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鍾繇の祖父~魏建国までの鍾繇伝

『三国志集解』鍾繇伝を見ながら、曹操の献帝奉戴に着目。
鍾繇は、意外とドラスティックな、刑律にきびしい酷吏のようです。
前半は祖父の話。後半から鍾繇が登場し、おもしろくなります。

鍾繇の祖父・元祖「名士」鍾晧

鍾繇字元常,潁川長社人也。

鍾繇は、あざなを元常という。潁川の長社の人だ。

『郡国志』はいう。潁川の長社に、長葛城がある。劉昭はいう。『左伝』陰五年、宋は鄭をうち、長葛城をかこむ。長葛が、もともとの県名である。『地道記』はいう。社中に、おおきな樹が暴長だから、漢代に長社と改名した。
『晋書』宗室伝はいう。司馬孚は、長社県侯となった。


先賢行狀曰:鍾皓字季明,溫良篤慎,博學詩律,教授門生千有餘人,為郡功曹。時太丘長陳寔為西門亭長,皓深獨敬異。寔少皓十七歲,常禮待與同分義。會辟公府,臨辭,太守問:「誰可代君?」皓曰:「明府欲必得其人,西門亭長可用。」寔曰:「鍾君似不察人為意,不知何獨識我?」

『先賢行状』はいう。鍾皓は、あざなを季明という。門生が1000余人いて、郡の功曹となる。

『後漢書』鍾晧伝はいう。鍾氏は、郡の著姓である。世よ、刑律にくわしい。鍾晧は、しばしば鍾晧を辟したが、2人の兄の就職がまだなので、鍾晧はことわる。山に入り、門徒1000余人に教授する。
ぼくは思う。『後漢書』に鍾晧伝があるなら、そちらを見ればいいのだ。いま裴注『先賢行状』で、がんばりすぎることはない。

ときに太丘長の陳寔は、西門亭長となる。鍾晧は、ふかく敬異した。陳寔は鍾晧より17歳わかいが、対等に接した。

陳寔のことは、『三国志』陳羣伝と、『後漢書』陳寔伝にある。陳寔は家がまずしい。潁川の西門亭長となった。ぼくは思う。まずしい家の下級役人を、「郡の著姓」である鍾晧は重んじた。後漢の秩序にこだわらないなあ。「名士」のハシリである。陳寔は、陳羣の祖父だ。

たまたま鍾晧は、三公府に辟された。鍾晧は断った。太守が「鍾晧の代わりになるのは、誰か」と聞いた。鍾晧は、「陳寔です」と答えた。陳寔は言った。「鍾晧の人物評価は、独創的だな」と。

皓為司徒掾,公出,道路泥濘,導從惡其相灑,去公車絕遠。公椎軾言:「司徒今日為獨行耳!」還府向閤,鈴下不扶,令揖掾屬,公奮手不顧。時舉府掾屬皆投劾出,皓為西曹掾,即開府門分佈曉語已出者,曰:「臣下不能得自直於君,若司隸舉繩墨,以公失宰相之禮,又不勝任,諸君終身何所任邪?」掾屬以故皆止。都官果移西曹掾,問空府去意,皓召都官吏,以見掾屬名示之,乃止。

鍾晧は、司徒掾となる。道路がぬかるみ、泥がかかるので、司徒の掾属は、司徒の車から離れた。司徒は「お供がいない」と言った。掾属たちは、辞職を願った。
ときに鍾晧は、西曹掾である。鍾晧は、掾属に言った。「キミらが辞職して、司徒に恥をかかせ、キミらが司隷校尉につかまったら、キミらの役人人生は終わりだ」と。掾属たちは、辞職をやめた。

よく分からない。ちくま訳を見ても、よく分からない。鍾氏は「刑律」にくわしい。鍾晧の知識や判断力をほめるためのエピソードなんだろうが。


前後九辟三府,遷南鄉、林慮長,不之官。時郡中先輩為海內所歸者,蒼梧太守定陵陳稚叔、故黎陽令潁陰荀淑及皓。少府李膺常宗此三人,曰:「荀君清識難尚,陳、鍾至德可師。」膺之姑為皓兄之妻,生子覲,與膺年齊,並有令名。覲又好學慕古,有退讓之行。為童幼時,膺祖太尉脩言:「覲似我家性,國有道不廢,國無道免于刑戮者也。」複以膺妹妻之。

鍾晧は、9回も三公府に辟された。南郷、林慮の県長に遷されたが、つかず。

南郷は南陽郡。林慮は武帝紀の建安17年に盧弼が注釈した。

潁川で期待をあつめたのは、蒼梧太守する定陵の陳稚叔、もと黎陽令した潁陰の荀淑、鍾晧の3人だった。少府の李膺は、つねに3人をほめた。「荀淑は清い見識がある。陳稚叔と鍾晧は、師にあおぐべき徳がある」と。

蒼梧は、陶謙伝に盧弼が注釈した。定陵は潁川である。
陳稚叔は、陳臨である。殺人した人を捕えた。陳臨は、殺人者に、子供がいないことを知った。妻を獄中に入れた。男子が生まれた。郡中は、陳臨の采配を歌にして、たたえた。盧弼はいう。蒼梧太守の陳臨と、陳稚叔が同一人物であるかは、わからない。
ぼくは思う。エピソードの色合いからして、潁川「名士」の先がけくさいから、同一人物でいいと思う。郡中で歌われたり、李膺のセリフでほめられたりするあたりが。

李膺のおばは、鍾晧の兄の妻となる。鍾覲を生む。李膺と鍾覲は、年齢も名声もひとしい。李膺の祖父・太尉の李脩は言った。「鍾覲は、わが李氏の性質をうけつぐ。国が傾いても、刑戮をまぬがれる」と。また李膺の妹は、鍾覲の妻となる。

李膺の家と、鍾晧の家が、どちらも潁川出身で、親戚だったことがわかる。同郡で通婚することは、よくあるだろね。曹氏と夏侯氏とか。鍾覲は、李氏と鍾氏の2氏の血が入っている。超「名士」だなあ。
ここで議論することでは、ありませんが。「名士」は、学者のなかでは、「問題がある」議論とされているのかも。あまり多用すると、このサイトの妥当性を下げるのかも知れない。でも、分析概念としては便利だから、カッコツキで使っている。便利すぎるゆえに、危ぶまれているのだろうが。ぼくは、「既存の秩序から独立するため、たがいに褒めあった」と記される人たちが、個人的にキライなので、ややニクシミの感情をこめて使っています。「あなたは清くて、知識が豊かだ」「あなたこそ、人格が洗練されている」「ウフフ」なんて、気持ち悪い。きっと、「名士」が事実としてイヤな奴だったのでなく、たまたまそういう史料の残り方をしただけだろうが。
それから「名士」は、袁術をけなすからね。好きじゃないなあ。これもまた、たまたま、そういう史料の残り方をしただけだろうが。


覲辟州宰,未嘗屈就。膺謂覲曰:「孟軻以為人無好惡是非之心,非人也。弟於人何太無皁白邪!」覲嘗以膺之言白皓,皓曰:「元禮,祖公在位,諸父並盛,韓公之甥,故得然耳。國武子好招人過,以為怨本,今豈其時!保身全家,汝道是也。」覲早亡,膺雖荷功名,位至卿佐,而卒隕身世禍。

鍾覲は、州に辟されたが、つかず。

余計なことを書いて、話を忘れたので復習。鍾覲とは、鍾晧の兄の子。李膺の妹がとついだ。何焯はいう。鍾覲をめぐる通婚は、古代からの制度に違反するものでない。

李膺は鍾覲に言った。「就職しろ」と。鍾覲は李膺に言った。「李膺は、祖父・李脩が太尉となり、父・李益が趙相となった。だから李膺は、好きキライを言わずに就職できるのだ。私(鍾覲)はムリだ」と。しかし李膺は、政敵に殺された。

李膺と鍾覲の「カップリング」は、一部で創作の題材にならないか。同い年だし、「名士」だから清いし、親戚同士だし。魏晋を先どりした小説になるにちがいない。
李膺は、後漢のなかで出世することにこだわり、第二次・党錮の禁で殺された。鍾覲は、殺されずにすんだ。後漢後期の葛藤を描いていて、面白い。孫策と周瑜よりも、よっぽど濃くて、楽しくなると思うなあ。笑


皓年六十九,終於家。皓二子迪、敷,並以黨錮不仕。繇則迪之孫。

鍾晧は、69歳のとき、在野で死んだ。鍾晧の子は、2人だ。鍾迪、鍾敷である。どちらも党錮のせいで、出仕せず。鍾繇は、鍾迪の孫である。

趙一清はいう。『後漢書』鍾晧伝は、鍾繇は鍾晧の孫とする。注釈にひく『海内先賢伝』はいう。鍾繇は、郡主簿の鍾迪の子であると。銭大昭は言う。裴松之のいう、「鍾会は、鍾迪の孫だ」は誤りだろう。潘眉も同じ意見だ。
『資治通鑑』初平3年は、鍾繇は鍾晧の曾孫(鍾迪の孫)とするが。
ぼくは思う。鍾迪の子(鍾繇の父)の名を、代案としてあげないかぎり、「鍾繇は、鍾晧の孫」としていいと思う。鍾繇の父は、党錮で就職できなかった。鍾繇の性格に影響を与えそうで、おもしろい。


鍾繇が、荀彧、荀攸、郭図と同僚となる

嘗與族父瑜俱至洛陽,道遇相者,曰:「此童有貴相,然當厄於水,努力慎之!」行未十裏,度橋,馬驚,墮水幾死。瑜以相者言中,益貴繇,而供給資費,使得專學。舉孝廉,

かつて鍾繇は、族父の鍾瑜とともに、洛陽にいく。道で「鍾繇は貴相だが、水難がある」と言われた。鍾繇は水におちた。鍾瑜は、占いを信じ、鍾繇の学費を出してくれた。鍾繇は、孝廉にあげられた。

後漢の教育について、USHISUKEさんが、今日書いておられた。
「後漢末期より前ぐらいの教育制度」 (BLOG『三国志漂流』)
『世説新語』はいう。鍾繇の家は、貧しいが、学問をする。『周易』『老子』をやる。盧弼は考える。『世説新語』に注釈された張夫人(鍾会の母)を伝え、鍾会は14歳で『周易』ができたと。侯康はいう。注釈は「魏志」を出典とするが、『魏略』の誤りである。


謝承後漢書曰:南陽陰脩為潁川太守,以旌賢擢俊為務,舉五官掾張仲方正,察功曹鍾繇、主簿荀彧、主記掾張禮、賊曹掾杜祐、孝廉荀攸、計吏郭圖為吏,以光國朝。

謝承『後漢書』はいう。南陽の陰脩は、潁川太守となる。陰脩は、五官掾の張仲を方正の科目にあげた。陰脩は、察功曹の鍾繇、主簿の荀彧、主記掾の張禮、賊曹掾の杜祐、孝廉の荀攸、計吏の郭圖を、みずからの吏とした。潁川郡の政治が、かがやかしい。

ここにある官位は、みな郡国の掾属だ。ヨウハンはいう。太守の郡治を、「国朝」という。


除尚書郎、陽陵令,以疾去。辟三府,為廷尉正、黃門侍郎。

鍾繇は、尚書郎、陽陵(京兆)令となる。病気で退職する。三公府に辟され、廷尉正、黄門侍郎となる。

廷尉正は、盧弼が司馬芝伝に注釈した。
ぼくは思う。これはいつの時代?党錮が解けているから、黄巾の乱のあとだ。霊帝の末期5年くらいに、中央官をウロウロしたことになる。潁川で人材がキラキラしていたのは、党錮のさなかだろう。鍾繇と関中とのかかわりは、陽陵(京兆)令が最初?


鍾繇が李傕を説得し、曹操と献帝をむすぶ

是時,漢帝在西京,李傕、郭汜等亂長安中,與關東斷絕。太祖領兗州牧,始遣使上書。
世語曰:太祖遣使從事王必致命天子。
傕、汜等以為「關東欲自立天子,今曹操雖有使命,非其至實」,議留太祖使,拒絕其意。繇說傕、汜等曰:「方今英雄並起,各矯命專制,唯曹兗州乃心王室,而逆其忠款,非所以副將來之望也。」傕、汜等用繇言,厚加答報,由是太祖使命遂得通。

このとき、献帝は長安にいる。李傕と郭汜がみだし、関東と断絶した。曹操は兗州牧となり、はじめて上書した。
『世語』はいう。曹操は、従事の王必を、天子につかわした。

王必は、武帝紀の建安23年にある。
ぼくは思う。曹操が献帝に使者をやったのは、興平二年(195)10月、兗州牧にしてもらってから。献帝が長安を出た後である。曹操は、ちっとも「忠」じゃないよね。
同年7月、献帝が長安を出て、指揮命令がゴチャゴチャになった。ドサクサで曹操は、兗州占領の既成事実を認めてもらった。そのお礼参りの使者・王必が「はじめて」とはね。

李傕と郭汜は、「関東の奴らは、みずから天子を立てたい。曹操は、献帝につくさない」と言った。李傕らは、曹操の使者をとどめ、曹操を拒絶しようとした。

のちに献帝は、李傕と郭汜をこばみ、長安を出た。つまり、曹操を兗州牧に任じたのは、李傕と郭汜に敵対する勢力である。延臣の誰かだろう。
曹操の兗州牧 任命は、節操がないリスキーな判断である。李傕と郭汜が言うとおり、関東の地方官たちは、献帝でない天子を立てようとしている。その曹操に、権威をあたえちゃっていいのか。もはや「敵の敵なら、誰でもいいから味方してほしい」という、非常時の判断か。リクツが通っていないので、後日あらためて考えてみたい問題。

鍾繇は、李傕と郭汜を説得した。「曹操は、王室に心をよせる」と。李傕と郭汜は、鍾繇の発言をもちいて、曹操の使者に厚くむくいた。曹操と献帝の関係は、開通した。

太祖既數聽荀彧之稱繇,又聞其說傕 、汜,益虛心。後傕脅天子,繇與尚書郎韓斌同策謀。天子得出長安,繇有力焉。拜禦史中丞,遷侍中尚書僕射,並錄前功封東武亭侯。

しばしば荀彧は、鍾繇をほめた。鍾繇が、李傕らを説得してくれた。曹操は、鍾繇に心をひらいた。

なぜ鍾繇は、李傕を説得し、曹操を弁護したか。ここに書いてあるとおり、荀彧との連携だろう。鍾繇は中央官として長安にいるが、潁川の人脈を重視する人だろう。「著姓」だし。荀彧が曹操を支持するなら、鍾繇も曹操を支持してみよう、というノリだろう。
李傕と郭汜が、曹操を「関東の連中の1人」としか認識していないとき、鍾繇は、曹操を弁護した。なかなか、できないことです。また、李傕や郭汜が、曹操のことをよく知らないから、鍾繇の「ウソ」が通じたという気もする。袁紹ならムリだった。
どうして鍾繇は、曹操のようなアウトローを支持したか。父が党錮にあい、後漢にウンザリしていたからだろう。後漢の既存の権力とはべつに、頼れる人を探していた。「名士」だもん。祖父・鍾晧だって、後漢に愛想を尽かしていた。李膺と対極的だ。鍾繇は、筋金入りの「反逆者」である。と、これを言うために、このページの前半をつくりました。

のちに李傕が、天子をおどした。鍾繇と、尚書郎の韓斌は、ともに策謀した。献帝が長安を出られたのは、鍾繇の尽力による。鍾繇は、禦史中丞、侍中、尚書僕射となった。

献帝のそばに鍾繇がいて、細いけれど、曹操とのパイプを持っていた。鍾繇の計画では、兗州をめざして、東へむかう感じだ。献帝は李傕にウンザリしていたから、長安を出るのは時間の問題だった。でもタイミングは、なかなか決まらない。タイミングを決めたのは、鍾繇かも知れない。だって、献帝の長安脱出は、曹操が呂布を兗州から追いはらって、拠点を確保した時期にちかい。鍾繇なりに、行き先を確保したのだろう。
ただし、くり返すけれど、これは鍾繇や荀彧なりのビジョンである。献帝や、延臣たちの総意でない。もと白波とか、河東太守の王邑とか、献帝を「奉戴」したい勢力は、道中にいくらでもいる。献帝だって、助けてくれるなら、あえて遠い曹操を頼る必要はない。

鍾繇は、東武亭侯に封じられた。

袁宏『後漢紀』はいう。建安元年(196)、列侯を封じた。衛将軍の董承、輔国将軍の伏完、侍中の种シュウ、尚書僕射の鍾繇、尚書の郭浦、御史中丞の董芬、彭城相の劉艾、左馮翊の韓ヒン、東莱太守の楊衆、羅邵、伏徳、趙蕤が封じられた。


関中~河東を、曹操の色に染める

時關中諸將馬騰、韓遂等,各擁強兵相與爭。太祖方有事山東,以關右為憂。乃表繇以侍中守司隸校尉,持節督關中諸軍,委之以後事,特使不拘科制。繇至長安,移書騰、遂等,為陳禍福,騰、遂各遣子入侍。太祖在官渡,與袁紹相持,繇送馬二千餘匹給軍。太祖與繇書曰:「得所送馬,甚應其急。關右平定,朝廷無西顧之憂,足下之勳也。昔蕭何鎮守關中,足食成軍,亦適當爾。」

関中の馬騰や韓遂らは、つよい。曹操は、山東や関中を憂う。曹操は上表した。鍾繇を侍中、司隷校尉とし、持節させ、関中の諸軍を督させた。鍾繇に後方をまかせた。鍾繇は長安にゆき、馬騰と韓遂から人質をとった。曹操のいる官渡へ、馬を送った。曹操は、鍾繇を蕭何にたとえた。

其後匈奴單于作亂平陽,繇帥諸軍圍之,未拔;而袁尚所置河東太守郭援到河東,眾甚盛。諸將議欲釋之去,繇曰:「袁氏方強,援之來,關中陰與之通,所以未悉叛者,顧吾威名故耳。若棄而去,示之以弱,所在之民,誰非寇讎?縱吾欲歸,其得至乎!此為未戰先自敗也。且援剛愎好勝,必易吾軍,若渡汾為營,及其未濟擊之,可大克也。」張既說馬騰會擊援,騰遣子超將精兵逆之。援至,果輕渡汾,眾止之,不從。濟水未半,擊,大破之,

匈奴単于(呼廚泉)が、平陽(河東)で乱をおこした。鍾繇は単于をかこむが、勝てない。袁尚がおいた河東太守・郭援が、河東にきた。郭援はつよい。諸将は「単于をかこむのを、やめよう」と言った。鍾繇は、「郭援が汾水をわたる最中なら、勝てる」と言った。張既が馬超をつれてきて、郭援を大破した。

ぼくは思う。袁氏は、河東に手を伸ばしている。沮授は袁紹に「献帝を手に入れよう」と言うわけですが。天子が河東の安邑にいるときなら、袁紹はカンタンに天子を手に入れることができましたね。けっこう、現実的な作戦だったのだ。『三国志集解』は、李傕郭汜伝で、沮授がこの進言をした時期を、不詳としていた。曹操が献帝を獲得する前だろうな、洛陽に行く前だろうな、とか。ぼくは、献帝が河東の安邑にいるときだと思う。


司馬彪戰略曰:袁尚遣高幹、郭援將兵數萬人,與匈奴單于寇河東,遣使與馬騰、韓遂等連和,騰等陰許之。傅幹說騰曰:「(抜粋)曹公奉天子誅暴亂。袁氏背王命,驅胡虜以陵中國。」於是騰懼。幹曰:「(抜粋)今曹公與袁氏相持,而高幹、郭援獨制河東,曹公雖有萬全之計,不能禁河東之不危也。」騰曰:「敬從教。」於是遣子超將精兵萬餘人,並將遂等兵,與繇會擊援等,大破之。

司馬彪『戦略』はいう。袁尚が命じ、高幹、郭援は数万人をひきい、匈奴単于とともに河東を攻めた。袁尚は、馬騰、韓遂とむすびたい。ひそかに馬騰は、袁尚との同盟をゆるした。傅幹が馬騰を説得した。「曹操に味方すべきだ」と。馬騰は納得し、曹操のために馬超をやった。馬超と鍾繇は、郭援らを大破した。

高幹は、武帝紀の建安19年にひく『九州春秋』にある。胡三省はいう。河東の兵は、内側から郭援をうつ。馬騰の兵は、外側から郭援をうつ。
ぼくは思う。馬騰は、いつだって、どっちつかずだなあ。


斬援,降單于。語在既傳。其後河東衛固作亂,與張晟、張琰及高幹等並為寇,繇又率諸將討破之。

郭援を斬り、単于を降した。張既伝にしるす。のちに河東で、高幹が乱をおこしたが、ふたたび鍾繇が破った。

魏略曰:詔徵河東太守王邑。邑以天下未定,心不原徵,而吏民亦戀邑,郡掾衛固及中郎將範先等各詣繇求乞邑。而詔已拜杜畿為太守,畿已入界。繇不聽先等,促邑交符。邑佩印綬,徑從河北詣許自歸。繇時治在洛陽,自以威禁失督司之法,乃上書自劾曰;「臣前上言故鎮北將軍領河東太守安陽亭侯王邑巧辟治官,犯突科條,事當推劾,檢實奸詐。(中略)謹按侍中守司隸校尉東武亭侯鍾繇,(中略)請法車徵詣廷尉治繇罪,大鴻臚削爵土。(中略)輒以文書付功曹從事馬適議,免冠徒跣,伏須罪誅。」詔不聽。

『魏略』はいう。河東太守の王邑を、詔して許都によぶ。

趙一清はいう。『後漢書』董卓伝はいう。献帝が牛車にのり、安邑に都した。河東太守の王邑は、綿帛をプレゼントした。注釈にいう。王邑は、あざなを文都という。北地のケイ陽の人だ。同年に鎮北将軍となった。昨日やりました。
献帝の動向を知るために、李傕・郭汜伝 04

王邑は、天下が定まらないので、河東を離れたくない。河東の吏民も、王邑にいてほしい。曹操は、河東太守の後任に、杜畿を任命した。鍾繇は洛陽にいたが、王邑から杜畿に引きつがれないトラブルをわびた。「もと鎮北將軍、河東太守、安陽亭侯の王邑が起こしたトラブルは、侍中、司隸校尉、東武亭侯の鍾繇のせいです。私(鍾繇)を罰して、爵土をけずってください」と。

「鍾繇は、法律の運用に厳格だなあ」と、ウットリしてはいけない。河東を安定して支配する王邑を、鍾繇は、ムリに引きはがしたのだ。王邑(人名)は、献帝を安邑(地名)にむかえるなど、曹操のライバルである。曹操と鍾繇のあいだで、ひと芝居うったかも。


自天子西遷,洛陽人民單盡,繇徙關中民,又招納亡叛以充之,數年間民戶稍實。太祖征關中,得以為資,表繇為前軍師。

献帝が長安に行ってから、洛陽に人民がいない。鍾繇は、関中の民を、洛陽にうつす。数年で、洛陽の民戸はふえた。曹操が関中を攻めると、鍾繇は軍資を供給した。前軍師となる。

趙一清はいう。関中で、鍾繇はきびしい軍役を課した。衛覬伝の注釈に見える。
いま、ちくま訳で確認しました。鍾繇は、張魯討伐にかこつけ、3千の兵で関中に入り、諸将から人質をとろうとした。1万人以上殺して、鍾繇は、関中を平定した。曹操は、鍾繇に関中を任せたことを後悔したと。衛覬は、鍾繇のやりかたに反対した。しかも鍾繇は、河東太守の王邑に治めてもらった、河東の安邑の人。鍾繇は、関中から河東にあった李傕以後の秩序を破壊して、曹操の色に塗りかえたことがわかる。こわい人!


魏國初建,為大理,遷相國。

魏国ができると、鍾繇は大理、相国となる。

建安18年、魏国にはじめて大理がおかれた。黄初元年、廷尉に改められた。鍾繇は、大理と廷尉をやったが、じつは同一の官位である。鍾繇が大理のとき、毛玠の獄をさばいた。

以下、気が向いたら、曹丕、魏諷とのからみをやります。おしまい。110401

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