表紙 > 曹魏 > 『三国志』巻25・楊阜伝、涼州刺史・韋氏の父子につかえ、馬超をこばむ

涼州刺史・韋氏につかえ、馬超をこばむ楊阜伝

驢馬の会をうけて、楊阜伝を復習。『三国志集解』を読みます。

荀彧が推す韋端につかえ、関中で袁紹に敵対

楊阜字義山,天水冀人也。
魏略曰:阜少與同郡尹奉次曾、趙昂偉章俱發名,偉章、次曾與阜俱為涼州從事。

楊阜は、あざなを義山という。天水の冀県の人。

天水は、明帝紀の太和二年にある。王粛伝にひく『魏略』薛夏伝にある。『郡国志』はいう。涼州の漢陽郡の冀県だ。
胡三省はいう。漢陽郡は、晋代に天水にうつる。だから陳寿は、漢陽でなく天水と書いた。冀県は、涼州の州治だった。
馬興龍はいう。閻温伝はいう。馬超は、州治の冀城をかこむ。楊阜伝はいう。ただ冀城だけが、州郡をたてまつり、馬超をこばんだ。霊帝の中平より以後、建安の末年まで、涼州の州治は、冀県だった。
王先謙はいう。魏代、冀県は天水郡だった。

『魏略』はいう。わかい楊阜は、同郡の尹奉(あざなは次曾)と、趙昂(あざなは偉章)とともに、名を知られた。尹奉、趙昴と、楊阜は、ともに涼州從事となる。

尹奉は、のちに敦煌太守となる。倉慈伝、閻温伝にある。
ぼくは思う。涼州の人名を、まとめて整理したい。まだ散発的にしか、知らない。


以州從事為牧韋端使詣許,拜安定長史。阜還,關右諸將問袁、曹勝敗孰在,阜曰:「袁公寬而不斷,好謀而少決;不斷則無威,少決則失後事,今雖強,終不能成大業。曹公有雄才遠略,決機無疑,法一而兵精,能用度外之人,所任各盡其力,必能濟大事者也。」長史非其好,遂去官。而端徵為太僕,其子康代為刺史,辟阜為別駕。察孝廉,辟丞相府,州表留參軍事。

楊阜は州從事となり、涼州牧の韋端のために、許県にゆく。安定長史となる。

このことは、建安四年(199)だ。韋端は、荀彧伝の注釈にある。ぼくは補う。韋端は、荀彧に推された人。曹操が袁術をたおし、これから袁紹と戦うとき、涼州に赴任した。涼州は、河北平定にとって重要である。曹操は韋端に、涼州の鎮静を期待した。むずかしすぎる仕事!
長史について。『続百官志』はいう。郡ごとに、太守1人、丞1人をおく。辺境の郡では、丞のことを長史とした。ぼくは補う。楊阜は、安定の丞みたいなもの。献帝が東遷して、涼州は混乱したけれど、現地のすぐれた人材は、ちゃんと把握されていた。献帝のまわりだけ、コップのなかの嵐。

楊阜は、許都から涼州にかえる。關右の諸將は、楊阜に聞いた。「袁紹と曹操は、どちらが勝つか」と。楊阜は言った。「曹操が勝つ」と。

ぼくは思う。楊阜の袁紹にたいする評価は、「魏志」に散りばめられたものと、おなじ。「寬而不斷,好謀而少決;不斷則無威,少決則失後事,今雖強,終不能成大業」と。曹魏の史家のあいだでは、「袁紹のキャラは、こんなふうに書きましょう」という、規範があったかと思えるほど。ステレオタイプだから、信用ができない。
ぼくは思う。これはぼくの推測だが、関中の世論は、袁紹への支持だろう。荀彧伝で、袁紹が関中まで囲いこみ、天下を統一する戦略が書いてある。世論にさからい、曹操を支持したから、わざわざ楊阜伝で強調してあるのだ。なにが言えるか。献帝がぬけたあと、関中は、袁紹支持にかたむいた。曹操が献帝を保持しているが、袁紹が官渡をわたり、関中から挟みうてば、曹操はつぶれる。

楊阜は、長史の職務をこのまず、官位をさった。韋端は徵されて、太僕となる。韋端の子・韋康が、涼州刺史となる。韋康は楊阜を辟して、別駕とした。楊阜は、孝廉に察され、丞相府に辟された。韋康は上表して、楊阜をとどめ、涼州の軍事に參じさせた。

ぼくは思う。韋端から韋康に、親子で刺史がうつった。劉焉が死んで、劉璋が刺史をついだが、これは朝廷の意思にそむくこと。刺史は、そもそも世襲じゃない。いま曹操は、韋氏の親子に世襲させて、へんな前例をつくった。それだけ涼州の統治は、個人にたよるところが、大きいのか。
曹操は、河北と関中に挟みうたれているから、涼州に手をぬけない。韋端が中央にきた理由は、年齢のせいかな。べつに韋端が、失敗したのでない。失敗したなら、子の韋康がつぐことはない。


冀県にこもり、馬超に刺史と太守を殺される

馬超之戰敗渭南也,走保諸戎。太祖追至安定,而蘇伯反河間,將引軍東還。阜時奉使,言於太祖曰:「超有信、布之勇,甚得羌、胡心,西州畏之。若大軍還,不嚴為之備,隴上諸郡非國家之有也。」太祖善之,而軍還倉卒,為備不周。超率諸戎渠帥以擊隴上郡縣,隴上郡縣皆應之,惟冀城奉州郡以固守。超盡兼隴右之眾,而張魯又遣大將楊昂以助之,凡萬餘人,攻城。阜率國士大夫及宗族子弟勝兵者千餘人,使從弟岳於城上作偃月營,與超接戰,自正月至八月拒守而救兵不至。

馬超は渭南でやぶれ、諸戎をたもつ。曹操は安定にきたが、河間で蘇伯がそむくので、曹操は東にかえる。

馬超が渭南でやぶれたのは、建安十六年(211)。河間の民・田銀、蘇伯がそむいたのは、建安十七年(212)。ぼくは思う。曹操は、歳をまたいで、関中にきた。河間から見ると、曹操のルスは、反乱のチャンス。曹操は、河北をまだ完全に平定できてない。べつに袁紹を懐かしむ民がいたのでなく、とにかく「曹操じゃイヤ」という勢力だろう。曹操への不支持が、やがて天下三分につながる。

楊阜は曹操に言った。「曹操が東にかえれば、隴西、南安、漢陽、永陽は、曹操の領土じゃなくなる」と。曹操は東にかえる。馬超が、諸戎の渠帥をひきい、隴上の諸県をおとす。ただ冀県だけ、馬超をふせぐ。張魯は、大将の楊昂に1万余人をつけ、馬超をたすける。

『後漢書』献帝紀はいう。初平四年(193)、漢陽をわけて、永陽をつくる。『資治通鑑』は、馬超の冀城ぜめを、建安十八年(213)とする。

楊阜は、将士と宗族をつかい、馬超をふせぐ。楊阜の弟・楊岳は、偃月の軍営をつくる。正月から8月まで、馬超をこばむ。曹操軍は、助けにこない。

盧弼はいう。長安の夏侯淵に、救いをもとめたのだ。ぼくは思う。涼州は、兵数のわりに、守備する範囲がひろい。援軍をよぶ、援軍にくる、が官軍にとって重要な行動。夏侯淵の移動速度が速いのは、涼州を統括するための特性。


州遣別駕閻溫循水潛出求救,為超所殺,於是刺史、太守失色,始有降超之計。阜流涕諫曰:「阜等率父兄子弟以義相勵,有死無二;田單之守,不固於此也。棄垂成之功,陷不義之名,阜以死守之。」遂號哭。刺史、太守卒遣人請和,開城門迎超。超入,拘岳於冀,使楊昂殺刺史、太守。

涼州(刺史の韋康)は、ひそかに別駕の閻溫に求救させたが、馬超に殺された。刺史も太守も、失色した。

韋康らは、馬超にくだりたい。楊阜は流涕して、いさめた。「田単みたいに、守城しよう」と。だが、刺史も太守も、馬超にくだる。馬超は、楊岳を冀城にとらえる。馬超は、張魯の大将・楊昂にめいじ、刺史と太守を殺した。

田単は、『史記』に列伝がある。樂毅をふせいだ。
盧弼はいう。裴注『列序伝』はいう。刺史の韋康は、吏民をあわれみ、馬超に請和した。「魏志」荀彧伝にひく『三輔決録注』はいう。韋康は馬超にかこまれ、救援がこないので殺されたと。
盧弼は考える。馬超は、羌胡、隴右の軍勢、張魯の援軍がいる。韋康は、救援がこなくて、弱い。8月、閻温はぬけだし、殺された。つよい馬超が、よわい韋康の約束をまもらず、韋康を殺したのは、アンフェアである。だから馬超は、復讐された。
ぼくは思う。馬超は、韋康をたすけなかった。この、卑怯かつ強硬な行動が、みなに怒られている。史料を見ると、馬超が、秩序をまったく求めていないことがわかる。
ぼくはいま、佐伯啓思『現代文明論講義』を読んでます。ここに「なぜ人を殺してはいけないか」が出てくる。「自分が殺されたくないから」という相互性を、その答えとする意見がある。だがこの意見は、「オレは殺されてもいい。だからオレは、人を殺してもいい」と考える人を、とめられない。馬超は、これに似ているかも。「オレは家族を殺されてもいい。約束をやぶられてもいい。だから、家族を殺すし、約束をやぶる」と。論理は整合しているけど、支持されるかは、べつの話。


馬超から冀城をうばい、趙昂の妻・王異もたたかう

阜內有報超之志,而未得其便。頃之,阜以喪妻求葬假。阜外兄姜敘屯曆城。阜少長敘家,見敘母及敘,說前在冀中時事,歔欷悲甚。敘曰:「何為乃爾?」阜曰:「守城不能完,君亡不能死,亦何面目以視息於天下!馬超背父叛君,虐殺州將,豈獨阜之憂責,一州士大夫皆蒙其恥。君擁兵專制而無討賊心,此趙盾所以書弑君也。超強而無義,多釁易圖耳。」敘母慨然,敕敘從阜計。

楊阜は、馬超にむくいたい。このころ楊阜は、妻の葬儀のため、休暇をもとめた。楊阜の外兄・姜敘は、曆城にいた。

ちくま訳はいう。外兄とは、父の姉妹の子、もしくは母の兄弟の子。
『水経注』は、歴城の位置をのせる。のちに、建安と改められた。宋白はいう。晋室は、仇池郡をおき、歴城を郡治とした。
姜敘は、撫夷将軍となり、兵をつれて、歴城にいた。

かつて楊阜は、姜敘の家で育てられた。冀城の話をして、楊阜は泣いた。「馬超は、父親と主君にそむいた。馬超を殺したい」と。姜敘の母は、慨然として、姜敘に「楊阜をたすけろ」と言った。

計定,外與鄉人姜隱、趙昂、尹奉、姚瓊、孔信、武都人李俊、王靈結謀,定討超約,使從弟謨至冀語嶽,並結安定梁寬、南安趙衢、龐恭等。約誓既明,十七年九月,與敘起兵於鹵城。超聞阜等兵起,自將出。而衢、寬等解岳,閉冀城門,討超妻子。超襲曆城,得敘母。敘母罵之曰:「汝背父之逆子,殺君之桀賊,天地豈久容汝,而不早死,敢以面目視人乎!」超怒,殺之。阜與超戰,身被五創,宗族昆弟死者七人。超遂南奔張魯。

同郷の姜隱、趙昂、尹奉、姚瓊、孔信、武都の李俊、王靈と、馬超をころす作戦をねる。從弟の楊謨をおくり、冀県に牢獄にいる楊岳とはなす。安定の梁寬、南安の趙衢、龐恭らとむすぶ。

梁寛は、もと黄門侍郎だ。龐淯伝にひく列女伝にある。

建安十七年(212)9月、楊阜と姜敘は、鹵城で起兵した。

『通鑑考異』はいう。楊阜伝は建安十七年9月というが、武帝紀は建安十八年におく。馬超は漢陽にいて、羌族とむすび、曹操軍に害をなしたのは、建安十九年正月だ。趙衢が馬超をうち、馬超が漢中に逃げたのが、正月だ。建安十八年正月は、鄴県に勝報がとどいた時期だ。楊阜伝は、誤りである。
銭大昭はいう。武帝紀、夏侯淵伝をみると、馬超との戦いを、建安十九年とするが、これは誤りである。盧弼は考える。楊阜と姜敘が起兵したのが、建安十八年9月で、鄴県に勝報がとどいたのが、建安十九年正月だ。ぼくは補う。盧弼のいうとおり、いま下線をつけたとおりで、正解なのだろう。
鹵城は、夏侯淵伝、閻温伝にある。冀県、西県のあいだにある。

馬超を、冀城から閉めだす。馬超は、姜敘の母に「馬騰と韋康を殺した」と、ののしられた。馬超は姜敘の母を殺した。楊阜は、5つのキズを受け、宗族7人が死んだが、馬超をやぶる。馬超は、張魯をたよる。

隴右平定,太祖封討超之功,侯者十一人,賜阜爵關內侯。阜讓曰:「阜君存無扞難之功,君亡無死節之效,於義當絀,於法當誅;超又不死,無宜苟荷爵祿。」太祖報曰:「君與群賢共建大功,西土之人以為美談。子貢辭賞,仲尼謂之止善。君其剖心以順國命。薑敘之母,勸敘早發,明智乃爾,雖楊敞之妻蓋不過此。賢哉,賢哉!良史記錄,必不墜於地矣。」

隴右を平定したので、楊阜は関内侯となる。曹操は言った。「姜敘の母は、霍光に廃立をうながした、楊敞の妻にまさる」と。

皇甫謐『列女傳』は、姜敘の母について、くわしい。盧弼に、めぼしい注釈がないので、はぶく。ちくま訳を読めば、充分かな。
ぼくは思う。


臣松之案:謐稱阜為敘姑子,而本傳雲敘為阜外兄,與今名內外為不同。謐又載趙昂妻曰:趙昂妻異者,故益州刺史天水趙偉璋妻,王氏女也。昂為羌道令,留異在西。會同郡梁雙反,攻破西城,害異兩男。異女英,年六歲,獨與異在城中。異見兩男已死,又恐為雙所侵,引刀欲自刎,顧英而歎曰:「身死爾棄,當誰恃哉!吾聞西施蒙不絜之服,則人掩鼻,況我貌非西施乎?」乃以溷糞涅麻而被之,鮮食瘠形,自春至冬。雙與州郡和,異竟以是免難。昂遣吏迎之,未至三十裏,止謂英曰:「婦人無符信保傅,則不出房闈。昭姜沈流,伯姬待燒,每讀其傳,心壯其節。今吾遭亂不能死,將何以複見諸姑?所以偷生不死,惟憐汝耳。今官舍已近,吾去汝死矣。」遂飲毒藥而絕。時適有解毒藥良湯,撅口灌之,良久乃蘇。

裴松之はいう。『列女伝』は楊阜を、姜敘の姑子とする。陳寿は、姜敘が楊阜の「外兄」という。同じでない。

銭大昭はいう。高幹は袁紹の外甥である。牽招伝は、高幹が袁尚の「外兄」とする。姜敘が楊阜の「外兄」という陳寿は、誤りであろう。
盧弼はいう。夏侯玄伝はいう。夏侯玄は、曹爽の姑子だ。ひく『魏書』は、夏侯玄の親が、曹爽の「外弟」だとする。夏侯淵伝にひく『魏略』はいう。夏侯玄は、曹爽の外弟だ。これは、姑子を「外兄」「外弟」とよぶ用例だ。
ぼくは思う。盧弼は、陳寿も『列女伝』も、どちらも成立すると言っている。

『列女伝』は、趙昂の妻について載せる。王異は、もと益州刺史した天水の趙昂の妻である。趙昂は羌道令となり、王異は西県にのこる。

『列女伝』は、士氏の娘とするが、ちがう。王氏である。『郡国志』はいう。涼州の武威に、羌道県がある。

同郡の梁雙がそむき、西城を攻めた。王異は、2子を殺された。服毒した。

建安中,昂轉參軍事,徙居冀。會馬超攻冀,異躬著布韝,佐昂守備,又悉脫所佩環、黼黻以賞戰士。(中略) 超遂背約害康,又劫昂,質其嫡子月於南鄭。(中略) 異複與昂保祁山,為超所圍,三十日救兵到,乃解。超卒殺異子月。凡自冀城之難,至於祁山,昂出九奇,異輒參焉。

建安のとき、趙昂は参軍事となる。冀県にゆく。馬超にせめられた。王異も、馬超をこばむ。馬超は、趙昂と王異の子・趙月を人質にした。王異と趙昂は、祁山をたもち、馬超に囲まれた。30日して、曹操の援軍がきた。馬超は、趙月を殺した。冀城と祁山で、王異は9たび、作戦をたてた。

劉備が下弁にせまり、武都を小槐裏にうつす

太祖征漢中,以阜為益州刺史。還,拜金城太守,未發,轉武都太守。郡濱蜀漢,阜請依龔遂故事,安之而已。會劉備遣張飛、馬超等從沮道趣下辯,而氐雷定等七部萬餘落反應之。太祖遣都護曹洪禦超等,超等退還。洪置酒大會,令女倡著羅縠之衣,蹋鼓,一坐皆笑。阜厲聲責洪曰:「男女之別,國之大節,何有於廣坐之中裸女人形體!雖桀、紂之亂,不甚於此。」遂奮衣辭出。洪立罷女樂,請阜還坐,肅然憚焉。

曹操が漢中を征すると、楊阜を益州刺史とした。もどり、金城太守となる。赴任する前に、武都太守になる。武都は、蜀郡や漢中と接する。楊阜は、龔遂の前例にならい、武都を安んじるだけにした。

『漢書』循吏伝はいう。宣帝のとき、龔遂は渤海太守となった。渤海はフロンティアで、盗賊がおおい。龔遂は、きびしく法律をもちいなかった。

たまたま劉備は、張飛と馬超をやり、沮道から下辯にゆく。

趙一清はいう。『続郡国志』はいう。武都郡の沮道である。沔水が流れる。蛮夷がいるので「道」という。

氐族の雷定らは、7万餘落で、劉備におうじる。曹操は、都護の曹洪をやり、馬超をふせぐ。曹洪が宴会をしたので、楊阜がいさめた。

ぼくは思う。馬超をつかい、涼州をせめた劉備は、かなり実現可能な作戦を、やっていたように見える。ふせいだ曹洪は、ふつうにすごい。楊阜は、脇役。


及劉備取漢中以逼下辯,太祖以武都孤遠,欲移之,恐吏民戀土。阜威信素著,前後徙民、氐,使居京兆、扶風、天水界者萬餘戶,徙郡小槐裏,百姓繈負而隨之。為政舉大綱而已,下不忍欺也。文帝問侍中劉曄等:「武都太守何如人也?」皆稱阜有公輔之節。未及用,會帝崩。在郡十餘年,徵拜城門校尉。(中略) 每朝廷會議,阜常侃然以天下為己任。數諫爭,不聽,乃屢乞遜位,未許。會卒,家無餘財。孫豹嗣。

劉備は漢中をとり、下弁にせまる。曹操は、武都が孤遠だから、吏民をうつしたい。楊阜は、吏民や氐族をうつし、京兆、扶風、天水の境界に1万餘戶を住まわす。武都の郡治を、小槐裏にうつす。百姓は、乳児をせおい、楊阜にしたがう。

趙一清はいう。『カン宇記』巻27はいう。武功県の小槐裏である。李奇はいう。槐裏の西城が、小槐裏である。東に槐裏城があるから、小槐裏という。
ぼくは思う。武都を、蜀漢でなく曹魏の領土にしたのは、楊阜の功績。このあと楊阜伝は、諫言を載せまくる。はぶく。諫言というのは、自分のなかに「あるべき姿」があるから、できること。楊阜は、曹操に追従したのでなく、みずから思う「国家とは、こうあるべき」というヴィジョンに殉じて、馬超と戦ったのだと思う。もし「曹氏がつよいから、曹氏にしたがう」という人物なら、「馬超がつよいから、馬超にしたがう」という行動をとったはず。馬超は、涼州での割拠に成功しただろう。曹操に涼州を与えたのが、楊阜だ。

曹丕は、侍中の劉曄に聞いた。「武都太守の楊阜は、どんな人か」と。みな、楊阜の公輔之節をたたえた。曹丕が楊阜をもちいる前に、曹丕が崩じた。武都に10餘年おり、徵されて城門校尉となる。(中略) 楊阜は、きつく曹叡に諫言した。死んだとき、家に余財なし。孫の楊豹が嗣いだ。

曹叡のとき、諸葛亮が北伐する。この北伐への対応について、楊阜は意見している。涼州方面を、いかに治めるべきかのエキスパートである。地元の人でもあるしね。蜀漢の敵としての楊阜、諸葛亮の敵としての楊阜、という話をつくったら、おもしろそう。蜀漢ファンから、さぞかし怨まれる。


おわりです。馬超を失敗させたのは、曹操のバックアップすら必要としない、楊阜の「国家の秩序をたもとう」という気概だった。涼州は辺境だから、曹操との関係が、それほど行動を決定づけない。純粋に「国家とは、どうあるか」という思想にもとづいて、拘束すくなく、フラットに動ける。馬超は涼州を切りとりにかかり、楊阜はだれに頼まれたでもないのに、涼州をたもった。110623

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