表紙 > ~後漢 > 『後漢書』左雄伝:孝廉を40歳以上に限定し、豪族の抗争を抑止

01) 冀州や揚州の豪族を分断

『後漢書』を、抄訳します。原文は、省かずに載せます。『資治通鑑』で概観した、後漢の後半を知るために、列伝を読んでいます。
岩波版の『後漢書』を参考に、適宜、李賢の注釈もひろいます。

冀州の豪族を拒み、虞詡が尚書に推す

左雄字伯豪,南陽涅陽人也。安帝時,舉孝廉,稍遷冀州刺史。州部多豪族,好請托,雄常閉門不與交通。奏案貪猾二千石,無所回忌。

左雄は、あざなを伯豪という。南陽の涅陽の人だ。安帝のとき、孝廉に挙がる。ようやく冀州刺史にうつる。
冀州の管轄には、豪族が多い。豪族は、請托を好む。つねに左雄は閉門し、豪族と交通せず。貪猾な太守を奏案した。すべての太守を、取り締まった。

左雄が冀州でしたことが、わざわざ特筆された。裏返せば、当時の刺史は、現地の豪族と交通して、統治したということ。当然のことを、左雄が拒んだから、記録された。左雄のキャラを示すエピソードとなった。
中央から派遣される「官」と、現地で採用される「吏」の二重構造がある。「後漢は、豪族に掣肘された、合議政権」という話は、すでに廃れた。でも、この二重構造は、ホントウである。太守も同じく、豪族と交通したはずだ。


  永建初,公車征拜議郎。時,順帝新立,大臣懈怠,朝多闕政,雄數言事,其辭深切。尚書僕射虞詡以雄有忠公節,上疏薦之曰:「臣見方今公卿以下,類多拱默,以樹恩為賢,盡節為愚,至相戒曰:'白璧不可為,容容多後福。'伏見議郎左雄,數上封事,至引陛下身遭難厄,以為警戒,實有王臣蹇蹇之節,周公謨成王之風。宜擢在喉舌之官,必有匡弼之益。」由是拜雄尚書,再遷尚書令。上疏陳事曰:

永建(126-132)初、公車に徴され、左雄は議郎となる。ときに順帝が新立した。大臣はだらけ、朝廷には欠政がおおい。左雄は、しばしば深切に諌めた。尚書僕射の虞詡(列伝48)は、左雄に忠公の節があるから、左雄を薦めた。
虞詡は言う。「いま公卿は、手をくんで黙る。ときの権力者に、気に入られたがる。だが左雄は、順帝が皇太子を外されたとき、きつく戒めた。左雄を、喉舌の官にせよ。朝廷にメリットがある」と。

岩波版はいう。喉舌の官とは、国家の枢機にかかわる重臣。もっぱら尚書を指す。『詩経』にある言葉で、『資治通鑑』に胡三省が注釈する。

これにより、左雄は尚書となる。ふたたび遷り、尚書令となる。左雄は上疏した。

左雄の上疏:地方政治を、文帝・宣帝にもどせ

  臣聞柔遠和邇,莫大甯人,寧人之務,莫重用賢,用賢之道,必存考黜。是以皋陶對禹,貴在知人。「安人則惠,黎民懷之。」分伯建侯,代位親民,民用和穆,禮讓以興。故《詩》雲:「有CA56淒淒,興雨祁祁。雨我公田,遂及我私。」及幽、厲昏亂,不自為政,褒豔用權,七子黨進,賢愚錯緒,深谷為陵。故其詩雲:「四國無政,不用其良。」又曰:「哀今之人,胡為虺蜴?」言人畏吏如虺蜴也。宗周既滅,六國並秦,坑儒泯典,剗革五等,更立郡縣,縣設令苛救敝,悅以濟難,撫而循之。至於文、景,天下康乂。誠由玄靖寬柔,克慎官人故也。降及宣帝,興於仄陋,綜核名實,知時所病,刺史守相,輒親引見,考察言行,信賞必罰。帝乃歎曰:「民所以安而無怨者,政平吏良也。與我共此者,其唯良二千石乎!」以為吏數變易,則下不安業;久於其事,則民服教化。其有政理者,輒以璽書勉勵,增秩賜金,或爵至關內侯,公卿缺則以次用之。是以吏稱其職,人安其業。漢世良吏,于茲為盛,故能降來儀之端,建中興之功。

賢人を用いて、人民を安んじるには考黜(勤務評定)が大切である。秦は郡県をおき、人民を餌食にした。前漢に入り、文帝の恵帝のとき、地方の政治はマシになった。前漢の宣帝は、言った。「私とともに、民を安らかにするのは、ただ良二千石だけだ」と。宣帝は、循吏を採用して、前漢を中興した。

『漢書』循吏伝の序に、顔師古が注釈する。良二千石とは、郡主と、諸侯の相だ。


  漢初至今,三百餘載,俗浸雕敝,巧偽滋萌,下飾其詐,上肆其殘。曲城百里,轉動無常,各懷一切,莫慮長久。謂殺害不辜為威風,聚斂整辨為賢能,以理已安民為劣弱,以奉法循理為不化。髡鉗之戮,生於睚眥;覆屍之禍,成於喜怒。視民如寇讎,稅之如豺虎。監司項背相望,與同疾B05A,見非不舉,聞惡不察,觀政於停傳,責成於期月,言善不稱德,論功不據實,虛誕者獲譽,拘檢者離毀。或因罪而引高,或色斯以求名。州宰不覆,競共辟召,踴躍升騰,超等逾匹。或考奏捕案,而亡不受罪,會赦行賂,複見洗滌。朱紫同色,清濁不分。故使奸猾枉濫,輕忽去就,拜除如流,缺動百數。鄉官部吏,職斯祿薄,車馬衣服,一出於民,謙者取足,貪者充家,特選橫調,紛紛不絕,送迎煩費,損政傷民。和氣未洽,災眚不消,咎皆在此。今之墨綬,猶古之諸侯,拜爵王庭,輿服有庸,而齊於匹豎,叛命避負,非所以崇憲明理,惠育元元也。臣愚以為守相長吏,惠和有顯效者,可就增秩,勿使移徙,非父母喪不得去官。其不從法禁,不式王命,錮之終身,雖會赦令,不得齒列。若被劾奏,亡不就法者,徙家邊郡,以懲其後。鄉部親民之吏,皆用儒生清白任從政者,寬其負算,增其秩祿,吏職滿歲,宰府州郡乃得辟舉。如此,威福之路塞,虛偽之端絕,送迎之役損,賦斂之源息。循理之吏,得成其化;率土之民,各寧其所。追配文、宣中興之軌,流光垂祚,永世不刊。

漢室は300年たち、地方の政治が衰えた。県の長官は、コロコロ転任する。裁判も課税も、デタラメだ。あなた(後漢の順帝)は、前漢の文帝と宣帝のように、漢室を中興をしてください。

李賢はいう。文帝は、呂氏の難にあった。だから文帝も、中興という。
ぼくは思う。もし李賢の注釈を真に受けるなら。地方の政治をもどすのは、宣帝が手本。外戚の難から脱するのは、文帝が手本。このように、左雄が言ったことになる。「中興」という言葉に惑わされ、論点がブレている。外戚は、べつのテーマだ。
ふつうに、文帝もまた、地方の政治を手本とされたと読みたい。「至於文、景,天下康乂。誠由玄靖寬柔,克慎官人故也。」と、左雄が言っているのだ。


  帝感其言:申下有司,考其真偽,詳所施行。雄之所言,皆明達政體,而宦豎擅權,終不能用。自是選代交互,令長月易,迎新送舊,勞擾無已,或官寺空曠,無人案事,每選部劇,乃至逃亡。

順帝は、左雄の言葉に感じいる。かさねて有司に、左雄の真偽を、確かめた。

胡三省は言う。先にすでに、左雄の言ったものと同じ禁令があった。いま左雄は、禁令を厳密にせよと言ったのだ。ぼくは、胡三省の言い分が、よく分からない。

有司は、地方の実態を、確かめた。左雄の言葉は、政治のあるべき姿に明達する。だが、宦官が権限をほしいままにし、左雄の提案をブロックした。
左雄を却下したので、地方の長官の人事は、コロコロ代わった。県令や県長は、月ごとに変わる。新任を迎え、前任を送るのが、とても面倒だ。官庁によっては、空っぽで担当者がいない。激務に任命されると、長官が逃亡する。

後漢が、地方を治める方針を、きちんと確立していないのか。豪族同士の抗争が、そのまま県の長官の人事に反映する。全員の顔を立てるために、コロコロ代わる。「順番に長官になりなさい」と。特定の一族が長官を占めると、不服が爆発する。
後漢は、豪族を支配するというより、豪族がとりあうオモチャを、提供するだけ? のちに宦官の子弟が、地方官になる。中央の抗争が、地方に波及した結果だ。構造は、おなじ。根本には、狭い土地のなかで、せめぎあう豪族たちがいる。これが「世論」だから、始末が悪い。


周辺地域の反乱は、豪族を分断して対処

永建三年,京師、漢陽地皆震裂,水泉湧出。四年,司、冀複有大水。雄推較災異,以為下人有逆上之征,又上疏言:

永建三年(128年)、京師と漢陽で、地面が震裂した。水泉が湧き出た。永建四年(129年)、司州と冀州で、大水。左雄は、下が上に代わるサインだとして、警戒を呼びかけた。
青州、冀州、楊州で、盜賊が連發した。数年のあいだ、海内が擾亂した。大赦しても、数ヶ月でまた起兵する。左雄と、尚書僕射の郭虔は、ともに上疏した。

郭虔は、尚書として、胡広とともに2回の上奏をした人。


「宜密為備,以俟不虞。」尋而青、冀、楊、州盜賊連發,數年之間,海內擾亂。其後天下大赦,賊雖頗解,而官猶無備,流叛之餘,數月複起。雄與僕射郭虔共上疏,以為:「寇賊連年,死亡太半,一人犯法,舉宗群亡。宜及其尚微,開令改悔。若告黨與者,聽除其罪;能誅斬者,明加其賞。」書奏,並不省。

左雄は言う。「寇賊は、連年おきる。大半が死んでも、1人が法を犯せば、一族をあげて寇賊となる。勢力が弱いうちに、改悔させよ。もし党与が法を犯しても、一族のうちで誅斬すれば、これを賞を加えよ」と。順帝は、かえりみず。

ぼくは思う。青州、冀州、揚州の反乱の理由が、これで分かる。1人でも反乱すれば、のこりの党与は、連座を恐れて協力する。これが、反乱が連年する理由だ。
おそらく、洛陽から遠いこれらの地域には、つよい豪族がいる。豪族同士があらそい、暴発すると、特定の豪族がごっそり後漢の敵になる。豪族同士のあらそいは、つねにある。後漢の官位を取り合うのも、丸ごと後漢に背くのも、おなじ構造の上で起きる現象だ。
左雄は、この現象に、一貫して問題関心をいだく。豪族を分断することで、対処しょうとした。行き着く先は、個別人身支配かも。左雄は、これを実現するため、特定の豪族と癒着しなかった。冀州刺史のときにね。
一族や与党が、降伏し損ねて、なだれを打って中央に反する。この成り行きは、のちの孫呉政権と同じだろう。一部の周瑜や魯粛が、曹操に背いたせいで、最後には皇帝を名のるハメになった。連座が恐く、引っこみが付かない。


又上言:「宜崇經術,繕修太學。」帝從之。陽嘉元年,太學新成,詔試明經者補弟子,增甲乙之科,員各十人。除京師及郡國耆儒年六十以上為郎、舍人、諸王國郎者百三十八人。

また、左雄は上言した。「經術を、たっとべ。太學を繕修せよ」と。順帝は、従う。陽嘉元年(132年)太學を新成した。明經な人を試し、弟子(学生)とした。甲乙の科を増員し、それぞれ10人とした。

順帝紀に『漢書音義』が注釈される。甲科とは、竹簡に難問を書き、机にならべる。受験する人は、任意に竹簡を選びとり、答える。これを射策という。いい成績の人を、甲という。つぎを乙という。

京師および郡國から、耆儒で60歳以上の人を、郎、舍人とした。諸王國の郎は、138人になる。

次回、左雄のもっとも有名は話。「40歳未満は、、推挙しない」です。

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