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『晋書』列14、漢魏からの名族 3)海難の孫、李胤
李胤
李胤,字宣伯,遼東襄平人也。祖敏,漢河內太守,去官還鄉里,遼東太守公孫度欲強用之,敏乘輕舟浮滄海,莫知所終。胤父信追求積年,浮海出塞,竟無所見,欲行喪制服,則疑父尚存,情若居喪而不聘娶。後有鄰居故人與其父同年者亡,因行喪制服。燕國徐邈與之同州裏,以不孝莫大於無後,勸使娶妻。既生胤,遂絕房室,恆如居喪禮,不堪其憂,數年而卒。胤既幼孤,母又改行,有識之後,降食哀戚,亦以喪禮自居。又以祖不知存亡,設木主以事之。由是以孝聞。容貌質素,頹然若不足者,而知度沈邃,言必有則。

李胤は、あざなを宣伯という。遼東郡の襄平県の人である。
祖父の李敏は、漢代の河內太守だった。李敏は退職して郷里に還ったが、遼東太守の公孫度が、
「何としても李敏を使いたい」
と言い張ったので、李敏は輕舟に乗って滄海に浮んだ。李敏の最期を知る人はいない。
〈訳注〉すごい結末です。さすが「幽」州だけあって、危険がいっぱい。公孫度とは、董卓のときに遼東に派遣された人。孫の公孫淵が司馬懿に敗れるまで、夜郎自大します。
李胤の父は、李信である。行方不明になった李敏を追い求めて、年を重ねた。海に舟を浮べたり、塞外に出たりしたが、李敏は見つからない。喪に服そうとしたが、父が生きているかも知れないと疑っていた。李信の心情は服喪中のようなものだから、妻帯しなかった。
のちに親しい隣人で、父と同年齢の人が死んだとき、正式に喪制を行なった。
燕國出身の徐邈は、李信と同じ幽州の人である。徐邈は李信に説いた。
「子孫を残さないほどの不孝はないのだよ。妻をもらいなさい」
説得に応じて妻をもらい、李胤が生まれた。李胤を授かると、夫婦の部屋ををなくし、つねに喪中のように生活した。
〈訳注〉子が1人いれば、血筋の継承の役割を果たしたと言うつもりだろう。乳児死亡率の高い当時からすると、すごい暴挙だ(笑)
父の李敏を心配するストレスに堪えられず、李信は数年して死した。
李胤は、幼くして父を失い、母もいなかった(父が追っ払った)。物心がつくと、食はのどを通らずに哀戚した。喪禮に従って生活した。祖父の李敏の生死が分からないから、木主(位牌)を設けて、これに仕えた。李胤はこの行いにより、孝な人物だと知れ渡った。
李胤の容貌は質素で、貧しい人のように頽然としていた。しかし李胤は、沈邃を知り尽くし、発言は筋が通っていた。

初仕郡上計掾,州辟部從事、治中,舉孝廉,參鎮北軍事。遷樂平侯相,政尚清簡。入為尚書郎,遷中護軍司馬、吏部郎,銓綜廉平。賜爵關中侯,出補安豐太守。文帝引為大將軍從事中郎,遷禦史中丞,恭恪直繩,百官憚之。伐蜀之役,為西中郎將、督關中諸軍事。後為河南尹,封廣陸伯。泰始初,拜尚書,進爵為侯。胤奏以為:「古者三公坐而論道,內參六官之事,外與六卿之教,或處三槐,兼聽獄訟,稽疑之典,謀及卿士。陛下聖德欽明,垂心萬機,猥發明詔,儀刑古式,雖唐、虞疇諮,周文翼翼,無以加也。自今以往,國有大政,可親延群公,詢納讜言。其軍國所疑,延詣省中,使侍中、尚書諮論所宜。若有疾病,不任覲會,臨時遣侍臣訊訪。」詔從之。遷吏部尚書僕射,尋轉太子少傅。詔以胤忠允高亮,有匪躬之節,使領司隸校尉。胤屢自表讓,忝傅儲宮,不宜兼監司之官。武帝以二職並須忠賢,故每不許。

はじめ李胤は郡に仕えて、上計掾となった。次に州に召されて、部從事、治中となった。孝廉に挙げられ、鎮北軍事に參じた。樂平侯相に遷った。李胤の政治は、清簡を尚んだ。
洛陽に入り、尚書郎となり、中護軍の司馬に遷った。吏部郎となり、綜て廉平な人を銓した。
〈訳注〉「銓」とは、計量すること。発展させて、人物の才能を見て選ぶこと。李胤は、自分でもシンプルで清らかな政治をしたが、人選の基準も同じだった。「国政の理想は、君主がいないかのごとく治まること」を志したのか。夜警国家に通じ、、ないか。
李胤は、關中侯の爵位を賜り、洛陽から出て安豐太守になった。
司馬昭は、李胤を召して大將軍の從事中郎とした。禦史中丞に遷った。李胤は恭恪で直繩だから、百官は李胤を憚った。
伐蜀之役のとき、李胤は西中郎將となり、關中の諸軍事を督した。のちに河南尹となり、廣陸伯に封じられた。泰始初(265年)、李胤は尚書を拝し、侯に爵位を進めた。李胤は上奏した。
「古え三公は坐して道を論じ、内に六官之事に參じ、外に六卿之教を與う。或いは三槐を處し、兼ねて獄訟を聽き、稽疑之典、謀は卿士に及ぶ。陛下の聖德は欽明にて、萬機に心を垂れ、猥りに明詔を發す。儀刑は古式なり。唐・虞の疇諮、周文の翼翼と雖も、以て加ふる無きなり。今より往を以て、國に大政あり。群公を親延し、讜言を詢納すべし。その軍國の疑う所、省中を延詣し、侍中・尚書をして諮論せしめ宜ぜらる。若し疾病あらば、覲會を任ぜず。時に臨みて侍臣を遣り、訊訪すべし」
〈訳注〉翻訳を放棄です。きちんと政治をしろ、間違いがあったら是正しろ、と一般論に近いことを、難しい言葉で言っている。何となしに語句を繋ぎ、意訳らしきは作れるが、やめました。
詔があり、李胤の意見に従った。
吏部尚書僕射に遷り、太子少傅に転じた。
詔があった。
「李胤は、忠允高亮であり、匪躬之節(曲げてしまわない節度)があるから、司隸校尉を領ねよ」
李胤はしばしば上表して辞退した。
「私はかたじけなくも太子少傅として、洛陽に役所を設けています。監司之官と兼務するのは良くありません」と。
〈訳注〉取り締まる人と、取り締まられる人が同じでは、牽制が成り立たない。近現代にも通じる正論だ。
武帝は、太子少傅も司隷校尉もどちらも忠賢な(李胤みたいな)人が就くべきだとして、李胤の断りを却下した。

咸甯初,皇太子出居東宮,帝以司錄事任峻重,而少傅有旦夕輔導之務,胤素羸,不宜久勞之,轉拜侍中,加特進。俄遷尚書令,侍中、特進如故。胤雖曆職內外,而家至貧儉,兒病無以市藥。帝聞之,賜錢十萬。其後帝以司徒舊丞相之職,詔以胤為司徒。在位五年,簡亮持重,稱為任職。以吳會初平,大臣多有勳勞,宜有登進,乃上疏遜位。帝不聽,遣侍中宣旨,優詔敦諭,絕其章表。胤不得已,起視事。

咸甯初(275年)、皇太子は東宮に移り住んだ。司法業務には峻重な人が適任だから、武帝は李胤を用いた。だが少傅は、朝も夕も太子と付き合って、輔導する務めがある。李胤は疲れて痩せてしまい、長時間勤務には相応しくなかった。
李胤は少傅を退き、侍中を拝して、特進に進めた。
〈訳注〉「羸」とは、疲れて痩せてグッタリすること。始皇帝の姓とは、少しだけ字が違うのです。
李胤はにわかに尚書令に遷った。侍中と特進は元のままだった。
李胤は内外の職種を歴任したが、家は貧乏で、子が病気になっても薬を購入する金がなかった。武帝はこれを聞き、錢十萬を賜った。その後武帝は、司徒にかつての丞相の職能を割りあて、李胤を司徒にせよと詔した。在位五年、李胤は簡亮で持重し、務めぶりを称えられた。
孫呉が平定されると、大臣の勲功を労い、位の登進を許された。だが李胤は遠慮した。武帝は許さず、侍中に宣旨を持たせて、じっくり説得をした。武帝は、李胤からの上表を受け取らなくなった。李胤はやむを得ず、武帝からの詔を見た(位の登進を受け入れた)。

太康三年薨,詔遣禦史持節監喪致祠,諡曰成。 皇太子命舍人王贊誄之,文義甚美。帝后思胤清節,詔曰:「故司徒李胤,太常彭灌,並履忠清儉,身沒,家無餘積,賜胤家錢二百萬、穀千斛,灌家半之。」三子,固、真長、修。固字萬基,散騎郎,先胤卒,固子志嗣爵。志字彥道,曆位散騎侍郎、建威將軍、陽平太守。真長位至太僕卿。修黃門侍郎、太弟中庶子。

太康三(282)年、李胤は薨じた。詔して禦史を遣わし、持節して喪を監し祠を致させた。李胤は「成」とおくり名された。
皇太子は舍人の王贊に命じて、李胤への弔文を書かせた。文義は、甚だ美だった。帝后(楊氏)は、李胤の清節を思って詔した。
「もと司徒の李胤、太常の彭灌は、どちらも忠を実行した清儉な人だ。彼らの死後、家には余分な貯蓄がない。李胤の遺族に錢二百萬、穀千斛を与えよ。彭灌の遺族には、その半分を与えよ」
李胤には、三子がいた。李固、李真長、李修である。
李固は、あざなを萬基といい、散騎郎になったが、李胤より先に死んだ。李固の子である李志が、爵位を嗣いだ。李志は、あざなを彥道という。散騎侍郎、建威將軍、陽平太守を歴任した。
次男の真長は、位が太僕卿まで到った。
三男の李修は、黄門侍郎、太弟中庶子となった。

特別にキャラが立つエピソードはなく、武帝が公に私に、気をかけた人ということか。
祖父が海の彼方に消えて、父が気が気じゃなくて早死にした話の方が、よほど面白い(笑)
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このコンテンツの目次
『晋書』列14、漢魏からの名族
1)司馬昭が脅した鄭袤
2)武帝と同格、鄭黙
3)海難の孫、李胤
4)ミニ曹操、盧欽
5)成都王の頭脳、盧志
6)晋臣にこだわる盧諶
7)魏恩を忘れぬ華表
8)王導の口利き、華恆
9)歴史家の華嶠
10)街で暮らせぬ石鑒
11)温恢の孫、温羨
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