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贈与に関する理論など

阪大図書館で、伊藤幹治『贈与交換の人類学』筑摩書房1995
を抜粋する。食堂の天津麻婆飯が多すぎて、腹が気持ち悪い。

この本は、桜井英治『贈与の歴史学/儀礼と経済のあいだ』中公新書2011という、日本中世史の本で、参考文献にあげられていた。だから読むことにした。


まえがき_002

日本の事例を視野におさめて、新しい文化人類学の理論をめざす。
1部1章では、贈与交換の基本概念のひとつ「互酬性」に注目する。グールドナー、サーリンズの互酬性のモデルを検討する。マッコーマックを手掛かりに、互酬性が交換の基礎概念である(交換が互酬性の基礎概念でない)ことを強調した。
2章では、ブラウの社会的交換論と、グレゴリーの贈与交換論を手掛かりに、贈与交換を「交換当事者の友情や信頼に根差した人格的関係に基づくモノのやりとり」と規定する。贈与交換の類型は、直接的交換と間接的交換の二分法を基調とする。直接的交換を分析する上で、同調と競合、均衡と不均衡という対立概念が有効である。と指摘した。
3章は、ミクロネシア等。同調原理が作動すると、交換当事者のあいだで不均衡が調整されて、その極小化が図られる。その逆に、競合原理が作動すると、均衡が意図的に 否定され、不均衡の極大化が図られる。
贈与交換は、交換当事者が、一方では相互に均衡を意図しながら、他方では相互に不均衡を創出するというメカニズムを内在している。
交換財に付与される象徴的価値が、異なった財とのやりとりを可能にする。同時に、財の実質的価値の変換を容易にして、その不等価性を調整するはたらきをもつ。

2部1章は、日本の贈与交換が、どのような普遍性と個別性をもつか。食物の「贈答」がおおく、贈物の実用的価値が重視される。また、共時的交換と通時的交換という類型を設定する。共時的交換では不均衡がめだつ。通時的交換には均衡化がみられる。
「義理」を、互酬性の規範と規定する。義理が、贈与と返済とを一体化すると同時に、交換当事者間の不均衡を調整し、その極小化をはかる同調原理と、相補関係にある。
2章では、デュルケムの聖俗理論、ハレ・ケ・ケガレをめぐる民族的モデルを検討。非日常的世界と日常的世界が、相互転換の原理にもとづいて相対的対立にある。

3部は、比較文化論的視点から、日本社会にひろく用いられる、婚礼や葬式の祝儀帳や不祝儀帳、オウツリやオタメという即自的返済の慣習、市場経済に埋め込まれた現代文明社会の贈与経済。
4部は、神と神を祀る人の関係を、近畿地方の農村から検討。
1章。人間同士の交換には、互酬性の原理によって、当事者間に返済の義務が潜在している。神と人の間には、返済の義務が内在しない。返済の義務を強いられるのは、神の恩寵を受けたと信じ、あるいは受けたいと希求する人間のほうである。恩寵という神の返済を期待して、神に犠牲や供物を奉献する。実質的な交換関係が成り立っているとは言い難いが、返済の期待を基調にしている贈与交換である。

ゴドリエの4つめの義務は、どういう贈与だっけ。「期待を基調にしている」んじゃなかったか。帰ったら、読み替えそう。

2章では、ストロースの限定交換と一般交換を再解釈した、Pエケの社会的交換論を検討する。エケは一般交換を、平等性と信頼を前提とする概念と規定した。また、網状の一般交換という類型をエケが設定した点から、伊藤氏は近畿の祭祀を分析した。

1部 贈与交換理論の検討

1章 贈与交換における互酬性の概念_021

モース『贈与論』1925、マリノフスキー『西太平洋の遠洋航海者』1922から、互酬性の概念を再検討する。
モース曰く、財産や富、動産や不動産など経済的に有用なもの、宴や儀式、舞踏、軍事的奉仕、扶助、子供、市などがやりとりされる。無文字社会における交換を、経済的なものであると同時に、宗教的なもの、法的にして道徳的、政治的にして家族的、功利的にして情緒的、審美的なものと規定した。1973
モースは、相互に関連した一連の制度の複合体を「全体的社会事実」もしくは「一般的社会事実」と捉え、交換の原初形態と見なした。とくに、贈与と返済という、「全体的給付のシステム」が、一定の道徳的義務を前提にしている点に注目した。
提供、受納、返済、という3つの義務がある。競合的交換のポトラッチ、儀礼的交換のクラを紹介した。

マリノフスキーも、クラ交換が経済的制度(富と有用物の交換)であると同時に、儀礼的交換(神話と伝統的な法、呪術的な儀礼)でもある。

以下、マリノフスキーを「マリノ」とする。

マリノは、交換財の象徴的価値に注目した。腕輪と首飾は装飾品であり、ふだんは大切に保管されるものだ。
マリノは、クラ交換の規則や原理を析出し、贈与交換論を方向づけた。交換は、決まった相手と行う。当事者のあいだで長期保有されてはいけない。
クラの原理2つ。贈与する品物、返礼する品物は、相手に任せられ、品物選びを強制できない。クラ交換には、等価返済の期待がみられる。等価交換が、クラ交換の基調である。
マリノは、モースのいう3つの義務(贈与・受納・返礼)の背後にひそむ原動力を、互酬性だと見なした。 マリノ以後、互酬性という概念は混乱した。サーリンズ、マッコーマックを検討する。

◆1節 互酬性の2つのモデル_025
グールドナーのモデル。互酬性と相補性という、2つの概念。
相補性は、自己の権利が他者の義務、自己の義務が他者の権利であるとあらわす。互酬性は、それぞれの当事者が、権利と義務をもつ。

相補性は、ただ言い換えただけ。裏返しただけ。分かりやすい。では互酬性って、どういうことだろう?

互酬性には、受けた恩恵に対する返済としての道徳的義務を規定する、より一般化された道徳的規範がある。これを互酬性の規範であるとした。
グールドナーの互酬性の規範を、贈与交換論の文脈におく。恩恵を受け、それを受け取った場合だけ、返済の義務が生じる。グールドナーの互酬性は、モースの3つめの義務(返礼する)だけに関連する。グールドナーは、モースの前2つの義務を強調せず、実利主義的な3つめの義務だけを強調した。
グールドナーの互酬性は、贈与交換論においては適切でない(と伊藤氏は考える)。だがグールドナーが、互酬性を、交換当事者としての、自己と他者との関係と見なした点は注目すべきだ。

サーリンズのモデル。サーリンズの互酬性論は、互酬性と財の集中、または再分配の概念上の区別からひろがる。経済的な互換活動は、互酬性と財の集中、または再分配という、2つの配列に類別できる。財の集中を集団内部の関係、互酬性を2人の当事者間の作用と反作用というあいだの関係とする。
互酬性は、交換当事者間の関係である。互酬性は、交換の全種類を含む、交換形態の連続体である。
一方の極には、惜しみなく与える袁敘や、日々の親族や友人、近隣関係の小規模な流通がある。マリノが「純粋贈与」とよんだもの。他方の極には、利己的な強奪など。2つの極の間隔は、社会性の開きをあらわす。互酬性の距離は、社会的距離にほかならない。
親族の居住権の距離に比例して、互酬性が2つの極のいずれかに傾斜する。サーリンズが設定した、一般的互酬性、均衡的互酬性、否定的互酬性という3つの型は、以上の考え方に基づく。
一般的互酬性は、近い親族関係に見られる食物の自発的な贈与。返済が期待されない。均衡的互酬性は、婚礼のやりとり、友人間の契約。等価が返済される互酬性である。否定的互酬性は、非親族のあいだの交渉や詐欺、窃盗など。功利主義的な利益を目的とした互酬性。(返済してあげない)
一般的と均衡的をくらべると、前者では均衡という観念が意識のなかに潜在するが(返せと言わない)、後者では均衡という観念が意識のなかに顕在する(返せという)。
サーリンズは、交換当事者の関係を持続する上で、均衡の欠如(=不均衡)が重要な意味をもつと考えた。

伊藤氏に興味があるのは、サーリンズが互酬性の3つの型を、交換の同義語と見なしたこと。

3つも「交換」なんだよ!とサーリンズが言い、伊藤氏が着目した。

サーリンズは、一般的互酬性を、利他主義的な互換活動、均衡的互酬性を直接的交換、否定的互酬性を、もっとも非人格的な種類の交換と見なした。つまりサーリンズは、互酬性を、交換という行為のレベルでとらえる。この点は、グールドナーの「互酬性は、権利と義務という道徳的観念に根ざした、自己と他者の関係である」という規定と鋭く対立する。

グールドナーの「互酬性は関係である」と、サーリンズの「互酬性は交換行為である」という、2つが対立したのだ。節の名に、戻ってきました。

グールドナーとサーリンズの対立を、マッコーマックで整理する。

◆2節 互酬性の原理と規範_029
マッコーマックは、2つの議論に着目する。
1つ。互酬性の原理が、贈与と返済の等価を意味する。あるいは互酬性が、等価の原理の同義語である。いずれも、互酬性を等価と解釈しているが、均衡モデルと不可分の問題である。
2つ。等価の返済という側面を重視する。互酬性の原理を、等価の返済のための、原動力もしくは強制力とする。この議論の背後にも、互酬性の原理によって、交換当事者間の均衡または対等の関係が維持される、という均衡観念が潜在する。

サーヴィスは「贈与という言葉には、互酬よりも慈悲の響きがつよい」という。ユダヤ=キリスト教の伝統に根ざした、宗教的義務という感じである。ムスリム社会にもある。関連する研究はおおい。はぶく。

◆おわりに_037
「互酬性を、原理とするか、規範とするか」という議論に集約できる。研究者の視点にかかわる。

互酬性を論じるなら、どちらに近いか、立ち位置を示すべきだ。

ファースは、返済の義務を互酬性の核とする。グールドナーは、返済としての道徳的義務を規定するものを規範とする。ファンバールは、互酬性を、当為や期待をともなった行動原理、もしくは普遍的原理とした。
贈与と返済という社会的相互作用をどのようにとらえ、どこに焦点をすえるか、ということに関わる。
互酬性の原理は、贈与と返済を当事者間の社会的行動ととらえ、背後に潜在すると予測される原動力に視点を据えている。互酬性の規範は、贈与と返済を当事者間の社会関係ととらえ、その関係の背後にひそむ道徳的規範に視点を据えている。
いずれの視点にしても、互酬性に内在する義務感覚とは、リーチが指摘するように、贈る側も返す側も、同じ社会システムに所属しているという、相互の感情の表明である。

サーリンズは、互酬性と交換行動を同じこととした。だが、互酬性は交換行動の基礎概念であって、その逆ではない。互酬性は、贈与・受贈・返済という、交換行為の基礎となる。しかも3つの義務のあり方を、総体として規定する。

モースの3の義務は、いろんな訳語があるなあ。「贈与」という、似た意味の動詞を重ねるなら、「受納」「返報」がいいかな。「受贈」「返礼」は、VOになっており、「贈与」とキレイな対句にならない。
ぼくはこういう、理論的な検討を読みたかった。ぴったり!


2章 贈与交換の位相_039

リブラをバースの交換論で再解釈すると、「AがxをBに与え、Bがxを受け取り、BがAに反対給付としてyを返す」となる。交換に従事する当事者と、当事者の間でやりとりされる財と、2つの基本要素からなる。
当事者の関係は、2つに分かれる。
1つ、AとBのあいだに、売る、買う、支払う、という非人格的行為にもとづいて成立する関係。 経済的交換、市場交換、商品交換に従事する当事者があたる。
2つ、AとBのあいだに、与える、受けとる、返すという、人格的行為にもとづいて成立する関係。社会的交換、贈与交換に従事する当事者。もの、サービス、情報、助言など、手段的なものと、愛情、薊尉などの表出的なものがある。

ブラウの社会的交換論。商品交換と対比させて贈与交換のメカニズムを追求した、グレゴリーの贈与交換論。贈与交換が、交換一般のなかでどのような位置を占め、どのような性格をもつか検討する。

◆1節 2つの贈与交換論_040
ポランニーが、交換と互酬性を、範疇のうえで区別した。市場交換と社会的交換の関係は、交換理論の主題の1つである。ポランニーは、交換=市場交換、互酬性=親族や友人間の義務的贈与、とした。
経済的交換としての市場交換と、社会的交換は、ちがう概念である。市場交換と社会的交換は、交換領域や、承認の価格という点で異なるから。 市場領域の「通貨」は、社会的領域では必ずしも有効でない。商品の価格は、市場交換では熟知されているが、社会的交換では正確な価格がはっきりしない。

「かたたたき券」という「通貨」は「価格」があいまい!


◇ブラウの社会的交換論_040
ブラウによると、他者Bに報酬とされるサービスを提供する個人Aは、その他者Bに義務を負わせる。この義務を果たすためには、Bはお返しとしてAに利益を提供しなければならない。1974

モースから、どれだけ進んだんだ?

ブラウが強調するのは、交換当事者の返済義務である。グールドナーがいう互酬性の規範、ファースのいう互酬性の原理とおなじ。
グールドナーは互酬性を、自己と他者の権利と義務の関係とした。供与された恩恵に対する返済として、道徳的義務を規定する、より一般的な道徳的規範を、互酬性の規範とした。返済の義務が、グールドナーの中核だった。
ファースは、与えられた財に対する返済の義務を重視した。これを互酬性という概念でとらえた。

グールドナーは、さっき同じ話を引用したところ。ファースは1章では引用を省いてしまったが、まとめに出てきた。

ブラウは、返済の義務を、交換の基本原理と見なした。社会的交換を、返済によって動機づけられた、諸個人の自発的行為と規定した。
しかし、返済の義務は、社会的交換だけでなく、経済的交換にもある。ブラウ曰く、社会的交換では、返済が期待されるだけで、義務を明確に特定されない。事前に義務が明記されず、当事者の裁量に委ねられる点が異なる。
ブラウによると、経済的交換は、社会的交換をふくむ交換一般のなかの、特殊な場合である。交換一般は、当事者の好意や信頼に基礎をおく。人格的関係に基礎をおいた社会的相互作用である。
以上から、ブラウの社会的交換の概念は、贈与交換と同じである。

モースと同じである。モースを、経済的交換にもひろげた。

地位や役割に応じた、好意や信頼に根ざしたパートナーである。特定の関係を継続的に維持することが、重要である。やりとりされる財もまた、特定の関係を継続的に維持するうえで、重要な意味がある。グレゴリーにつづく。

◇グレゴリーの贈与交換論_043
ブラウは、経済的交換をむすびつけ、交換の統一理論の構築をめざした。対するグレゴリーは、商品交換と対比して、贈与交換のメカニズムを分析した。
商品交換は、やりとりされる客体間の関係を設定する(財と財との関係を設定する)。贈与交換は、財をやりとりする主体の関係を設定する(当事者の関係を設定する)。贈与交換の当事者が求めているのは、交換過程で創出される人格的関係であって、財がほしいのでない。
商品交換は、客体(財)のあいだに、量的な交換関係を設定する。贈与交換は、主体(当事者)のあいだに、質的な交換関係を設定する。商品交換の場合、商品xと商品yが等価だから、交換関係が成立する。これに対して贈与交換では、xが移動するとAが債権者でBが債務者となり、yが移動するとAが債務者でBが債権者となる。双方のあいだに義務が創出され、質的な交換関係が、ABのあいだに成り立つ。
また、
商品交換が、所与の時点で異なったものの均質性をうむ。贈与交換は、異なった時点で似たものの均質性をうむ。この2つの点は、交換の空間的側面と時間的側面をめぐる議論のなかで指摘される。ともあれ、商品交換か贈与交換かを決定するのは、モノの属性ではない。
商品交換と贈与交換のちがいは、価値と格付を意味する。異なったものを交換する商品交換は、やりとりされる客体間に均等な関係をうむ。似たものを交換する商品交換は、やりとりするする当事者の間に不均等な関係をうむ。

1982年の論文らしい。すごくおもしろい話!

商品交換では、商品としてのモノが交換比率をもつ。贈与交換では、贈物としてもモノが交換秩序をもつ。贈与交換では、やりとりされる客体(財)の格付をする交換秩序にもとづき、質的関係が設定され、贈物の数量とは関係なく交換がされる。

贈与交換は、当事者の人格的関係によって結ばれるものである。

◆2節 贈与交換の基本概念_046
◇二分法モデル
ストロースの限定交換と一般交換、ブラウの直接的交換と間接的交換、サーリンズの直接的交換と利他主義的交換などがある。
直接的交換と間接的交換は、ストロースの限定交換と一般交換という二分法モデルを類型にしたもの。直接的は、2者で完結する。間接的は、3者以上の周期がある。間接的は直接的の発展形式。
ほかにベフは、水平的交換と垂直的交換をいった。直接的交換を二分したもの。ポリネシアでは、当事者が対等か非対等かによってモデルが異なる。

◇分析概念としての同調/競合と均衡/不均衡_048
ほとんどの人間関係は非対象的である。夫婦、親子、医者と患者、年上と年下。対称と非対称という二分法で、贈与交換の枠組を設定したのは、リーチ。完全な対称は例外であり、同じ家庭内の双子くらいのもの。
リーチ1983は、あらゆる可能な交換形式を、対称的交換と非対称的交換に二分した。対称的とは「目には目を」「1杯のビールには1杯のビール」。非対称とは「硬貨に1塊のパン」「サービスに対する贈物」とした。

えー。もっとリーチには、たくさんのことを言ってほしかった。

フォスターによると対称的契約は、社会=経済的地位が対等の人々が結んだもの。村落内で作動し、互酬的義務が相補的で、双方が等価・同種の財やサービスを交換する。非対称的契約は、地位の異なった人々が結ぶんだもの。村落間で作動し、 互酬的義務が非相補的で、当事者双方がそれぞれ受け取ったものと異なる物を返すか、与えたものと異なる物を受け取る。非対称契約は、等価交換が難しい。
対称的契約は「仲間内契約」であり、非対象的契約は「パトロン-クライアント契約」である。

伊藤氏が注目したいのは、フォスターが、当事者双方の相対的地位と、交換財の性質を、手掛かりにした点である。前者が水平的、後者が垂直的である。直接的交換を、水平的と垂直的に区分できた。
フォスターは図式化されているキライがある。実際の交換過程には、互酬性の原理とか、互酬性の規範が、複雑に作動している。当事者双方のあいだで、同調と競合、均衡と不均衡という、対立関係性が生み出されている。
ベイリーは「交換はメッセージである」という。メッセージは、協調的メッセージと、競合的メッセージからなる。両者を分離するのは難しい。贈与はつねに返礼を求めるので、ふさわしくない返礼は、相手に対する挑戦になる。相手が返済できない、気前の良すぎる贈物は、相手を侮辱する。このように贈与交換は、内部に協調と競合という対立をふくむ。

3章 民族誌に見られる贈与交換の世界_052

儀礼的交換は、マリノ以降、2つのメカニズムが論じられた。
1つ。交換当事者間に、ある原理が作動して、双方の不均衡が調整され、その極小化がはかられる。2つ。まったく逆で、交換当事者の間に、別の原理が作用して、双方の均衡が意図的に否定され、不均衡の極大化がはかられる。
オセアニアの儀礼的交換から、同調と競合、均衡と不均衡という、対立概念を操作することにより、贈与交換のメカニズムを検討する。交換財の象徴性に注目し、交換価値とその変換についても議論する。
以下、具体例をはぶく。そして、4部にとぶ!

桜井『贈与の歴史学』はいう。贈与経済(ギフト・エコノミー)という語は、伊藤幹治『贈与交換の人類学』いわく、市場経済(商品経済)の対立概念で、互酬性の原理にもとづいた贈与と返済を基調とする経済システムのこと、と。
ここまでで、桜井氏の用法は理解できた。ぼくが伊藤氏の本に着手した目的を果たすことができた。あとは、贈与経済と市場経済をくらべ、共通点と差異点をのべた、ポランニーを読まないと。コピーだけは終わっているのだが。
以下、ぼくに必要なところだけ抜粋。


第4部 交換論からみた宗教的世界

1章 贈与交換論からみた神と人の関係_225

互酬性は、自己と他者の相互関係(グールドナー)と規定される。あるいは、自己と他者の相互作用(サーリンズ)と規定される。この互酬性の概念は、交換とおなじでない。

伊藤氏が、上でさんざん言ってきたこと。

マランダは互酬性を、あらゆる交換形態の基礎と見なした。バースは互酬性を、交換概念の中心に据えて、交換を体系的に規定すると見なした。互酬性は贈与交換論の文脈でいうと、提供・受納・返済という交換行為の基礎でる。贈与交換のあり方を、総体として規定する概念である。

超自然的存在と、それを信仰する人々の間には、返済の義務が存在すると言いがたい。

ほんとうか? 伊藤氏は「神々や精霊には、人間とは違って返済の義務がないからである」という。まるで「お化けにゃ学校も試験もない」というのと同じである。信仰している人の意識への現れ方として、神々や精霊に、ほんとうに返済の義務がないのか。
ほんとかウソか知らんけど(原典を読んでいないから)、GODに説明・返礼を求めなかったアブラハムは繁栄し、GODに説明・返礼を求めたヨブは滅亡したらしい。じゃあアブラハムがやったことは、どういう「贈与」なんだ。アブラハムはGODのために息子を殺そうとしたらしいが、息子はどういう名目で、GODに「贈与」されたのだろうか。返礼なし版の、例外的な贈与? さっぱり分からないなあ。

人々は、祝福や恩寵という返済を引き出すために、犠牲や供物を奉献する。

◆1節 供犠の世界_226
モース「供犠の本質と機能」1898で、供犠される動物を、聖俗2つの世界のコミュニケーションの象徴的な媒体と見なした。
タイラー『原始文化』が、最初に「供犠は神に対する贈与である」と規定した。神を首長に置き換えて、首長に対する贈与を、神に対する贈与に比定した。1913
モースは、神と首長を置き換えられないといった。モースは、競合的交換のポトラッチは、破壊の命題をふくみ、それは精霊や神に犠牲をささげるためであると論じた。破壊とは、死者の霊魂や神に、物や財産の所有権を譲渡することである。グレゴリーもモースを支持して、ニューギニアを観察した。
ファンバールは、供犠と供物を対比した。供物は、神や精霊などの超自然的存在への贈与である。供犠は、供物を殺害することである(供物は、モースが着目したような破壊を行わない)。供物は請願をふくまないが、供犠は請願をふくむ。

伊藤氏は、ファンバールの説明に懐疑的。

ビーティーはいう。単純な宗教では、超自然的存在と人間とのあいだに、「与えられるがために与える」という贈与の観念がある。贈与は象徴的行為である。

神々や精霊は、お返しを期待する人々の象徴的行為によって、祝福や恩恵を与えることを強いられる。だが返礼の義務はない。ゆえに贈与としての供犠は、人々が神々や精霊に支払うお返しである。そのお返しには、再びの祝福や恩恵という、神々や精霊からの反対給付の期待が込められている。
超自然的存在に対する贈与としての供犠は、互酬性に根ざした、たえず交互に循環する、返済の義務と期待の連続体である。

「前払」と「後払」を区別することができない。ただし、これは神々や精霊との贈与だけの話ではない。人間同士の贈与だって、どっちがさきに起動したのか、よく分からないことが多いだろう。
いちおう理屈だけコネれば、神々や精霊との間の贈与経済は、ほかのあらゆる人間同士の贈与経済に先だって、いちばん早く始まっていたはずだ。おそらくね。支払の先後を決めることは、絶望的だろう。


◆2節 超自然的存在との諸関係_235
阿部謹也のキリスト教の説明を、贈与交換論に引きつけると。
神と人との関係が、11、12世紀に、供物を媒介にした直接的互酬性から、彼岸における救いを媒介とした間接的互酬性に転換した。

直接的とは、ストロースの限定交換みたいに、そして同じとき同じものを、パッパッと交換して完結してしまうことかな。

カトリック教会が介在することで、神と人との関係は、間接的互酬性となった。結果、ヨーロッパ社会のなかの現世(此岸)では、無償の贈与が成立するようになった。
ユダヤ=キリスト教社会では、教会への寄進とならび、貧者への喜捨も、来世での救済を期待させた。イスラム教も同じ。
モースはいう。「喜捨は一方においては、贈与および財産についての道徳的観念と、他方では、供犠の観念との所産である。物惜しみすることなく与えることが義務である」と。

大塚和夫は、喜捨をふくむ善行や、目に見えぬ信仰心を、アッラーへの贈与とした。それに対するアッラーからの報奨、とくに授受された者にとって好ましいものを、利益(返済)と考える。ムスリムとアッラーのあいだに「互酬的交換」が成立するとした。
バースの交換モデルを用いて、直接的交換/間接的交換、来世利益/現世利益、という2×2を組み合わせて、アッラーからの報奨を4つに類型化した。

「どのように、どこで(いつ)交換するのか」という切り口。何を交換するんか。交換するときに着目するのは、財物なのか、主体の関係なのか。共同的なのか、競合的なのか。いろいろ切り口を設けられる。

第1は、直接・来世。信仰告白や礼拝により、来世で幸福な生活。
第2は、間接・来世。同胞への喜捨により、来世で幸福な生活。
第3は、直接・現世。信仰告白や礼拝により、家族の健康や、事業の成功。雨乞いの成功。
第4は、直接または間接・現世。同胞への贈与に対する、聖者(名声を高めてくれる)またはアッラーからの返済。
アッラーからご利益を受けたと信じるのは、ムスリムのほう。宗教的行為は、人々の一方的な贈与。直接、間接の互酬性に生み出された。

タンバイアによるとビルマでは、僧侶に対する贈与は、僧侶には返済の義務がないから「自由贈与」と言うべきもの。贈る側の利他主義的な意図が、倫理的価値をもつ。在俗信徒が僧侶に贈与するのは、功徳を積むのを期待するから。
ストレンスキーは、一般交換と限定交換のモデルを用いて、サンガに対する贈与を検討した。スリランカでは、僧侶と在俗信徒の互酬性のほかに、供物を媒介とした、在俗信徒と仏陀や神々、悪鬼との直接的互酬性が認められる。

在俗信徒が仏陀に供物して「よろしく」といい、在俗信徒が悪鬼に供物して「出てこないでね」という。僧侶を媒介とせず、仏陀や悪鬼と関係を結んでいることが、珍しいのだろうか。

エームズはいう。在俗信徒は僧侶に施すのは、功徳をつむため。僧侶は、在俗信徒に説教するが、それぞれの贈与は一方的で、非互換的である。

供物のどれだけを、説教のどれだけに変換するかなんて、決めることができない。だから「非互換的」と書いてあるのだね。

仏陀への供物も、非互換的で一方的な贈与だ。在俗信徒は供物をそなえて利益を期待するが、仏陀は利益を授けない。「聖なる」交換である。
これに対して、神々や悪鬼への供物は互換的贈与である! 在俗信徒は、神々の加護を期待して供物をそなえ、神々の加護があると、返礼にまた供物をささげる。「俗なる」交換である。

「仏陀」と「神々」は、どう違うの? よくわからん。

伊藤氏が注目するのは、エームズが、在俗信徒の宗教的行為(贈与)を、非互換的給付と、互換的給付に区分したこと。しかし伊藤氏は、エームズに2つの反論がある。
僧侶と在俗信徒のあいだには、交換は整理しないはずだ。僧侶と在俗信徒のあいだには、互酬性に基づいた一方的贈与しか成立していない。

何かが往来しているからといって、「だから贈与が成立している」と言うことはできないのか。なるほど。例えば、人の話を聞けない人が、互いにマクシ立てている場面では、言葉の投げ合いはやっているが、コミュニケーションはできていない。というのと同じかな。

仏陀や僧侶に対する贈与は、仏陀や僧侶に返済が義務づけられていないから、非互換的な一方的贈与である。だが、仏陀や僧侶と在俗信徒のあいだでは、返済の期待に基づいた互酬性が成立している。こうした互酬性により、在俗信徒は僧侶に喜捨して、仏陀に供物する。

贈与の種類を判定する、観点が出てきた。
 ☆聖/俗:互酬性の有無(2行下を参照)
 ☆互換的:互いに比較可能なモノを交換するか(財物と説教は互換せず)
 ☆互酬性:受け取ったほうが返済の義務があるか(僧侶はあり、仏陀はない)
ひと晩ねたら(ひと晩ねなくても)分からなくなるなあ。さっきイスラムを分析したときの、直接・間接という切り口は、贈与した人に、そのまま返礼がくるか、という区別だった。書いておこう。
 ☆直接/間接:贈与した者に返礼がくるか
ここまで引きずり回されると、「贈与にまつわる議論は、このあたりが歩留りね。これ以上は先に行けないのね」ということが分かってくる。ここまで検討しておけば、自分なりに話を組み立ててもよい。なにが具体的な「民族誌」を取り上げて、自分なりの理論で説明してあげればよい。「民族誌」に何をつかうか。そりゃ、『三国志』です。
ぼくがこれを長々と引用しているのは、皇帝の分析に使いたいからです。皇帝は、仏陀なのか?僧侶なのか?


伊藤氏のエームズに対する反論は、もう1つある。
神々や悪鬼に対する贈与が、必ずしも互換的贈与でないはずだ。神々や悪鬼だって、仏陀と同じように、返済の義務を負わない。供物をもらっても、言うことを聞く必要がない。神々や悪鬼に対する贈与も、返礼を期待するだけの、一方的な贈与だろう。

ぼくが思うに、エームズは仏陀と神々を区別したけど、その区別の定義が、うまく伊藤氏に伝わっていないんじゃないかな。エームズが、「返礼の義務がない超自然的存在」を知らなかったのではない。少なくとも仏陀は、返礼の義務なし、としている。
このすれ違いは、重要な教訓をもたらす。
例えば供物してから、悪鬼の暴動が収まった(と認識された)とき、これは供物の直接的な効果なのか。つまり、供物のおかげで、悪鬼が鎮まったのか。それとも、悪鬼の気まぐれなのか。供物-鎮静を、トレードできると思う人(エームズ)は、互換的贈与という。トレードできないと思う人(伊藤氏)は、非互換的贈与という。
これって贈与の議論だけじゃなく、「悪鬼とは」「悪鬼と人との関わり方とは」という、きわめて宗教的な定義に、議論が波及するんじゃないか。


◇小さな伝統のなかの関係_240
キリスト教が、彼岸における救いを媒介とした間接的互換性をいうのは、贖罪思想や、現世と来世の非連続性が作動しているからだ。
日本の汎神論的世界では、どうか。神々と人々の関係は、この世で完結することが期待される。直接的で世俗的である。

トイレの神様は、便通をつかさどる。だからトイレの神様に祈ると、肌がキレイになる。という類型の、直接的な贈与-返礼の関係である。きわめて小さな「限定交換」が完結してゆく。

神々に具体的な機能を与え、折目や節目に祈る。供物する。神々は、分かりやすく利益する。人々と神々のあいだで、直接的な互酬性がある。
反対給付(利益)があれば、ますます互酬性が強まる。もし反対給付がなければ、別の神と互酬的関係を結ぶ。汎神論的世界のなかで、社会生活の変化にともない、神々が再生産・廃棄される。

2章 交換論からみた当屋制_244

◆1節 限定交換と一般交換の再解釈_245
エケはいう。限定交換の主要な特徴は、相互の行動における高度な責務。二者の関係を平等に維持するため、多大な努力が払われる。相手に損害を与えることが回避される。情緒的要素が重視される。

夫婦生活の教訓本みたいなことを言うなあ。

一般交換は、すべての当事者がひとつの統合的な交換行為のなかで、全体的に結合する。互酬性が間接的で、非相互的である。また一般交換は、相対的に情緒への依存を欠いていて、体系内における相互の信頼を、主要な属性とする。この信頼は、社会的交換の基本的仮定である。

大企業の人事は、定期的にローテーションする。一般交換の心地だな。


エケによると、互酬性には、相互的互酬性(=相互的交換)と、単一的互酬性(=単一的交換)という2つの型がある。
相互的互酬性では、互換行為が2人の個人に限定される。AがBに利益を与えれば、AはBから利益の返礼を期待している状態である。単一的互酬性では、互換行為が少なくとも3人によって行われる。それぞれが間接的に利益を与えている。
エケは、ストロースの限定交換と一般交換を、相互的互酬性と単一的互酬性という概念に変換した。
エケは、相互的でも単一的でも、どちらも互酬性の規範が共通であると解釈した。伊藤氏は引っかかる。

伊藤氏は2つ指摘する。エケは、両者の差異を強調するため、相互的の特徴を、情緒的要素とした。単一的の特徴を、相互の信頼とした。図式化され過ぎている。どちらの交換も、情緒と信頼が重要である。

そりゃそうだが、、他に指摘はなかったのかなあ。

もう1つ。交換と互酬性を同一視しているのは、良くない。交換は行為にかかわる概念だが、互酬性は交換の行為を規定する関係概念である。

伊藤氏は、ここにこだわる。重要なんだろうなあ。


◇一般交換の基本的仮定_247
エケは、互酬性の規範や原理という概念を操作して、一般交換が成立する前提を議論した。
エケによると、互酬性の原理は、互酬性の周期によって相互に結合した全員が、平等であることを基礎として作動する。正しく機能しないと、不平等を導く。
ストロースが調べた、カチン族の女性交換システムにおいて、交換される女性は、等価でなければならない。エケはここから、一般交換における互酬性の原理の基礎をみつけた。
ほかにエケは、一般交換は、当事者相互の信頼という、道徳性を基本的仮定にしている、ともいう。また、一般交換の道徳性は、他者を信頼して、他者を善意に解釈することへの信頼だともいう。
エケは単一的互酬性(一般交換)を成立させるもっとも重要な条件についていう。ある行為が、即時的・直接的互換を期待しないで、他者に利益を与えることで、将来どこかで誰かに互換されると、信頼していることだと。

エケは一般交換を、鎖状と網状の2つに区分した。
鎖状の一般交換というのは、交換体系内の諸個人が同等で、しかも相互に単一的な互換行為の鎖が作動することによって、位置づけられる。
網状の一般交換というのは、網状の単一的互換性に基づいて作動し、諸個人が全体としての集団との関連性において行為する。

先生! 網状のほう、こんな説明じゃ分かりません!

鎖状の一般交換は、ストロースの一般交換をエケが言い換えたもの。伊藤氏の興味をひくのは、エケが、網状の一般交換を、個人に焦点を据えた型と、集団に焦点を据えた型に分けたところである。
個人が焦点のほうでは、すべての成員が、順番に同量の利得と注目を受ける。1234→5、1235→4、1245→3、1345→2、2345→1というカタチである。(数字は成員の背番号)
集団が焦点のほうでは、交換に含まれる個人は、ひとつの単位としての集団に継続的に提供する。その後、それぞれの成員から、個別的にお返しを受ける。1→2345、2→1345、3→1245、4→1235、5→1234というカタチである。

ゴチャゴチャしてるが、理解した上で引用した。っていうか、阪大図書館で、連続6時間も作業している。さすがに疲れた。

個人が焦点になるのは、農村社会の社会的交換や経済的交換。集団が焦点になるのは、パーティの交換である。

エケには、「全体としての集団」「ひとつの単位としての集団」という概念がある。成員相互の平等と信頼にもとづいた、特定の個人と、2人以上の集団との間で成立する互換行為である。しかも、当事者の組み合わせが、互換性の周期によって、逐次、循環する。

会社の歓迎会は、招かれた人はタダ。在籍期間中に、他の人の歓送迎会をするときは、費用を負担する。送別会のときは、再びタダ。これと同じだな。

エケは、個人が焦点のほうの事例として、ナイジェリアで、一定の期間、集団の各成員のもとを全員で訪問し、その費用を、訪問された者を除いた全員で支払うという慣習を指摘する。日本の当屋制も同じである。

個別の事例でなく、理論が知りたかった。ここでおしまい。


以上、無事に抜粋が完了しました。楽市にいこう。120502

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