■三国志キャラ伝>「真・三國無双」やり過ぎ注意、韋曜伝(1)
呉は第三国というイメージで、いまいち物語のメインにならない。 文官・武将の人間関係がバラバラで、覚えられない。 『三国演義』では脇役そのものだ。伴野朗『呉・三国志』は期待したのに、つまらんから途中で挫折した。   ぼくは呉に対してそんなイメージを持っているのだが、三国志の「第一人者」であるあの人も、呉の扱いはそんなもんだったようです。 誰であろう、陳寿です。 陳寿が『三国志』を編んだとき、呉の部分は、韋曜がメインで編集した『呉書』を丸写しにした箇所が多いそうです。テキスト比較を自分でちゃんとしたわけじゃないが、あちこちに書いてあるから、有力な定説なんでしょう。   「魏書」は、西晋の正統性の根拠だから、気合を入れて書く必要があった。というか、中原を支配した正味の王朝だから、ネタに困らない。陳寿は洛陽で著作郎してたから、資料の閲覧にも有利な立場だ。 「蜀書」には、母国の歴史を書けるし、以前に自前で『益部耆旧伝』や『諸葛亮集』を編んだ経験もあった。 しかし「呉書」となると、急速にモチベーションが下がる。政治的な使命はなく、学者としての好奇心もなく、郷土愛もない。 ただの「滅びた国」だ。 後に司馬氏が東晋を建国し、長江以南が発展すると「そういえば礎を築いたのは、孫氏だったなあ」と遡及的に価値が見出されるのだが、まだ陳寿のときは西晋だもんね。つまらんのだ。   そういうわけで、『演義』で興味を持ち、陳寿まで読むようになったファンですら、呉の扱いは嗜好的なものでしかなく、本筋のトキメキとは無縁だと思うのです。偏見ですが。 前置きが長くなりましたが、正史「三国志」の裏の編者=韋曜について、見てみます。
  ■大人気ないマジモード 韋曜、あざなは弘嗣です。「ひろつぐ」で変換ができた笑 裴松之が「本当の名前は韋昭だが、司馬昭に遠慮して韋曜と書き換えられた」と書いた。しかし「そうでもない」とも言われる。論争は学者さんに任せるとして、もう陳寿に倣って、このサイトでは韋曜でいきます。 昭だと「zhao1」で、曜だと「yao4」だから、似ても似つかない!字形が似ていなくもないから、音を無視した仮字なんかな。   呉郡の雲陽(曲阿)の人。尚書郎、太子中庶子。お守りの相手は孫和。 孫和が、韋曜に命じて言った。 「蔡頴のやつが、博奕ばかりやってる。博奕について論ぜよ」 このとき韋曜が書いた文章が『博奕論』として残っているんだが、けっこう本気なんだ。下らん遊びだよー、ほどほどにねー、と一蹴すれば済んだだろうに、真剣になってしまった。   ぼくは、博奕(すごろく・ばくち)がどんな遊びなんか、知りません。 でも『博奕論』を、よくよく読んでみると、ゲーム全般への批判文として、非常に興味深い内容なんだ。今回は、博奕をテレビゲーム「真・三國無双」に置き換えて読んでみようと思います。括弧内が読み替えです。   ■『博奕論』を読む。 君子たるものは、生前は手柄のないことを恥じ、死後は名前の残らないことを憂う。 人生は短い。志があるなら、年を取ることを悲しみ、早朝から深夜まで、時間を惜しんで努力をするものだ。   しかし現代の人々は、正統な学問をやらず、働くでもなく、博奕(真・三國無双)に齧り付いている。 寝食を忘れ、日中を遊び倒し、さらに灯りを燈して徹夜する。盤(テレビ)と向き合って競い、勝利するまで全神経を集中し、心身ともに疲労困憊で、人との交わりも疎かにし、文化的な教養には無関心だ。 ひどい人だと、衣食住に関わる金まで、博奕の賭け金(特典付きソフト購入)に注ぎ込む。   廉恥の意識は低くなり、負けると(キャラが死ぬと)腹を立てて怒りをむき出しにする。しかし心を注ぐのは、たかが賽の目(セーブデータ)で、力を尽すのは棋盤(テレビ画面)の範囲を出ない。敵を打ち破っても、封爵が恩賞があるのではない。領地を取っても、実際に自分の物にはならない。   勝負の技(操作テクニック)は、士人の六芸に数えられず(履歴書に書く欄はなく)人様の役にも立たず、志を実現することにも関係ない。 その中に兵法の意義を求めても、孫子呉子には勝てず、技芸としての意義も、孔子一門が教えるものとは筋違いだ。 むしろ相手の裏を掻こうとするから、忠や信に背き、「奪う」「討つ」という言葉を用語として(ゲーム内で)使うから、仁者からは遠ざかり、全くの時間の無駄である。 材木を自分で立てて斬り付けたり、置いた石に物をぶつけるのと(プログラムに踊らされるだけの出来レースという意味で)何ら変わらない。   いま呉の国(日本社会)は大切なときで、文武の士が協力して、国を盛んにしなければならない。 一本の賽の目(セーブデータ)と実社会への貢献の、どちらが大切だろう。生命のない300個の駒(ゲーム内のキャラ)を動かすのと、万人の統率者になるのは、どちらが大切だろう。博奕(真・三國無双)に注いでいる活力と時間を、学問や経済活動に転化すれば、どれだけの財産が得られるだろうか。功名が立つこと、間違いなしだ。以上。   ■『博奕論』の感想 ちくま訳を読んでいて、驚いた。まさかここまで、現代とシンクロするとはねえ。ゲームのやり過ぎは、よくないんだね。   古代の偉人の名前をいっぱい引用しながら、ちくま訳のちっさい字でビッシリと、4ページ弱くらい書いてある。 教養人が肩肘を張って、真面目くさって書いたものです。でも、そんなに理解しにくい、崇高な理屈が書いてあるわけじゃなかった笑 知的おふざけ、思考実験の類いかなあ、という気がしますが、それは下衆の勘違い。韋曜は儒者として正しさを貫く人間のようです。ふざけた比喩を持ち出して『博奕論』を読んだと知れたら、韋曜に怒られてしまう。
  次回は、韋曜の歴史家としての意地を見ます。 不幸ながら、孫皓が皇帝に即位してからのお話です。
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