いつか書きたい『三国志』
三国志キャラ伝
登場人物の素顔を憶測します
『晋書』と『後漢書』和訳
他サイトに翻訳がない列伝に挑戦
三国志旅行記
史跡や観光地などの訪問エッセイ
三国志雑感
正史や小説から、想像を膨らます
三国志を考察する
正史や論文から、仮説を試みる
自作資料おきば
三国志の情報を図や表にしました
企画もの、卒論、小説
『通俗三国志』の卒業論文など
春秋戦国の手習い
英雄たちが範とした歴史を学ぶ
掲示板
足あとや感想をお待ちしています
トップへ戻る

(C)2007-2009 ひろお
All rights reserved. since 070331
『晋書』列39、元帝の逃げ場 6)戴邈
戴邈
邈字望之。少好學,尤精《史》《漢》,才不逮若思,儒博過之。弱冠舉秀才,尋遷太子洗馬,出補西陽內史。永嘉中,元帝版行邵陵內史、丞相軍諮祭酒,出為征南軍司。于時凡百草創,學校未立,邈上疏曰:

戴邈は、あざなを望之という。若いときから學を好み、中でも《史記》《漢書》に精通した。才覚は戴若思ほどではないが、儒学の博学ぶりは戴若思を上回った。
〈訳注〉陸機から船を分捕る戴若思には、ふつうは敵わない。
弱冠で秀才に挙げられ、かさねて太子洗馬に遷り、洛陽を出でて西陽內史になった。永嘉中(307-313)、元帝は戴邈を邵陵內史、丞相軍諮祭酒とし、征南軍司となった。
東晋を草創したとき、学校が立っていなかったので、戴邈は上疏した。

臣聞天道之所大,莫大於陰陽;帝王之至務,莫重於禮學。是以古之建國,有明堂辟雍之制,鄉有庠序1111校之儀,皆所以抽導幽滯,啟廣才思。蓋以六四有困蒙之吝,君子大養正之功也。昔仲尼列國之大夫耳,興禮修學於洙泗之間,四方髦俊斐然向風,身達者七十餘人。自茲以來,千載絕塵。豈天下小於魯衛,賢哲乏于曩時?勵與不勵故也。

「天道の大きさは、陰陽よりも小さいものです。帝王の至務は、礼学より重くないものです。ですから古代の国では、明堂辟雍之制がありました。きっと六四(64種類の卦)に困蒙之吝があるので、君子は養正之功を大きくできるのです。
〈訳注〉政治行為よりも、学問を持ち上げている。理解のない君主が見たら「大逆」だよなあ。
むかし仲尼(孔子)は國之大夫に列しただけです。禮修を興し、洙水と泗水の間の狭い地域で学びました。四方から賢い人が寄ってきて、弟子は七十餘人になりました。孔子の時代からずっと千載に塵がなく、学問は尊いものです。
東晋の天下は、孔子がいた魯衛よりなぜ小さいでしょうか。賢哲は、むかしより乏しいでしょうか。励むか励まないの差があるだけです。
〈訳注〉いま東晋で学問を興せば、孔子の比じゃないほどの学者が出現し、成果を上げると言いたいのだ。

自頃國遭無妄之禍,社稷有綴旒之危,寇羯飲馬于長江,凶狡鴟張於萬里,(中略)然三年不為禮,禮必壞;三年不為樂,樂必崩,況曠戴累紀如此之久邪!今末進後生目不睹揖讓升降之儀,耳不聞鐘鼓管弦之音,文章散滅,圖讖無遺,此蓋聖達之所深悼,有識之所嗟歎也。夫平世尚文,遭亂尚武,文武遞用,長久之道,譬之天地昏明之迭,自古以來未有不由之者也。

このごろ国は無妄之禍に遭い、社稷は綴旒之危があります。寇羯が長江で馬に水を飲ませ、凶狡が萬里で鴟を張っています。(中略)
3年間、礼が行なわなければ、礼は必ず壊れてしまいます。3年間、樂が行なわなければ、樂は必ず崩れてしまいます。まして異民族による混乱が、今のように長引いてしまっては、礼楽はアトカタもありません。今までもこれからも、目は揖讓升降之儀を見られず、耳は鐘鼓管弦之音を聞けないでしょう。文章は散滅し、圖讖は遺りません。
これは聖達が深く悼むことで、有識が嗟歎する状況です。
そもそも世を平和なら文を尚び、亂に遭っては武を尚び、文武をどちらも重んじるのが長久之道です。たとえ天地が昏明に陥っても、古来から自明の原則です。

今或以天下未一,非興禮學之時,此言似之而不其然。夫儒道深奧,不可倉卒而成。古之俊乂必三年而通一經,比天下平泰然後修之,則功成事定,誰與制禮作樂者哉?又貴遊之子未必有斬將搴旗之才,亦未有從軍征戍之役,不及盛年講肄道義,使明珠加磨瑩之功,荊璞發采琢之榮,不亦良可惜乎!(中略)
臣以暗淺,不能遠識格言;奉誦明令,慷慨下風,謂宜以三時之隙漸就修建。


今は天下が統一されていないので、禮學を興すときではないと言う人がいます。この発言は、私の言い分と似ていますが、違うものです。
そもそも儒道は深奧で、いい加減な人物が理解できるものではありません。古代の俊乂は、必ず3年を費やして一經に通じます。天下平泰に比し、その後にこれを修めます。功が成り事が定まったら、誰が制禮樂者を与えるでしょうか?(中略)
〈訳注〉軍事案件が多くても、学問を辞める理由にならない。予想される反対意見を例示して潰す。ディベートの常套手段です。
私は暗淺なバカですから、遠くを見通して気の利いたことを言えません。どうか明令を奉誦し、下風を慷慨し、三時之隙をもって学校を修建されますように提案いたします」

疏奏,納焉,於是始修禮學。
代劉隗為丹陽尹。王敦作逆,加左將軍。及敦得志,而若思遇害,邈坐免官。敦誅後,拜尚書僕射。卒官,贈衛將軍,諡曰穆。子謐嗣,曆義興太守、大司農。


戴邈は上疏し、認められた。このときから学校制度が整い、禮學の修得が始まった。
戴邈は劉隗に代わって、丹陽尹となった。
王敦が作逆すると、戴邈は左將軍を加えられた。王敦が志を得る(謀反が成功する)と、戴若思は殺害され、戴邈は連座して免官された。
王敦が誅された後、尚書僕射を拝した。在官で死んだ。衛將軍を贈られ、「穆」と号された。
子の戴謐が嗣いだ。義興太守、大司農を歴任した。
上奏文がうまく訳せませんが、「今こそ学校を作るべきです」と言いたかったのです。それだけは確認しておきます。
前頁 表紙 次頁
このコンテンツの目次
『晋書』列39、元帝の逃げ場
1)劉隗-上
2)劉隗-下
3)劉隗の親戚
4)刁協、刁彝
5)戴若思
6)戴邈
7)周顗-上
8)周顗-下、周閔
inserted by FC2 system