表紙 > ~後漢 > 臧嵘『東漢光武帝劉秀大伝』を抄訳する

自叙:光武の評価、問題、歴史的意義

臧嵘『東漢光武帝劉秀大伝』(人民教育出版社・2002)の抄訳です。
サイト『光武帝と建武二十八宿伝』にて、「共産主義歴史観なしの光武帝伝。非常に高い評価が与えられている。光武帝ファン必見必読書!」と、絶賛されていましたので、着手しました。『書虫』で買いまくった本のひとつです。

自序(1)中興でない、光武の問題点

『漢書』と『後漢書』の本紀、列伝、志などにもとづく。『資治通鑑』もひく。『七家後漢書』『全上古三代秦漢三国六朝文』もみる。王先謙『後漢書集解』、王夫之『読通鑑論』、趙翼『廿二史札箚記』らをふまえた。
記述にあたり、むずかしい問題があった。光武の出身について。兄の劉縯の評価について。緑林での階級について。度田政策の性質について。匈奴への政策について。西域で兵を休ませた政策について。馬援の交州征伐について。客観で公平で合理的な記述をした.

光武の一生は4つに分けられる。前005年の誕生から、022年の起兵までが第一。022年から025年の皇帝即位までが第二。025年から037の天下統一までが第三。037年から057年に死ぬまでが第四。
63年間の生涯で、2つの重要なことがある。「中興」と「治国」だ。この本は、従来の「光武中興」と、ちがう理解をする。ただ「中興」と言えば、王朝内の改革だ。前漢の宣帝、東晋の元帝らがあたる。政治や経済が、継続して発展しることを指す。じつは光武は「中興」でない。前漢が崩潰し、全国が戦乱したのちに、あらたな王朝をたてたからだ。この本では「中興」で統一戦争、「治国」で統治の方略をしるす。治国とは、君民をふくむ社会関係の調整、君臣や君士の政策についてしるす。

合理で客観的な記述をこころがけた。光武は「匹庶に興った」「ながく民間にあった」「わたしが微賤のとき」という。光武は、庶民なのか、(没落)貴族なのか、くわしく検討する。光武が起兵した必然性は、南陽の皇族という点にある。庶民か貴族か、背景をくわしくみる。また「光武は図讖を信じる」が、これは時代背景をふまえたものだ。馬援の交趾征伐についても、林剣鳴『秦漢史』により、時代背景をふまえる。論争となる「度田事件」がある。光武は闘争の勝利者であり、不法な豪族を弾圧した。豪族に妥協しなかった。馮衍と桓譚につめたいことは、光武の失策だ。

馮衍と桓譚の冷遇について、こちらの列伝を参照

これらの問題につき、先行研究の分析が充分でない。分析する。

自序(2)だれよりも優れた建国皇帝

先行研究について。進歩史観、唯物史観の思想家である王夫之は、光武が「百王に允冠する」と絶賛した。光武は、文武ともできる。軍事ができ、政治と儒教もできる。ほかの皇帝より、光武はすぐれる。秦始皇は、白起や蒙恬をつかった。劉邦は、張良に帷幄をまかせ、韓信、英布、彭越、樊噲をつかった。だが光武は、ちがう。みずから指揮をとり、みずから戦った。詩人で学者の袁随園は「光武は、劉邦にまさる」という。昆陽で王莽をやぶり、銅馬を単騎でやぶった。前漢の李広にならぶ。統一戦争のだんどりを、みずから光武はくんだ。馬援とともに隗囂をやぶるとき「米をあつめ、山谷にした」(馬援伝)。呉漢を「一敵国のようだ」といった(呉漢伝)。光武の才能は、諸将をうわまわる。

光武は、馬援や呉漢よりも、手腕が上だと。たしかに『後漢書』では、馬援も呉漢も、「光武をみちびく」という師匠のような記述はない。光武のコマとして、走り回るだけだ。もっとも、列伝の中盤、儒者たちには、しょっちゅう光武はクレームをつけられて、イライラしているが。こういった多面性についても、この本は指摘してくれるのか。

光武の「柔道」な統治政策は、儒家の知恵である。農民を寛治した。功臣や貴戚、知識人にやさしい。辺境の異民族と、たたかわず。農民出身の朱元璋は、農民にやさしいが、ほかの皇帝は農民にきびしい。功臣にやさしい皇帝は、すくない。劉邦や朱元璋は、功臣をつぶした。光武は「功臣の爵禄をおもくして、婚姻をむすぶが、実務をさせない」方針だ。光武の人材登用は、『後漢書』黄瓊伝にある。衆愚のなかから、賢人をえらぶと。光武は卓茂を宰相とした。社会の名流を、えらんだ。宋弘、趙憙、宣秉、歐陽歙、夏恭、索盧放など。
杜篤の事例がよい。杜篤は「小節にこだわらない」ので、県令に投獄された。呉漢が死ぬと、光武は、杜篤が呉漢にむけた書いた誄文をみて、杜篤を郡文学掾とした。厳子陵(逸民伝)の事例もよい。厳子陵は、光武の同学だ。皇帝となり、厳子陵をむかえた。厳子陵は、富山にかくれたが。南宋や唐代に、厳子陵は詩作の素材になった。

光武は儒者でもある。趙翼は『廿二史札箚記』にいう。わかく光武は『尚書』につうじた。ゆえに即位後も、儒教をおもんじた。「公卿や郎将と、経理を講論した」。樊準(外祖父の樊宏の曾孫の代)は、光武にいう。「東西に征戦しても、武器を横たえ、講芸する。馬をやすめて、論道する」と。蜀漢の劉備や、南朝梁の武帝よりも、儒者の素養がある。儒教の「仁」の思想で、「柔道」な政策をした。

自序(3)光武の歴史的意義3つ

光武の歴史的意義は、3点だ。
1つ。光武が「中興」した影響。漢室の中興でなく、社会や生産の復興だ。社会の矛盾を、調和させた。『尚氏中国古代通史』1991はいう。「光武は傜役をかるく、租税をうすくした。奴隷を解放した。前漢末の矛盾を、ゆるめた。田畝と戸籍をしらべた。豪族が、土地を兼併する趨勢を、とどめた」と。『中国通史』1995も、「生産を復興し、墾田させ、おおきく人口がふえた。後漢の前期80年間の基礎をつくった」という。光武末、光武初にくらべ、人口は2倍した。『帝王世紀』はいう。「光武初、百姓はそこなわれ、20%となる。057年、戸数は428万、人口は2100万となる。生産が安定した」と。
「度田事件」にて、豪族を弾圧した。王莽の重税をやめ、前漢の文帝がやる30分の1税にもどした。9回、奴婢の解放を詔した。君民、君臣、君士、異民族とも、安定させた。

2つ。光武は、勝利したライバルに寛容だった。『後漢紀』はいう。大将軍の鄧禹は、三輔を平定した。不軌なものだけ討ち、くだれば寛大だった。「渠帥を洛陽によび、その小民は帰農させた」と。銅馬をくだすと、光武は単身でのりこみ、銅馬を安心させた。朱鮪は、兄の劉縯のカタキだが、朱鮪をゆるした。朱鮪は、累代さかえた(岑彭伝)。「馬上で天下をとるが、馬上で天下を治められない」と。
厳光を任官させる事例がある。厳光が「後漢につかえたくない」というと、それをゆるした(逸民列伝)。

3つ。後漢200年の基礎をつくったこと。前漢にくらべ、後漢を「暗黒の世紀」とするイメージがある。だが、後漢なりに明るい点もある。班固『両都賦』、張衡『東京賦』は、後漢の繁栄をしめす。林剣鳴『秦漢史』では、後漢の和帝を全盛とする。『東漢会要』によると、後漢の墾田は2257余万頃だ。前漢の2.8倍だ。人口と戸数も、前漢の平帝と、後漢の和帝のときは、ともに1000多万戸、5000多万人。
農業技術もすすむ。
漁陽郡は、辺境だ。光武は、循吏の張湛に農業をひらかせた。水利して、稲田8000余頃をつくる。九真郡にも、良吏の任延を太守にして、農具を鋳鉄させた。『両漢大鉄犂研究』が論じる。後漢のとき、牛耕と犂は、南北の辺境にも普及した。光武が、ひろめたのだ。曹魏の馬釣が改良した。馬援伝に、馬援が開発した「銅馬式」の牧畜技術がある。
『神農本草経』は、薬学が後漢にすすんだという。
手工業も、後漢にすすむ。織機機がたかまり、名産品があらわれた。漆器、治鉄、造紙も、世界のトップだ。出土品が、技術レベルをしめす。自然科学も、後漢にすすむ。「天人感応」を信じつつ、数学や四分暦をつくった。天文観測をした賈逵は、光武から和帝のときの人。後漢は、技術や文化が発展した。世界史でも、意義がおおきい。ローマ帝国におとらない。

このあたり、光武でなく、後漢そのものの話になるので、はぶきました。また光武は、ぼくにとって「自国史」でないので、世界史のなかでのスゴさに、興味がもてないのかも。いやあ、後漢はすごいですよ。肯定します。


最後に、光武は儒学の発展に、おおきな影響がある。前漢の武帝と、後漢の光武をはずせない。光武は、儒教の教育と学術に、4つの仕事をした。
1つ、各思想の体系を、官学の大系にまとめた。明帝の白虎観につうじる。2つ、太学をおき、私家だった教育を全国にひろめた。『後漢書』儒林伝に、太学のにぎわいがある。太学に数十万人がきたのだから、人口の150人に1人が、太学にきた。3つ、儒教の倫理を、社会の標準とした。明末の顧炎武が、指摘したことだ。4つ、明帝と章帝までをつうじ、文教を全国にひろめ、地域格差をなくした。『中国文化』1987は、地域の性質をしるした。この1-2世紀の広がりが、3-4世紀に朝鮮や日本につたわる。

後漢のとき、地域格差がなくなったというのは、おもしろい。ぎゃくに言えば、前漢と王莽のときは、地域格差が、おおきいということ。このひろがらいが、日本史のスタートにつながるのは、興味ぶかい。後漢は、日本史がはじまる、前夜になる前の、昼間くらい。


つぎから、本編です。つづけて、翻訳します。110818

『後漢書』の時系列にそって、話がすすむ本編のほうが、抄訳がラクにちがいない。

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