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3章 州府の僚佐

厳耕望撰『中国地方行政制度史』秦漢地方行政制度を抄訳

三国と西晋の州佐吏_137

州の佐吏は、おもに漢制をつぐ。刺史は、将軍号をもつ人がおおいが、史料には、将軍府佐がすくない。地方行政の責任が刺史にあり、漢代と同じだ。州吏の組織をみる。

1 司隷の佐吏_137

魏と西晋の司隷校尉は、漢代とおなじ。近畿の数郡を部す。ほかの刺史とおなじ。東晋でも、司隷校尉と刺史は、ほぼ同じ。
『晋書』職官志は、司隷校尉の属吏をいう。功曹、都官従事、諸曹従事、部郡従事、主簿、録事、門下書佐、省事、、32人いた。『晋書』与服志から、司隷校尉にも別駕従事がいたとわかる。 都官従事は、史料によく出てくる。『晋書』王接伝、温嶠伝、李密伝など。西晋の都官従事は、重要なポストだった。

魏制で、司隷校尉の属吏は、功曹従事と都官従事だけである。鍾繇伝にひく『魏略』に功曹従事があり、夏侯玄伝にひく『世説』に都官従事がある。『晋書』劉毅伝に、司隷の都官従事がある。魏晋の都官従事は、漢制と同じだ。
蜀漢の益州にも、司隷と同じものがあり、益州牧に功曹をおいた。杜微伝にある。ただし益州は、司隷という名でない。その他、益州の一般の吏職は、史料にない。

2 刺史の佐吏_139

一般の州刺史の属吏は、『晋書』職官志にある、別駕、治中従事、諸曹従事ら、、。この記事には、脱誤がおおいので、厳耕望が三国と西晋の制度を、整理する。

■甲・上綱:別駕、治中従事_139
曹魏は漢制をつぐ。諸州に、別駕従事、治中従事をおいた。『三国志』で、管輅が冀州の治中になり、別駕に転じた。王基が青州別駕になった。王祥は徐州別駕になった。以下、事例はぶく。
『三国志』先主伝で、曹丕が尊号をとなえると、益州の別駕従事、治中従事、従事祭酒、議曹従事、勧学従事が、劉備に皇帝即位をすすめる。益州に、5つのポストが健在だった。
陸遜伝にひく『呉書』に、荊州別駕がある。藩濬伝にもある。孫呉で、別駕と治中の記述は、まばらだ。孫呉では、あまり重要でなかったのか。
晋代に、別駕従事と治中従事が置かれたのは、さきに『晋書』職官志でみた。
漢代の別駕と治中は、州吏のなかで最高の重職だった。魏晋になっても、群僚のなかで、地位がたかかった。後述する。

■乙・門下_140
1)主簿
漢代の各レベルの地方政府には、主簿があった。今日の秘書にちかい。魏蜀にもある。崔林伝、管輅伝、李恢伝、杜微伝などにある。『晋書』にもある。
2)功曹書佐、西曹書佐
漢代、州は功曹書佐をおき、人材の選用をした。曹魏は史料なし。蜀漢は、李恢伝で、李恢が功曹書佐となる。『季漢輔臣賛』にもある。
『晋書』には功曹がない。ただ、江州や湘州に、西曹書佐が見える。『通典』32はいう。功曹書佐は、1人、選用をやる。漢制である。晋代に、功曹は西曹書佐に改められたと。これだ。
3)録事:『晋書』にあり、漢制とほぼ同じ
4)記室書佐:『晋書』のみあり
5)門亭長、防門
『晋書』に門亭長がある。李含伝にあり、官位の低さは漢代と同じ。『通典』36の魏制にある州職では、刺史をのぞき、わずかに州防門があるだけ。8、9品。魏代の防門は、地位が高いので、漢代の防門とは違う。
6)帳下都督
『三国志』胡質伝にひく『晋陽秋』にある。『晋書』胡威伝にもある。

■丙・諸曹の職務分掌_142
『晋書』職官志で、刺史の属吏に、別駕、治中がおり、下に諸曹従事がある。記室書佐のしたに、諸曹佐がいる。同じ『晋書』職官志で、司隷校尉の属吏に、諸曹従事、諸曹書佐がいる。刺史の属吏の「諸曹佐」は、司隷校尉と同じく「諸曹書佐」と考えればよい。
142頁の各例から、魏晋の州吏である諸曹は、わずかに兵曹、戸曹のみしか見えない。従事は曹長(長官)のことで、書佐は佐従事(副官)のことだろう。

州吏の軍事職は、種類がおおい。以下、みる。
【郡督軍】
漢末の諸州は、郡督軍をおいた。『三国志』高堂隆伝に、泰山の郡督郵がでてくる。郡督郵というのは、かならず州吏で、郡を部督属させる。郡吏でない。
『晋書』武帝紀の太始二年に、山陽公国の督軍が出てくる。こちらは州吏でなく、例外である。
【督軍従事】
馬超伝にひく『典略』にある。馬超は、司隷校尉の督軍従事となると。郡督軍とはちがう。費詩伝、楊洪伝、楊戯伝など。蜀漢におかれた督軍従事は、刑獄を典する。馬超がついた、督軍従事とちがう。ただし、刑獄をするのであっても、督軍という名称だから、もとは軍職だったのだろう。
【典軍従事】
晋代の益州にあった。『華陽国志』で王濬の属官として、征呉するための典軍従事がいる。建安の督軍従事(上記)と、ちかい職務だろう。
【武猛従事】
漢末にあり、魏制もおなじ。馬隆は、兗州の武猛従事となった。『晋書』や晋代の碑にもある。
ほかに、弓馬従事、軍事諮議諸職(軍議従事、軍諮祭酒ら)がある。
戸兵のほかに、以下の州吏がいる。都水従事、監佃督、祭酒従事、議曹従事。学官は7章。守従事、宣化従事、和戎従事、作武吏など。

■丁・部郡従事_145
三国から南朝宋まで、漢制をついだ。州には、漢代と同じく、部郡従事がおかれた。もとは州吏のなかで、重要な職務だった。だが南朝宋では重要でなくなった。ここでは、東晋までを記す。

むじんさんの宿題に応えるときが来ました。

三国は、いずれも部郡従事をおいた。碑文や史書に多く見える。事例は146頁におおい。部郡従事は、郡を部する職務だ。
建安二六年の碑には、益州に部郡従事史が9人いる。蜀郡、巴西、、と郡ごとに設置された。 部郡従事は、蜀漢の朝廷で、朝臣の大夫や議郎と並列する。かつ校尉、中郎将を兼ねる者がある。地位の高さがわかる。以上は蜀漢の事例だ。
孫呉にも置かれた。周魴伝にある。

晋制でも、『晋書』職官志にある。州に刺史をおく。州内にある中郡以上と、江陽と朱提郡には、郡ごとに部郡従事1人をおいた。小郡にも1人ずつおいたと。
この文は意味がわからない。誤りがあると厳耕望は考える。
厳耕望が読むに、中郡以上には1人ずつ、部郡従事が置かれた。小郡には置かれなかった。とするのが自然だ。東晋の揚州は、郡が最少のときでも11郡ある。しかし部郡従事は8人しかいない。『晋書』職官志の小郡の記述が誤りなのだ。

ぼくも『晋書』職官志を読んだとき、あれ?と思った。厳耕望にしたがう。中郡以上にも、小郡以上にも、1人ずつ部郡従事がいるなら、分けて記述する意味がない。
さて、ここで整理したこと。
漢代の州郡のすがた。郡太守がいる。郡太守と同秩で、太守から軍事を委ねられた郡都尉がいる。郡太守も郡都尉も、中央が任ずる。州刺史は、郡太守を監察する。州刺史は、領域内の中郡以上に、部郡従事を1人ずつ置き、手ごわい郡太守を重点的に控制した。部郡従事は、中央でなく刺史が任じた。
郡都尉と部郡従事。どちらも郡太守にとって手ごわいが、差異がある。郡都尉は中央が任じ、部郡従事は刺史が任じる。郡都尉は、郡太守の部下である。部郡従事は、郡太守の監察官である刺史の部下。郡都尉と部郡従事は、それぞれ上司が違う。


部郡従事は、1郡の行政を検察すること。藩王の領土もまた、検察する。検察した事例は、『三国志』後主伝、周魴伝、『晋書』王濬伝、顧和伝など。148頁まで。
『晋書』劉弘伝で、劉弘が荊州刺史となると、文書を発行した。10人の部郡従事が、劉弘の文書を渡された。このように刺史の政令は、部郡従事をつうじて執行された。
部郡従事の権限は、とても重い。ゆえに太守や県令は、部郡従事をおそれらた。『三国志』周魴伝で、太守は髪をおろして、部郡の門下で謝った。陶侃伝で、郡吏と部郡従事がぶつかった。おそれ、憎まれた。

刺史が強まると、部郡従事がいばるのか。部郡従事がいばるようになり、刺史の権限を底上げするのか。史料に残りにくい話だから、一般論で理解するしかないなー。前者(トップダウン)が理屈は通るが、因果が起動するタイミングが分からない。中央から「この刺史は偉いぞ」と言われても、太守は痛くないのだ。


漢代に地方で督察する吏は、みな本籍でない原則だ。部州刺史、部郡従事、郡督郵もまた、本籍でない。
三国や両晋のとき、部郡従事の本籍がわかる史料が少ない。11人わかる。149頁。11人の事例から、州の部郡従事は、みな本州の人で、ただし部する郡の人でない。漢代の原則は、魏晋もおなじ。
『晋書』孟嘉伝はいう。庾亮が江州を領した。孟嘉は庾亮から、部廬陵従事に辟された。孟嘉は州治にもどり、庾亮から風俗や得失を問われた。孟嘉は「傅」に帰り、吏に質問したと。ここから部郡従事は、傅舎にいたとわかる。出督の吏であるためだ。漢代と同じである。
ほかに『三国志』崔林伝にも、王雄が西部従事となる事例がある。「西部」は郡名でない。青州を東西南北中の5つに分けて、部郡従事を置いたのだ。王雄は青州瑯邪の出身であり、東部に位置する。ゆえに西部従事は、本籍の郡にかぶらない。

東晋と南朝の州府僚佐_151

漢代の州佐吏は、わずかに刺史が自辟した、別駕や治中の1系統しかいない。魏代に、参軍事が増えた。ただし三国と西晋では、漢代と同じく、州吏の1系統が主要である。前述した。
東晋から梁陳まで、おおくの刺史が将軍号をもった。州の佐吏の系統のほかに、2つめの将軍府佐の系統ができた。この時代、単車刺史は、漢代とおなじく州吏だけを置いた。だが将軍号をもつ刺史は、州佐と府佐の2つの系統をもった。『宋書』沈攸之 伝に、2系統が顕著だ。

3系統になることもある。 もし州内に蛮夷がでると、刺史は「護蛮夷校尉」らの称号をもち、校尉の府佐をおいた。府佐は「小府」とよばれたと『隋書』にある。このとき州の長官には、州佐、将軍府佐、校尉府佐の3系統があることになる。南朝宋で、寧州刺史、龍ジョウ将軍、鎮蛮校尉の兼務があり、碑文に3系統の名簿がある。府長史、鎮蛮長史、州別駕の3系統である。

州佐は、刺史が州内から自辟する(後期に別駕と治中は、中央が任命するようになる。だが州内から選ぶのは同じ)。府佐は、中央を通じて任命される。たいてい東晋は、府佐の職務が軍事にかたより、地方行政は州佐がやる。
宋斉より以下、地方の大族が州佐に「寄禄」するので、地方行政もまた、府佐がやるようになった。

刺史が、勝手に別駕と治中を任じられなくなったところに、中央が刺史を握ろうとした思惑が見えるなあ。刺史は、中央官と地方官という二面性がある。漢代だけじゃなく、魏晋南朝も視野に入れて見ると、たのしい。


『宋書』『南斉書』で、府主(州の長官)が、中央にそむくとき、いつも府佐と組んだ。州佐と組まない。ここから、府佐が行政の責任をおい、州佐の責任が軽くなったと分かる。

ぼくは思う。州佐と府佐は、刺史の二面性のあらわれ?
州佐は、もとは刺史の手足だった。州佐が中央から任じられるようになると、州佐は「中央のために地方を牽制する」という、元来の刺史の性質に、接近した。つまり、独立したい刺史すら牽制するようになった。刺史の手足は、独自に開いた将軍府の府佐が担当した。府佐は「地方で独立できる」という、刺史の事後的な性質をおびたと。

三国と両晋では、州の府佐は、まだ完成しない。州佐が、史料によく見える。宋斉より以後、州佐が史料に見えなくなり、府佐ばかり史料に見える。州佐から府佐、という流れがわかる。

州佐と府佐には、吏員がおおい。
『宋書』武帝紀は、特別に減ったときの、荊州の人数をのせる。将軍府に、将が2千人、州吏が1万人。州府に、将が5百人、吏が5千人。これで減ったときなのだ。南徐州の州佐吏が数千人、江州の軍府に3千人などの事例あり。

以下、三国や両晋と、おおいに異なる州府僚佐が記されています。とばします。154頁から225頁までとぶ。気が向いたら後日。もとの史料を読んだことがないのに、厳耕望だけを読んでも、楽しくない。120216

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