表紙 > 読書録 > 渡邉義浩『三国政権の構造と「名士」』を再読する

03) 望んで土地を捨てる、自棄な「名士」

渡邉先生の『三国政権の構造と「名士」』の、序章と1章を再読。
前回は『釣りバカ』にひきつけ、先行研究と「名士」論を理解。

はじめに_062

川勝・谷川の「豪族共同体」は、郷里社会の「民の望」を基盤とする。だが史料を検討すると、民衆の支持を、直接的な基盤としない。豪族をおもな出身階層としながら、在地社会との直接的な生産関係を存立基盤とはせず、社会の再生産構造から乖離した場に成立する名声により、豪族の支持を集める「名士」階層が出現する。

名士の要件を、チェックしてゆく。
まず (1) おもに豪族から「名士」になる。ってことは、豪族でなくても「名士」になれる。資格要件は、わりにゆるい。ただし、豪族と「名士」を兼務することはできない。豪族は「名士」でない。豪族から「名士」になるのだから。中学生を「小学生がなるもの」と定義したら、小学生と中学生を両立できないのと同じだ。この、両立できないところが、読み解くカギとなるだろう。
(2) 再生産構造を、直接の存立基盤としない。ぼくは思う。なぜ「直接」というか。「名士」だって、農作物を食べないと飢えるはずだ。だから否定語は「存立基盤」にかからないだろう。「直接」にかかる。つまり、「間接」に再生産構造を基盤とするという意味だと推測できる。これに関連するのが、第4の性質だと思う。
(3) 名声がある。
(4) 豪族の支持を受ける。「名士」は、「直接」に再生産機構をもつ豪族に、養ってもらう、という意味だろう。じゃあ「名士」に食べ物を与えたならば、その人は(まだ) 豪族であり、「名士」でない。「名士」は「名士」に、恵んであげられないのか? 「名士」は持たざる階層だから、軽いプレゼントはできるが、存立基盤を与えるまでは不可能?
ほかにも食物を手に入れるルートとしては、皇帝にもらう、道端でひろう、郷里で恵んでもらう、などが考えられる。
彼らはこのルートを使うことを、禁じられてはいない。例えば皇帝に仕えたら、「名士」の資格を失うという定義ではない。だが豪族からの寄附?が、メインでなくてはならないはずだ。「お笑い芸人」を名乗るが、収入の95%がバイト収入なら、正しくは「アルバイター」であるのと同じだ。豪族や「名士」からの支持を背景に、皇帝のもとで出世し、高禄を得るようになっても、それはセーフかな。のちの話の展開から推測すると。

「清流豪族」「名望家」とは別の、「名士」という概念をおく。「名士」は、「名士」間の人物評価により定まる名声に、その存立基盤をおく。

村田氏が渡邉先生の「誤読」を指摘する。みる。
まず渡邉先生が論拠とした、川勝氏・谷川氏の本に、「清流豪族」という言葉がでてこない。また渡邉先生は「共同体」論を、「貴族制を領主制との関わりで捉えるために書かれた」と理解する。村田氏いわく川勝氏は、中国史を「共同体」の自己発展史と捉えてはどうかと提案した。
渡邉先生は川勝氏を、清流勢力が豪族から成り立つと(村田氏に読めるように)引用した。だが村田氏は渡邉先生を批判し、渡邉先生が、すべての「共同体」が「清流豪族」に指導され、当該時代の特徴になったようにミスリードするという。
村田氏は、この論文から「名士」の性質をまとめる。
三国時代の支配階層である。家柄は固定化されない。豪族層にも「名士」にも転化しうる可能性がある。在地社会の直接的な支配者である、豪族層の支持を受けられる。再生産構造とは乖離した「場」における名声に依拠する。だが在地社会に規制力を振るいえた。
(ぼくが上にあげた「名士」の性質より多いのは、論文後半の内容を含むから)
村田氏は論じる。
「名士」の前段階が「党人」である、「名士」が九品官人制により「貴族」に転化する、、という、渡邉先生の説明には異論がおおい。例えば関尾史郎氏がいう。①いかなる行為が「名士」として認定される根拠か、具体的な説明がない。②「名士」層の成立が、政治的にしか説明されていない。③後漢末期の権力闘争もふくめ、「在地社会の崩壊」と渡邉先生が書いた社会変動から説明する視角がたりない。これらの説明がないと「名士」は、国家権力の後退期に、その機能の一部を代行しただけだと。
ぼくは村田氏の指摘を読んで、「「名士」論がよく分からないのは、ぼくだけじゃないんだなあ」と思った。つぎから本論。このモヤモヤを引きずって、読み進みます。


後漢末期の豪族と在地社会_062

豪族には、複合した側面がある。大土地所有する。独立した戸が、同姓ゆえに連帯する。賓客や任侠的結合により、在地社会を規制する。代々、官職につく。
豪族の在地社会におけるありかたは、『四民月令』にある。賑恤するものの、九族が優先。名声をもとめて、財産を使い果たすなと『四民月令』がいましめる。

生活を安定させたければ、豪族がいい。土地があり、一族がいて、在地社会を規制できて、官位もある。「豪族に、なりたくてもなれない」という話なら、納得がゆく。だが「わざわざ豪族であることを放棄する」という状況を想像できない。本能だと思う。笑

谷川氏がいう「賑恤して、私を超克する」という発想でない。

村田氏は、渡邉先生でなく谷川氏を擁護する。『四民月令』は、賑恤しつつも、賑恤するためにも、破産するなと言っているのだと。
ぼくは思う。ここは、どちらも正しい気がして、どちらでもいい。


豪族と郡県のかかわり。功曹従事をトップとする、郡県の掾属についた。『成陽霊台碑』より、明らか。 就官するとき、名声が役立った。名声は、一族に代わって銭を払ったことにより、得られたものだ。

この碑文の読みも、村田氏が谷川氏を擁護して、反論する。ぼくは、どちらも正しい気がして、どちらでもいい。

『後漢書』郅惲伝に、郷論が形成される場面がある。小農民でなく、「衆儒」たる郡県の属吏が話あって、孝廉にあげる人を決めた。豪族を中心に、郷論がつくられた。察挙を通じて、後漢国家の官僚となった。国家の支配をささえ、在地社会に勢力をのばした。

豪族と国家がおりあうことは、自明なのかなあ。まあいいや。
村田氏はいう。まずこれは、光武期の事例。後漢末じゃないよと。
さらに村田氏はいう。川勝氏や谷川氏のいう「郷論」とは、光武期もふくみ、「里共同体」の内部矛盾をつうじて再編される、「豪族共同体」において、郷村の「望」として豪族が成立させるもの。内部矛盾とは、里共同体の発展により、階級分化がうまれ、共同体の原理と激突することをいう。ゆえに、(里共同体や民が出てこない) 輿論が、「郷論」と一致しないのは、当たり前であると。
ぼくなりに理解すれば、
『後漢書』郅惲伝は、「共同体」論者から、「民」が登場しない事例として理解されている(時期が早すぎるから?)。ゆえに、民の意見が反映されないのは、当然であると。
局所で見れば、村田氏のほうが正しい。だが「名士」論は、土地や民の問題を、ひとまず置いといて始めた議論だと、ぼくは認識してる。だから、民に関する指摘が詳細でなくても、定義どおり、約束どおりである。村田氏がよく引用する、諸研究者から渡邉先生への「民がない」「土地がない」という批判は、的外れなのだ。
「民」と「土地」の話をしたら、「共同体」論の完成度が高かったのでしょう。それと違うことをしよう!という趣向が「名士」論なのでしょう。


「名士」層の形成_068

語感の豪族は、察挙により、国家の官僚となれた。だが宦官が察挙を閉ざした。『後漢書』史弼伝にある。高級官僚は、皇帝につらなる宦官に妥協した。そのなかで党人だけが宦官と対決し、輿論に支持された。

東晋次氏の『後漢時代の政治と社会』296ページ。辛辣な批判が書いてある。渡邉先生の『後漢国家の支配と儒教』について。
渡邉先生はいう。川勝説氏が、豪族を「清流」「濁流」の2つに類型化したのがダメだという。樊陵にとって、清濁どちらでもよく、高級官僚になれればよい。宦官か党人か、という問題は、郷里社会とはあまり関係ない。宦官につくか、儒教のために宦官とたたかうか、という政治的判断だけである。ゆえに、郷里社会における豪族の領主化、「民の望」から定義された川勝氏の清濁の区別は、概念を混乱させるだけだと。
(ここまで、東氏が渡邉先生の話をまとめたもの)
東氏は、川勝氏を弁護する。川勝氏は、党錮という事件を、郷里社会の構造的実態からとらえようとした。渡邉先生は、川勝氏の努力をスポイルすると。
渡邉先生は、党錮以前の儒教官僚と「党人」が、断絶するか連続するかを問題とする。宦官との対立という一点で見るなら、両者は連続した(と東氏はいう)。
ぼくは思う。川勝氏の本は、生半可にしか読んでないけれど。「党錮を、在地社会にからめて理解する」というのも、またすごい問題設定だ。アクロバティックに見える。「名士」論に負けず劣らず、理解しにくい。
思うに党錮は、単なる宮廷党争じゃないのか。一部の高官を宦官の子弟が占めただけじゃないか。在地社会の変動が顕著にあらわれ、たまたま党錮の時期と重なったという説明なら理解できるが。党錮と、何らかの因果関係を求めるのは、こわいことだ。東氏も村田氏も「川勝氏がよい」という前提なので、ぎゃくに怪しみたくなった。

「太学生」ら、官僚への道を閉ざされた豪族が、党人を支持した。

党人は豪族層に支持されたが、皇帝の延長権力たる宦官にやぶれた。党錮は、治者のなかの権力闘争。范滂が「太学生が朝廷に用いられるとよい」と言ったことから明白である。

川勝氏のように、郷里社会を見る必要はないと。
ぼくは、宦官の禍いを、どこまで大きく見積もるかに疑問がある。暴論するなら、党錮は、後漢末の政争とあまり関係がない。後漢は、なんども政争があった。党錮だって、数多くの政争のなかの1つである。後漢の滅亡とは、あまり関係がない。
その証拠に、はじめに党錮が起きてから黄巾まで、20年弱ある。黄巾のとき党錮を解除したら、おおくの党人が死んでいたはず。霊帝の死後、後漢を滅ぼすために動いた「党人の生き残り」は、いったい誰だ。いくら人脈に接点があったからって(袁紹と何顒ら)、ちょっと乱暴な結びつけじゃないか。
初めの党錮から、漢魏革命まで50年以上。これじゃあ、近年の日本の不況を、高度経済成長に結びつけるようなものだ。(この認識でヨシとされるのか?ちゃんと違和感を申し立てる比喩になっているのか? 例えがムチャですみません)
袁紹や曹操が党人の志をついだというより、袁紹や曹操の活躍から、遡及的に強調されただけだと思う。この時間の隔たり、むすびつけの違和感は、ぼくの感覚的なものなので、うまく書けません。「両晋南北朝の貴族が、党人から始まる」という、あまりの射程の長さが、飲みこめずにいる。
後漢の年代史は「党錮、黄巾(中略)後漢滅亡」となり、三国の年代史は「曹操の献帝奉戴、魏王、禅譲」となる。後漢の視点、三国の視点からなら、それぞれ、こういう論述方法になるのだろう。だがぼくは、両者のスキマに、もっと言うべきことが落ちているような気がする。

宦官が察挙を破壊したので、察挙とかかわらない名声が形成された。

ほんとうに破壊か?気持ちわるい。
たしかに宦官の子弟が、高官についた。史料にある。だが、数量の割合から見たら、どの程度だろう。宦官の子弟との、はげしい対決ばかり史料に残るが、「宦官でなければ、高官になれず」なんて事態は起きていない。袁紹が、宦官をヒステリックに殺した理由がほしいが、袁紹が特殊じゃないか。軍事クーデターは、いつでもムチャする。ムチャするために、クーデターをおこす。曹操が宦官の殺害に反対した史料は、みんながあげる。


「名士」形成に必要な番付表。外戚の竇武、宗室の劉淑を「三君」においたのは、なお後漢の秩序を尊重したから。

村田氏が、この番付表が偽書だという研究を紹介する。たしかに、美しすぎる。『後漢書』の書きぶりを見れば分かるが、これは本紀や列伝でなく、編者がまとめた「編集記事」なのだ。史料的な価値はおちるだろうな。
で、竇武と劉淑を「三君」にいただくのを、党人側からの妥協だと捉えるのが、不自然だと思う。ふつうに名声があったんじゃないか?陳蕃と竇武は、協調してるよ。竇太后は陳蕃を頼ってるよ。あー、モヤモヤする。

党錮ののち、景毅は、後漢の侍御史であるより、李膺への報恩をえらんだ。後漢の官僚より、名声を重視した。

恩人が政争で敗れたら、弟子が弁護する。これは、後漢をつうじて見られる。政敵が主催する朝廷からは、遠ざかる。政敵が失脚したら、返り咲く。後漢の常態である。『通鑑』を読めば、この反復だった。
党錮を、後漢滅亡に連なる大事件だと見ることはできないと思う。景毅の行動から、すぐに「後漢を見限る」とは言えまい。

一族の郡望により、自動的に高官につけない。個人の名声により、高官につくようになる。

これって、後漢に共通した話でないか? 「生まれた家によって、自動的に高官につく」というのは、南朝貴族の定義であって(実際はどうだか知らん)、後漢の豪族の性質でない。後漢の豪族は『四民月令』や郅惲伝にあるように、豪族は、優れた行動で名声をかせいだ。村田氏に否定されていたが、渡邉先生は郅惲伝を「民ぬきで、人物評価が形成される場面」と理解した。光武期の郅惲伝と、党錮の時代は何がちがう?
党錮の前後で、何が変化した?、、してないよなあ。

『郭泰別伝』で郭泰に面会をもとめた記述から、「名士」に転化したい豪族の願望が見える。

「名士」って、なろうと思ってなれるのか?ぼくは、なれないと思う。
教育論で言われる、「子供は教育の効用を、事前に知ることができない」と似ていると思う。子供は、何だか分からないけれど、教科書を暗記する。意味なんか分からない。暗記した結果、あとから、暗記した語句や概念をつかって、自分が学んだ意味を(事後的に)語れるようになると。
豪族は「名士」になるぞー!という決意によって、「名士」になれるのか。ましてや、「魏晋南北朝の支配階級になるぞー!」なんて決意を、後漢の豪族がやれるだろうか。ムリだよなあ。絶対に。
術語として「名士」を定義するなら、まだわかる。魏晋南北朝の結果を知っている後世人が、遡及的に分析する道具だ。だが、後漢の豪族の意図を推測する文脈で、「名士」になりたいという書き方をされると、ぼくは賛成できない。
「名士」になりたい豪族は、どういう気持ちだろう。「在地社会の再生産構造から離れよう(貧乏するぞ)」、「両晋南北朝の支配階級になるぞ(バーダック)」と発想せねばならん。果たして可能か? 「名声がほしい」では、後漢豪族と同じだから、「名士」になるには不充分。常識をやぶらねばならん。

豪族であることは、「名士」になる必要条件でない。在地社会から乖離した、李膺や郭泰がくばった名声が、牧童や兵卒さえも「名士」にした。

渡邉先生の言うとおり、名声の相互認定は、史料におおい。
だがこれは、電話帳を見て「数字がたくさん書いてある。電話帳が表現した社会は、高度な理系社会である」と推論するのと、同じくらいオカシイ。渡邉先生は、人物評価「状」が、史書を形成したという。史書に人物評価の記述がおおいのは、必然である。電話帳が電話番号をおしえる本なので、数字だらけなのと同じだ。
南朝貴族の性質というボールを、前時代に投射した(投げかけた)とき、たまたま追い風が吹き、党錮まで飛んだ。だが、追い風ゆえに無効なんだ。せいぜい州郡中正くらいまでしか、ボールは届かない。と思う。モヤモヤ。


「名士」論とは、「魯粛」論

再生産基盤をとり崩してまでも、「名士」をめざす豪族がいた。魯粛は郷邑にむけて散財した。周瑜にクラをわたした。

村田氏が指摘するし、ぼくも同じことを思った。
郷邑にカネを配って「士」と結ぶのは、後漢の豪族とおなじ。郷里を保全している。魯粛は「名士」でなく、後漢豪族としての務めを果たしている。渡邉先生の引用意図とは逆に、魯粛は『四民月令』に忠実である。
周瑜については、確かに自滅的?な寄附である。基盤をくずしても名声を目指すという「名士」像は、この魯粛に顕著にあらわれる。
だが先の展開を先取ると、これほど派手な取り崩しをするのは、魯粛だけだ。再生産構造から自由という「名士」は、魯粛しか出てこない。「名士」論は、じつはオオゲサな「魯粛」論だったのではないか。魯粛伝を説明するための、理論ではなかったか。そういう疑惑をいだいてしまう。笑
渡邉先生は(ぼくは勇み足だと思うが)豪族が「名士」になりたい、と願望を説明してしまった。魯粛は好んで、基盤を破壊したことになる。飢饉とか戦乱とかに、やむを得ず押し出されたとは考えない。感覚的に、不自然な読みだなあ。ほかの徐州人士も南下し、やがて孫呉に仕えるが、これも「自己破産願望」ゆえの行動?魯粛以外にも、狂児ばかり?うーん。
しかし、魯粛の「願望」を否定したら、「名士」論が成立しないしなあ。渡邉先生は、上記の教育論がいうような、「豪族は事後的に「名士」になっていたことに気づいた」という考え方はされない。むーん。

赤壁のとき魯粛は、臨淮でなく呉郡での名声にもとづき、下曹従事になれると言った。孫権はムリとおどした。

呉郡じゃなくて臨淮でしょう、というのは、村田氏がふんだんに説明しておられた。ぼくが足すことはないです。
臨淮できちんと恩を売って、臨淮に豪族としての名声を築いて、臨淮の郷論を味方にしたから、魯粛は安心している。全くふつうの「後漢人」である。

魯粛は、孫権のもとでも、曹操のもとでも、ある程度の官位につけることを期待する「名士」となり得た。

上でぼくは、党錮の画期性を否定した。魯粛ですら、後漢人だと考えた。曹丕による革命なんて、予期されていない。この時期は、バリバリの後漢である。節のタイトルが「漢魏交替期の社会」となっているが、これは結果論であり「後漢末の社会」と設定しないと、誤る。それどこか「後漢の社会」だな。「末」とも言えない。便宜のために、「末」を付けてもいいが、史料を読むときは「末」を追いだして理解せねば。
魯粛が下曹従事になるとき、上司となるのは、後漢の臨淮太守である。まあ数歩ゆずっても、後漢の呉郡太守である。(厳耕望氏いわく、賓客となった先で就官することもある。)どうして、曹魏か孫呉か、という選択肢になるのか。曹丕による革命を前提にしている。誤りである。


司馬徽は、在地社会から乖離した「場」で名声をかせいだ。全琮は、中原の士人にほどこした。

魯粛ほど「名士」らしい行動がない。
司馬徽は、頴川から逃げてきたのでしょう。荀彧ですら逃げた地域だ。司馬徽は「願望」して、故郷を捨てたのではなかろう。そして、襄陽の龐統と交わり、劉表集団と姻戚にある諸葛亮と交わった。ふつうに、再生産基盤の確保に励んでいるように見える。
全琮もおかしい。全琮が故郷を捨てて流浪し、かわりに全氏の基盤を中原人士にそっくり譲ったなら、まさに「名士」である。だが全琮は故郷にのこる。人士に、全氏をわたすわけじゃない。史料に「家を傾け」とかいてあるが、自分の食い扶持を守っていると考えるのが自然だ。これは、郡内で任侠的な結合をした、後漢の豪族とおなじ。豪族から「名士」へは一方通行だが(上記の定義より)全琮は、その決死の跳躍をやらなかったように見える。
渡邉先生は、矢野氏の研究が「貧」に着目したことを全否定して、「それはレトリックだ、豪族は貧しくない」と言った。全琮が家を傾けたのも、おなじようなレトリックだろう。全琮は、郷里を破壊するほどの施しをやってない。
根本的な疑問。
これは渡邉先生でなく、世間の「名士」話者にいえることだが。字義から勝手にイメージして「名声をもとめる士人」程度の解釈をする人が、おおくないか。もちろん名声は、あるに越したことはない。だが「名士」の定義で重要なのは、再生産の基盤を「願望」して捨てることだ。これが欠ければ、ただの後漢豪族である。後漢豪族と混同しては、「名士」論の新しさをスポイルしてしまう。
後漢の豪族は在地社会に「名望」を求めたが、「名士」は在地社会に名声を求めない。それは定義として納得できる。だが、後漢の豪族だって、豪族のあいだで名声を求めあったはずだ。「名士」が、豪族や「名士」同士で名声を求めたことをもって、後漢の豪族と違うとは言えない。やはり、わざわざ土地を捨てねば、後漢の豪族との差異があらわれない。 ぼくが思うに、
後漢末の史料を読んでいれば、みんな後漢に逆らわない。党錮の発想は、連続して伝わらなかった。黄巾はちらばり、袁術を叩かれ、袁紹をリタイアした。後漢が滅びるというサインは、曹丕の代になってから多く出てくる。後漢末、ふつうの後漢の豪族が名声を求めたからって、それを理由に「名士」だと捉えてはいかん。それは後漢の豪族。

田疇は山中で、父老=豪族層に支えられた。だが曹操がくると、山中の豪族を捨てて、曹操についてった。「名士」は、在地社会から乖離する。

ただ単に、後漢に従っただけだろう。治安が混乱したから、防御をかためた。曹操が治安を回復したから、そこを去った。とくにヒネリの要らない理解である。

張倹は在地社会に賑恤したが、その賑恤のせいで、在地社会の再生産構造が破綻した。ありがた迷惑をやった。谷川氏の言うように、在地の名声を得るために、賑恤したのでない。張倹の名声は「党人」として充分だった。

理解しづらいので、釣りの例え話をする。
釣りが趣味の張倹は、趣味に熱中するために会社を辞めたので、仲間からの名声があった。漁場を快適にするため、漁場の整備をした。沿岸をコンクリートで舗装したから、魚がいなくなった。だが張倹のアイデンティティは、会社を辞めたという勇気である。漁場をダメにしても、名声は衰えなかった。
何だこの、自爆的な行動は。
あまりに理解不能なので(例えが悪いのか?)株式投資に例える。賑恤の「代価」として名声を獲得するというのが、市場主義、資本主義の発想法を採用しているようなので、比喩が、うまくいくはず。
当然のことだが、市場主義、資本主義は、つねに古今東西の社会で真理とは限らない。漢代の社会だって、同等の代価を得られるのが当たり前でない。交易の場面では、狭義の市場主義が成立したかも知れない。だが、社会全体に等価交換のルール(広義の市場主義とでも言おうか)があるわけじゃない。広義の市場主義が採用された社会とは、「努力すれば報われる」という不文律がある社会を想定してます。現代日本で想定(ないしは期待)される社会です。皇帝や豪族がいる後漢の社会は、広義の市場社会でない。賑恤と名声を「交換」できると考えるのは、きわめて近代的な手法です。それを諒解した上で、先行研究にしたがい、市場社会として後漢末をながめる。
何が言えるか。
後漢の豪族は、在地社会や一族に賑恤することで、名声を「購入」した。これは、今日注文すれば、商品が明日届く、という購買行為でない行動と名声が、1対1対応しないのは、直感で分かるし、史料から窺える。リターンは後日かも知れないし、リターンが自分の子の代かも知れない。ともあれ「共同体」とも呼べそうな場所で、長期的な視点で、賑恤と名声が「交換」された。
時間がかかるのだから、市場取引でなく、株式投資に似ているかも知れない。(当初の意味での)株式投資は、事業をしたいが資金がない経営者に、投資家がお金を供給してやり、経営者を応援するもの。必ず配当があるとは限らないが、中長期的に経営者の活躍を待ってみようと。経営者を目利きし、育てて、自分もきちんと儲けた投資家は、名声を獲得する。谷川氏の「名望家」と似てる?
やがて市場は、少数の集団(宦官)が独占した。余人は儲けられない。だから一部の豪族は「名士」となる名声をもとめ、一攫千金のバクチを打った。捨てるようにカネを払い、短期間で売り抜けないと破産するような暴挙にでた。いちど株が値上がりしても、すぐに暴落すると考え、株を持ち続けないで、投げ売る(田疇)。経営者を応援するのでなく、投資家自身の利益を最優先した(張倹)。バクチだらけの市場は乱れて、経済はますます荒れた(三国時代の人口減)と。
「名士」は、自暴自棄の投資家。もしくは、自暴自棄にならないと破産必至に追い込まれた、くるしい投資家。短期間の投機をくり返す。
さらには、株式への投資(在地社会への賑恤)を辞め、取引所から撤退し(移住)、金を持っている他の投資家に、まるまるカネを渡して、養ってもらう(魯粛)。他の投資家から集めたカネで、さらに大きなバクチをやる(周瑜の赤壁)。
退廃的だなあ。カネ転がし、名声転がし。笑

「名士」は在地社会に直結しないので、豪族の協力が必要だった。

ぼくは思う。「名士」みたいに、ザツな投資家になるなら、恵まれないサラリーマン(後漢の下級官人)をやっているほうが、マシである。少なくともぼくの全想像力においては。つまり、魯粛や田疇は「再生産基盤よりも名声がほしい」という行動原理で動いたとは、考えにくい。「名士」論がえがく人間像は、違うのかなーと。
これほどまでに、退廃的で自棄で危険な判断が、「合理的」となるのは、どんな状況か。ぼくは、こういう問題を立ててみたい。
読み直すと渡邉先生は、宦官の禍いを、やや感情的に描写する。「宦官が乱した後漢は最低!」という激情?が隠れてる。「党人」が過大評価されてるように感じる。前述した、党錮とのつながりを強調しすぎることへの違和感は、この偏重?が正体かも。「宦官の禍いは、良識ある人々が、自暴自棄になるほど、ひどかったのだ」が成立しないと、「名士」論はくずれる。宦官が袁紹に全殺されても、後漢への気持ちは戻らない。宦官をのさばらせたので、後漢への怨みが消えないからな。(先生はここまで書いてない。ぼくが矛盾をなく理解につとめた結果です)
張倹が、「私は党人でした」とプラカードを首から提げているだけで、賑恤の活動が必要ないほどの名声が手に入ってしまう。これが「名士」の生きた後漢末である。

在地社会に賑恤し、在地社会にとどまった「名士」もいた。

【追記】本掲示板で遠藤さんはいう。何が後漢を不安定にしたのでしょうか。思うに、やっぱり一番でかいイベントは全国規模の戦乱になった黄巾の乱だと思うのです。「宦官の専横」は、宮廷限定で全国的にはあんまり影響がなさそうに思えます。例えば梁冀の専横では、梁冀一派が誅殺されて一時は宮廷が空っぽになるほどだったといいますが、後漢末期に比べるとかなり混乱が少ないように思えます。これは黄巾の乱などのような全国規模の武力反乱がなかったためなのではないでしょうか。(引用終)
ぼくは思う。梁冀の事例は、ぼくも書こうと思ったことです。ぼくの回答は以下です。
黄巾のせいで不安定になった。その側面は絶対にあると思います。(否定する理由がない)しかし先行研究は、私の見た範囲では、 黄巾の乱を、いまいち組み込んでくれないことが多いです。東晋次氏の本では、黄巾に触れませんでしたって、わざわざ書かれてます。 黄巾に言及すると、黄巾そのものを掘り下げて、ほかと両立しなかったり。
黄巾の乱は、陰謀が漏れて、計画より早く暴発して、同年中に静まった。 「中平」と改元して、めでたしめでたし、という話に史書はなってる。でも、 陶謙が徐州黄巾を鎮めに任命されたのが184年より後だったり、 青州黄巾が盛んで、184年の集団との関係がよく分からなかったりしています。 「184年内に鎮圧、皇甫嵩と朱儁、よくがんばった」 というのは、実態とちがう「公式見解」のたぐいで、実態は、 「名士」の誕生を促してしまうほどの、戦乱の継続があったのかも知れません。
「黄巾の乱のとき、党錮を解除した」と史料にある(皇甫嵩伝)から、やっぱり党錮は影響がデカイ!と反論されそうですが、このとき解除されて官界を(時代を規定するほど)牛耳ったのって、誰だろう。いない。というわけで、やっぱり在地社会の黄巾の乱が、「名士」誕生の理由として、説明が通じやすいなあ、と思ったのでした。

だが、在地社会のとの直接的な関係を、一義的なものとしない。

ここに論証がない。よく分からない。孫権を掣肘した「名士」、呉の四姓は、もろ在地にのこって、権勢をふるっている。もし呉の四姓が、そのまま荊州に移動したら、おなじ名声を持てたか?
別の比喩で「名士」を捉えれば、「家出して、退職したが、ツイッターであの有名人からフォローされているぞ」というのが、「名士」だ。不安だと思うなー。


三国政権と「名士」層_081

「名士」は名声を保持しながら、曹操ら軍閥に入る。だが名声は、君臣とは別の場で形成されたので、曹操の政治的秩序にすんなり収斂されない。

ここに暗黙の了解がある。渡邉先生は書いてないが、曹操は後漢の再建者でなく、曹魏の創始者として扱われている。曹操が司空や丞相をやっているのは、宦官がいた後漢と同じでない。という前提がある。別の場所で曹操を「後漢の再建者」というが、その記述と082ページあたりは整合しない。
宦官があばれる後漢が秩序を破壊した、政治権力や在地社会がリセットされた、曹操がゼロから王朝を立ち上げた、という前提がある。渡邉先生はこんなことを書かないが(史料とあまりに違うしね)この前提を読みとれてしまう。
自暴自棄の「名士」を成り立たせるには、後漢末の混乱が、ひどければひどいほど良い。後漢が、絶望すべき王朝なら、絶望すべき王朝なほどよい。
これは渡邉先生が三国ファンだからでない(あとがきでファンだと書いておられるが、今回は関係ない)。渡邉先生が、後世から遡及させる視点で、議論を組み立てているからだろう。「名士」は、両晋南北朝の貴族の、前身でなければならない。だから後漢は、ひどく滅びねばならない、と。党錮の強調も、同じ理由かな。ぼくのなかで、1週間のモヤモヤが、勝手に解決した。

「名士」の名声は不安定なので、皇帝権力に妥協した。

承前。遡及的に後漢末を見るという渡邉先生の視点は、六朝貴族のものと同じだろう。ぼくが思うに、范曄『後漢書』は、「なんで中原を異民族にとられたか」という、南朝宋の反省が、編纂される動機である。前に書いた。党錮を強調したい、六朝貴族や范曄らの視点は、渡邉先生の視点と親和する。
このサイトで、以前にこの本を扱ったとき、「名士」論は六朝貴族の自画像を、そのまま認めた学説だと記した。貴族にしてみれば、自分たちの子孫は、清く正しい名声があるに越したことはない。だから史料のなかに、美談があふれたと。ぼくは現在も同意見だ。「名士」論は、六朝貴族と、この点でも解けあう。
思うに、
遡及的に歴史を見るときの陥穽は、歴史の結果を「必然だ」と考えてしまう点にある。結果から歴史をながめる人は、ほかの結末にころんだ可能性(イフ物語)を捨てる。「もしもを考えても、仕方ないでしょう。合理的でない」というとき、「結果にいたるのは必然だった」と言っているに等しい。等しくないまでも、心持ちはとても近い。
遡及的な視点をこじらせると、歴史の結果を「最善の選択が、積み上がったものだ」と捉えてしまう。必然たる地点まで時代情勢を運んだ人々は、よくがんばった、良い選択をした、と考えてしまう。
(早くに後漢を見捨てた郭泰の言論が新時代を作った、という話になりがち)
で、ぼくが「名士」論を読んで、次に何をしたいかと言えば、「後漢は宦官が腐らせたダメな王朝」という、思考停止を避けたい。後漢の末路に、きちんと目を向けたい。知識を増やしたい。分析を加えたい。

「名士」は名声を皇帝に承認させるべく、九品官人制へゆく。

名声が不安定なのは、「名士」も自覚していたという設定なのね。なるほど。こんな不安定なものを、再生産機構を手放してまでも、ほしがったのか?よほど後漢末が恐慌状態だった、という前提があるにちがいない。
渡邉先生がいま書いた、皇帝に管理させる(管理されてしまう)名声は、まるでアーケードゲームの『三国志大戦』に似ている。 いくら時間や金銭をつぎこんで、強さのランクをあげても、配給元の一存で、ランクの意味が喪失してしまうらしい。このゲームにおけるランクが、官位とか「品」で表現されていたのは、絶妙な皮肉だと思う。
徹夜でレベルをあげたRPGのデータが一瞬でとぶ。実態がないからな。実態のない「名声」は、いかにも人間的な営みだが、実態を手放してまでも得るものじゃない。


いろいろ気分的に未解決なので、続いて読む、、と思います。120203

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