いつか書きたい『三国志』
三国志キャラ伝
登場人物の素顔を憶測します
『晋書』と『後漢書』口語訳
他サイトに翻訳がない列伝に挑戦
三国志旅行記
史跡や観光地などの訪問エッセイ
三国志雑感
正史や小説から、想像を膨らます
三国志を考察する
正史や論文から、仮説を試みる
自作資料おきば
三国志の情報を図や表にしました
企画もの、卒論、小説
『通俗三国志』の卒業論文など
春秋戦国の手習い
英雄たちが範とした歴史を学ぶ
掲示板
足あとや感想をお待ちしています
トップへ戻る

(C)2007-2009 ひろお
All rights reserved. since 070331
『晋書』列14、漢魏からの名族 10)街で暮らせぬ石鑒
石鑒
石鑒,字林伯,樂陵厭次人也。出自寒素,雅志公亮。仕魏,曆尚書郎、侍御史、尚書左丞、禦史中丞,多所糾正,朝廷憚之,出為並州刺史、假節、護匈奴中郎將。武帝受禪,封堂陽子。入為司隸校尉,轉尚書。時秦、涼為虜所敗,遣鑒都督隴右諸軍事,坐論功虛偽免官。後為鎮南將軍、豫州刺史,坐討吳賊虛張首級。詔曰:「昔雲中守魏尚以斬首不實受刑,武牙將軍田順以詐增虜獲自殺,誣罔敗法,古今所疾。鑒備大臣,吾所取信。往者西事,公欺朝廷,以敗為得,竟不推究。中間黜免未久,尋複授用,冀能補過,而乃與下同詐。所謂大臣,義得爾乎!有司奏是也,顧未忍耳。今遣歸田裏,終身不得複用,勿削爵土也。」久之,拜光祿勳,複為司隸校尉,稍加特進,遷右光祿大夫、開府,領司徒。前代三公冊拜,皆設小會,所以崇宰輔之制也。自魏末已後,廢不復行。至鑒,有詔令會,遂以為常。太康末,拜司空,領太子太傅。

石鑒は、あざなを林伯という。樂陵郡は厭次県の人だ。
出自は賤しい家柄だが、雅志は公亮としていた。
魏に仕えて、尚書郎、侍御史、尚書左丞、禦史中丞を歴任した。石鑒は、大いに不正を糾したので、朝廷は石鑒をはばかった。石鑒は(煙たがられて)出でて並州刺史となり、假節、護匈奴中郎將。
武帝が受禪すると、堂陽子(爵)に封じられた。洛陽に入りて司隸校尉となり、尚書に転じた。
ときに秦州と涼州では、官軍が異民族に敗れて捕虜になった。
〈訳注〉西晋の平呉が進まなかったのは、涼州方面がキナ臭かったからだ。賈充は、涼州方面に赴任させられそうになり、涙目で逃れたほどだ。統治は、全くうまくいってない。
石鑒は、都督隴右諸軍事になった。戦功についてウソの報告をしたとして、免官された。
のちに鎮南將軍となり、豫州刺史となった。呉賊の張氏の首級を討ち取ったとウソをついた。
詔に曰く、
「むかし雲中太守の魏尚は、ウソをついた罪を斬首で償った。武牙將軍の田順は、捕虜の数を水増しして報告したから、自殺した。虚偽の報告は、古今ずっと忌まれていることだ。
石鑒は重き臣であるから、信じて用いた。だが、西事(涼州と秦州の軍役)では、公けに朝廷を欺いて、敗れたのに勝ったと言い、ついに追及を逃れた。免官されたが、短期間で再び授用された。石鑒は、過ちをよく補ったのに、またウソをついた。
大なる臣という言葉の意味は、石鑒に当てはまるだろうか(いいや落第だ)。有司は石鑒の罪を上奏するが、今までの石鑒の活躍を思えば、忍びない。田里に帰らせ(在野に下らせ)、死ぬまで二度と石鑒を用いないだろう。(公職からの永久追放だけで、充分な刑罰だと見なし)石鑒から爵土を削りはしない」
〈訳注〉石鑒は、魏代に不正を糾弾していた。晋代に人がガラリと変わったのか。違うだろう。周囲にハメられたのだ。晋朝って、直情の人が生きられない場所だ。武帝はそれを分かっていて、群臣を納得させつつも、刑を緩めたんだ。
久しくして、石鑒は光祿勳を拝し、ふたたび司隸校尉なった。しばらくして特進を加えられ、右光祿大夫に遷って開府し、司徒を領ねた。
前代(魏代)に三公となると、みな小會(小さな集まり?)を設けて、宰輔之制を崇んだ。魏末から以後は、この慣例は廃して行なわれなかった。だが石鑒は三公に任じる詔をもらうと、會を開いた。石鑒からのち、會を設けることが一般的になった。
〈訳注〉「會」というのが分からないが、「会わしめた」と書いてあるから、「人を集めて一同に会させた」と理解すれば、大きなズレはないかも。人を集めて、三公になって輔政できることを祝わせたのか。
太康末(289年)、石鑒は司空を拝して、太子太傅を領ねた。

武帝崩,鑒與中護軍張劭監統山陵。時大司馬、汝南王亮為太傅楊駿所疑,不敢臨喪,出營城外。時有告亮欲舉兵討駿,駿大懼,白太后令帝為手詔,詔鑒及張劭使率陵兵討亮。劭,駿甥也,便率所領催鑒速發,鑒以為不然,保持之,遣人密覘視亮,已別道還許昌,於是駿止,論者稱之。山陵訖,封昌安縣侯。元康初,為太尉。年八十餘,克壯慷慨,自遇若少年,時人美之。尋薨,諡曰元。子陋,字處賤,襲封,曆屯騎校尉。

武帝が崩じると、石鑒は中護軍の張劭とともに、山陵を監統した。
〈訳注〉武帝を埋葬するディレクターになったのだ。
ときの大司馬で汝南王の司馬亮は、太傅の楊駿に(権力への野心について)疑われていた。だから司馬亮は、武帝の喪に臨まず、幕営に出て城外にいた。
「司馬亮は挙兵して、楊駿を討つ気だ」
というウワサが流れたから、楊駿は大いに懼れた。太后(楊駿の娘)は、恵帝に手ずから詔を書かせた。その詔とは、
「石鑒と張劭は、陵兵を率いて司馬亮を討て」
というものだった。
張劭は、楊駿の甥にあたる。張劭は詔を受け取ると、
「今すぐ、司馬亮を討つべきだ」
と、乗り気だった。
〈訳注〉『晋書』の筆者は、「張劭は楊駿の姻族だから、楊駿と利害が一致するのだ」と言いたいらしい。短絡的だ(笑)
「だめだ、急いではいけない。陵兵は留めておけ」
石鑒は、はやる張劭に歯止めをかけた。
石鑒はひそかに人を遣わし、司馬亮の様子を伺った。司馬亮はすでに別道から、許昌に還っていた。だから楊駿は(司馬亮の討伐を)諦めた。人々は、石鑒の判断を称えた。
武帝の山陵が完成すると、石鑒は昌安縣侯に封じられた。
元康初(291年)、石鑒は太尉になった。年は八十余歳だったが、克壯慷慨、まるで若者のようだったから、時の人は石鑒を賛美した。
石鑒は薨じて、「元」とおくり名された。
子は石陋で、あざなを處賤という。封地を継ぎ、屯騎校尉などを歴任した。

あとは温羨伝を読めば、この巻は終わりです。一巻をまるまる訳そうとすると、けっこうつらい。
前頁 表紙 次頁
このコンテンツの目次
『晋書』列14、漢魏からの名族
1)司馬昭が脅した鄭袤
2)武帝と同格、鄭黙
3)海難の孫、李胤
4)ミニ曹操、盧欽
5)成都王の頭脳、盧志
6)晋臣にこだわる盧諶
7)魏恩を忘れぬ華表
8)王導の口利き、華恆
9)歴史家の華嶠
10)街で暮らせぬ石鑒
11)温恢の孫、温羨
inserted by FC2 system