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予習 『資本主義から市民主義へ』より open

岩井克人『資本主義から市民主義へ』新書館 2006 より。
01章が「貨幣論」。岩井氏のほかの本の復習みたいな本。

金融とは何か

貨幣は貨幣だから貨幣である。自己言及的。ゲーデルの不完全の定理とおなじ、パラドックスがある。ほかの支援や基盤がない。
貨幣は、自体が金銀だから貨幣になるのでない;貨幣商品説でない。法制が定めるから貨幣でない;貨幣法制説でない。

「金融とは何か」と問うが、すべてが金融の問題でしかない。金融とは、生産や消費といった、実態的な経済活動を行うために、資金を融通すること。
スミス「見えざる手」は、生産・消費のある実体経済をいう。金融は、実体の経済活動から派生した、付随するものに見える。だが、そうでない。

派生=貨幣が、実体=経済をささえる

実体経済の根源には、金融(派生=デリバティブ)がある。その金融(派生=デリバティブ)とは、貨幣である。貨幣こそが、元祖・派生物!
貨幣には、なんの実体的な価値がない。実体的なモノを買うための手段で布かない。貨幣をもつことは、実体的なモノを手に入れるための、派生的な活動でしかない。ところが、
貨幣がなければ、消費・生産ができない。貨幣のおかげで、資本主義ができる。本源の実体経済、派生の金融、という二項対立は、逆転する。

貨幣は、いつか未来において、何か実体的なモノを買うために保有される。いま使うか、あとで使うか、自由である。つまり貨幣を持てば、投機の決断をさせられる。債権や先物を持たなくても、貨幣を持つだけで、金融・投機をさせられる。不安定である。

岩井氏がおもしろい話をしてるが、ぼくの関心と逸れるので、この注釈のハコのなかにメモしておく。
岩井氏はいう。マルクスの労働価値説は、産業資本主義という特殊形態にだけ成立する考え方であった。むしろいまは、労働価値説より前の、重商主義のように現実が動いている。ジョン・ロー『貨幣と商業』を読め。

ゲーテ『ファウスト』は、ジョン・ローをモデルに、メフィストフェレスが出てくる。不毛で実体を持たず、偽物で派生的な不換紙幣を発行する。金融・投機のファウストは、労働価値説に救われる。そういう話。

錬金術は、貨幣を模倣した

原因と結果を取り違える、系譜学的な転換がある。
錬金術が研究されたのは、不換紙幣が発行されたあと。ゴールドは貨幣となり、ゴールド以上の価値をもつ。紙きれは紙幣となり、紙きれ以上の価値をもつ。同じように、ナマリをゴールドに変えようという、錬金術が思いつかれた。
おなじ転換は、アクセサリと洋服にもある。アクセサリが先で、洋服があとである。呪物のアクセサリが拡大して、洋服になった。ユダヤ人のアクセサリは、人質になったときに、自分を買い戻すもの。

労働価値説という虚構は、なぜ生まれたか

周縁のほうが、経済の中心である。
周縁にある農村と、産業革命した都市との差異によって、資本家の利潤が生まれた。労働者が価値をつくり、資本家に搾取されたのでない。農村と都市の差異が、利潤をつくっただけ。
利潤というのは、自然発生的なもの。狩猟の獲物は、自然が増殖した。植民地の香辛料は、自生したもの。商品にするために、労働力が作り出したのでない。

マルクス『資本論』は、農作物ですら、労働の産物としていた。労働しなければ、農作物ができない。大地の恵みを、引き出すことができないだろうと。岩井氏は、ちがうという。差異が利潤を生むと、一貫していう。「差異が利潤を生む」なら、経済のどの段階にも、あてはまる。という。

16世紀のフランスで、国民国家という概念が生まれた。だが、国民国家の内部で、一物一価が成立したら、差異が消滅してしまい、利潤が生まれない。
国民国家の内部に、どんな差異があり、産業資本主義ができたか。
過剰な人口をかかえ、共同体的な互酬原理によって生活する農村。市場経済が浸透している都市。農村と都市が共存することで、資本主義ができた。農村の共同体的な賃金が、都会の工場労働者の賃金を安く抑えてくれた。だから、都会の工場の生産物に、新たなニーズが生まれた。スミスのいうように、すべて市場化されたら、一物一価になる。ひとつの国家に、市場の都市と、非市場の農村があるから、産業資本主義ができた。

市場原理がいかに成立するかは、カール・ポランニー『大転換』で読んだばかりだ。イギリスの細かい過程で、この差異がいかに作られたか。都市の原理が、いかに農村を飲みこんだか(国家が飲みこませた)。という話だった。

ヨーロッパで国内が市場化すれば、植民地との差異により、産業資本主義を成立させた。ウォラーステインのいうように、中心と周縁で、価値体系が差異をもつから、利潤がうまれる。利潤とは、差異の物象化である。

周縁と地域が均一になったら。新商品の技術に、差異をもとめる。また情報は、それ自体が差異である。情報は、ほかと違い、ほかが知らないから、商品になる。

差異がもっとも退廃したら、ギャンブル

ギャンブルは、誰かが勝つために、誰かが負ける。金融派生商品のデリバティブは、誰かが引き受けたリスクから、利潤をあげる。わざと差異をつくる、ゼロサムゲームである。実体あるモノを売り買いするのでなく、何かを売り買いする権利・義務を売り買いする。この権利・義務は、無限につくりだせる。

いくらでもメタになる。岩井氏は、おなじ本の後ろのほうでいう。美人投票で、直接選ぶのでなく、「みんなが選びそうな人」を選ぶ。「みんなが選びそうな人だと、みんなが思いそうな人」を選ぶ。これを無限にくり返すと、だんだん、美人の実体ある顔はなくなる。金融商品になる。

売り買いするために買うのは、貨幣の売買といえる。 たとえば株式は、利潤を買うのでない。利潤を受けとる権利を買うのである。こうして資本主義は、効率化するとともに、不安定になる。効率化と不安定とが、資本主義の二律背反の宿命である。

はじめ貨幣が成立するとき、二重の欲望の一致を必要としなくなった。つまり、貨幣を媒介にすることで、「いまコレを贈与したく、いまソレを受納したい」という偶然を待たなくて良くなった。物々交換しなくて良いから、商品交換の可能性が拡大した。
だが、交換の困難を解消したのでない。困難のあらわれ方を変えただけ。貨幣とは一般的交換手段である。将来どんなモノでも買える可能性をもつことである。いま使わなくてよい。
貨幣は、売りと買いを分離した!
みんなが売りたければ恐慌で、みんなが買いたければ、ハイパーインフレ。貨幣は、交換を効率化するとともに、交換を不安定にした。

いますぐ使わなくて良い自由

経済人類学で問題にされる呪物。
最大のおまじないは、誰もがほしがる。だから、身につけておく。アクセサリと貨幣は、起源が同じである。お金だから首輪にするのと、首輪だからお金にするのは、同時に起こった。首輪は、人質になったとき、身代金になる。つねに持ち運んで、人質になることに備える。これは、貨幣の使い方と同じである。
貨幣を持つとは、未来に向けた投機である。共同体にしばられず、自由な交換の場を与えられた。

いま「金融の投機を辞めさせろ」という人がいるが、おかしい。貨幣とは投機である。モノを買う自由と、モノを買わない自由を手に入れられる。「強制されない自由」というのが、自由のなかで、もっともランクが高い。
みんなが貨幣を使わない自由を行使すると、不況になる。自由を行使する場がせばまる。みなが貨幣を使わない自由を放棄すると、ハイパーインフレになる。自由そのものが失われる。自由のパラドックスである。

通貨危機の2つの問題

1つの国の通貨危機は、なぜ起こるか。
はじめロシアに、資金が流入したとする。なぜ流入したか。ほかが投資したから、自分も投資しただけ。信用があるから信用があるという、循環論法に過ぎない。ロシア経済の実体に照らして、投資が決まったのでない。
もし誰かが「ロシアを信用できない」と言えば、みな投資をやめる。ロシア経済の実体と関係なく、ロシアは通貨危機になる。

ドルが基軸通貨となるのは、貨幣の貨幣となったとき。アメリカが介在しない、例えば日本と韓国の取引でも、ドルが使われたとき、ドルは基軸通貨となる。
このドルも、自己循環論法により、基軸通貨となった。みなが使うから、基軸通貨である。アメリカ経済の実体とは、関係がない。
アメリカは、ドルを発行すれば、世界のモノをただで買えるという特権がある。シニョレッジ(王権利得)である。この特権を行使しすぎると、基軸通貨としての信頼がなくなる。もしアメリカがデフレになっても、世界がインフレならば、ドルの発行を抑える。そこまでの自制が利かねば、基軸通貨をたもつ資格がない。

基軸通貨が安定すると、労働が自由に移動できる。労働が自由に移動できなければ、基軸通貨は安定しない。なぜなら、もしイタリア人がドイツで働きたがらず、しかしイタリアがデフレになれば、イタリアだけのために、ユーロを追加発行しなければならない。ドイツには迷惑である。そして、ユーロを発行しすぎれば、ユーロへの信頼がゆらぐ。

言語・法・貨幣が、人間をつくった

法人論。法人とは、モノを所有する人間と、人間に所有されるモノと、2つの性質を合わせた存在。
社会的な動物としての人間は、言語・法・貨幣の媒介によって、はじめて人間になった。

時間があるから、貨幣の貸借があるのでない。貸借があるから、時間の観念がある。ニーチェは、良心の負い目というのは、貸借から生じたという。
貨幣は、交換において、だれも貨幣の実体を欲していない。永久に決済されず、先送りされる。貨幣交換によって、永久にすすむ直線的な時間の概念が可能になった。アブラハム・レオン『ユダヤ人と資本主義』はいう。ユダヤ人は余所者の媒介者だから、貸借の概念をつよく持った。

荒削り過ぎたけど、面白かったところを復習・妄想。
貨幣は、貨幣だから貨幣である。自己言及の循環論法である。ポスト産業資本主義=金融あそびの資本主義は、貨幣のもつ本質を、もっとも表す。どんな本質か。貨幣とは「交換したい!」欲望を、効率化したものである。二重の欲望の一致という偶然に頼らず、好きなときに、好きなだけ、交換する(交換しない)ことを可能にした。その副作用として、交換を不安定にした。
物的に制約された産業資本主義よりも、現代のポスト産業資本主義のほうが、この貨幣の性質を、よりロコツに表現している。つまり、貨幣の効用を最大化したかわりに、副作用まで最大化された。
資本主義には、(というよりは、交換するためには)、差異が必要である。もし、みんなが同じものを持っていたら、交換したいという欲望が起動しない。差異があるから交換する。これも因果関係の逆転かも知れなくて、交換するために差異をつくるのか。それがムリなら、差異を見出す。みんな努力家だなあ!
資本主義は、貨幣の使い方によって、時期ごとに呼称が分類される。ともあれ、貨幣をつかって交換を誘発する経済は、すべて資本主義である。
交換は、どんどんメタ化する!
実体の交換から、貨幣の交換へ。貨幣を交換する権限と、貨幣を交換する権限の交換へ。貨幣を交換する権限を交換する権限と、、以下略。メタ化にすることにより、交換の分量が増えるだけでなく(分量が増えるというより)、交換の次元があがる。「交換の次元」って、ぼくが勝手にいま思いついて、自分でも意味が分かっていないが。交換の分量が増えたら人間は快感だが、交換の次元が増えたら、もっと快感なのかも知れない。「交換の仕方」にまつわる快感なんだろう。よくわからんが、発想のタネになりそう。
交換のレートを決めるのは気持ちよかろう。もうかるから。差異を、自分の味方にして、利潤をあげられるから。だが、交換のレートの決め方を決めるのは、もっと気持ちがよいだろう。こちらもメタ化する。交換のレートを決める決め方の決め方を決める、とか。どんどん快感が増えるに違いない。直感的にそう思う。
貨幣の中心は空洞。貨幣とは「交換したい!」という欲望そのもの。岩井氏はここで直接は言及していないはずだが(言及してたかも)、きっと「人間はなぜ交換したいか」という問いは、自己言及の循環論法しか生まない。つまり「交換したいチンパンジーが、人間になった」のだろう。人間が交換したがるというのは、因果関係のとりちがえ。交換したがるから人間。
実存主義(実体)と構造主義(関係)のあいだの、もやもやーとしたところ。ともあれ、ぼくの関心に引きつけると、交換の内容や方法を分析すれば、どんな人間なのか、どんな社会なのかを、指摘できるなあ。


次章以降は、ちょっと本がつまらなくなる。
っていうか、引用されてるほうの岩井氏の本を読めば、こと足りる。引用されているほうの本を読んだほうが、詳しくておもしろい。既読だから、こちらの本で読むまでもなかった。つごうで後日、本の後ろのほうも抜粋します。
『三国志』を読む準備が、整ってきた! 110604

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01章 価値形態論 open

岩井克人『貨幣論』ちくま学芸文庫 1998より。

資本主義の危機は、ハイパーインフレ

資本主義の危機とは何か。
マルクスとエンゲルス『共産党宣言』は、過剰生産による恐慌が、資本主義の危機だという。マルクス『資本論』は、恐慌とブルジョアの没落を待望した。
だが資本主義の危機は、ハイパーインフレである。
レーニンは、貨幣を堕落させれば、資本主義が破壊されるという。ゆるやかで持続的なインフレは、労働と生産を活発にする。レーニンの根拠は不明だが、マルクスと正反対のレーニンのほうが正しい。

マルクスの価値形態論_012

商品には貨幣価値がある。貨幣価値とは何か。どのような商品も、貨幣と直接に交換されなければ、価値として実現しえない。
マルクスのいう「貨幣価値」の定義を突き詰めると、マルクスのいう「生産過剰による恐慌で、資本主義が破壊される」と矛盾する。マルクスをつかって、マルクスを論破する。マルクスを読みなおすのが、この『貨幣論』である。

見通しだけメモる。恐慌は、「商品より貨幣がほしい」状態である。みんな貨幣を見捨てていない。資本主義は、貨幣とともに成立するものだ。恐慌は、むしろ資本主義が頑強に機能している状態である。ぎゃくにハイパーインフレは、「貨幣より商品がほしい」状態である。貨幣がいらず、あたかも原始の物々交換にもどってしまう。資本主義は破壊される。


なぜマルクスは、価値形態論を書いたか。
スミスやリカードら「古典派経済学」を批判するためである。古典派経済学は、何を発見したか。ものの価値とは、生産に社会的に必要となる労働時間によって規定される「労働価値」法則である。「価値法則」である。商品とは、労働価値が実体化したものである。
「実体」と「形態」の対立がある。
マルクスのいう価値法則においては、価値には超歴史的な実体があり、ただ価値は形態で表現され、その形態が変化するだけである。資本主義は、商品交換をおこなう。超歴史的な価値の実体は、商品と商品とのあいだの「交換価値」という特殊な形態として表現される。交換価値とは、価値の実体がもつ形態の1つであり、交換価値と価値は異なる。

価値法則は、ほかの「自然法則」と同じように、自明として発見されるだけ。証明できない。ニュートン力学は発見されたが、証明はできない。マルクスは、古典派経済学が発見した「価値法則」が、いかに資本主義で貫かれるかを表現するために、『資本論』を記した。

マルクスは、古典派経済学の価値法則が、誤りだと言うのでない。結論は正しいが、説明が足りないと言っているらしい。
なお、価値法則にたどりつかない「俗流経済学者」は、ベィリーらである。彼らは、価値の実体(価値そのもの)と、価値の形態(価値の表れ方)を混同した。


価値体系の科学_028

『資本論』はいう。資本主義の生産様式が、支配的におこなわれている諸社会の富は、ひとつの「巨大な商品の集まり」として表れる。ひとつひとつの商品は、その富の基本形態としてあらわれると。
商品が集まった世界とは、使用価値をもつモノの集合でない。商品は、ほかのすべての商品と社会的な関係をもつ。商品は価値体系をつくる。主体が商品、客体も商品、という体系である。まだヒトは出てこない。
ソシュールの同じである。構造主義である。

ソシュールを持ち出してもらえると、スッパリ分かった。


マルクスが構造主義と異なるのは、どこか。
商品世界のなかで、この価値の体系は、どんな形態をもつか。こう発問したところが、マルクスの特徴である。なぜなら資本主義に固有の形態は、「貨幣形態」だからである。

商品がゴロゴロ転がっているのでない。商品が、たがいの関係を相互に参照しあって、価値の体系をつくっているだけでも、議論が足りない。その商品の価値が、モノとしての商品でなく、貨幣という形態をとる。ここに着目したんだと。


貨幣の神秘と、呪物の崇拝

貨幣は、商品流通の主題にならない。交換を円滑にするため、人々が同意しあった交換用具にすぎない。車輪でなく、車輪にさす潤滑油である。媒介物である。
金銀そのものを崇拝するのは、ただの呪物崇拝である。表象を実体をとりちがえると、 金銀を崇拝する。重金主義におちいる。貨幣を退蔵しすぎると、貨幣恐慌をまねく。
ところで、「重金主義の幻想は、どこからくるのか」とマルクスは立問する。貨幣の神秘は、どこにある。金銀は、モノとしての自然な形態のままで、ほかのすべての商品にたいする一般的な等価物となる。金銀は、モノの性質でなく、社会的な関係ゆえに、一般的な等価物となる。これが神秘なのだ。
金銀という商品は、いかにして貨幣となるか!?

全体的・一般的価値形態から貨幣へ

商品の価値は、その商品自身によって表現できない。「チョコ1つの価値は、チョコ1つだ」は、同語反復だ。ほかを参照せよ。
まず「チョコ1つを、アメ2つを交換できる」という、単純な価値形態の表現ができる。チョコは価値を表現する主体で、アメは価値を表現される客体である。主体は客体があるから主体になり、客体は主体があるから客体になれる。

ここからが、おもしろいですよ!

アメは、ただのアメのくせに、チョコとの交換レートが決まると、アメ自体に価値があるような錯覚になる。社会的な関係と、モノそのものの性質とを、取り違える。臣下が屈するから王様になれる者は、自分が王様だから臣下が屈服するのだと、取り違える。これと同じである。
おなじ錯覚が、金銀のときも起き、金銀は貨幣となる。しかし「単なる錯覚でした」で済ませられるほど、「金銀は貨幣である」という決まりは危うくない。

以降、マルクスは循環論法におちいる。だが、絶望するな。貨幣の「秘密」とは、循環論法によってのみ存立することは、分かったではないか。
全体的な価値形態(チョコ1つは、アメ2つまたはマメ4つと価値が等しい)、一般的な価値形態(アメ2つおよびマメ4つは、チョコ1つと価値が等しい)という、ハシゴを登ることで、循環論法でしか説明できないことが明らかになる。循環論法の高みに登ったら、ハシゴを捨てよ。
諸商品は、たがいに交換価値として、表し・表されあう。_053
一般的な貨幣形態で、さっきチョコがあった場所に「金貨」をおけば、完成である。貨幣は、すべての人間労働の、直接の化身となる。金銀に対する呪物崇拝は、そのままのかたちで、共同幻想となる。

貨幣形態の循環論法をチェックする_056

マルクスは「貨幣は共同幻想だ」と言い切ってしまった。それで良いか。チョコを金貨に置き換えるだけで、終わらせてしまって良いか。ダメである。
全体的な価値形態と、一般的な価値形態とは、そこに登場した商品を、すべて置き換え可能である。つまり、さっきはチョコを主軸にして分析したが、その場所にアメ2つがきても、マメ4つが来てもよい。もっと言うと、ちゃっかり金貨に参加させていても良かった。金貨もまた、どこにでも置き換え可能だからだ。
ただし、すべてが置き換え可能だが、すべてが宙づりである。

貨幣は、マルクスのいうように共同幻想ではない。
「商品が主体で、貨幣が客体である」か「貨幣が主体で、商品が客体である」かは、正誤の二項対立で表現できない。相互が相互の根拠となり、宙づりになっている。
ただし、いちど金貨が貨幣として確立すると、もとの対称性(すべての商品を、すべての位置に置き換え可能である)が失われる。チョコは金貨と交換でき、アメは金貨と交換できるが、チョコとアメを直接に交換することはできない。貨幣の媒介が必要となる。
商品は、まず貨幣と交換されるために、商品世界に参入する。商品は、貨幣と交換されて、商品世界から退出する。貨幣だけが、商品世界に永久に住みつく主体となる。貨幣が、商品世界を維持する。貨幣が流通していれば、商品世界が商品世界として存立する。

貨幣が流通しなくなれば、商品世界が存立しない。これが『貨幣論』のゴール。


なぜマルクスは、議論をすっ飛ばしたか。なぜマルクスは、いま岩井氏がやったように、金貨もまた、チョコ、アメ、マメと同じく置き換え可能で、、という説明をしなかったか。
労働価値説と矛盾するからである。
岩井氏が見たように貨幣は、人間労働という外部の根拠を持たなくても、宙づりの状態で、交換価値を持った。マルクスは、この労働価値説の弱みに気づいていた。だからマルクスは、こじつけた。金銀という商品は、鉱山から採掘するという労働に、その価値を裏づけられていると。
岩井氏いわく、マルクスにはムリがある。採掘の労働は、社会におおくある労働の1つに過ぎない。採掘の労働が、社会のトータルの価値を裏づけるのは、おかしい。部分と全体を混同してはいけない。

鋳造貨幣、紙幣、電子マネー_070

貨幣となった金貨は、商品としての役割を果たさない。金貨に使用価値がないからでない。ある商品が(たまたま今回は金銀が)、貨幣としての位置を占めたから、貨幣としての役割だけを果たすのである。貨幣が貨幣である根拠は、それが貨幣であるからである。循環論法である。
貨幣になるには、実体的な根拠がいらず、外部的な権威がいらない。実体的な価値もいらない。金銀という、特殊な物質である必要もない。均質的で、分割可能で、耐久性があればよい。電子信号でもよい。

貨幣は、ある商品とべつの商品の関係性を、抽象化した存在である。言語は、ある人間とべつの人間の関係性を、抽象化した存在である。貨幣に商品性がないように、言語に人間性がない。媒介である。
媒介は「モノの数にも入らない」ものでも、流通することにより、モノをこえる価値をもつ。無から有が生まれる。神秘である。

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02章 交換過程論 open

人間の登場_077

『資本論』2章は「交換過程」である。
マルクスはいう。商品は、じぶんで市場に行けない。じぶんで、ほかの商品と交換しあえない。だから商品は、商品の番人や所有者を探さなければならないと。

商品所有者(人間)が登場すると、商品世界は自己完結できなくなる。いくら商品が主体的・自律的に、ほかの商品との関係性を結んでも、人間から見れば、単なるモノである。商品は客体に転落する。
ただし、つねに人間が主体で、商品が客体ではない。所有する/所有されるという関係の制度化によって、人間は主体として実体化し、商品は客体として実体化する。モース『贈与論』にある、互酬性の原理にもとづく「古代的な交換形態」においては、人間とモノのあいだに、厳然とした区別がない!!

マルクス『資本論』1章と、岩井『貨幣論』1章とは、商品世界の「構造」を説明したものだった。マルクス『資本論』2章と、この岩井『貨幣論』2章は、商品世界の「生成」の理論である。べつの理論である。

貨幣の創世記_080

商品と商品との等価交換は、人間と人間との「交換」を通じてしか実現しない。しかし、ジェヴォンズのいう「欲望の二重の一致」という、幸運な偶然を見つけねば、交換できない。
たとえば、カール・ポラニーは、互酬、再分配、交換を、人間の経済活動の社会組織化の3形態とした。互酬とは、相手の贈与には必ず返礼をするという、共同体的規制によって、欲望の二重の一致の困難を解消しようとしたものである。再分配とは、中央集権的な権力によって、欲望の二重の一致を解消しようとしたものである。

ここ、是非とも本番で引用すべきである!!


マルクスはいう。
ある商品に交換価値があると示すのは、どんな場合か。ほかの商品の所有者にとって、使用価値があるかに関わりなく、等価物として、ほかのどんな商品の一定量とでも、任意に置き換わることによってである。しかしその商品は、ほかの商品の所有者にとっては、彼自身にとって使用価値である限りにおいてのみ商品である。その商品じたいの所有者にとっては、それが他人にとって商品である限りにおいてのみ、商品となる。
こうして、一方の解決が、他方の解決を前提にする、という悪循環が始まる。諸商品は、けして商品として相対するのでない。ただ生産物または使用価値(すなわち、たんなるモノ)として相対するだけになってしまう。ゆえに、われわれ商品所有者たちは当惑すると。

二重の欲望の一致が、いかに難しいか。理論的には不可能であるか。それをマルクスなりに表現した箇所である。


貨幣があれば、二重の欲望の一致を探さなくてよい。つまり、自分が要らないものを欲しがっている他者を探さなくてよい。貨幣が、間接的な交換可能性を維持してくれる。貨幣さえあれば解決する。
本章の「交換過程論」とは、モノの寄せあつめだった商品世界のなかから、いかに貨幣が出てくるかという説明をする章である。

マルクスの貨幣創世記_084

マルクスは、いかに貨幣の始まりを説明したか。
はじめに行動ありき。現実の交換過程は、あの価値形態論(1章でみた、実体ある価値が、さまざまな形態で出現する論)を、実行することである。考えずに行っているものだ。歴史的な交換過程なんて、説明までもなく明白だ。えー。
貨幣結晶は、種類のちがう労働生産物が、実際に互いに等値され、したがって実際に商品に転化される交換過程の、必然的な産物であると。えー。

岩井氏はいう。『資本論』1章で説明した、商品世界の「構造」と、2章で説明する、商品世界の「生成」との、区別がなく 0 なってしまった。
ぼくは補う。マルクスは、せっかく人間がいない商品の価値体系を1章で論じた。1章で、人間を登場させなかった。しかし2章になった途端、とくに断りなく人間が入ってきて、「人間が商品を交換するのは自明だ」と、開き直った。えー。


マルクスはいう。
商品交換とは、共同体の果てるところ、ほかの共同体との接点で始まる。はじめは、労働生産物で、偶発的な時折の交換する。交換される商品の数量が増大する。すると、どんな特殊な商品とも確実に交換できるもの、貨幣が登場する。
「もっと円滑に交換したいなあ」という課題と、「交換が円滑になるぞ」という解決手段は、同時に生まれる。ヨカッタナ!
人間の労働は、物質化する。はじめは労働は、諸商品にうつり、つぎに貴金属にうつる。マルクスの価値形態論のなかで、人間の労働は、単線的な論理構造にて、諸商品から貴金属へとうつる。

岩井氏が、疑義たっぷりにマルクスを紹介する。ここでマルクスを理解しよう!という欲望が起動しない。古来から、議論が分かれているほど、ナゾだらけの箇所らしいし、にわかに理解はできないだろう。


貨幣創世記には、2つある。貨幣商品説と、貨幣法制説である。
貨幣商品説は、貨幣それ自体が、商品としての価値をもつのが起源である。等価交換するうち、自然発生的に、どれか1つの商品(金銀)が、たまたま貨幣になったとする。
貨幣法制説とは、貨幣それ自体が、商品としての価値をもつ必要がない。共同体の申し合わせや、皇帝や君主の勅令、市民の社会契約、国家の立法に起源をもつ。
学説史をへて、貨幣商品説がつよい。
マルクスも、貨幣商品説である。自然発生的に、貨幣が生まれたと言った。上記のとおりだ。金銀は、共通な欲望の対象なので、貨幣になったとマルクスはいう。
しかし岩井氏にかかれば、貨幣商品説も、ひとつの神話しかない。

「家畜」と「貨幣」、貨幣商品説の批判_092

ラテン語の「貨幣的な」は、「家畜」という言葉の派生である。ある特定の事物を指示するだけの言葉が、その指示する事物の範囲を全体化し、最後に一般的な概念を意味するという、もっともらしい物語が、辞書に書いてある。
だが実際は逆である。「ヒツジ」という語が、「家畜」をへて「貨幣」という意味を獲得するのでない。「貨幣」が「家畜」をへて、「ヒツジ」を意味するようになった。一般が全体性を失い、特殊になる。辞書にある物語と、転倒している。

この辞書の過誤から、何がわかるか。
マルクスもくみする貨幣商品説とは、特殊から一般という「人気商品が貨幣になった」という説である。これは辞書とおなじ誤りである。
貨幣商品説を転倒させよ。一般から特殊の「貨幣が人気商品になった」という説で理解するのが正解である。金貨は、すでに貨幣であったから、人気商品となった。すでに媒介の手段であったから、みんなの欲望の対象となった。

起源を語るつもりが、起源について、分からずじまい。だが岩井説は、「貨幣は貨幣だから貨幣である」というもの。ほかに根拠があるのでない。前後関係による歴史的な説明にはなっていないが、因果関係による理論的な説明になっている。


アリストテレス、貨幣法制説の批判_097

貨幣法制説は、プラトン、アリストテレスにさかのぼる。
人間は、自然の本性によって、他人と共同関係を結ばざるをえない「ポリス的動物」である。人間は、自己完結を理想として、共同体をつくる。自己完結するため、自分が持たぬものを、交換で獲得しなければならない。「交換的な共同関係」をつくる。医師と農夫は、得意なことを交換する。
医療サービスと農作物という異質なものの交換を媒介し、通訳的で計量可能なものにするのが、貨幣である。 共同体の申し合わせによって、貨幣が生まれる。共同体のみんなが認めているなら、貨幣そのものは、役に立たないものでよい。
交換過程の外部に、人為的な権威がいて、その権威が貨幣を定める。ひとたび何かが貨幣に指名されると、貨幣として受け渡されていく。権威者は、貨幣の内容を自由に変更できる。
20世紀、不換紙幣がでると、貨幣法制説が復活した。

貨幣法制説は、どこが貨幣商品説よりも優れるか。
貨幣商品説は、一般的な価値形態と、全体的な価値形態とが相まって、貨幣を生んだとする。だが、一般的な価値形態(アメ2つおよびマメ4つは、チョコ1つと価値が等しい)に、人為的な決定が織りこまれていれば、ちっとも自然発生的でない。全体的な価値形態(チョコ1つは、アメ2つまたはマメ4つと価値が等しい)は、人為的に決定された、一般的な価値形態に引きずられただけである。
貨幣法制説は、どこが貨幣商品説よりも劣るか。
もし君主が「これが貨幣だ」と決定しても、流通しない可能性がある。君主の決定のうち、どれが定着するかは、自然発生的である。貨幣法制説は、取引する人の気分に引きずられる。

この章の結論

けっきょく、貨幣商品説には、人為的決定がひそむ。貨幣法制説には、自然的発生がひそむ。どちらも、理論が首尾一貫しないという点で、相補的であり、同罪である。
岩井説がよい。貨幣は、実体的な根拠がない。商品としての価値(実体的な根拠)ゆえに貨幣なのでなく、権威者の決定(実体的な根拠)ゆえに貨幣なのでない。貨幣は貨幣だから貨幣である。
人間は空虚をきらう。だから貨幣商品説を言ってみたり、貨幣法制説を言ってみたりした。だが実際は、循環論法で宙づりで空虚なのだ。いつからか貨幣が生まれて、循環論法が起動して、げんに貨幣が流通している。

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03章 貨幣系譜論 open

マルクスの価値記号論

マルクスは、鋳造貨幣や紙幣を「記号」「象徴」とよぶ。価値の実体は労働である。鋳造貨幣や紙幣、電子マネーなんて、ただの記号や象徴なんだよ!労働の代わりなんだよ!という態度である。

マルクスはいう。金貨は、金の重さが価値を「表象」する。金貨と金塊のちがいは、もとは外見だけだ。だが金貨は、流通するうちに摩減して、軽くなる。しかし金貨は、額面のままの価値をもつ。名目純分と実質純分が分離する。
摩減した金貨でいいなら、銅貨や紙幣でもよい。価値を「表象」することは可能だ。象徴に昇華する。価値の記号となる。

価値記号論から、価値形態論へ

金貨を使わなくなっても、金兌換の保証があった。1971年まで、金兌換はつづいた。貨幣の額面は、国家が金塊を準備して、保証した。紙幣の発行枚数は、制限された。
だがマルクスの目の前で、準備した金塊の価値の、2倍の額面をもつ貨幣が発行された。マルクスのいう、価値記号論は、破綻した。紙幣は、当初の想定の2分の1の金にしか、裏づけられていない。
「金貨(鉱山の労働)と交換できるから、紙幣は価値をもつ」でなく、「紙幣が流通するから、紙幣は価値をもつ」と、マルクスは言わざるを得なくなった。労働価値説は、成り立たなくなった。

なぜ摩減した金貨は、額面どおり受けとってもらえるか。いつかどこかで、だれか別の人に、その額面をもつ商品と交換してもらえると思うからである。摩減した金貨と、国庫の金塊との兌換は、先送りされる。別の人が、額面どおりの価値で受けとってくれるならば、どれだけ金貨が摩減しても関係ない。
貨幣とは「偉大なる名称の影」でしかなかったはずが、貨幣は「偉大なる名称」に成り代わった。貨幣は、自分の影(兌換の金塊)によって買うのでなく、貨幣じしんによって買い物をする。
紙幣も同じである。
兌換紙幣は金貨の「代わり」でしかないという意識は、たんなる虚偽でもよい。兌換紙幣が商品世界に残り続けている限り、金貨への交換を請求できる。商品世界における滞留時間が長くなるほど、中央銀行が用意すべき金貨が少なくなる。「本物」「代わり」という記号的な関係を、いつのまにやら失ってしまう。結果、紙幣が「本物の」貨幣になってしまう。

貨幣の系譜と記号論的批判_139

あるときの「本物」は、そのときの「代わり」に対する本物にすぎない。あるときの「代わり」は、そのときの「本物」に対する代わりに過ぎない。
歴史的に見れば、金銀だけでなく、黒曜石、石の円盤、指輪、鉄砲、砂糖、絹布、、などが「代わり」となってきた。
貨幣が誕生する循環論法がはじまるには、べつに「代わり」が何でもいいと分かる。場合によりけりだ。また、「代わり」が歴史的に多種であるということは、ある貨幣が、貨幣でなくなる場面もあったはずである。ある貨幣は、べつの商品が貨幣となるキッカケをつくってきた。衰退する貨幣は、どんなモノでも貨幣になれることを、我が身を犠牲にして証明してきた。皮肉である。

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04章 恐慌論 open

売ることの困難、買うことの困難_153

すでに貨幣があるなら、すでに貨幣の誕生という「奇跡」が起きている。商品世界のなかで、「貨幣があるか、貨幣がないか、それが問題だ」 だったが、すでに貨幣がある。二重の欲望の一致がなくても、交換ができる。じかに商品と商品を交換しなくてよい。
貨幣を媒介にすると、売りと買いが分離する。貨幣は自己完結せず、無限の循環運動をしたがる。商品を貨幣に交換したい売り手と、貨幣を商品に交換したい買い手が登場する。

売ることの困難は、商品を貨幣に交換する困難である。過剰生産で恐慌になると、労働力商品もふくめて、商品を貨幣に交換できなくなる。マルクスはこれを「危機」といった。
買うことの困難は、貨幣を商品に交換する困難である。買う困難は、売る困難の裏返しでない。ハイパーインフレになると、貨幣が貨幣でなくなる。これが買う困難である。商品世界が、たんなるモノの寄せ集めに戻ってしまう。恐慌よりも、はるかにヤバい。

商品の命がけの跳躍はウソ_158

ひとつの市場を考える。
商品の値札の価格は、需要にかんする売り手の期待にもとづく、主観的な評価でしかない。「これくらいで売れたらいいな」である。マルクス流に言えば売値とは、商品の生産のために必要な、社会的な必要労働時間を、正確に反映しているという客観的な保証はない!のだ。
買ってもらって始めて、「妥当な売値でした」とわかる。だが売り手は、買い手の心中も財布も、見られない。見られないが、買い手は値札をつける。商品を売るとは、命がけの跳躍である。

マルクスは、売るほうに着目した。だから「命がけの跳躍」という、引用頻度がとてもたかい言葉を、売り手のために使った。マルクスが危機とするのは、売り手が跳躍に失敗した恐慌である。岩井氏とは、ぎゃくである。

高すぎれば売れ残る。だが、値引きすれば売れる。均衡価格にむかう。新古典派経済学が、得意とする分野である。

市場は孤立しない。ほかの全ての市場とともに、価格を通じておたがいに依存しあう、膨大にひろがった網の目を形成する。ひとつの市場で値引すれば、ほかの市場でも値引きを誘発する。市場の内部で価格が均衡しつつ、ほかの市場には干渉する。全体は部分の総和でなく、部分が全体に影響をあたえる。

物々交換経済でのセーの法則

古典派経済学者は、ヒューム、スミス、リカードらである。彼らは、貨幣を「潤滑油」「媒介物」という。彼らは、生産・消費という、経済の実態のみを分析しようとする。貨幣を排除して、モノとモノのあいだの、直接的な交換に還元したがる
ところで、セーの法則がある。
物々交換経済では、売りと買いはセットである。二重の欲望が一致したときのみ、交換が実現する。ゆえに、モノの売りの総和は、モノの買いの総和に必然的に一致する。供給は需要をつくる。供給なくして需要がない(交換が成立しないから)。

セーは、物々交換経済の話をした。現実は、貨幣経済である。しかし、古典派経済学者がやったように、貨幣を無視して、モノの直接的な交換に着目すれば。貨幣経済においても、セーの法則が言える。


セーの法則によれば、経済全体をまきこむ「全般的な不均衡」は起きない。供給過剰による恐慌は起きない。すべての供給が、すべての需要を上回ることは、算術的にあり得ない。どこかが供給過剰なら、どこかが供給不足である。
たとえば、チョコが値上がりすれば、相対的にアメが安く感じられ、アメが欲しくなる。市場は関わりあうからだ。それどころか、A社のチョコが値上がりすれば、B社のチョコが安く感じられる。市場は、部分的にも(チョコの内側だけでも)、均衡する。安定する。
しかし貨幣の「ある」世界では、セーの法則が成立しない。

A社のチョコが値上がりすれば、アメで代替することなく、B社のチョコで代替することなく、「買わずにおく」という選択肢があるからだ。


流動性選好と貨幣の「商品」化_166

貨幣は、価値の保蔵手段としての役割も果たす。
ケインズ『一般理論』はいう。時間を選ばずに、どのような商品にも変換できる容易さの程度を「流動性」という。貨幣は、一般的な交換の媒介であるだけでなく、最大の流動性をもつ価値の保蔵手段である。
経済は不安定である。だから、流動性が欲望される。ケインズのいう「流動性選好」である。いま必要なものが手に入らないから、あとで必要なものを手に入れられるように待っとく。

貨幣とは媒介であって、商品でない。貨幣は、ほんとうに役に立つ商品を、間接的に入手するものである。貨幣の流動性が欲望される。貨幣は商品でないが、その流動性が商品となり、直接的な欲望の対象となる。ものとしての商品が、商品であることによって貨幣になる(貨幣商品説)でない。商品でない貨幣が、モノですらないことによって「商品」となる。媒介するもの、媒介されるもの、という境界線が、かんたんに踏み越えられた。

ケインズは、積ん読のひとつ。早く着手したい。


セーの法則の破綻、恐慌の可能性_170

貨幣は、商品の売りと買いを分離する。ひとは、売ってから買うようになる。誰かが買わなければ、だれも売れない。だが、自分が売ったからといって、すぐに買わなくてよい。貨幣が保蔵手段となる。結果、総供給と同じだけの総需要が表れないこともある。
貨幣は、生産物交換の、時間的・場所的・個人的な制約をやぶる。「巨大な商品の集まり」としての、資本主義が、普遍化するための基礎条件をつくった。
時間というクサビが打ちこまれ、恐慌の可能性が見出される。全般的な需要不足のとき、「神の見えざる手」が働いてくれない。なぜか。つぎの、ヴィクセル「不均衡累積過程」の理論によって説明される。

不均衡累積過程と乗数過程_174

貨幣には市場がない。
短期の債券市場を「貨幣の市場」ということがあるが、これは為替市場のことだ。貨幣そのものを売り買いしていない。

債券市場で売り買いされているのは、貨幣を請求する権利である。貨幣そのものでない。

商品と貨幣の交換には意味があるが、貨幣と貨幣の交換には意味がない。10円玉と10円玉を交換しても、仕方ない。ゆえに、貨幣には市場ができない。

日本円と日本円の両替は、ちがうのか。いっぽう、両替商とかは、貨幣と貨幣を交換してるのでなく、「べつの通貨圏で取引できる利便性」を売っているのかな。これも、貨幣だけと貨幣だけの交換でない。

市場のなかで、流動性(貨幣)に対する欲望が変動することがある。「商品より貨幣がほしい」のが恐慌で、「貨幣より商品がほしい」のがインフレ的熱狂である。

貨幣だけで完結せず、商品との相対的な欲望の大小によって、貨幣の価値も「変動」したように見えるわけね。

流動性がほしくなり、貨幣を増やしたいとき、どうするか。商品の買いを減らすか、商品の売りを増やさねばならない。いずれも、総需要が総供給よりも少なくなる。恐慌になる。売り手は値引きして、貨幣を吐き出させようとするだろう。だが、セーの法則が崩壊した貨幣経済では、貨幣の吐き出しには限界がある。
在庫をかかえた売り手は、連続的かつ無際限に、物価を下落させる。デフレである。デフレの最中、どんな売り手も、必然的に値付を誤りまくる。
なぜか。買い手が貨幣を出したくないので、「昨日の失敗を活かして、昨日より安くしよう」としても、すでに手遅れである。もっと安くなければ売れない。売り手は、くりかえし「命がけの跳躍」を強いられる
こうして、不均衡(総供給より総需要が少ない状態)が累積する。

セーの法則なき、貨幣のある資本主義では、究極には、物価や貨幣賃金がゼロになる。不均衡累積過程がいきすぎれば、物価が下落しまくるからだ。破壊的な結末である。
ケインズは、ここまでの破壊を悲観しない。貨幣価値は固定しないが、労働力が粘着して、安定をもたらす。労働者は、貨幣賃金の切り下げに抵抗する。だが、賃金財の価格が上昇するたびごとに、労働を辞めてしまうことはない。

つまり、「もう給与を充分にもらったから、退職します。労働力という商品(賃金財)を売るのを辞めます」とは言わない。 「残業代をたっぷり稼ぐで」となるのが、労働者である。労働者は、かんたんに退職せずに、労働力を売り続ける(カネを欲しがる)おかげで、物価ゼロ、貨幣賃金ゼロ、という究極にはいかないと。


みなが流動性(貨幣)を持っていたいのは、いずれ欲しいモノを買うためである。資本主義の永続を信じているから、貨幣を退蔵するのである。恐慌とデフレによって、資本主義は破壊されない。

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05章 危機論 open

無限の未来からの贈与としての貨幣_191

無限の循環論法があるから、1万円札は価値がある。
1万円札を引き受けるのは、べつの誰かが、おなじく1万円の価値として引き受けてくれると、期待するからだ。自分の欲望でなく、他人の欲望を介在にして、1万円札を引き受けているのだ
しかし、ここで話が終わったら、商品と貨幣の差異がでない。なぜなら、商品の売り手だって、売り物をすべて自分で使いたいと思っているのでないからだ。売り手は、その商品を誰かが使いたがると期待するから、製造・仕入をしたのだ。

自分の欲望でなく、他人の欲望によって、貨幣を引き受ける。人間は、他人の欲望を欲望する。分かってきたなあ。つながってきたなあ。

立問をかえる。
なぜ将来、ほかの人間が1万円の紙切れを、1万円の商品と交換してくれると期待するのか。私の1万円札を受けとった人は、その1万円札を食べるのでない。受けとった人も、ほかの誰かにパスするだけである。
ここが、貨幣と商品の違いである。商品は「誰かにとって有用だ」という終着がある。だが貨幣は「誰にとっても有用でない」ものである。その貨幣が、どうして「いずれ、有用な商品に交換される」なんて思えるのか。

面白くなってきた。引用が恣意的になってきた!

商品の価値をささえるのは、他人の欲望である。だがその他人にとって欲望は、その他人さん自身の欲望である。他人さんは、他人さん自身のために、その商品を欲しがるだろう。おかしくない。だが貨幣は、その他人さんから見ても、さらに他人さんの欲望を想定して、引き受けられるものだ。
岩井氏はいう。
1万円の貨幣と、1万円の商品の交換という、価値の次元における公明正大な等価交換のもとには、無価値のモノ(紙幣)と価値あるモノ(チョコ)との交換という、一方的な不等価の交換が、モノ(紙切とチョコ)の次元で存在している。
紙幣と商品の交換は、無限に先送りされる。「最後の審判」のラッパが迫れば、だれも1万円札を引き受けない。ラッパの前日でも、だれも引き受けてくれないだろう。ここから、後ろ倒しの論理(後方帰納法)をつかえば、今日においても誰も1万円札を引き受けないはずである。
無限の未来の人間人間とは、けっして到達し得ない彼方にいる。だが、その未来の人間を、想定することは可能である。未来の人間は、一方的な不等価交換を、究極的に引き受けてくれる。無を受けとり、有を与えてくれる。「贈与」である。1万円札の価値とは、無限のかなたの未来に住む人間から、今ここに住む人間に贈られてきた、気前のよい贈物である。

貨幣の「命がけの跳躍」_197

マルクス『資本論』は、売り手が命がけの跳躍をするという。しかし、貨幣を貨幣と信じて、疑念を持たずにもつ買い手のほうが、はるかに命がけの跳躍を強いられている。
どんな跳躍か。アカの他人である売り手に、「そんな貨幣、受け取れませんよ」と拒絶されるリスクをおかしている。買い手は、跳躍したことに、気づいていなかろうが。「最後の審判」から、後方帰納法をつかえば、売り手が貨幣を受け取ってくれないほうが、論理的に自然である。
買い手の跳躍を可能にしているのは、貨幣が貨幣として使われているという現実のみである。貨幣は、貨幣として使われてきたから、貨幣である。未来においても、貨幣として使われるという期待があるから、貨幣である。貨幣として引き受けてもらえる。
兌換金貨、商品としての貨幣、労働力、中央集権の強制、などではこの跳躍を根拠づけられない。

貨幣は、はじめから貨幣でない。_201

貨幣は、毎回の取引のたびに跳躍して、貨幣になる。過去の実績にものを言わせ、未来への期待を背負って、貨幣は、1秒ごとに貨幣になり続ける。

日常的な意味での、時間の先後関係が、まさに宙づりになる。因果の連鎖が、無限の円環をなす。円環がおおきく一巡すると、げんざいがげんざいとして成立し、時間が1歩先へのうごく。過去と未来の分水嶺としての現在が、それまでの現在を過去へと送りこみながら、未来にむかって突きすすむ。貨幣が貨幣となることが、時間を時間として生み出す。貨幣とは、時間である。

読んでいるときのメモがある。2ヶ月くらい前かな。今となっては、自分でも半分くらいしか分からない。漢、永続、過去。光武は秦漢の血でなく構造を継承した。光武、党錮、魯粛、田畴、孫権、劉備。ひどいメモだなー。

貨幣は円環によって、商品世界を商品世界として維持する。毎回、跳躍が必要である。あやうい円環である。

ハイパーインフレーション_202

ひとびとが過剰な流動性をきらい、貨幣の保有量を減らそうとしたらどうなるか。 商品の市場において、商品を買い増しする。もしくは、どれかの商品の売りを減らす。総需要が、総供給よりも大きくなる
保蔵から解放された貨幣が、商品を追いかけまわす。カネ余りとなる。おおくの買い手は、意図とは無関係に、まさに構造的に買うことの困難をおぼえる。売り手は、こぞって価格をあげる。物価や貨幣賃金が「連続的かつ無際限」に上昇する。ヴィクセルの「不均衡累積過程」が、さっきの恐慌とは逆方向にはじまる。
さっきのレーニンの件。労働者は、貨幣賃金の切り下げには抵抗するが、貨幣賃金の引き上げには抵抗しない。

デフレ恐慌のとき、労働者は「商品に対して、相対的に賃金があがったから、働くのを辞めよう」と言わない。インフレのとき、労働者は「賃金の額面があがったから、働くのを辞めよう」とは言わない。労働者は、いつも安定装置である。


以後、2つのシナリオがある。
1つ、インフレが一時的だと思うなら、いまは節約して、物価が下がるのをまつ。みなが節約するので、インフレは鎮静する。しばらくの「好況」を楽しむだろう。
2つ、インフレが持続的に加速すると思うなら、転機が訪れる。支出を遅らせれば遅らせるほど、商品の入手が難しくなる。みなは手許の貨幣を、なるべく早く使い切ってしまおうとする。流動性の選好が縮小すると、総需要を刺激して、さらにインフレが進行する。「貨幣からの遁走」が起きる!
買うことの困難は、売ることの困難の裏返しでない。買うことの困難は、「貨幣を引き受けてもらえないこと」のリスクである。ハイパーインフレとなる。「無限の未来まで、貨幣として使えるだろう」という期待がなくなる。貨幣を貨幣として支える円環が、崩れさる。もともと、本質なんてなかった「無」の貨幣が、もとどおり「無」に帰してしまう。資本主義の危機である。

貨幣共同体_210

貨幣とは、言語や法とおなじく、純粋に「共同体」的な存在である。同一の貨幣をつかう集団を「貨幣共同体」とよぼう。彼らが同一の貨幣をつかうのは、同一の共同体の構成員だからでない。同一の貨幣をつかうことで(原因)、貨幣共同体の一員となる(結果)。貨幣共同体とは、利害の一致にもとづいて形成される。
ただし貨幣共同体は、利益社会の理念をもつ、目的結社でない。営利企業や政治団体とちがう。貨幣共同体は、契約がなく、行動を制限する定款もない。ただ貨幣をつかうだけで、共同体の一員となる。
未来人からの贈与をともに受け、宙づりの循環論法を共有する。

貨幣が使われるのは、労働が投入されたからでなく、主体的な欲望を反映したからでない。共同体の内部で、文化人類学が言うような、呪術・宗教・装飾・威信・政治・刑罰などの価値を象徴するのでもない。ただ貨幣は貨幣で、貨幣のほかではない。

官爵はどうだろうなー。経済資本と交換できる社会資本は、どうだろうなー。経済資本と社会資本は、相互に交換可能だが、経済資本も社会資本も、その交換できるという点のみに根拠がある。という話はつくれるのか?
ともあれ「差異の体系」と理解すれば、魅惑的なひびき!

貨幣共同体には、商品を売って貨幣をもらうと、参加できる。商品を買って貨幣をはらうと、共同体から退出する。共同体に参加したければ、まずは手持ちの商品を、すでに共同体に参加している人に与えて、貨幣を手に入れる。

売ることと買うことを、ふたたび対比する。
マルクスの言うとおり、売ることは、買うことより困難である。売り手がもつ商品がほしいという、特定の欲望をもつ人間を見つけねばならない。
いっぽう買う(貨幣を交換する)のは、簡単なはずである。貨幣は、誰でも受けとってくれるはずだからである。特定の欲望をもつ人間でなくても、受けとってくれる。貨幣共同体に参加したい人なら、誰でも受けとってくれる。貨幣の流動性とは、これのことだ。貨幣を唯一の富として蓄積する重金主義は、この流動性が便利だからである。
つぎに、
貨幣共同体を、超越論的な立場から見おろす。
売ることと買うことについて、ちがう分析になる。
つねに売り手は、貨幣共同体にとっての「異邦人」になる自由がある。商品を売らず、貨幣に換えず、商品を持ち続けていればよい。貨幣共同体に巻きこまれない。
だが買い手は、貨幣共同体から抜けられない。貨幣を持っているうちは、貨幣共同体と運命をともにする。貨幣を誰かに受けとってもらわねば(押しつけねば)ならない。これは危機である。なぜか。目の前で、じぶんが欲しいモノを持っている「異邦人」が、じぶんの貨幣を受けとってくれないリスクがあるからだ。
貨幣は、金銀だろうが電子であろうが、何でもよい。重要なのは「異邦人」が、その貨幣を受けとってくれるかだ。受けとってくれるなら、貨幣は貨幣として機能する。貨幣を受けとってもらうたびに、「ああ、この異邦人は、うちの共同体に入ってきてくれた」「ああ、この人は、もとから共同体の一員だった」と確認して、胸をなでおろす。命がけの跳躍に成功する。
ひとびとが「異邦人」との出会いから、逃れられない場面がある。ハイパーインフレである。同じ貨幣共同体の内部でも、貨幣を受けとってもらえない。

貨幣論から資本論へ_223

恐慌のとき、商品よりも、貨幣(流動性)が欲望される。これは、共同体の永続性が欲望されているのとおなじ。共同体の構成員が、貨幣を貨幣として欲しているかぎり、その貨幣を貨幣として受け容れる共同体は、未来に対する信頼を失っていない。

官位、爵位も。いらんときは、いらんなー。


なぜマルクスは、恐慌論しか展開しなかったか。ハイパーインフレを論じなかったか。マルクスは、「貨幣は商品」と考えるからである。貨幣の背後には、労働時間がある。労働時間の価値は、なくならない。ゆえに貨幣の価値も、なくならないと、考えなければならない。せいぜい、交換の仕方に失敗するだけである。
マルクスいわく、商品交換の場としての市場では、価値が生まれない。価値は、資本家が労働者から搾取したところから生まれる。剰余価値である。

しかし、岩井氏はいう。労働市場で、人間の労働力を商品として売り買いし、資本家が搾取する以前から、剰余価値の創出という原罪がおかされていた。貨幣の「ない」世界から、貨幣の「ある」世界に歴史が跳躍した。このとき、労働力を介在させることなく、無から有を生んでいた。なんの根拠もなかった貨幣が、価値をもってしまった。
マルクスとは異なり、「流通または商品交換の場」で価値をつくってしまった。「貨幣論」の終わりとは、あらたな「資本論」の始まりである。

マルクスは労働力の売買から、いかに資本が形成されるかを説いた。だが岩井氏は、労働力が売買される前から、貨幣の誕生により、資本が形成されることを説いた。ほんらいの資本論は、マルクスよりさかのぼり、貨幣が誕生する瞬間から、論じなければならない。マルクスは「本源的蓄積」を中世?におき、そこから説き起こしていたが、起点が遅すぎるのだと。
もともと価値のないものを、流通させる。流通したことにより、価値をもつようになる。いちど流通して、いちど価値を持ったからには、つぎつぎと価値が生まれる。光武と王郎を思い出すなあ。


いい午後年休でした。120606

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