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『晋書』列39、元帝の逃げ場 5)戴若思(戴淵)
戴若思(戴淵)
戴若思,廣陵人也,名犯高祖廟諱。祖烈,吳左將軍。父昌,會稽太守。若思有風儀,性閑爽,少好遊俠,不拘操行。遇陸機赴洛,船裝甚盛,遂與其徒掠之。若思登岸,據胡床,指麾同旅,皆得其宜。機察見之,知非常人,在舫屋上遙謂之曰:「卿才器如此,乃複作劫邪!」若思感悟,因流涕,投劍就之。機與言,深加賞異,遂與定交焉。


戴若思は、廣陵の人である。名は、高祖廟の諱を犯している。
〈訳注〉本名は「戴淵」でいいのだろうか。劉淵(あざなは元海)のところに、同じ記述がある。
祖父の戴烈は、呉代に左將軍だった。父の戴昌は、會稽太守だった。
戴若思は風儀があり、性格は閑爽だった。若くして遊俠を好み、操行に拘らなかった。
陸機が洛陽に行くとき、船の裝いはとても豪盛だった。戴若思は仲間たちと、陸機の船を掠め取った。戴若思は登岸すると、胡床に座り、奪った船団を指図して動かした。戴若思の指揮は、みごと機能した。
陸機は戴若思の働きを見て、非常の人だと知った。舫屋の上から、陸機ははるかに戴若思に話しかけた。
「卿(きみ)の才器は、これほどのものだ。それなのに、まだ盗みのような下らないことを続けるのか!」
戴若思は感悟して、流涕した。剣を投げ捨てて、陸機に従った。陸機は言葉をかけて、戴若思に深く賞異を加え、交流を確かなものにした。

若思後舉孝廉,入洛,機薦之于趙王倫曰:「蓋聞繁弱登禦,然後高墉之功顯;孤竹在肆,然後降神之曲成。是以高世之主必假遠邇之器,蘊櫝之才思托太音之和。伏見處士廣陵戴若思,年三十,清沖履道,德量允塞;思理足以研幽,才鑒足以辯物;安窮樂志,無風塵之慕,砥節立行,有井渫之潔;誠東南之遺寶,宰朝之奇璞也。若得托跡康衢,則能結軌驥騄;曜質廊廟,必能垂光璵璠矣。惟明公垂神采察,不使忠允之言以人而廢。」倫乃辟之,除沁水令,不就,遂往武陵省父。時同郡人潘京素有理鑒,名知人,其父遣若思就京與語,既而稱若思有公輔之才。累轉東海王越軍諮祭酒,出補豫章太守,加振威將軍,領義軍都督。以討賊有功,賜爵秣陵侯,遷治書侍御史、驃騎司馬,拜散騎侍郎。

戴若思は、のちに孝廉に挙げられて、洛陽に入った。陸機は、戴若思を司馬倫に推薦して曰く、
「蓋し聞く、繁弱して登禦し、然る後に高墉之功は顯らかなりと。孤竹は肆しいままに在り、然る後に神之曲成に降ると。是れ以て高世の主なり。必ず遠邇之器と蘊櫝之才を假し、太音之和を思托す。
伏して見るに處士たる廣陵の戴若思、年三十、清沖は履道にして、德量は允塞なり。思理は研幽を以て足り、才鑒は辯物を以て足る。安窮樂志、風塵之慕なく、砥節立行、井渫之潔あり。誠に東南の遺寶、宰朝の奇璞なり。若し托跡康衢を得れば、則ち能く結軌驥騄す。曜質廊廟、必ず能く垂光璵璠するかな。惟だ明公は神を垂れ察を采り、忠允之言をして人を以て廢さしめず」
〈訳注〉さすが文学者の陸機で、何を言っているか分からん(笑)あちこち対句になっているのです。司馬倫は、内容に納得したというより、「陸機が推薦したから」という理由で、戴若思を認めたんだろう。。
司馬倫は戴若思を召して、沁水令にしたが、着任しなかった。武陵郡の省父に行った。
ときに同郡出身の潘京は、平素より理鑒があり、名は人に知られていた。潘京は父親への伝言を、戴若思に託した。戴若思は、公輔之才があると称えられた。
戴若思は、かさねて東海王の司馬越の越軍諮祭酒に転じてた。豫章太守となり、振威將軍を加えられ、義軍都督を領ねた。賊を討った功により、秣陵侯を賜った。治書侍御史に遷り、驃騎司馬、散騎侍郎を拝した。

元帝召為鎮東右司馬。將征杜弢,加若思前將軍,未發而弢滅。帝為晉王,以為尚書。中興建,為中護軍,轉護軍將軍、尚書僕射,皆辭不拜。出為征西將軍、都督兗豫幽冀雍並六州諸軍事、假節,加散騎常侍。發投刺王官千人為軍吏,調揚州百姓家奴萬人為兵配之,以散騎常侍王遐為軍司,鎮壽陽,與劉隗同出。帝親幸其營,勞勉將士,臨發祖餞,置酒賦詩。

元帝は戴若思を召して、鎮東右司馬にした。杜弢を征伐しようとして、戴若思を前將軍にした。だが出陣する前に、杜弢は滅した。
元帝(司馬睿)が晉王になると、戴若思を尚書にした。元帝が即位すると、中護軍となり、護軍將軍に転じ、尚書僕射。戴若思は、どれも辞退して受けなかった。
建康から出て、征西將軍、都督兗豫幽冀雍並の六州諸軍事、假節となった。散騎常侍を加えられた。
戴若思は投刺を發して、 王官1千人を軍吏とした。揚州に住む百姓の家奴1万人を調発して、兵に分配した。散騎常侍の王遐を軍司とし、劉隗とともに壽陽に出鎮した。
元帝はみずから幕営を訪れ、将士をねぎらった。祖餞を臨發し、酒を置き詩を賦した。
〈訳注〉祖餞はどんな食べ物なんだろう。

若思至合肥,而王敦舉兵,詔追若思還鎮京都,進驃騎將軍,與右衛將軍郭逸夾道築壘於大桁之北。尋而石頭失守,若思與諸軍攻石頭,王師敗績。若思率麾下百余人赴宮受詔,與公卿百官於石頭見敦。敦問若思曰:「前日之戰有餘力乎?」若思不謝而答曰:「豈敢有餘,但力不足耳。」又曰:「吾此舉動,天下以為如何?」若思曰:「見形者謂之逆,體誠者謂之忠。」敦笑曰:「卿可謂能言。」敦參軍呂猗昔為台郎,有刀筆才,性尤奸諂,若思為尚書,惡其為人,猗亦深憾焉。至是,乃說敦曰:「周顗、戴若思皆有高名,足以惑眾,近者之言曾無愧色。公若不除,恐有再舉之患,為將來之憂耳。」敦以為然,又素忌之,俄而遣鄧岳、繆坦收若思而害之。若思素有重望,四海之士莫不痛惜焉。賊平,冊贈右光祿大夫、儀同三司,諡曰簡。

戴若思が合肥に至ると、王敦が舉兵した。追って戴若思へ詔があり、建康に戻って守るように命じた。戴若思は、驃騎將軍に進み、右衛將軍の郭逸と道を塞ぎ、大桁之北に防塁を築いた。
石頭城が王敦に攻め落とされると、戴若思は諸軍とともに石頭城を攻めた。
元帝軍が敗れると、戴若思は麾下の百余人を率いて、皇宮に赴いて詔を受けた。公卿百官とともに、戴若思は石頭で王敦と会った。王敦は、戴若思に問うた。
「前日の戰さで、手を抜いたのか?」
戴若思は礼をせずに答えた。
「手を抜いてなどいない。ただ私の力不足だったのだ」
王敦はまた言った。
「私のこの行動を、天下はどう見るだろうか」
戴若思は答えた。
「形を見る人は、『逆』というだろう。誠を体す人は、『忠』というだろう」
王敦は笑っていった。
「よく回る舌だなあ」
王敦の參軍である呂猗は、むかし台郎となり、刀筆の才能があった。性格はとても奸諂で、戴若思は尚書となると、呂猗の人となりを憎んだ。呂猗は、嫌われたことを深く根に持った。
王敦が戴若思を圧倒するに至り、呂猗は王敦に説いた。
「周顗、戴若思は、みな高名があり、衆を惑わすほどの影響力があります。周顗や戴若思の最近の発言には、愧じている容子がありません。もし2人を除かなければ、恐らく再起して患いとなり、将来の憂いとなるだけです」
〈訳注〉「曽」は、かつて、すなわち、増やす、重なっている、などの意。
王敦はそのとおりだと思い、また王敦は平素から戴若思を忌んでいた。王敦は、にわかに鄧岳、繆坦を遣わして戴若思を殺害した。
戴若思は平素より重望があった。四海之士で、戴若思の死を痛惜しない人はいなかった。賊(王敦)が平定されると、戴若思に右光祿大夫、儀同三司を追贈し、「簡」とおくり名した。
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このコンテンツの目次
『晋書』列39、元帝の逃げ場
1)劉隗-上
2)劉隗-下
3)劉隗の親戚
4)刁協、刁彝
5)戴若思
6)戴邈
7)周顗-上
8)周顗-下、周閔
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