆滅、少康收集夏衆、復禹之績、高祖拔起隴畝、驅帥豪儁、芟夷秦、項、包擥寓內、斯二主可謂殊才異略、命世大賢者也。考其功德、誰宜爲先?」顗等對曰「夫天下重器、王者天授、聖德應期、然後能受命創業。至於階緣前緒、興復舊績、造之與因、難易不同。少康功德雖美、猶爲中興之君、與世祖同流可也。至如高祖、臣等以爲優。」

『魏氏春秋』はいう。2月丙辰、曹髦は群臣を太極東堂にあつめた。侍中の荀顗、尚書の崔贊と袁亮と鍾毓、給事中・中書令の虞松らと礼典の議論をする。

崔贊は、夏侯玄伝にある。虞松は斉王紀の嘉平5年の注にある。

曹髦は、帝王の優劣を論じた。曹髦は、夏少康が好きである。「夏室が衰微したとき、少康が権臣を倒して、夏室を復興した。夏少康と、前漢の高帝はどちらが優れるか」と。

盧弼は『左伝』をならべる。上海古籍511頁。
銭大昕はいう。曹髦が少康を論じるのは、司馬氏を意識するからだ。あとから司馬氏に殺されるが。曹髦のような状況で、王朝を復興したのは、後周の武帝であろうか。ぼくは思う。宇文邕?

荀顗はいう。「中興した夏少康は、せいぜい後漢の光武と同じである。創業した、漢高帝のほうが優れる」と。曹髦が反論した。「高帝は武力があるが、中興には徳義がいるんだ」と。引用もはぶく。

翌日丁巳、講業既畢、顗、亮等議曰「三代建國、列土而治、當其衰弊、無土崩之勢、可懷以德、難屈以力。逮至戰國、強弱相兼、去道德而任智力。故秦之弊可以力爭。少康布德、仁者之英也。高祖任力、智者之儁也。仁智不同、二帝殊矣。詩、書述殷中宗、高宗、皆列大雅、少康功美過于二宗、其爲大雅明矣。少康爲優、宜如詔旨。」
贊、毓、松等議曰「少康雖積德累仁、然上承大禹遺澤餘慶、內有虞、仍之援、外有靡、艾之助、寒浞讒慝、不德于民、澆、豷無親、外內棄之、以此有國、蓋有所因。至於漢祖、起自布衣、率烏合之士、以成帝者之業。論德則少康優、課功則高祖多、語資則少康易、校時則高祖難。」

翌日の2月丁巳、荀顗と袁亮らはいう。「創業は力任せだが、中興は仁智がいる。漢高帝より、夏少康のほうが優れている」と。

ぼくは思う。荀顗は、さっきと意見が変わってますけど。自分の意見は「創業した高帝がすごい」だが、曹髦が反対するので、「やっぱり少康ですよねー」と立場を変えた。セコい。はじめに高帝を持ち上げたのは、荀顗だろう。

崔贊と鍾毓と虞松らはいう。「夏少康は、運が良かっただけ。漢高帝は、布衣から成り上がった。漢高帝のほうが優れている」と。

ぼくは思う。やめておけば良いのに。せっかく荀顗がおもねり、袁亮が曹髦を持ち上げたのだから、議論を終わりにしようよ。


帝曰「諸卿論少康因資、高祖創造、誠有之矣、然未知三代之世、任德濟勳如彼之難、秦、項之際、任力成功如此之易。且太上立德、其次立功、漢祖功高、未若少康盛德之茂也。且夫仁者必有勇、誅暴必用武、少康武烈之威、豈必降于高祖哉?但夏書淪亡、舊文殘缺、故勳美闕而罔載、唯有伍員粗述大略、其言復禹之績、不失舊物、祖述聖業、舊章不愆、自非大雅兼才、孰能與於此、向令墳、典具存、行事詳備、亦豈有異同之論哉?」於是羣臣咸悅服。
中書令松進曰「少康之事、去世久遠、其文昧如、是以自古及今、議論之士莫有言者、德美隱而不宣。陛下既垂心遠鑒、考詳古昔、又發德音、贊明少康之美、使顯於千載之上、宜錄以成篇、永垂于後。」帝曰「吾學不博、所聞淺狹、懼於所論、未獲其宜。縱有可采、億則屢中、又不足貴、無乃致笑後賢、彰吾闇昧乎!」於是侍郎鍾會退論次焉。

曹髦はいう。「たしかに夏少康は、漢高帝よりは恵まれた環境から、スタートした。しかし『夏書』が書きもらした、夏少康の活躍があるはずである。漢高帝よりも、がんばったに違いない」と。群臣は曹髦に賛成した。
中書令の虞松はいう。「夏少康の記録は失われてしまった。夏少康のすばらしさを、曹髦が明らかにしなさい」と。侍郎の鍾会が退いて、曹髦の議論を編集した。

ぼくは思う。曹髦は夏少康を「この人物は絶対にすごい。仁智と徳義があり、王朝を復興した。時代が古すぎて記録が少なく、皆から過小評価されている。前漢の劉邦よりも優れた君主だったはずだ」と。ぼくは「オマエモダヨ」と言いたい。というわけで、曹髦に興味をもったぼくらは、虞松と鍾会がやったように、曹髦がすばらしいという議論を、編集したら良いんじゃないかな。


夏四月庚戌、賜大將軍司馬文王兗冕之服、赤舄副焉。

夏4月庚戌、大將軍の司馬昭に、兗冕之服を賜り、赤舄を副えた。

胡三省はいう。九錫を分割して与えている。
ぼくは思う。司馬昭は、先制ポトラッチ攻撃で、司馬昭を尊んでしまうから、緊張が高まって、司馬昭に殺されるハメになった。先手をとって、九錫の一部を与えてしまうのは、とても有効なのだが。そのぶん、司馬昭が追いこまれて、ムチャな反撃をしてくることを想定しなければならなかった。


丙辰、帝幸太學問諸儒曰「聖人、幽贊神明仰觀俯察、始作八卦。後聖、重之爲六十四、立爻以極數。凡斯大義罔有不備、而夏有連山、殷有歸藏、周曰周易。易之書、其故何也?」易博士淳于俊對曰「包羲因燧皇之圖而制八卦、神農演之爲六十四。黃帝堯舜通其變、三代隨時、質文各繇其事。故易者、變易也。名曰連山、似山出內氣、連天地也。歸藏者、萬事莫不歸藏于其中也。」帝又曰「若使包羲因燧皇而作易、孔子何以不云燧人氏沒包羲氏作乎?」俊不能答。帝又問曰「孔子作彖象、鄭玄作注。雖聖賢不同、其所釋經義一也。今彖象不與經文相連、而注連之、何也?」俊對曰「鄭玄合彖象于經者、欲使學者尋省易了也。」帝曰「若鄭玄合之於學誠便、則孔子曷爲不合以了學者乎?」俊對曰「孔子恐其與文王相亂、是以不合、此聖人以不合爲謙。」帝曰「若聖人以不合爲謙、則鄭玄何獨不謙邪?」俊對曰「古義弘深、聖問奧遠、非臣所能詳盡。」帝又問曰「繫辭云『黃帝堯舜垂衣裳而天下治』、此包羲神農之世爲無衣裳。但聖人化天下、何殊異爾邪?」俊對曰「三皇之時、人寡而禽獸衆、故取其羽皮而天下用足。及至黃帝、人衆而禽獸寡、是以作爲衣裳以濟時變也。」帝又問「乾爲天而復爲金爲玉爲老馬、與細物並邪?」俊對曰「聖人取象、或遠或近、近取諸物、遠則天地。」

4月丙辰、曹髦は太学の諸儒にきく。

何焯はいう。陳寿は、天子が太学に行くことを詳しく書く。本紀にあまり似つかわしくない。曹髦を惜しむ気持ちが、陳寿にこれを記述させるのだろう。
ぼくは思う。曹芳のときと同じ。「名君だ、名君だ、名君だ、名君だ、死んだ」と書けば、曹髦の死にについて多言しなくても、ガッカリした衝撃を読者に与えられる。史家は内容でなく、形式で勝負する。おお、名言だなあ!

曹髦はいう。「『易』という書名の意味は」と。易学博士の淳于俊はいう。「変易することです」と。曹髦はいう。「『易』は、周文王に孔子が書き足したものだ。なぜ鄭玄は、筆者の異なる『易』の本文に、同じ調子で注釈をつけたか」と。淳于俊「読みやすくした」と。曹髦「なぜ孔子は、周文王と自分の記述を混ぜなかったか」と。淳于俊「孔子が謙虚だから」と。曹髦「じゃあ鄭玄は謙虚じゃないのか」と。淳于俊「さあ、わかりません」と。
曹髦「『易』の乾では、天、金、玉、老馬という比喩がならぶ。老馬だけ馴染まないよね」と。淳于俊「孔子が、卦の意味を身近なものに例えて、分かりやすくから」と。

ぼくは思う。ぼくは省いてるが、淳于俊は典拠に基づいて答える。その典拠を盧弼が『三国志集解』にあげる。上海古籍514頁。むずかしいのではぼく。
おもしろいのは、曹髦の疑問の観点が、けっこうぼくたちに似ていること。書名が不思議だったり、書物に関する伝承が合理的でなかったり、記述に飛躍があったりすると、その道の専門家に聞いてみる。ぼくは思う。曹髦を自分に「乗り移らせる」ことができそう!三国時代の人々も、曹髦が若者であるからかも知れないが、こういう「素朴な」疑問を儒経典にたいして持ったんだなあ!


講易畢、復命講尚書。帝問曰「鄭玄曰『稽古同天、言堯同於天也』王肅云『堯順考古道而行之』二義不同、何者爲是?」博士庾峻對曰「先儒所執各有乖異、臣不足以定之。然洪範稱『三人占、從二人之言』賈馬及肅皆以爲『順考古道』以洪範言之、肅義爲長。」帝曰「仲尼言『唯天爲大、唯堯則之』堯之大美在乎則天、順考古道非其至也。今發篇開義以明聖德、而舍其大更稱其細、豈作者之意邪?」峻對曰「臣奉遵師說、未喻大義、至于折中、裁之聖思」次及四嶽舉鯀、帝又問曰「夫大人者、與天地合其德、與日月合其明、思無不周、明無不照。今王肅云『堯意不能明鯀、是以試用』如此、聖人之明有所未盡邪?」
峻對曰「雖聖人之弘、猶有所未盡。故禹曰『知人則哲、惟帝難之』然卒能改授聖賢、緝熙庶績、亦所以成聖也」帝曰「夫有始有卒、其唯聖人。若不能始、何以爲聖?其言『惟帝難之』然卒能改授。蓋謂知人、聖人所難、非不盡之言也。經云『知人則哲、能官人』若堯疑鯀試之九年、官人失敍、何得謂之聖哲?」峻對曰「臣竊觀經傳、聖人行事不能無失。是以堯失之四凶、周公失之二叔、仲尼失之宰予」帝曰「堯之任鯀、九載無成汨陳五行民用昏墊。至於仲尼失之宰予、言行之間。輕重不同也。至于周公管蔡之事、亦尚書所載、皆博士所當通也」峻對曰「此皆先賢所疑、非臣寡見所能究論」

『易』のつぎは『尚書』の講義を命じた。「鄭玄と王粛の解釈がちがう。どちらが正しいか」と。博士の庾峻がこたえる。「『尚書』の洪範では、占いの正否は多数決だ。王粛は、賈逵や馬融と一致するので、王粛が正しいのでは」と。

ぼくは思う。曹魏の科学哲学。トマス・クーンも真っ青!曹髦が「鄭玄と王粛のどちらの解釈が正しいか」と聞くと、博士の庾峻はいう。「王粛は、後漢の賈逵や馬融と意見が一致します。多数決により、王粛が正しい。『尚書』洪範編に、占いの正否は多数決で決めろあるので」と。学説の正否なんて、そんなもんだよねえ。

曹髦「重箱の隅をつついて、本来の意味を見落としてる」と。庾峻「私は習ったままを言うだけです。解釈は曹髦が決めてください」と。曹髦「王粛は、堯が鯀をどんな人物だか分からないから、試用したという。堯は何でも明察できるはずでは」と。
庾峻「堯のような聖人にも分からないことはある。だが堯は結果オーライだった」と。曹髦「堯は鯀を9年もムダに試用した。結果オーライでも、やはり堯は誤っただろ」と。庾峻「経書や注釈では、聖人でもミスることがある」と。曹髦「つまり堯はミスったのね」と。庾峻「前代の学者でも解けない問題だ。私にも分からない」と。

ぼくは思う。博士の庾峻、まったくダメじゃん!どれくらいダメかというと、庾峻の発言に関連して、盧弼がひっぱってくる儒教典が少ない。ぼくでも目を通したことがある範囲の『尚書』からのみの引用。議論が深まっていない。広がってもないない。
『晋書』庾峻伝はいう。(ここで列伝の引用とは、吊し上げかよ)
庾峻は頴川の人。学問を好み、才思あり。太常の鄭袤が博士にあげた。ときに老荘思想が重んじられ、儒教が軽んじられる。庾峻は儒教の衰退をおそれて、儒典を研究した。太学で曹髦に『尚書』について聞かれる。庾峻は、師の説をひき、儒典の意味を明らかにした。すべて詳しく答えたので、秘書丞にうつる。
ぼくは思う。ウソつけ。レベル低いよ!
銭大昕はいう。王粛がこの歳に死んだ。だが王粛の学説は、すでに博士に学ばれている。王粛は三公の子だから、いちはやく認められ、学説が支持されたのだろう。
潘眉はいう。易博士の淳于俊は『易』を講じて、鄭玄の注釈をつかう。礼博士の馬照も、鄭玄の学問をつかう。ただ書博士の庾峻だけが、王粛に従う。けだし庾峻は、鄭袤に挙げられ、鄭袤は司馬氏に党与なので、鄭玄をやらず、王粛の学説を採用したのだろう。
盧弼はいう。このとき王氏の学問が重んじられた。斉王紀の正始6年の詔にて、王朗『易伝』が試験科目になった。


次及「有鰥在下曰虞舜」、帝問曰「當堯之時、洪水爲害四凶在朝。宜速登賢聖濟斯民之時也。舜年在既立、聖德光明。而久不進用、何也?」峻對曰「堯、咨嗟求賢欲遜己位、嶽曰『否德忝帝位』堯復使嶽揚舉仄陋、然後薦舜。薦舜之本、實由於堯。此蓋聖人欲盡衆心也」帝曰「堯既聞舜而不登用、又時忠臣亦不進達。乃使獄揚仄陋而後薦舉、非急於用聖恤民之謂也」峻對曰「非臣愚見所能逮及」

曹髦はいう。「堯のとき水害で悩んでいたのに、なぜ虞舜を40歳になるまで登用しなかったか」と。

ぼくは会社員生活のなかで思う。「人材という言葉を使うヤツは、人をモノだと思っている。人財という言葉を使うヤツは、人をカネだと思っている」とね。「人財」なんて表現は、単なる誤記なんだけど、こういう漢字を使いたがる経営者や人事担当がいるのです。会社員でない人は驚くでしょうが。人は材料でも財宝でもないさ。
ところで『尚書』などに出てくる人材登用の発想や、曹操に見える人材登用の発想は、どういう人間観や諒解が、背景としてあるのだろう。いまの会社で使われている用法を、そのまま当てはめたら大切なことを見落としそうだ。課題とします。
@yunishio さんはいう。人を「材」に喩えるのは、国を「家」に喩えるのと同じですね。重要な人物を喩えるには「柱石」「棟梁」などがあります。役に立たない人物なら「樗櫟の材」。教育される前の人物は「朴」(樸)ですね。日本でも大黒柱と。
ぼくはいう。なるほど!用法がおおいですね。真偽は知りませんが「人は石垣、人は城」とかいう人もいました。人を建物の材料に例えるのは、前近代によくある用法なんですね。「国」「人」のような抽象概念は、身近にあり、かつ見えやすいものに例えて理解する。思考パタンが、よく分かります!

庾峻はいう。「虞舜の発見が遅れたが、しかし堯の意志により、虞舜を見つけた。結果オーライだ」と。曹髦はいう。「堯は賢者を用いるというのに、虞舜が推挙されるまで放置した。やはり堯は、積極的に人材を登用する姿勢が見られない」と。庾峻はいう。「私には分かりません。曹髦に及びません」と。

ぼくは思う。庾峻は答えに困ると、「曹髦の仰せのままに」となる。まったく文化が君主権力から自立していない。もともと王粛の学問を、司馬氏の権力と結びついたから、広まった。もちろん権力のバックがなくても「優れた」学説だったのだろうが、ここまで影響を持てなかったと思われる。庾峻は、王粛-司馬氏-鄭袤というラインの学者だから、学問について突きつめないのだ。そして、司馬氏に折れたのと同じ方法で、曹髦にも折れるという。そもそも「政治と独立した学問」なんてフィクションを、ぼくらが意識し過ぎなのかも知れない。なんだか近代の産物くさいぞ。
ぼくは思う。ふつうは(「ふつう」というのも意味がわからんが;これは反省です)皇帝が独善的な解釈を押しつける。学者が合理的な解釈をして皇帝に対抗する。しかし皇帝権力により、学問の聖域を土足で踏み荒らされてしまう。しかし、いま曹髦が真理の探究者としての口ぶりである。庾峻がザツである。
そうか!これは陳寿による「曹髦が殺されて残念だ」という追悼文なのか。こんなどうでもいい(というわけでもないが)学問の問答を、長々と載せている。ほかの優れた儒教の先生にまじって、腐ったような司馬-王粛派の庾峻が、ろくな受け答えをできない。
ということは、「学問に真摯な良識者と、学問に粗雑な権力者」という構図は、成立しているわけか。ぼくが不用意に「ふつうは」と書いた「ふつう」は、陳寿の文書のなかにも、物語の型として適用されているわけか。
ただし、庾峻が必要以上に、陳寿によってバカ扱いされている可能性も、忘れてはいけない。バランスの問題だから。


於是復命講禮記。帝問曰「『太上立德、其次務施報』爲治、何由而教化各異。皆脩何政而能致于立德、施而不報乎?」博士馬照對曰「太上立德、謂三皇五帝之世以德化民。其次報施、謂三王之世以禮爲治也」帝曰「二者致化薄厚不同。將主有優劣邪、時使之然乎?」照對曰「誠由時有樸文。故化有薄厚也」

『礼記』を講義させた。曹髦はいう。太古の民は、道徳を樹立して、返礼を求めない。次の時代の民は、道徳の返礼を求めた。なぜ違うのか」と。礼博士の馬照はいう。「時代が違う。君主も違う。質朴な時代もあれば、修飾な時代もある」と。

ぼくは思う。曹髦は、はぐらかされているが、いちおう答えになっている。かわしていない。まあ、曹髦の質問も「答えようがない」んだけど。『尚書』のようにリアリティがある経典には、ツッコミが入る。『礼記』のように抽象的な経典には、ツッコミを入れにくい。ぼくと同じだ。「歴史に基づく」という前提があるから、三国志を楽しめるように。
潘眉はいう。馬照でなく、馬昭である。曹髦は『尚書』を講じさせ、王粛を批判した。馬昭は、鄭玄を支持して王粛を批判する学者なので、ここに記述が置かれる。
盧弼はいう。曹髦は、まだ16歳だ。曹植の才能がある。司馬昭に殺されるという結末を、引き立てる。


帝集載帝自敍始生禎祥曰「昔帝王之生、或有禎祥、蓋所以彰顯神異也。惟予小子、支胤末流、謬爲靈祇之所相祐也、豈敢自比于前喆、聊記錄以示後世焉。其辭曰。惟正始三年九月辛未朔、二十五日乙未直成、予生。于時也、天氣清明、日月輝光、爰有黃氣、煙熅于堂、照曜室宅、其色煌煌。相而論之曰。未者爲土、魏之行也。厥日直成、應嘉名也。烟熅之氣、神之精也。無災無害、蒙神靈也。齊王不弔、顛覆厥度、羣公受予、紹繼祚皇。以眇眇之身、質性頑固、未能涉道、而遵大路、臨深履冰、涕泗憂懼。古人有云、懼則不亡。伊予小子、曷敢怠荒?庶不忝辱、永奉烝嘗。」

曹髦は自分の著作に、自分が生まれたときの瑞祥を論じた。「私は傍流に生まれたのに、生誕のときに瑞祥があった。期せずして私は天子になった」と。

『隋書』経籍志は、南朝梁のとき『高貴郷公集』4巻があったという。亡失した。また曹髦『春秋左氏伝音』3巻もあった。亡失した。など曹髦の著作は、形跡がある。


傅暢晉諸公贊曰。帝常與中護軍司馬望、侍中王沈、散騎常侍裴秀、黃門侍郎鍾會等講宴於東堂、幷屬文論。名秀爲儒林丈人、沈爲文籍先生、望、會亦各有名號。帝性急、請召欲速。秀等在內職、到得及時、以望在外、特給追鋒車、虎賁卒五人、每有集會、望輒奔馳而至。

傅暢『晉諸公贊』はいう。つねに曹髦は、中護軍の司馬望、侍中の王沈、散騎常侍の裴秀、黃門侍郎の鍾會らと、東堂で講宴して、文論を書く。裴秀を儒林丈人、王沈を文籍先生とよぶ。司馬望と鍾会も、よび名があった。

傅暢は、『魏志』傅嘏伝にある。『晋書』傅玄伝にも出てくる。
ぼくは思う。司馬氏に近すぎると、かえって記録が残らない。司馬望と鍾会が、曹髦につけられた名号なんて、不吉だよ。曹髦がへんな死に方をしたから、距離が近いことは、あまり誇りにならないか。

曹髦は性急だから、彼ら友人とすぐ会いたい。司馬望は中護軍で外にいる。司馬望がすぐ来られるように、追鋒車と虎賁卒5人をあたえた。

周寿昌はいう。甘露2年5月、有司が「和氏を罰せよ」というと、性急な曹髦は信じてしまった。本紀であとで出てきます。


五月、鄴及上谷並言甘露降。夏六月丙午、改元爲甘露。乙丑青龍見元城縣界井中。秋七月己卯衞將軍胡遵薨。
癸未、安西將軍鄧艾、大破蜀大將姜維于上邽。詔曰「兵未極武醜虜摧破、斬首獲生動以萬計。自頃、戰克無如此者。今遣使者、犒賜將士大會臨饗飲宴終日、稱朕意焉。」

5月、鄴城と上谷(治所は沮陽)で、甘露がふる。6月丙午、甘露と改元した。6月乙丑、青龍が元城県の境界の井中にいる。秋7月己卯、衞將軍の胡遵が薨じた。7月癸未、安西將軍の鄧艾が、姜維を上邽で大破した。

龍が出た元城は、文帝紀の黄初2年。鄧艾が姜維を破った上邽は、明帝紀の太和5年にある。

詔する。「斬首や生捕が1万をかぞえる。ねぎらって飲宴せよ」

八月庚午、命大將軍司馬文王、加號大都督奏事不名、假黃鉞。癸酉、以太尉司馬孚爲太傅。九月以司徒高柔爲太尉。冬十月以司空鄭沖爲司徒、尚書左僕射盧毓爲司空。

8月庚午、大將軍の司馬昭に命じ、大都督を加号し、奏事不名、假黃鉞。

盧弼はいう。同年の4月庚戌、兗冕之服を賜り、赤舄を副えた。8月庚午に加号した。『晋書』と内容が一致しているが、日付がズレまくる。
ぼくは思う。「官打ち」だなあ!

8月癸酉、太尉の司馬孚を太傅とする。9月、司徒の高柔を太尉とする。冬10月、司空の鄭沖を司徒とする。尚書左僕射の盧毓を司空とする。

ぼくは思う。三公の人事が目まぐるしいのはなぜ?司馬孚を、司馬懿とおなじ太傅にするために、トコロテンが発生した。要因はこの1つでOKなのか?


甘露2年、諸葛誕が叛き、曹髦も出征

二年春二月、青龍見溫縣井中。三月司空盧毓薨。夏四月癸卯、詔曰「玄菟郡高顯縣吏民反叛、長鄭熙爲賊所殺。民、王簡負擔熙喪、晨夜星行遠致本州。忠節可嘉。其特拜簡爲忠義都尉、以旌殊行。」 甲子、以征東大將軍諸葛誕爲司空。

甘露2年春2月、青龍が温縣の井中にいる。3月、司空の盧毓が薨ずる。
夏4月癸卯、詔した。「玄菟郡の高顯縣(もと遼東に属す)で吏民が反叛した。県長の鄭熙が殺された。民の王簡は、県長の死骸をせおい、故郷に帰した。王簡を忠義都尉とする」

洪飴孫はいう。忠義校尉は定員1名、第5品。

4月甲子、征東大將軍の諸葛誕を司空とする。

寿春の兵権を解くためである。諸葛誕伝はいう。「朝廷は諸葛誕に疑心があると知り、諸葛誕は旧臣だから、洛陽に入れて度したかった(許したかった)。」


五月辛未、帝幸辟雍。會命羣臣賦詩。侍中和逌尚書陳騫等作詩稽留。有司奏免官、詔曰「吾以暗昧、愛好文雅、廣延詩賦、以知得失。而乃爾紛紜、良用反仄。其原逌等。主者宜勑、自今以後羣臣皆當玩習古義脩明經典。稱朕意焉。」

5月辛未、曹髦は辟雍にゆく。羣臣に賦詩をつくらせる。侍中の和逌、尚書の陳騫らが詩賦をつくるのが稽留(おそい)。有司は、和逌と陳騫を免官せよという。

辟雍は、斉王紀の正始2年にある。
和逌は、和洽伝の注釈にいる。「逌」の音は「由」である。ワユウ、カユウさん。

曹髦はいう。「私は詩賦をつくって、政治の得失を知る。詩作がトラブルになっては、目的に適わない。和逌をゆるせ」と。

沈欽韓はいう。『金楼子』はいう。曹髦は賦詩をつくる。給事中の甄歆と陶成嗣は、詩作できないので、酒を飲む罰を受けた。曹髦のトラブルはこれである。
ぼくは思う。曹髦が詩作できない者を罰するから、有司は「和逌と陳騫を罰せよ」と言ったのだ。前例と基準をつくったのは、曹髦だろう。


乙亥諸葛誕不就徵、發兵反、殺揚州刺史樂綝。丙子、赦淮南將吏士民爲誕所詿誤者。丁丑詔曰「諸葛誕造爲凶亂、盪覆揚州。昔黥布逆叛、漢祖親戎。隗囂違戾、光武西伐。及烈祖明皇帝躬征吳蜀、皆所以奮揚赫斯、震耀威武也。今宜皇太后與朕暫共臨戎、速定醜虜時寧東夏」己卯詔曰「諸葛誕造構逆亂、迫脅忠義。平寇將軍臨渭亭侯龐會、騎督偏將軍路蕃、各將左右斬門突出。忠壯勇烈、所宜嘉異。其進會爵鄉侯、蕃封亭侯。」
六月乙巳、詔「吳使持節都督夏口諸軍事、鎭軍將軍沙羡侯、孫壹。賊之枝屬、位爲上將。畏天知命、深鑒禍福、翻然舉衆、遠歸大國。雖微子去殷、樂毅遁燕、無以加之。其以壹爲侍中車騎將軍、假節交州牧吳侯、開府辟召儀同三司。依古侯伯八命之禮、兗冕赤舄、事從豐厚。」

5月乙亥、諸葛誕が洛陽に徵されず、揚州刺史の樂綝を殺した。5月丙子、淮南の將吏や士民で、誤って諸葛誕に巻きこまれた者を赦した。5月丁丑、詔した。「漢高帝は鯨布を親征し、漢光武は隗囂を親征した。魏明帝も呉蜀を親征した。私と皇太后も親征する」と。

曹叡は、太和2年に長安にゆく。青龍2年に龍舟で東征して、寿春にゆく。ぼくは思う。曹丕も龍舟で、なんども征呉した。結果が出なかったから、曹髦に触れてもらうこともできない。
『晋書』文帝紀も同じ。詔をのせる。秋7月に司馬昭は、天子を奉じて、青州、徐州、荊州、豫州、関中の遊軍を分けて、淮北にゆく。胡三省はいう。司馬昭が、皇太后と曹髦をつれたのは、変事を避けるためである。
王鳴盛はいう。諸葛誕は宿将である。王淩や毋丘倹や文欽とはちがう。ゆえに司馬昭は衆議を押し切って、曹髦を連れ出したのだ。ときに孫呉は内乱であり、孫綝が輔政するが、将士は孫綝につかない。ゆえに諸葛誕は孫呉の支援が得られない。もし孫呉の支援があれば、淮南の三叛の結果は、変わったかも知れない。

5月己卯、詔した。「平寇將軍・臨渭亭侯の龐會と、騎督・偏將軍の路蕃は、諸葛誕が叛いたとき、城門を突破した。龐会を郷侯に、路蕃を亭侯に封じる」

洪飴孫はいう。平寇将軍は定員1名、第3品。偏将軍は定員がなく、第5品。ぼくは思う。龐会って、龐徳の子か。第3品の将軍って、ふつうに高官です。すごいなあ!


六月乙巳、詔「吳使持節都督夏口諸軍事、鎭軍將軍沙羡侯、孫壹。賊之枝屬、位爲上將。畏天知命、深鑒禍福、翻然舉衆、遠歸大國。雖微子去殷、樂毅遁燕、無以加之。其以壹爲侍中車騎將軍、假節交州牧吳侯、開府辟召儀同三司。依古侯伯八命之禮、兗冕赤舄、事從豐厚。」

6月乙巳、詔した。「孫呉の使持節・都督夏口諸軍事、鎭軍將軍・沙羡侯の孫壱は、曹魏に降伏した。孫壱を、侍中・車騎將軍、假節・交州牧・吳侯として、開府辟召は儀同三司とする。古代の侯伯の八命之禮にもとづき、兗冕赤舄を与える」と。

ぼくは思う。史書はあまり呉蜀の官位を書かない。もしくは「にせの」とことわる。だが孫壱の場合、「孫呉より曹魏が高い官位を与えた」ことを明確にする必要がある。だから詔もこうなる。
ぼくは思う。ここは使えるなあ!
『晋書』百官志はいう。開府儀同三司は、漢官である。殤帝の延平元年、鄧隲を車騎将軍、儀同三司とする。「儀同」の名は鄧隲から始まる。曹魏の黄権も、車騎将軍、開府儀同三司とした。「開府」の名は黄権から始まる。
ぼくは思う。黄権と孫壱が同じというのがおもしろい!
胡三省はいう。孫壱を異様に尊重するのは、孫呉からの離叛を招きたいからだ。何焯はいう。ときに淮南は孫呉から援軍をもらう。孫壱はたまたま降りにきた。司馬昭が官位を濫発して、孫壱を寵用した。来降を誘うためだ。
ぼくは思う。何焯は、孫壱に官位をあげたのを、司馬昭とする。そうかあ、曹髦による戦略ではないのね。まあ曹髦も司馬昭も、官爵のポトラッチという同じ種類のゲームに参加している、というところまで言えれば、OKなのだ。


臣松之以爲壹畏逼歸命、事無可嘉、格以古義、欲蓋而名彰者也。當時之宜、未得遠遵式典、固應量才受賞、足以醻其來情而已。至乃光錫八命、禮同台鼎、不亦過乎!於招攜致遠、又無取焉。何者?若使彼之將守、與時無嫌、終不悅于殊寵、坐生叛心、以叛而愧、辱孰甚焉?如其憂危將及、非奔不免、則必逃死苟存、無希榮利矣、然則高位厚祿何爲者哉?魏初有孟達、黃權、在晉有孫秀、孫楷。達、權爵賞、比壹爲輕、秀、楷禮秩、優異尤甚。及至吳平、而降黜數等、不承權輿、豈不緣在始失中乎?

孫壱は政変に逼られて、逃げただけだ。

孫綝は、滕胤と呂拠を殺した。滕胤と呂拠は、どちらも孫壱の妹の夫だ。孫綝は朱異に、ひそかに孫壱を殺させようとした。孫壱は曹魏ににげた。

曹魏は官爵を与えすぎだ。孫壱も逃げられれば充分であり、名誉を求めなかろう。降伏者には、魏代の孟達と黄権、晋代の孫秀と孫楷がいる。孟達や黄権は孫壱よりひくいが、孫秀と孫楷は孫壱よりたかい。平呉のあと、孫秀と孫楷は官爵を下げられた。初めの官爵が正しくなかったのだ。

ぼくは思う。まさに使える。裴松之の考えの不充分さを言うところから、論功の章1つをスタートさせれば良いのだ。孟達、黄権、孫秀、孫楷、あとは夏侯覇など。
『晋書』武帝紀はいう。泰始6年、夏口督の孫秀がくだる。西晋の驃騎将軍、開府儀同三司、会稽公に封じる。咸寧2年、京下督の孫楷がくだる。西晋の車騎将軍、丹陽侯とする。


甲子詔曰「今車駕駐項。大將軍恭行天罰、前臨淮浦。昔相國大司馬征討、皆與尚書俱行。今宜如舊」乃令、散騎常侍裴秀、給事黃門侍郎鍾會、咸與大將軍俱行。秋八月詔曰「昔燕刺王謀反、韓誼等諫而死、漢朝顯登其子。諸葛誕創造凶亂。主簿宣隆、部曲督秦絜、秉節守義臨事固爭、爲誕所殺。所謂、無比干之親而受其戮者。其以隆絜子爲騎都尉、加以贈賜光示遠近以殊忠義。」

6月甲子、詔した。「曹髦の車駕が項県にきた。司馬昭は淮浦にいる。

諸葛誕伝はいう。大将軍の司馬昭は、中外諸軍26万を督して、淮水にのぞみ、丘頭に屯する。ぼくは補う。の丘頭が、あとで武丘になるのね。

むかし相国や大司馬が征討するとき、尚書を同行させた。前例のとおりとする」と。散騎常侍の裴秀、給事黃門侍郎の鍾會は、みな司馬昭に同行する。

胡三省はいう。尚書の傅嘏も同行する。ぼくは思う。尚書が同行するというのに、傅嘏を差し置いて、裴秀と鍾会を紹介してはいかんだろう。

秋8月、詔した。「諸葛誕が叛くとき、主簿の宣隆、部曲督の秦絜は、諸葛誕に反対して殺された。2人の子を騎都尉とせよ」

諸葛誕は征東将軍である。征東将軍の主簿、征東将軍の部曲督である。洪飴孫はいう。主簿は1名、第8品。部曲督は定員がなく、第7品。
ぼくは思う。主簿は1名というのは、長官1名に対して主簿1名という意味だよね。王朝で1名のはずがない。この定員の表記も、読み方を注意せねば。


九月大赦。冬十二月、吳大將、全端全懌等率衆降。

9月、大赦した。冬12月、孫呉から、全端と全懌らが降る。

詳しくは鍾会伝にある。


甘露3年、阮籍が九錫を勧める文書をかく

三年春二月、大將軍司馬文王陷壽春城、斬諸葛誕。三月詔曰「古者、克敵收其屍以爲京觀、所以懲昏逆而章武功也。漢孝武元鼎中、改桐鄉爲聞喜、新鄉爲獲嘉、以著南越之亡。大將軍親總六戎、營據丘頭、內夷羣凶、外殄寇虜、功濟兆民、聲振四海。克敵之地、宜有令名。其改丘頭爲武丘、明以武平亂。後世不忘、亦京觀二邑之義也。」

甘露3年春2月、大將軍の司馬昭が、寿春を陥落させ、諸葛誕を斬る。

諸葛誕伝はいう。甘露2年5月に叛き、甘露3年2月に斬られた。

3月、詔した。「京観を築け。漢武帝が南越を滅ぼしたときと同じく、地名を改める。司馬昭が駐屯した丘頭を武丘と改めよ。この戦いを記憶にとどめ、諸葛誕のように謀反する者が、もう出ないように」と。

夏五月命大將軍司馬文王、爲相國封晉公食邑八郡、加之九錫。文王前後九讓、乃止。六月丙子詔曰「昔南陽郡山賊擾攘、欲劫質故太守東里袞。功曹應余、獨身捍袞遂免於難。余顛沛殞斃、殺身濟君。其下司徒、署余孫倫吏、使蒙伏節之報。」
辛卯、大論淮南之功、封爵行賞各有差。

夏5月、大将軍の司馬昭を、相國に任じ、晉公に封じて邑8郡を食ませ、九錫を加えろという。司馬昭は9讓して、曹髦は取り下げた。

『晋書』阮籍伝はいう。公卿が勧進するとき、阮籍のその言葉を書かせた。阮籍は酔って、作文を忘れた。使者が阮籍を起こすと、即興で書き上げたが、修正すべき点がない。阮籍の文はいう。「曹髦は考える。曹魏の徳は、唐虞より明るい。司馬昭の功績は、桓公や文公を越える。司馬昭は九錫を受けろよ」と。
『世説新語』文学編にある。司空の鄭沖が、阮籍に作文を依頼した。阮籍は、袁孝尼の家にいて宿酔である。助け起こされて作文したら、完璧な文書だった。阮籍は、神筆と言われた。
盧弼はいう。『晋書』文帝紀は、阮籍の文書を、景元4年に載せる。しかるに『文選』の注釈によると、これは征蜀のとき(景元4年)に書かれたものでない。『晋書』の誤りである。『晋書』阮籍伝で、阮籍は景元4年冬に死ぬ。阮籍は、曹髦のために九錫を勧進する作文をした。疑いない。

6月丙子、詔した。「むかし南陽太守の東里袞が襲われた。功曹の應余が、東里袞を救った。應余の孫の応林を登用せよ」と。

東里袞は、武帝紀の建安24年に注する『曹瞞伝』にある。つぎに裴注『楚國先賢傳』で、東里袞と應余のシーンを語る。はぶく。應余は『魏略』遊説伝に、列伝が含まれるらしい。
ぼくは思う。應余をほめるのは、司馬昭をほめるのと同じ文脈。つぎに諸葛誕の討伐をした者たちをほめる。まず司馬昭をほめる、という曹髦の順序が、なかなかあざとい。

6月辛卯、淮南の功績を論じて、封爵や行賞が行われた。

秋八月甲戌、以驃騎將軍王昶爲司空。丙寅詔曰「夫養老興教、三代所以樹風化、垂不朽也。必有三老五更。以崇至敬乞言納誨著在惇史。然後六合承流、下觀而化。宜妙簡德行、以充其選。關內侯王祥、履仁秉義雅志淳固。關內侯鄭小同、溫恭孝友帥禮不忒。其以祥爲三老、小同爲五更」車駕親率羣司、躬行古禮焉。
是歲青龍黃龍仍見、頓丘冠軍陽夏縣界井中。

秋8月甲戌、驃騎將軍の王昶を司空とする。8月丙寅、詔した。「養老して教化するものだ。王祥を三老、鄭小同を五更とする」と。曹髦は群臣をひきいて、王祥と鄭小同をうやまう古礼をやる。

ここに裴注がたくさんつき、盧弼もたくさん注するが、はぶく。上海古籍529頁。鄭玄の記述が、『後漢書』では鄭玄伝を見れば良いが、『三国志』ではここに分量の負担がかかる。
『魏氏春秋』によると、鄭小同は鄭玄の孫だが、司馬昭の文書を盗見した疑いをかけられ、毒殺された。『後漢書』鄭玄伝の注釈では、司馬昭が鄭小同に「オレがお前を負かせても良いが、お前がオレを負かせるな」という。梁商鉅は、曹操が呂伯奢を殺したセリフと同じという。奸雄のセリフは同じように記される。
盧弼はいう。鄭小同は侍中であり、禁中に出入できる。司馬昭の文書を見ることができる。毒殺なんて、ひどい方法をとるなんて。これは曹操による孔融の殺害と同じく、ひどい冤罪である。鄭小同は五更となり、曹魏を佐命しようとするのに、毒殺されるなんて。鄭小同は死んだが、忠貞に恥じない。

この歳、青龍と黃龍が現れた。頓丘、冠軍、陽夏の県境の井中に。

頓丘は武帝紀の巻首。陽夏は武帝紀の建安16年。郡国志はいう。南陽郡の冠軍県である。


甘露4年、曹髦が潜龍の詩をつくる

四年春正月、黃龍二見寧陵縣界井中。
漢晉春秋曰。是時龍仍見、咸以爲吉祥。帝曰「龍者、君德也。上不在天、下不在田、而數屈於井、非嘉兆也。」仍作潛龍之詩以自諷、司馬文王見而惡之。

甘露4年春正月、黄龍2匹が、寧陵の県境の井中にいる。
『漢晋春秋』はいう。曹髦は「井中だから吉兆でない」といい、『潜龍之詩』をつくって、自分を託した。司馬昭に見られた。

『晋書』五行志に、龍の色と場所の解釈がある。


夏六月司空王昶薨。秋七月陳留王峻薨。冬十月丙寅、分新城郡復置上庸郡。十一月癸卯車騎將軍孫壹爲婢所殺。

夏6月、司空の王昶が薨じた。

『晋書』文帝紀はいう。甘露4年6月、荊州を分割して、2都督をおく。王基は新野に鎮し、州泰は襄陽に鎮する。石苞を都督雍州とし、陳騫を都督豫州とし、鍾毓を都督徐州とし、宋均を監青州署軍事とする。

秋7月、陳留王の曹峻が薨じた。

『晋書』五行志はいう。甘露4年7月戊子ついたち、日食あり。

冬10月丙寅、新城郡をわけて、また上庸郡をおく。

新城は、文帝紀の延康元年にある。上庸は武帝紀の建安20年にある。
銭大昕はいう。景初元年、上庸郡をおく。このあと、上庸を省いたり併せたりする記述はない。趙一清はいう。上庸は、明帝の太和4年6月にはぶかれ、景初元年5月に再設置された。このあと省いたという記述はない。上庸を再設置する記事がダブる。
盧弼はいう。斉王紀の嘉平6年に「郡国や県道は、おおくを置き、おおくを省いた。書けない」とある。上庸郡が、いま再設置されても、おかしくない。

11月癸卯、車騎將軍の孫壱が婢に殺された。

甘露2年、孫壱は来降した。『呉志』孫奐伝はいう。曹魏は孫壱を車騎将軍とした。もと曹芳の貴人の邢氏を妻とした。邢氏の命令があらいので、仕える者が堪えられない。ついに孫壱と邢氏を殺した。盧弼はいう。『呉志』は孫壱が黄初3年に死んだとするが、誤りである。


甘露5年、曹髦が司馬昭に殺される

五年春正月朔、日有蝕之。夏四月詔有司、率遵前命、復進大將軍司馬文王位爲相國封晉公加九錫。五月己丑、高貴鄉公卒、年二十。

甘露5年春正月ついたち、日食あり。

『晋書』天文志はいう。曹髦が殺される前兆である。

夏4月、有司に詔した。「昨年も言ったように、大将軍の司馬昭は、相国、晋公、九錫を受けよ」と。

ぼくは思う。曹髦が司馬昭に、晋公と九錫を押しつけ、すぐに曹髦が殺される。これが面白い。密接な因果関係を見出さないほうがウソでしょ、と思ってしまう。

5月己丑、高貴郷公の曹髦が卒した。年20。

盧弼はいう。『春秋』と杜注によると、陳寿のこの書き方は、用法にあっている。いま曹髦は、皇帝でなく即位前の爵位で書かれ、「崩」でなく「卒」と書かれ、死に場所を書かれない。史書において君主の死を記すとき、敢えてルールを破ることで、通常の死でないことを仄めかすルールがある。陳寿はルールを破るというルールを守った。『春秋』では「弑された」とは諱んで書かない。
ぼくは陳寿を「メタ史家」とよびたい。曹芳と曹髦の有能さを書きまくり、唐突に殺す。『魏志』に本紀を立てながら、そもそも『呉志』『蜀志』を並べるし、『蜀志』でみょうに劉備が尊ばれる。西晋のような複雑な時代、史家はただ内容で真実を伝えるのでなく、形式でメタ的にメッセージを伝えねばならなかった。メタなメッセージは、「AならばAであり、BならばBである」という、同語反復による実証が基本となる「サイエンス」には馴染まない。背景から感得するしかない。わざと一義的に意味が確定しないように、陳寿がわざと書いているのだから、サイエンティストが一義的に意味を読み取ることができないのだ。というか、読み取れたなら、陳寿は西晋で生き延びられない。
「同じ意味の文字だが、ちょっとした文字の使い分けで毀誉褒貶する」のが、春秋の筆法だという。春秋の筆法は、共通の諒解事項がなければ成立しない。また、こういう諒解事項は、事後的に生成されることができる。だって互いに合意すれば良いんだもの。テキストが書かれた何百年後だって、新たなルールを策定することはできる。解釈の学問が発達するのは、当然だなあ。
春秋の筆法は「言語のオマケ的な使い方」であり、「そこまでしなくても」という印象を与える。しかし残念ながら、議論が逆である。共通の諒解事項により、異なる仕方で概念を分節し、その結果として見えるものを共有することこそ、言語の始原の機能だったはずだ。春秋の筆法を検討する者は、言語が人類に誕生する瞬間に、くり返し立ち会っているのね。そして彼らもまた、最初の人間という意味で「アダムとイブ」になるのね。この横文字の比喩は、とくに必然性がないけど、よく見るので使ってみた。


皇太后令曰「吾以不德遭家不造、昔援立東海王子髦、以爲明帝嗣。見其好書疏文章、冀可成濟。而情性暴戾、日月滋甚。吾數呵責、遂更忿恚、造作醜逆不道之言、以誣謗吾遂隔絕兩宮。其所言道、不可忍聽、非天地所覆載。吾卽密有令語大將軍、不可以奉宗廟、恐顛覆社稷、死無面目以見先帝。大將軍以其尚幼、謂當改心爲善、殷勤執據。而此兒忿戾所行益甚、舉弩遙射吾宮、祝當令中吾項、箭親墮吾前。吾語大將軍不可不廢之、前後數十。此兒具聞自知罪重、便圖爲弒逆。賂遺吾左右人、令因吾服藥密因酖毒重相設計。事已覺露、直欲因際會舉兵入西宮殺吾出取大將軍、呼侍中王沈散騎常侍王業尚書王經。出懷中黃素詔示之、言今日便當施行。吾之危殆過于累卵。吾老寡、豈復多惜餘命邪?但傷先帝遺意不遂、社稷顛覆爲痛耳。賴宗廟之靈、沈業卽馳語大將軍、得先嚴警。而此兒便將左右出雲龍門、雷戰鼓、躬自拔刃與左右雜衞共入兵陳間、爲前鋒所害。此兒既行悖逆不道、而又自陷大禍、重令吾悼心不可言。昔漢昌邑王、以罪廢爲庶人。此兒亦宜以民禮葬之、當令內外咸知此兒所行。又尚書王經凶逆無狀、其收經及家屬、皆詣廷尉。」

皇太后は令した。「曹髦は文章を好むので、曹芳のあとで皇帝にした。だが暴戻がひどい。私が叱ると、曹髦は私を毒殺しようとした。司馬昭は「まだ曹髦は幼いから」とかばった。だが曹髦が兵をひきいて、皇太后の宮を攻め、司馬昭を殺そうとした。曹髦は衛兵に殺された。侍中の王沈、散騎常侍の王業は、曹髦に誘われたが、司馬昭に報告した。尚書の王経は、曹髦に誘われ、司馬昭に報告しなかった。王経と家属を廷尉にわたせ」と。

漢晉春秋曰。帝見威權日去、不勝其忿。乃召侍中王沈、尚書王經、散騎常侍王業、謂曰「司馬昭之心、路人所知也。吾不能坐受廢辱、今日當與卿[等]自出討之。」王經曰「昔魯昭公不忍季氏、敗走失國、爲天下笑。今權在其門、爲日久矣、朝廷四方皆爲之致死、不顧逆順之理、非一日也。且宿衞空闕、兵甲寡弱、陛下何所資用、而一旦如此、無乃欲除疾而更深之邪!禍殆不測、宜見重詳。」帝乃出懷中版令投地、曰「行之決矣。正使死、何所懼?況不必死邪!」於是入白太后、沈、業奔走告文王、文王爲之備。帝遂帥僮僕數百、鼓譟而出。文王弟屯騎校尉伷入、遇帝於東止車門、左右呵之、伷衆奔走。中護軍賈充又逆帝戰於南闕下、帝自用劍。衆欲退、太子舍人成濟問充曰「事急矣。當云何?」充曰「畜養汝等、正謂今日。今日之事、無所問也。」濟卽前刺帝、刃出於背。文王聞、大驚、自投于地曰「天下其謂我何!」太傅孚奔往、枕帝股而哭、哀甚、曰「殺陛下者、臣之罪也。」
臣松之以爲習鑿齒書、雖最後出、然述此事差有次第。故先載習語、以其餘所言微異者次其後。

『漢晋春秋』はいう。曹髦は、侍中の王沈、尚書の王経、散騎常侍の王業にいう。「司馬昭の簒奪の心は、路ゆく人も知っている」と。王沈と王業は、司馬昭にチクった。曹髦が挙兵した。屯騎校尉の司馬伷はにげた。中護軍の賈充が戦い、太子舎人の成済が、曹髦を刺殺した。司馬孚が悲しんだ。
裴松之はいう。習鑿歯『漢晋春秋』は、成立がもっとも遅いが、内容が良いので最初にのせた。他の史料で、異なるところを挙げてゆく。

ぼくは思う。裴松之は歴史哲学の本質をつく。
ラカンは、象徴界は、現実界(や想像界)と1対1対応しないという。象徴界における言語は、ほかの言語との関係性しか、意味を表現することができない。史書も同じです。つまり「史書の虚偽性」は、実際におきた事件と比べることによって、明らかになるのでない。ただ、他の史書と比べたて、矛盾が見つからない場合、正しいことになる。というか、暫定的であり、ベストではないが、「正しいと見なさざるを得ない」のだ。
後発の史料は、前の史料に検討を加えてつくる。このとき、前の史料同士が矛盾するから、どれか1つを選択すると、やはりホコロビとなり、さらに後発の史家の批判にさらされ、、という上書きが連続する。しかし、たまたま今回の『漢晋春秋』のように、ロコツなホコロビがなければ、裴松之の言うように最良の史料となる。曹髦の鬱屈は、本紀と対応する。3人の王氏の動きは、本紀の皇太后の令と一致する。曹魏の忠臣である、司馬孚のキャラも一致する。よし完璧!
思うに、事件そのものの機密性が高いので、矛盾する史料が出てこられないのだろう。そういうわけで裴松之は、ラカンの象徴界のなかで安住した。まあ、注釈の作業は、これがいちばん捗るよね。
ツイッター用まとめ。曹髦の死の記事で裴松之はいう。習鑿歯『漢晋春秋』は、成立が最も遅いが、内容が良いから注釈の最初に載せたと。ぼくが思うに「史書の真実性」は、実際の事件との比較で決まらない。もう過去は見れないから。他の史書と比べ、最も矛盾がなければ、暫定的な真実と見なされる。ラカンのいう象徴界の話!

裴松之があげる他の史料ははぶく。

林国賛はいう。司馬孚は司馬懿の弟である。曹爽の殺害に協力した。司馬孚は、曹芳のとき太尉だった。曹髦のとき太傅だった。曹芳が廃されたとき1哭して、曹髦が殺されても1哭だけした。司馬孚は西晋が成立すると、上公になった。司馬孚の哭礼はウソかよ。儒教が有名無実である。
蜀漢は叛臣がいない。わずかに漢嘉の黄元や、彭羕と楊戯だけだ。蜀漢の君主に問題があったのでない。魏呉では殺しまくった。国に殉じた者も、蜀漢だけがおおい。趙広は沓中で姜維のために死んだ。馬良、傅氏、程畿、王国山は、夷陵で劉備のために死んだ。劉諶、李昭儀、諸葛誕、諸葛尚、張遵、董崇、李球、傅僉らは、蜀漢の最後に殉じた。劉備の孫、諸葛亮の孫、関張の子など、世代をこえて仕えた。孫呉の最後は、張悌1人だけが殉じた。曹魏は1人も殉じない。王袞、范粲、司馬順らが、西晋をボイコットしたくらいだ。魏晋革命の前に、毋丘倹、諸葛誕が戦ったが、革命には抵抗がなかった。
ほかに3人の王氏に処置や評価について、盧弼がいろいろひく。


庚寅、太傅孚、大將軍文王、太尉柔、司徒沖、稽首言「伏見中令、故高貴鄉公悖逆不道自陷大禍、依漢昌邑王罪廢故事、以民禮葬。臣等備位、不能匡救禍亂式遏姦逆、奉令、震悚肝心悼慄。春秋之義、王者無外。而書『襄王出、居于鄭』、不能事母、故絕之于位也。今高貴鄉公、肆行不軌、幾危社稷、自取傾覆、人神所絕。葬以民禮、誠當舊典。然臣等伏惟殿下仁慈過隆、雖存大義、猶垂哀矜。臣等之心實有不忍、以爲可加恩以王禮葬之。」太后從之。
漢晉春秋曰。丁卯、葬高貴鄉公于洛陽西北三十里瀍澗之濱。下車數乘、不設旌旐、百姓相聚而觀之、曰「是前日所殺天子也。」或掩面而泣、悲不自勝。 臣松之以爲若但下車數乘、不設旌旐、何以爲王禮葬乎?斯蓋惡之過言、所謂不如是之甚者。

5月庚寅、太傅の司馬孚、大將軍の司馬昭、太尉の高柔、司徒の鄭沖は、稽首していう。「曹髦は、皇太后に不孝だった。不孝者は、前漢の昌邑王のように民礼で葬るべきだが、王礼を加えてあげたい」と。太后はみとめた。
『漢晋春秋』はいう。5月丁卯、曹髦が埋葬された。数台の下級の車で埋葬にゆき、旌旗は立てない。裴松之はいう。ちっとも王礼でない。曹髦を悪む者が、わざと葬礼をしょぼく書いたのだろう。

周寿昌はいう。王礼でなく民礼である。司馬昭が凶威なので、裴松之は記録をうたがう。だが裴松之は、よく分かっていない。『御覧』にひく『帝王世紀』では、公礼で葬られたとある。これも王礼でない。
ぼくは思う。『漢晋春秋』の勇み足か。見てきたような殺害現場の描写は、居合わせない者が検証できないから、矛盾が出なかった。しかし儀礼の形式となると、居合わせない者でも検証できる。ボロがでる。というわけで、曹髦の殺害現場を、『漢晋春秋』に基づいて理解する必要はないと思う。
まあね、裴松之は、『漢晋春秋』がいちばん情報がおおくて整理されているから、忠作の作業の便宜のために、いちばん最初に置いたのだ。これが事実だと述べたわけじゃない。裴松之を、あまり19世紀の歴史学の視覚から責めてはならんなあ。
趙一清はいう。西晋の愍帝も、同じように悲しまれた。


使使持節行中護軍中壘將軍司馬炎、北迎常道鄉公璜、嗣明帝後。辛卯羣公奏太后曰「殿下聖德光隆、寧濟六合。而猶稱令、與藩國同。請自今、殿下令書皆稱詔制。如先代故事。」

使持節・行中護軍・中壘將軍の司馬炎が、常道郷公の曹璜(曹宇の子)を迎えに北にゆく。5月辛卯、群公(上公、三公、従公)は太后に奏する。「郭太后が下す令書は、先代の故事のように、みな詔制という形式にしてね」と。

癸卯大將軍固讓、相國晉公九錫之寵。太后詔曰「夫有功不隱、周易大義。成人之美、古賢所尚。今聽所執。出表示外、以章公之謙光焉。」
戊申、大將軍文王上言「高貴鄉公、率將從駕人兵拔刃鳴金鼓、向臣所止。懼兵刃相接、卽勑將士不得有所傷害、違令以軍法從事。騎督成倅弟太子舍人濟、橫入兵陳傷公、遂至隕命。輒收濟行軍法。臣聞人臣之節、有死無二。事上之義、不敢逃難。前者變故卒至、禍同發機。誠欲委身守死、唯命所裁。然惟本謀乃欲上危皇太后、傾覆宗廟。臣忝當大任、義在安國。懼雖身死罪責彌重、欲遵伊周之權、以安社稷之難。卽駱驛申勑、不得迫近輦輿。而濟遽入陳間、以致大變。哀怛痛恨五內摧裂、不知何地可以隕墜?科律大逆無道、父母妻子同產皆斬。濟凶戾悖逆、干國亂紀、罪不容誅。輒勑侍御史收濟家屬、付廷尉、結正其罪。」太后詔曰「夫五刑之罪、莫大於不孝。夫人有子不孝、尚告治之。此兒豈復成人主邪?吾婦人不達大義、以謂、濟不得便爲大逆也。然大將軍志意懇切、發言惻愴、故聽如所奏。當班下遠近、使知本末也。」

5月癸卯、司馬昭は、相國、晉公、九錫之寵を固辞した。太后は詔した。「司馬昭は功績があるのだから、受けろよ」と。

ぼくは思う。曹爽に起源をもち、曹芳-曹髦が行ってきたポトラッチの戦略は、郭太后が受け継いでいる。まあ臨朝してるからね。曹髦を殺しといて、なにが曹魏に対する功績だよ?と思うが、司馬昭に功績がないことは、「道ゆく人でも知っている」のだ。このギャップがあるがゆえに、郭太后からのポトラッチは、司馬昭を震え上がらせる。がんばれ!曹魏!負けそうになると、応援したくなる。
こういう「残念な君主」というのは、ポトラッチを究極のところまでやって、バタン!と倒れる。はじめは、賭金が50万円の博打だったのに、そのうち、5億円の勝負にエスカレートする。過熱して5兆円に賭金があがる。5億円も5兆円も、どうせ払えないのだから、この数字にはとくに意味はない。意地の張り合い、サドンデスである。先に数字に圧倒されて、心が折れたほうが負けである。「残念な君主」は、こういう大きな博打に敗れた人たちだと思う。ぼくは自分がそういう勝負をする気がないから、「残念な君主」の話を読むのが好きだ。

5月戊辰、司馬昭はいう。「私は曹髦に殺されても良かったが、かってに成済が曹髦を殺した。成済の家属を廷尉にわたそう」と。太后はいう。「曹髦は、私に対して不孝だった。曹髦は君主の資格がない。だから曹髦を殺しても、君主の殺害にあたらない。だが司馬昭が頼むなら、成済を罰しよう」と。

ぼくは思う。これが「公式見解」なのね。よくわかった!盧弼が「或る者」の意見として、司馬昭が曹髦を殺したことが明確だと騒ぐ。そんなことは「路ゆく人でも知っている」のだ。もう言うなよ。
司馬昭は、彼自身に功績があることは否定しない。否定できない。もし否定したら、曹髦の殺害を認めたことになる。しかし、大きな功績のなかにも、成済の管理責任を怠ったという、小さな、ごくごく小さな瑕疵があるから、九錫は受けられないという。
ぼくは思う。司馬昭に対する戦略としては、曹髦と郭太后は同じである。曹髦が郭太后に「不孝」なはずがない。ただし「不孝」という理由を噛ませることで、この不自然な「公式見解」の筋が通る、という諒解はおもしろい。
丁国釣はいう。『魏志』では成済の家属が夷族されるが、『晋書』文帝紀では夷族されない。『晋書』が司馬昭の悪事を減らしたか。『晋書』荀勗伝では、成済1人だけが刑死した。『魏志』が刑死の範囲を拡げすぎたか。


世語曰。初、青龍中、石苞鬻鐵於長安、得見司馬宣王、宣王知焉。後擢爲尚書郎、歷青州刺史、鎭東將軍。甘露中入朝、當還、辭高貴鄉公、留中盡日。文王遣人要令過。文王問苞「何淹留也?」苞曰「非常人也。」明日發至滎陽、數日而難作。

『世説新語』はいう。青龍のとき、石苞は長安で、司馬懿に見出された。尚書郎、青州刺史、鎮東将軍をやる。甘露のとき、曹髦と話した。石苞から司馬昭に「曹髦は非常の人だ」だと報告した。翌日、石苞は滎陽にゆく。数日後に、司馬昭が曹髦を殺した。

『晋書』石苞伝がある。趙一清はいう。『世説新語』で石苞は司馬懿に見出されるが、『晋書』によれば、曹爽に見出されたのでは。
『晋書』華表伝はいう。甘露のとき、石苞はさかんに曹髦をほめ「曹操の生まれ変わり」という。華表は、曹髦に災難があるのを懼れて、ひきこもった。姚範はいう。司馬昭は廃立の計画があったが、石苞がこれを促進した。
ぼくは思う。石苞の話を、うがった読み方をすると、司馬昭のほうから先手を仕掛けたようにも読める。最後に石苞がトリガーになったなら(たった数日後に事件が起きたのだから、トリガーと見なして良いよね)、曹髦のほうから動く理由がない。
あらためて陳寿の本文だけ読むと、曹髦が仕掛けたとは読めない。ただ「卒した」とあるだけだ。曹髦が仕掛けたというのは、後世に編まれた『漢晋春秋』だけだ。同時代人の陳寿とその周囲は「先に手を出したのは司馬昭だが、公式見解では曹髦が先となっている」と知っていたのでは。公式見解どおり書いたらウソになる。だが司馬昭の先制を書けば、西晋で生きられない。だから書くのを辞めよう!ほのめかそう!と。陳寿の思考は、これじゃないか。
司馬昭に殺意を持っていたのは、太后の令に見える。まあ、ぼくの印象としても、殺意かどうかは断定が難しいが、司馬昭とポトラッチ闘争はしていた。曹髦が死んだあと、皇太后の令がで「王氏に相談した」なんて話が出てきた。うーん、相談まではしただろうが、挙兵はしてないんじゃないか?というか、挙兵って不自然だろ。「曹髦が皇太后に攻め込んだから、司馬昭が防衛した」というのが公式見解だが、曹髦がわざわざ挙兵して、皇太后を攻める理由がない。司馬昭を攻めるならいざ知らず。いや、司馬昭を攻めるという選択であっても、粗雑すぎて、ほぼあり得ないと思う。儒者を論破してた曹髦らしくない。せっかく官爵を再配分できる権限があるのに、どうして武力なんかに訴えるか。いくら怒りが鬱積していても、武力には走らない。陳寿が証明している。
後日「先に手を出したのは司馬昭である」という文章を書こう!
皇太后の令と、『漢晋春秋』に、曹髦が先制したと書いてあるからこそ、曹髦が先制していないと言うことができる。こういうアクロバティックな(かつ独断的な)ことを言おうとしています。ゆえに、ちゃんと筋道をたてて書きたいと思います。その文書ができても、少なくとも歴史学の学徒ではない。ブロガーとしての力作をやろう。


六月癸丑、詔曰「古者人君之爲名字、難犯而易諱。今常道鄉公諱字甚難避、其朝臣博議改易、列奏。」

6月癸丑、皇太后は詔した。「曹”璜”という文字は諱みにくい。新しい皇帝の名を提案しなさい」と。121211

ぼくは思う。曹魏の郭太后が「曹璜の名は、諱みにくいから、ほかの名前の候補を提案せよ」と命じて、曹奐に決まります。「璜」は諱みにくいですか?イモヅル式に「黄」も禁じられるのでしょうか。「生まれながらに皇帝候補」とか「傍流から皇帝として連れてくる」ときでも、わりにありふれた漢字を使いますよね、?

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曹奐の景元年間;皇太后が晋公を勧める

景元元年、曹髦が即位、司馬昭に10郡を勧める

陳留王諱奐、字景明、武帝孫、燕王宇子也。甘露三年、封安次縣常道鄉公。高貴鄉公卒、公卿議迎立公。六月甲寅入于洛陽、見皇太后、是日卽皇帝位于太極前殿。大赦改年、賜民爵及穀帛各有差。

陳留王は諱を奐、あざなを景明という。曹操の孫、燕王の曹宇の孫。甘露3年、安次県の常道鄉公に封じられる。曹髦が卒すると、

ぼくは思う。危険なワード「卒」を、さらっと再録する。ステキ!
『郡国志』はいう。幽州広陽郡の安次県である。洪亮吉はいう。燕国は漢室がおく。のちに国をのぞき、広陽郡とする。太和6年、曹魏が国にもどす。下邳王の曹宇が燕王にうつる。安次は漢室の旧県である。

公卿は曹奐を迎えようと議した。6月甲寅、洛陽に入る。皇太后に会い、即日に大極殿前で即位した。大赦して景元と改元した。民に爵位と穀帛を賜った。

ときに曹奐は15歳。『晋書』武帝紀はいう。司馬炎は東武陽に曹奐を迎える。『通鑑』では鄴県に迎える。
ぼくは思う。曹髦のときは、臣下の礼式で移動した。曹奐は、とくに彼がこだわることなく、さっさと皇帝の礼式を執行したのだろう。だから記述がないか。曹奐も「有能だ、有能だ、有能だ、禅譲した」というコントラストの引き立つ書き方だったらおもしろい。
ぼくは思う。曹奐はあざなが景明で、年号が景元なのね。景明さんが始めるから、景元とかではないか。皇帝のあざなと、年号に関係がある例がほかにあるのかな。


景元元年夏六月丙辰、進大將軍司馬文王位爲相國、封晉公增封二郡幷前滿十、加九錫之禮、一如前奏。諸羣從子弟其未有侯者、皆封亭侯。賜錢千萬帛萬匹。文王固讓、乃止。己未、故漢獻帝夫人節薨、帝臨于華林園、使使持節追諡夫人爲獻穆皇后。及葬、車服制度皆如漢氏故事。癸亥、以尚書右僕射王觀爲司空。冬十月觀薨。

景元元年の夏6月丙辰、大將軍の司馬昭を、相國にすすめ、晉公に封じて2郡をふやす。従前とあわせると10郡となる。司馬昭に九錫之禮を加えるのは、前奏(前詔)とおなじ。

潘眉はいう。甘露3年に封邑8とした。8郡は、并州の太原、上党、西河、楽平、新興、雁門と、司州の河東、平陽である。いま、司州の弘農と、雍州の馮翊を増やした。
沈家本はいう。景元2年、景元4年も、前詔とすべきを前奏と誤る。

司馬氏の子弟で、まだ侯爵がない者を、みな亭侯とした。銭1千萬と帛1萬匹を賜る。司馬昭が固辞して、詔は取り下げられた。

ぼくは思う。皇太后からのポトラッチだなあ!「皇帝が即位しましたから」という理由で、めでたさにかこつけて、司馬昭も受けてしまえばいいのに。司馬昭は、公式見解では「太后を守るために不孝な皇帝を殺した」という「功績」があるはずだが、さすがにこれがウソであることは、路ゆく人でも知っているので、九錫を受けることができない。2郡を増やしたのは、皇太后からの攻撃である。

6月己未、献帝の夫人である曹節が薨じた。曹奐は華林園にのぞみ、使持節に獻穆皇后と諡させる。

陳景雲はいう。『続漢書』は曹騰の父を曹節とする。曹操の娘で、献帝の皇后も曹節という。祖先の諱をおかすから、曹節はおかしい。盧弼はいう。祖先の諱とおなじ名を避けるという規則はない。ただ、口にしてはいけないだけ。
ぼくは思う。曹操の娘、つまり曹芳のおばにあたる。曹魏は、王朝の期間が短いから、ぜんぜん世代が経過していない。
何焯はいう。曹奐が死ぬのは、晋の太安元年(302)である。このとき晋室は、趙王の司馬倫によって乱れた後である。ああ!

葬制や車服は、漢代の故事とする。6月癸亥、尚書・右僕射の王觀を司空とする。冬10月、王観は薨じた。

十一月燕王上表賀冬至、稱臣。詔曰「古之王者、或有所不臣。王將宜依此義、表不稱臣乎、又當爲報。夫後大宗者、降其私親、況所繼者重邪。若便同之臣妾、亦情所未安。其皆依禮典處、當務盡其宜」有司奏以爲「禮莫崇于尊祖、制莫大于正典。陛下稽德期運、撫臨萬國、紹大宗之重、隆三祖之基。伏惟、燕王體尊戚屬、正位藩服躬秉虔肅、率蹈恭德以先萬國。其于正典、闡濟大順、所不得制。聖朝誠宜崇以非常之制、奉以不臣之禮。臣等平議以爲燕王章表、可聽如舊式。中詔所施、或存好問。準之義類、則『宴覿之族』也。可少順聖敬、加崇儀稱、示不敢斥。宜曰『皇帝敬問大王侍御』。至于制書、國之正典、朝廷所以辨章公制、宣昭軌儀于天下者也、宜循法。故曰『制詔燕王』。凡詔命制書奏事上書諸稱燕王者、可皆上平。其非宗廟助祭之事、皆不得稱王名、奏事上書文書及吏民皆不得觸王諱、以彰殊禮、加于羣后。上遵王典尊祖之制、俯順聖敬烝烝之心、二者不愆、禮實宜之、可普告施行。」

11月、曹奐の父・燕王の曹宇が上表して、冬至を賀して「臣」と称した。詔した。「皇帝の父が称臣するのは適切か」と。有司はいう。「皇帝の父は称臣すべきでない。詔・命・制・書のとき、燕王と記すときは改行する。吏民に、燕王の諱を記させない」と。

何焯はいう。曹宇が称臣したのは、形式に不安があったからで、称臣するのを良しと思って行ったことでない。北魏の清河王のことを参考にして、曹宇は称臣した。周世宗が在野にいるときの形式はマネなかった。
姚範はいう。(子孫が)燕王の名を諱むのは、もとからである。ただし吏民にまで、諱ませるのが新しい。


十二月甲申、黃龍見華陰縣井中。甲午以司隸校尉王祥爲司空。

12月甲申、黃龍が華陰縣の井中にいる。

『郡国志』はいう。華陰県は、司隷の弘農郡である。もとは京兆に属する。太華山がある。

12月甲午、司隷校尉の王祥を司空とする。

趙一清はいう。『寰宇記』巻3によると、曹奐は河南の5郡をあわせ、司州をおく。いつ司州ができたか、異論がおおい。西晋に入ってから司州が置かれたともいうが、魏代にも司州の呼称が史料にでてくる。上海古籍550頁。盧弼はいう。
『晋書』王祥伝によると、曹髦が即位すると、王祥を司隷校尉となり、毋丘倹を討って太常となり、三老となる。いま『魏志』では太常を飛ばして、司隷校尉から司空となった。『魏志』と『晋書』で王祥の官歴が異なる。


景元2年、九錫を勧め、韓と濊貊が朝貢する

二年夏五月朔、日有食之。秋七月、樂浪外夷韓濊貊各率其屬來朝貢。八月戊寅、趙王幹薨。甲寅、復命大將軍進爵晉公、加位相國、備禮崇錫、一如前詔。又固辭乃止。

景元2年夏5月ついたち、日食あり。

『晋書』では、5月丁未ついたち。

秋7月、楽浪の外夷である韓と濊貊が、属をひきいて朝貢した。

楽浪は明帝紀の青龍元年にある。韓などは東夷伝にある。『通鑑』では、鮮卑の拓跋力微などの記述がふくらむが、盧弼はこの歳の事件ではないという。関連する説明を補ったものだ。

8月戊寅、趙王の曹幹が薨じた。8月(9月)甲寅、ふたたび司馬昭を晉公にすすめ、相國をくわえ、九錫を与えようとする。司馬昭は固辞した。

ぼくは思う。九錫を勧める話は、阮籍の文書で言い尽くしてしまったので、とくに詔が載らないのだろう。阮籍に書いてもらえば、もう充分だなあ!
陳景雲はいう。この月に甲寅はない。戊寅に誤りか。潘眉はいう。甲寅であれば9月とすべきだ。戊寅から甲寅まで、47日も離れるから、同月に収まらない。ぼくは思う。また暦がザツだよ!前近代に筆写者も、十干十二支を見た瞬間に理解できたのではなさそう。一覧表を見たんだろう。笑


景元3年、鄧艾が洮陽で姜維をやぶる

三年春二月、青龍見于軹縣井中。夏四月遼東郡言、肅慎國遣使重譯入貢、獻其國弓三十張、長三尺五寸、楛矢長一尺八寸、石弩三百枚、皮骨鐵雜鎧二十領、貂皮四百枚。冬十月蜀大將姜維寇洮陽、鎭西將軍鄧艾拒之、破維于侯和、維遁走。是歲、詔祀故軍祭酒郭嘉於太祖廟庭。

景元3年春2月、青龍が軹縣の井中にいる。夏4月、遼東郡は、肅慎國が駅伝をかさねて入貢し、弓矢や石弩などを献じたという。

粛慎は、明帝紀の青龍4年にある。また『魏志』東夷伝、『晋書』四夷伝にある。

冬10月、姜維が洮陽を寇した。鎭西將軍の鄧艾がこばむ。姜維を侯和でやぶる。姜維がにげた。

洮陽は『水経』河水注にある。胡三省も注する。
鄧艾伝はいう。甘露元年、鄧艾は鎮西将軍となる。甘露2年、征西将軍にうつる。いまなお鎮西将軍とする曹奐紀は、誤りである。ぼくは思う。直さないとダメじゃん!
侯和も胡三省が注する。上海古籍553頁。
『蜀志』姜維伝はいう。姜維は鄧艾にやぶれ、沓中にかえる。もう成都に還らない。『華陽国志』はいう。姜維は黄皓の執政をにくみ、沓中に麦をうえて、成都の政乱をさけた。胡三省はいう。司馬昭は、これにより姜維を沓中にクギヅケにして、成都を攻めようと決めた。ぼくは思う。もし姜維が成都にいたら、征蜀を遅らしたのか?そんなことはあるまい。司馬昭は、はやく「公式見解」でごまかすことのない功績をあげる必要がある。さもないと、もうすぐ司馬昭は死ぬよ。時間がない。

この歳、もと軍祭酒の郭嘉を、太祖の廟庭に祭る。

ぼくは思う。ちっとも曹奐が活躍しない。さすがに曹魏に共感を示しそうな陳寿ですら、ネタのない曹奐を、ほめることはできないのか。


景元4年、晋公となる、蜀漢平定

四年春二月、復命大將軍進位爵賜一如前詔、又固辭乃止。
夏五月詔曰「蜀、蕞爾小國土狹民寡。而姜維虐用其衆、曾無廢志。往歲破敗之後猶復耕種沓中、刻剝衆羌勞役無已、民不堪命。夫兼弱攻昧、武之善經。致人而不致於人、兵家之上略。蜀所恃賴唯維而已、因其遠離巢窟用力爲易。今使征西將軍鄧艾督帥諸軍、趣甘松沓中以羅取維、雍州刺史諸葛緒督諸軍趣武都高樓、首尾蹵討。若擒維便當東西並進、掃滅巴蜀也」又命鎭西將軍鍾會由駱谷伐蜀。

景元4年春2月、司馬昭に爵位と官位、九錫を与えると詔する。司馬昭は固辞した。詔を取り下げた。

胡三省はいう。景元元年の詔と同じだ。ぼくは思う。これは曹奐でなく、皇太后による攻撃だろう。皇太后が死んだとき、形勢が変わるだろうなあ!注意して見ておかねば。(皇太后の没年を『通鑑』でやったはずが、忘れた)

夏5月詔曰「蜀漢は小国のくせに、姜維が民と軍を酷使する。成都は姜維を遠ざけた。いま征西將軍の鄧艾は、諸軍を督帥して、甘松と沓中にゆき姜維を取り押さえよ。雍州刺史の諸葛緒は、諸軍を督して、武都の高樓にゆき、鄧艾につづけ。もし姜維を捕らえたら、東西から並進して、巴蜀を滅ぼせ」と。

盧弼はいう。武都でなく、武街とすべきだ。『晋書』文帝紀、『魏志』鍾会伝、『通鑑』でも武街とする。李賢はいう。下弁県は武都郡に属する。旧名は武街城という。また謝鍾英によると、高楼は橋頭の誤りである。
地名などは鄧艾伝にある。ぼくはもうよく分からん。興味もない。

また鎮西将軍の鍾会に命じて、駱谷から蜀漢を討伐させる。

駱谷は、曹爽伝、鍾会伝にある。
『晋書』文帝紀はいう。四方の兵18万を徴した。秋8月、軍は洛陽を発する。将軍の鄧敦が「まだ蜀漢を討つ時期じゃない」というから、司馬昭はこれを斬った。
ぼくは思う。司馬昭は九錫をなんども断っているから、いま蜀漢を攻めなかったら、ますます辛くなるのだ。鄧艾が姜維を破ってくれたので、キッカケができた。鄧艾の功績は大きいなあ!あとで成都を陥落させるのも鄧艾だし。


秋九月太尉高柔薨。冬十月甲寅、復命大將軍進位爵賜一如前詔。癸卯立皇后卞氏、十一月大赦。

秋9月、太尉の高柔が薨じた(90歳)。冬10月甲寅、司馬昭に前詔と同じく、九錫などを勧める。

『晋書』文帝紀はいう。冬10月、天子は諸侯がそれぞれ勧めるので、勧進の文書をだした。上海古籍555頁。いつもの形式だが、これをいざ読まねばならない!長文だけど、おもしろいなあ!
司馬昭は固辞したが、司空(司徒とすべき)の鄭沖ら群臣が勧めたので、司馬昭は受命した。胡三省はいう。はじめて、相国、晋公、九錫の命を受けたのだ。
ぼくは思う。劉禅が降伏したのは、翌11月だ。つまり司馬昭は、蜀漢を滅ぼすための軍を発したが、結果が出る前に、九錫を受けてしまった。九錫を勧進する文書に、蜀漢を討伐した功績は無い。淮南を平定した話などだけ。司馬昭にとって、すごいリスキーだ。鄧艾が成都を非常手段に訴えておとしたのは、司馬昭が引けない場所まで来ていたからだ。サドンデスが、まさに最終局面に入っていたことを表す。
ぼくは思う。魏蜀版の「桃園の結盟」がある。曹魏と蜀漢は、司馬昭にとって「同年同月」に死んでほしかった。司馬昭が蜀漢を滅ぼした直後、その功績を根拠に曹魏を滅ぼしたい。これ以上の遅延は、皇太后の威信をたかめ、司馬昭をダメにする。「蜀漢滅亡=同時=晋公受納」が、もう1歩も引けないストーリー。10郡の晋公になれば、曹魏は滅亡を開始するも同然。だが計画が狂ったらしく、曹魏のほうが1ヶ月早く死んだから、司馬昭は窮地だったはず。「司馬昭に不相応な官爵を受けとらせ、司馬昭を困らせる」が皇太后の戦略であり、まんまと的中した。司馬昭は、強行軍をしてくれた鄧艾に感謝すべき!鄧艾は遠征先で、弱気なことを言う部下に厳しく対処した。
ぼくは思う。司馬昭が九錫を受けるストーリーは、伐蜀の軍を発するときに、戻れないところまで進んでいたのだろう。ちゃっかり「群臣」たちも、司馬昭にプレッシャーをかけてた。蜀漢は、蜀漢の疲弊によってでなく、郭太后と司馬昭のポトラッチが極まったことにより滅ぼされた。蜀漢のファンは、やりきれないなあ。滅ぼされる「納得ゆく」理由がない。
ぼくは思う。ということは伐呉も、孫呉そのものに滅ぼされる「納得ゆく」理由がないのかも。孫皓の悪政は、いかにも史家の誇張である。また『晋書』に出てくる伐呉の議論は、本音を抑圧した上ででてきた「理性の建前」である。

10月癸卯、皇后の卞氏をたてる。11月に大赦した。

卞皇后は、曹操の卞太后の弟・卞秉の孫である。


自鄧艾鍾會率衆伐蜀、所至輒克。是月、蜀主劉禪詣艾降、巴蜀皆平。十二月庚戌、以司徒鄭沖爲太保。壬子分益州爲梁州。癸丑、特赦益州士民、復除租賦之半五年。
乙卯、以征西將軍鄧艾爲太尉、鎭西將軍鍾會爲司徒。皇太后崩。

鄧艾と鍾会は勝ちまくり、11月に鄧艾が劉禅の降伏をいれた。

『晋書』文帝紀はいう。11月、鄧艾は綿竹で諸葛瞻を斬り、雒県に進軍する。劉禅をくだす。曹奐は司馬昭を相国として、国政の全般をあずけ、節伝を返上させる。侍中、大都督、録尚書の「号」を去らせる。ぼくは思う。ぼくが「官位」と言っているものは「号」なのね。後漢の『白虎通』では「皇帝は号である」だったね。蜀漢を滅ぼした功績を、晋公の上に重ねて賞する必要があったから、これをやった。

12月庚戌、司徒の鄭沖を太保とした。

『晋書』職官志はいう。太宰、太傅、太保は周の三公である。魏初に太傅だけおいて、鍾繇がついた。魏末に太保をおき、鄭沖がついた。『晋書』鄭沖伝はいう。太保を拝して、位は三司の上。鄭沖は位階は台輔だが、世事をあずからず。
盧弼はいう。司馬昭を勧進したから、鄭沖は太保にしてもらった。!

12月壬子、益州をわけて梁州とする。

『郡国志』はいう。『晋書』地理志はいう、、といういつも盛況な話題がある。上海古籍557頁。

12月癸丑、益州の士民を特赦した。また租賦を5年は半分とする。
12月乙卯、征西將軍の鄧艾を太尉として、鎭西將軍の鍾會を司徒とした。

胡三省はいう。蜀を平定した功績を賞した。ぼくは思う。鄭沖さんが、司徒をどいてくれたから、鍾会が司徒になることができた。太尉は、あれが席を空けたのだろう。

皇太后が崩じた。!121212

景元5年とする版本もあるが誤りで或る。もと蜀漢の地で、租税を5年間軽減するという「5年」がくっついた。曹丕は黄初2年に天下に「曹魏に移住した者は5年以内なら罪を問わない」とするが、これと同じ移行期の5年である。景元4年12月に崩じたので正しい。
ただし景元5年がないわけではない。年内に咸煕元年と改元された。
ぼくは思う。郭太后は、司馬昭が蜀漢を平定したことにより、「司馬昭が不相応な爵位を受けて、威信を失う」という戦略をとれなくなった。だから、ガッカリして死んだ。さらに上の「晋王にしてやろうか」というポトラッチをしかけるほど、気力が残っていなかった。

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曹芳の咸煕年間;魏晋革命がおきる

咸煕元年、

咸熙元年春正月壬戌、檻車徵鄧艾。甲子行幸長安。壬申、使使者以璧幣祀華山。是月鍾會反于蜀、爲衆所討。鄧艾亦見殺。二月辛卯、特赦諸在益土者。庚申、葬明元郭后。三月丁丑、以司空王祥爲太尉、征北將軍何曾爲司徒、尚書左僕射荀顗爲司空。己卯、進晉公爵爲王、封十郡幷前二十。

咸熙元年の春正月壬戌、檻車で鄧艾を徵す。正月甲子、司馬昭は長安にゆく。

『晋書』文帝紀はいう。正月乙丑、司馬昭は征西して長安にゆく。曹魏の皇族を鄴県におしこめ、従事中郎の山濤が軍司事行して、鄴県に鎮する。何焯はいう。郭太后のモガリであるから、けだし黒絰で長安にゆく。

正月壬申、華山を祭る。
この月、鍾会が自軍に討たれた。鄧艾も殺された。

2月丙辰、曹髦は洛陽にもどる。本紀が書き漏らす。

2月辛卯、益州にいた者を特赦した。2月庚申、明元郭后を葬る。

ぼくは思う。司馬昭が晋公を受けるまで、明帝の皇后として(つまり明帝と同世代として)司馬氏と戦った。三少帝は、郭太后の子として皇帝になった。曹芳のつぎ曹髦、曹髦のつき曹奐が代わるが、ちっとも世代が進まないのは、郭太后の子として迎えるからだ。世代の論争で、郭太后はゴネていたしね。
曹魏は、実質的には、曹丕、曹叡(その未亡人)というわけで、2世代で終わった。3世代めが出るか、出るかと期待させながら、出てこなかった。ぼくが『魏書』を編纂するなら、曹丕の文帝紀、曹叡の明帝紀、郭太后の元后紀の3つだなあ。司馬昭が晋公になって、曹魏は滅亡する。264年でおしまい!
ぼくは思う。人間はチンパンジーの幼児にそっくりらしい。ずっと「幼生」のまま停止したのが人間だという。曹魏の三少帝は、「成人に失敗」を反復する物語。飛躍させるなら「流産」の反復である。まず曹叡の子が若死し、代わりに郭太后が3子を立て続けに「産む」が、失敗がつづく。だが、ヒルコを流したり、乱暴者だったり、無力だったり。実際に3少帝がそうだと言うのではなく、そういう物語ないし神話の型に、はまっているのだ。「だから何?」と問いかけたとき、歴史学的な観点からは黙らざるを得ない。だが、ここからインスピレイションが止まらないのが、素人ブロガーの楽しみ方!考えてみよう!司馬氏による「公式見解」も、こういう人類学的な思考の影響下とも言えそう。
すると孫呉の三嗣主伝も、同型の物語かなあ!

3月丁丑、司空の王祥を太尉とする。征北將軍の何曾を司徒とする。尚書左僕射の荀顗を司空とする。2月己卯、晉公を晋王に勧める。

ぼくは思う。郭太后がいないから、やりたい放題。もともと、晋公か過剰な爵位であり、征蜀によってバランスがとれた。つぎは征呉によって晋王となり、それで司馬氏の昇進は終わりである。こうして統一王朝としての曹魏が、永遠に続きました、めでたしめでたし。という結末で良かったじゃん。郭太后さえ生きていれば。もしくは曹奐が、少なくとも曹芳くらい有能ならば。

晋公の10郡から、さらに10郡ふやして、晋王は20郡。

甘露3年に8郡、景元元年に2郡、いま咸煕元年に10郡。


漢晉春秋曰。晉公既進爵爲王、太尉王祥、司徒何曾、司空荀顗並詣王。顗曰「相王尊重、何侯與一朝之臣皆已盡敬、今日便當相率而拜、無所疑也。」祥曰「相國位勢、誠爲尊貴、然要是魏之宰相、吾等魏之三公。公、王相去、一階而已、班列大同、安有天子三公可輒拜人者!損魏朝之望、虧晉王之德、君子愛人以禮、吾不爲也。」及入、顗遂拜、而祥獨長揖。王謂祥曰「今日然後知君見顧之重!」

『漢晋春秋』はいう。司馬昭が晋王になってから、太尉の王祥、司徒の何曽、司空の荀顗がおとずれる。荀顗「司馬昭は晋王である。すでに何曽は晋臣である。わたし荀顗と、きみ王祥も、司馬昭に拝礼しよう」と。王祥「私たちは曹魏の三公である。三公と晋王は1等しか異ならない。席次はほぼ同じ。どうして曹魏の三公が、司馬昭に拝礼して、曹魏の威信を損なうのか」と。荀顗は拝礼したが、王祥は長揖したのみ。

ぼくは思う。王祥のような発想をする者がある限り、禅譲は成功しない。
『晋書』何曽伝はいう。司馬昭が晋王になると、何曽、高柔、鄭沖を晋の三公とした。何曽だけは敬をつくしたが、あと2人は揖しただけだった。ぼくは補う。高柔と鄭沖も、魏臣だと自己認識しているので、司馬昭にペコペコしない。やはり魏晋革命には、まだハードルが高い。どうやって乗り越えるんだ?なんだか予想がつかない。結果を知っているのに、予定調和的に読めないのが、史書のおもしろさ!

司馬昭「王祥の王儀への愛顧がわかった」と。

『晋書』王祥伝では、司馬炎が晋王になったときの記事とする。何焯はいう。王祥は、魏臣として振るまった。後漢の楊彪と同レベルである。王祥についての史書の評価がいろいろ。上海古籍561頁。
盧弼はいう。『晋書』王祥、鄭沖、何曽、荀顗伝によると、咸煕や泰始のころ、王祥らはみな80歳前後である。曹魏の三公でありながら、魏晋革命に協力するのは、鍾繇、華歆、王朗と同じである。曹操も司馬懿も、創業のときの宰相がダメな人材なので、国が永続しないのだ。


丁亥、封劉禪爲安樂公。夏五月庚申、相國晉王奏復五等爵。甲戌、改年。癸未、追命舞陽宣文侯爲晉宣王、舞陽忠武侯爲晉景王。六月、鎭西將軍衞瓘、上雍州兵于成都縣獲璧玉印各一。印文似「成信」字、依周成王歸禾之義、宣示百官、藏于相國府。
初、自平蜀之後、吳寇屯逼永安。遣荊豫諸軍掎角赴救。七月賊皆遁退。八月庚寅、命中撫軍司馬炎副貳相國事。以同魯公拜後之義。

3月丁亥、劉禅を安樂公とする。

趙一清はいう。景初2年、漁陽に安楽県が置かれた。盧弼はいう。策命は『蜀志』後主伝にのる。ぼくは思う。劉禅は県公なのね。

夏5月庚申、相國・晉王の司馬昭が、五等爵をもどせという。

『晋書』文帝紀で、はじめて五等爵の議論をするのは、同年7月の記事のあとである。『通鑑』では5月として、胡三省が五等爵の内容をのべる。『魏志』には議論の文書がない。『晋書』地理志では、司馬昭が晋王になると、裴秀に命じて五等の制を提案させる。ここに胡三省がひいたっぽい内容がある。

5月甲戌、咸煕と改元した。5月癸未、舞陽宣文侯の司馬懿を晉宣王、舞陽忠武侯の司馬師を晉景王とする。6月、鎭西將軍の衞瓘が、雍州兵が成都県で見つけた、璧玉印を1つずつ献上した。印は「成信」と読めた。周成王の歸禾之義にちなむ。百官に宣示し、相國府にしまう。

ぼくは思う。西晋もまた、こういう符命が好き!
『史記』魯周公の世家にある。
孫盛は「成を建国した公孫述が造ったんだろ」と裴注でいう。

平蜀ののち、孫呉が永安にせまる。荊州と豫州の諸郡で、掎角して救いにゆく。7月、孫呉がひく。

永安は武帝紀の建安20年注、先主伝など。
『晋書』羅憲伝にこのときの話がある。

8月庚寅、中撫軍の司馬炎に、相國の政事を副貳させる。魯公があとをついだ義例である。

趙一清はいう。曹魏には中護軍、中領軍がある。撫軍将軍もある。これを中撫軍という。けだし旧制を、司馬炎のために特別に改めたのだろう。司馬炎は、まもなく中撫軍から撫軍大将軍になる。盧弼はいう。中撫軍とは、撫軍将軍と同じである。なお中領軍のなかで、資質のおもい者を領軍将軍という。かるい者を中領軍という。ぼくは思う。胡三省が同じこと書いてたなあ。


癸巳詔曰「前逆臣鍾會構造反亂、聚集征行將士。劫以兵威、始吐姦謀。發言桀逆、逼脅衆人。皆使下議、倉卒之際、莫不驚懾。相國左司馬夏侯和、騎士曹屬朱撫、時使在成都。中領軍司馬賈輔、郎中羊琇、各參會軍事。和琇撫皆抗、節不撓、拒會凶言。臨危不顧、詞指正烈。輔語散將王起、說『會姦逆凶暴、欲盡殺將士』又云『相國已率三十萬衆西行討會』欲以稱張形勢、感激衆心。起出、以輔言宣語諸軍、遂使將士益懷奮勵。宜加顯寵、以彰忠義。其進和輔爵爲鄉侯、琇撫爵關內侯。起宣傳輔言告令將士、所宜賞異。其以起爲部曲將。」

8月癸巳、詔した。「鍾会が反乱したとき、相國左司馬の夏侯和、騎士曹屬の朱撫は、使者として成都にいた。中領軍司馬の賈輔、郎中の羊琇は、鍾会の軍事に参した。鍾会の鎮圧に功績があったので、それぞれ郷侯、関内侯とする」と。

『晋書』外戚伝に、羊琇がある。司馬師の妻の従父弟である。
林国賛はいう。鍾会の鎮圧に、もっとも功績があったのは、胡烈と胡淵である。彼らが褒賞を受けていない。胡氏は、鍾会伝にひく『晋諸公賛』にも言行が記されない。かわいそうに。


◆西晋初期のから孫呉への外交

癸卯、以衞將軍司馬望爲驃騎將軍。九月戊午、以中撫軍司馬炎爲撫軍大將軍。
辛未詔曰「吳賊政刑暴虐、賦斂無極。孫休遣使鄧句、勑交阯太守鎖送其民、發以爲兵。吳將呂興因民心憤怒、又承王師平定巴蜀、卽糾合豪傑、誅除句等、驅逐太守長吏、撫和吏民、以待國命。九真日南郡聞興去逆卽順、亦齊心響應、與興協同。興、移書日南州郡開示大計、兵臨合浦告以禍福。遣都尉唐譜等詣進乘縣、因南中都督護軍霍弋、上表自陳。又交阯將吏各上表、言『興創造事業、大小承命。郡有山寇、入連諸郡。懼其計異、各有攜貳。權時之宜、以興爲督交阯諸軍事上大將軍定安縣侯。乞賜褒奬、以慰邊荒』乃心款誠、形于辭旨。昔儀父朝魯、春秋所美。竇融歸漢、待以殊禮。今國威遠震、撫懷六合、方包舉殊裔、混一四表。興、首向王化舉衆稽服、萬里馳義請吏帥職。宜加寵遇崇其爵位。既使興等懷忠感悅、遠人聞之必皆競勸。其以興爲使持節都督交州諸軍事、南中大將軍、封定安縣侯。得以便宜從事、先行後上」策命未至、興爲下人所殺。

8月癸卯、衞將軍の司馬望を驃騎將軍とする。9月戊午、中撫軍の司馬炎を、撫軍大將軍とする。
8月辛未、詔した。「交州にいる呂興を、使持節都督交州諸軍事・南中大將軍として、定安縣侯に封じる。呂興は、孫呉の背後を撹乱せよ」と。策命がとどく前に、呂興は部下に殺された。

いろいろ書いてあるけど、はぶく。『資治通鑑』で読んだ。上海古籍565頁。


冬十月丁亥、詔曰「昔聖帝明王、靜亂濟世、保大定功。文武殊塗、勳烈同歸。是故或舞干戚以訓不庭、或陳師旅以威暴慢。至于愛民全國、康惠庶類、必先脩文教、示之軌儀、不得已然後用兵、此盛德之所同也。往者、季漢分崩九土顛覆、劉備孫權乘間作禍。三祖綏寧中夏、日不暇給、遂使遺寇僭逆歷世。幸賴宗廟威靈宰輔忠武、爰發四方拓定庸蜀。役不浹時、一征而克。自頃、江表衰弊政刑荒闇、巴漢平定孤危無援、交荊揚越靡然向風。今交阯偽將呂興、已帥三郡萬里歸命。武陵邑侯相嚴等、糾合五縣請爲臣妾。豫章廬陵山民、舉衆叛吳以助北將軍爲號。又孫休病死、主帥改易。國內乖違、人各有心。偽將施績、賊之名臣、懷疑自猜、深見忌惡。衆叛親離、莫有固志。自古及今、未有亡徵若此之甚。若六軍震曜南臨江漢、吳會之域必扶老攜幼以迎王師、必然之理也。然興動大衆猶有勞費、宜告喻威德。開示仁信、使知順附和同之利。相國參軍事徐紹、水曹掾孫彧、昔在壽春並見虜獲。紹、本偽南陵督、才質開壯。彧、孫權支屬、忠良見事。其遣紹南還以彧爲副、宣揚國命告喻吳人。諸所示語、皆以事實。若其覺悟、不損征伐之計。蓋廟勝長算、自古之道也。其以紹兼散騎常侍、加奉車都尉、封都亭侯。彧兼給事黃門侍郎、賜爵關內侯。紹等所賜妾及男女家人在此者、悉聽自隨、以明國恩。不必使還、以開廣大信。」

冬10月丁亥、詔した。「孫呉では孫皓が立った。相國參軍事の徐紹、水曹掾の孫彧は、もと孫呉に仕えたが、寿春で曹魏に捕らわれた。徐紹に散騎常侍をかねさせ、奉車都尉をくわえ、都亭侯に封じる。孫彧に給事黃門侍郎をかねさせ、關內侯をたまう」

ぼくは思う。西晋のごく初期の孫呉への政策です。孫呉の行動を責めながら、孫呉から降った者とか、孫呉のなかで反抗した者に、官爵をばらまく。司馬昭は、郭太后に官爵を押しつけられる立場から、官爵をばらまける立場にかわった。郭太后が死んだあとこそ、司馬昭のほんとうの執政期だ。もうすぐ終わるけど。
『晋書』文帝紀、『呉書』孫皓伝にもある。『文選』で石苞が孫皓に与えた文書で、呂興に言及する。臧嵘『晋書』で石苞は、都督揚州諸軍事となる。太祖が徐劭と孫彧を孫呉に使いさせる。石苞は孫楚に、孫皓に与える文書をつくらせる。孫彧は、孫皓を説得できず。上海古籍568頁。


丙午、命撫軍大將軍新昌鄉侯炎、爲晉世子。是歲、罷屯田官以均政役。諸典農皆爲太守、都尉皆爲令長。勸募蜀人、能內移者、給廩二年復除二十歲。安彌福祿縣各言、嘉禾生。

10月丙午、撫軍大將軍・新昌郷侯の司馬炎を、晋王の世子とする。
この歲、屯田官をやめて、政役を均しくした。典農らを、みな太守とする。都尉を令長とする。

屯田について、上海古籍569頁。後日やる。っていうか、今日的な歴史学の研究テーマなんだから、この注釈ですっきり分かるという問題じゃないなあ。

蜀漢から曹魏に移住した者は、2年の食糧を給付し、20年?で給付を除いた。涼州の酒泉郡で、安彌県と福祿県にて、嘉禾が生えた。

咸煕2年、魏晋革命をやる

二年春二月甲辰、朐忍縣、獲靈龜以獻。歸之于相國府。庚戌、以虎賁張脩昔於成都馳馬至諸營言鍾會反逆以至沒身、賜脩弟倚爵關內侯。夏四月、南深澤縣言甘露降。吳遣使紀陟弘璆請和。

咸煕2年の春2月甲辰、巴郡の朐忍県で、靈龜を捕らえて献じた。司馬昭の相國府にしまう。2月庚戌、虎賁の張脩が、成都で諸営に「鍾会が反逆した」と伝達して殺された。弟の張倚に關內侯を賜う。

ぼくは思う。司馬昭は、ほんとにバラまくなあ!

夏4月、冀州の安平国の南深澤県で、甘露がふる。孫呉から、紀陟と弘璆が請和の使者にくる。

『通鑑』では洪璆とする。『呉志』孫皓伝はいう。甘露元年3月、孫皓は、紹と彧に返書をもたせる。『晋書』文帝紀はいう。孫皓は、紀陟に貢物をもたせた。


五月詔曰「相國晉王、誕敷神慮、光被四海。震燿武功、則威蓋殊荒。流風邁化、則旁洽無外。愍卹江表、務存濟育、戢武崇仁、示以威德。文告所加、承風嚮慕、遣使納獻、以明委順、方寶纖珍、歡以效意。而王謙讓之至、一皆簿送。非所以慰、副初附、從其款願也。孫皓諸所獻致、其皆還送歸之于王、以協古義」王固辭、乃止。
又命晉王、冕十有二旒、建天子旌旗、出警入蹕、乘金根車六馬、備五時副車、置旄頭雲罕、樂舞八佾、設鐘虡宮縣。進王妃爲王后、世子爲太子。王子王女王孫、爵命之號、如舊儀。癸未、大赦。

5月、詔した。「司馬昭は、孫皓を帰服させ、貢物をひきだした。司馬昭から孫皓に、贈物をかえせ」と。司馬昭は固辞した。

ぼくは思う。孫皓を帰服させたのは、曹奐ではなくて、司馬昭だという認識なのね。まあ政策立案して、呂興をゆさぶったり、使者を交換したのは司馬昭だろうけど。曹奐なりにポトラッチをしかけてるのね。弱々しいけれど。
『晋書』文帝紀はいう。みな皇帝と同じ儀礼としたと。またいう。晋国に、御史大夫、侍中、常侍、尚書、中領軍、衛将軍の官をおいた。

司馬昭の、冠や旗や車の礼式をあげた。司馬昭の妃を后、世子を太子とした。癸未、大赦した。

秋八月辛卯、相國晉王薨。壬辰、晉太子炎、紹封襲位、總攝百揆、備物典冊、一皆如前。是月襄武縣言、有大人見。三丈餘、跡長三尺二寸、白髮、著黃單衣、黃巾、柱杖。呼民王始語云「今當太平」。
九月乙未、大赦。 戊午、司徒何曾爲晉丞相。癸亥、以驃騎將軍司馬望爲司徒、征東大將軍石苞爲驃騎將軍、征南大將軍陳騫爲車騎將軍。乙亥、葬晉文王。閏月庚辰、康居大宛獻名馬、歸于相國府、以顯懷萬國致遠之勳。

秋8月辛卯、相國・晉王の司馬昭が薨じた。55歳。

ぼくは思う。曹奐の攻撃も、ちょっとは効いたらしい。皇帝とまったく同じ儀礼にしたことにより、司馬昭が死んでくれた。しかし、切り札のはずの王爵を、かんたんに奪われちゃった。もう魏帝が差し出せるものがない。

8月壬辰、太子の司馬炎が紹封・襲位する。政事の担当範囲、儀礼などは司馬昭とおなじ。この月、隴西の襄武に巨人があらわれて「太平になる」という。9月乙未、大赦した。 9月戊午、魏の司徒・何曾が、晉の丞相となる。9月癸亥、驃騎將軍の司馬望が司徒となる。征東大將軍の石苞が驃騎將軍となる。征南大將軍の陳騫が車騎將軍となる。

巨人の話は、『晋書』武帝紀にもある。石苞は、曹髦紀にひく『世語』、鄧艾伝にひく『世語』にある。『晋書』石苞伝はいう。石苞は陳騫と「魏晋革命がおきるよね」と言っていた。革命のため石苞ががんばった。
陳騫は、陳矯伝の注釈にある。『晋書』陳騫伝はいう。武帝が受禅すると、陳騫は車騎将軍となる。盧弼はいう。陳騫が車騎将軍になったのは、受禅の前である。『晋書』は記事の順序がおかしい。

9月乙亥、司馬昭を葬る。

『通鑑考異』は、司馬昭を葬るのを癸酉とする。『魏志』に従う。『通鑑補』はいう。大赦した乙未から、『魏志』で葬った乙亥まで、41日ある。大赦と埋葬は、9月中に収まらない。或る者は「葬ると書かないのは、天子として司馬昭を葬るために、死体を待機させたからだ」という。
趙一清はいう。石苞伝によると、司馬昭が死ぬと、賈充と荀勗が葬礼を定める前に、石苞は服喪を始めた。石苞は「晋室の創業のとき、葬礼させなかなか決まらない」と慟哭した。趙一清が考えるに、受禅より先に、司馬昭は天子の礼を許された。曹操と同列に論じてはならない。盧弼はいう。晋王の世子を立てるとき、司馬昭は「これは司馬師の天下だ」というが、司馬昭はながく実権をもつ。葬礼を決めて死ぬはずだ。

閏月庚辰、康居と大宛から名馬が献じられ、司馬炎の相國府にしまう。司馬氏が遠方をなつけた功績を明らかにした。

ぼくは思う。魏晋の公式見解において、「孫呉は帰服した」ことになっているのね。孫皓も、うっかり使者を交換するから、魏晋革命に協力してしまった。いちど服従して、また叛くのは、曹丕と孫権にそっくりだ。
康居と大宛は、『三国志』東夷伝、『魏略』西戎伝にある。


十二月壬戌、天祿永終。曆數在晉。詔羣公卿士、具儀設壇于南郊。使使者奉皇帝璽綬冊、禪位于晉嗣王、如漢魏故事。甲子、使使者奉策。遂改次于金墉城。而終館于鄴、時年二十。
魏世譜曰。封帝爲陳留王。年五十八、大安元年崩、諡曰元皇帝。

12月壬戌、天祿が永終した。曆數は晋室にある。羣公と卿士に詔して、南郊に設壇させた。使者に皇帝の璽綬と冊を持たせて、晉の嗣王に禪位させた。漢魏革命の故事にしたがう。

盧弼はいう。漢魏の故事、という短い言葉に、無限の意味を含ませる。ぼくは思う。やったら、やり返される、という意味だろうか。
『晋書』武帝紀のほうがくわしい。策文などが載る。

12月甲子、策文を奉らせる。曹奐は金墉城にゆき、鄴県にゆく。20歳。『魏世譜』はいう。曹奐は陳留王となる。58歳で、大安元年に崩じた。元皇帝と諡された。

『通典』巻74は、曹奐を陳留王に封じる文書を載せる。上海古籍574頁。引用する必要があったら、見返そう。魏帝と同じような儀礼を許しますよと。
潘眉はいう。献帝は陳留王から皇帝となった。曹奐は陳留王となった。曹魏は、陳留王を得て王朝をつくり、陳留王となって王朝が終わった。ぼくは補う。曹操が陳留で撃破したのが、袁術と張邈である。いらん情報だなあ。
趙一清はいう。『晋書』成帝の咸和元年冬10月、曹操の玄孫を陳留王として、曹魏をつがせる。『宋書』礼志にも陳留王の曹氏がいる。


評曰。古者以天下爲公、唯賢是與。後代世位、立子以適。若適嗣不繼、則宜取旁親明德。若漢之文宣者、斯不易之常準也。明帝、既不能然、情繫私愛、撫養嬰孩、傳以大器。託付不專、必參枝族、終于曹爽誅夷、齊王替位。高貴公、才慧夙成好問尚辭、蓋亦文帝之風流也。然輕躁忿肆、自蹈大禍。陳留王、恭己南面、宰輔統政。仰遵前式、揖讓而禪、遂饗封大國。作賓于晉、比之山陽、班寵有加焉。

陳寿は評する。曹叡は、血縁者から優れた者を後継に選ぶべきだが、かわいい曹芳なんかを選んだ。曹髦は軽はずみに殺された。曹奐は、司馬昭を抑えきれなかった。だが曹奐は、後漢の献帝よりは厚遇された。

ぼくは思う。裴松之はとくに評をひかない。盧弼も、それほど文書をひいてこない。「とくに言うべきことがない」というのが、みんなの意見なんだろう。ぼくは三少帝紀、わりにおもしろかったけど。土曜の午前はラカンを書き終え、土曜の午後から始め、日曜は終日。月曜は会社いったからその夜、火曜は午後年休だから最後まで。水曜に早起きして完了させた。3日で目を通した。よき日付の日にw 121212

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