三国志は、1800年に渡って語り尽くされてきた叙事詩。
しかし、とある映像作品のキャッチコピーみたく「死ぬまで飽きない」もの。
まだまだ枯れる気配すら見せない、三国志の魅力について語ります。
『晋書』列伝9より、「王沈&王浚伝」を翻訳(1)
■王沈伝
王沈,字處道,太原晉陽人也。祖柔,漢匈奴中郎將。父機,魏東郡太守。沈少孤,養于從叔司空昶,事昶如父。奉繼母寡嫂以孝義稱。好書,善屬文。大將軍曹爽辟為掾,累遷中書門下侍郎。及爽誅,以故吏免。後起為治書侍御史,轉秘書監。正元中,遷散騎常侍、侍中,典著作。與荀顗、阮籍共撰《魏書》,多為時諱,未若陳壽之實錄也。

王沈は、あざなを處道といい、太原郡の晉陽県の人である。祖父の王柔は、漢の匈奴中郎將だった。父の王機は、魏の東郡太守だった。
王沈は幼くして父を亡くし、從叔で司空の王昶に養われ、王昶に父のように仕えた。継母で未亡人の兄嫁(だれだろう)を奉り、孝義をとなえた。書物を好み、作文がうまかった。
大将軍の曹爽が辟召して、王沈を掾にして、かさねて中書門下侍郎に遷った。曹爽が司馬懿に討たれると、曹爽の故吏であることから、王沈は罷免された。後に、治書侍御史から起家し、秘書監に転じた。正元年間(254~256)に、散騎常侍に遷り、侍中となり、著作活動をした。
荀顗と阮籍と共著して『魏書』を作り、多いに時諱を為し(魏代に用いてはいけない文字への配慮をしたので)、(晋代の)陳寿の著作のように、魏代の人の実名を書きとめたものではない。


時魏高貴鄉公好學有文才,引沈及裴秀數於東堂講宴屬文,號沈為文籍先生,秀為儒林丈人。及高貴鄉公將攻文帝,召沈及王業告之,沈、業馳白帝,以功封安平侯,邑二千戶。沈既不忠於主,甚為眾論所非。

魏の皇帝・曹髦は、好學で文才があり、王沈と裴秀をしばしば東堂講の宴に招いて、文を作らせた。曹髦は王沈を「文籍先生」と呼び、裴秀を「儒林丈人」と呼んで尊敬した。曹髦が司馬昭に命を脅かされていると感じると、課曹髦は王沈と王業を召して、危機を感じていることを伝えた。王沈と王業は、司馬昭にリークしたので、この功績で安平侯に封じられ、邑二千戶。王沈は、主(曹髦)に対して不忠であるとして、激しく人々に非難をされた。

尋遷尚書,出監豫州諸軍事、奮武將軍、豫州刺史。至鎮,乃下教曰:「自古賢聖,樂聞誹謗之言,聽輿人之論,芻蕘有可錄之事,負薪有廊廟之語故也。自至鎮日,未聞逆耳之言,豈未明虛心,故令言者有疑。其宣下屬城及士庶,若能舉遺逸于林藪,黜奸佞于州國,陳長吏之可否,說百姓之所患,興利除害,損益昭然者,給穀五百斛。若達一至之言,說刺史得失,朝政寬猛,令剛柔得適者,給穀千斛。謂餘不信,明如皎日。」

尚書に遷り、豫州諸軍事として出監し、奮武將軍、豫州刺史となった。王沈が豫州に到ると、部下に教えて言った。
「いにしえの賢聖は、誹謗ノ言でも楽しんで聞き、輿人ノ論に耳を傾けた。草刈や木こりの発言にも記録すべきことがあると考え、薪を背負って廊廟ノ語(政治にまつわる話題)があると考えた。
私は豫州に出鎮してきてから、まだ耳に逆らう言葉は聞いていない。私は謙虚な心構えができておらず、私に意見する人を疑ってしまった。この豫州刺史の管轄下の城民や士や庶民は、もし林薮に埋もれた遺逸(隠れた賢者)が居れば推挙して、奸佞(のさばる悪人)を州国から追放してくれ。
陳長吏は、百姓の患っていることを、私に説いてくれた。彼の具申は、利益を与えて害を除き、損益を明らかにしてくれるものであったから、陳長吏に穀五百斛を支給する。もし真理を突いた発言が届けば、刺史は得失を説いた提言を聞くことができ、朝政は寬猛(アメとムチの配分が適正)となる。剛柔に適う(陰陽の機微を弁える)人がいれば、穀千斛を支給せよ。豫州から不信を締めだし、皎皎たる太陽のように明るくなれ」

主簿陳廞、褚某曰:「奉省教旨,伏用感歎。勞謙日昃,思聞苦言。愚謂上之所好,下無不應。而近未有極諫之辭,遠無傳言之箴者,誠得失之事將未有也。今使教命班下,示以賞勸,將恐拘介之士,或憚賞而不言;貪賕之人,將慕利而妄舉。苟不合宜,賞不虛行,則遠聽者未知當否之所在,徒見言之不用,謂設有而不行。愚以告下之事,可小須後。」

主簿の陳廞と褚某が言った。「王沈殿の言葉を頂き、恐縮して感歎しております。明けても暮れても畏まって、苦言を申し上げました。私の発言が、王沈殿のお眼鏡に適ったなら、そのご期待に応えないわけにはいきません。昨今は、極諫ノ辭が提出されることはなく、遠くにも主君を戒めるものはおらず、まことに得失のことは、何が正しいか分からなくなっておりました。いま王沈殿は、賞を与えるとお布令なさり、有能な人の推挙や諫言を促進されました。
ですが、恐らく拘介ノ士は、賞賛されることに抵抗を感じ、かえって発言を閉ざすでしょう。逆に、貪欲な人は、利を慕うため、中身のない提案や推薦を行うでしょう。もし、中身のある提案だけに褒賞を与えれば、賞の制度が骨抜きになることはないでしょう。遠くに王沈殿の話を聞くものは、まだ当否の所在(真実)をしらず、ただ言ノ不用(聞こえ方)で判断するしかありません。褒賞制度を設けても、狙いどおりに運用されません。私に褒美を下さったことは、あまり宣伝せず、後回しにして下さい」


沈又教曰:「夫德薄而位厚,功輕而祿重,貪夫之所徇,高士之所不處也。若陳至言于刺史,興益於本州,達幽隱之賢,去祝鮀之佞,立德於上,受分於下,斯乃君子之操,何不言之有!直言至理,忠也。惠加一州,仁也。功成辭賞,廉也。兼斯而行,仁智之事,何故懷其道而迷其國哉!」褚複白曰:「堯、舜、周公所以能致忠諫者,以其款誠之心著也。冰炭不言,而冷熱之質自明者,以其有實也。若好忠直,如冰炭之自然,則諤諤之臣,將濟濟而盈庭;逆耳之言,不求而自至。若德不足以配唐虞,明不足以並周公,實不可以同冰炭,雖懸重賞,忠諫之言未可致也。昔魏絳由和戎之功,蒙女樂之賜,管仲有興齊之勳,而加上卿之禮,功勳明著,然後賞勸隨之。未聞張重賞以待諫臣,懸穀帛以求盡言也。」沈無以奪之,遂從議。

王沈は陳廞に教えた。「そもそも徳が薄くて位が高く、功は軽いのに俸禄が高いことは、貪夫(人間の屑)の行いであり、高士(人間の鑑)の施策ではない。もし陳廞の発言が刺史(わたし)に到り、豫州にメリットをもたらしたら、幽隱ノ賢(在野の賢者)の耳に届き、オキエソ(鮀=スネークフィッシュ)のような下らない連中の思惑を排除し、上には徳を立て、下に徳を分け与えることができる。これは、君子ノ操である。なぜ違うことがあろうか。直言して理を言い当てることは、忠である。恵みを一州に加えることは、仁である。功績があるものに賞を与えるのは、廉である。だから、私が陳廞に賞与するのは、仁智ノ事である。なぜ正しいことを止めて、国を惑わしていいものか」と。
(一緒に褒められた)褚某は、また申し上げた。
「堯・舜・周公に用いられた忠諫の人は、款誠ノ心(まごころ)が顕著でした。氷と炭は物言わず、ただもともとの性質が、冷たいか熱いかだけです。これは事実です。もし忠直を好み、氷や炭のようにあるがままで、諤諤(わめきまくる性格)ノ臣ならば、庭に充満して諫言を申し上げるでしょう。耳が痛い言葉は、刺史様が求めなくても、聞けます。
もし、唐虞に徳が不足しているというのなら、明らかに周公も徳が足らないことになります(唐虞も周公も、諫言を言い散らしませんでしたが、諌めたいことは胸の中にありました)。冰と炭を同一視してはいけない(良臣は思ったことを片っ端から口にしない)ため、もし重い賞を懸けても、忠諫ノ言は刺史様に届かないでしょう。むかし(晋の)魏絳が和戎ノ功を立てたので、蒙女樂を賜りました。管仲は斉で勲功を興したため、上卿ノ禮を加えられ、功勳を明著にして、その後で賞賛して管仲に随う(手本とする)ことが勧められました(モノの支給は後回しでした)。
いまだかつて、諫めた臣を豪華な賞品で歓待し、穀帛で釣って、発言を求めた例など、聞いたことがありません」
王沈は、この提案に反論せず、従った(懸賞制度は辞めた)。
『晋書』列伝9より、「王沈&王浚伝」を翻訳(2)
沈探尋善政,案賈逵以來法制禁令,諸所施行,擇善者而從之。又教曰:「後生不聞先王之教,而望政道日興,不可得也。文武並用,長久之道也。俗化陵遲,不可不革。革俗之要,實在敦學。昔原伯魯不悅學,閔馬父知其必亡。將吏子弟,優閑家門,若不教之,必致遊戲,傷毀風俗矣。」於是九郡之士,鹹悅道教,移風易俗。

王沈は善政のなんたるかを探尋、賈逵以来の法制禁令を参照し、諸所で施行した。そのため、善を択ぶ人は王沈に従った。また王沈が言った。
「後世に生まれたものは、先王ノ教を聞けない。政道が日に日に興ることを望むが、難しい。文武をどちらも用いることは、長久ノ道(時代を越えた真理)である。俗化してしまう傾向を(なだらかな丘のように)緩やかに遅らせ、改革しなければいけない。俗になることを革めるポイントは、実に学を敦くする(先王ノ教を勉強する)ことである。むかし(周の)原伯魯は学を嫌ったため、閔馬父は彼が必ず亡びることを察知した。官吏の子弟は、家門にゆったりと構えている。もし子弟に教育をしなければ、必ず遊戯を致し、風俗を傷毀してしまうぞ(だから学ばせよ)」と。
王沈の教えを受け、豫州9郡の士は、道を教えることを悦び、風易の俗(乱れた風潮)を遠ざけた。


遷征虜將軍、持節、都督江北諸軍事。五等初建,封博陵侯,班在次國。平蜀之役,吳人大出,聲為救蜀,振盪邊境,沈鎮禦有方,寇聞而退。轉鎮南將軍。武帝即王位,拜御史大夫,守尚書令,加給事中。沈以才望,顯名當世,是以創業之事,羊祜、荀勖、裴秀、賈充等,皆與沈諮謀焉。

征虜將軍に遷り、持節・都督江北諸軍事となった。五等の制度ができたとき、博陵侯に封じられ、次國にて班した。
平蜀之役のとき、呉の人は大軍勢で魏に攻め上ってきて、「蜀を救え」と声を上げて、辺境(魏呉の国境)を惑乱したが、王沈は各地を鎮禦したため、呉軍は撤退した。呉を退けた功績で、鎮南將軍に転じた。
司馬炎が王位につくと、御史大夫を拝し、守尚書令となり、給事中を加えられた。王沈の才望は、當世に顕彰された。晋の創業(禅譲)にあたり、羊祜、荀勖、裴秀、賈充らは、みな王沈と諮謀(相談)した。

及帝受禪,以佐命之勳,轉驃騎將軍、錄尚書事,加散騎常侍,統城外諸軍事。封博陵郡公,固讓不受,乃進爵為縣公,邑千八百戶。帝方欲委以萬機,泰始二年薨。帝素服舉哀,賜秘器朝服一具、衣一襲、錢三十萬、布百匹、葬田一頃,諡曰元。明年,帝追思沈勳,詔曰:「夫表揚往行,所以崇賢垂訓,慎終紀遠,厚德興教也。故散騎常侍、驃騎將軍、博陵元公沈蹈禮居正,執心清粹,經綸墳典,才識通洽。

司馬炎が受禪したとき、佐命ノ勳により、驃騎將軍・錄尚書事に転じ、散騎常侍を加えられ、城外諸軍事を統べた。博陵郡公に封じられたが、固辞して受けなかったので、爵は縣公に進められ、邑千八百戶。司馬炎は、万機を王沈に委ねたいと思ったところが、泰始二(266)年に王沈が死んだ。
司馬炎は、素服で哀しみ、秘器朝服一具・衣一襲・錢三十萬・布百匹、葬田一頃を賜わった。王沈は、元とおくりなされた。
翌年、司馬炎は王沈の勲を追思して詔した。「王沈が上げてくる表は、賢を崇え、訓を垂れるもので、慎終紀遠、德を厚くし、教を興すものだった。もとの散騎常侍・驃騎將軍・博陵元公である王沈は、蹈禮居正,執心清粹,經綸墳典,才識通洽であった。(漢字を見れば、司馬炎が王沈を褒めてることが分かるので、逐語訳しません)


入曆常伯納言之位,出幹監牧方岳之任,內著謀猷,外宣威略。建國設官,首登公輔,兼統中朝,出納大命,實有翼亮佐世之勳。其贈沈司空公,以寵靈既往,使沒而不朽。又前以翼贊之勳,當受郡公之封,而固辭懇至,嘉其讓德,不奪其志。可以郡公官屬送葬。沈素清儉,不營產業。其使所領兵作屋五十間。」子浚嗣。後沈夫人荀氏卒,將合葬,沈棺櫬已毀,更賜東園秘器。咸甯中,複追封沈為郡公。

朝廷に仕えては、常に納言ノ位を伯した。(地方に)出ては、現地(方岳)をよく監理した。內に謀猷を著し、外に威略を宣ぶ。建國設官,首登公輔,兼統中朝,出納大命,實有翼亮佐世之勳(いっぱい晋に尽してくれた)。王沈に司空公を贈り、死後もずっと優待する。王沈は生前に、郡公を固辞したので、その謙德を尊重して、郡公は贈らない。王沈は清儉な人で、金儲けをしなかった。王沈は兵に、たった五十間の屋敷を作らせただけだった」と。
王沈の子、王浚が継いだ。のちに王沈の夫人の荀氏が亡くなると、王沈と合葬した。王沈の棺はすでに壊れていたので、さらに東園秘器を賜って副葬した。咸甯年間(275-280)、また追封され、王沈は郡公となった。 ※本人の遺志が無視されました。

■王浚伝
浚字彭祖。母趙氏婦,良家女也,貧賤,出入沈家,遂生浚,沈初不齒之。年十五,沈薨,無子,親戚共立浚為嗣,拜駙馬都尉。太康初,與諸王侯俱就國。三年來朝,除員外散騎侍郎。元康初,轉員外常侍,遷越騎校尉、右軍將軍。出補河內太守,以郡公不得為二千石,轉東中郎將,鎮許昌。

王浚、あざなは彭祖という。母は趙氏で、良家の娘であったが(没落して)貧賎だった。趙氏は王沈の家に出入りしており、王浚を産んだが、はじめ王沈は子として認知しなかった。王浚が15歳のとき(266年)、王沈が死に、子が居なかったため、親戚は共に王浚を指名して嗣子とした。王浚は、駙馬都尉を拝した。
太康初(280年)諸王侯とともに任国に就いた。282年来朝し、員外散騎侍郎に除せられた。元康初(291年)員外常侍に転任し、越騎校尉に遷り、右軍將軍となった。河內太守に出補(赴任)し、郡公になったが二千石の俸禄を得なかった。東中郎將に転じ、許昌に出鎮した。


及湣懷太子幽于許昌,浚承賈後旨,與黃門孫慮共害太子。遷甯北將軍、青州刺史。尋徙甯朔將軍、持節、都督幽州諸軍事。于時朝廷昏亂,盜賊蜂起,浚為自安之計,結好夷狄,以女妻鮮卑務勿塵,又以一女妻蘇恕延。

司馬遹が許昌に幽閉されるにおよび、王浚は賈皇后の密命に従い、黃門である孫慮とともに太子を殺害した。甯北將軍に遷り、青州刺史となった。甯朔將軍に遷り、持節・都督幽州諸軍事。朝廷が(八王のせいで)昏亂したとき、盗賊が幽州で蜂起したため、王浚は自安ノ計を立て、夷狄と好(好んで、もしくは強く)結びついた。王浚は、娘を鮮卑族の務勿塵の妻とし、また別の娘を蘇恕延の妻とした。


及趙王倫篡位,三王起義兵,浚擁衆挾兩端,遏絕檄書,使其境內士庶不得赴義,成都王穎欲討之而未暇也。倫誅,進號安北將軍。及河間王顒、成都王穎興兵內向,害長沙王乂,而浚有不平之心。穎表請幽州刺史石堪為右司馬,以右司馬和演代堪,密使演殺浚,並其眾。

司馬倫が篡位するにおよび、三王は兵事を起義した。王浚は大軍を擁していたが、両端を挟んだ(倫と三王の両方と結びついた)。檄書を留めて絶えさせ、彼の境內(幽州)の士庶に戦に参加させなかった。司馬頴は、王浚が司馬倫を討つことを欲したが、王浚は出兵しなかった。司馬倫が誅されると、王浚は位を進め、安北將軍を号した。司馬顒と司馬頴が内向(洛陽、もしくは内輪もめ)で兵を起こし、司馬乂を殺すと、王浚は不平ノ心を抱いた。
司馬頴は上表し、幽州刺史である石堪を右司馬にし、今の右司馬である和演と石堪を交代させたいと思った。和演にひそかに命じて王浚を殺し、幽州の軍勢を手に入れようとしたのだ。
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