表紙 > 曹魏 > 楽浪太守となり、公孫度に曹操の強さを説く、涼茂伝

泰山太守、楽浪太守の涼茂伝

『三国志集解』を見つつ、涼茂伝をやります。

曹操に辟され、司空掾、侍御史、泰山太守

涼茂字伯方,山陽昌邑人也。少好學,論議常據經典,以處是非。太祖辟為司空掾,舉高第,補侍御史。時泰山多盜賊,以茂為泰山太守,旬月之間,襁負而至者千餘家。

[一]博物記曰:襁,織縷為之,廣八寸,長尺二,以約小兒於背上,負之而行。

涼茂は、あざなを伯方という。山陽の昌邑の人。

『郡国志』はいう。兗州の山陽である。

わかくして学をこのむ。論議は、つねに經典を根拠とし、是非を判断した。曹操が辟して、司空掾とした。高第に挙げられ、侍御史に補された。

『続百官志』はいう。司空掾属は29人。侍御史は6百石。察挙をつかさどり、悲法、公卿・群吏の奏事を受けた。遺失があれば、劾めを挙げた。
ぼくは思う。いつも曹操は、辟して人材を巻きこみ、活用する。涼茂は山陽の人だから、曹操が袁紹に勝つ前でも、辟されることができる。曹操が司空だから、190年代の後半に辟されたのかな、

ときに泰山には、盜賊がおおい。涼茂は泰山太守となり、旬月の間に、幼児を背負って、1千余家が帰順した。

ぼくは思う。幽州方面の平定も、青州方面の平定も、『三国志』11巻で、同じような人たちが、同じような記述の温度で達成する。青州から遼東に海路があるし、、中原から見れば、同じような「辺境」だったのだろう。泰山方面には、名前つきの異民族(烏丸や鮮卑)はいないが、不服従の様子は、似たようなもの。山地が険しければ、不服従の勢力が残りがちなのは、揚州の山越も同じかな。


楽浪太守となり、公孫度をおどす

轉為樂浪太守。公孫度在遼東,擅留茂,不遣之官,然茂終不為屈。度謂茂及諸將曰:「聞曹公遠征,鄴無守備,今吾欲以步卒三萬,騎萬匹,直指鄴,誰能禦之?」諸將皆曰:「然。」

[二]臣松之案此傳云公孫度聞曹公遠征,鄴無守備,則太祖定鄴後也。案度傳,度以建安九年卒,太祖亦以此年定鄴,自後遠征,唯有北征柳城耳。征柳城之年,度已不復在矣。

涼茂は、樂浪太守に転じた。

楽浪郡は、明帝紀の青龍元年にある。
洪亮吉はいう。漢末、公孫度は、楽浪郡をわけて、帯方郡をおいた。曹魏の景初2年、公孫淵が滅ぼされ、曹魏に編入された。

公孫度が遼東にいて、ほしいままに涼茂をとどめた。だが涼茂は、ついに公孫度に屈さず。

ぼくは思う。なんで曹操は、わざわざ公孫度がいる楽浪に、涼茂を飛ばしたんだろう。曹叡の代まで、けっきょく公孫氏はのこる。カンタンに片づく勢力じゃないのだ。「泰山太守として成功したノリで、楽浪もたのむ」ってことか。やはり、青州方面と、幽州方面は、似たような課題だと認識されてたようだ。

公孫度は、涼茂と、公孫度の諸将にいった。「曹操が遠征してくると聞いた。鄴県は守備がない。歩卒3万、騎兵1万で、鄴県を直撃したい。曹操の配下は、誰にも防げないはずだ」と。諸将は「そうだ」と言った。
裴松之はいう。鄴県をガラ空きにして曹操が遠征するのは、曹操が鄴県を定めたあとだ。

史学的に、とかじゃなく、論理的にそうだよな。という裴松之の指摘。

この涼茂伝で、涼茂は建安9年(204)に死ぬ。曹操は、この建安9年に、鄴県を平定して、ただ柳城に北征しただけた。台詞の前後関係がおかしい。

又顧謂茂曰:「於君意何如?」茂答曰:「比者海內大亂,社稷將傾,將軍擁十萬之眾,安坐而觀成敗,夫為人臣者,固若是邪!曹公憂國家之危敗,愍百姓之苦毒,率義兵為天下誅殘賊,功高而德廣,可謂無二矣。以海內初定,民始安集,故未責將軍之罪耳!而將軍乃欲稱兵西向,則存亡之效,不崇朝而決。將軍其勉之!」諸將聞茂言,皆震動。良久,度曰:「涼君言是也。」

また公孫度は、涼茂を顧みていった。「どう思うか」
涼茂はこたえた。「天下が大乱したので、公孫度は10万を擁していられた。だが曹操が、天下を安定させた。すでに安定した今、軍勢を西したら、公孫度は負ける」と。

ぼくは思う。遼東の烏丸や公孫氏は、曹操の実力を値踏みしている。「曹操は、むりに袁氏を倒したが、安定しないだろう」と思っている。曹操の実力を宣伝するため、おおくの人士が使命をおびて、ほぼ単身で乗りこんだ。いま涼茂だって、公孫度の諸将に同席している。公孫度が「涼茂を殺せ」と言えば、120%、殺害が可能である。
烏丸や公孫氏も、中原の情勢に耳を傾けないではない。涼茂や牽招が、口八丁で、北方の情勢を操っていく。
曹操は、長年かけて北伐した。この北伐は、必要なければ、やらないのがベストだった。涼茂や牽招 による説得は、半分は成功したが、半分は失敗だな。列伝を読む限り、成功した!という話ばかり書いてあるが。曹操の使者は、足許を見られ続けたのだ。

諸将はふるえ、公孫度も「涼茂が正しい」と認めた。

盧弼はいう。ある人がいう。涼茂伝のなかで、この逸話は、歳月が合わない。
ぼくは補う。上述のように、公孫度のセリフは、曹操が遼東に入りこんで遠征した時期でないと吐けない。このとき、涼茂は死んでいるはずだ。
ぼくは思う。けっきょく、こういう「外交の言辞」は、聞き書きないしは、自己申告だったのだろう。メモったとしても、涼茂の属官とか(広義の自己申告だな)。どうしても涼茂が、カッコよくなる。涼茂は、何らかのかたちで、公孫度と談話したのだろう。だが、公孫度の一言一句までは、正しく記されなかった。チェックが甘くなった。


魏郡太守、甘陵相、のちに曹丕の八友

後徵遷為魏郡太守、甘陵相,所在有績。文帝為五官將,茂以選為長史,遷左軍師。魏國初建,遷尚書僕射,後為中尉奉常。 文帝在東宮,茂復為太子太傅,甚見敬禮。卒官。

[三]英雄記曰:茂名在八友中。

のちに徵され、うつって魏郡太守、甘陵相となる。治績あり。

魏郡の治所は、鄴県だ。武帝紀の初平元年にある。
甘陵は、武帝紀の建安9年にある。『郡国志』はいう。冀州の清河国である。桓帝の建和2年、清河王を、甘陵王と改めた。
王先謙はいう。建安11年、国を除かれ、郡となった。『後漢書』献帝紀に、清河「郡」とある。曹魏では、清河郡だった。
盧弼はいう。涼茂が甘陵相に任じられたのは、建安11年より以前だ。
ぼくは思う。楽浪太守から、いきなり内政担当になった。牽招は、辺境での活躍に味をしめられ、辺境を転戦したのに。よく分からないが、高齢だったのかな。曹操の代に死んでいるし。落ち着いて学問を身につけていることから、青年期を、後漢の平時に過ごしたのかも知れない。

曹丕が五官將となると、涼茂は選をもって、長史となる。

洪飴孫『三国職官表』はいう。建安16年、曹丕が五官中郎将となった。ときに、副丞相は、官属をおいた。長史には、涼茂、邴原、呉質がついた。『魏略』にある。

左軍師にうつる。

相国府の属官に、左軍師がある。1人、第5品。

魏國が初じめて建ち、尚書僕射にうつる。のちに、中尉奉常となる。

尚書僕射は2人。6百石。第3品。建安18年、初めて置かれた。
ぼくは、中尉奉常を知らなかった!
『続百官志』はいう。中尉は1人、比2千石。建安18年、魏国が初めて中尉を置く。『魏都賦』注にある。 黄初元年、執金吾と改められた。建安21年、魏国は初めて奉常を置いた。武帝紀の注にある。黄初元年、太常に改められた。

曹丕が東宮にあると、涼茂はまた太子太傅となる。敬禮された。卒官した。

涼茂の子は、郎中を拝した。文帝紀の延康元年の注『丁亥令』にある。

『英雄記』はいう。涼茂は、八友の1人である。

周寿昌はいう。『後漢書』および『三国志』劉表伝にひく『漢末名士録』にある、八友のなかには、涼茂の名がない。
ぼくは思う。裴松之が注釈した場所から推測するに。曹丕の「四友」を拡大したものに、「八友」があったのだろう。劉表が含まれた八友であれば(そう裴松之が考えたなら)もっと列伝の前半に、注釈をつける。周寿昌とぼくが見られない史料で、『英雄記』のなかに、曹丕の八友があったのでは。
涼茂は、曹丕と友達というより、教師かなあ。
と思って、いま、ちくま訳を見たら、〔文帝の〕八友、と補ってあった。


公孫度の説得が、いちばんの見せ場だったのだが。盧弼に、年代が合わないと言われる始末。ちょっと残念だった。110406

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