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04章 社会と経済のシステム open

『[新訳]大転換』カール・ポラニー (著), 野口 建彦 (翻訳), 栖原 学 (翻訳) 、東洋経済新報社 2009

訳者による梗概

19世紀以降の市場システムは、どこが特殊か。過去の時代と比較して、明らかにする。
経済が市場に支配されるのは、19世紀以降のみである。交換における利得と利潤を求めて行動する「経済人」という過程を、19世紀以前に適用してはいけない。19世紀以前は、生産と分配における秩序は、どのように維持されたか。互酬、再分配、家政の3つである。

互酬の機能は、対称性という制度的パターンに助けられて機能する。共同体内、あるいは共同体相互において、個人あるいは集団は、それぞれ自己の「片割れ」をもつ。相互の贈物のやりとり、とも考えられるような関係をむすぶ。クラ交易である。
再分配は、組織が中心性という制度的パターンをもつ場合に機能する。共同体の成員による生産物は、主張(中心に位置する人物)に集めて貯蔵される。さまざまな機会に、ふたたび成員に分配される。

対称性の互酬と、中心性の再配分。きれいな対比!

いずれの場合も、利潤という観念はない。取引性向はない。経済システムは、社会組織の単なる1機能にすぎない。互酬と再分配は、原始的や小規模でない。

家政は、みずから使用するための生産。閉ざされた集団という制度的パターンで機能する。家族、村落、荘園などの自給自足の単位において機能した。
西欧の封建制が終焉するまで、経済システムは3原理であった。政治的・社会的活動と、経済的活動が一体化され、互酬、再分配、家政の原理が組織された。

政治と社会を、経済から分けない。これが要点。19世紀以降は、政治と経済が分かれただけでなく、経済が、政治と社会を拘束した。政治や社会にまで「利潤をだせ」と要求するようになった。ポランニーは、そういう話。


19世紀の市場経済は、特殊である

19世紀の市場経済には、尋常ならざる諸前提がある。
市場経済とは、市場が自己調整的なシステムであると考える。

ブッシュ-小泉の新自由主義、市場原理主義と、この「自己調整的なシステム」を、イコールにして読解しても良いみたいです。訳者や解説者、べつの本の学者もそういう理解だった。

市場価格によって、ただ市場価格によってのみ、統制される経済のことである。外部からの助力・干渉なく、経済全体を組織できる。じつは当然でなく、前代未聞の経済である。

いかなる社会も、何らかの種類の経済をもたねば、持続できない。_077
ただし19世紀以前、市場によって経済は支配されたことがない。交換に際して得られる、利得・利潤が重要になったのは、19世紀以降である。市場という制度は、新石器時代からあった。だが経済において、市場の役割は付随的だった。

市場はカネカネだが、経済というのは、カネがなくても成立する。言葉づかいに注意だな。「経済的に」というとき、「カネの利得・利潤がでる」という意味でも、うっかり使ってしまう。ブルデューの翻訳でも、ゴチャゴチャした。
ところで。今日のカネカネ経済においては、交換を通じて、利得・利潤を得ている。けっきょく交換を通じて、相手に損失をかぶせているのだ。ゼロサムゲームを前提とすれば、もちろん相手が損失。ゼロサムゲームでなく、例えば「ウィンウィン」なんて、気持ち悪い語感のカタカナ語に捉えたとしても、やはり欺瞞的。
ぼくは「だからカネカネ経済=市場経済は、きたないんだ」なんて、言いたいのでない。闘技場に放り込まれたら、戦わないと死ぬから。だが、闘技場の外から眺めることも、可能である。
外からの眺めかたの1つが、カール・ポランニー。
ブルデューの『ディスタンクシオン』を読んでいるとき、カネでないものを、カネの取引の仕方で分析した。ただの比喩ではない。なぜなら、社会資本とカネ資本を、交換・変換することだってできるのだから。
ただしブルデューは、交換・変換によって、利得・利潤をあげる話をしなかった。「あなたとは違うんです」と自分の階層を際立たせ、自分の資本を蓄積する話は多かった。どこまでカネ取引にひきつけて理解できるか、つかめなかった。
だが、交換によって利得・利潤をあげなくても、ポランニーが言うところの「経済」として分析することが可能である。この「経済」には、市場が含まれるだけでなく、互酬、再分配、家産が含まれる。経済の語法で、カネカネ市場経済でないものを分析をさせてもらえるのは、とても安心。
ところでマルクスが、アダム・スミスを批判して「市場における取引が利潤を生むのでない。錯覚だ」と言ってた。ポランニーは、初期のマルクス(商品の物神化)を批判的に継承しているみたい。確信犯的に「私はマルクスとは違う。市場における取引は、利潤を生むのだ」という立場を取っているのだろう。ナマ兵法はケガのもと。
マルクスでよく分かっていないのが「貨幣」と「資本」の違い。解説本を図書館で5冊くらい借りて読んだが、原語の日常語レベルでは、同じ言葉をつかうらしい。なんか、頭がぐるぐるしてきたので、次へ。


アダム・スミスはいう。「社会における分業は、市場の存在に依拠する。分業は、取引・交易・交換の性向である」と。この表現から「経済人=エコノミックマン」という概念が生まれた。過去の誤読である!
19世紀後半。スペンサーは、分業の原理を、取引・交換と同一視した。スミスのひそみにならい、20世紀になっても、誤読をつづけた。19世紀以前、経済は、市場という制度によって、支配・規制されない。
1776年、スミスは『国富論』にて、「未開人でさえ、利益のあがる仕事を好む」と仮説した。この偏見を捨て去れ。
また、人類学において未開人は、資本主義的な心理よりも、共産主義的な心情を持つと思われた。社会主義も誤りであった。
自然状態における人間は、市場の法則にもとづき、取引・交易・交換をするのでない。人間は、取引・交易・交換という性向から、市場主義を生んだのでない。これを理解した古典派の経済学者は、「非文明」人への関心を放棄した。

市場主義を生んだのは、イギリスの産業革命である。そういう議論に続くが、その部分は抜粋しない。


個人の利害より、共同体の利害

人間社会が存続するために必要なのは、生存である。
ある部族社会では、「個人の経済的利害が、何よりも重要」なんてことはない。共同体そのものが、すべての成員を飢えから守る。もし災害が起これば、個人の利益が脅かされるのでなく、共同体の利益が脅かされる。

個人の利害ばかり、気にかけても、「何やってんだ、てめー」である。

社会的紐帯を維持することも、重要である。なぜか。
名誉あるいは寛容の規範を無視すれば、個人は共同体と結びつけない。長期的に見れば、社会的な義務は互恵的である。成員相互の、ギブアンドテイクに基づく利益を得られる。個人に対しては「利己心を除け」という圧力がかかる。個人の利害という観点から、理解することすら不能。危険な遠征の成果を共有する。
寛容に対する報奨は、社会的威信を増大させる。公式の場での賞賛は、勤勉な、熟達した、優秀な畑作にあたえられる。ただし、飛び抜けて優れていれば、嫉妬を受ける。ほどほどに優れているのが良い。
人間の情熱は、非経済的な目的に対してむかう。
収穫物を、儀式的に陳列することは、競争心をかきたてる。共同労働の習慣は、質量ともに最高となる。

稲盛さんの本を読んだ。手柄のある従業員にボーナスを出すのは、うまくいかない。まず増えるときは歓迎されるが、減るときは恨まれる。いくら成果連動型の給与のしくみを納得していても、減るときは恨まれる。また、誰かにボーナスを出すと、嫉妬がでる。能力の差をねたみ、配属の差をねたむ。
ボーナスの増減でなく、ほかの従業員の前での賞賛をやると、うまくいくそうだ。従業員は力をつくす。この話と同じだなーと思った。会社には、市場主義のなかでカネを稼ぎに行っているが、その会社ですら、カネカネと人参をぶら提げられると、人間関係がうまくいかない。


無償の贈与というかたちの交換行為は、互恵を期待される。同一の人物に返報する必要はない。

先輩に教わった恩は、後輩に返すというやつ。

交換があったことを周知させるため、呪術的な儀式や、各集団の相互の義務をさだめる。「双対的」を確立させるため、微細な作法まで決められ、遵守される。交換には「利得」「富」という観念が欠如している。

互酬と再分配の原理_083

以上、カネと無縁の経済は、2つの行動原理によって与えられる。互酬と再分配である。マリノフスキーによる、西メラネシアの報告より明らかとなる。
姻族には、互酬の原理がある。生産の確保、家族の扶養は、双方に互酬である。首長が収穫を貯蔵し、再分配する。礼儀作法のルールにもとづき、贈物が交換される。互酬は対称性、再配分は中心性によって、成立する。

共同体において、利潤という観念は締めだされる。値切りの交渉は、非難される。気前よく施すことが、美徳とされる。取引・交易・交換の性向は、あらわれない。市場の制度は、限定的である。手間のかかる手続をふんで、
古代エジプトは、租税と俸給に金属貨幣をつかったが、それ以外は穀物倉庫などが現物支払だった。「貨幣があれば、市場原理になる」でもない。古代中国、インカ帝国、インド諸王国、バビリニアでも同じだ。
財貨の生産と分配は、徴収、貯蔵、再分配によって組織された。このパタンの中心に、首長、寺院、専制君主、領主がいた。政治権力は、再分配によって生まれた。

家産の原理_090

みずから使用するための生産を、家産という。「互酬あるいは再分配よりも、さらに古いものである」と想定できない。自分だけのために狩猟をするという、個人主義的な未開人など、いないからだ。農業が進んで初めて、自分の家だけのために生産するようになる。
家畜や穀物のような商品作物でも、自家消費のために飼育するならば、市場は補助的だ。家政の自給自足が先にあって、あとから市場に流しただけだ。「利得のために生産しよう」でない。

ポランニーのつぎの代表作では、家産は削除されるらしい。そちらも読まなきゃ。

19世紀まで、市場が支配するカネカネ市場はない。

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05章 市場パターンの展開 open

訳者による梗概

交換・取引原理を機能させる市場の本質を、歴史からさぐる。
19世紀以前においても市場は存在した。だが市場は孤立し、統一されない。自己調整しない。市場は、経済システムの内部でなく、外部で機能する制度だった。局地的市場、国内市場、遠隔地市場、の3つがある。
3つの市場は、順序よく広がって生成したのでない。局地市場から国内市場へ、国内市場から遠隔地市場へ、と生成されたのでない。

市場が外部にあったのだから、議論の出発点は、遠隔地市場である。 遠隔地交易は、他地域の生産物の掠奪から始まった。やがて、双務的な輸送になった。つぎに、局地的市場の起源は、主婦の買い物だろう。経済システムを変化させるものでない。
互酬、再分配が支配する社会では、市場は競争的でない。慣習やタブーにより、市場の発展が抑制された。中世欧州の都市は、局地的な取引と、遠隔地の取引は、厳密に区別された。農村に侵入を許されなかった。
で、全国市場を形成したのは、
16世紀の商業革命に対応しようとする、重商主義だった。しかし重商主義の段階でも、経済システムは、全体的な社会関係のなかに、埋没していた。国家は、形成された市場における安定性を確保し、競争を排除するため、より強力な規制を必要とした。

取引性向の市場原理がうまれる_099

取引、交易、交換というのは、市場パターンが存在して初めて、有効に機能した行動原理である。市場とは、取引あるいは売買のため、人々が出会う場所。市場が点在せねば、取引性向が発揮されず、価格を形成しない。
互酬には、対称的な組織パターンが必要である。再分配には、集権的な組織パターンが必要である。家政には、自給自足が必要である。取引原理には、市場パターンが必要である。
互酬、再分配、家政の行動は、原理が行き渡っていない社会でも、いちおう機能する。取引の行動も同じように、市場原理が行き渡っていない社会で、副次的な役割を果たせる。
ただし、
取引原理は、前3つの原理と完全に同等でない。成立するための条件が、より特殊である。

お立ち会いだなー。ここから、見所、聞き所。


前3つの原理は、単なる「特性」である。原理がもつ機能を果たすため、制度を作り出さない。
たとえば対称性は、既存の諸制度を、単に社会学がパターン化しただけである。別個の制度をもたらしのでない。「ある種族が対称的な立場にあるか」と、「対称性という特殊な制度がある」ことは、無関係である。
たとえば中心性は、「特定の単一機能をつくるための制度」をわざわざ選び出すような、動機はない。首長や中央官僚が動いた結果、政治的・宗教的・経済的に、そういう機能を果たすことはあるけどね。

このあたり、牛丼と麻薬にたとえて理解しよう。
まず前3つの原理は、牛丼である。牛丼を食べる人がいる。その人の特性である。牛丼を食べるのは事実だが、牛丼には薬物的な中毒性がないから、「牛丼を食べる人」を作り出さない。「牛丼の常習者」なんて言い方はしない。有意味な区分ではないから。仕事中、その人は「牛丼を食べる人」でない。
市場原理は、麻薬である。麻薬を吸う人がいる。その人の特性に見えるが、ただの特性でない。麻薬には中毒性がある。「麻薬を吸う人」をつくる。「麻薬の常習者」をつくりだす。麻薬の吸引は、その人に備わった特性であるだけでなく、人そのものを変化させる。麻薬を吸っていない時間だって、その人は「麻薬中毒者」である。他の生活を全部まきこみ、麻薬を中心にまわる。
市場原理は、麻薬のように破壊的・全体的だなー。

家産の自給自足は、既存の閉鎖的集団で見られる、付随的な特性である。「家産するために、閉鎖的になろう」という強制はない。
前3つに対して市場パターンは、市場パターン自身に、特有の動機がある。取引・交換の動機と結びつき、ある特定の制度をつくる。特定の制度とは、市場である。社会組織の全体に影響する。ぎゃくに社会が、市場の付属物になる。

遠隔地交易から、市場は拡大しない_100

孤立している諸市場を、1つの市場経済に結びつける段階は、決定的な局面だ。諸市場を、1つの自己調整的な市場に変える段階は、決定的な局面である。この段階は、機械という人工的な現象によってもたらされた。

市場もしくは貨幣の存在は、必ずしも未開社会の経済システムに影響をあたえない。19世紀の神話は誤っている。19世紀の神話とは、以下である。
貨幣の出現が市場を創出し、分業のピッチを無理に高めた。人間が本来もっている、取引・交易・交換の性向を解放した。不可避的に、社会を市場パターンに転換した」と。こりゃ誤りだ。
市場を過大評価しすぎだ。経済の内部組織(互酬、再分配、家産)においては、市場があってもなくても、だいたい同じである。
なぜか。
市場は、経済の内部において機能する制度でない。経済の外部で機能する制度である。市場は、遠隔地交易における、出会いの場である。局地的市場は、あまり重要でない。
遠隔地市場も局地的市場も、競争的でない。領域的な交易(国内市場や全国市場)を生むような、競争めいた圧力がない。

ここで19世紀の神話を、もう1回やっつけてる。
19世紀の神話とは、個人が取引性向をもつとする。個人の取引性向を演繹すると、局地的な市場と、分業が必然となる。さらに演繹すると、遠隔地交易をふくむ、外国貿易が必然となる。「私は欲しい、儲けたい。個人じゃ儲からないから、周辺と交易して儲けよう。もっと広範囲に交易したら、もっと儲かるはずだ」と考えると。
ポランニーは、この神話を誤りとする。逆だとする。
自説と他説を往復されると、見失うんだよなー。


出発点は、遠隔地交易である。まず、財貨が地理的に分布しており、分布の結果として、遠隔地交易が生まれた。分布にもとづく分業があったから、遠隔地交易が生まれた。遠隔地と交換した。貨幣を使いたければ使うだろうが、交易の性質は同じである。
遠隔地交易をするうち、偶然に(必然でなく)、値段交渉をするようになった。わずかな個人のもとに、値段交渉を身につける機会が、たまたま訪れた。
もともと遠隔地交易は、利益・利潤を目指したのでない。掠奪や海賊として、財貨を探した。遠隔地で脅迫した。やがて遠隔地との財貨の交換は、互酬的な贈物となった。答礼・訪問が行われた。

遠隔地との交易は、儲けるためでない。「遠隔地交易の市場があるから、いっちょ取引に参加してみよう」でない。市場原理が生まれる前からやっている、互酬の行動を、たまたま遠隔地とのあいだでやった。
遠隔地との交易を、共同体のなかで独占すれば(在庫管理者になれば)、首長は、共同体の内側で権力を持てる。そういう仕方で、遠隔地交易に熱心になったという経路は、充分にあり得る。しかし、くり返すが首長は、利益を出すために遠隔地交易をしたのでない。

交易は、市場をともなわない。対外貿易は、取引でない。冒険、探険、狩猟、海賊、戦争である。対外貿易は、平和的でも双務的でもないことがおおい。たまに、平和的で双務的でも、それは取引でなく、互酬の原理である。

取引と互酬の、概念のちがいに注意。
ぼくが文脈から判断するに。取引は利益をもとめて、互酬は利益を求めない。取引は「等価交換」が意識に前景するが、じつは等価交換でない。等価交換を破らないと、利益があがらないからね。互酬は「等価交換」が意識に前景しなかろうが、そとから観察すれば、たいていは等価交換である。
「約束だよ、ウソじゃないからね」というとき、たいてい約束をやぶり、ウソをつく。わざわざ強調しないとき、約束は守られ、ウソはない。そんな感じかなー。あくまで、ポランニーの文脈から判断した範囲でメモっておく。


遠隔地への海賊は、いかにして平和的な取引に移行するか。
2つの道順がある。

「戦闘的な互酬」を「平和的な取引」にするには、前半を変えて、後半を変えねばならない。これはすごい。「カネ持ちのおばさん」を「貧乏なおじさん」に変えるのと同じである。

海賊の攻撃をうけた首長は、対価を要求するかも知れない。ここから取引になる。一方的な財貨の輸送(掠奪)が、双務的な輸送になる。取引になる。
平和的に交易するなら「沈黙交易」がよろしい。戦闘のリスクを、休戦合意で回避する。平和、信用、信頼、慎重さ、とともに交易を始める。

めでたく「貧乏なおじさん」になりました。

19世紀に市場は、対外交易を組織化する。だが対外市場は、局地的市場や国内市場の延長でない。対外交易を別個に考えねばならない。規模や範囲だけでなく、機能も起源も異なる。
対外交易は、輸送である。ある地域で、べつの地域の産物が不足していなければ、対外交易が起きない。おもたい、かさばる、くさる、は対外交易できない。

対外交易は、競争を排除しても成立する。なぜか。競争相手がいないからだ。これは、局地的市場や国内市場と比べることで、理解できる。局地的市場や国内市場では、ほかの経路でも手に入る財貨を、値切りながら買うものだ。対外交易は、気候帯がちがうなどの理由で、ほかの経路では手に入らない財貨を、わざわざ輸送するものだ。競争しなくてよい。競争により交易が混乱するなら、競争を排除する。

遠隔地交易が、ほかと違う。面白いなあ。自然状態では(国家や機械の介入がない状態では)、こちらの説明のほうが、しっくりくる。同時に、遠くへの「鉢植え」を強制する圧力・権力について、興味がわいてくる。

遠隔地交易したものは、貿易港などに蓄積された。だが貿易港の財貨は、国内市場や全国市場を生まなかった。いったい、国内市場や全国市場は、どこから生まれたか。

遠隔地交易について論じてきて、バッサリと梯子はずし。リセット。


個人の取引嗜好_104

想像せよ。もし個別的な取引があれば、時間の経過につれて、局地的市場にひろがり、国内市場、全国市場へと広がりそうなものだ。
だがこの想像は、事実に反する。互酬、再分配、家産をやっている未開社会で、偶発的に個別的な取引があっても、それっきりだ。取引は副次的な特性にとどまった。これが歴史的な事実である。

理論の話をしているようで、歴史的な事実を持ち出す。このあたりの、理論-実証の行ったり来たりが、心許ないようで、ワクワクするところ。
ぼくは、理論への偏重、思考実験として、この本を楽しく読んでいます。抜粋しなかった部分は、歴史的事実がちゃんと書かれているのだが、個別の興味がないので、今回は抜粋する予定がない。

互酬の原理が支配する社会では、もし偶発的な取引があっても、信用と信頼にともなう、長期的信頼関係のなかに埋没する。もともと双務的に互酬せよ!と決まっているから、取引はその行動の一部でしかなくなる。
利益をあげるのは無理である。なぜか。
互酬の社会では、交換を制限するような制度がある。慣習、法律、宗教、呪術である。だれが交換するか、なにを交換するか、いつ交換するか、どこで交換するか、が制限される。等価で交換せよ、と慣習的・伝統的に決まっている。信用、信頼、双務のなかで、「取引して儲けてやる」「もっと安くしてくれ」は、やりようがない。許されない。
慣習にもとづく行動形式は、利益とは正反対の動機をしめす。贈与者は、品物を地面におとす。受納者は、たまたま拾得したかのように振る舞う。従者に拾わせるために、無視する。拾っても、詳しく検査しない。「物質的な関心がないよ」と示すことが、礼儀作法である。この礼儀作法は、交換する動機の範囲を制限するために作り出された、(利益の誘惑への?)対抗的な措置である。

読んでて、迷いがある。
ポランニーは、互酬の社会においても、放任しておけば、人間は利益に目の色を変えると思っている? もしほんとうに利益なんて概念すらない人種なら、わざわざ「物欲なんかないよ。物欲を持つのが、そもそも不利だよ」という防衛線を、張り巡らさないだろう。
たとえば、ぼくはタバコを吸わない。だから「タバコは健康に悪いよ」というメッセージが、そもそも要らない。もし、ぼくが「タバコは健康に悪い」と唱えることを日課にしているなら。ぼくはタバコと無関係でなく、むしろタバコの捕虜である。

個別的な取引は、互酬の原理のもとで、カネカネ原理に流れるのを防がれていた。こんな個別的な取引が、局地的な市場に発展できるわけがない。チャガ族では、市場に関するタブーばかり多かった。市場が拡散できない。

家産の原理では、主婦が生活必需品を買う、近隣市場ができる。だが、カネカネ主義の市場には発展しない。 支配的な経済システムを、市場原理に変えてしまうようなことはない。

国家の介入が市場を生んだ_109

西欧における国内取引は、国家の介入によって創出した。商業革命の時代にいたるまで、全国取引はなかった。都市間の取引があっただけだ。
たとえばハンザ同盟は、ドイツ商人の同盟でなく、少数の有力な都市商人の自治組織だった。農村は無視され、空白地帯だった。ハンザ同盟とは別個に、自給自足の家計をもつ農村は、近隣交易と遠隔地交易を、旧来のまま続けた。都市の組織化された取引は、農村に入ることを許されなかった。

漢帝国だなーというアイディアがある。論証は別途。

遠隔地交易も、局地的取引も、近代の国内取引のルーツでない。近代の国内取引は、国家の干渉という「機械仕掛けの神」がルーツである。
どのように国家が干渉し、国内取引の市場を生んだか。

中世の都市は、市民(ブルジョア)の組織だ。農村の小農、他都市の商人は、市民でない。この市民が、遠隔地と交易して利益を出した。食糧も工業製品も、市民によって、規制なく交易され、重商主義をつくった。

このあたりの細かい経緯は、はぶいてます。

特権都市が始めた取引に、国家が介入した。独占と競争のために、国家が規制をかけまくった。全国的な規模に、国家が市場を統合した。
農村は、もとは市民の交易とは独立した経済をもっていたが、国内商業の援助を受けて、成り立つようになった。

国家の介入の仕方について、かなりはぶいた。ともあれ、自然発生的には成立しなかった市場が、市民と国家によって、編成された。以降、21世紀にむけて、歯止めが利かなくなる。

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06章 擬制商品(労働、土地、貨幣) open

訳者による梗概

重商主義にいたるまで、市場が存在した。だがまだ、経済システムの付属物にすぎない。カネカネ市場システムは、社会の中に吸収されている。19世紀の自己調整的市場と、何が違うか。19世紀は、カネカネ市場主義が、経済システムを統べるばかりでなく、社会をも自己の要請に従わせるようになった。
自己調整的市場とは、すべての生産が、市場における販売のために行われる。すべての所得が、その販売から派生する。市場には、通常の財貨やサービスだけでなく、労働、土地、貨幣という、生産の本源的要素が含まれる。この3つは、「市場での販売のために生産された商品」ではない。市場経済において3つは、擬制として商品と見なされる。

なぜ擬制商品が生まれたか。
工業生産が複雑になり、生産過程において、精巧で使用目的のハッキリした高価な機械が使われるようになったからだ。機械を導入するためには、生産の継続が保証される必要がある。生産要素も、必要とあらば、貨幣でただちに調達できる商品となる必要があったからだ。

よく分かるなー。機械が要求したから、労働が商品になった。


労働とは、人間の生活の一部である。土地は自然の別名である。
貨幣は、購買力の表象である。その表象は、銀行あるいは国家財政によって保証されている。
市場システムが、労働、自然、貨幣を支配すると、どうなるか。人間の、物理的・心理的・道徳的な特性が、市場によって処理される。自然が汚染し、生活環境と景観が破壊される。貨幣の不足から、企業が周期的につぶれる。市場の自由な自己調整をゆるせば、社会は破壊される。19世紀の歴史や、市場の拡大と、市場の拡大に対する社会の抵抗という、二重の運動となる。

強力な統一の論理でまとまる。その論理が、社会に変化を要求する。これが1つ。この強力な論理に対して、抵抗をする。「よくある話」だが、おもしろくなりそうな話。


理論のおもしろさのピークは過ぎたので、抜粋はここまで。19世紀の分析が、このホームページの目的じゃないし。っていうか、全くできない。120531

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