表紙 > ~後漢 > 臧嵘『東漢光武帝劉秀大伝』を抄訳する

3章上:2都と東南北をたいらぐ

臧嵘『東漢光武帝劉秀大伝』(人民教育出版社・2002)の抄訳です。
154ページから、213ページをやります。

3-1 東西の2京を征服する

更始と赤眉がほろぶ

洛陽をおとすのは、光武が皇帝即位した3ヶ月後。025年9月だ。光武は10月、洛陽へ。洛陽をおとす前後、岑彭、蓋延、呉漢は、荊州へむかう。南陽、上党、河内を安寧にして「3郡は清静」となる。
このとき天下は、更始と赤眉がほろびて、光武に有利となった。更始は、023年2月に南陽でたち、025年10月に赤眉にくだった。2年8ヶ月の皇帝だった。鄧禹は長安へゆく。鄧禹から馮異にかわり、027年正月、馮異が赤眉を宜陽でくだす。

154-159ページ、この過程がある。『後漢書』の整理なので、はぶく。


更始と赤眉がやぶれた理由を分析する

光武と、更始と赤眉の戦いは、先行研究の評価がひどい。光武は、農民である更始(緑林)と、盆子(赤眉)の政権を、だましとったと。だがこの評価は、ちがう。

更始、盆子、光武を、同質の政権だとみるのが、この本・臧嵘氏の立場。王莽をたおし、天下の生産を復興しよう、という政治目標をもった集団。

王莽末、みだれた。隗囂伝、馮衍伝にある。更始は、この情勢にのって、天下の要求にこたえた。だが更始は、内部と外部に、4つの問題があった。

1つ、政権内の意見対立。更始は劉縯を殺した。朱鮪が、異姓王を受けなかった。李軼、朱鮪が山東でほしいまま。王匡、張卬があばれた。趙萌が、牛耳った。更始を劫略して、申屠建や張卬が、長安であらそった(劉玄伝)。

この派閥あらそいは、わかりにくいが。けっきょく劉玄伝だ。

2つ、友軍の政策を誤った。ともに王莽を討った、赤眉に封邑をあたえず。申屠建、李松、隗崔と、あらそった。長安を陥とした王憲、鄧曄ら、長安まわりの軍閥につめたい。王莽伝で王莽をほろぼした人が、劉玄伝で活躍しない。方望、隗囂の自立をまねいた。
3つ、更始が腐敗した。『後漢書』で更始は臆病だが、これは後漢の史家が、曲筆したもの。更始は報仇するなど、聡明な人だ。だが長安で、権力におぼれた。王莽とおなじ失敗をした。貪婪・享楽で、百姓を苦しめた。耿弇伝が分析するとおり。
4つ、最大の失敗は、民心を失ったこと。官爵を乱発して、婦女とあそんだ。

赤眉も、更始とおなじ失敗をした。明確な政治目標がなく、迷信をたよった。赤眉は長安に、1年3ヶ月いた。025年9月から、026年12月だ。
つよい求心力がないのも問題だった。盆子は、気弱だから選ばれた。
長安で掠奪して、民心を失った。先行研究は「呂后の腐敗した死体をおかすというのは、レトリックだ」という。ともあれ、掠奪した。三輔が飢えた。鄧禹が長安に入らなかったのも、長安に食糧がないからだ。人士が隗囂にながれた。

更始と盆子の敗因を説明するとき、たくさん事例がひかれてる。『後漢書』で読んだことがある話なので、こまかく引用しなかった。ここまで、173ページ。


光武が、更始と盆子に勝った理由

1つ。光武は、民情を理解した。王莽にあらされた農民にやさしい。026年正月、功臣を封じるとき、農民の感情をおもんじよ、という。『後漢紀』は、三輔の平定を、鄧禹から馮異に交代する勅文をのせる。農民の生産をおもんじよ、という。026年3月の詔書で、刑罰をゆるめよという。

いやあ、史料があるから、光武がすばらしく見えるだけでしょ。更始も盆子も、もし詔書をだすなら「農民はだいじだ」と言っていたはずだ。『後漢書』にのこらないだけで。盆子なんて、赤眉が長安で掠奪するから、皇帝の位をボイコットしたじゃん。

2つ。光武は、「忠厚の臣」卓茂をもちいた(同伝)。司馬光がほめた。伏湛をもちいて、洛陽をまかせた(同伝)。人民を擁護して、ひろく人材をもちいた。
3つ。光武の軍紀は、きびしい。河北で李忠がぬすめば、李忠を罰した(朱祐伝)。王覇は、兵士を愛した。銚期、馮異、祭遵もきびしい。 祭遵伝で、光武の親属の子が、軍紀をやぶって殺された。杜詩伝で兵士をとりしまった。鄧禹伝で父老をおもんじた。
4つ。光武は朱鮪の投降を受けいれた。王常の再合流をみとめた。関中にいた、鄧曄、于匡らに官爵をあたえた。更始が、ともに王莽を討った軍閥をこばんだのと、対照的だ。

光武の、プラス面ばかり、『後漢書』からひろった。更始や盆子に、適切な政策はあったはず。光武に、不適切な政策はあったはず。史料からのみ、エピソードをひろえば、いま臧嵘氏がやったのと同じ結果になるだろう。しかし、史料のウラを洞察すると、こんなカンタンな話にならん。膨らませられる。ぼくが、シロウトでよかった。


3-2 東方を平定する

東方で、劉永が乱をおこす

光武は、陜西、河南、山西、河北ら、黄河の中流「中原」をおさえた。しかし、光武には残敵がある。幽州の彭寵、内黄の五校、赤眉の残賊。郾県、宛県、堵郷、新野、弘農ら、そばの敵。梁王の劉永、巴蜀の公孫述、淮南の李憲、楚王の秦豊、瑯邪の張歩、東海の董憲、関中の延岑、夷陵の田戎。

『後漢書』『資治通鑑』を読んできたから、もう、ひととおり、わかるなあ。

東方が憂いだ。なぜか。
1つ、地理。劉永は、西防の佼強、東海の董憲、斉地の張歩とむすび、豫州、兗州、徐州、青州のすべてをおさえる。『後漢書』はいう。劉永は、北は黄河(河内と東郡の境界)、南は陳(淮陽)と汝南にいる。洛陽にちかく、脅威だ。

袁紹は、黄河を南渡する位置を誤ったか。袁紹は、後漢の光武をマネたとされる。光武は冀州をおさえ、上党と河内をおとし、洛陽にゆく。河南4郡は放置して、皇帝となった。袁紹は、河南4郡(=曹操)へ南下した。光武のマネが不徹底のせいで、負けた?というか袁紹が進軍する目標は、洛陽と許県(献帝)のどっち?

2つ、劉永の血筋。劉永のほうが「正統」である。沛県の周建、西防の賊帥がなびく。28県をおとした。張歩と董憲が、むすぶ。

河南4郡をおさえるという点で、曹操がマネたのが劉永。劉永の強みが「正統」だ。曹操が献帝をほしがった理由の、1つだろう。まあ劉永の前例がなくても、献帝が手元にあるに、越したことはない。


光武が、劉永の連盟をやぶる

026年、劉永の討伐をはじめる。025年11月、劉永は天子をとなえる。026年3月、蓋延が4将軍をひきいる。4月、睢陽をかこむ。032年に収束するまで、7年にわたる。
東方の戦闘は、3段階にわかれる。
1つ。026年3月から、027年7月まで。劉永の連盟が、もっともつよい。劉永が殺されるまで。
2つ。027年7月から、029年10月まで。おもな敵は、蘇茂、董憲、龐萌。029年、龐萌と蓋延を東にやり、龐萌がそむいた。東方は、呉漢伝によると十数万。027年、呉漢は、杜茂と陳俊とともに、蘇茂を広楽にかこむ。呉漢が落馬した。桃城、昌慮で、光武と激戦した(劉永伝)。つぎに、垂恵、桃郷、昌慮をうつ。028年秋、光武は、馬武と王覇をひきい、垂恵で、劉紆と周建をかこむ。029年6月、やぶる。7月、昌慮、新陽、建陽の三角地帯で、あらそう。董憲がちり、佼強がくだった。蘇茂は張歩ににげた。董憲と龐萌は、郯県らににげる。029年10月と030年正月、劉、董憲、龐萌は、斬られた。梁地と東海が、たいらいだ。

2つめの蘇茂、董憲、龐萌との戦いは、敵が複数いるので、わかりにくい。この本に、よくまとまっている。1つめの劉永、3つめの張歩は、まだ単線なので、わかりよい。

3つ。029年10月から、032年夏。おもに張歩との戦い。張歩伝、劉永伝。更始と赤眉のつぎに、最大のライバルをたおした。

7年にわたる東方の戦いは、ながびいて、くるしかった。赤眉は1年(026年1月、鄧禹が長安にはいり、027年閏1月くだす)。李憲は2年半(028年秋に戦い、031年1月くだす)。秦豊は半年(028年11月から029年6月)。彭寵は3年(026年春そむかれ、029年春おわり)。盧芳、隗囂、公孫述は、服従した時期をはさむので、おなじにカウントできない。
呉漢がキズついた。029年、龐萌と董憲に、蓋延がやぶれた。黄河の渡場をこわして、のがれた。光武が、親征せざるをえない。光武が苦戦した理由は、4つ。

7年も苦戦したのは、更始と赤眉との延長戦ゆえ

1つ。敵の地域が分散して、兵站がのびた。龐萌、董憲、蘇茂、佼強とたたかったときとか。『後漢紀』巻5は、百官が疲れたとある。蓋延伝で、深入りしたとある。耿弇が平原からきて、祝阿、西南、臨菑、西安をとおり、張歩の古巣・劇県にきた。張歩に利用された。
2つ。東方に割拠する勢力は、平時には、自己完結して政治する。だが、戦時に利害が一致すると、巨大な兵力の連盟となる。張歩が臨菑の城東にいるとき、耿弇が攻めた。張歩は、3人に弟とむすぶ。赤眉、青犢、銅馬、大ユウとむすぶ。20万の減いとなる。張歩の将・費邑が歴下にいるとき、祝阿、鍾城と「数十がつらなる」と。耿弇が費邑の巨里をうつとき「40余営」をたいらげた。呉漢が蘇茂を攻めると、周建は10余万で救う。
3つ。山東は、王莽のときから、階級闘争が、きびしい地域。呉漢がカク県の5姓に妥協した。西防と佼強や、平原の富平や獲索がいる。赤眉がおきた地域。0222年、梁郡で数万が起兵した(王莽伝)。王匡と廉丹が勝ったが、起兵したのは董憲だ。董憲は、ながく梁郡で活動する。『後漢紀』で董憲は、赤眉の初期に、重要な部将だった。赤眉の樊崇らは、瑯邪の人。

『東観漢記』によると、蘇茂は陳留の人で、淮陽太守をころし、淮陽郡をえて、広東に軍営した。蘇茂は、朱鮪とともに洛陽をまもった。陳留と淮陽は、劉永の重要な領土。
龐萌は更始の、重要な将軍だった。『後漢紀』では、龐萌は蓋延とあらそいった。龐萌は、緑林の大将。更始の冀州牧として、謝躬と光武とともに、邯鄲をたいらげた。龐萌は謝躬に「光武を信じるな」と言ったと。

龐萌は、光武と同格か、それ以上だな。更始の方面軍としては、かなり優秀。光武が龐萌に「私の幼子をたくせる」と言ったのは、ご機嫌とりだったのだ。ほんとうに、腹心だったのでない。光武は、ウソばっかりだ。

東方の集団が、赤眉の地域にあり、蘇茂や龐萌など、更始のOBをかかえたのは、重要な特色だ。更始や赤眉の余党との戦いだった。
ほかに、五校や大ユウらの農民勢力が、散らかった。時間がかかった。

更始や赤眉との戦いのつづき。なるほど!ものすごく、よく理解できた。更始がほろび、赤眉がほろびたあと、みなが頼ったのは、じつは劉永かも知れないなあ!いちはやく皇帝を名のっても、指示を得られない。後漢末のだれかと、おなじだ。


光武が、東方で勝利した理由

なぜ光武は、東方で勝利したか。理由は、4つ。
1つ。光武の個人的な指揮能力。桃郷で、張歩をやぶり、臨菑にいった。
2つ。劉永、董憲、張歩の連盟が、ゆるかった。光武が睢陽を数ヶ月かこんだとき、救わなかった。蓋延は、劉永の部将を斬ることができた。さいごには分散して、平定された。佼彊、蘇茂、周建など。
3つ。東方の勢力のもと、地方の守令がそむく。劉永が淮陽でやぶれ、虞県にゆくと、妻子を殺された。サン県の慶吾は、劉永を斬った。周建が死ぬと、子らは入城をこばまれた。張歩と蘇茂が、斬りあった。
4つ。東方の勢力は、兵糧や輜重をかろんじた。寇恂のように、つねに供給するルートがない。2回目に光武が劉永を淮陽でかこみ、城中は食い尽くした。029年7月、光武が昌慮で戦い、五校をまねく。五校は食い尽くして、撤退した。董憲は朐県で、食い尽くした(張歩伝)。光武紀は、029年に斉地をたいらげてから「田畝をふや」した。光武が生産を回復しないと、東部は飢えた。陳俊伝で、百姓はよろこんだ。耿弇は、張歩12郡をとり、10余万をえてから、郷里に返した。農民は流亡して、生産ができなかった。

光武は、中原に、斉魯をくわえた。北の彭寵、南の李憲、延岑、秦豊、田戎を、あいついで、やぶった。東南北がしずまる。隴蜀だけのこる。
洛陽で諸将がやすんだ。河内に軍士をわけた。父老や掾吏と、民政した。東方をたいらげた喜悦が、『後漢紀』巻5にある。

3-3 南征北伐

南方の割拠勢力

東方とおなじとき、南方を攻めた。026年3月、蓋延が4将をひきい、劉永をせめる。同月、賈復が2将をひきい、南陽をせめる。東方と南方は、同年の1月と2月に、収束した。

ただ史料を見るだけでは、わからないことを、こうして書いてくれるのが、いい。ダントーの「完全な記録者」にも、できないことを、臧嵘氏がやってくれる。理解がふかまる。っていうか、人間の「理解」って、「完全な記録者」の仕事を、横串にさすことだ。コレとコレは同じ、コレとコレは違う、と判定することが、そのまま理解につながる。

『後漢紀』はいう。030年正月、劉隆らは舒城をやぶり、李憲を斬る。2月、呉漢は朐県をぬく。董憲と龐萌を斬る。天下は、おおむね定まる。東も南も、4年ずつ並行したたいらげた。
南方も、敵が分散した。山がおおい。光武紀にあげる割拠勢力8つのうち、4つが南方だ。李憲、秦豊、延岑、田戎だ。荊州、揚州、交州をふくむ。南方で重要なのは、廬江、南陽、南郡の3郡だ。

廬江と南陽を、争奪する

廬江の李憲。『後漢書』に記述がすくない。『後漢紀』『東観漢記』、謝承『後漢書』をみる。比較的はやく、李憲は武装した。023年に王、027年に帝をとなう。『漢書』地理志で、廬江は12県。うち9県をおさえた。
光武は028年正月に攻めはじめた。027年7月、すでに傅俊が江南にゆく。同時に房兗が交州にゆく。『後漢紀』では、028年10月。『後漢書』傅俊伝では027年のこと。『後漢書』郅惲伝も027年とする。『資治通鑑』は027年とする。
傅俊の使命は、李憲をかこむこと。光武は、馬成に3将軍(劉隆、宋登、王賞)をつけて、会稽、丹陽、九江、六安をせめる(馬成伝)。030年1月、李憲を斬った。廬江は、すんなり勝った。
廬江の李憲がやぶれた理由は、2つ。
1つ。028年秋までに、李憲は四面楚歌だった。光武がみずからきた。城中を食べつくした。
2つ。李憲の内部で、ココ路がはなれた。『後漢書』李憲伝と、謝承『後漢書』では、淳于臨にそむかれた。郅惲伝で、李憲が農民をいじめたと記す。

南陽は複雑だ。新末に、矛盾がたかまった。更始は南陽に、劉賜と王常をおくる(各伝)。だが更始の南陽は、安寧でない。汝南で、流亡が天子をなる。023年8月から10月だ。のちに延岑がはいった。『後漢紀』は、劉嘉が延岑を南鄭でうったという。024年2月、更始が長安にゆくと、延岑が起兵した。『東観漢記』で秦豊が起兵する。岑彭伝の026年にある。
更始がやぶれると、郭丹伝にある平氏のように、独立した勢力もある。光武の南陽ぜめは、困難である。
光武は、南陽に着手した。光武は、更始の宛王の劉賜と、鄧王の王常に、協力をもとめた。026年、封侯した(王常伝)。南陽の岑彭を、征南大将軍として、専命させた。
賈復は「郾王の尹尊を、私がうつ」という。賈復、陰識、劉植が、尹尊をくだす。淮陽太守の暴汜をくだす。026年秋、召陵、新息をたいらぐ。河南と南陽のあいだだ。寇恂が頴川をたいらげた(寇恂伝、馮異伝)。『続漢書』巻2で、南陽の宛県より東南をおさえた。光武が、南陽をたたかう準備ができた。

南陽の戦争は、ながい。026年4月に呉漢が宛県を討ってから、029年6月に岑彭を黎丘でやぶるまでだ。3年余だ。南陽の戦争には、3つの山場がある。
1つ、026年8月から027年4月。呉漢が南陽でぬすみ、鄧晨が淯陽でそむいた。堵陽で董訢、新野で鄧奉がおうじた。黎丘で秦豊、武郷で延岑、夷陵で田戎がおうじた。『後漢紀』は「荊楚もっとも乱れる」とある。堅鐔が宛城で1年こもった。

臧宮伝、祭遵伝、にも荊州の記述がある。

026年11月、光武は、董訢、延岑をうつ。秦豊、王常、朱祐、賈復、耿弇らが、南征した(各列伝)。南征がすすまないので、027年3月、光武が親征した。秦豊伝では、027年夏だが、光武紀は027年3月。くだした。
2つ、延岑との闘争。027年春から、028年春。1年たらず。公孫述伝、馮異伝、劉嘉伝、盆子伝、朱祐伝にある。027年4月、1次討伐で馮異が上林でかつ。028年春、2次討伐で鄧禹が、延岑に武当でかつ。延岑は秦豊ににげた。

江南に檄文をうつす

南陽の最大の戦いは、3つめの秦豊との戦い。027年7月から、029年6月。秦豊は『東観漢記』にある。習鑿歯がひく『襄陽記』に、楚黎王の由来がある。『後漢書集解』で秦豊は、荊州12県をかすめる。12県とは、『東観漢記』によると、南郡、宜城、若編、臨沮、中廬、襄陽、南郡の鄧県、新野、穣県、湖陽、蔡陽など。夷陵の田戎とならぶ。
戦いは、岑彭伝、光武紀、朱祐伝にあるう。延岑と田戎が公孫述につくと、蛮夷、交趾牧の鄧譲が光武につく。『資治通鑑』は、南方の7郡がつくのを、029年底とする。『後漢紀』では、029年10月から12月とする。

なぜ光武は、南方で勝利したか。南方には、強敵がいなかった。鄧奉は、つよくない。短期間で平定した。南陽で最強なのは、延岑。蘇茂は「延岑がよく戦う」といった。延岑は、赤眉10数万をチラした。だが延岑は、南陽で負けつづけた。上林、析県、穣県、武当では、本拠からへだたり、延岑はよわい。岑彭と田戎は、在地の勢力だ。だが光武に分割されて、やぶれた。
光武が勝利した要因は、4つある。
1つ。全国の形勢。ほかの地域で、光武が勝った。2つ。光武は人材をいかした。岑彭、王常、賈復、朱祐、臧宮があたった。在地の人材は、地理にくわしい。3つ。撰述がよい。岑彭がよわると、岑彭を夷陵にさげた。朱祐に少数をつけ、黎丘をかこませた。呉漢が民心を失うと、岑彭にかえた。4つ。生産の復興をめざした。朱祐伝にある。武当の屯田が、劉隆伝にある。

北方で、彭寵の勢力をけずる

彭寵の反乱は、026年2月から。反乱の理由は、2つ。1つ、朱浮との対立。2つ、光武が彭寵を信じない。光武は、寇恂、呉漢、王梁をもちいたが、彭寵をもちいない。朱浮伝、彭寵伝にある。 彭寵との戦闘は、2回。1つ、026年8月、薊県の東の潞南。鄧隆に朱浮をすくわせた。張豊まで、そむいた。2つ、028年5月、軍都にて。これは光武が有利だった。伏湛伝、祭遵伝、耿弇伝にある。彭寵は、奴隷にそむかれ、殺された。みな祭遵にくだる。

列伝からの引用は、211ページあたりまで。河北と、東方(斉魯)と、南陽(荊楚)は、完全に理解していないが、出典となる列伝を確認して、引用をやめた。いま彭寵は、引用される列伝がすくないおかげで、だいたい、流れを理解している。


彭寵の失敗は、3つの原因による。
1つ。漁陽が、北の辺境だ。食糧にもこまる。上谷の耿況は、味方せず。しかし中原をおさえた光武には、かなわない。2つ。幽州の精兵は、のこってない。耿弇、呉漢、寇恂が、もちさった。光武は、幽州牧の苗曾をころし、銅馬をおさえ、兵力がおおい。3つ。内部にそむかれたことからも、天下が分裂をのぞまなかった。子の彭午を、かついでもらえなかった。

以上、彭寵、董賢、龐萌、張歩、李憲、秦豊、田戎、延岑らを、たいらげた。029年までに、管制した。だが、盧芳、隗囂、公孫述がいる。ともあれ、『資治通鑑』030年正月で、光武は一息ついた。つづく。110822

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