三国志は、1800年に渡って語り尽くされてきた叙事詩。
しかし、とある映像作品のキャッチコピーみたく「死ぬまで飽きない」もの。
まだまだ枯れる気配すら見せない、三国志の魅力について語ります。
死ぬまで魏の純臣なり、司馬孚&司馬望伝(1)
文昌庵http://www.geocities.jp/ymsksi/index.htmlの翻訳を拝見しながら、今回は書きます。
『晋書』の列伝7は、「宗室」と題し、八王ノ乱でコケずに王朝に貢献した司馬氏の伝記が並んでいます。

■系図
列伝のある人たちの血縁を系図にすると、こんな感じ。
世代が分かるように、参考に司馬懿の家系を載せています。
赤い文字が、列伝の分量がそれなりに充実していて、キャラ立ちしそうな人物。時期は、ぼくが三国志の後日談だと思う、懐帝の降伏までに絞ってあります。列伝7はどっさりあるのに、意外に人不足です笑
東晋までいちばん長く栄えたのは、司馬懿の弟・司馬進の家系でした。誰も知らん!

高祖宣帝懿─太祖文帝昭─世祖武帝炎─孝恵帝衷─愍懐太子遹
安平献王┬安平貞世邕
         ├義陽成王┬河間平王洪─義陽王威
         ├太原成王輔├随穆王整
         ├翼      └竟陵王
         ├下邳献王晃
         ├太原烈王瓌-(河間王顒)
         ├高陽元王珪
         ├常山孝王衡
         └沛順王景
東武城侯馗┬彭城穆王権─(雄)─(釈)─彭城王紘
         ├高密文献王┬(東海王越)
         │          ├新蔡武哀王騰─新蔡荘王確
         │          ├高密孝王略
         │          └南陽王模─晋元王保
         └范陽康王綏─范陽王
(鴻臚丞・恂)─済南恵王遂─(?)─(?)─成都王勳
(中郎・進)┬譙剛王遜─譙閔王承─譙烈王無忌─(以下略)
       └高陽王
(安城亭侯通)┬任城景王陵
         ├
         └西河繆王・司馬斌

王号がない司馬順は、一発屋ですが、目にとまりました。司馬炎が即位したときに、「事乖唐虞、而假為禪名!」と叫んだため、武威郡姑臧県に廢黜され、雖受罪流放、守意不移而卒。という笑
彼の叫びは「堯・舜のときとは状況がまるで違うのに、ニセモノの禅譲をやるかよ!」です。当時は西涼のほうは叛乱が起きまくっていたから、とんでもなく危険な左遷を食らったものです。意見を変えずに死んだ、という散りざまがよい。だから赤文字です。
■司馬懿の年子、司馬孚
司馬孚(叔達)。司馬懿の次弟で、年齢はたった1つ違い!
あの「八達」という言葉は、司馬孚伝にある。
温厚で、人から怨まれたことがない。司馬氏に相応しく、学問が得意。董卓以降の混乱で、質素な生活を強いられた。
陳留の殷武が罪を得たが、彼は名声があったため、司馬孚は彼と食事をともにした。これで、司馬孚の評判もあがった。きっと、濁流に対抗したんだろう笑
後漢末の空気感を、全身で味わっている。曹操とも同時代を生きた、典型的な「三国志の登場人物」だ。

曹植の文学掾になった。すぐ上の兄・司馬懿は曹丕に仕えているから、年齢に呼応させて曹操が割り振ったのか。
曹植は才能を誇り、好き勝手をした。司馬孚がいつも切諫したが、初めは分かってもらえず、後年になってから理解された。
このまま曹植派と共倒れするかと思いきや、太子中庶子となった。曹操が後継者を決めたときに、曹植の取り巻きを剥がしたんだろう。あくまで司馬懿の補佐的な立場だっただろうから、丁氏のように、曹植と政治的心中をすることはなかったのか。

■曹操の死=いちばんの見せ場
220年曹操が死んだ。曹丕は立ち直れなかったようで、司馬孚の名台詞が飛び出す。「大行晏駕、天下恃殿下爲命。當上爲宗廟、下爲萬國、奈何效匹夫之孝乎!」と。
すなわち「大行(曹操)が死んでしまった今、天下は殿下(曹丕)の号令を待っています。魏を継ぎ、天下を治めなさい。なんで凡人みたく、泣いてばかりいるのか」という助言です。
曹丕の応答が冷めていて面白いんだが、「卿言是也」。訳せば、「キミの言うとおりだ」と。泣き止むまでしばしタイムラグがあったようだが(太子良久乃止)、なんて冷静なんだ。
「孝(哭礼)よりも優先すること(権力の継承)があったな。いかん、私としたことが、優先順位を見誤っていたよ」という曹丕の状況分析か。

曹操の死というパニックを抑えることは、自分の役目だと司馬孚は思ったのでしょう。
「今大行晏駕、天下震動、當早拜嗣君、以鎭海內、而但哭邪!」と、さっきの焼き直しのような台詞で、大勢の臣下たちを激励した。司馬懿が曹操の葬儀を仕切ったというから、きっと兄弟で予め曹操の死後の打ち合わせを、やってあったに違いない笑

司馬孚は、尚書の和洽とともに、群臣を罷免し、禁衛の兵を配置して、喪事を具え、曹丕を禅譲に導いた。罷免というのは、漢臣の一斉リストラの意味だろう。だって、漢はなくなるんだから。

■国を作る心構え
侍中・常侍を選ぶとき、曹丕の臣たちは、遠回しに諷諭して、自分たちが任命されるように吹き込んだ。司馬孚は、「こんなんじゃイカン」と思った。
「堯舜のときでさえ、実力のある人材が必要とされた。まして今、魏は禅譲を受けたばかり。海內英賢を用いねばダメだ。なんで、身内ばかり任用させようとするのか」正論ですな。
司馬孚は、中書郎・給事常侍となって宮中に宿し、黄門侍郎になって、騎都尉を加えられた。
死ぬまで魏の純臣なり、司馬孚&司馬望伝(2)
■ストレッサー孫権
孫権が臣従するというから、曹丕はOKした。
「臣従するなら、于禁を返せ。孫登を人質に寄越せ」と命じた。孫権は「分かった」と言った。だが、一向に到着しない。焦れた曹丕は、司馬孚の意見を聞いた。
權雖未送任子、于禁不至、猶宜以寬待之(心を大きく持ってお待ちなさい)。不可以嫌疑責讓、恐傷懷遠之義(イライラして、呉を咎めては、周辺諸国が懐かなくなります)。孫策と孫権が割拠して、すでに長年が経過しています。呉の強弱は、于禁とは関係ありません。遅延には、それなりの理由があるのでしょう」

せっかちな曹丕が、「臣従を申し出るなら、拒まないでやろう」とガラにもなく包容力を発揮したのに、孫権は誠意を見せない。曹丕が性格的に無理して判断しただけに、余計にイライラは大きいのでしょう(孫権の思う壺ですが)。
それを、一歩引いて慰める司馬孚。いい役回りです。

于禁が到着し、彼の病気で遅れていたことが分かった。しかし、ついに任子(人質)は来なかった。孫権が言を違えたので、曹丕は攻めた。国交は断絶した。
曹丕のSっ気のエピソードとして、帰国した于禁に、関羽にひれ伏している絵を見せて悶絶させた、というのがある。あれは、孫権に対して溜まっていたストレスの八つ当たりじゃないのか。于禁その人を、曹丕がそこまで追い込む理由は、見当たらない。

■2人目の司馬懿
司馬孚は河内典農となり、関内侯の爵位を賜り、清河太守に転任した。
曹叡が即位すると、「有兄風不?(司馬孚は、司馬懿に似ているか)」と下問があった。YESの回答を得た曹叡は、「吾得司馬懿二人、復何憂哉!」と言った。司馬懿を2人も手に入れたので、もう悩みはないわ!という喜びようだ。1つ違いの兄弟で、陰に陽に連携している2人だから、似ていてもおかしくない。

もしくは、晋の基礎を作った司馬懿という政治家は、2人が補完して作り上げたキャラクターかも。司馬孚の方が長生きするから、政治人としての司馬懿は、戸籍上の司馬懿が死ぬまで機能していた決め付けても、矛盾がない。

■諸葛亮の滑稽
司馬孚は、度支尚書に転任した。
はじめ曹丕は、度支尚書を置いて財政を管理させようとした。朝議は、「まだ呉蜀の征討が続いているので、緊縮で」と意見した。その管理責任者として、司馬孚が選ばれたのだろう。
司馬孚は、邊兵(国境の軍)だけでは諸葛亮を防げないと見るや、万全の備えのため、1万の部隊を2つ編成した。
関中は何度も攻められ、穀物や財貨が不足していたため、冀州の農丁五千人を移して上邽に屯田させ、秋冬には戦闘の訓練をし、春夏には田畑を耕させた。

諸葛亮が桟道で兵糧を落っことしてショボーンとし、次は五丈原で屯田を始めても、実がつかずにショボーンとした。 『演義』の読者は、成功を願ってハラハラするわけだが。。
魏は前線を司馬懿が固め、後方を司馬孚が固める。ノイローゼの諸葛亮は、気力に満ちた「2人の司馬懿」と、冀州から生産力を移送してこられる圧倒的な国力を相手に戦っているんだ。
こんなことを言ってはナンだが、勝てるわけがない!

『三国志』を描くなら、蜀と魏の北伐の捉え方のギャップを明らかにしたいね。蜀は「どこに伏兵を置くか」という頭脳戦をやり、魏は「兵力と生産力の配置をどう最適化するか」という頭脳戦をやる。
司馬懿に、諸葛亮目線のイクサに付き合せてはいけない。「八陣の組み方が上手ですね」なんて、おやつの時間の雑談でしかないんだ。

尚書右僕射に除せられ、爵位は昌平亭侯に進み、尚書令に遷任した。

■「明悼皇后」
237年、曹叡の毛皇后が死んだ。銘旌(諡号)に「魏」や「毛」を入れたいと議論するものがいたが、司馬孚が反対し、その意見が通った。
司馬孚の言い分は、こうだ。
古来より、国の名前(魏など)は本国の地名であり、他の王朝と区別しただけだ。(姓は血の繋がりを表すだけだ)。「皇帝」は、天を「皇天」と美称するのに由来し、「皇后」は、地を「后土」と美称するのに由来する。これらの美称は、唯一無二だ。わざわざ国名や姓をつけてしまっては、「亡き毛皇后は、赫赫無二たる存在ではございません。だから、形容の修飾がついてるんです」ということになってしまう、と。

■司馬懿のクーデター
曹爽が権力を握ると、孚不視庶事、但正身遠害而已
すなわち、庶事(ちまちましたこと=目先の政治の利害)を視ず、身を正して、害を遠ざけた。司馬懿が太傅に祭り上げられ、病の振りをして引っ込むが、全く歩調を合わせている。
249年のクーデターでは、司馬師とともに司馬門に屯した。その功績で、長社県侯に進み、侍中を加えられた。
251年3月、司空に遷った。同じ年の7月、王淩に代わって大尉になった。ついに、「双子」である司馬懿の最期の戦、王淩の叛乱が起こった結果です。同じ7月、1つ上の兄、司馬懿が死去。

■呉の防戦
253年、調子こいた諸葛恪が合肥新城を囲んだ。20万で防禦に向かい、文欽・毌丘倹を寿春に進めた。
「夫攻者、借人之力以爲功、且當詐巧、不可力爭也」
攻撃は、人の力を借りて、功を為すものだ。かつ詐巧を用いて、力争すべきではない。すなわち、攻めるのは(味方ですら)不確定要素だらけの人間だ。力攻めをしても損害ばかり大きいから、頭を使いなさい、ということか。司馬懿と一緒に作り上げた兵法なのでしょう。
1ヶ月して、呉は撤退した。呉の惨状は『呉書』を読めばよいね。
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