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方詩銘「世族、豪傑、遊侠 ― 袁紹的一個側面」の翻訳

方詩銘「世族、豪傑、遊侠―袁紹的一個側面」(『論三国人物』)を翻訳。
わりにストイックに訳しますが、もとが面白いので、読んでいただけるはず。

世族、豪傑、遊侠―袁紹のひとつの側面

袁紹は、汝南の袁氏だ。最大の世族・高門のひとつ。「袁安から四世三公となり、袁氏の勢いは天下を傾けた」という。出自は袁紹の強みだ。だが袁紹には、弱みがある。袁紹は袁逢の嫡子でない。袁紹は政敵から、袁紹は庶出だと攻撃された。袁術は、袁紹に豪傑がついたので、「袁紹は、私の家奴だ」と言った。公孫瓚に手紙して「袁紹は、袁氏でない」と言った。公孫瓚は、献帝への上疏を公開して、袁紹に言った。「『春秋』の義で、子は母をもって貴い。袁紹の母は、微賤だ」と。母の賎しい袁紹が、士大夫にどう見られたかは、つねに大問題である。
袁紹は、この弱みをよく理解した。だから、名声をつくる努力をした。『後漢書』許劭伝はいう。袁紹は許劭から、派手な行列を隠した。袁紹伝にひく『英雄記』はいう。袁紹は、母と父の喪に6年服した。『三国志集解』は周寿昌の説をひく。漢臣は、ながく服喪しない。だから袁紹は、ながく服喪して、名声を養ったと。武帝紀にひく『逸士伝』はいう。袁紹の母が死んだとき、3万人が集まった。名声を示す。

けっこう省きましたが、論理構造だけは、間違えずにぬいたつもりです。


袁紹は世族だが、遊侠を好んだ。袁紹伝にひく『英雄記』を、恵棟『後漢書補注』巻17は説明する。袁紹は遊侠を好み、奔走の友をつくる。張邈、何顒、許攸、伍徳瑜らである。この4人について、考察する必要がある。
張邈は、『三国志』張邈伝と、『後漢書』党錮伝が記す。八廚の1人。「廚」とは、財産で人を救えることをいう。張邈は、『後漢書』鄭泰伝にも記され、「富貴だが、家を傾けてまでバラまいた」とある。

べつの魯粛の章で、魯粛が周瑜に倉を与えたエピソードから、魯粛も「廚」だと言ってました。著者の方詩銘氏は。

何顒は、『後漢書』何顒伝が記す(引用は省略)。何顒と袁紹の関係は、充分に密接である。
許攸は、南陽の人だ。『三国志』崔琰伝にひく『魏略』と、荀攸伝にひく『漢末名士録』が記す。陶丘洪は、許攸が「難に赴く」、「難を救う」性格だと言った。許攸もまた、何顒のよき友である。2人の志趣はおなじで、同一タイプの人物だ。
伍徳瑜とは誰か。『三国志』董卓伝にひく『英雄記』はいう。伍瓊、あざなは徳瑜、汝南の人だ。謝承『後漢書』はいう。伍孚、あざなは徳瑜、郡門の下で書佐となる。裴松之はいう。謝承は、伍孚のあざなと出身地を、伍瓊と同じに記す。伍孚の別名が伍瓊なのか、伍孚と伍瓊は別人なのか、わからないと。『三国志集解』のひく何焯と陳景は、どちらも同一人物だと疑う。
以上の史料から、要点をぬく。
張邈は「わかくして侠をもって聞こ」えた。何顒は太学生だが、賈彪と郭泰の賞賛をもらい、友の代わりに父の仇を討った。何顒にも、遊侠の性格があったと言うべきだ。許攸は「難」に赴いて救い、何顒と親しかった。同タイプだ。伍徳瑜は、「性質は剛毅で、勇壮だ。義を好んだ」とある。もちろん伍徳瑜は、遊侠だ。袁紹は「遊侠」で、4人の「奔走の友」も遊侠だ。袁紹は、戦乱の時代にあって、遊侠の士の1人だ。

ほかに袁紹には、重要な朋友がいた。曹操だ。武帝紀によると、曹操も遊侠である。『世説新語』仮譎篇に、曹操と袁紹の2人の性格がちかいエピソードがある。
遊侠とは、荀悦『漢紀』巻10にある(引用は省略)。表面で荀悦は、前漢の遊侠について書く。だが実際は、後漢末の情況を記す。遊侠とは、ただ「盗賊にまで落ちぶれた」だけでなく、「武毅」のことを言う。朝廷に官位をもつ人も、遊侠だ。たとえば「累世公族」の袁紹、「家は財に富む」張邈らも含む。「時難をすくい、同類をすくう」のが、後漢末の遊侠だ。前漢の遊侠とちがう。
後漢末の遊侠は、戦乱の産物だ。袁紹の遊侠な生涯を、范曄『後漢書』はこのように記す。「袁紹は士を愛し、名を養った。士には貴賎なく、へりくだる。袁紹の仲間は、街に満ちた」と。何顒伝では、何顒は姓名をかえ、汝南で袁紹に匿われた。ひっそり洛陽に出入りした。袁紹は、党人を助けた。この生命の危険すら冒す行動が、荀悦が言った「遊侠」である。「時難をすくい、同類をすくう」のは、最高の行動原理だ。
『後漢書』袁紹伝はいう。中常侍の趙忠は、袁紹を警戒した。叔父の太傅・袁隗は、袁紹を叱った。外部に、大宦官・趙忠からの圧力がかかる。内部に、族長の袁隗からの圧力がかかる。だが袁紹は改めなかった。袁紹が、かたい態度で「時難をすくい、同類をすくう」を貫いたと分かる。

『三国志』では、袁紹は態度を改めちゃうんだっけ。


ここで「豪傑」にかんする問題がある。豪傑とは、もとは1つの一般的な概念だ。『淮南子』泰族訓はいう。「1万人に知過する者を、英という。1千人なら俊、1百人なら豪、1十人なら傑だ」と。しかし戦乱の時代に「豪傑」と言えば、特殊な意味がある。豪族のなかで、傑出した人物のことだ。『後漢書』何進伝は、袁紹がよく豪傑を用いるという。これは何進が袁紹を重用した、主要な理由である。何進は袁紹と画策して、四方から豪傑を召して、何太后をおどした。前将軍の董卓、東郡太守の橋瑁、武猛都尉の丁原、府掾する泰山の王匡だ。
董卓と丁原は、遊侠の身分であるが、猛将だ。言うまでもない。橋瑁らは、武帝紀にひく『英雄記』に載る。橋瑁は、橋玄の族子だ。はなはだ威恵がある。洛陽から泰山にもどり、強弩をひける王匡を連れてきたと。武帝紀にひく『英雄記』はいう。王匡は財を軽んじ、施しを好んだと。橋瑁と王匡は、猛将ではないが、豪傑にカウントされた。王匡のように、豪傑と遊侠は、関係があるが、ちがいもある。
以上、見たように。袁紹がはじめ頭角をあらわしたのは、世族という身分だけでなく、遊侠と豪傑だからだ。袁紹は、どちらの性質でも人脈をつくった。

袁紹、冀州にて

袁紹は宦官を消滅させたが、董卓が政権をにぎる。董卓が「廃嫡立庶」したから、袁紹は董卓に堅く反対した。遊侠と豪傑の性格があらわれた。
董卓は、遊侠や豪族と妥協せざるを得ない。吏部尚書の周毖、侍中の伍瓊、尚書の鄭泰、長史の何顒を用いた。伍瓊と何顒は、袁紹と奔走の友だ。袁紹とおなじく、遊侠だ。周毖は、董卓伝にひく『英雄記』にある。鄭泰は、鄭渾伝にひく張ハン『漢紀』にある。鄭泰は、豪傑と交結した。家は財に富んだと。鄭泰の財産は、張邈とおなじだ。鄭泰も遊侠の士だ。
袁紹伝はいう。侍中の周毖、城門校尉の伍瓊、議郎の何顒らは、董卓に言った。袁氏の門生故吏が天下にみちる。袁紹を1郡の太守とせよと。董卓は、袁紹を渤海太守とした。袁紹は河北ににげたが、渤海にこのように地盤を得た。袁紹は、門生故吏がおおいので、董卓から離脱した関東を、統治できた。袁紹に地盤を与えたのは、四世三公の親族・袁隗でなく、伍瓊ら遊侠の士だ。戦乱の時代では、現・三公の袁隗でなく、遊侠の袁紹が支持された

袁隗が体制側の主流、袁紹はただ体制を逸脱した、あぶれもの。ぼくはそう思う。まあ、袁隗にかんする史料が少ないから、袁隗がどれほど支持されたか、言うことはむずかしいが。


董卓と絶裂したのち、なぜ袁紹は遠い河北まで、行かねばならないか。武帝紀はいう。袁紹と曹操は話した。袁紹は言った。「南は黄河、北は燕代に割拠する」と。曹操は言った。「天下の智力をあつめる」と。『三国志集解』で何焯はいう。袁紹は光武帝が河北を平定したのをマネたと。武帝紀を見ると、袁紹と曹操の会話は、董卓討伐を起こしたときだ。つまり、すでに袁紹が河北に到達した後だ

ぼくは思う。そもそもこの会話が、曹操を際立たせるための、フィクションという気もするが。すでに渤海太守となった袁紹が、「河北に割拠するのだ」と語っても、これは長大な戦略の説明でない。現実の正当化である。もう着手してしまった作戦が、間違っていないんだ!と、強がっているようであり。会話を置く位置をまちがえて、ブサイクなフィクションになったなあ。

ただし袁紹が河北に拠るには、突然に形成された作戦でない。袁紹が洛陽で「奔走の友」をしてたとき。河北の豪傑と、交流があった。許攸は、袁紹の戦略をつくった主要な人物の1人だ。
同時に、後漢末の冀州は、富庶な地区だ。袁紹伝はいう。逢紀は袁紹に「冀州は強実だ」と言った。のちに高幹と荀諶も「冀州は、天下の重資だ」と言った。武帝紀にひく『英雄記』は、「冀州の民人は殷盛で、兵糧は充足する」という。袁紹伝に「穀物が10年分ある」という。冀州が富むから、袁紹は河北を選んだ。

ぼくは思う。方氏はいろいろ言うが。袁紹が渤海に逃げた、理由の第一は「とにかく、洛陽から遠い。異民族に攻められない範囲では」だと思う。董卓がこわいから!


河北には許攸がいて、洛陽から逢紀もしたがう。袁紹伝にひく『英雄記』は、逢紀を載せる。『後漢書』何進伝で、何進が招いた「智謀の士」は、逢紀のほかには、何顒と荀攸だ。荀攸は潁川の荀氏で、袁紹と密接な関係はない。何顒は、すでに書いたが、「奔走の友」で、許攸とおなじく、袁紹の政治集団である。荀攸の例外はあるが、逢紀、袁紹、何顒、許攸は、同一タイプの人物と見なせよう。史料は逢紀の本貫を記さない。ただ後漢初、「逸民」の逢萌は、北海の都昌の人だ。恵棟『後漢書補注』巻19はいう。逢氏は、北海の姓だと。『集キン』らも、北海の姓とする。逢紀は北海の人である。関東の人であって、河北の豪傑の士でない

「逢紀が、故郷に袁紹を誘導した」というストーリーでないと。方氏は、これを言った。袁紹が、河北の地元勢力を、味方にできなかったことが、失敗をまねく。袁紹の結末にむけた、伏線である。

袁紹は河北にきて、渤海を根拠地とした。冀州牧の韓馥は、「袁氏の故吏」である。袁紹と韓馥は、密接な関係がある。袁紹のそばに、逢紀や許攸がいる。これより袁紹は、河北の平定を開始する。

袁紹が、最強で最大の割拠者となる

初平元年(190年)、袁紹は兵をあげた。董卓は洛陽で、袁紹の一門を殺した。武帝紀にひく曹丕『典論』は、当時を記す。曹丕は、傑出した文学家で、気勢があるが、忠実な記述をする。しかし曹丕は、豪傑をひきいた人物として、袁紹の名を記すのを避けた。これより、ながい戦乱の時代が始まる。

曹丕は、袁紹の名を記さず、ちょっと抽象化して、この時代を記述する。袁紹が、父・曹操の敵だから、はぶいたのだろう。方氏は、直接はこれを指摘しないが、おそらく分かりきったことという前提だろう。


まず袁紹は、韓馥の冀州を併合する準備をした。『後漢書』袁紹伝で、逢紀が袁紹に説く。「公孫瓚が南下すれば、韓馥は冀州を投げ出す」と。公孫瓚は、袁紹に火中のクリを拾わせようとした。武力で、韓馥に圧力を加える。韓馥は、冀州の軍勢をひきいて、公孫瓚に対抗できない。ゆえに韓馥は、袁紹に冀州をゆずった。

『後漢書』袁紹伝で、逢紀がしめす作戦。おもしろそう。読もう。袁紹と公孫瓚は、対立構図が、分かるようで分からない。公孫瓚は、劉虞の部下のくせに、かってに動くからなあ。整理せねば。

袁紹が冀州を得られた、もっとも根本の原因は、潁川集団から支持されたことだ。荀彧伝で、荀彧は韓馥に迎えられた。袁紹が冀州をうばうと、荀彧を上賓の礼で待遇したと。潁川は、人材が集中した。智謀や豪侠の士がいる。荀彧は、潁川の代表だ。はじめ韓馥は冀州を治め、同郡の潁川との関係を利用した。荀諶、辛評、郭図らが、韓馥にあつまる。
荀彧が冀州にくると、すでに袁紹が冀州を奪ったあとだ。荀彧は、すぐに袁紹から離れ、曹操についた。

ぼくは補う。韓馥は、潁川の人。韓馥がつれてった潁川の人材を、袁紹がひきついだ。曹操がひきついだ。曹魏の初期、潁川の人士がさかえるのは、もとは韓馥のおかげ。なるほど。
もし荀彧が、韓馥に就職したあと、袁紹が冀州を奪ったら、どうなったか。荀彧も、袁紹の軍師となっただろう。ただ荀彧は、韓馥に就職する前に、冀州牧が袁紹に代わったから、就職を見合わせた。たとえば。勤め先の会社が買収されたら、継続して雇用されるだろう。だが、内定先の会社が買収されたら。就職を再検討するかも知れない。もし買収のされ方が、エゲツなかったら、就職する気がなくなるかも。いまだ就職していない身だから、選択は自由である。曹操は、ギリギリの偶然が手伝って、荀彧を手に入れることができた。

荀彧伝はいう。荀諶、辛評、郭図は、袁紹の任じられた。荀彧伝にひく『荀氏家伝』は、荀諶を記す。荀諶は、荀攸や荀彧とおなじ「ならびなき」傑出した人物だ。郭図は、鍾繇伝にひく謝承『後漢書』にある。潁川太守の陰修は、張仲方、鍾繇、荀彧、張礼、杜佑、荀攸、郭図をつかったと。当時、中央政府は、州郡や県の長官を任命したが、本籍の人を任命しない。ただ地方政府が、掾吏を二名するとき、すべて本籍の人を任命した。在地の豪族におさえられた。『宋書』恩コウ伝の序は、潁川太守の陰修が、潁川の賢人をあげたことを、その例とする。郭図は、潁川の豪族であろう。袁紹から曹操にうつった郭嘉も、潁川の人だ。郭嘉は、辛評とおなじ陽翟の出身だ。郭嘉と郭図は、同族だろう。この推測が正しければ、郭図は陽翟の人である。このような潁川集団を、韓馥は統治に重用した。
このとき、荀諶は韓馥に、袁紹へ冀州牧をゆずれと言った。公孫瓚をつかい韓馥に圧力をかけ、袁紹でないと冀州は統治できないと示した。実際は、潁川集団が、韓馥から袁紹に乗り換えたのだ。荀諶が乗り換えた言葉は、袁紹伝にある。『後漢書』袁紹伝で、荀諶は韓馥と袁紹を比べ、袁紹が勝る3つの点をあげた。

内容は、なんだっけ。『後漢書』袁紹伝、読もう。


袁紹は、いかにして冀州の統治を進めたか。
潁川集団の支持だけで、冀州は統治できたか。袁紹は、潁川集団を牽制すべきだ。韓馥のように、見捨てられてはいけない。袁紹は、韓馥が河北の在地豪族を冷遇したと、見抜いた。『後漢書』袁紹伝はいう。魏郡の審配、鉅鹿の田豊は、韓馥のもとで志を得なかったと。
審配は、袁紹伝にひく『先賢行状』と、『後漢書』袁紹伝にある。審配は魏郡の人で、河北の豪傑である。田豊は、袁紹伝にひく『先賢行状』にある。田豊は渤海の人で、河北の豪傑である。ほかに、沮授がいる。沮授は、袁紹伝にひく『献帝紀』にある。沮授は、ほかの河北の豪傑とおなじく、韓馥の属吏にすぎなかった。
袁紹は、潁川集団と河北集団に支持されて、冀州を統治した。袁紹は「南は黄河、北は燕代」の戦略を基本的には完成させた。

袁紹はいかに滅びたか

冀州のつぎの目標は、幽州である。幽州に公孫瓚がいる。本来、袁紹と公孫瓚は、友好である。韓馥から冀州をうばうとき、協力してもらった。界橋で戦い、袁紹は公孫瓚の主力を滅ぼした。易京にかこんだ。公孫瓚を自殺させ、幽州を統治した。久しからず、并州と青州も手にいれ、袁紹は群雄のトップになった。

公孫瓚が死ぬのは、199年だ。「不久」と方氏は言うが。并州と青州を手に入れたのは、官渡の直前である。けっこう袁紹は、公孫瓚に苦戦したのだ。ほんとに界橋で、主力を片付けたのだろうか。

袁紹が河北にいるとき、曹操は基本的に、関東を統一しおえた。袁紹は南下、曹操は北上する必要がある。同一の政治集団にいる旧友同士だが、戦わねばならない。官渡の戦いが起きた。袁紹が敗れたのは、潁川と河北の集団が矛盾したからだ。許攸は、張郃を叛かせた。これが、官渡の勝敗のカギとなる。袁紹が失敗した、主要な原因の1つだ。
南陽の許攸は、潁川の荀諶、辛評、郭図らと故郷がちかい。当然、許攸は潁川集団に属す。

やっぱり、南陽と潁川は、同一の地域圏ということで、いいよね。

荀彧の評価で、許攸は「貪りて治めず」だ。許攸は、逢紀や審配と、官渡の後ろを任された。許攸が法を犯した。河北集団の審配は、許攸の妻子をとらえた。武帝紀にひく『魏書』がいうように、審配と許攸は、家ごと対立した。
許攸は、曹操に烏巣をバラした。武帝紀にひく『曹瞞伝』は、曹操がハダシで許攸を迎えたとある。曹操が、許攸を重視したと分かる。曹操と許攸は、洛陽で朋友だった。崔琰伝にひく『魏略』は、官渡のあと、許攸が曹操を小字で呼んだという。曹操が袁紹を大破して冀州をとったのち、許攸が偉ぶったことが分かる。曹操は、しぶしぶ許攸を許した。

張郃も、曹操に投降した。張郃伝は、郭図との対立を載せる。武帝紀と袁紹伝で、投降の説明がちがう。裴松之が指摘した。なぜ、食い違ったか。『三国志集解』で、姜シン英が述べる意見がただしい。張郃の家伝は、張郃が投降したせいで、袁紹が敗れたことを隠したのだ。

方氏は、張郃の投降を、すごく重視する。この視点で、史料を読み直そう。

張郃が投降した動機は、郭図との矛盾である。張郃は、冀州の河間の人だ。郭図は、潁川集団である。郭図は、河北集団の沮授とも、対立した。郭図が沮授の軍隊をうばったと、袁紹伝にひく『献帝紀』にある。 以上、許攸と張郃の投降が、袁紹が敗れたカギである。

袁紹は病死して、冀州、青州、幽州、并州は、曹操の手においた。袁紹は、後継者を定めない。河北集団の審配と、潁川集団の辛評と郭図が、後継争いに加わった。袁譚と袁紹の兄弟争いは、河北と潁川の争いである。争いの目的は、河北の最高権力を得ることだ。
ここで、逢紀の動向に説明が必要だ。逢紀は、袁紹にしたがって河北にきた。『後漢書』袁紹伝にひく『英雄記』はいう。審配は、逢紀と睦まじくないと。もとは審配は、逢紀と対立したのだ。逢紀は、なぜ審配と結んだか。袁紹伝にひく『先賢行状』は、官渡のあと、逢紀は河北集団の田豊を中傷した。田豊は袁紹に殺されたと。逢紀は、河北集団でないが、豫州人でないから、潁川集団でもない。辛評や郭図とは、距離があった。袁紹伝にひく『英雄記』は、逢紀の言葉を載せる。「私情で審配と対立しましたが、国事は別です」と。ここから、逢紀と審配の接近が始まる。逢紀は袁尚を支持した。袁紹伝で逢紀は、審配のために、袁譚に殺された。逢紀は、潁川と河北のどちらにも属さない人物だった。

ぼくは思う。袁紹との個人的な結合で、出世したのだろう。派閥とかじゃなく。逢紀の行動については、ちゃんと史料を読み直してみないと、よく分からない。っていうか、袁譚と袁紹の抗争を、ぼくは暗記していない。複雑すぎるから、逃げてる。


曹操は冀州を占領した。曹丕は曹操のそばにいて、『典論』を書いた。曹丕は観察した。袁譚と袁尚の争いが、袁紹の勢力を滅ぼしたと。これは同時に、逢紀をのぞく、潁川と河北の対立でもある。曹丕は、直接の証言者である。河北の審配と、潁川の郭図が曹操に殺されて、ついに袁紹の勢力が滅びた。
かつて荀諶は、韓馥に圧力をかけて、袁紹が韓馥に勝る3つの長所を言った。だがこの長所がアダとなって、潁川と河北の対立をまねいた。ともあれ、袁紹は傑出した人物であった。110207

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