■三国志キャラ伝>魏の犬コロ諸葛誕伝(1)
『世説新語』に言う。 諸葛一族は優秀で、三国に仕えたんだが、「蜀はその龍を得て、呉はその虎を得て、魏はその狗を得たり」。 言うまでもなく、蜀は諸葛亮を得て、呉は諸葛瑾を得て、魏は諸葛誕を得たのみだということです。どうやら諸葛誕が他の2名と比べて劣っていたと批判されている様子です。可哀想に。狗は忠実なんだよ!   ■三匹の馬と諸葛氏 シリーズ淮南の三叛の最終回。三叛は、司馬懿、司馬師、司馬昭が順番に鎮圧したということは、王淩伝か何かで書きました。しかしこの因縁は、三国に分かれた諸葛氏にも当てはまるのです。 諸葛亮は司馬懿に阻まれて陣没、諸葛恪は司馬師に阻まれ失脚、諸葛誕は司馬昭に討伐されて死亡。諸葛恪は諸葛瑾の息子なんだが、ぼくの中ではよほど虎っぽくて派手で。 見事に各国でトップの輔臣を張った諸葛氏は、曹操の夢で飼い葉おけに首を突っ込んだ三人に殺されたも同然。何たる偶然!何たる対照性!   なんて例え話に感情的に反論しても仕方ないので、陳寿『三国志』の「諸葛誕伝」を読んでみようと思います。
  ■血縁関係はあやふや 諸葛誕、字は公休。諸葛豊の後裔。諸葛亮と同じだね。 父の名前が分からず、諸葛亮たちとの関係も「族弟」という、分かるような分からんような束縛感です。姓こそ同じなれど、親戚付き合いはないのでしょう。 年齢は分からないのだが、仲良しとされる夏侯玄が209年生まれなので、同年代だと考えていいはず。諸葛瑾が174年生まれ、諸葛亮が181年生まれ、諸葛恪が203年生まれ、という流れから行くと、かなり生まれたのが遅かったみたいです。諸葛恪よりも5~10歳くらい若いんだね。   ■浮薄の徒 基本的な性質が優れた人物ということで「若い頃のエピソード」というのが、三国志には大切で。 諸葛誕の場合は2つかな。 (1)『魏氏春秋』曰く、諸葛誕が尚書郎のとき、尚書僕射の杜畿と舟遊びをしていた。風にあって舟が転覆して、諸葛誕も杜畿も溺れてしまった。諸葛誕は「先に杜畿殿を救え」と近衛兵に命じた。諸葛誕は岸辺まで流れ着いたが、気を失っていた。 (2)「諸葛誕」伝の本文曰く、諸葛誕は人から官職の昇進転任を提案されたときは、なぜ推薦したか理由を述べさせた。もし任用した人物がドジをしたときは、推薦の理由に照らし合わせて議論し、評価を下した。   1つの目のエピソードを見ると、滅私奉公的な熱さが伝わってくるかも?いいえ、そんなわけない。このとき諸葛誕が救出を優先させた杜畿は、荀彧が曹操に推挙した人物で、高幹対策から始まって魏建国の各局面で活躍をした功臣なのです。舟遊びの時点では、直属の上司なのです。 さすがに曹操に貢献した大先輩を差し置いて、自分が助かるわけには行かないでしょう。むしろ溺れながら近衛兵を叱り付けたという余裕ぶりが、厭らしく映るんだけど! 諸葛一族のやりそうなことで、このときの舟は諸葛誕が独自に意匠を凝らした(改造した)おかしな構造だったんじゃないか。上官を目新しい技術でビビらせてやろうとして失敗した、という笑   2つ目のエピソードは、一見すると「公明正大な人材選抜を奨励した」みたいな美辞に聞こえるよね。でも、本当にそれでいいのか。人間って多面的なもので、細かく変化する複雑な生き物で。信頼できると思っていた人が、突然意味不明な行動を取ることは、ままあることで。「孝廉」が持っている偽善的な怪しさも、この部分が原因として混ざっていたりして。 でも諸葛誕のように「あの人のこの性質がこの職務に適している」と限定的に述べてしまえば、つかみ所のない人間の性質を全て切り落としてしまえるわけです。指名するときに根拠とした性質が失われれば、そいつはお役御免。明確なオンとオフで人を測れるわけだ。 ある意味でセコいんだ笑   ■二世のたわごと 『世説新語』曰く、夏侯玄・諸葛誕・鄧颺らは、互いに称号をつけて讃えあった。劉煕(劉放の子)や孫密(孫資の子)も混ざって、群れる群れる。 「オレたち最強だぜ」みたいなノリで、「四聡」「八達」「三豫」などと任命しあって、世間知らずで軽薄な二世っぷりをバラまいていた。 曹叡は諸葛誕らを「風紀を乱すからクビ」と言い渡した。   曹叡が死んだのは239年だから、彼らが虚名に浸かって楽しんでいたのは、20代の中盤から後半だろうね。もうすっかり大人なのに。楽しそうで羨ましいなあ。
  ■官界への復帰 239年の正月に曹叡が死んだ。「司馬懿、曹爽、頼むから。ガクッ」という調子で逝き、諸葛誕は親友の夏侯玄に引っ張り上げられる形で、魏朝に戻ってきた。このとき、30歳になるかならないか。 復帰前と同じで、御史中丞、尚書に任じられた。 淮南の三叛に踏み切った3人全員が同じなんだが、曹叡の早すぎる死で運命が変わっているんだよね。司馬炎への禅譲のロードマップは、(結果論だけど)曹叡の死から現実味を帯びてくる感じです。   7年くらい(かな?)諸葛誕は洛陽で中央の政務に携わり、司馬懿と曹爽の二頭体制をハラハラ見ていた。おそらく曹爽と、個人的に遊んだりもしたんだろうね。 247年、司馬懿が「病気だから、引退させて」ということで、晴れて曹爽1人の天下に。曹爽はこの世の春を謳歌しながら、仲良しの諸葛誕の位を引き上げた。宿老が引退してくれたので、残された若者達を全体的に昇進させるイメージでいいかな。ご栄転で揚州刺史、昭武将軍です。   249年1月、不死鳥の司馬懿が、ふしだらな曹爽を討つ。 諸葛誕は揚州にあって、変事の結果だけを聞いたんだろうね。「触らぬ神に祟りなし」ということで、揚州の経営に打ち込むフリをしていたんだろう。   251年、王淩が叛乱。 司馬懿がスカして、手を汚さずに鎮圧。司馬懿は揚州刺史をやってた諸葛誕に「この辺は重点的に治めて」ということで、彼を鎮東将軍、仮節都督揚州諸軍事、山陽侯に進めた。 諸葛誕は40歳を越えた辺りだと思うだけど、魏朝を支える最重要な地方司令官の1人になったわけだ。
  次回、諸葛恪に攻められます。 諸葛対諸葛。せっかくなら諸葛瞻も殴りこんできてほしかったんだが、さすがにそれは無いね。 っていうか、そんな戦をしようものなら、辛うじて諸葛孔明から三国志に興味を持った人たちが、離れてしまうね。曹・孫・劉という三姓をギリギリ理解したところに、諸葛誕vs諸葛恪vs諸葛瞻なんてやられたら「殺し合いばかりで、浅ましい」なんて評価で片付けられてしまう。
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