表紙 > ~後漢 > 臧嵘『東漢光武帝劉秀大伝』を抄訳する

1章:動乱の青少年時代

臧嵘『東漢光武帝劉秀大伝』(人民教育出版社・2002)の抄訳です。
025ページから、076ページをやります。

1-1 危機が四伏し、漢室が滅びそう

陰陽がみだれた、末世に生まれる

光武は、前漢の哀帝の、建平元年12月(前005年1月)に生まれた。班固ら『東観漢記』、范曄『後漢書』光武帝紀の下より。『漢書』孔光伝は、当時のひどい世相をいう。「陰陽がみだれる」と。哀帝が即位したのは、光武が生まれる20ヶ月前だ(前007年4月)。哀帝は、在位4年間。

前007年6月、哀帝が詔した。「豪族は、おおく奴婢をもつ。田宅はかぎりない。百姓が失職した」と。有司が「豪族の占有を制限せよ」という。師丹の政策「限民名田」だ。諸王、列侯、一般の地主は、田地と奴婢の占有が、数量をかぎられた。

以下、前漢がほろびる兆しを、紹介しているようです。

前007年秋、外戚の王根、王況が、罪あり。王根は、曲陽にゆく。王況は庶人となり、帰郷した。
前006年春、侍中・騎都尉の趙欽と、趙訢は、庶人となり、遼西にうつさる。
前006年冬、中山孝王太后媛と、弟の馮参は、自殺した。
前005年6月、待詔の夏賀良はいう。「漢室の暦数は、つきる。哀帝は、受命しなおせ」と。2ヶ月後、夏賀良は誅された。
前004年11月、東平王雲と、その后が、誅された。
前003年春、関東の民が「西王母をまつれ」と、ふれまわる(哀帝紀)。
以上7件は、前漢がかかえた、階級の矛盾が、ひどくあらわれたもの。

光武は、こんなとき生まれた。社会の動乱が、光武の生涯に影響した。社会が光武に「百代の名君」となる使命を、あたえたのである。

前漢が盛衰した軌跡、6つの段階

前漢の200年には、盛衰の曲線がある。
1つ、劉邦が民をやすませた。2つ、恵帝と呂后が、蕭何と曹参をつかい、劉邦の政策をついだ。3つ、文帝と恵帝のとき、劉邦をついで、善政した。4つ、武帝が、経済の最盛期をきずいた。西域と貿易した。『漢書』食貨志はいう。武帝のとき、水旱がなかった。貯蓄がつみあがった。滅亡のきざしは、ない。
5つめは、昭帝、宣帝、元帝のとき。昭帝は、武帝末期の「力農」をつぎ、かろうじて小康。霍光が民をやすませた。外交もこのましい。宣帝は、庶民にまぎれた経験から、生産を発展させた。班固は「宣帝が中興する」という。元帝は儒家だから、宣帝の「法治」をあらためた。前漢がかたむいた。

著者は「なぜ元帝が儒教をおもんじると、前漢がかたむくか」と問題をたて、031ページから論じてる。また後日。

6つ、成帝、哀帝、平帝のとき。前033年から、後005年。

哀帝と平帝のとき、主君が王朝を傾ける

成帝の外戚・王氏、哀帝の外戚・丁氏と傅氏が、あらそった。よく大獄がおきた。哀帝紀はいう。しばしば大臣を誅したと。哀帝は3年で5回の大獄をやった。統治階級があらそうので、人民が搾取された。全国の動乱が、一触即発となる。『漢書』董賢伝にいう。哀帝と平帝のとき、皇帝にあとづきなく、臣下は争いあったと。

ぼくは思う。大獄がつづくと、動乱が起きる。わかるような、わからんような。

『漢書』五行志・中の上、淳于長伝、董賢伝に、みだれが記される。王鳳も、ぜいたくした。豪族も、不法をした。『漢書』王尊伝、張湯伝につく張放にある。尹賞伝はいう。王立(王莽の叔父)は、軽侠と交通したと。厳延年伝は「太守より豪族にしたがえ」という、無政府な状態をつたえる。原渉伝はいう。豪族(豪強な地主)は、数えられないと。
成帝の舅・王立は、典型的な吸血鬼だ。王立は、南郡太守の李尚により、墾田を独占した(孫宝伝)。陳湯伝はいう。関東の富人は、良田をはかり、貧民を使役すると。だから哀帝は、「限民名田」を詔した。

鮑宣は、農民に「七亡、七死」があると指摘した(鮑宣伝)。階級の矛盾が、つよまる。前022年から14年間、挙兵があいつぐ。『中州学刊』1981はいう。「挙兵は、時期も場所も、バラバラ。たがいに連絡がない」と。もしバラバラなら、前漢の滅亡を説明できない
『漢書』食貨志は、前漢末に、戸数が最大になったという。地理志でも、戸数が最大だ。たとえば京兆の長安は、恵帝のとき8万戸、24万人。平帝のとき、19.5万戸、68万人。河南(郡治は洛陽)は、高帝のとき5.2万戸、平帝のとき27.6万戸。河南は5倍に発展した。

洛陽のほうが、長安より戸数がおおいのではない。長安は、くさっても首都。いまの数字は、長安は県のみ。洛陽は郡をふくむ。

この発展は、前漢の滅亡を、説明できない。
『後漢書』郡国史にひく『帝王世紀』はいう。霍光から六世、役務が減らされた。民はやすめた。趙翼はいう。両漢がほろびたのは、君主のせいだ。郡県の治安は保たれた。人民がつつしみ、大乱がふせがれたと。趙翼の言うとおりだ。反乱の原因は、王莽の暴虐だ。反乱がおきても、みな漢室の旗幟をかかげた。郡県の治安が、保たれていた証拠だ。

ぼくは思う。趙翼を読まねばならんが。趙翼は「両漢は、バカな君主のせいで滅びた」と、前漢と後漢を、まとめた。前漢については、趙翼が正しいかも。主君のまわりが、頼んでもいないのに、自爆した。
だが後漢末も、おなじか。前漢末(というか後漢初)みたいに、すぐに収束しなかった。というか、漢室が復興されなかった。後漢の滅亡については、いまとおなじ手法で『後漢書』郡国志を使いながら、「階級の矛盾」とやらを、考えてみたい。まあ「階級の矛盾」でなくても、王朝が倒れた原因であるナニカを、考えたい。


1-2 王莽の「改制」

夏賀良「元号をかえろ」の変異説

前漢は、統治階級の派閥あらそいが、かたむけた。トドメをさしたのは、王莽の「改制」である。
王莽より前、翼奉は元帝に、天変により、遷都せよと提案した(翼奉伝)。翼奉のロジックはおかしいが、前漢のおわりを感じさせる。甘忠可と夏賀良は、予言書をつくった。哀帝は改元した。

このあたりの混乱は、後日『漢書』を読みます。李尋伝、寧成伝、淮南衡山王伝、食貨志(巻20上、24)などに、ある。

豪族が土地をあわせ、平民を奴隷として、占有した。社会問題となる。

王嘉伝にひく孟康の注釈。王莽に新野の田地をあたえる(王莽伝上)。農民が流亡して、奴婢となる(禹貢伝)。王氏の宗族が、奴婢をたくさんもつ(王商伝)。王莽が奴婢をかかえる(元后伝)など。

師丹、孔光、何武らが、建議して、豪族をおさえようとした。だが哀帝のとき、実行されない。豪族である大臣に、抵抗されたからだ(食貨志の上)。

五侯に出自する、貴戚の王莽

王莽は、前045年に生まれた。前033年から前007年まで、おじの五侯が、26年間の権力をにぎる。前016年、王莽は30歳で新都侯となる。淳于長を罪におとした(淳于長伝)。前008年、大司馬・大将軍となる。たった1年後、成帝が死に哀帝にかわり、王氏をよわめる(師丹伝)。前004年、南陽の新都へゆく。前001年、哀帝が死に、平帝がたつ。王莽はもどる。

このへん、わかっているので、はぶいています。

元太后は71歳なので、王莽が権力にぎる。前001年から後010年まで、王莽が執政した。定陶丁姫伝、鮑宣伝、薛宣伝、何武伝、王莽伝を見よ。王莽は、新野の田地・25600頃をもらった。王莽が田地を辞退したのは、中小の地主を擁護したからか。わからない。『漢書』王莽伝はいう。約49万人が、王莽に田地を受けとれと言った。
くだれば抜擢し、そむけば誅滅した。009年、王莽は皇帝を称した。

王莽の政治が失敗する

王莽は「王田」「五均」「六カン」制等をしく。王莽の貨幣改革は、4回ある。

本の044ページあたり、はぶく。王莽伝を読めばよいのだ。

いずれも失敗した。なぜ失敗したか。理由は3つ。
1つ、歴史の潮流にそむいた。「王田」は幻想だった。012年、中郎の区博がダメダシしている。周室の王土は、戦国秦の商鞅の変法により、売買がはじまった。これは歴史の進歩だ。董仲舒「限民名田」や師丹「限田」は、合理性があったが、失敗した。王莽は、はじめから合理性がない。
そもそも王莽が「王田」した意図は、政敵から田地をとりあげ新室で再分配することだった。田地や奴婢を売買して、つかまった罪人とは、大部分が王莽の政敵だ。また、千頃や万頃の大地主がいるから、「王田」はムリだ。光武の外祖・樊重は、「千余家が帰す」大地主の一例だ。『漢書』原渉伝はいう。原渉は南陽に田を買い、「原氏千」と言われたが、王莽に重用された。原渉は、王莽の鎮戎大尹となった。大地主は、土地と財産を、剥奪されなかった。

ぼくは思う。樊重と原渉という、実際の反例を示されると、説得力がある。王莽は、はじめから「王田」を貫徹する意図が、ないことになった。
これで王莽は「ウソばっかで、信用できない政治家」となるのか。「歴史の進歩を、理解していて、有能な政治家」となるのか。王莽の評価を、どちらにでも、転ばせられる。

王莽は、復古ぐるいした。班固『漢書』食貨志はいう。王莽は、唐虞(帝舜)、『尚書』『周礼』にもどそうとした。だが王莽の目的は、復古にない。復古にかこつけ、簒奪を正当化しようとした。周公の故事を使った。平帝が死ぬと、『尚書』『礼記』『春秋』をつかった。復古は、目くらましだ。

2つ、経済改革が朝令暮改だったこと。『後漢書』隗囂伝でも、批判されている。「五均」「六カン」は、官吏と富豪がなれあい、カネもうけする手段だった。『漢書』食貨志(巻24下)は、王莽が宮中に蓄財したことを記す。王莽は、自分にとりいる人だけ、優遇した。

3つ、王莽の人となりが陰湿だった。元后をおどして、印璽をうばった。自分の3子、1孫、1従子を殺した。003年、衛氏をほろぼしたとき、叔父の王立と王仁をほろぼした。盟友だった、甄豊と甄尋を殺した。劉信と翟義が起兵した。「公卿、党親、列侯より以下、死者は数百人」である。
王立の子・王丹(王莽の従弟)は、光武が起兵すると、中山ににげた。王閎(王莽の叔父・王譚の子)は、つねに毒薬をもち、自殺の準備をした。王閎は、東郡30余万戸をつれ、更始にくだった(後漢書・張歩伝)。
023年6月、国師の劉歆は3子を殺されたので、衛将軍の王渉と、大司馬の董忠とともに、王莽を殺そうとした。

王莽は、異民族政策でも、誤った。『漢書』食貨志、匈奴伝、西南夷伝にある。辺境で戦争をはじめて、死者をだした。食貨志はいう。王莽のせいで、天下の戸数は半減したと。趙翼はいう。王莽は、自業自得だったと。

ぼくは思う。この本は、光武が主人公。王莽の失敗を強調するなあ。おもしろいのは「客観的」なはずの研究者でも、対象に傾倒すること。べつに政治の利害で、正統だの閏統だの、言うのではないだろう。しかし、対象にハマると、どうしても、味方する。


1-3 光武が、新室の崩潰にのぞむ

だれもが、みな、おそれる

王莽の「改制」は、社会矛盾をはげしくした。社会経済は、破壊された。『漢書』食貨志はいう。「富者は、たもてない。貧者は、いきられない」と。王莽末期のひどい状況が、『後漢書』馮衍伝の024年にある。

『後漢書』馮衍伝はこちら。 伏念天上離王莽之害久矣~

とくに農民のダメージがおおきい。王莽伝・中、下に、経済の混乱がある。辺境への防衛に、コストがかかった。

王莽伝のいう、ヒドさを、053ページから紹介している。王莽伝を、書きうつすのは、タイヘンなので、はぶく。『東観漢記』崔篆伝の記事があり、これだけ王莽伝でない。
崔篆伝はいう。崔篆は建新大尹となった。いたるところの県で、監獄が、あふれた。崔篆は涙をながして、いった。「刑罰がデタラメだ。無実の民が、こんなに捕まっている」と。1たび調査して、2千人を釈放した。


王莽への反乱。009年、長安に狂女があらわれた。「高帝がおいかりだ」と。010年、并州の平民が、城郭をすてて盗賊となる。017年、呂母が起兵した。
物価があがる。『漢書』食貨志、『後漢書』光武紀、隗囂伝など。ひろく人民は、王莽をにくんだ。

劉氏の宗室が、4たび王莽にそむく

006年から010年、劉氏の大規模な武装は、4回あった。
1つ。006年正月、王莽が仮皇帝。4月、安衆侯の劉崇が起兵した。1百余人で、南陽の宛県を攻めたが、やぶれた。
2つ。007年9月、厳郷侯の劉信が起兵した。劉信は、もっとも声望がたかい宗室。005年、宗室36人を列侯にしたとき、筆頭(東平思王伝)。参謀は、成帝の名相だった翟方進の子・翟義。規模がおおきい。東郡、東平による。山陽にゆき、10余万。三輔でも、呼応あり。未央宮の前殿をやいた。函谷関、武関などに兵を派遣した。008年2月に平定された。

ぼくは思う。劉信と翟義については、『漢書』の記述をあつめたい。

3つ。009年4月。同年1月に王莽は真皇帝となった。徐郷侯の劉快が、封国で起兵した。大きな影響はなかった。同月、やぶれた。
4つ。009年、真定の劉都が起兵した。失敗し、すぐ平定された。

以上4つのほか、『漢書』王莽伝は、陵郷侯の劉曾と、扶恩侯の劉貴が無jほんしたという。『漢書』王子侯に「王莽六年、挙兵して死んだ」とある。史料はくわしくない。小規模だろう。
劉氏の起兵に、王莽は、きびしく報復した。室宅をけがし、親属を長安で殺し、陵墓をこわした。王莽が建国すると、劉氏の権限をそいだ。010年11月、劉氏と諸侯を、漢とともに廃した。
後漢初に起兵した、劉玄、劉縯と光武、劉永と関係がある。王莽伝末の「鍾武侯の劉経が、汝南で兵を集めた」と関係がある。『後漢書』盆子伝は、城陽景王の子孫をさがすと、70余人いた。このように劉氏は、王莽にむけて起兵に参加した。

各種の矛盾がはげしくなる

王莽は大権をにぎると「哀帝の外戚、大臣を罪とした」。貴族に、うらまれた。甄豊の父子、劉歆の父子ともぶつかった。『後漢書』彭寵伝はいう。かつて甄豊は、王莽の心腹だった。王莽が宰衡のとき、つねに謀議したと。だが甄豊は、王莽に殺された。国史の劉歆は、上公であった。だが甄豊も劉歆も、子孫を殺された(漢書・揚雄伝)。新室は、分離の危機にある。

王莽のひどさは、『漢書』遊侠伝、龔勝伝、鮑宣伝、『東観漢記』崔篆伝、陳寵伝、郅惲伝、『後漢書』逸民伝、卓茂伝、儒林伝、独行伝など。王莽にしたがわない士大夫が、おおかった。060ページから書いてある。はぶく。

異民族との対立も、つよまった。

4「匹庶に興る」「民間に長ず」光武の少年時代

景帝の後裔、五世にして衰える

光武が28歳で王莽に起兵するまで、史書は経歴をおおく載せない。『後漢書』『東観漢記』のわずかな記録から、光武の青少年時代をえがく。
前005年1月、生まれた。南陽蔡陽の人。ただ生まれたのは、陳留郡の済陽だ。『東観漢記』はいう。はじめ光武の父は、済陽の県令となる。武帝の行過宮がある。つねに閉じられた。父は行過宮をひらいた。光武が生まれたと。
光武の父は、劉欽という。『後漢書』では、南頓令、南頓君とされる。南頓は、汝南にある。父は南頓に赴任し、光武は幼年を、南頓ですごした。

『東観漢記』を読まねば、済陽のこと、誕生の秘話、がわからない。知らなかった。

『後漢書』張禹伝はいう。張禹の祖父は、張況という。張況は、光武の舅爺だ。かつて南頓に往来して、光武に会ったと。『東観漢記』帝紀一はいう。建武十九年、光武は南頓にゆき、父老に「ながく父(劉欽)がここにいた」と言っと。光武が南頓にいた期間は、あまり短くない。
ただ『後漢書』は、南頓で光武がまじわった少年を、記さない。

光武は景帝に出自するが、世代をくだり、おとろえた。権勢ある皇族とは言えない。『後漢書』は光武が年少のとき、叔父の劉良にやしなわれたという。あまり富裕でない。劉良は、『後漢書』劉良伝。劉良は蕭令だから、高官でない。はやくに父を亡くしたから、劉良のもとの生活がながい。
光武は建武六年(030年)、舂陵が故郷だから、章陵県とあらためた。劉縯が起兵したとき、舂陵の子弟をあつめた。『後漢書』劉祉伝はいう。光武の高祖父は、零陵の舂陵郷に封じられたが、湿気と毒気があった。光武の祖父のとき、南陽の白水郷にうつったと。舂陵は、光武の家族が発生した土地で、宗親がおおい。


光武の周囲にいた親戚

光武には、2兄と3姉妹がいた。長兄の劉縯は、起兵のリーダー。次兄の劉仲と、次姉元后は、王莽軍に殺された。長姉の劉黄、三妹の劉伯姫は、光武が即位したのち、湖陽公主と、寧平長公主に封じられた。
叔父の劉良のほかに、光武と親密なのは、だれか。族兄の劉祉は、劉敞の子。劉敞は、劉崇と翟義にくわわった。族兄弟の劉終は「わかくして親愛しあう」人で、光武のために、王莽の湖陽尉を殺した。族兄の劉順は、光武と同里。族兄の劉嘉は、光武の父が「わが子のように」養った。のちに劉嘉は、劉縯と、長安で同学した。

外祖の樊重は、南陽の湖陽の人。郷里の著姓(樊宏伝)。大地主である。樊重の子・樊宏は、光武が皇帝になったのち、つつしんだ。

『後漢書』樊宏伝はこちら。『後漢書』列伝22・樊宏伝、陰識伝

邯鄲の県吏に、舅爺の張況がいる。張況の族姉が、光武の祖母だ。鉅鹿都尉・劉回の妻となった。光武が北上したとき、80歳にして、退職した(張禹伝)。光武の姉は、南陽新野の鄧晨にとついだ。光武が起兵したとき、鄧晨は賓客をつれて、曲陽であわさる。小長安でやぶれると、家墓をこわされた(鄧晨伝)。どうやら鄧氏は、南陽の富人である。
光武には2人の皇后がある。河北の郭氏と、南陽新野の陰氏だ。陰氏は、023年6月、宛城の当世里でむかえた。19歳(陰皇后紀)。「郷里の良家」と立后の詔にあるから、陰氏は、中産の民家だろう。豪強な地主でない。

帷墻のなかに生まれ、士民に尊ばれず

光武の出自には、3つの注意が必要だ。
1つ。光武がそだった南陽は、階級の闘争が、もっともはげしい地域だ。南陽は、5番目の大郡だ。汝南、頴川、沛郡、東郡のつぐ。36万戸、194万人。京兆尹の20万戸よりおおい。郡治の宛県は、4.8万戸。『漢書』地理志で、長安、成都につぐ3番目。天下に不軌で、おごり、産業が盛んで、制御しにくい土地。南陽は、鉄官の中心。秦代に、孔氏がいた。宛県は、王莽「五均」がしかれた6都市の1つ。
009年、翟義と劉信が起兵したとき、王莽軍は宛県におかれた。8つの侯国がある。南陽が重要だから、成帝のときから、王莽のおじ5人が南陽に封じられた。王莽の新都も、南陽である。王莽が、孔休に交際をことわられたのも、南陽。006年、劉崇が安衆にいて、南陽を攻めた。王莽は、南陽人を抜擢して、地主階級をとりこむ。南陽の陳崇らは、王莽に用いられた。
この時期、劉氏と王氏が、南陽であらそった。南陽にいる豪強な地主は、無視できない。すでに武帝のとき、穣県の寧成(酷吏伝)が、南陽の豪族について、提言している。

光武がまじわった、李通、馮魴らも、南陽の豪強だ。劉崇をはじめ、新代をつうじ、王氏と劉氏は南陽であらそう。

かつて翟義は、南陽都尉となり、王氏の党派とあらそったことがある。宛県令の劉立と、王莽の叔父・王根は、婚姻して、不法をした。翟義は劉立をしばり、南陽の牢獄にいれた。王根が干渉して、釈放させた。翟義が起兵すると、劉立は上書して「私に軍吏をくれ。翟義をとらえ、王莽をよろこばす」といった。劉立は、陳留太守となる(翟義伝)

新末、更始(劉玄)は、新室の遊徼をののしり、平林ににげた。劉玄伝にひく『続漢書』にある。光武の兄弟も、王莽の官吏とぶつかった。光武紀にひく『続漢書』は、光武が新野ににげたという。『後漢書』劉賜伝はいう。更始の父が、王莽の蔡陽の釜陽亭長をころしたと。
南陽では、王氏と劉氏の対立が、つよい。光武の起兵は、偶然でない。

2つ。王莽に迫害され、劉氏は危機があった。はやくは翟義と劉信がたつ。新末、緑林が爆発したとき、自然とこれに参加した。『漢書』諸侯王表はいう。哀帝、平帝のとき、疎遠な皇族は、士民に尊ばれない。富裕な豪族と、おなじだと。皇族である特権をうしなった。劉崇が起兵したのちは、劉氏は免職となり、家に待機した(王莽伝)。
劉般は「宣帝の玄孫」だが、廃されて庶人となり、母とくらした。のちに兵乱のとき、隴西の武威にのがれ「生死がわからぬ」となる。

盆子は、きたない牛飼だった(盆子伝)。
光武の家族も、おなじような状況だろう。族父の劉敞は、舂陵侯の嫡流。廬江都尉となり、劉崇と親密だった。平帝のとき、劉敞は劉崇から「漢室があぶない」と相談をうけた。劉崇がコケると、劉敞はひそかに翟義と、連絡した。劉敞の子・劉祉は、翟義の兄・翟宣のむすめを妻とした。翟義がコケると、翟宣のむすめも殺された。劉祉は、系獄された。劉敞があやまったが、爵位をうばわれた。光武は、この劉祉と、高祖父(劉買)がおなじだ。

劉崇の近親が、光武の近親でもあったんですね。意識してなかった。こうやって、状況証拠をつみあげていくことでしか、「考察」は成立しないんですね。勇気づけられる。

光武は、劉敞の家と、経済的にかかわった可能性がある。光武紀はいう。光武は、季父・舂陵侯家のつかいになり、厳尤の大司馬府に訴えた。『東観漢記』は、さらにくわしい。また光武の父・劉欽は、劉敞の弟・劉憲としたしい。劉憲の子・劉嘉を、ひきとった。

のちに漢中王の劉嘉が、光武をたすけてくれる事情が、わかってきました。


翟義と劉信が起兵したのは、007年から008年だ。光武はすでに13歳。親戚が坐した、重大な事件だ。ふかい印象をあたえたはずだ。翟義、劉信が起兵すると、山陽、陳留、淮陽、頴川あたりで、戦闘がおきた。さいごはコウ県でかこまれた。翟義は、固始にいて、陳県で死んだ。この地域は、父・劉欽が赴任した、南頓にちかい。とくに陳県は100キロもはなれない。光武に、影響がないわけがない。

時代と地域が、かさなることから、影響を推測する。いいねえ。
光武紀は、王邑のセリフをのせる。「むかし私(王邑)は、虎牙将軍となり、翟義をかこむが、罪をえた」と。同書は「翟義を、生けどりできず、責められた」ともいう。王郎伝では、翟義が生けどられたという。翟義の死は、わからない。


3つ。光武の出自の問題。光武は皇族にちがいないが、傍流だ。光武が、少なからざる私田をもつ、豪強な地主なのか、検討すべきだ。光武紀では、田業したという。『東観漢記』は、南陽が日照でも、光武の田はみのったという。光武紀の地皇三年は、光武が穀物を、宛県で売ったという。この記述だけでは、豪強な地主とは、断定できない。
生産にいそしむのは、一般農民にできることだ。劉縯は光武を、劉邦の弟にたとえた。劉邦の家は、まずしい。父母や兄弟の名すら、あやしい微賤さだ。光武が、おおきな土地を経営したら、劉邦の弟にたとえられない。

劉邦と光武をむすびつけるのは、帝王神話をつくりたいから。まじめに、内容を検討しても、仕方ないと思うが。まあ先行研究に対抗し、「光武が豪族でない」と主張する意図は、達成されていると思うが。

穀物を売っても、大商人とは言えない。このとき新野に吏人をさけている、『続漢書』は、劉縯の賓客が、人をおどしたときだ。南陽は飢えて、盗賊がおおい。このとき穀物を売るのは、ふつうの商業行為でない。
光武は、富裕な貴族でない。世代がくだり、貧しくなった。『漢書』王子侯表は、傍流の没落をいう。
『後漢書』劉賜伝にひく『続漢書』はいう。蔡陽国に、ちいさい釜陽亭がある。亭長が、理由なく更始の父を、侮辱した。更始の父は、亭長を殺した。10余年後、亭長の子が、更始の弟を殺した。光武のとき、皇族はこれほど、逆境にあったのだ。光武を豪強な貴族というのは、合理的でない。

王夫之は、光武が「匹庶に生まれ、民間に長じた」という。光武が陰皇后をたてるとき「私が微賤のとき、陰氏をめとった」という。『東観漢記』郊祀志はいう。光武が泰山封禅するとき、群臣は上書した。「陛下は、10家の資がなく、匹夫を奮振させた」と。光武の家財は、おおくない。
光武は叔父にしたがい、蕭県で学んだ。のちに長安で、中大夫する廬江の許子威に学んだ。学費がつづかず、バイトした。まずしい。
光武が、百姓をやすませた(循吏伝)のは、民間の苦難を知るからだ。偶然でない。

ぼくは思う。このへんは、筆者がおかれた立場、時代背景がからむ主張ですね。


才能がたかく、学をこのみ、志がおおきい青年

『東観漢記』はいう。光武は、時事に関心がある。(王莽から)朝政がくだるごとに、真っ先に聞く。同寮に解説した。学問をこのんだと。長安にいたのは、光武紀によれば、王莽の天鳳だ。014年-019年。光武が19歳から24歳のとき。
厳光と知りあった(逸民伝)。厳光は、光武につかえなかったが。鄧禹とも知りあった。「諸儒に怪童といわれた」張湛と知りあい、光武につかえ、地方経済に功績あり。

ほかに、劉嘉(劉嘉伝)、劉彊(光武紀)と知りあう。長安の勉強は、光武に人脈をあたえた。さらに、文化と教育の重要性を、認識させた。 『東観漢記』には、光武の好学エピソードがある。

『後漢書』鄧晨伝はいう。「劉秀が天子となる」という図讖を、光武が自分のことだと言った。国師公の劉歆を指すものなのに。王莽と闘争する、光武の大志が、あらわれる。2章へつづく。110819

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