■三国志キャラ伝>周魴を信じた本当のわけ、曹休伝(1)
曹操は「曹休は、わしの家の千里ノ駒だ」と褒めた。 「千里ノ駒」とは、よく走る馬ということで、すなわち優れた戦闘兵器のことだろう。当時の馬は、戦の成否を分けるからね。曹休は、曹操の機能のうち、軍事の部分を切り分けて継いだんだ。 ちなみに、政治の部分は曹丕が継ぎ、蛮勇は曹彰が継ぎ、文学の才は曹植に与えられた。曹操、何人分なんだろう。でっかいなあ。曹操の逆境を跳ね返す強さだけは、彼一代限りのものだったんだけど。   ■解き明かしたいこと 曹休は228年、石亭ノ戦で、周魴の偽りの投降に引っかかって大敗北。まるで、黄蓋の投降に引っかかった曹操そのものだ。第2の赤壁だ。 そんな欠点まで、まるまる継いでしまったんだが、しぶとさを継ぎ損ねたために、背中で悪性の腫瘍や膿んで、死んでしまった。   曹休は、周魴を信じて深入りをし、退路を絶たれて孤立する。曹休の戦績はこれまで、十戦十勝だった。『演義』で下手こくような、ステレオタイプの凡将とは言えない。では曹休を、こんなにも焦らせたものは何だろう。ぼくは、祖父の故地を取り戻したいという執念だったと思う。
  ■消された父 曹休、あざなは文烈。 彼は、父から「休」という優しそうな名を授けられ、遺憾に思っていたんじゃないか。「乱世だからこそ、穏やかに生きてほしい」という父の願いは、曹休の自分像とは相容れなかった。 曹休は、志に合わない名前を中和するために、あえて「烈」なんて名乗った。名とあざなは類義語で呼応させるものなのに、敢えて逆を行った。   曹休の祖父の名は残っているが、父の名は残っていない。 A)父は「休」らう地味な人生を歩んで、早く静かに死んだ。 B)曹休が、自分の父について話したがらなかった。   Bの影響が大きいと思うのです。 曹休の血筋を話すとき、「曹操の族子」と一般に言われる。「族子」というのは、直接の血の繋がりはないが、同族の1世代下に当たる、という意味です。このように、曹操を「父」として設定することで、志の低い父の存在を、故意に抹消したんじゃないか。   曹洪と曹休の父は、血縁の近い従兄弟だったそうだ。華々しい曹氏の主要な系図が、ぽっかり空いているのは不自然だ。 曹休は父の存在を消して、己の血統を曖昧にし、本当は血の繋がってない曹操と自分との距離を縮めたんじゃないか。   ■祖父との「出会い」 曹休の祖父は、曹鼎という。 この名前を知ったとき、ぼくは驚きました。全土統一を狙う曹操を阻んだのが、劉備と孫権。忌々しくも、天下は三分、すなわち鼎(かなえ)の脚のような状態になってしまった。この鼎という文字が、分かりやすい象形文字で、また直感的に脳へイメージが飛び込んでくる笑   曹休は、十数歳のとき父を失い、老母を連れて長江を渡った。中原の戦火を避けて南方に逃げたというのは、揚州の人口増加、孫呉成立の土台になったんだが、幼い曹休も同じことをしたわけだ。 「曹休伝」所注『魏書』曰く、 曹休の祖父は、呉軍太守だった。曹休は呉郡の官舎で、壁にかかった祖父の肖像画を見た。曹休は長椅子から降りて拝礼し、涙を流した。同席していた者たちは、みな感心し、ため息をついた。   決して悪い人ではないのだが、乱世向きではない父が死に、心の拠り所がなかった。母性も大切だけど、このときの曹休は偉大な父性に飢えていて。 死してなお、人々に奉られている祖父が自分にはいることを知って、感極まってしまったのでしょう。やっと自分の血に誇りがもてたんだろうね。   このあと曹休は、偽名を使って荊州を通り抜け、譙県で挙兵してる曹操に合流した。大人しく揚州に混じってるのが自然で、まだ二十歳前の少年が歩むには、あまりに厳しい道程だったはず。 父からは曹氏の誇りを受け取ることが出来なかったが、祖父を知り、曹氏の一員としての矜持を得た。それが、同族である曹操を目指す、原動力になったんだろう。   心中ひそかに「祖父が治めた呉郡を、自分で治めるのだ」という決意をして、曹休は旅立ったに違いない。もし賊が呉郡を占領するのなら、徹底排除してやるぞ、と胸に刻んだはずだ。
  次回後半。曹操に合流した後の曹休を追いかけます。
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