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『晋書』列伝34、武帝と元帝の子 1)恵帝の兄弟
列傳第三十四
武十三王元四王簡文三子
武帝二十六男:楊元後生毗陵悼王軌、惠帝、秦獻王柬。審美人生城陽懷王景、楚隱王瑋、長沙厲王乂。徐才人生城陽殤王憲。匱才人生東海沖王祗。趙才人生始平哀王裕。趙美人生代哀王演。李夫人生淮南忠壯王允、吳孝王晏。莊保林生新都懷王該。陳美人生清河康王遐。諸姬生汝陰哀王謨。程才人生成都王穎。王才人生孝懷帝。楊悼後生渤海殤王恢。餘八子不顯母氏,並早夭,又無封國及追諡,今並略之。其瑋、乂、穎自有傳。

武帝には二十六男があった。
〈訳注〉AAB王Cという呼び方が出てくるが、AAは封じられた国名、Bは生き様を評価した諡号、Cは名です。皇帝が司馬姓だから、省略されていますが、この巻に登場する王も司馬姓です。
楊元后が生んだのは、毗陵悼王軌、惠帝、秦獻王柬である。
〈訳注〉恵帝の同母兄弟の優劣が気になるところ。
審美人が生んだのは、城陽懷王景、楚隱王瑋、長沙厲王乂である。
〈訳注〉外れクジを引かされた司馬瑋と司馬乂は同母兄弟か!広義の八王の乱で、母が同じなのはこの2人だけだ。
徐才人が生んだのは、城陽殤王憲である。
匱才人が生んだのは、東海沖王祗である。
趙才人が生んだのは、始平哀王裕である。
趙美人が生んだのは、代哀王演である。
李夫人が生んだのは、淮南忠壯王允、吳孝王晏である。
莊保林が生んだのは、新都懷王該である。
陳美人が生んだのは、清河康王遐である。
諸姫が生んだのは、汝陰哀王謨である。
〈訳注〉「諸」は姓だ。「もろもろ」ではない。
程才人が生んだのは、成都王穎である。
王才人が生んだのは、孝懷帝である。
楊悼后が生んだのは、渤海殤王恢である。
あと8人の男子は、母が明らかではなく、夭折したから封國と追諡がない。だからここでは省略する。楚隱王瑋、長沙厲王乂、成都王穎は、専伝を持っているから、ここでは書かない。
〈訳注〉自前の列伝があるのは名誉だが、この3人については「八王」に括られているんだから、名誉ではない。

司馬軌
毗陵悼王軌,字正則,初拜騎都尉,年二歲而夭。太康十年,追加封諡,以楚王瑋子義嗣。
毗陵悼王軌は、あざなを正則といい、はじめ騎都尉を拝したが、2歳で死んだ。
〈訳注〉恵帝の同母兄だが、2歳じゃ才能は不明だ。
太康十(289)年、封諡が追贈された。楚王瑋の子、司馬義が毗陵王を嗣いだ。

司馬柬
秦獻王柬,字弘度,沈敏有識量。泰始六年,封汝南王。咸甯初,徙封南陽王,拜左將軍、領右軍將軍、散騎常侍。武帝嘗幸宣武場,以三十六軍兵簿令不料校之,東一省便擿脫謬,帝異之,于諸子中尤見寵愛。以左將軍居齊獻王故府,甚貴寵,為天下所屬目。性仁訥,無機辯之譽。太康十年,徙封于秦,邑八萬戶。于時諸王封中土者皆五萬戶,以柬與太子同產,故特加之。轉鎮西將軍、西戎校尉、假節,與楚、淮南王俱之國。

秦獻王柬は、あざなを弘度という。沈敏で知識が豊かだった。泰始六(270)年、汝南王に封じられた。咸甯初(275年)、南陽王に移された。左將軍を拝し、右軍將軍と散騎常侍を領ねた。
武帝はかつて宣武場に行幸したとき、三十六軍の兵簿をチェック&校正していなかったが、司馬柬だけは東軍にヌケがあることをすぐに指摘した。武帝はすごいと喜び、諸子の中で司馬柬を最も寵愛した。
〈訳注〉「最も」の比較の中に、司馬衷(のちの恵帝)はいるのか(笑)
左將軍(司馬柬)は、齊獻王(司馬攸)の旧府に住んで、甚だ貴寵されていたから、天下に属目された。
司馬柬は、性が仁訥で、機辯之譽はなかった(素朴で口下手だった)。
太康十(289)年、秦に封国を移された。邑は八萬戸。このとき中原に任地を与えられた諸王は、みな五萬戸だった。司馬柬が太子の同母弟だから、特別待遇だったのだ。鎮西將軍に転じ、西戎校尉、假節。楚王の司馬瑋と、淮南王の司馬允とともに任国に下った。

及惠帝即位,來朝,拜驃騎將軍、開府儀同三司,加侍中、錄尚書事,進位大將軍。時楊駿伏誅,柬既痛舅氏覆滅,甚有憂危之慮,屢述武帝旨,請還籓,而汝南王亮留柬輔政。及亮與楚王瑋被誅,時人謂柬有先識。
元康元年薨,時年三十,朝野痛惜之。葬禮如齊獻文王攸故事,廟設軒懸之樂。無子,以淮南王允子鬱為嗣,與允俱被害。永寧二年,追諡曰悼。又以吳王晏子鄴嗣。懷帝崩,鄴入纂帝位,國絕。


惠帝が即位すると、來朝した。驃騎將軍を拝し、開府儀同三司、侍中を加えられ、錄尚書事、大將軍に進んだ。
外戚の楊駿が伏誅されたとき、司馬柬は母方の一族が覆滅されるのを痛んで、ひどく憂危之慮を抱いた。だから、しばしば武帝の遺志を述べて、秦国に帰ることを願い出た。しかし汝南王亮が、司馬柬を留めて輔政に当たらせた。
〈訳注〉「武帝旨」とは、諸王が任国にいて、晋朝の藩屏になること。
司馬亮と司馬瑋が誅されると、ときの人は司馬柬の先識(先見の明)をほめた。
〈訳注〉頭の回転は速くないんだから、「先識」というよりは逃げようとしただけだ。積極的に評価するまでもない。
元康元(291)年、薨じた。享年は30歳。朝野は司馬柬の死を痛惜した。葬禮は、齊獻文王攸の故事にならって、廟には軒懸之樂を設けた。
〈訳注〉武帝の同母弟が司馬攸で、恵帝の同母弟が司馬柬だ。同列に祭っても、全く支障はない。
司馬柬には子がなかったから、淮南王允の子である司馬鬱に嗣がせた。だが司馬鬱は、父の司馬允とともに殺害された。
〈訳注〉斉王と張り合った秦王の家柄が、まるで冴えないのは寂しいことです。秦王が強ければ、八王の乱は、きっともっと酷くなった(笑)
永寧二(302)年、「悼」と追諡された。呉王晏の子である司馬鄴に、秦王を嗣がせた。懷帝が崩じると、司馬鄴は皇帝になった。秦国は絶えた。
〈訳注〉愍帝は、血筋は恵帝の甥だが、任国の系譜からは、恵帝の同母弟の義孫だ。

司馬景
城陽懷王景,字景度,出繼叔父城陽哀王兆後。泰始五年受封,六年薨。
城陽懷王景は、あざなを景度という。叔父で城陽哀王兆の後を継いだ。泰始五(269)年、城陽王を受封したが、翌年に薨じた。
〈訳注〉司馬瑋と司馬乂の同母兄だ。

司馬祗
東海沖王祗,字敬度,泰始九年五月受封。殤王薨,複以祗繼兆,其年薨,時年三歲。
東海沖王祗は、あざなを敬度という。泰始九(273)年5月に、東海王を受封した。殤王が薨じると、司馬祗にも司馬兆を継がせたが、その年に薨じた。3歳だった。

司馬裕
始平哀王裕,字濬度,咸寧三年受封,其年薨,年七歲。無子,以淮南王允子迪為嗣。太康十年,改封漢王,為趙王倫所害。

始平哀王裕は、あざなを濬度という。咸寧三(277)年に始平王を受封した。その年に薨じた。7歳だった。子がなかったから、淮南王允の子である司馬迪に、始平王を嗣がせた。太康十(289)年、漢王に改封されたが、趙王倫に殺害された。
〈訳注〉定型文とは言え、7歳で死んどいて「無子」と記す必要はあるのか(笑)

司馬允
司馬允は、すでにこのサイトで翻訳済なので、そちらをご覧下さい。その下の弟たちの列伝に続きます。
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このコンテンツの目次
>『晋書』列伝34、武帝と元帝の子
1)恵帝の兄弟
2)愍帝の父親は最劣
3)元帝は孫権の二の舞?
4)東海国と瑯邪国
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