表紙 > エッセイ > もしも陳寿が、レヴィナスのように思想を語ったら

01) 「死者」である漢家

今週は、厳耕望という、『三国志』を勉強するにあたって、まさしく「正統的」な本を抄訳しています。
そんな厳耕望の合間に、レヴィナスの解説を読んだ。

20世紀のフランス?のユダヤ人の思想家です。

解説を読むうちに、「陳寿は、レヴィナスのように考えて『三国志』を記したに違いない」という連想が生まれた。いちど思い込んだら、ものすごい勢いで、符合する!符合する!符合の嵐だ!という状態になった。(勘違いの確信犯)
だったらレヴィナスに引きつけて、陳寿に喋らせてみようじゃないかと。これが、このページの趣向であり、タイトルの謎解きです。
陳寿について、デタラメなこと(と同時に、核心に迫ったような気分になれること)を書きます。ご諒解のうえ、お付き合い頂けましたら幸いです。

『もしドラ』は、類似本が書店にあふれてて、苦笑する。。
いまぼくは、東方書店で買った『易経入門・孔子がもしギリシア悲劇を読んだら』を読んでいます。誰でも、やることの「くだらなさ」は同じだなあ。関係ない本を、勝手に結びつけて、理解を助けられた気になるのだ。
この勘違いは、頭の使い方の1ジャンルなのかも?


ぼくは陳寿に語らせたい

全『三国志』ファンの共通の願いとして、「もっと陳寿のことを知りたい!」があると思います。しかし、陳寿について知るのは難しい。
『晋書』陳寿伝、『華陽国志』陳寿伝から、おもなプロフィールは分かる。官歴も分かる。どこまで信じて良いのか分からないが、人間関係のエピソードもある。
しかし、
ぼくが誰かを「知る」というとき、みじかい列伝だけを示されても、欲求不満になる。「それは、そうかも知れないが、それで?」と、次の情報を待ち構えてしまう。しかし、陳寿に関する情報は少ない。「陳寿のことを知りたいなー。可能であるなら、オフレコで、長々と本音を語ってくれないかな」と念じるようになる。と思う。

ながく喋ったところで、全てが分かるという保証はない。しかし、喋ってもらう前よりは、はるかに情報が増える。理解するキッカケになる。
もし相手のことを勘違いするとしても、情報不足による勘違いでなく、「自分の思いこみ」による勘違いになる。ある瞬間のぼくは、同じ瞬間に、ぼくの勘違いに気づくことができない。綻びに気づかない。この幸せ者め!という状態になる。

ファンの欲求不満を解消すべく、今回は、ぼくが陳寿を召還して、
陳寿に長々と語ってもらおう!という趣向です。

このページを作るとき、へんなツクリゴトをすることも考えた。
例えば、中国旅行に行ったとき、ある反古紙を手に入れた。そこには、『晋書』が黙殺し、『華陽国志』が参照することができなかった、陳寿の著作が遺されていた。ぼくは陳寿の著作を(いつものように)抄訳することで、ご紹介しようと思います、。とか、そういう「お話」もあり得た。つまらないし、文書の信頼度を落とすから、やめた。
今回の文書は、ぼくの完全なオリジナルです。歴史学の方法に堪えるなんて、1ミリも思っていません、と事前に宣言します。だが書き手としての気合いの入り方は、いつも以上です。自分の勘違いを、とても素晴らしく感じています。笑


今回は、陳寿の一人称を「私」とします。

「寿」と自称させても良かったけど、読みにくい。「ぼく」と記すと、このサイトの作成者と紛らわしいので、絶対に避けねばならなかった。無難な「私」に落ち着いた。

言葉づかいや呼称の時代考証などは、わりに諦めています。
ぼくが読み取った(思いついた)、陳寿の思想をシンプルに伝えるためなら、皇帝を呼び捨てるかも知れないし、未来を予知するかも知れない。「筆の勢いを重んじ、細部を犠牲にしたのね、バカだね」と見逃してください。

参考にした本

内田樹『他者と死者・ラカンによるレヴィナス』文春文庫2011
この本の4章「死者の切迫」を、丸パクリして書きます。ぼくが施す処理は、「レヴィナス」という語を「陳寿」に置き換えるだけ。この意図的な「誤読」によって、陳寿の思想がわかるという仕組みです。

レヴィナスを取り巻く環境(第一次世界大戦とか、ユダヤ教とか)は、陳寿の身辺のものに、読み変えます。レヴィナスが敵対した思想家(フッサールとか)も、適当に別人を充当します。主人公の名を置換した、付随的な作業です。

「あー、陳寿はそんなことを思って『三国志』を書いたのか」
という発見(もちろん、これは誤認)に、閲覧者の皆さまをお導きします。

著者の内田氏が、レヴィナスを分かりやすく解説してます。でも、レヴィナスが難しいので、内田氏の解説も、難しくならざるを得ない。ぼくの理解した範囲にひきつけて、ぼくなりの説明を補強していきます。ぼくによる補強は、「陳寿が、自説を必死に伝えようとしている努力や工夫」という形式で、このページに記されます。

以下、本文です。長い前書き、すみません。

漢家は「死体」である

私(陳寿)は漢家に生まれ、漢家に仕えてきた。漢家は、晋家によって滅ぼされた。漢家は、すでに地上に存在しない。
いま私は晋家に仕えている。現代、晋家の人々から見れば、過去に滅びた漢家を、「死者」に例えることが可能だと思う。
というわけで、
まずは「死者」について、語りたい。私が『三国志』をまとめた動機を知って頂くには、私が「死者」という語をどう定義するのか、先に知って頂く必要がある。

これは陳寿が語っているんですよー。というフィクション!


「死体を隠す」というのは、物語の定石の1つだ。
私が父老から聞いた話を1つ。
ある平和な郷邑に、1人の男の死体がある。矢が刺さっている。発見者の猟師は、自分が誤射して殺したと思い、死体を隠す。その死体を見つけた邑人は、死体がもたらす災厄を恐れ、また隠す。死体は循環し、埋めては掘られ、掘られては埋められる。死体に関係した邑人たちは、みな身動きがとれなくなる。

アルフレッド・ヒッチッコック『ハリーの災難』を、内田氏が紹介したもの。147頁。

死体がそこにあれば、殺人があったことを意味する。
邑人たちは、死体の意味を取り消すため(私は殺人に関与していないと主張するため)に、死体を遠ざける。死体の押しつけが連鎖する。死体は、物理的には腐るだけのモノだが、生きている邑人を搦めとる邑人は、魅入られたかのように、呪われたかのように、死体を巡って、同じ行動(掘ると埋める)を反復する。

もの言わぬ死者が、生者をしばる。
これは、私が属する社会の儒教と同じである。私は父の喪中に、うっかり薬をつくった。私はこれにより、名声を損ねた。父は死者であり、私を叱るわけではない。だが死者が、生者をしばっているのだ。
「存在」しないはずの死者が、生者をしばり、生者の行動を決める。禽獣や胡族のたぐいは、死者に振り回されることなく、あっさり死者を忘れるという。死者にしばられる点が、士人の士人たる所以、人間の人間たる所以だ。

ちゃんと、『三国志』に帰ってきます。ご辛抱を。笑


漢家を「なかったこと」にする晋家

死者と同じことが、王朝のあいだにも起きる。
私が仕えた漢家は、「死者」と同じく、物理的に存在していない。だが、漢家があったという痕跡は、晋家の人々を縛っている。武帝(司馬炎)は、地方の統治制度を見直すとき「漢制にもどす」という言い方をして、兵力を削減した。
晋家の前に、4百年にわたって中華を統治した漢家。魏室によって、益州に追いやられたが、2代にわたって正統を唱えた漢家。
ああ、漢家よ。。
晋家の人々は、皇帝から万民に到るまで、漢家を無視できるはずがないのだ。晋家の人々は、死体を掘っては埋める邑人のように、「漢家を思い出しては、それを意図的に隠蔽する、忘却する」という、複雑な思考を反復する。

このヒネリが、レヴィナスらしさです。そして陳寿らしさ(になる予定)

どういうことか。
漢家を思い出すのは、避けられないことだ。歴史の重みがちがう。漢家の恩恵は、私たち「漢族」に身体化されている。
では、なぜ手間をかけて、隠蔽して忘却するか。晋家は魏家から「禅譲」された王朝であり、魏家は漢家から「禅譲」された王朝だ。公の場では言えないが、禅譲ではなく簒奪に他ならないと、私は思っている。
もし漢家を慕う気持ちが溢れるのなら、晋家は、ただちに漢家に洛陽を返上せねばならない。今からでも遅くはない。劉氏の子孫は、残っている。私は晋室に仕える身であるが、この結末を秘かに期待している。
ところが武帝は、簒奪を撤回する意図がない。ゆえに、隠蔽や忘却を必要とする。漢家を「思い出さなかったふり」をして、開き直るのだ。死体を埋めて、死体との関係を断ち切った(つもりになる)邑人のように。

晋家の人々にとって、漢家がなかったように語るのは、許されない。少なくとも、私たちのように、三国時代を経験した世代にとっては。

レヴィナスはヨーロッパで、世界大戦を経験した世代だ。「世界大戦をなかったことにして、語ること」を、レヴィナス自身に禁じた。150頁。

私たちは個人的には、魏文帝(曹丕)の簒奪や、晋宣王(司馬懿)の専横に、加担していないかも知れない。私もまた、加担していない。むしろ漢家に仕えていた。

レヴィナスは世界大戦を起こした張本人でなく、むしろ被害者らしい。

だが私たち(陳寿を含む)は広い意味で、漢家を滅ぼした「共犯者」なのだ。三国分立や、漢家滅亡は、天下の全員が生み出した結果である。これが私の持論だ。私の行動のどこかに、漢家を滅亡に導く「誤り」が含まれていたと考える。
例えば漢家の晩年、
姜維が国力を疲弊させた。私の死である譙周は『仇国論』を記して、姜維を批判した。漢家を思ってのことであろう。だが譙周は、漢家の終焉を予感した人物でもある。譙周の弟子である私が、漢家の滅亡について、完全に「無罪」であることは難しい。心ならずも、漢家の滅亡に加担したと、私は自責する。
私は漢家の朝廷にいたのだから、他にやりようもあったろうに、とも思う。

譙周に学んだことを反省する

『仇国論』は、漢家の終焉を予感させた。譙周は、リアリストとして戦争の強弱を分析し、王朝の興亡を論じた。譙周は戦況ばかりに目が行くから、最後には、安楽公(劉禅)に降伏を説いた。

もちろん譙周の思想は、これだけではない。議論を、あえて単純化してみた。譙周の言論は、あたらずとも遠からず、リアリストだと思う。これはぼくの読解。もちろん、讖緯を研究する蜀学の影響が、、とか、いろんな話があるのは心得てます。

私は譙周に学んだが、この学歴を反省している。私は彼の弟子であるが、『仇国論』の語り口で、漢家のことを論じたくない。論じてはいけないと思う。

ドイツのホロコーストを生んだのは、ライプニッツ、カント、ゲーテ、ヘーゲルを深層にもつ、ヨーロッパ文明である。レヴィナスは、この文明を反省する。


同じ失敗をくり返さないために、譙周の『仇国論』やその思想を、私なりに振り返ろう。反面教師とするためである。

カミュ『ペスト』を、『仇国論』ら譙周の思想に投影する。

益州で漢家に仕え、魏家と戦う人々は、つねに「自分が魏家に敗北・服従するかも知れない」という逃げ場のない状況だった。
ところが、漢家の人々は、魏家を恐れながらも、魏家が何者なのか分からずにいた。気づかぬうちに、魏家が自分に入りこみ、自分が魏家に屈服することを恐れた。だから、精神的に追い込まれていた。
あるとき譙周は気づいた。魏家とは、実在する何かのことではない。漢家の外部にある邪悪な存在を、魏家と名付けて、世界の成り立ちを説明しているだけだと。この仕組みに気づければ、魏家は怖くない。魏家とは「邪悪な何か」以上の意味はない。「邪悪な何か」の侵入を、拒めばよいのだ。
魏家の性質を特定したら、次に漢家への求心力が生まれた。漢家の性質が、「魏家と戦うもの」と、特定されたからだ。学問をやらない末端の兵士にまで、漢家のすばらしさを理解させるのは難しい。だが、「魏家と戦う私たち=漢家」という程度の構図ならば、誰にだって理解ができる。

譙周を、『ペスト』の主人公、元革命家のタルーに比した。


私は譙周の思想を、掘り下げよう。
譙周が、魏家を上述のように定義すれば、魏家と漢家は、同レベルのライバルとして捉えられる。平たく言えば、魏家と漢家は、戦場で雌雄を決する(仲の良い)ライバル同士という関係である。
私は憂いたい。譙周の認識は、ひどく漢家を貶める!
魏家は漢家を簒奪した、ニセモノの王朝である。両者を同じレベルにおいて語ること自体が、魏家の思うつぼである。もし戦場で戦えば、兵力のおおい魏家が有利に決まっている。先主(劉備)が皇帝について建国したのは、魏家にこんな愚かな戦いを仕掛けるためか。
無論、答えは否である。
諸葛老師(諸葛亮)が北伐したのは、兵力で魏家を圧倒するため、だけでない。漢家の正統性を、天下に知らしめるための戦いだった。少なくとも、私は諸葛老師から、そのように聞いた。

陳寿は諸葛亮を、なんて呼んだんだろうなあ。老師でいいのか?


譙周は『仇国論』で、姜維の北伐を批判した。批判の観点は、国力や兵力に関する視点こそあれ、天命についての議論ではなかった。
国力と兵力を比較する、という価値観において、譙周と姜維は「精神の双子」である。もし漢家の兵力が多ければ、譙周は主戦論者に転じたはずだ。
姜維の思慮が浅くて、譙周の思慮が深かったのでない。ただ、戦況分析の結論が、異なっただけである。姜維は私たちの前で、必死に勝算を説いていた。

譙周とは異なる語法=『三国志』

譙周のように、「漢家が勝つか、魏家が勝つか」という二元論の語法で語ることを、私はやりたくない。
同じことを、今日の私の執筆活動に照らして、説明したい。
晋家を「政治的・軍事的な勝者」とし、漢家を「政治的・軍事的な敗者」として並べるのは、譙周の語法である。同じ度量衡のうえの、漢家と晋家の優劣で説明してしまっている。絶対にいけない。
私は、晋家と漢家を列記などしない。
ゆえに漢家を、「晋家に敗れた王朝」とか、「晋家の前に天下を治めた王朝」とか、そういう言葉遣いで歴史書に記すつもりはない。そう解釈されるような構成で、歴史書を編もうとは思わない。

最初の比喩を思い出してほしい。
分別ある士人であれば、「生者がいる」というときの「いる」と、「死者がいる」というときの「いる」が、同じだとは考えないだろう。生者と死者は、どちらも「いる」かも知れないが、存在の仕方が異なるのだ。例えば生者は、物理的に存在しているが、死者は物理的に消滅するのみだ。同じように「いる」はずがない。
死者と生者を、同じような語法で語ることはできない。少なくとも、文筆に対して真摯な、まともな良心をもった士大夫ならば。(譙周は真摯でなかった)

晋家の歴史(私が日常に経験する政治生活)と、漢家の歴史とを、同じような筆法で連ねて書くことは、絶対にやれない。
悩みごとがある。
私の上司である張華は、『三国志』につづいて『晋書』を私に任せたいと、おっしゃった。冗談ではない。私は漢家のために、変則的な歴史書『三国志』を編纂する情熱だけはあった。『晋書』なんて御免だ。
話が先倒しになったが、私が取りかかっている『三国志』は、『史記』『漢書』とは異なる、やや変わった構成の史書になる予定だ。いかに変則的か、なぜ変則的か、その変則が何を意味するかは、次回以降にお話します。

参考文献の154頁まで。文庫本7ページ分で、陳寿がここまで膨らんだ。着地点は、きちんと用意しています(でなければ、こんなムチャはできない)。つづきます。

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