表紙 > ~後漢 > 臧嵘『東漢光武帝劉秀大伝』を抄訳する

3章下:隴西と巴蜀をたいらぐ

臧嵘『東漢光武帝劉秀大伝』(人民教育出版社・2002)の抄訳です。
214ページから、261ページをやります。

3-4 西して、隴蜀をたいらげる

隗囂と光武の関係が、反復する

030年5月、はじめて隗囂とたたかう。034年10月、来歙が落門をやぶり、隗純をとらう。4年半前後かかった。028年、はじめて公孫述とたたかう。馮異は、公孫述の李育らと、陳倉でたたかった。036年11月、臧宮が成都をおとしすまで、8年。この戦いで、馮異、祭遵、岑彭、来歙をうしなった。ただし、030年、隴坻で大敗したが、ほかに大敗はない。隗囂とは、心を攻めてたたかった。
光武と隗囂の戦いは、3つの時期にわかれる。

1つ。025年6月、光武が即位したとき、12月に隗囂は、西州上将軍となる。027年に、来歙が隗囂を、臣従させるまで。盟友の状態だ。隗囂は鄧禹を手つだい、馮愔をやぶる。この時期、もっとも関係がよい。
2つ。028年底、隗囂が馬援を、成都と洛陽にやり、様子をさぐった。030年5月、正式に反目した。隴坻の戦いがあった。隗純を人質にしたが、あやしい。

ここで本は、隗囂伝にもとづき、隗囂の素性をかたる。216ページ。

隗囂は、王莽政権にいた、谷恭、范逡、趙秉、蘇衡がいる。のちに後漢の名臣となる、鄭興、申屠剛、杜林がいる。馬援、竇融、班固、金丹がいる。隗囂は、文人政府の色あいがある。隗囂は「復漢」を年号とした。
光武が、東北南をおさえると、隗囂は自立した。馬援と班固に、反対された。030年、隴坻で光武と、大戦した。

3つ。030年、隴坻の戦いから、034年10月の滅亡まで。来歙伝、隗囂伝にある。光武が山東をたいらげた。隗囂は、ユウ士、長者にそむかれた。032年、略陽の戦いで、王遵にそむかれた。光武は、7将軍で隴上をせめた。祭遵、蓋延、耿弇、王常、馬武、劉歆、劉尚。馬武伝に、光武の大敗がある。山東の戦いでは、大敗がないのに。
031年、隗囂は公孫述と、正式に同盟した。馮異が、栒邑を先どりした。決戦は、032年正月に、はじまった。『東観漢記』もあわせて、読むこと。来歙伝、馮異伝、馬援伝にある。034年、隗純をとらえた。

戦闘の経緯が、223ページなどにあり。はぶく。


光武が隗囂に勝った原因

隗囂と交渉をもってから、平定まで10年。だが交戦したのは、4年だ。光武は、馮異と祭遵をうしなった。先行研究は、隗囂が隴西にこもり、孤立したという。だが、分析が足りない。光武の勝因はなにか。
1つ。戦略があたった。全国の形勢がきまるまで、馮異をあてて、隗囂をなだめた。山東がおさまるまで、隗囂に「殊礼」して、なだめた。来歙が、略陽を奇襲したのが、よかった。030年12月、王元と栒邑で戦ったとき、馮異の作戦があたった(馮異伝)。032年、高平の戦いで、光武は漆県にきた。さいごは、公孫述の援軍をやぶった。落門をやぶり、天水の冀県と上邽をとり、徹底して勝った。

とりあえず、やったことを、全部ほめてる感じ。勝ったほうを「なぜ勝ったか」と分析するのは、むずかしい。だって、その分析がはずれていて、ほかの原因で勝ったとしても、その分析ミスがわからない。よく、いちど成功した人が、おなじ方法をくり返し、失敗する話がある。自分で分析した、成功の原因が、あたっていなかったのだ。


2つ。政治の瓦解と、軍事の進行を、同時にやったから。光武は統一戦争で、政治の作用を、かろんじない。027年、来歙が策略をといた。祭遵も牛邯も、洛陽にくだった。隗囂が起兵するとき、「31将、16姓」いた。ついに「大将13人、属県16」が、戦わずにくだった。光武のゆさぶりが、きいている。 来歙、馬援、竇融を、あつくもちいた。
3つ。人民の支持。馮異が関中で、善政をしいた。030年5月、天水、隴西、安定、北地で、死刑でない人をゆるした。同年6月、吏職を10分の1にした。隗囂は、光武にとおくおよばない。

ぼくは思う。東方(斉魯)や、南方(荊楚)とちがって、隗囂や公孫述というライバルが、固定されている。わかりやすい。


地がひろく、兵がつよい、公孫述

なぜ公孫述が強敵か。
1つ、巴蜀をもつ(ゆたかさは公孫述伝)。
2つ、公孫述が「等閑のやから」でない。公孫述と隗囂のみは、才能が超越した。公孫述の経歴は、『後漢書』公孫述伝と、『華陽国志』にある。公孫述は、図讖をつかった。
3つ、公孫述は隗囂とちがう。隗囂は「西伯になりたいなあ」と、あまっちょろい。だが公孫述は、東と北を、きつく攻める。これも『後漢書』公孫述伝と、『華陽国志』にある。馮異伝、岑彭伝で、ふせいだ記事が有る。033年、任満が荊州をせめると、光武は、ふたたび荊州7郡をうしなう危機となった。公孫述が強敵たるゆえん。
4つ、公孫述は、光武の宿敵をかくまった。027年に陳倉でやぶった呂鮪。南陽でやぶった延岑、夷陵の田戎。『華陽国志』も見ること。公孫述は、かくまった部将を活用した。

臧嵘氏は、公孫述を「光武と不倶戴天の強敵」とする。いいなあ!光武には、強いライバルがいないから、人気がでないのだ。公孫述には、どんどん英雄になってほしい。


光武のまわりでは、たびたび平蜀が言われたが、かなわず。
029年2月、岑彭がいう。同年12月、光武がいう(隗囂伝)。030年もいう。同年4月、蓋延らに公孫述をうたせるが、ならず。032年、光武が岑彭にいう。035年、やっと最終戦。はやくから、準備をしていたのだ。

光武が巴蜀を平定する戦争

巴蜀の平定は、『後漢書』岑彭伝、呉漢伝、公孫述伝、光武紀、来歙伝、『華陽国志』にある。035年3月にはじめ、036年11月に、成都をほろぼした。12年半、かかった。

それぞれの列伝を読めば書いてあるから、いまは、ひかない。荊州の軍備とは、成都への近づきかたとか、よく整理されてる。参考になるなあ。


公孫述が滅亡した理由

公孫述の滅亡に、古今の議論は、公平でない。范曄は、ケナす。だが12年も巴蜀をたもち、無能なわけがない。公孫述は、人心をあつめた。隗囂の王元、荊州の田戎、反復をくりかえす延岑が、ついた。『華陽国志』は、公孫述が財物を愛さないという。公孫述の部将は、みな公孫述に殉じた。
ではなぜ、公孫述は失敗したか。原因は3つ。
1つ。光武は全国をほぼ平定した。公孫述は、せまい。
2つ。政策と策略で、ミスがあった。公孫述は、天下をおさめる計画がなかった。郡県に子弟を封じて、巴蜀にこもってしまった。『華陽国志』に、主簿の李隆との議論がある。公孫述は人心をうしなった。

巴蜀にこもるのか、どのくらい出てゆけば、よいのか。人心をあつめ、経済のバランスをとり。サジ加減が、むずかしい。もちろん、諸葛亮を念頭において、考えるべきこと。

なお、公孫述が迷信にまどうのは、後漢の曲筆だ。
3つ。光武が巴蜀をせめる戦略が、正確だった。まず山東に、集中した。つぎに隴西と荊州をおさえた。呉漢伝にある順序など。成都を攻めるとき、光武は呉漢に、ただしい指示をだした。

3-5 光武が統一戦争に勝利した4つの理由

曹魏の曹植によるコメントもあり

025年に即位し、036年に公孫述をつぶし、12年の統一戦争をおえた。なぜ光武だけが、勝ったか。光武のキャラに帰する説がある。任光、竇融、馬援らとの関係を理由にする説がある。銅馬に信頼されたこと、馮異を信じて関中をゆだねたことなど。高帝の劉邦をうわまわる。曹魏の曹植のコメントは、『全三国文』にある。

うつくしい「漢詩」のような評価が、いくつか引用されている。韻をふんで、うつくしいのだろうが、ぼくは理解できない。文意だけなら、成功者のだれにでも、あてはまりそうな内容。

この本で臧嵘氏がみるに、4つでライバルにまさった。

人材、戦略、政治、民政

1つ。人材がうまい。雲台28将をつかい、文官に儒術させた。南陽の鄧禹と李通。河北の呉漢、耿弇、寇恂。更始の帰徳侯の秦豊、下江の王常。河西の竇融。洛陽でくだした、兄の仇敵・朱鮪。肌ぬぎの王常を、なぐさめた。隗囂についた牛邯を、東平相、護羌校尉とした。公孫述の故将をいれた。
政策の転換で、意見をきいた。馮異、鄧禹に、河北の独立をすすめられた。上谷で耿弇、信都で邳彤に、はげまされた。馬援の計略をきき、隗囂をおさえた。
寇恂に河内をまかせた。岑彭に南陽をうたせた。王常を岑彭の副官とした。来歙を隗囂におくった。馬援を公孫述におくった。
026年、呉漢が荊州でミスったが、公孫述をまかせた。呉漢の巴蜀ぜめを心配して、手紙をかいた。馮異に関中をまかせた。
『李忠定公文集』はいう。寇恂、鄧禹、耿弇、賈復は、子弟のように愛された。

2つ。戦略と戦術が、正確だった。
洛陽をおさえてから、北(漁陽)、南(荊楚)、東(斉魯)が、敵対する。まず鄧禹を関中にやり、長安をおさえた。大統をついだ。関中をとったので、隴西と巴蜀のクサビとなった。山東がいそがしいので、まず隗囂、公孫述と同盟した。山東がおわってから、隗囂、公孫述に着手した。隗囂は027年に、洛陽へきた。のと6年間、光武は隗囂を味方にした。
山東がおさまる前、小ぜりあい、あり。027年、馮異が、公孫述の李育と程烏をふせいだ。030年、任満が江関にきた。だが035年まで、公孫述と対立しない。東方をさえてから、隴蜀をのぞんだ。
光武の東方への戦略は、どんなか。洛陽と河内を中心に、扇型をつくり、東北南と戦った。026年、おなじとき、岑彭を南陽に、蓋延を劉永に、祭遵を彭寵にむけた。だが、重みづけは、時期により変化する。たとえば岑彭は黎丘で秦豊を3年かこむと、朱祐1千未満をのこして、ひいた。ひいた岑彭は、夷陵で田戎と戦った。また呉漢は、山東がおさまると、隴西にうつった。
光武の軍団は団結し、光武のつかいどころが、よかった。もし、東北南1つでも、やぶれたら、収拾がつかない。ゆえに光武は、むつまじい臣下を、つかいこなした。

3つ。軍事と政治を、並行してやった。「政治で心を攻める」には、2つの意味がある。A、利害を説いて、降伏させる。B、敵を同討させて、勢力をそぐ。光武は、AとBを兼用した。洛陽で朱鮪をくだした。来歙と馬援をつかい、隗囂をゆさぶる。最後には、隗囂の部将・周宗、行巡、苟宇、趙恢らがくだる。劉永には鄧隆をおくる。栒邑で馮愔が鄧禹にそむくと、宗廣に分裂させた。

4つ。人民に寛舒だ。人民を、殺したり盗んだりしない。026年、馮異を関中におくるとき「郡県をくるしめるな」と言った。光武の軍紀は、きびしい。賈復と寇恂のケンカを、なだめた。朱祐は百姓を虜掠しない。寇恂と朱祐は、光武におもんじられた。

朱祐伝は、おぼえてない。もう1回、よもう。カゲうすいぜ。

光武が呉漢が南陽でミスると、呉漢をやめた。呉漢が公孫述の妻子をころすと、光武は怒った。張湛が蜀郡でぬすまないと、光武はほめた。張湛伝にある。
統一戦争しながら、減税して、奴婢を解放した。牧守令史の人事考課と、冤罪の再検討も、よろこばれた。026年3月、天下に大赦して、王莽の苛法をのぞいた。029年5月、死刑でない人を、庶人とした。030年5月、天水、隴西、安定、北地に隗囂がおいた吏人を、ゆるした。隗囂の政権と、あらそった(光武紀)。
杜詩は031年、南陽太守となった。民を愛した。盗賊がへり、百姓がよろこんだ。耿純は東郡で、善政した。申屠剛は隗囂に「東方は平安だ」といった。光武は善政して、統一戦争を勝った。

ぼくは思う。成功した人の分析は、もし分析が外れていても、反例が見えない。全部、美談にまとめられる。史料の多さのわりに、分析が困難だなあ。

臧嵘氏の本の後編「治国」へ、ゆくのだろうか。つづく。110822

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