表紙 > 読書録 > 的場昭弘『超訳『資本論』』1-3巻を抜粋する

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まずこのページの説明。
これは、的場昭弘『超訳『資本論』』を参考に、ぼくなりに『資本論』に何が書いてあるかをまとめるものです。的場氏は、彼の著作たる『超訳『資本論』』を、『資本論』の新訳・抄訳でなく、要約書という。ぼくは、その要約書を、さらに要約や改変をしてしまうのだから、原典の面影なしです。
ともあれ、なにが『資本論』の賭金=争点になっているか、自分用にメモしておきたいので、このページをつくります。

『三国志』と『資本論』

なぜ『三国志』読解に、『資本論』なのか。漠然としてますが、いちおう説明を試みます。いまの思考の整理と、近況の報告みたいな感じ。
ぼくはいま、ブルデューにからめて、ある種類の「資本」が、『三国志』において贈与・交換・取引されていたと考えてます。金銭的な資本ではない。ブルデューの言ってた、非金銭的な資本です。ただし、ブルデューが設定した、社会関係資本や文化資本でも、うまく表現しきらない種類の「資本」です。

ネーミングも考え中です。

いくら非金銭的な資本といっても、「資本」という経済学の概念を借りてくるのだから、経済学について、まったく無知ではいけない。

『資本論』にも、「なになに資本」がたくさん出てくる。
ブルデューのいう、社会関係資本や文化資本は、たとえば貨幣という形態をとらないから、内容は非金銭的・非経済的である。しかし、贈与・交換・取引の仕方は、金銭的資本・経済的資本と同じであった。さらには、経済的な資本と、非経済的な資本は、互換性があるという。
くり返すと、内容(実体と言ったほうが明解?)は金銭でないが、交換の仕方が金銭と同じで、しかも金銭との交換が成り立つもの。これが、ブルデューが定めた社会関係資本や文化資本である。これと同じ定義をもつ「資本」を、もう1つ定めて、後漢末を分析したいと思ってる。

ゆえに、
経済学のヒトが、どういう思考をしているのか、知りたいと思っています。個別の知識は、圧倒的に足りないままでも、そもそも経済学が何をやるのか、という枠組の知識ぐらいはほしい。

的場氏の本を読んで、「そういうことを悩むわけね」「そういう仕方で悩むわけね」という発見があった。だから、このページをつくろうと思った。

経済学部ならば、学部の1年や2年でマルクスを読むのが常識?らしい。最低限、『資本論』をチラ見しておきたい。経済学の本は無限にあるけれど、『資本論』を避けて通ることはできないと思う。
以下、本の抜粋と、ぼくの解釈を、ややゴッチャにして書きます。原典ぬきに、このページを読まれても、誤解することしかできないことを、お伝えしておきます。

的場氏の「はじめに」

『資本論』は難解だが、労働者のための本。どうせ労働者には、『資本論』を読むための時間も知性もないが、皮肉なことだ。
資本主義は、労働力商品によって成り立つ。労働力商品が搾取されることで、資本主義が成り立っているという「ほんとのこと」は内緒である。メデューサを見ると石になるように、資本主義の搾取という、「ほんとのこと」を知るのが、怖いものだ。『資本論』は、それを曝く。

いろんな解説書をかじったレベルの知識だが。革命家としてのマルクスは『ドイツ・イデオロギー』で読める。訳書を入手すみ。まだ読んでないが。『資本論』は、革命しよう!革命しよう!と、アジる本でない。革命の裏づけかな。資本主義を分析した本。安心?して読めた。
また、諸書が注意するように。マルクスは「マルクス主義者」でない。今回のページでも、マルクス主義の話はしない。

『資本論』は、資本家の批判でなく、資本の法則の批判である。

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1-1編 商品と貨幣 01-03 open

01章 商品

商品の2要素-使用価値と交換価値

社会的富は「商品のかたまり」である。商品には、使用価値と交換価値がある。
使用価値とは、具体的に有用な価値である。だが使用価値は、商品の本質でない。使用価値は、その素材がもつ、他人の欲望を充足するもののこと。商品の具体的な姿を、誰も見ていない。コップはガラスの形状でなく、水を入れて飲めるもの、として見られる。

ハイデガーをからめて、使用価値を論じられたら、カッコいいなあ。

交換価値は、時間と場所によって変化する関係として現れる。交換価値は、偶然的で相対的である。商品に内在する、固有の交換価値が、まったく存在しないかのようにも見える。

マルクスは、商品を労働力に還元する。すべての商品は、非具体的な労働、抽象的な人間の労働に還元することができる。具体的には、労働時間に還元できる。
なぜ具体的な労働で考えないか。
抽象的な労働とは、社会に平均された労働時間である。なぜ平均するか。あるクルマだけを、ダラダラ時間をかけて作っても、交換価値が高まることはないからだ。そのクルマを作るのに必要な平均の時間で、交換価値が決まる。ダラダラとキビキビによって、交換価値が左右されないように、1つ1つの労働の差異を無視できるように、抽象的な労働という。

この自問自答は『春秋』の注釈書みたいだなあ。


商品に表された労働の二重性

労働が商品ならば、労働にも2つの価値がある。使用価値と交換価値である。
資本主義のもとでは、労働の使用価値があるのでない。つまり、ただ有用なものを作る労働だけがあるのでない。労働の交換価値を見よ。より高く買ってもらえる労働というのがある。

使用価値と交換価値は、べつの観点から見ている。「使用価値がおおきいと、交換価値がたかい」と言えない。また逆に「使用価値がおおきいと、交換価値がひくい」のでもない。相関関係を言うのが難しいのに、なまじ相関関係がありそうだから、気持ち悪くなる。
使用価値と交換価値の関係は、ある人が「佐藤さん」であることと、その人の「考えがあまい」ことの関係に似ている。無関係でないが、必ずしも相関しない。


価値の形態または交換価値

いかに商品から、貨幣を導出するか。
その1。10コのチョコと、5コのケーキが等価だとする。このときケーキは、チョコの交換価値を測定する役割である。ケーキの使用価値(食べたら美味い)は、関係ない。
その2。5コのケーキは、上着1着と等価で、下着2着とも等価で、紅茶1杯とも等価だとする。5コのケーキは、他の無数の商品で表現される。他の全ての商品は、ケーキの価値をうつす鏡となる。
ケーキは、人間労働が無差別に凝固したものとして出現する。つまり、どれかの商品と1対1で比較するのでなく、どんな商品でも区別なく(無差別に)、ケーキの交換価値を表現するのに、利用される。
その3。その2の主語と述語を逆転する。上着1着と、下着2着と、紅茶1杯とは、じつはケーキ5コと等価であると。ケーキは、上着、下着、紅茶の交換価値を表現するために、利用される。ケーキにそなわる使用価値(食べれる)は、もう関係ない。モノサシとしてしか、機能しない。
ケーキは商品でなくなる。ケーキは、ケーキ屋から排除される。
ケーキは、食べられなくなることで、ケーキ屋に出されなくなることで、モノサシとしての機能を貫徹する。ただし、このモノサシの役割を果たすのは、ケーキである必要がない。現実には、ゴールドがモノサシとなっている。なぜゴールドか。なぜ他でないか。「物神性」があるからである。

「物神性」については、あとで解説があるのかな。

誰だって天皇になれるはずなのに(手を振っていればよい)、天皇になれる人間は決まっている。何だってモノサシになれるはずなのに、敢えてゴールドが選ばれたのと、同じ種類のナゾである。

商品(ケーキ)、労働、貨幣(ゴールド)のすべてに、使用価値と交換価値がある。つまり実用性と交換比率がある。また、具体的なものと抽象的なものがある。つまり個別のデコボコと、平均値がある。

金貨だって、すべての品質が同じじゃないよなあ。抽象的なもの=平均値がある。そういう約束で、使われているだろう。

また、価値形態と等価形態がある。つまり、モノサシで測定される側にまわる可能性と、モノサシとして測定する側にまわる可能性がある。

商品の物神的性格とその秘密

ツクエは、他の商品と比較できる。1万円のツクエは、「1万円の時計と、交換価値が同じである」という、捉えられ方をする。木を切り、組み立てる、というツクエを作る労働とは、まったく別の経路で「このツクエは、あの時計と同じ」と捉えられる。貨幣を媒介にすると、ツクエを作る労働は見えなくなる。ツクエは、作る労働でなく、市場(家具屋)を通じて手許にとどく。
見えているツクエは同じなのに、労働が消える。

「労働が見えなくなる」「労働でないところから、利益があがるように見える。実際に利益をつくっているのは、労働なのになあ」というのが、2巻や3巻の内容だった。
「オレは悟空でもベジータでもない、オレは貴様を倒す者だ」と同じだ。おお!分かりやすい!こともないか。

空気を科学的に元素に分解しても、物理学的な物的形態としての空気は、その内容がまったく変わらない。

02章 交換過程

交換が起こる原因は、商品の所有者がいるからだ。
商品の所有者は、余剰した生産物を、市場にもってゆく。共同体のなかでは、物々交換で充分である。共同体と共同体が接触するところで、市場ができる。

沈黙交易の本、読みたい。マルクスには書いてないが。

貨幣になれるもの。商品交換より以前は、商品から排除されているものがよい。神的な子安貝など。また、量的に分割でき、合体でき、変質しないものが良い。金銀がよい。

03章 貨幣または商品流通

貨幣には、3つの機能がある。価値尺度、流通手段である。

価値の尺度

ある商品と商品は、貨幣のおかげで、等しい交換をもつのでない。商品の背後にある労働が等しいとき、商品の価値は等しいとされる。貨幣がなくても(金貨がなくても)、商品の交換価値を測定することができる。
貨幣は、商品の内在価値(労働)を、外在化したもの。金銀の分量をつかって、見える化したもの。

流通手段

商品が売られると貨幣になり、その貨幣で商品を買う。「商品-貨幣-商品」と書ける。
前半の「商品-貨幣」は、「命がけの跳躍」である。誰も欲しくなかったら、買ってもらえないからだ。後半の「貨幣-商品」は、むずかしくない。お金に匂いがないからだ。セーの販路説(すべての商品は必ず売れる)どおりにはいかない。商品を作りすぎ、売れ残り、恐慌になるリスクがある。

岩井克人氏の本で、よくセーが出てきた。読もう。


貨幣が流通すべき総量は、どう決まるか。ある期間に流通する商品の総価格を、流通回数で割った分量である。この割算をいじくりまわすと、労働のことを忘れる。注意せよ。
国家が「この悪貨を使え」と強制すれば、上の割算が成り立たない。すくない金貨でも、商品が流通できる。

貨幣

蓄蔵貨幣がある。商品を買うための媒介でなく、貨幣そのものが目的となる。蓄蔵貨幣は、貨幣のまま譲渡されることがあるが、譲渡の瞬間にしか、(取引を媒介する)貨幣として機能しない。デフレ、国家の信用低下のもとでは、みな貨幣を退蔵したがる。
支払手段としての貨幣がある。遠隔貿易によって決済が遅れるとき、商品としての貨幣が登場する。ほかの商品(チョコなど)では、代替ができない。チョコでは、遠隔貿易の支払をできない。

「商品としての貨幣」に興味があるが、ここ、よく分からなかった。

世界貨幣がある。国家が発行する紙幣は、外国には通じない。外国に支払うには、金貨が必要である。ただし、外国に支払う金貨も、労働を体現したものであることを、忘れるな。

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1-2編 貨幣の資本への転化 04 open

04章 貨幣の資本への転化

資本の一般定式

「一般に使われている貨幣」と「資本として使われている貨幣」は、どこが違うか。流通の仕方が異なる。
「商品-貨幣-商品」という等式が、前編にあった。だが「貨幣-商品-貨幣」という等式はない。ある商品を買って、その商品を売ることで、もとの金額を得ることができないからだ。

新車を買って、すぐに売っても、買い叩かれる。

しかし資本ならば、「貨幣-商品-貨幣」があり得る。
資本を流通させると、貨幣がふえる。剰余価値である。「貨幣-商品-貨幣'」と書ける。貨幣からスタートする資本の流通は、貨幣を増やすことを目的とする。これが資本家である。ユダヤ社会のようである。

一般定式の矛盾

「貨幣-貨幣」という交換をする人はいない。交換しても、なんの意味もない。
「貨幣-貨幣'」となるのは、高利貸資本である。カネをカネのまま転がして、剰余価値を手に入れる。踏み倒される不安での慰謝料だという。だが、本質を説明していない。「貨幣-商品-貨幣'」を説明できない。ロードスを飛べ。

労働力の売買

資本家はどのようにして剰余価値を手に入れるか。じつは等価交換をしていない。労働者から搾取したぶんが、資本家が手に入れた剰余価値だった。
労働者は、労働力商品を提供する。労働力商品の交換価値は、労働時間である。もし資本家が、労働時間と等しい対価を払ったら、資本家が労働者を雇う意味がない。資本家は、労働力商品の交換価値を買い叩いて、剰余価値を手に入れている。

この話は、よく分かる。
いまムリして、ブルデューの文化資本を持つところの「文化資本家」を考えてみる。ブルデューは『資本論』に照らした議論はしていなかったけど。
まず「商品-貨幣-商品」というパタン。受験勉強する、大学入学する、大学で勉強すると。大学入学したという学歴が、文化資本となる。
つぎに本題の、「貨幣-商品-貨幣'」というパタン。大卒資格がある、大学院で勉強する、院卒資格をえると。学部卒という資本が、院卒という資本に増えた。このふえた分は、どこから来たのか。「自分でがんばった分」というのでは、誤りでなかろうが、『資本論』的には、資本の充分な説明になっていない。例えば、学部卒のまま独学を続けた人と、何がちがうんだ。
ぼくが思うに、院卒という文化資本の持主が「搾取」したのは、学部卒の人たちである。学部卒の人たちが、落としていったカネや研究成果?を利用して、大学院の勉強をやったのだ。学部卒の人が社会にたくさんいるから、大学院という組織が成立しているのだが、そこを見ようとしない。
マルクスはいう。資本家は、労働者に正当な代価を払っていると自認する。資本家は、ここまで会社を大きくしたのは、自分の努力の結果なのだ考えると。
ぼくが思うに、資本家と同じように、院卒は言うだろう。「学部卒の人々は、授業料に見あった知識や肩書をもらって、大学を出ていった。大学院での研究は、私のみの努力の成果だ」と。
なんか、ムダにケンカ腰になった。すみません。
ブルデュー風にいうなら、院卒は「学部卒とは違うんです」とアピールすることで、院卒の肩書を輝かしいものにしてゆく。このように差異を際立たせるとき、「学部卒のおかげで私が学べた」と言うのは、戦略的に不利である。だから言わない。見ようともしない。マルクスが糾弾したい意味での資本家と、構図は同じだと思う。

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1-3編 絶対的な剰余価値の生産 05-09 open

05章 労働過程と価値増殖過程

労働過程

労働とは、人間が自然に働きかける行為。自然を変化させ、人間も変化してゆく過程。労働手段を発明する。労働対象(土地)と労働過程は、生産手段となる。働きかける人間の労働は、生産的労働となる。
資本主義より前から、労働とは、使用価値を作り出すこと。

価値増殖過程

こんどは資本主義における、労働について。
資本家は、はじめに投資した資本を、増やそうとする。そのため資本家は、労働力商品を買い叩き、労働者にフル稼働させ、サボらせない。

06章 不変資本と可変資本

生産手段や原料は、過去労働の産物である。過去労働が移転されている。過去は、事業の用に供した分だけ償却し、製品に再移転する。耐用10年の機械は、1日うごかせば、わずかな部分が、製品の交換価値に転化される。

自分用に言葉を書き換えちゃった。「価値を保存または移転」とは、減価償却の考え方の基礎だなあ。

稼働させても、価値の変化を起こさない機械を「不変資本」という。不変資本は、価値を保存・移転するのみであり、新たに価値を生んだのでない。不変資本の価値は、過去に労働が作り出したものである。
価値を増殖する労働を「可変資本」という。
「固定資本」「流動資本」という言い方を、マルクスしない。価値の変化に着目したのが、マルクスの姿勢である。

07章 剰余価値率

労働力の搾取度

不変資本を「C」とする。可変資本を「V」とする。剰余価値をMとする。

ワケが分からなくなるので。ぼくはもっとも代表的なもので、代表させる。不変資本を「機械」という。可変資本を「労賃」という。剰余価値はそのまま。

商品の価値=機械からの移転+労働による創出+剰余価値
新たに生み出された商品の価値のうち、労働者の取り分は労賃で、資本家の取り分は剰余価値である。労賃と剰余価値の比率(労働者の取り分と、資本家の取り分の比率)が、剰余価値率である。どれくらい資本家が搾ったか、の指標である。
労働者の再生産に必要な費用(労働者が最低限の生活を送れる労賃)を、「必要労働」という。そのためにかかる生産時間は「必要労働時間」である。
これに対し、必要労働を越えて、資本家の取り分を生産してくれる部分を、「剰余労働時間」という。

「シーニョアの最後の一時間」がある。労働者と資本家の取り分が、9:1の生産ラインがあるとする。10時間の労働の内、9時間が必要労働時間で、1時間が剰余価値時間(資本家の利潤を生む時間)となる。労働者が9時間で作業をやめたら、資本家はマル損である。労働者を絶対に早く帰らせてはならない!という。
これは誤りである。9:1は結果である。標準の10時間を稼働した場合に起きる、機械の摩耗、材料の消費を織りこんでいる。もし9時間しか稼働しなければ、生産コストも減る。資本家がマル損するのは誤りである。

おそらく、10分の9に減ってしまった商品価値を、資本家と労働者が、もとの割合で取り合うのだろう。


08章 労働日

資本家は、労働時間を減らさない。釣った魚は、自分のものだからである。資本家は、剰余労働をさせたくて、労働時間をどんどん延長する。

マルクスは、悲惨な長時間労働をくわしく紹介するらしい。経済学が何をどう考えるか、というのがこのページの目的なので、引用しない。サービス残業を悪む気持ちは強いけど、ここでは関係ない。


09章 剰余価値率と剰余価値の量

ある労賃によって生産される剰余価値の量は、前もって雇われた労働者の量に、剰余価値率をかけたものに等しい。

10時間稼働すると、労賃が2百万円でる一方で、資本家が1百万円もうかるラインがあるとする。ラインを2つに増やせば、労働者が2倍になるので、労賃が2倍の4百万円になる。資本家のもうけも2倍の2百万円となる。

剰余価値の最大量は、剰余価値率にしばられる。これが第一の法則である。
第二の法則。労賃が同じであれば、そのままの労賃で2倍の時間を働かせれば、資本家のもうけが2倍になる。しかし、1日は24時間しかない。剰余価値の最大量は、24時間に縛られる。
第三の法則。労働者を無限に雇えるわけじゃない。剰余価値の最大量は、労働者の人数に縛られる。
この3つの法則に縛られながら、資本家は剰余価値を最大にしたい。
資本家は、労働者を規律社会にぶちこむ。監督労働できる労働者(雇われ社長)を設定し、労働者がサボらないように指導させる。フーコーのような規律社会をつくる。

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1-4編 相対的剰余価値 10-13 open

10章 相対的剰余価値の概念

必要労働時間(資本家が労働者に、最低限の生活を送らせるために支払う労賃)が安くなれば、資本家の取り分である、剰余価値がふえる。つまり資本家は「ながい時間を働け」と言うだけでなく、「最低限の生活を、より安い生活費で営め」と労働者に命じる。

物価が下がったら、労働者は給料を下げられるのね。

市場にある生活必需品が安くなれば、資本家は労賃を引き下げることができる。資本家がもらう剰余価値がふえる。だから資本家は、さらに生産をがんばって(労働者にがんばらせて)、生活必需品の価格を下げようとする。
ただし労働者は、必要労働時間が短くなっても、早く家の帰れない。資本家の取り分にあたる労働を、長時間することになる。

もともと6時間が労働者の取り分、2時間が資本家の取り分だったとする。生活費が半額になり、労働者は3時間分の労働で、生活費を稼げるようになったとする。では労働者は、自分のために3時間働き、もとどおり資本家のために2時間働き、5時間労働で帰れるか。帰れない。浮いた3時間は、資本家のために働かされる。


11章 協業

「機械を入れれば、労働者に協業させる必要はない」という考え方は、不充分である。協業により、効率があがる。なぜか。
人間は、社会的な動物である。労働者は競争して、効率をあげる。労働者を集めれば、空間を節約できる。労働者が移動する時間のムダをはぶける。
労働者に協業をさせるなら、労働者が集合して操作できるような、大きな機械を買う資金がいる。労働者を指揮できる監督者がいる。監督者は、直接の憎まれ役となる。

12章 分業とマニュファクチュア

マニュには、2つの起源がある。
1つ、労働者を集合させ、協業させる。つぎに、集合した場で仕事を分割して、分業させる。わりに効率がよい。
2つ、同じ仕事をする労働者を、集める。こちらは、それほど効率があがらない。協業の段階に、毛が生えたようなもの。

1つめの起源で「仕事を分割」するときに、効率よくやる工夫が入る。この工夫によって、マニュは効率をあげるのだろう。あ、「マニュ」は、マニュファクチャの略形。
以降の節は、マニュの諸例と、その分析がある。はぶく。ぼくはマニュさせる資本家として、経営改善の手法を求めているのでない。


13章 機械装置と大工業

生産機械は、労働を軽減するためのものでない。商品を低廉にするものである。

生産物に対する、機械装置の価値移転

機械は、いちど買ってしまえば、デガネがない。もちろん、はじめに機械を取得するとき、デガネが大きいが。機械は、ゆっくり摩耗する。機械の価値(過去労働が保存されたもの)は、ゆっくり商品価値に移転する。
労賃(労働者への賃金)と、償却費(機械の摩耗分)をくらべよ。労賃のほうが安ければ、機械をつかうな。機械を摩耗させるな。もし、法律で労働者が保護されたり、人口が減ったりすれば、労賃があがる。機械をつかえ。

機械経営が労働者に及ぼす1次的影響

機械が人間を酷使する。機械のおかげで、重量労働がなくなれば、婦人と児童が働かされる。
機械は、はやく償却してしまったほうが、資本家にお得である。資本家は、労働日を増やしたい。資本家は、労働人口を増やして、機械を操作してくれる人を増やしたい。

いまの会計も、税務署に交渉して「早期償却」を認めさせるのだ。

単位時間あたりに生産する価値をたかめるため、労働が強化される。速度があがる。作業の範囲が広がる。機械は、ちっとも労働者をラクにしない。

工場

機械は労働を強化するだけでなく、労働者から仕事を奪う。つまり、機械に保存された過去労働が、いまの労働に代替する。
労働者は機械を打ち壊す!

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1-5編 絶対的/相対的な、剰余価値の生産 14-16 open

14章 剰余価値の生産

「生産的である」とは、なにか。剰余価値を生産できることである。つまり、資本家をもうけさせる労働のみが、「生産的」なのだ。

労働者をもうけさせる(最低限の生活費を稼がせてやる)のは、必要条件である。当然である。さもなくば、資本家がいちいち生産活動をする意味がない。


15章 労働力の価格と剰余価値の量的変化

剰余価値の大きさは、労働の時間、労働の強度、労働の生産力の3つによって決まる。
労働の生産力があがれば、剰余価値がふえる。
労働の強度があがれば、剰余価値がふえる。ただし、労賃も増えちゃうが。
労働日を長くすれば、剰余価値がふえる。ただし、機械の摩耗が激しくなることで、剰余価値が減ることもある。つまり、機械の所有者である資本家が、損することがある。

生産力が低下し、労働日が延長された場合、どうなるか。生産力が低下すれば、剰余価値は減る。しかし、労働日の延長によって、剰余価値が増えることもある。
労働の強度と生産力が上昇し、労働日が短縮された場合、どうなるか。労働力の価値がさがる。どんなにがんばって、強度と生産力をあげたとしても、労働日が短縮されれば、そのぶん資本家は損をする。

もし強度と生産力があがったなら、働かせておかなければ、機会損失である。そういう資本家の目線の結論である。「がんばったから早く帰る」は労働者の理屈である。「がんばれるなら、そのまま、もっと長い時間がんばれ」が資本家の理屈である。生産の目的は、余剰価値をつくることなんだから、資本家の理屈は、当然そうなる。


16章 剰余価値率のいろいろな表式

資本家がどれだけ「搾取」したかを計算できる。 1つ。必要労働と剰余労働の比率。つまり、労働者の生活を維持する労賃と、資本家の取り分の比率。
2つ。生産された商品の価値に占める、剰余価値の比率。この計算では、労働者の取り分が、問題になっていない。

労働者の取り分は、生産された商品価値の一部である。計算式に表すことができなくない。しかし、この比率には「前景化」されていない。

3つ。支払労働と不払労働。

いろいろ書いてあるが。
商品の価値=機械からの移転+労働による創出+剰余価値
の各項の比率を論じているだけ。おなじ話。観点のちがい。


17章 労働力の価値、または価格の労賃への転化

労働力商品の原典について。商品交換は等価交換である。貨幣交換が、不等価のはずがない。すると、資本家がもらえる剰余価値が出てこないはずである。
「労働の価値」という言い方はおかしい。労働の価値と言った場合、その価値は労賃である。こういう言葉づかいをすると、労働者が働いた分は、すべて資本家から代価を受けとったという前提が、構造的につっこまれる。そんな前提を支持した覚えがなくても、ビルトインされている。

ぼくの時給は800円、つまりぼくの労働の価値は800円なんだー。こう考えているうちは、資本家がピンハネした部分が見えない。ピンハネが「前景化」されない。
こういう、言葉づかいとか、概念の操作によって、問題の本質が見えたり見えなくなったりする。『資本論』のおもしろいところ。こういう話は、後半にもいくらでも出てくる。


18章 時間賃金

労働者が関心をもつのは、労賃の金額、労賃の名目である。労働者は、そもそも自分が、どれだけの商品価値を生み出したか(そのうち、どれだけ資本家に剰余価値を与えたか)に、関心を払わない。

19章 出来高賃金

出来高賃金というのは、「がんばった分だけ、資本家が労働者に、給料を払います」という制度に聞こえる。実態はちがう。資本家が用意した、労賃の予算総額を、労働者同士で奪いあうだけである。
労働者は、ほかの労働者からパイを奪うために、労働を強化する。資本家の取り分である、余剰価値がふえる。資本家にとって嬉しいことばかりである。いわゆる「能力主義」は、こういう仕組である。

20章 労働賃金の国民的差異

なぜ生産性のたかい国は、賃金がたかいか。
生産性のひくい国から、搾取するためである。

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1-7編 資本の蓄積過程 21-25 open

『資本論』全3巻のうち、いま1巻の最後の編です。マルクスが生前に出版したのは、この編が最後。あとはエンゲルスによる切り貼りらしい。

21章 単純再生産

前年よりも生産が拡大しないのが、「単純再生産」である。資本主義の原形である。はじめに資本家は、労働者を雇用するために、資金を用意する。だが2年目以降の労賃は、前年に労働者が生産した商品価値の一部である。資本家だけのものでない。
労働者もまた、再生産される。労働者の地位も、再生産される。労働者は、生産を通じて、スキルを身につけた「機械」となることで、さらに生産に従事していく。くり返しで、抜けられない。

22章 剰余価値の資本への転化

剰余価値から、いかに資本が生まれるか。剰余価値を資本として利用すること、剰余価値を資本に再投資すること。これが、資本の蓄積である。

資本は、剰余価値の蓄積によって形成されるもの。経済学の常識なのかも知れないが、いまいち把握できていなかった。明確に理解できて、嬉しいなあ。

ずばり拡大再生産をあつかう。
労働者が生み出した剰余価値を、資本家が搾取する。資本家は、剰余価値を消費せず(資本家が飲み食いせず)、新たな生産手段と労働力に投資する。

再投資された剰余価値は、雇用を生み出すというかたちで、労働者のために使われる。だが、労働者のものでなく、資本家のものである。資本家が、つぎの剰余価値をつくるために使われる。労働者が、まるまる貨幣でもらえるのでない。
資本家は、労働者からの搾取を強化して(労賃を下げて)でも、剰余価値を手に入れて、再投資せよ。拡大再生産せよ。

23章 資本主義的蓄積の一般法則

機械化がすすむと、生産のなかで、機械(過去労働=不変資本)の役割がおおきくなる。労賃(現在労働=可変資本、リアルにいま生きている労働者)の役割がちいさくなる。
もともと、剰余価値をつくり、資本家に機械を買わせてあげたのは、労働者である。ところが資本家は、「機械があるから、労働者は多く要らない。どうしても働きたいなら、労賃を下げるけど、いいよね」という。労働者は、自分で作った剰余価値によって、(資本家を媒介にして)支配される。

資本家同士は、たがいに食い合う。小さな資本は、大きな資本に食われる。資本が集中する。大きな資本は、機械をたくさん持っているから、それほど多くの労働者を必要としない。

ほんとうかなあ。ちょっと違和感があるが、反論できるほどの材料がない。

資本が集中・蓄積することにより、資本家は、過剰あるいは付加的な労働者人口を、たえずつくる。すなわち、大きな資本がいい機械をつかうほど、雇用のワクが小さくなる。労働者が余る。結果、労賃が買い叩かれる。今日のシステムエンジニアである。
労働者ががんばり、資本家を儲けさせるほど、労賃が下がる。

24章 いわゆる本源的蓄積

以上の議論は、はじめに資本家ありきだった。だれが、貨幣を資本にできるほどの蓄積をしていたか、が記されていなかった。資本の蓄積に先行する「本源的な蓄積」は、どこにあったか。資本主義の出発点は、どこにあったか。

いちど軌道に乗ったあとなら、うまく説明できる。しかし、起源をうまく説明できない。どんな分野にも、あるんだなあ。マルクスは神話から説明しようとする。もしくは、理論的に説明するのをやめて、歴史的に説明する。
ここからぼくは「起源の説明は難しい」というメタメッセージを受けとって、終わりにする。イギリスの歴史的な説明に、あんまり興味がない。人によっては、垂涎の章なのでしょうが。

国内で、独立生産者が危機にさらされる。資本主義となる。

25章 近代植民理論

植民地においても、独立生産者が危機ににさらされ、資本主義となる。
軍事力によって、植民地の独立生産者が崩壊する。移民の送りこみによって、植民地の独立生産者が崩壊する。

的場氏が「いささか変」だという章だから、まあいいや。

『資本論』1巻、これまで。つぎ2巻。

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2-1編 資本の変態とその循環 01-06 open

01章 貨幣資本の循環

第1段階 「貨幣-商品」

資本は、生産過程と流通過程のなかで、姿を変えて循環する。資本は、3つの姿となる。貨幣としての貨幣資本、生産手段としての生産資本、商品としての商品資本である。
貨幣資本から見ると、資本主義は、利潤をもとめるだけに見える。生産資本から見ると、資本主義は、生産物を再生産するだけに見える。商品資本から見ると、資本主義は、商品を消費するだけに見える。

マルクスは貨幣資本から見る。貨幣資本の循環を見る。
貨幣-商品(生産手段+労働力)… 生産過程 … 商品'-貨幣'
まず貨幣をもって、生産手段と労働力を購入する。生産手段と労働力は、商品をつくる。商品を売って、ふたたび貨幣に帰る。これが全体の流れ。

どうせ分からなくなるので、略記号をつかわない。
意味がきちんと定義されてなかったが。「商品」は生産過程を経て「商品’」になるのだ。アポストロフィつきのほうが、価値がたかい。

流れを3つにわける。
1つ。貨幣-商品の期間。2つ、商品を生産する期間、商品(生産手段+労働力)。3つ、商品'-貨幣の販売の期間。『資本論』1巻では、2つめの商品を生産する期間だけを見てきた。2巻以降では、1つめと3つめを扱う。

1つ。貨幣-商品の期間。商品とは、生産手段と労働力(上述)。
貨幣で生産手段を買い、貨幣で労働力を買う。前者の生産手段は、商品市場にて、等価交換をする。後者の労働力は、労働市場で調達するが、等価交換をしない。労働者がつくりだした価値よりも安い労賃しか、資本家が払わない。労働者の最低限の生活費しか払わない。
資本家が、労賃を貨幣という形態で支払うから、労働者は資本家に従属する。なぜか。労働者から見れば、労働力-貨幣という取引である。この取引をするには、あらかじめ雇用されておく必要がある。

いかに街中で「何でもします」と張り切っても、だれも「お金をあげるから、これを頼む」と、言ってくれない。いや、言ってくるかも知れないが、生活費を継続的に稼げるだけのオファーはこないだろう。
貨幣で買うことはカンタンだが、商品を売って貨幣を得ることは、市場の偶然に左右される。売れないこともおおい。だから労働者は、労働者という階級にいて、継続的に雇われの身分を確保しなければならない。

労働者は、労働のほかに商品がない。労賃をツケでもらうことにすると、飢死にする。餓死するより、資本家に支配されているほうが、マシである。

第2段階 生産資本の機能

第2段階は、機械(不変資本)と労働力(可変資本)によって、商品を生産する。機械は、ずっと工場にあっても意味がない。労働者が貼りついて、動かさねば価値を生まない。

第3段階 「商品'-貨幣'」

商品を販売して、ふたたび貨幣資本にもどす。
商品が売れないことには、貨幣資本にもどれない。販売は、剰余価値が実現する過程である。もっとも難しい過程である。原価と同額で販売しても、意味がない。当初の貨幣より、増えていなければならない。「貨幣'」と記す。
増えた分は、どこから出てきたのか。
ゴールドを生産する鉱山であれば、採掘に費やしたよりも、おおくのゴールドを採掘すればよい。だが産業資本は、ゴールドをじかに掘るのでない。
どこだ!(ネタバレ:労働者からの搾取)
ちなみに販売にともなう輸送は、必要悪である。剰余価値を生まない。輸送費は、剰余価値の一部を食ってしまう。

02章 生産資本の循環

単純再生産

生産資本の循環について。循環だから、どこで断ち切っても、話が成り立つはずである。商品(生産手段+労働力) … 商品’-貨幣’-商品…商品、という表現になる。この書き方をすると、剰余価値がどこで生まれるか不明確になる。労働力が、ゼロから価値を創出したことが、見えなくなる。
資本家は、貨幣資本を増やすために、生産をする。「商品から始めて、より多くの商品を得る」という説明は、実態とあわない。

循環するものでも、切り方によって、話がおかしくなる。
例えば、食事-活動-排泄-食事’、という循環があるとする。食事から始めた場合、つぎに食べるために(お腹を空かすために)活動する、つぎに食べるために(消化器官を使える状態にするために)排泄する、という見え方をする。「食べることが人生の楽しみ」という人の説明である。活動から始めた場合、食事も排泄も、活動にともなった「必要悪」みたいなものになる。
だが排泄から始めると、なんだか変になる。排泄するために食べる(食べないと排泄できないから)、となる。こんな人は、おそらくいない。そして、このモデルで人生を語れば、「どんな活動をしたか」が論点とならない。とても変。
商品から循環を語るとは、同じタイプのおかしさ。


蓄積・拡大された規模での再生産

生産で獲得した剰余価値が、そのまま生産資本につかわれることは少ない。
つまり、いま生産でつかう機械は、1回前の生産でつくった価値を、そのまま投入したものでない。1年や5年前の生産でつくった剰余価値をつかって設備投資し、その減価償却の分が、今回の生産に移転させられる。
いま生産につかう労賃は、1回前の生産でつくった価値で支払うのでない。そんなの、自転車操業である。
生産資本の循環は、時期がマチマチの循環の一部を切り出したものでしかない。いまいち「何かを説明できた」感がない。

貨幣蓄積

拡大再生産にまわす貨幣は、しばらく貯める。蓄蔵貨幣、退蔵貨幣、遊休貨幣という。遊休貨幣は、生産の循環とは無関係である。当座預金のように、予備金として持たれる。

03章 商品資本の循環

循環を、商品資本のところで切ってみる。
商品’-貨幣’-商品(生産手段+労働力) … 生産過程 … 商品
こちらも、生産資本の循環と同じように、うまく説明できていない。商品をもとに、商品を生み出すって、どういう経済活動だろう?となる。

04章 循環過程の3つのかたち

以上の3つの循環式により、産業資本は3つの姿のいずれかを取ることが分かる。貨幣資本、生産資本、商品資本である。貨幣資本で始まり、貨幣資本で終わるものだけが、資本主義をうまく説明できた。

マルクスは過去の歴史を、自然経済、貨幣経済、信用経済にわける。
自然経済とは、自給自足である。自分で生産して、自分で羞悪比する。交易には、少ししか回さない。交易に回すものが増えると、貨幣経済となる。
貨幣経済と信用経済の差異はなにか。信用経済は、貨幣経済のうちの1つに過ぎない。貨幣経済で貨幣は「流通手段たる貨幣」として表現され、信用経済で貨幣は「支払手段たる貨幣」と表現される。
自然経済、貨幣経済、信用経済とも、商品生産をする経済であることは、同じである。ただし、後者の貨幣経済と信用経済のみ、労働力を商品化して、交換に乗せる。

自給自足している人の労働力は、商品でない。


なぜ資本は蓄積されねばならないか。
資本主義は、少なく投資して、多くを獲得するものだ。剰余価値をつくるのが基本である。資本家は、剰余価値を諸費しない。享楽や贅沢につかわない。売れ残ったときの運転資金、技術革新の研究開発費、などに備えよ。

05-06章 流通期間、流通費

生産を休止している期間、価値も剰余価値も形成されない。なるべく、労働期間と生産期間を合わせよ。つまり、労働者が手を加えていない手待ち期間や、完成した商品の在庫期間を短くせよ。
流通の期間も短くせよ。もし商品の在庫は、貨幣への交換が滞留しているものだ。早く貨幣に交換すれば、その貨幣を次の生産に活かせるものを。

このあたり、よくあるビジネス本のノウハウみたいだ。恐らく強調されるべきは、「儲けるために、早く売れ」でなくて、「価値を生産している労働は、有用な期間なのだよ」である。流通のダメさを言うことで、労働のスゴさを言いたいのだろう。


流通は、価値をつくらない。簿記するサービス労働は、価値をつくらない。貨幣でない、ただの金属塊としての金銀は、価値をつくらない。中央銀行の準備金ならまだしも、いち資本家が、金銀の金属塊を持っていても仕方ない。
在庫の保管も、価値をつくらない。むしろ商品の劣化を防ぐため、保管の費用がかかる。マイナスである。
ここにあげたのは全て、生産資本の剰余を、浸食するコストである。

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2-2編 資本の回転 07-17 open

07章 回転期間と回転度数

1年間にどれだけ、資本を回転させられるか。回転させて、どれだけ遊休資本(貯蓄した準備金)をつくれるか。
回転期間(生産期間+流通期間)が短いほど、たくさん回せる。1年に回した回数を「回転度数」という。

08章 固定資本と流動資本

形態における区別

不変資本(機械、生産設備)は、減価償却が終わるまで、取得価額が商品価値に移転されない。ただし、いくらゆっくりでも、最終的にすべての取得価額は製造原価に反映されるのだから、「すべての資本は流動資本である」とマルクスはいう。
『資本論』における固定資本と流動資本とは、なにか。
固定資本とは、不変資本(機械、生産設備)のこと。流動資本とは、商品の原料(材料)費と、蒸気機関が消費する石炭などの補助材料である。
この資本の区別は、業種によって難しい。化学工業では、原料と補助材料(いずれも流動資本)が、区別できない。畜産業では、農耕牛は固定資本であるが、食用になれば原料(流動資本)となる。

労働力に投下された資本は、一定期間ごとに、労賃として貨幣で支払われる。労働力そのものは、労賃(労働者の取り分)も、剰余価値(資本家の取り分)も、商品のなかに移転する。労働力が、つねに商品のなかに移転するが、労賃の支払は週ごと、月ごとである。

固定資本の構成部分、補填・修繕・蓄積

固定資本は、維持しなければならない。維持するため、追加資本・追加労働が必要になることもある。
固定資本の取得価額のうち、未償却の部分(簿価)は、まるで遊休資産として集積されている。退蔵貨幣と同じである。ほかに固定資本は、補填・維持のための準備金を必要とする。

設備投資予算をつかい、修繕費に計上するお金の使い方。


09章 前貸資本の総回転、回転の循環

1年に回転する回数があがると、総価値が大きくなることがある。
例えば、機械(不変資本)を購入する。1日8時間つかい、耐用年数が10年とする。もし1日10時間つかい、でも壊れずに10年耐用すれば、そのぶんだけ機械の価値が上がったことになる。
技術革新のスピードアップにより、耐用年数は短くなる。

日本の耐用年数は、まだまだ諸外国より長いのだ。

恐慌は、新たな設備投資の出発点である。社会全体から見ると、恐慌が、機械の回転循環をうながす。

労働力は、保管できない。労働者が、いま・ここにきて、働いてくれなければならない。だが機械や原料は、おおめに買っておき、回転できるときに回転させるのが良い。

10章 固定資本と流動資本1、スミス批判

重農主義者のケネーは『経済表』で、農業を分析した。ケネーは、「商品-商品’」の循環で、農業を分析した。

「作物(種籾)-作物(収穫)」というモデルという意味か。

ケネーは、重商主義者のいう「貨幣-貨幣'」を農業に適用しなかった。ケネーは、アダム・スミスのいう「生産資本-生産資本'」を農業に適用しなかった。
ケネーは、固定資本と流動資本を区別した。
固定資本(生産機械)は、1年以上の前貸である。今後10年つかえる機械を(自分に対する)前貸として購入し、10年かけて償却する。流動資本(原料や労働力)は、1年以内の前貸である。今年つかう原料や労働力を、今年に支払って購入する。1年以内に使い切る。
農業に当てはめれば、農業者が借りている土地は、固定資本である。前年に借りたものを、今年使い切って、作物に価値を移転しきるのでない。10年借りたなら、10年かけて、土地から価値(恩恵)をもらう。種籾と労働力は、流動資本である。今年のぶんは今年使い切るからである。

スミスは、産業資本を、マルクスのように3つ(貨幣資本、生産資本、商品資本)に分割しなかった。市場で商品を流通させる、商人資本だけで、説明しようとした。商人資本は、価値なんて作っていないのに。
またスミスによる、固定資本と流動資本の区別は、モノの性質で固定された。以下、スミスによる誤りの例。
生産機械は、生産機械メーカーから見たら商品だが、固定資本とされた。鉱山から産出する銅は、鉱山が動かないので、固定資本とされた。綿花と石炭は、生産過程から動かない(生産過程から動いて出て行くのは糸だけ)だから、固定資本とされた。ぎゃくに糸は、流動資本とされた。鉄道は、海外で証券化されているが、固定資本とされた。めちゃくちゃである。

流動と固定という言葉は同じだが、定義がちがう。概念を設定して、説明したいことが違う。だから、齟齬だらけになる。そもそも定義が違うんだから、結果として出てきた差異をあげつらっても、あまり意味がない。お互い、つらいだけ。

生産資本と商品資本を混同してはならない。ひとつの生産機械が、市場にあれば流動資本であり、生産過程にあれば固定資本となる。ひとつの動物が、畜産業であれば固定資本であり、食肉業にあれば流動資本となる。
スミスは労働力を忘れている。労働力は、外見では資本と思われにくい。労働力は、賃金と等価と見なす。資本家が労働者から搾取している部分の価値は「見えない化」される。
労働力は、ソレ自体として、商品の形態も、資本の形態もとらない。あくまで商品になる可能性(商品の価値を創出する可能性)としての商品である。生産過程に採用されたときのみ、労働力は商品となる。労働力は、労賃の部分だけの価値をもつ商品でない。労働力は、価値を増殖するという価値をもつ商品である。スミスは見失っている。

11章 固定資本と流動資本1、リカード批判

リカードももまた、労働が流動資本という。
リカードはスミスを受け継ぎ、モノの性質がどう見えるかにより、固定資本と流動資本を区別した。これでは搾取が見えない。モノの素材的性質にこだわると、ブルジョワ的経済学に特有の、物神崇拝を完成させる。
まるで愚かな銀行員のように、固定資本と流動資本の区別を、短期資金と長期資金の区別と同じだと思っている。皮相な見方である。

12章 労働期間

労働期間(生産期間)がながいラインをもつと、大きな資本の前貸が必要である。
資本主義が未発達のとき、大きな前貸が必要な建築事業は、国家が強制労働をさせて実施した。資本主義の現在は、購入者のお金が貯まった分だけ、建設業者に支払った。やがて建売住宅が増えた。なぜか。
1つ、信用経済が発展したから。
2つ、建売住宅を「商品として売ってやろう」という建築業者が増えたから。購入者の注文を持っているよりも、投機を目的として建売住宅をつくってしまう。建築そのものの利潤は少ないが、土地が値上がりするので、建売業者は、土地の値上がり分を売値に乗せて、もうけることができる。
サブプライムローンと同じ話が、19世紀にすでにある。

労働過程を短縮するには、固定資本の投資が必要。前貸がおおく必要。成長のおそい家畜は、固定資本がかかる。大食いの家畜は、餌代(流動資本)までかかるので、代わりに農民を餓死させる。
少ししか食べず、すぐに成長する家畜に改良すればよい。

13-14章 生産期間、流通期間

労働期間は、生産期間の一部である。労働しない期間も、生産期間の一部である。ワインの発酵、樹木の生育を待つなど。待ちの期間も、生活費が必要。商品の代金として回収できないから、生活費を高利貸しに借りるしかない。

流通期間を短縮することで、持っておくべき資本が少なくてよい。生産につかった貨幣を、売上の貨幣として、すぐに回収できるからだ。
海外の貿易は、在庫として持っている期間が長くなる。先物取引で、回転の悪さを解消する。また、先物取引は、取引の時期をズレるので、原料価格の変化のおかげで、差益をあげられる可能性がある。
早く回収できた貨幣が増えると、遊休資産(蓄蔵した準備金)として持つことができる。

15章 回転期間から、資本の前貸量への影響

遊休資本(蓄蔵した準備金)は、いかに生まれるか。
前章までで、生産を繋ぐためには、生産につかう以外の「追加資本」が必要と分かった。生産期間(労働期間+待ち期間)+流通期間の長さによって、用意すべき追加資本の量がかわる。

生産期間と流通期間がおなじ場合、追加資本がなくて良い。なぜなら、貨幣が生産期間に出て行った分だけ、貨幣が流通期間から帰ってくるからである。絶妙なバランスの自転車創業である。ただし、ちょっと売れ残ったら(流通期間が延長したら)、倒産する。
生産期間のほうが流通期間より長い場合(売れるより前に、次を作らねばならぬ場合)、追加資本を用意せねばならない。
生産期間のほうが流通期間より短い場合(売ったそばから売れていく場合)、貨幣資本が遊離し(資金繰りに余裕が出て)、遊休資本が生まれる。産業資本を、貨幣資本の形態で持つことができる。良かったね。
ただし遊休資本をうまく活用しないと、ムダである。

もし商品価格が下落したら、せっかく販売しても売上が目減りし、はじめに見込んだだけの貨幣資本がもどってこない。つぎの生産に回すべき貨幣が不足する。この不足に備えて、遊休資本を持っている必要がある。

16章 可変資本の回転

回収までの期間は、資本によってちがう。不変資本(生産機械)は、回収までの期間が長い。可変資本(原料や労働力)は、回収までの期間が短い。
おなじ可変資本でも、回転が速いほうが、1年あたりに生み出す剰余価値がおおきい。ゆえに資本家は、早く回転させ、1年に多くを生産しようとする。過剰生産になり、売れ残って恐慌になるリスクが生じる。

17章 剰余価値の流通

剰余価値は、どこからくるのか。
資本家は剰余価値をすべて消費せずに、再生産に回す。では、剰余価値として蓄積される貨幣は、どこからくるのか。
貴金属の充分な供給(採掘)である。信用制度にもとづく、不換紙幣の発行である。銀行預金=貨幣請求権である。国債=国民の毎年の生産物に対する債権である。株券=企業の剰余価値に対する配当請求権である。

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2-3編 社会的資本の再生産と流通 18-21 open

18章 緒論

社会的資本の再生産過程について。
いままでは、独立した個別の資本について論じていた。ここから、社会全体について考える。『資本論』1巻では、生産のみを問題とした。労働力の売買について、特別に着目した。『資本論』2巻のここまでは、資本の循環を見た。だが個別の資本(資本家ごとの動き)を見た。ここから、社会全体にひろげる。

貨幣資本の役割

商品資本を稼働させる、貨幣資本について。つまり、生産した商品を消費する、貨幣の役割について。貨幣資本は、資本家が前貸して、商品に移転する。商品を購入した人が、その貨幣を資本家にはらう。循環する。
ここで、資本主義的な生産でなく、社会主義的な生産を考えよう。どうせ貨幣が循環するなら、貨幣がなくてもいいじゃないか。労働力と生産手段を、国家が「指図チケット」を発行・配分すれば、同じことである。指図チケットは、貨幣でない。指図チケットは、貨幣のように流通しない。国家が計画的に配分するものである。 ただし指図チケットが、「労働時間紙幣」と同じ意味なのかは、的場氏いわく、マルクスに明らかにされていない。

19章 社会的資本につき、従来の所説

重農学派

重農学派は、農業のみが生産的だとする。農業以外の産業は、農業がつくった価値を、右から左へ、いじくり回しているだけとする。ケネー『経済表』は、1国の収支を計算し、農業だけが生産的だという。ケネーは、産業について詳しく踏み込まず、農業についてのみ語った。だから、マルクスとの矛盾が顕在化しなかった。思考経路は全然ちがい、ケネーはモレまくっているが、結論だけはマルクスと矛盾しない。
スミスは、マルクスから見れば、ケネーより退歩する。農業において、労働と自然が価値を生み出すという。自然が生み出した価値が、地代になるという。マルクスは、スミスが違うという。自然は、労働者がなければ価値をつくらない。価値を作るのは、労働のみである。

アダム・スミス

スミスは、三位一体という。労働-労賃、資本-利潤、土地-地代、という3つの源泉をいう。マルクスとは考えが違う。
スミスによれば、資本は資本家の努力と機械によって、利潤を生む。土地は自然の恵みによって、地代を生む。だがマルクスはいう。資本家が出した利潤は、労働者から搾取したもの。土地が生んだ地代は、労働者のおかげで引き出せたもの。スミスのように三位一体といい、労働者を、資本家や土地と並べると、ホントウのことが分からなくなる。
スミス以後の経済学者も、スミスの混乱を継承している。

20章 単純再生産

生産過程のなかでつくられた商品が、どのように再生産されるか。 「商品-生産資本 … 商品’ … 貨幣’ -商品’」
という循環の切り方で分析する。

社会的生産の2つの部門

社会全体では、生産手段を生産する部門(生産機械メーカー)と、消費手段を生産する部門(商品のメーカー)がある。前者を第1部門といい、後者を第2部門ということにする。

第1部門を「設備メーカー」、第二部門を「自動車会社」とする。ぼくが理解しやすいから、勝手にそう呼ぶことにする。

まず自動車会社は、設備メーカーから生産設備を買う。つまり自動車会社は、設備メーカーの労賃と剰余価値を買い、自動車ラインの不変資本とする。

めちゃくちゃ当たり前だなー。毎日、やってることだ。

労働者は資本家に、価値を搾取される。設備メーカーの資本家と、自動車会社の資本家が用意した貨幣は、剰余価値をつくる。

設備メーカーと自動車会社の、商品と貨幣のやりとりが記されているが。設備メーカーも自動車会社も、いち企業であることには変わりない。どちらも資本家が資本金を準備し、労働者を搾取し、剰余価値をつくる。

自動車会社は、(労働者も買える)実用の車両と、(資本家しか買わない)奢侈の車両の2種をつくる。資本家は調子に乗って、奢侈の車両を作りすぎる。奢侈の車両が市場に余る。奢侈の車両が売れないせいで、恐慌が起きる。

設備メーカーの不変資本(生産機械)は、設備メーカーが前年以前につくったものである。自動車会社からもらうのでない。

実際は、自動車の生産設備の、さらに生産設備メーカーというのがある。マルクスは、自動車の生産設備メーカーも、自動車の生産設備の生産メーカーも、とりあえず区別なしなのかな。ともあれ、自動車(消費手段を生産する部門)と、設備(生産手段を生産する部門)の区別に着目した分析である。

ある1年に生み出された価値というのは、設備メーカーの可変資本(原料+労賃)+剰余価値(資本家の取り分)と、自動車会社の可変資本(原料+労賃)+剰余価値(資本家の取り分)である。ただし、設備メーカーの生み出した価値は、自動車会社の移転するという現れ方をする。
設備メーカーが作り出した価値は、不変資本(生産機械)として、自動車会社に蓄積される。社会全体では、過去労働(前年までに生産した価値)が、どんどん蓄積を増やす。今年できた自動車の価値のうち、過去労働を移転したものが増える。
いっぽう労賃は、まさにその年の労働である。
資本家は、剰余価値を蓄積して、退蔵貨幣をつくる。

この章は、もっとおおくの説明があるが。はぶく。
ひどく要約すれば、企業を2つに分けて分析して、何かを言おうとしましたと。生産手段を生産する部門と、消費手段を生産する部門である。2つのあいだで、可変資本と不変資本がどのように移動するかを分析すると、ちゃんと受け渡しを数式化できる。という大きな話はわかった。


21章 蓄積と拡大再生産

退蔵貨幣とは、余剰価値を蓄積したものである。退蔵貨幣を投資して利益をあげても、それは退蔵貨幣がもうけたのでない。もとの剰余価値をつくった、労働がもうけたのである。
退蔵貨幣は、資本の過剰とも言える。資本が過剰だと、不変資本の補填(設備のメンテ)に使われる。資本が過剰だと、貨幣資本(労働人口)が過剰となることがある。資本が過剰だと、消費手段(商品=自動車)のかたちで滞留し、不良在庫になることがある。

退蔵貨幣により、資本家は拡大再生産をする。労働者は、生産ラインに縛りつけられる。労働者は疲弊する。労働者は、商品を消費するヒマがなくなる。恐慌になるリスクがある。『資本論』2巻おわり!

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3-1編 剰余価値の利潤への転化 01-07 open

01章 費用価格と利潤

労働者が生み出した価値が、いかに見えなくなるか。
資本家同士が、ライバルと競争して勝ったとする。すると資本家のもうけは、ライバルから吸い上げたように錯覚する。もうけは、労働者から搾取したものであることが、隠される。

どういう概念を設定するかによって、同じものが違ってみる。おもしろい。ある人間の集団だって、年齢バラバラ、性別バラバラだけど、勤務先がすべて同じ!とか、そういう隠れた関係性がある。


「費用価格」という概念がある。
剰余価値をつくりだすために費やした、不変資本(生産手段)の価格+可変資本(労働)の価格。資本家には剰余価値にしか興味がないから、費用価格の内訳が、生産手段なのか労働なのか、どちらでもよい。区別を見ようともしない。

八百屋がザルをぶら下げ、お金が要るときにはザルからとり、お金が入ればザルに投げこむ。これが、いまマルクスがいった資本家の姿勢。さすがに現代の管理者は、勘定科目を設定して、お金にイロをつける。
費用価格というとオオゲサだが、P/LのLのほうである。

資本家は、生産手段を調達した価格(生産機械の値段)と、労賃の価格(労働の値段)の合計を、費用価格とする。どんぶり勘定である。

剰余価値と利潤はちがう!
利潤とは、商品価格から費用価格をひいたもの。商品価格に、どれだけの生産手段の費用と、どれだけの労働の費用が含まれているか、そんなことは資本家は知らない。あたかも流通・販売のなかで、利潤が生まれたように錯覚する。

差益は、販売の現場で発生するから。ただし、そもそも商品の価値をつくったのは、労働である。労働がつくった価値が、貨幣に変わっただけである。販売の現場で、価値が生まれ、貨幣が生まれたのでない。

剰余価値とは、つくり出された価値のうち、資本家の取り分である。労働者の取り分を除いたものである。
資本家から見れば、剰余価値の価格と、利潤の価格は、分量が同じである。しかし、分析の観点がちがう。数字の理由づけが異なる。両者を混同してはいけない。剰余価値という概念をつかうと、労働が生み出した価値が見える。利潤という概念をつかうと、労働が生み出した価値を忘れる。販売の現場でうまれた、差益ばかりに目がゆく。

金額が同じでも、概念がちがう。理由づけがちがう。計算式がちがう。どういう説明をするかによって、意味がちがう。おもしろいなあ!
べつの例。「売価-原価=利益」という数式で語るとき、利益は偶然の産物である。市場がきめた売価ありき。原価も、社内の都合で積みあげて与えられる。引算したら、たまたま利益が分かりましたよと。「売価-利益=原価」こちらにすると、市場がきめた売価ありき。会社に必要な利益の計画ありき。逆算して、取り組むべき原価目標を決めましょうとなる。原価は成行で決めてはいけない。利益を出すために、目標が自然と浮かびあがるのだよと。ドM。


02章 利潤率

利潤率=利潤÷費用価格(不変資本+可変資本)

不変資本(生産機械)と、可変資本(労賃)を合算して、どんぶりで費用価格と考えると、資本家による労働者の搾取が見えなくなる。販売の現場で、費用価格(原価)よりも高値がつくと、たまたま差益がでた。資本家は、そう感じる。

アダム・スミスは、こういう「欠陥のある」理論なのだろう。「神の見えざる手」はキャッチーだが、市場ばかり見ている。労働者がいかに価値をつくるかを、見ていない。


03章 剰余価値率に対する利潤率の関係

剰余価値率は、利潤率より必ず高い。 なぜか。かりに剰余価値と利潤の価格が、同じとする。
 剰余価値率=剰余価値/可変資本
 利潤率=利潤/(不変資本+可変資本)
分子の剰余価値と利潤は、同じである。分母は、剰余価値率のほうが小さい。なぜなら、利潤率の分母は、剰余価値率の分母である可変資本(労賃)に、単純に不変資本(生産機械)を足したものだからだ。

いま、ちゃんと分かって書いている。あとで読み返しても、きっとぼくは、理解できるだろう。
なお剰余価値率は、資本家が労働者からどれだけ搾取しているかを言う比率。利潤率は、資本家がいかにうまく利潤を出しているかを言う比率。そもそも言いたいことがちがう2つの概念である。

以下、利潤がどのように変化するか、場合分けして考えてある。
可変資本(労賃)の絶対額を減らすと、利潤が増える。労働を強化すると、利益が増える。可変資本(労賃)の、不変資本に対する比率を下げる(労働を機械化する)と、利潤が増える。労働者は、安いカネで死ぬほど働けとなる。

結論だけ抜粋すると、ほんとにしょーもない。


04-07章 資本家が努力し、利潤率をあげる

回転を速めれば、利益がふえる。回転を速めれば、支払う労賃が少なくてすむ。全世界の資本家よ、回転率をあげよ。
資本家は、生産機械を安く調達し、原材料を節約し、労働者を死ぬまで働かせ、生産方法を発明することで、利潤をあげられる。
原料価格を安くすると、利潤をあげられる。
以上の涙ぐましい努力により、資本家は利潤率をあげる。結果、資本家は、自分の努力によって利潤率があがったと誤解する。労働者からの搾取により、資本家が利潤をあげていることを、忘れる。

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3-2編 利潤の平均利潤への転化 08-12 open

08-09章 一般的利潤率(平均利潤率)の形成

1国の一般的利潤率(平均利潤率)が、いかに生まれるか。
利潤をだす効率がわるい生産部門は、効率のよい生産部門の足をひっぱる。社会トータルとしては、効率が相殺されて、一般的利潤率におちつく。

マクロで見たとき「1国」という単位で考えるのかー。


10-12章 すべての資本家、すべての労働者

ただし、いくら相殺が起きても、すべての資本家とすべての労働者という対立構図は、1つの資本家に着目したときと同じである。資本家のあいだで相殺が起きたからといって、労働者が忘れられてはいけない。資本家は、フリーメーソンを形成するかのように、連携してすべての労働者から搾取する。
すべての資本家にとって、労賃を値切ることは嬉しい。すべての資本家にとって、剰余価値が増えるからである。パイが増えるからである。

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3-3編 利潤率の傾向的低落の法則 13-15 open

不変資本(生産機械)の比率が、可変資本(労働)に対しておおきくなると、一般利潤率が漸次で低落する。
なぜか。生産機械が進歩すると、資本家が用意すべき生産機械の値段があがる。労働者からの搾取が減って、マル儲けできる比率が小さくなる。少ない人数で生産できるようになるから、労働者は、働き口がなくなる。
資本家は、どのように一般利潤率が下がるのを食い止めるか。
オンナ子供をつかって、労働者からの搾取を強化する。労賃をさげる。やすい生産機械をつかう。結婚を促進して、労働人口をふやし、労働力を買い叩く。後進国から搾取する。不変資本が大きい事業(鉄道など)を避ける。

資本家は、もうけるために生産機械を高性能化する。労働人口をふやして、労賃を買い叩く。その結果、資本の過剰がおきて、恐慌がおきる。資本家が損失をこうむる。資本家の行動は、皮肉にも矛盾してしまう。

「この数字を操作すると、あっちの数字がこうなる。結果、社会はこうなる」という説明がおおい。資本家がどうすれば儲かるのかを、シミュレーションしている。こういう「実用的な」テーマを扱っているのだなあ。

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3-4編 商品取引資本と、貨幣取引資本 16-20 open

商品資本と貨幣資本とを、
商品取引資本と貨幣取引資本に転化する

16-18章 商品取引資本

これまで『資本論』は、産業資本について述べてきた。つぎは、産業資本のほかの、商業資本、金融資本、土地資本の説明をやる。商人資本と商業資本は、とくに区別なし。
商業資本は、流通過程の助手のようなもの。商業資本は、価値をつくらない。商業資本の利潤は、産業資本で労働者がつくった価値を浸食して成立する。商業資本家は、産業資本の労働者を間接的に搾取する。
商業資本は、回転率があがると安売りできる。

19-20章 貨幣取引資本

貨幣取引資本とは、金融業者。とくに両替商。両替商は、通貨の異なる国が貿易するとき、金銀の地金を鋳造して、取引を成立させる。
貨幣取引資本は、「貨幣-貨幣’」という取引をする。利子生み資本をもっている。だがこの増加分も、産業資本の労働者から搾取したものだ。流通だけで利潤が生まれるというのは、先行研究による誤解である。

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3-5編 利子生み資本 21-36 open

「貨幣-貨幣’」と、貨幣が自己増殖するように見える取引がある。これが利子生み資本の取引である。
産業資本家は、貨幣資本家と対立する。つまり事業会社の経営者(産業資本家)は、株主(貨幣資本家)に、高額の配当を搾取されるように見える。しかし元をたどれば、労働者がつくった価値の奪いあいである。

貨幣資本は、貸付資本(銀行)になる。信用により、カネを貸す。好況のとき、みな信用でカネを借りる。不況のとき、信用がなくなり、カネを貨幣を持ちたがる。貸付資本は、不況のときこそ金利を釣りあげ、利益を得る。

貨幣資本家や貸付資本家は、産業資本家のさらに上位にいて、上前をハネる存在である。いかに「あくどく」貨幣資本家や貸付資本家がもうけるか、『資本論』にくわしい。

信用によって額面を水増できるのは、労働者の生産がともなっている範囲だ。金利がつくのも、労働者が毎年つくってくれる価値の範囲においてだ。

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3-6編 超過利潤の地代への転化 37-47 open

地代は、土地からの恩恵でない。土地に働きかけた、労働によって生み出されるものだ。概念の設定を誤り、これを見失うな。

どのように地代に差異が生じるか。最劣等地からの差異である。最劣等地よりも、マシな分が、地代として計上される。ただし、生産にかかる費用価格、作物の種類、輸送コストなど、農業の条件はマチマチである。
最劣等地というのは、概念である。「地代がない最劣等地」というのが、どこかにあるわけじゃない。
そもそも、地代がゼロになるような荒地は、だれも耕さない。地代がゼロという土地では、そもそも生産が行われない。やはり「地代がない最劣等地」が、どこかにあるわけじゃない。

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3-7編 収入とその源泉 48-52 open

三位一体はトリックである。
三位一体とは何か。資本から利潤がうまれ、土地から地代がうまれ、労働から労賃がうまれる。という概念である。これはトリックである。
実際は、労働が資本に利潤をうませてやり、労働が土地に地代をうませてやり、労働だけが価値をうむ。
資本家の階級、地主の階級は、労働者から搾取する。資本家と地主がセットになって、競争しながら、労働者から搾取しているのだ。搾取する資本家と地主、搾取される労働者、という2階級の対立で捉えるのが正しい。

『資本論』3巻の後半は、この搾取する者の内輪もめについて、詳しかった。どういう場合、どういう理由でどちらがトクをするかと。的場氏は、マルクスの草稿をエンゲルスがまとめたものだから、散らかっているという。たしかに散らかっている。だが「何が争点=賭金になっているか」を理解することができた。内輪もめの優劣を論じるとき、場合わけが不充分だったり、勝敗の判定が甘かったりする、という足りなさはあったみたいだが。ぼくの理解できる範囲においては、満足できた。「エンゲルスの馬鹿」とは、思わなかった。

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