表紙 > 読書録 > 厳耕望『中国地方行政制度史』魏晋の抄訳

2章 都督と刺史

厳耕望撰『中国地方行政制度史』秦漢地方行政制度を抄訳

1 都督_087

『宋書』百官志は、持節都督の起源についていう。

持節都督,無定員。前漢遣使,始有持節。光武建武初,征伐四方,始權時置督軍御史,事竟罷。建安中,魏武帝為相,始遣大將軍督軍。二十一年,征孫權還,夏侯惇督二十六軍是也。魏文帝黃初二年,始置都督諸州軍事,或領刺史。三年,上軍大將軍曹真都督中外諸軍事,假黃鉞,則總統外内諸軍矣。

また『南斉書』百官志はいう。
魏晋のとき、刺史のうち位が重い者は、使持節・都督だった。位の軽い者は、持節・督だった。後漢の順帝のとき、御史中丞の馮赦は、九江の賊を討ち、督揚徐二州軍事した。 『宋書』らは、曹操が「遣諸州将督軍」したのが始まりという。王珪之『職儀』によると、光武が始まりという。曹操や光武は、どちらも誤りである。

『後漢書』馮緄伝はいう。馮緄は、持節督揚州諸郡軍事となった。『車騎将軍の馮緄碑』は、御史中丞、督使徐揚二州だとする。『南斉書』は馮赦とするが、馮緄が正しい。『後漢書』順帝紀が馮赦とするが、これも誤りである。

『宋書』はいう。曹丕の黄初二年、はじめて、都督諸州軍事をおき、刺史を領すこともあったと。つまり大多数の都督諸州軍事は、刺史を領さなかった。
『南斉書』百官志はいう。西晋の太康のとき、都督は軍事をやり、刺史は治民した。都督と刺史は、べつの人をおく。恵帝おわり、兼任した。重要な州でなければ、都督はなく、刺史のみである
この記述は『宋書』と、ぜんぜんちがう。

おもしろくなってきた。このあたり、どの研究者も目をくばっている記述。厳耕望氏のけっこう早い時期の検討を見ておくと、レベルアップできそうな気がする。

馮緄は、2州の軍事を督したが、刺史を領さない。都督と刺史をかねるのは、曹魏に始まるのであり、西晋の恵帝末でない。『三国志』には、都督と刺史の兼務が、いっぱいある。088頁。
呉廷燮の年表では、揚州、荊州、雍州らのところで、みな都督と刺史が並列される。都督と刺史は、同時に拝命する人がおおい。桓範、満寵らが、都督と刺史を同時に拝命するのは、偶然でない。
都督と刺史の兼任者は、『三国志』では、夏侯尚、毋丘倹、王基、曹休ら。『宋書』から、司馬炎の時代の兼任がわかり、衛瓘、王渾、胡威、司馬伷である。西晋初までは、都督と刺史は原則として別人だが、ダブることもあった。
西晋の太康のとき、
はじめて厳格な規制がつくられ、刺史と都督が兼任できなくなった。ゆえに『南斉書』は、ずっと兼任がないと書いたのだ。ただし、恵帝末の20年弱は、兼任あり。

『南斉書』も、単なるミスでなかったのだ。西晋のとき禁じられた制度が、曹魏でずっとそのままだと思い込んだ。

恵帝末よりのち、刺史と都督の兼任がふつうになった。『宋書』劉義恭伝で、都督が刺史を兼ねない事例があるが、めずらしい例外である。

『宋書』百官志はいう。

晉世則都督諸軍為上,監諸軍次之,督諸軍為下。使持節為上,持節次之,假節為下。使持節得殺二千石以下;持節殺無官位人,若軍事得與使持節同;假節唯軍事得殺犯軍令者。

つまり「都督」諸軍がトップ、「監」諸軍がつぎ、「督」諸軍が下。「使持節」が上、「持節」がつぎ、「仮節」が下。使持節は、2石以下をころせた。持節は、無官をころせた。軍事とおなじく(軍事以外でも)ころせた。仮節は、ただ軍事の違反者だけをころせた。
『宋書』の記述は、
魏代にさかのぼらない。『斉書』では、おなじ記述を「魏晋」のこととする。魏代の史料を見ると、「都督諸軍事」はたくさんいる。「監諸軍事 」もある。『三国志』趙𠑊伝ほか、つづく90頁はずっと例示。
持節の威権は、晋代でなく魏代から、すでにあったとわかる。『宋書』は晋代とするが、魏代にもあてはまる。

◆統軍3ランク、加3ランク_091
統軍には3ランクある。「都督」「監」「督」。加節には3ランクある。「使持節」「持節」「仮節」。しかし、同じランクが対応するわけでなく、複雑に組み合わさる。事例を見ておく。_091
1)都督諸軍事+使持節:西晋末から南朝でもっとも多い
2)都督諸軍事+持節:きわめて多いので、正史から例示
3)都督諸軍事+仮節:
『三国志』魏志では、都督は、みな仮節とセット。晋代にも多い。宋代以後も見えるが、減っていく。

仮節は魏代がピーク。おもしろそうな、におい!


4)監諸軍事+使持節:晋宋斉にすごく多い
5)監諸軍事+持節:宋斉にわりと多い
6)監諸軍事+仮節:魏晋に最多である。毋丘倹、司馬亮、胡奮ら

仮節がくると、魏晋になるなー。


7)督諸軍事+使持節:『宋書』にある
8)督諸軍事+持節:これも『宋書』におおい
9)督諸軍事+仮節:小鎮におおく、斉陳におおい

仮節なのに、魏晋にない。っていうか「督」は、曹魏で見たことがない気がする?


上記のほかに、加節されない「都督」「監」「督」は、とてもおおい。史家がはぶいたのか。『宋書』5例から、はぶいたと思われない。考える必要がある。_100

降格されたものの事例をあげる。100頁。
おもに『宋書』で、おおくは「督」「監」「都督」のあいだで昇降する。加節が昇降するのは、『梁書』で1例のみ。統軍の等級のほうが、加節の等級よりも重要なのだ。『隋書』百官志がいう陳制でも「単車の刺史は、督は1品すすみ、都督は2品すすむ。持節か加節かは論ぜず」とある。都督かどうかが重要であり、持節や加節は重要でない。
『通典』19の晋代の官品では、諸持節都督は、第2品。宋代の官品もおなじ。

◆将軍号
統軍する人は、都督、監、督にかかわらず、みな将軍を加えられ、開府して、佐官をおける。『三国志』杜恕伝、趙𠑊伝ら。
魏代の都督諸州軍事は、護軍がいる。
また、魏晋の公府や将軍には、みな軍司(軍師)がいる。のちに検討する。軍師とは、都督を監視するために設けられたものか。『通典』職官で、魏代の官品は、諸軍司および都督護軍は、どちらも第5品。『通典』職官19で、晋代もおなじ。魏晋において、軍司と護軍が重んじられたことを示す。
『通典』職官で、晋代の都督長史、司馬は、第6品だ。漢代の将軍の長史、司馬を思わせる。『三国志』満寵伝で、揚州都督となると、長史をもった。晋代の長史と司馬は、漢魏とおなじだ。

南朝宋では、護軍も軍司も、おそらく省かれた。長史と司馬が「上佐」となり、したに参軍をおいた。名称はいろいろなので、3章でやる。

2 都督と属州の刺史との関係_103

前述『通典』より、晋代の諸持節都督は、第2品。宋代もおなじ。また『通典』より、州刺史のうち兵を領せば第4品、兵を領さねば第5品。宋代もおなじ。以上、都督は刺史よりも上である。
もとは都督は、軍を治めるために設けられた。『南斉書』に「都督は軍事、刺史は治民」という。『晋書』温嶠伝は「かつて鎮将は、おおく州を領さず。文武は同じでないから」という。かつてとは、魏代のこと(前述)。都督は軍事だけをやった。顧和はいう。「軍戎を犯さねば、都督の管轄でない」と。これは『晋書』にある。

都督は軍事のみで、刺史とは別。よくわかる。もともと刺史に軍事権はなかったけど、刺史に軍事権がプラスされた、という展開でも良さそう。晋代、すでに都督が遥かに上である。どんな変遷があったのか。いまから読めばわかるだろうなあ!


都督の地位はたかく、つねに2州以上を「兼統」する。刺史は、1州のみの行政長官である。刺史は軍事に関わりをもたぬので、軍事の方面で、刺史はかならず都督に隷属した。
『三国志』曹爽伝にひく『魏略』はいう。「このとき冀州は、鎮北を統属した」と。『晋書』華イツ伝、陳騫伝にもある。
また刺史は、都督の命令をうけて用兵した。都督は刺史にとり、統括指揮官のようなもの。ただし、事実上は指揮官であるが、完全に刺史を使いこなせない。刺史が独立した地位をもつこともある。都督と刺史の関係は、固定されない。『晋書』羊祜伝の上奏はいう。曹操がおいた都督は、州に「相近」である。都督は兵勢があるので、刺史とのあいだで、好悪や合離したと。二者は、どちらも1城に常駐したので、齟齬することもあった。

一州のうちに、べつの城に、おなじような権限の人がいる。そりゃ、ライバルになるなあ。太守にとっての都尉みたいなもの?
@HAMLABI3594 さんが議論をショートさせ、刺史と都尉を比べたがってますが、この問いの立て方もおもしろいかも(都尉だけに)。

都督と刺史の不仲は、『三国志』に5例。
満寵伝で、都督揚州諸軍事の曹休 満寵が、揚州刺史の王淩とぶつかる。崔林伝で、幽州刺史の崔林が、中郎将、統河北軍事の呉質とぶつかる。杜畿伝で、幽州刺史の杜恕が、征北将軍の程喜とぶつかる。田豫伝で、督青州諸軍事の田豫が、青州刺史の程喜とぶつかる。曹爽伝にひく『魏略』はいう。都督青徐諸軍事の桓範は、徐州刺史の鄒岐とぶつかる。
魏代の史料はシンプルなのに、5例もある。都督と刺史の対立は、よくあったのだ。『晋書』は、もっとおおい。105頁。

都督は、じわじわ刺史を控制した。ゆえに、ついに民事すら、都督が刺史の権限をこえた。西晋に事例がおおい。
杜預伝で、鎮南大将軍、都督荊州諸軍事の杜預は、平呉のあと民政した。司馬駿伝で、鎮西大将軍、使持節、都督雍涼等州諸軍事となり、関中で農桑をすすめた。劉弘伝で、鎮南将軍、都督荊州諸軍事となり、人事や裁判をやった。
これら、みな刺史の職務である。だが都督が侵犯した。

目の前にいる刺史を叩きふせて、民政をするんじゃないのね。都督がそこにおて、都督の人物に素質があるから、民政まで出来ちゃうと。たしかに職務は刺史に重複しているけど、「控制」「越権」という厳耕望の言葉は、ちょっと納得できないと思った。
例えば、名刺のデザインを頼む会社と、名刺の印刷を頼む会社があった。印刷会社にいうと、ちょっとした文字や図柄を直してくれる。だったら、デザイン会社は要らないやと。これは、印刷会社が出かけてゆき、デザイン会社を攻撃したのでない。デザイン会社には、印刷機能がないから(ないとする)印刷会社の出入りを、差し止めることはできない。だが気づいたら、仕事を取られていたと。
デザイン会社は刺史、印刷会社は都督ね。
そして、民政と軍事の境界って、どこにあるんだろう。軍事をやるには、ヒトも食物も、安定的に供給せねばならない。都督が民政をやるのは、ちっともおかしくない。
組織論の全般に飛ぶのはおかしいが、、同じような地域に、2人の隣接した「長官」をおくと、必ずどちらかが、食われちゃうなあ。

ゆえに西晋末、都督は、領域内の刺史をおさえた。都督が勝利したので、都督と刺史は、もう衝突しない。

おなじ領域に2人の長官。そういう意味で、漢代の太守と都尉に、魏晋の刺史と都督をかさねた。どちらも同じ領域内にいる。前者は行政長官、後者は軍事長官だ。
都尉と太守は、秩が近く(途中から同じになる)、権限が近接した。都尉が太守を代行するだけでなく、前漢末には、都尉が太守の治所を奪う例もある。このままでは、都尉が太守を越えるかと思いきや、光武が建武六年、都尉を廃した。光武の「軍縮」とは、太守の地位を守るという結果を生んだ。勘違い前提で書くと「文民統制を維持した」と。
もし光武が都尉をやめなかったら、「都尉頴川汝南郡諸軍事」なんてのが現れて、豫州刺史を脅かしたのかも。
@yunishio さんから、宿題をいただきました。曰く、刺史の部従事の位置づけはどうなります?ちょっとあぶれちゃうかな?と思うんです。刺史にはもともと、州下の領郡を監察する官職というイメージが強いので、太守にもそれを当てはめていいのかなーという気がしたんですよね。と。
ぼくは、漢代の刺史の部従事、太守、都尉との関係を、魏晋の、刺史と都督のアナロジーのなかに、位置づけようと思います。厳耕望を読み進めば、何かを言えるはず。
@yunishio さんはいう。(以下ずっと引用)
部従事って、表記がまちまちで分かりにくいんだよね。『後漢書』百官志だと部郡国従事。たんに従事と呼ばれることがいちばん多く、あとは郡名を冠して○○従事とか、部○○従事史とか。部従事のほか郡従事というのもあったはず。
郡従事について『三国志』を検索してみたら楊戯伝にひく『輔臣賛』の注に「先主定益州,為郡從事牙門將。」とあるのが唯一の例だな。この書き方だとどうも功曹従事史とかの郡吏っぽいなあ。
『後漢書』にも『三国志』にも太守と部従事の接触があまり書かれてないんだよね。部従事の職務柄、絶対に接触しているはずなのに。蜀の費詩が、劉備の称帝に反対して部永昌従事に左遷されてるけど、雍闓孟獲の乱のとき永昌郡で反乱が起きた痕跡がないので、費詩くんが現地でがんばってたんじゃないでしょうか。 (引用終)


西晋末よりのち、都督は、刺史をおさめ、軍民刑政の全権を1人でにぎった。都督は、2州や3州、ときには4州や5州をかねた。都督は、統府や督府とよばれた。督する州郡を属州とした。都督と刺史のあいだに、上下関係ができた。107頁。
『晋書』各例より、属州の刺史は、統府の命令にしたがう。有事があれば、統府に上言した。州に「守宰相」がなければ、統府に指示をあおいだ。

州のもと、太守や国相が欠ければ、という意味か?

統府は、刺史を指揮督察した。兵をあつめ、財物をととのえ、太守を「板授」し、刺史の任免までも上言できた。都督のつよさは、西晋と曹魏のあいだで、全然ちがう。

ただし都督は、刺史を完全に控制しない。
もし統府が中央にそむけば、刺史は統府に従わないことがある。『宋書』劉秀之伝はいう。都督荊州ら八州諸軍事がそむくとき、荊州刺史が抵抗した。109頁に他例あり。ほぼ断言できる。

以上から、魏晋南朝の、都督と刺史の関係をまとめる。
1つ。魏代、都督は1州か2、3州を統属し、軍事をもった。かならず州には刺史がいて、民政した。刺史は、都督に統属されたが、独立性をもった。ゆえに二者の関係は、安定しない。くわえて、都督と刺史は、1城に駐屯した。ゆえに対立が史料におおくある。
2つ。西晋のとき、都督と刺史は、形式では曹魏とおなじ。だが、都督が刺史をおさえる力が強まった。ときには、刺史から治民の権限をうばった。

杜預の「良政」が、刺史から権限を奪って行ったものだったのか。

3つ。西晋末、都督は、刺史を抑えて、権限が統一された。これは、おおきな変革であった。
4つ。変革ののち都督は、統府がある州内で、完全に軍民刑政をおさえた。ほかの属州でも、軍事や徴発の権限をもった。しかし、州刺史は半独立の地位をたもち、完全に都督の支配に入ったのでない。

刺史の地位がさがったのは、どこまで言えるんだろう。刺史が都督に従ったのは、おもに軍事の場面だ。そりゃ、刺史が指揮下に入る記述が、おおく残るだろうよ。
ぎゃくに、刺史がふつうに民政するとき、都督に指示する必要がない。刺史だけで、民政ができるから。刺史と都督の民政は、相互不干渉(とまでは言えないかも知れないが)に民政し、軍事のときだけ、上下関係ができた。、という話だと、刺史の民政は、必ずしも都督の配下だとも言えない。
それもこれも、西晋末から南朝のあいだ、ずっと戦争ばかりやってたせいだ。都督が刺史より強かったんじゃなく、戦争ばかりという背景に助けられたと。
たとえば、鍋物が売れず、アイスばかり売れたとする。それは、本質的に、鍋物が劣った商品で、アイスが優れた商品であることを示さない。季節が冬から夏に変わっただけだった。というのと同じ。
しかし、アイスを製造する工場の排ガス(何だそれは)が、地球を温暖化させ、アイスの売上げを伸ばしているかも知れない。アイス製造者は、商品を売れば売るほど、ニーズを作り出して、どんどん成長するだろう。
何が言いたいか。戦争が都督制を強めたのか、都督制が戦争を招いたのか。もちろん、1つに決まらないが、この引っかかりは留意しておきたい。自分的に。


刺史_111

■甲・刺史の官品と軍府
1)品第
『通典』職官の魏官品はいう。司隷校尉は、第3品。州刺史で領兵すれば、第4品。州刺史で単車(領兵しない)なら、第5品。
同の晋官品はいう。諸持節都督は、第2品。司隷校尉は3品。州刺史で領兵すれば、第4品。『宋書』百官志はいう。諸持節都督は、第2品。刺史の領兵は4品、領兵なしは5品。
以上から、魏晋宋は、刺史で領兵せねば(単車なら)第5品である。

刺史で領兵すれば、第4品というのも、魏晋宋で共通だよね。

『晋書』温嶠伝はいう。 咸和初、温嶠は、江州刺史、持節、都督、平南将軍となり、武昌に鎮す。温嶠はいう。豫章10郡は、要地である。刺史を豫章に置くべきだと。領兵せぬ単車の刺史を、豫章に置けと。皇帝はゆるさず。
ここから、晋代にも単車の刺史があったと分かる。『通典』は書き漏らしだ。

晋宋の刺史は、領兵する者が、領兵しない者より上である。諸持節都督は第2品で、刺史をかねるという史料が、絶大におおい。
刺史には3ランクあることになる。兵を領さない単車刺史、兵を領する刺史、兵を領して都督でもある刺史。
『北堂書鈔』72にひく王隠『晋書』はいう。太康三年、刺史の将軍官をやめた。刺史は、漢制にしたがい、3年に1度「入奏事」したと。
三国のとき、刺史はおおくが将軍号を加えられた。司馬炎は、漢制にもどしたくて、刺史を単車のみとしたのだ。
『華陽国志』8はいう。太康三年、益州と梁州を「軽車」刺史とし、奏事を伝達した。上の王隠『晋書』と整合する。『華陽国志』は2州の話とするが、全国で変更があったのだ。
『華陽国志』はいう。元康六年(296)、益州と梁州を「重州」とした。梁州刺史は、材官将軍を加えられた。益州刺史は、折衝将軍を加えられた。ここから、将軍号のある「重州」刺史と、将軍号のない「単車」刺史の区別がわかる。
都督は、兵をもち、将軍号をもつのは、自明である。

『南斉書』百官志は、記述がスカスカだ。晋宋とおなじだろう。
『隋書』百官志のいう梁制は、官品18班ある。班がおおいほど貴い。
州を6等級にわけ、別駕や侍中より以下、州吏の班品まで詳しい。刺史はわずかに「23州あり、中央官と同じような序列がある」というだけ。もっと詳しく書けよ(と厳耕望がいう)。どうやら州には等級があるが、刺史の等級はどうか。113頁、『隋書』の引用あり。
『隋書』によると陳制は、晋宋と同じく、刺史に3等級ある。ただし、単車、加督、加都督の3等級である。 将軍号がなく、単車の刺史は少ない。晋宋と、だいたい同じだ。

2)州郡府_114
史料で、つねに刺史は「置府」「罷府」「置府佐」「罷府佐」の記述がある。『宋書』『斉書』の事例を、114頁にのせる。「府」は将軍府をさす。後述する長史、司馬、参軍も「府」に属すとある。将軍府であることは、明らかだ。
『晋書』范寧伝はいう。府は州を統べ、州は郡を監すと。温嶠伝はいう。諸外州郡の将兵と、都督府は云々。116頁までの例から、「都督府」「督府」「統府」は、みな「都督」「監」「督」の長官をさす。
晋から南朝では、重要な鎮所には、1府だけが置かれると限らない。「将軍府」「蛮府」が並ぶことがある。この2つだけで、3つめの府はない。
なお荊州は、南朝で最大の方鎮であるが、1府だった時期がある。『宋書』武帝紀では、荊州府のみで、南蛮校尉がない。またここで、「荊州府」と記されており、「将軍府」「都督府」の区別がない。
『南斉書』でも「将軍府」「蛮府」の2府があるが、「都督府」は区別して書かれない。『晋書』庾悦伝でも、都督建威将軍である者が解任されたとき、建威府はあるが、都督府はない。
以上から、「将軍府」「都督府」は実態は1府だ。「将軍府」が正名で、「都督府」「統府」は、将軍府のことだ。開かれたのは、将軍府のみである。

となると、将軍という肩書きの長官が、肩書きどおりに将軍府をひらき、都督という機能を果たしたのだ。
「都督制」なんて術語があるから、混乱させられるが、「都督」はもっとも重要な官名でない。だって「都督府」でなく「将軍府」で、政治や軍事をしているのだから。
たとえる。「宴会部長の総務課長」がいたとする。座席は総務課にある。この人の肩書きで、公的にもっとも重要なのは、なにか。社内での身分を保障するのは、どちらか。もちろん、総務課長だろう。決して「宴会部長」ではない。
都督、都督と強調するのは、宴会部長の側面ばかり見るのに等しいような気がする。たしかに総務課長さんは、宴会部長も務めてくれて、たいへん助かるのだが、と。
刺史、将軍号、都督という役割。いずれも絡みあるから、容易には関係を言えないが、、少なくとも都督は本業でない。


1つの問題が発生する。将軍府のみあり、都督府がないと言った。
刺史が、将軍号をおび、都督(もしくは監や督)を加えられたとき、府をどうするか。刺史は、初めから将軍府をおくのか。将軍をおびた刺史は将軍府をおけるか。都督であることは必要条件でないか

入力が大変なので、厳耕望が、「都督」あるいは「監」「督」と記しているところを、単純に「都督」とのみ書きます。とくに区別する必要がある場合、ちゃんと書きます。

この問題を解くため、刺史が府を置いた者が、都督を加えられたかを調べる。以下、3つの史料が役にたつ。
1つ、南朝宋の寧州刺史の碑。この寧州刺史は、都督でない。しかし「府長史、司馬、諸曹参軍および府功曹、主簿」がいる。刺史と将軍であれば、都督でなくても、府をもてた。
2つ、『宋書』二凶伝で、揚州刺史かつ後将軍が「罷府」される。都督がないのに、府があったのだ。
3つ、『隋書』百官志にある陳制で、将軍でなければ、府がないとある。
以上3つから、刺史+将軍+都督なら、ぜったいに府がある。刺史+将軍で都督がなくても、府がある。都督を加えられたら「督府」と呼べるだけ。ほかに差異がない。つまり、領兵しない単車の刺史は、府がない。その他の、将軍号がある刺史は、みな軍府がある。晋宋と陳制は、同じである。

都督を分かっていない、『後漢書』読者としては、至極あたりまえに見える。高位の将軍になったから、将軍府ですよと。都督が曹魏から加わったらしいが、都督の有無にかかわらず、漢代からの制度と同じだと。

単車の刺史は、属官として、州吏がいるだけ。漢代と同じである。将軍を加えられ、軍府を置いたなら、将軍の佐吏は、州吏とは系統がちがう。府佐の1系統が置かれる。3章でやる。

■乙・刺史の職権_118
1)監察、治民と治軍
漢制で、刺史は監察官であり、行政官でない。漢末の大乱で、刺史は行政権をにぎった。1州の行政長官となった。陳寿はいう。漢末以来、刺史は諸軍を総統したと。
治民のみならず、武事をやった。賈逵は、建安末から黄初中に、豫州刺史となった。『三国志』賈逵伝で、豫州刺史の賈逵は、外で軍旅、内で治民をやると。
当時の人は、刺史に軍旅までさせることに、賛否があった。
司馬朗はいう。天下が乱れたから、州郡に兵を置いて備えよと。
杜恕はいう。太和のとき損益を説く。刺史は民事に専従せよと。
司馬朗と杜恕は、当時の賛否を代表する。天下が乱れたら、刺史が兵事をやるのは、環境の然らしめるところ。杜恕は、経制による理想論にすぎない。

漢制の刺史は、皇帝に上奏し、郡県を巡行した。6条の詔をもって、郡国を督察した。司馬炎の太康元年、漢制に戻そうとした。王隠『晋書』にある。前述。
房玄齢『晋書』武帝紀は、太康三年8月に、わずかに「刺史は3年に1度、入奏事する」とあるだけ。『華陽国志』も同じ。このとき、行部督察するようになった。『隋書』経籍志はいう。「晋代の刺史、6条制1巻」と。漢代とおなじく、郡国を督察したのだ。
『宋書』百官志はいう。刺史は、東晋でも、郡県に詔書を「班」したと。東晋でも、漢代と同じである。ただし、東晋末から、南朝宋に、この制度が行われなくなる。

漢代とおなじく、刺史の主要な職務は、督察すること。『晋書』陳頵伝は西晋代に、督察があったという。元帝紀は東晋代に、西晋のように督察をやろうという。督察があったのだ。

刺史の職務は、少なくとも東晋までは同じ。いいことを知った。

西晋末に天下が乱れ、三国のように、刺史に領兵させた。『華陽国志』で元康六年に、益州と梁州を「重州」にしたのが一例だ。羌族らの叛乱で、西土が不安になったから、改革したのか。天下が乱れると、刺史たちは将軍を加えられた。単車の刺史がいなくもないが、領兵するのが普遍になった。

2)任用権_121
単車刺史の属吏は、漢制とおなじく、別駕、治中らである。次章でやる。刺史がみずから辟す。だが、別駕、治中、主簿らの地位は漢代よりずっと高く、中央に任命されることがある
単車刺史は、とても少ない。将軍号があり、開府できる刺史がおおい。ゆえに佐吏には、州吏と府佐の2系統がある。州吏の任用権は、刺史にある。将軍の府佐は、もとは地方の官吏でない。ゆえに朝廷が除任するのであり、府佐を長官がみずから辟せない。だが事実上、刺史が府佐を任命する権限をもち、府佐の地位は低かった。
『晋書』司馬倫伝で、諸王の府佐は、中央が除授した。
だが、府主が自辟した事例として、『宋書』百官志に、諸葛亮、司馬越などの事例がある。公府、王府は、長官が自辟するようになり、州将府も自辟する庾尾になった。『宋書』顔師伯伝をはじめ、123頁までの事例で、自辟の事例がある。上は、佐長史から、下は諸曹参軍まで、刺史が推薦して、中央が追認するだけだ。『宋書』百官志はいう。晋宋は、将軍号のある刺史は、みな属官を任命できた。ただし正式な任命と加節だけができなかったと。

将軍号ある刺史は、軍府の曹佐だけでなく、太守、県令を自由に任命した。『宋書』劉秀之伝など。ほかにも『晋書』らに124頁の事例がある。『宋書』孝武紀によると、方鎮が郡県をにぎり、中央の収益は3分の1となったと。

3)察挙権_125
刺史の重要な権限が、察挙である。7章に記す。

■丙・刺史が太守をしばる_125
刺史が控制する権限をもち、太守らを領す。
東晋から、梁陳まで、刺史は1郡の太守をやる人がおおい。『南斉書』王玄載伝で、刺史と太守をセットでやった事例がある。青兗刺史と東海太守、徐州刺史と鍾離太守、南豫州刺史と歴陽太守など。
『晋書』謝玄伝で、兗州刺史と広陵相をかねる。兗州は広陵にある。『宋書』檀祗伝で、督江北淮南郡諸軍事、青州刺史、広陵相となる。おなじ1つの治所で、刺史と太守(国相)を兼ねたのだ。
『南斉書』王玄載伝で、宋末に、督青兗二州刺史、東海太守となる。僑置により、東海は青州の治所だった。以下、128頁まで、事例がならぶ。
10例より、刺史は、治所のある太守を兼ねたとわかる。僑置された場合もふくむ。大州や中州の中には、治所の郡の統治を長史や司馬にまかせて、刺史がみずから統治しない場合がある。3章に記す。
刺史が太守を兼ねて治所にいれば、刺史が控制する権限が強まる。『南斉書』では、南豫州が新設されたものの、刺史の領域や収入は、兼務する宣城太守としての規模でしかなかった。

4 都督刺史の収支と部曲_129

都督+刺史は権限がつよい。府の資産がゆたかで、将吏や部曲の数がおおい。東晋や南朝のとき、最大になる。
1)州府の収支_129
史料は多くない。『南斉書』豫章王嶷伝に、収入の金額がある。
2)州府の部曲_130
政治や社会が安寧でないので、地方政府は、部曲や私党をあつめた。『宋書』五行志で、東晋初、方鎮に万を数える部曲がいたとある。『晋書』范寧伝で、州府には将吏がいるだけでなく、民戸が1千余戸も私産として登録されたとある。『宋書』武帝紀で宋初、荊州には、将吏が2万人以上、兵が20万人以上いたと推測できる。『宋書』沈攸之伝では、荊州に10万がいる。東晋末には5例あり、いずれも江州や荊州の兵数がおおい。
以降、136頁まで、宋以降の州府(将軍府)の大きさが記される。

つぎは3章、州佐僚府につづく。120216

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