三国志は、1800年に渡って語り尽くされてきた叙事詩。
しかし、とある映像作品のキャッチコピーみたく「死ぬまで飽きない」もの。
まだまだ枯れる気配すら見せない、三国志の魅力について語ります。
光武帝の奇跡を待つ劉氏、劉巴伝(1)
劉氏の漢は滅びない。この神話が、『三国志』を生きた人たちの普遍の思い込みです。
なぜなら、王莽の簒奪を受けた後、赤眉の劉盆子が登場し、劉玄が更始帝に即位し、ついに劉秀が光武帝として統一することで、漢は奇跡の復活を遂げたのです。
目まぐるしく、次々と有望株の劉氏が立ち、見事に復活を遂げて、400年帝国を築いたのでした。

三国時代にも、声望を背負ったたくさんの劉氏が、2回目の「中興」をやらかそうと、希望をかけた。
その実現を信じた、脇役の人物がいた。自分も劉氏のくせに、自らは皇帝になろうとはせずに、ただ劉氏の奇跡を待望し続けた、いわば「乱世の観客」です。それが、今回とりあげる劉巴です。
■復興を夢見る辺境
蜀書の第9。董和や馬良とセットになって列伝があるのが、劉巴。
荊州零陵郡、蒸陽県の人。あざなは子初。

劉巴は、劉焉・劉協・劉表・劉璋・劉備に希望をかけて、彼ら劉氏を「第2の光武帝」に押し上げようと、期待をする。
荊州南部出身で、益州も遠くない。曹操が接収しそこねた荊蛮の土地にいて、ついには交州にまで避難するという、チキンぶり。中原から離れた地は、空想をするにはいい地理だ。劉巴の活躍の舞台だ笑

これを書きながら思ったんだが、荊州の劉表、益州の劉焉と劉璋、荊州南部4郡の劉備。
諸葛亮が「曹操に対抗する拠点にしましょう」と指摘した西南地方は、全て劉氏がトップになって残っていたんだね。どこまで明確な意志が働いていたかは分からないけど、「漢」を待ち望み、「反曹操」を掲げる人たちは、押しやられども、確かに存在していたようです。
逆に言えば、ここまで情勢が曹操に傾いてしまうと、1州を保ちうるのは、劉氏だけだったのかも知れない。

■孫堅の支援者
劉巴の祖父・劉曜は、交州の蒼梧太守。
父の劉祥は江夏太守。世よ二千石ってやつですか。
父は孫堅を支持した。孫堅が南陽太守の張咨を、調子に乗って殺したとき、「孫堅さんのやることは、正しい」なんて言うものだから、南陽の民に殺された。
孫堅はこの後、後腐れなく袁術と合流し、豫州刺史か何かにプライベートに任命されて、洛陽への一番乗りを果たす。華々しくデビューした孫堅に対し、地味で損な尻拭いをさせられたことになる。これで南陽の民がスカッとしてくれたなら、まだ人柱になった甲斐があるというもの。
だが、せっかくの故郷・荊州で、劉巴は立場が浮いてしまった。

なぜ劉祥は、孫堅と心を同じくしていたんだろうか。孫堅が、東西で軍功を立てていたからだと思う。漢の忠臣だぜ、と認めていたんだと思う。劉氏にとって、漢を守ってくれる軍人は大切な存在だ。
董卓が洛陽で好き勝手やってるのに、「董卓討伐に物資提供なんかできないよ」と言った張咨は、劉祥や劉巴には逆賊に映ったのだろう。

■劉表の殺意
孫堅は劉表と戦って死んだ。三段論法とは残酷なもので、孫堅の味方だった劉祥の子=劉巴は、劉表の敵だと認定された。
劉表は、赴任当初は豪族55人を一網打尽!とか、野心的な平定作戦をやった人である。劉巴は身が危ない。

ある日劉巴のところに、父の旧臣が来て、ささやいた。「劉表さまは、あなたを害そうとしています。私と逃げましょう」と。
実はこれはワナで、付いて行ったら逆に殺されるという、恐ろしい策略。再三再四ささやかれたというから、劉表さんは執拗だが、劉巴は断り続けて、命を取り留めた。

■馬鹿でごめんなさい
荊州が安定し、文化人路線を決め込んだ劉表は、甥の劉先を「お勉強を教えてあげて」と、劉巴に送り込んできた。
孫堅を支持したから軽い扱いになっていたが、劉巴の家は、祖父の代から太守を輩出していた名門。劉表は転じて味方にしたかったらしいが、劉巴は許さない。
「私はバカだから、勉強を教えるなんて、とんでもない。馬鹿すぎて、自分の名前すら、書けなくて困っているんですよ」と突っぱねた。
程よい謙遜は心地いいが、行き過ぎた謙遜は、相手を馬鹿にするよね。まして、名前すら書けません、って何だよ。何度も刺客を送ってきた劉表に、やり返してやったんだろう。

劉表は、劉巴を立て続けに茂才に推薦したが、劉巴は受けなかった。刺客を送るときも、懐柔するときも、クドクドクドクドやるのが、劉表のやり方らしい。
心の中で「光武帝」の再来を願っていた不遇の傍系皇族=劉巴は、「劉表は、漢を復興させる器じゃねえ」と見切りをつけたのでしょう。
光武帝の奇跡を待つ劉氏、劉巴伝(2)
■カルテットの指揮者
北伐を終えた曹操は、進軍するだけで荊州を手に入れた。劉琮はヘナヘナと降伏をし、劉備は士人を引き連れて逃げ出した。劉巴は曹操に帰順した。
気に食わなかった劉表政権は朝露と消え、劉協を頂く曹操が、(劉氏じゃないけど)最も劉氏を助けてくれそうな、現実的スポンサーだ。この時点で曹操は、簒奪のロードマップを引いていないから、劉巴はすんなりと馴染んだ。

曹操が覇道を剥き出しにするのは、赤壁で敗れてから。それまでは、簒奪の必要はなかった。順風に天下を統一し、曹氏の存在感を誇示したままで、後漢を補佐する。これに、何の矛盾も無理もなかった。
赤壁で負けて、「中原を抑える地方政権」に逼塞しそうになったとき、曹操は「魏公」だの「魏王」だの言い出したんだ。董卓の二の舞になることを、曹操は恐れたんじゃないか。

荊州に進駐した曹操の下で、劉巴は長沙・零陵・桂陽に帰順を呼びかけた。劉表は中原志向で、北の襄陽に州都を置いていたから、南はお留守だった。新しい荊州の為政者を迎え、再統合が必要だったんだ。零陵郡出身の劉巴は、ハマリ役だと言えるでしょう。
このとき、韓玄・劉度・趙範・金旋が4郡に配置されたに違いない。あとで『演義』読者の食い物にされるとも知らずに、使命感を持って赴任したのでしょう笑

■赤壁、聞いてない
曹操は周瑜に破れ、江陵だけキープして撤退した。
『演義』で華々しくカルテットが散っていくんだが、4人を赴任させた調整役は、劉巴だ。情けなくも曹操に帰命できなくなり、交趾に逃げた。荊州南部と交州は隣接しているから、逃げやすくて意外に便利。
落ち延びるときの心境の無念さを想像すると、胃がキリキリするけどね。
故郷の零陵にいて焦った劉巴は、4郡掠奪のプロデューサー、諸葛亮に手紙を書いた。
「人生は、うまく行かないものですね。もし運命が尽きちゃえば、南方の海に沈み、二度の荊州には帰って来れないでしょう」と。下世話に補えば、「このコソ泥の劉備めが。お前の姑息さを怒っているのは、周瑜だけじゃないことを覚えておけ。バーカ、バーカ」かな笑
諸葛亮は、お返事を書いた。
「荊州で劉巴さんは慕われているのに、どうして去ってしまわれるのですか」と。そして劉巴を追いかけた。
一見すると美談だが、諸葛亮の本音は「占領地を安定させるには、在地の有力者を味方にするのが早道だ。あんたに逃げられたら、鎮圧が面倒になるんですけど!」だろう。
劉巴は「私は曹操さんの命令で、荊州南部のお世話をしていたのです。これに失敗したのだから、去るのは当然です」と返事した。
腹の底では、「諸葛亮よ、あんたの思いどおりにはならないよ。荊州南部は、蛮が出没する面倒な土地。せいぜい苦労しろ」と思っていたのだろう。
これを受けて劉備は、たいそう悲しんだ、と陳寿はいう笑
■劉璋への期待
劉巴は交趾で、張と改姓した。でも、士燮と対立した。そんなにポストが豊富にあるわけじゃない土地に、士燮と同レベルの人士が流れてこれば、衝突するのは仕方ない。
許靖と同じように、南を巡って益州に入った。道中に拘留されたが、主簿が「きっと偉いさんだから、ホイホイと殺すな」と命じ、劉璋に目通りした。軽く、人生最大の危機だったようです笑

ここで『零陵先賢伝』の記述が混乱するんだが、劉焉(劉璋の父)は劉祥(劉巴の父)に、孝廉に推挙されたという。裴松之は、時代や両者の位の高低が合わないと言っているが、そのとおり。
ただ劉璋が、劉巴を重んじたことから、こんな異聞が出てきたのだと、ぼくは思う。桃園ノ誓と同じパタンだ。劉璋は、ネームバリューのある士人の参加を喜んだ。
劉巴の方は劉巴で、「劉協は、覇道に堕ちた曹操に飼い殺されてしまったから、もう期待できない。漢を復興するのは劉璋じゃないか」と思い始めたのかも知れない。
劉璋は凡庸でも、益州は潤ってるし、のちに雒城で1年も劉備を釘付けにした劉循が、嫡子にいる。やっと神話が実現されるぞ!と確信したに違いない。

■法正の手引き
劉巴の期待は、長続きしなかった。劉璋が法正の提案を入れて、劉備を益州に招くという。さらに張魯討伐に遣るという。
劉巴は「劉備を入れてはいけません。絶対に害を撒き散らします」と言った。しかし劉璋の凡庸は覆らず、成都は劉備の手に。

劉備は、「成都を攻めるとき、劉巴を殺したら三族死刑だ」と布令て、劉巴を重んじた。ついに劉巴を捕まえ、「ハッピー」と言った。陳寿は「劉巴は前罪を陳謝した」と書いているが、おそらくは無念でいっぱいだったろう。
喧嘩別れで競合他社に転職したら、転職先が前勤務先にM&Aされたみたいなものだ。かつての上司と再会し、「先日の無礼をお許し下さい」と頭を下げる心境だ。気まず過ぎて、夜も眠れない。
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