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『晋書』列39、元帝の逃げ場 4)刁協
刁協
刁協,字玄亮,渤海饒安人也。祖恭,魏齊郡太守。父攸,武帝時禦史中丞。協少好經籍,博聞強記,釋褐濮陽王文學,累轉太常博士、本郡大中正。成都王穎請為平北司馬,後曆趙王倫相國參軍,長沙王乂驃騎司馬。及東嬴公騰鎮臨漳,以協為長史,轉潁川太守。永嘉初,為河南尹,未拜,避難渡江。元帝以為鎮東軍諮祭酒,轉長史。湣帝即位,征為禦史中丞,例不行。元帝為丞相,以協為左長史。中興建,拜尚書左僕射。于時朝廷草創,憲章未立,朝臣無習舊儀者。協久在中朝,諳練舊事,凡所制度,皆稟於協焉,深為當時所稱許。太興初,遷尚書令,在職數年,加金紫光祿大夫,令如故。

刁協は、あざなを玄亮といい、渤海郡饒安県の人である。
祖父の刁恭は、魏代に齊郡太守だった。父の刁攸は、武帝のとき禦史中丞だった。
刁協は若くして經籍を好み、博聞強記だった。濮陽王の文學に選ばれ、かさねて太常博士、本郡大中正に転じた。
〈訳注〉「本郡」とは冀州だ。
成都王の司馬穎に召されて平北司馬となり、のちに趙王の司馬倫の相國參軍、長沙王の司馬乂の驃騎司馬を歴任した。東嬴公の司馬騰が臨漳に出鎮すると、刁協を長史にした。潁川太守に転じた。
永嘉初(307年)、河南尹となったが受けず、難を避けて渡江した。
元帝は刁協を、鎮東軍諮祭酒にして、長史に転じさせた。
湣帝が即位すると、禦史中丞となったが(長安に)行かなかった。元帝が丞相になると、刁協は左長史となった。東晋が中興されると、尚書左僕射となった。
朝廷が草創されたとき、憲章(憲法や法律)は成立しておらず、朝臣に旧儀(前例)を習得している人がいなかった。刁協は、久しく中朝(首都)にいたから、旧事を暗唱していた。だから、東晋で定める制度は、すべて刁協がチェックを入れた。刁協は深く称えられた。
太興初(318年)、尚書令に遷った。在職すること數年、金紫光祿大夫を加えられた。尚書例であることは、元のままだった。

協性剛悍,與物多忤,每崇上抑下,故為王氏所疾。又使酒放肆,侵毀公卿,見者莫不側目。然悉力盡心,志在匡救,帝甚信任之。以奴為兵,取將吏客使轉運,皆協所建也,眾庶怨望之。及王敦構逆,上疏罪協。帝使協出督六軍。既而王師敗績,協與劉隗俱侍帝於太極東除,帝執協、隗手,流涕嗚咽,勸令避禍。協曰:「臣當守死,不敢有貳。」帝曰:「今事逼矣,安可不行!」乃令給協、隗人馬,使自為計。協年老,不堪騎乘,素無恩紀,募從者,皆委之行。至江乘,為人所殺,送首於敦,敦德刁氏,收葬之。帝痛協不免,密捕送協首者而誅之。

刁協の性格は剛悍で、ことあるごとに対立をした。いつも上(元帝)を崇拝し、下(臣下たち)を抑圧したから、王氏(王導と王敦ら)に嫌われた。また酒を好きなだけ飲み、公卿を侵毀(侮辱)したから、眉をひそめない人はいなかった。だが全力と全心を尽くし、国を救い正す志があったから、元帝は刁協をとても信任した。奴僕を兵にして、將吏の客を奪って自分のものにしたから、眾庶は刁協を怨んだ。
王敦が叛逆したとき、上疏して刁協の罪を訴えた。
〈訳注〉挙兵の口実であり、どっちに罪があるのかは闇の中。
元帝は、刁協に六軍を出撃・督戦させた。だが元帝軍が敗れると、刁協は劉隗とともに、太極東除で元帝に侍った。元帝は刁協と劉隗の手を取り、流涕嗚咽して、
「禍いを避けよ」
と命じた。刁協は言った。
「私は元帝を守って死にます。それ以外の道がありましょうか」
元帝は言った。
「いま事態は逼っている。どうして逃げないのか」
元帝は、刁協と劉隗のために、供回りの人と馬を与えて、逃げる準備をした。刁協は年老いていたから、騎乘に堪えられなかった。
平素から刁協に恩紀がなかったから、刁協に付けられた従者は、みな刁協を置いて行った。長江を渡る船着場で、刁協は殺された。首は王敦に送られた。王敦は刁氏を徳し、首を收めて葬った。
元帝は刁協を痛んで、官位を免じなかった。ひそかに刁協を捕らえ、首を王敦に送った人を誅殺した。

敦平後,周顗、戴若思等皆被顯贈,惟協以出奔不在其例。咸康中,協子彝上疏訟之。在位者多以明帝之世褒貶已定,非所得更議,且協不能抗節隕身,乃出奔遇害,不可複其官爵也。丹陽尹殷融議曰:「王敦惡逆,罪不容誅,則協之善亦不容賞。(中略)且中興四佐,位為朝首。于時事窮計屈,奉命違寇,非為逃刑。謂宜顯贈,以明忠義。」時庾冰輔政,疑不能決。左光祿大夫蔡謨與冰書曰:

王敦が平定されたあと、周顗、戴若思らはみな顯贈された。だが刁協だけが出奔したから、顯贈されなかった。
咸康中(335-342年)、刁協の子の刁彝は、上訴して(父に追贈してくれと)訴えた。現役の官人は、
「明帝の世について、臣下の褒貶はすでに定まっている。議論を蒸し返すことはできない。また刁協は抗節隕身せず(元帝に添い遂げて臣節を全うせず)に、出奔して殺害されたのだから、官爵をさらに与えるべきでない」
という意見が多かった。
丹陽尹の殷融が述べた。
「王敦の惡逆に対して罪は誅されず、また刁協の善に対しても賞されていません。(中略)刁協は東晋が成立したときの四佐で、位は朝廷でトップでした。状況が窮して計画が行き詰ったとき、元帝の命令を奉じて、敵の攻撃を避けただけです。刁協に逃亡の刑罰は適用されません。刁協に顯贈し、忠義を明らかにして下さい」
このとき庾冰が輔政していたが、迷って結論が出せなった。左光祿大夫の蔡謨は、庾冰に書を提出した。

「夫爵人者,宜顯其功;罰人者,宜彰其罪,此古今之所慎也。凡小之人猶尚如此,刁令中興上佐,有死難之名,天下不聞其罪,而見其貶,致令刁氏稱冤,此乃為王敦復仇也。(中略)
或謂明帝之世已見寢廢,今不宜複改,吾又以為不然。(中略)漢蕭何之後坐法失侯,文帝不封而景帝封之,後複失侯,武昭二帝不封而宣帝封之。(中略)宜顯評其事,以解天下疑惑之論。」
又聞談者亦多謂宜贈。凡事不允當,而得眾助者,若以善柔得眾,而刁令粗剛多怨;若以貴也,刁氏今賤;若以富也,刁氏今貧。人士何故反助寒門而此言之?足下宜察此意。


「そもそも人に爵位を与えるなら、その功績を顕らかにすべきです。人を罰するなら、その罪状を彰らかにすべきです。これは古今ずっと守られてきたことです。身分の低い人ですら、全て当てはまることです。まして刁協は東晋の中興を助けた人で、死難之名があり、天下で刁協の罪を聞きません。しかし刁協は、罪を着て貶められ、官位を贈られていません。これは王敦に殺されたからです。(中略)
明帝の時代の人物評価は、すでに固まったから改めないと聞きますが、私は改めて良いと考えます。(中略)漢代の蕭何は、法に違反して侯位を失いました。文帝は蕭何を封じませんでしたが、次の景帝は蕭何を侯に封じました。のちに蕭何はまた侯位を失いました。武帝と昭帝は、蕭何を封じませんでしたが、宣帝は蕭何を侯に封じました。(中略)刁協の評価を明らかにして、天下の疑惑之論を解いて下さい。
刁協への追贈を支持する人は、多いと聞いています。
もし不当な扱いを受けたとき、大衆の助けを得られるのは、善柔な人です。だが刁協は粗剛で、多くから怨まれています。身分が高ければ助けを得られますが、いま刁氏は身分が賤しい。もし富貴ならば助けを得られますが、いま刁氏は貧しい。人士はなぜ、わざわざ寒門の刁氏を助けるのでしょうか。どうぞこの意味をお察しになられますように」
〈訳注〉「刁協が追贈されるには、正当な理由があるからだ。人の感情に左右される問題ではない」と言いたいのだ。

冰然之。事奏,成帝詔曰:「協情在忠主,而失為臣之道,故令王敦得託名公義,而實肆私忌,遂令社稷受屈,元皇銜恥,致禍之原,豈不有由!若極明國典,則曩刑非重。今正當以協之勤有可書,敦之逆命不可長,故議其事耳。今可複協本位,加之冊祭,以明有忠於君者纖介必顯,雖於貶裁未盡,然或足有勸矣。」於是追贈本官,祭乙太牢。

庾冰は、左光祿大夫の蔡謨が言う通りだと思ったから、
「刁協に追贈をして下さい」
と上奏した。
成帝は詔した。
「刁協の心情は忠主にあり、命を落として臣之道をなした。王敦は名誉を得て、好き勝手に振る舞い、社稷を屈させ、元帝に恥をかかせた。王敦の禍いには、どうして理由のないことがあろうか。もし國典を極明すれば、刁協の刑は重くない。
いま刁協が王朝のために勤めたことを書き記すべきで、王敦が王命に逆らったことをダラダラ蒸し返してはいけない。だからテーマは、刁協の官位のみとする。刁協を生前のもとの官位に戻し、冊祭を加えよ。明をもって君主に忠がある人は、必ず名誉を受けられるのだ。刁協の評価は、とりあえずこの通りとする」
〈訳注〉生前よりも、死後の評価を巡る議論の方に、紙幅が割かれた列伝でした。国家が危機のときに取った行動を評価するのは、それだけ難しいということか。

刁彝
彝字大倫。少遭家難。王敦誅後,彝斬仇人党,以首祭父墓,詣廷尉請罪,朝廷特宥之,由是知名,曆尚書吏部郎、吳國內史,累遷北中郎將、徐兗二州刺史、假節,鎮廣陵,卒於官。

刁彝は、あざなを大倫という。若くして家が難に遭った。
王敦が誅されたあと、刁彝は(父の刁協を殺した)仇人の徒党を斬って、首を父の墓に祭った。廷尉に詣でて、仇討ちをした罪を請うた。だが朝廷は、特別に許した。
これによって名が知れ、尚書吏部郎、吳國內史を歴任し、かさねて北中郎將に遷り、徐兗二州刺史、假節となった。廣陵を鎮御し、在官のまま死んだ。
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このコンテンツの目次
『晋書』列39、元帝の逃げ場
1)劉隗-上
2)劉隗-下
3)劉隗の親戚
4)刁協、刁彝
5)戴若思
6)戴邈
7)周顗-上
8)周顗-下、周閔
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