表紙 > 孫呉 > 魯粛伝にある「鼎足」は、魯粛の独自&先見性を示さない

魯粛の「鼎足江東」は、陳寿による「物語り」だ

魯粛の目的は、天下三分だった。
(魯粛の目的は、天下統一ではなかった)
などという、史料的には、どう見ても間違っている話を、えらい先生が言いふらしています。

「だから魯粛は、すごいよ」という結論は、魯粛ファンが喜ぶところですが。だが、まちがった評価を受けて、魯粛が注目されても、複雑な心境でしょうね。

魯粛に、まちがった「独自性」「先見性」を見出してはいけない。これを云います。1ページで終わります。

魯粛に「鼎」と云わせたのは、陳寿のミスか

結果からさかのぼり、過去の記述をゆがめてしまう。よくあることです。また、わざとでなく、ねらって間違えることがあります。
陳寿は魯粛伝で、魯粛に「江東に鼎足しましょう」と云わせた。当初から魯粛が、天下三分を前提としていたかのように見える。『資治通鑑』は陳寿を誤りだと考えたようで、「江東を保守しましょう」に修正した。

『三国志』: 惟有鼎足江東,以觀天下之釁
『資治通鑑』:惟有保守江東,以觀天下之釁耳
以前、ツイッターで、ご指摘をいただいたことです。


言葉の選択について。ぼくは、孫権に仕えた直後の魯粛が、いきなり「鼎足」なんて予言をしたとは思えない。「保守」が現実的だ。
ぼくなりに、前後との整合性が納得できるのは、『資治通鑑』の記述です。

「ぼくなりに整合性が納得できる」というのは、とても恣意的な判断ですね。知ってます。でも、テクストの外部から、何らかの尺度を持ってこないと、歴史学は文学研究と同じになってしまう。ぼくは、文豪・陳寿の、文学研究をやりたいのではない
テクストの外部として、もっとも利用する頻度が高いのが、「ぼくなりに整合性が納得できる」という観点です。ぼくなりに論理的に、考えた結果、、

魯粛は「江東を保守」したあとに、天下を統一しなさいと云った。

陳寿の叙述でも「江東に鼎足」したあと、天下を統一しろと云っている。
「保守」か「鼎足」かという言葉の違いはあるが、どのみち、天下の統一がゴールだ。これを間違えてはいけない!
然後建號帝王以圖天下,此高帝之業也。ほらね。


陳寿が「物語り」をした可能性

ぼくは陳寿より、司馬光を採りました。
では陳寿は、ただミスったのか。つまり陳寿は、結果的に天下が三分することを知っているせいで、うっかり遡らせてしまったか。

そうとも言い切れない。なぜ言い切れないか。野家啓一さんが紹介する、ダントーの物語り論を、思い出すからだ。
例えば。「155年、魏の武帝・曹操が生まれた」という記述。155年時点で、この赤子が、魏の武帝となることなんて、だれも知らない。だから、こう書くのは厳密には、おかしいのだ。

「30年戦争が始まった」と、同時代人が書けないのも、同じ理屈。

しかし、後世を知っている歴史家は、歴史的な意義をくっつけて、歴史を叙述していく。これが歴史家の役割でもある。べつに、結果を先取りして叙述しても「まちがっている」と、云われるスジアイはない。程度の問題。

陳寿が、会話文のなかで「鼎足」と云ったから、こんなに問題になっている。もし地の文でやったなら、盛り上がらないテーマだっただろう。笑
では陳寿の時代の歴史叙述において、会話文と地の文を、どれだけ意識して区別したか。そんなに区別があるとは思えない。なぜなら会話だって、レコーディング機材がない時代は、歴史家がそれっぽく書くものだからだ。陳寿が、陳寿の意図をもって、魯粛のセリフのなかで「物語り」をやったとしても、不自然ではない。


似た事例を、もうひとつ。
先日『建康実録』を読みました。孫策が「建前では曹操にしたがい、本音では、天下を三分したい」と書かれていました。200年に死んだ孫策が、三分を予言しているのは、どうも違和感。
『建康実録』を書いた許嵩も、おなじくミスったのだろうか。

陳寿と許嵩は、時代が全然ちがうから、同列には論じられない。ただ、三国志の結果を知る後世人として後漢末を著し、その時点では、不適当な「三分」という語を使った点で、おなじです。

陳寿に、特別な意図はない

陳寿は、どれほど気合を入れて、魯粛に「鼎足」と言わせたか?
陳寿はどこまで「魯粛は先見性のある男だ」と、示したかったか?

ここで確かめておきたいのは、陳寿の時点で、すでに常套表現として「三分」「鼎」があること。『三国志』以前の正史に、わりと出てくる表現だ。
魯粛伝に「鼎足」という言葉が出てくるからと云って、そんなに大騒ぎしてはいけない。すでに一般的になっていた言葉を、陳寿が「物語る」ときに、何気なく使っただけである。ぼくは、そう考えた。

陳寿は、事実を、淡々と記録した。どう間違っても、これは云えないだろう。まして、云った瞬間から空気中に消えていくセリフを、陳寿が拾えたとは思えない。
陳寿が、セリフの文体で記述するからには、その人の性質を、なにか表そうとしている。ここの魯粛は「孫権に戦略を示した人」と表現されているのだろう。「鼎足」ひとつを取りあげて、騒ぐのは、的外れである。揚げ足とりである。


「三分」「鼎」の先行した用例より

陳寿『三国志』よりも、前の時代を記した正史から、関連する言葉を検索しました。抜く言葉は「三分」「鼎」です。抜く方法は、ぶじに復活した『寒泉』です。

『寒泉』は、よく壊れるし、よく移動するので、URLは載せません。検索したら、出てくると思います。

「三分」「鼎」は頻出しました。韓信が有名ですが、それもほんの一部。

『三国志』にも、魯粛のほかに、まず天下を分けてから、統一をねらえという人は、でてきます。諸葛亮はもちろん、甘寧の発言も有名。
今回は『三国志』でなく、目配りがとどいていない(と思われる)『史記』『漢書』『後漢書』を見てみました。
『後漢書』の成立は、陳寿よりあと。知ってます。でも范曄『後漢書』が参照した、元史料に書いてあったかも知れない。と想定して除外せず。


土地を3分割するという発想は、べつに新しいものじゃない。周の文王も、前漢の劉邦も「天下の3分の2」を領有したと書かれる。
面白いのは、検索でいちばん上に引っかかった『史記』貨殖列伝。
故關中之地,於天下三分之一,而人眾不過什三;然量其富,什居其六。(貨殖列傳)

関中の面積は、天下の3分の1だ。でも人口は、天下の3割より少ない。しかし交易ができるので、豊かさは天下の6割である。

天下の面積を「三分する」という発想や記述は、魯粛より前に、いくらでもある。すでにある概念を、陳寿が魯粛に喋らせたからといって、そこに画期を見るのは、間違っている。

例えば。ぼくが、3Cのフレームワークを使ったと、どこかに記録されたとする。するとぼくは、フレームワークの発明者として、後世から「独自性」「先見性」を評価されるのだろうか。ちがう。
もしぼくがフレームワークを使って、なにか成功したとする。結果、評価されるべきは、フレームワークを発想したことじゃなく、成功をさせるプロセスである。
余談。べつに3Cをつかうのが、ぼくの仕事ではない。3Cが劇薬みたいな効果を出すとも思っていない。ただ「3」が同じだから、使ってみただけです。


えらい先生が、魯粛を持ち上げるには、べつの動機があるんだろう。魯粛は、財産を名声と交換した、典型的な「名士」だ。今後、南北朝を研究するときに、魯粛をあつかうと話が面白くなる。などなど。笑

なんか、余計なことを書いた気がする。忘れてください。


まとめ:陳寿は何気なく「鼎足」を書いた

陳寿が魯粛に「鼎足」と喋らせたのは、まずはミスである。しかし、単なるバカなミスではない。歴史家として、過去に遡って「物語る」行為が、ちょっとエスカレートしただけだ。

再確認します。わかい曹操を、陳寿が「太祖、太祖」と呼ぶからとって、「曹操は生まれながらに、太祖って呼ばれたのか?うおー!」と騒いでも、仕方ない。度合いは違うが、原理はおなじだ。

魯粛が「鼎足」と口走ったのは、陳寿の文机のうえでの事件である。
魯粛その人が、天下三分を目的とした云々という議論は、ただの揚げ足とりである。陳寿が説明したかったのは、魯粛は「まずは江東、やがて天下を治めなさい」と孫権にアドバイスした、戦略家だったってことだ。101024

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