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02) 208-217年、曹操への反抗期

『三国志集解』で孫権伝をやります。
なぜ、今までやらなかったのか、自分でも分からないほど、重要かつ楽しい。

前ページが長かったので、赤壁の戦いをこちらに移動しました。


208年、赤壁の戦い、車騎将軍府をひらく

荊州牧劉表死,魯肅乞奉命吊表二子,且以觀變。肅未到,而曹公已臨其境,表子琮舉眾以降。劉備欲南濟江,肅與相見,因傳權旨,為陳成敗。備進住夏口,使諸葛亮詣權,權遣周瑜、程普等行。是時曹公新得表眾,形勢甚盛,諸議者皆望風畏懼,多勸權迎之。
江表傳載曹公與權書曰:「近者奉辭伐罪,旄麾南指,劉琮束手。今治水軍八十萬眾,方與將軍會獵於吳。」權得書以示群臣,莫不鄉震失色。

荊州牧の劉表が死んだ。魯粛は、弔問にゆき、荊州をさぐる。劉琮が曹操にくだる。劉備は、長江をわたる。劉備を夏口におく。魯粛は諸葛亮を、孫権に会わせる。孫権は、周瑜と程普らを、荊州にゆかす。みな曹操を迎えよという。
『江表伝』は、曹操から孫権への文書を載せる。80万だよと。

孫権伝では、赤壁は簡潔だ。赤壁は、孫権をふくめ、揚州にいる官吏の全体意思でない。孫権のちょっとした本音と、魯粛、周瑜、程普らがはじめた、局地戦である。


惟瑜、肅執拒之議,意與權同。瑜、普為左右督,各領萬人,與備俱進,遇於赤壁,大破曹公軍。公燒其餘船引退,士卒饑疫,死者大半。備、瑜等複追至南郡,曹公遂北還,留曹仁、徐晃於江陵,使樂進守襄陽。時甘寧在夷陵,為仁黨所圍,用呂蒙計,留淩統以拒仁,以其半救寧,軍以勝反。權自率眾圍合肥,使張昭攻九江之當塗。昭兵不利,權攻城逾月不能下。曹公自荊州還,遣張喜將騎赴合肥。未至,權退。

周瑜と魯粛は、曹操をこばみたい。孫権も同意した。周瑜と程普を左右督として、曹操を焼く。劉備と周瑜は、南郡に曹操をおう。曹操は、曹仁と徐晃を、江陵におく。楽進を襄陽におく。甘寧は夷陵で、曹仁に囲まれた。呂蒙は、凌統に曹仁をこばませ、甘寧を助ける。

江陵と夷陵は、史料で混乱する。周瑜、甘寧、曹仁伝らを見ると、夷陵が正解。

孫権は、みずから合肥をかこむ。張昭は、九江の当塗を攻める。月をまたいでも、合肥はおちない。曹操は荊州からかえり、張喜に合肥を救わせる。孫権は、張喜がくる前にひく。

「魏志」蒋済伝は、このときの曹魏の作戦にくわしい。


十四年,瑜、仁相守歲餘,所殺傷甚眾。仁委城走。權以瑜為南郡太守。劉備表權行車騎將軍,領徐州牧。備領荊州牧,屯公安。

建安十四年(209)、周瑜と曹仁は、1年以上殺しあう。曹仁は、江陵をすてた。孫権は、周瑜を南郡太守とする。劉備は上表し、孫権を行車騎将軍、徐州牧とする。劉備は荊州牧となり、公安にいる。

孫権は会稽太守から、車騎将軍になった。みずから府をもち、諸葛瑾や魯粛らを、官位に就けられるようになった。孫権は、揚州にはみずからの府をつくらず、荊州に攻め込んだり、徐州牧になったりした。揚州は、曹操を支持するための本拠地。徐州や荊州は、あまったお小遣いで始めた、株式投資みたいなもの。
よく話題ににあることですが、「表」がクセモノ。曹操は、劉備と孫権の任命ごっこを、認めたのだろうか。大きすぎる問題なので、後日やります。
この歳の7月、曹操は淮水に入り、肥水にでた。揚州の郡県に、長吏を置いた。シャクハに屯田をひらく。12月、譙県にもどる。武帝紀、『資治通鑑』にある。孫権は、周瑜を南郡太守とし、江陵におく。程普を江夏太守として、沙羨におく。呂範を彭澤太守とする。呂蒙を尋陽の県令とする。劉琦が死んだので、孫権は劉備を荊州牧とする。周瑜は、南岸を分け、劉備にあたえる。劉備は、油口を公安の改め、孫権の妹をめとる。


呉郡、京口、建業へと遷る

十五年,分豫章為鄱陽郡;分長沙為漢昌郡,以魯肅為太守,屯陸口。十六年,權徙治秣陵。明年,城石頭,改秣陵為建業。聞曹公將來侵,作濡須塢。

建安十五年(210)、豫章を分けて、鄱陽郡をつくる。長沙をわけて漢昌郡をつくる。魯粛を、漢昌太守とし、陸口におく。

豫章は孫策伝。鄱陽は孫権伝の建安八年にある。
長沙は、孫堅伝にある。沈約は「呉昌県」を記すが、これが漢昌郡だ。銭大昕はいう。長沙は劉備が拠ったので、孫権は漢昌郡をつくった。建安十九年(214)、孫権ははじめて長沙を劉備から回収したので、漢昌郡をやめた。
盧弼は考える。魯粛伝では、建安二二年(217)、魯粛が死んだ。呂蒙伝で、呂蒙は魯粛の兵をつぎ、陸口にいる。呂蒙は、漢昌太守となる。これは、漢昌郡が、長沙郡に合わさっていない証拠である。ぼくは思う。漢昌郡をつくった動機は、劉備に(一時的に)長沙を与えるが、全部は与えないよ、という微妙な意思表明だ。
盧弼は考える。この歳、周瑜が巴丘で死に、魯粛が周瑜の兵をついだ。はじめ魯粛は、江陵にいた。陸口にうつる。魯粛伝にある。ぼくは思う。周瑜は、「廬江周氏」の兵を、子に伝えていない。周瑜は、廬江周氏として兵をもつのでなく、あくまで孫権の軍人として、行動していたか。魯粛が、兵をついだのだから。
盧弼はいう。またこの歳、孫権は歩隲を交州刺史とした。交趾太守の士燮は、歩隲をたてまつる。嶺南が、はじめて孫権に服属した。孫権伝にある。ぼくは思う。孫権は、郡を置き始めた。郡県の再編成なんて、たいてい皇帝しか、やらないことだ。孫権の独立は、赤壁によって、事実上、始まっている。劉備の処理を目的として、郡県を再編した。交州に手を出したのも、時期が重なる。のちに皇帝となった孫権は、台湾とか遼東とかに手を出すが。すでに、積極的に外に出る方向性は、はじまっている。

建安十六年(211)、孫権は秣陵にうつる。翌年、石頭に城をきずき、秣陵を建業と改める。

秣陵は孫策伝にある。張紘伝と、その注釈にある。建安十三年(208)、孫権は丹徒に京城を築いた。建安一六(211)、秣陵にうつる。ぼくは思う。孫権の動きは、結論として、こうなのだ。
周瑜、魯粛、呂範伝はいう。劉備は、京城で孫権に会った。これを208年とする。また胡綜伝は、車騎将軍の孫権が、京城に都したという。孫権が、丹徒の京城にいた証拠である。
呉鳴鈞はいう。孫韶伝は、孫韶の子・孫河が将軍となり、京城にいたとする。京城を築いたのは、孫韶と孫河の父子だ。孫権でない。孫河と孫翊が、同時に殺されたか、わからない。孫韶は、少なくとも建安九年(204)には生きていた。孫韶が去ってから4年後の208年、孫権は丹徒にきて、京城を修繕したのか。先主伝より、劉備が孫権と京城で会ったことは明白だ。孫権の移動を、孫権伝に書かないのは、歴史家の失敗である。
王鳴盛はいう。孫策は周瑜をひきいたい。周瑜を、居巣から呉郡にまねく。これが、孫策が初めて呉郡に立ったときだ。孫権は孫策をつぎ、呉郡に立った。孫策も孫権も会稽太守だが、長江や淮水から遠いので、呉郡に出てきた。許嵩の『建康実録』はいう。建安十三年、孫権ははじめて呉郡から京口にうつる。建安一六年(211)、京口から秣陵にうつる。建安十七年、秣陵を建業と改める。許嵩は、陳寿よりもわかりやすい。
以後、孫権伝から、孫権の動きを盧弼がまとめる。はぶく。

曹操が攻めると聞き、濡須塢をつくる。

呂蒙が薦めた。盧弼はいう。建業を防御するために、濡須に塢をつくった。この歳の7月、曹操は西に馬超を征す。10月、北に楊秋を征す。建安十七年(212)正月、鄴県にもどる。10月、孫権を征す。


213年、濡須の戦い、曹操の強制移住

十八年正月,曹公攻濡須,權與相拒月餘。曹公望權軍,歎其齊肅,乃退。
吳曆曰:曹公出濡須,作油船,夜渡洲上。權以水軍圍取,得三千餘人,其沒溺者亦數千人。權數挑戰,公堅守不出。權乃自來,乘輕船,從灞須口入公軍。諸將皆以為是挑戰者,欲擊之。公曰:「此必孫權欲身見吾軍部伍也。」敕軍中皆精嚴,弓弩不得妄發。權行五六裏,回還作鼓吹。公見舟船器仗軍伍整肅,喟然歎曰:「生子當如孫仲謀,劉景升兒子若豚犬耳!」權為箋與曹公,說:「春水方生,公宜速去。」別紙言:「足下不死,孤不得安。」曹公語諸將曰:「孫權不欺孤。」乃徹軍還。
魏略曰:權乘大船來觀軍,公使弓弩亂髮,箭著其船,船偏重將覆,權因回船,複以一面受箭,箭均船平,乃還。

建安十八年(213)正月、曹操は濡須を攻めた。孫権は、1ヶ月余、こばむ。曹操は、孫権の軍が治まっているので、退いた。

武帝紀はいう。孫権を江西でやぶり、孫権の都督の公孫陽をとらえた。『資治通鑑』はいう。曹操は40万、孫権は7万だった。
ぼくは思う。曹操と孫権の対決は、赤壁後の合肥につづき、2回目。「建業に遷った。建業は、もろかろう」と思って、曹操が出てきたか。馬超への攻撃の直後に、この戦いが起きた。曹操の側の事情を、考えてみる必要がある。

『呉歴』はいう。曹操は「孫権のような子供がほしい」と言った。孫権は曹操に、「春は、水量が増えます」と手紙した。
『魏略』はいう。孫権は、曹操の矢で舟がかたむくと、ぎゃくをむいた。

10万本の矢の元ネタになっていることは、有名だが。出典は、『魏略』だったのですね。「小説だ」と、一笑に付すのは、ちょっとむずかしいなあ。


初,曹公恐江濱郡縣為權所略,徵令內移。民轉相驚,自廬江、九江、蘄春、廣陵戶十餘萬皆東渡江,江西遂虛,合肥以南惟有皖城。

はじめ曹操は、長江あたりの人口を、孫権にとられたくない。曹操は、中原に移住させたい。民は驚いた。廬江、九江、蘄春、広陵は、みな江東にわたる。

「魏志」蒋済伝にある。建安十四年と、十五年の間である。つまり「はじめ」とは、209年か210年である。
胡三省はいう。蘄春は、もともと荊州の江夏に属す。沈約は、孫呉が蘄春郡を立てたとする。建安十二年(207)、孫呉が蘄春を、江夏から分けたと。呉増僅はいう。208年、孫権は黄祖を斬った。蘄春をおいたのは、このときだ。
いま建安十八年(213)、蘄春は曹操に属した。のちに曹操は、謝奇を蘄春におき、皖城で典農させた。呂蒙が謝奇を破るのは、呂蒙伝によれば、建安十九年(214)だ。214年まで孫呉は、蘄春をもたない。
黄武二年、曹魏は、孫呉からくだった晋宗を、蘄春太守とした。賀斉らは、晋宗を生け捕った。ふたたび蘄春は、孫呉に属した。ぼくは思う。207年か208年に、孫呉が荊州を切りとり、曹操が荊州ともども接収し、214年に呂蒙が奪いましたよと。

合肥より南は、皖城しかない。

長江は東北に向けて流れる。だから、歴陽から濡須を「江西」といい、建業を「江東」という。皖城は、孫堅伝に見える。強制移住は、蒋済伝にある。
趙一清はいう。射陽、広陵、海陵、高郵、江都、塩城の諸県は、三国のとき廃れた。陳登が広陵太守となってから、しばしば孫策の兵を破った。陳登は、華歆、王朗とはちがった。のちに陳登は、東城太守にうつされた。ゆえに孫氏が、長江の対岸にでてきた。曹操は、民をうつすことになった。失敗した。曹操は、長江にのぞみ、つづけて陳登を広陵太守のままにしなかったことを、なげいた。
ぼくは思う。陳登は、孫策より強かったからなあ。下邳の陳氏、あなどれない。


215年、単刀会、217年、曹操にくだる

十九年五月,權征皖城。閏月,克之,獲廬江太守硃光及參軍董和,男女數萬口。
是歲劉備定蜀。權以備已得益州,令諸葛瑾從求荊州諸郡。備不許,曰:「吾方圖涼州,涼州定,乃盡以荊州與吳耳。」權曰:「此假而不反,而欲以虛辭引歲。」遂置南三郡長吏,關羽盡逐之。權大怒,乃遣呂蒙督鮮于丹、徐忠、孫規等兵二萬取長沙、零陵、桂陽三郡,使魯肅以萬人屯巴丘。以禦關羽。權住陸口,為諸軍節度。蒙到,二郡皆服,惟零陵太守郝普未下。會備到公安,使關羽將三萬兵至益陽,權乃召蒙等使還助肅。蒙使人誘普,普降,盡得三郡將守,因引軍還,與孫皎、潘璋並魯肅兵並進,拒羽於益陽。

建安十九年(214)、孫権は皖城を攻めた。閏月、孫権が勝つ。廬江太守の朱光 と、参軍の董和をとらえた。

ぼくは思う。江西には、皖城しかない。それを抜いた。
廬江を陥としたのは、呂蒙だ。孫権は、呂蒙を廬江太守とした。呂蒙伝にくわしい。銭大昕はいう。董和とは、蜀漢の董和とちがう。

この歳、劉備が益州を定めた。孫権は諸葛瑾を劉備にやり、「荊州の諸郡をくれ」と言った。劉備は「涼州を得たら」という。

盧弼はいう。先主伝で、これは建安二十年(215)のこと。

孫権は、長沙、零陵、桂陽に長吏をおく。関羽に追われた。孫権は、鮮于丹、徐忠、孫規2万で、3郡を攻める。魯粛を、巴丘におき、関羽をふせぐ。孫権は、陸口にゆく。劉備は公安にくる。関羽は益陽にくる。

零陵太守の郝普を、呂蒙がくだす。孫皎、潘璋、魯粛は、関羽をこばむ。戦うまえ、曹操が漢中にはいる。諸葛瑾は、劉備と盟約をむすぶ。長沙、江夏、桂陽より東を孫権がもつ。南郡、零陵、武陵より東を劉備がもつ。孫権は陸口から、合肥にもどる。合肥をくだせず、孫権は撤退。凌統、甘寧が、張遼に襲われた。

張遼伝はいう。孫権は、10万で合肥をかこむ。
裴注『漢晋春秋』はいう。張遼は、孫権を取りにがした。「紫髯で胴長の人は、誰だったか」と聞いたと。『江表伝』はいう。谷利が、孫権をたすけた。漢文をはぶく。
ぼくは思う。孫権が、曹操に従順になるのは、この敗戦のあとだ。『漢晋春秋』と『江表伝』に、小説めいて茶化されてしまったが、方針を転換するほどの敗戦だったのだろう。このあと孫権は、曹丕が皇帝即位したあと、夷陵の戦いのときも通して、曹氏と友好である。


二十一年冬,曹公次於居巢,遂攻濡須。二十二年春,權令都尉徐詳詣曹公請降,公報使脩好,誓重結婚。二十三年十月,權將如吳,親乘馬射虎於庱亭。庱音攄陵反。馬為虎所傷,權投以雙戟,虎卻廢,常從張世擊以戈,獲之。

建安二一年(216)、曹操は居巣にきて、濡須を攻めた。建安二二年(217)春、孫権は、都尉の徐詳をおくり、曹操にくだる。曹氏と、婚姻する。

216年、呂蒙伝で、呂蒙が曹操をふせぐ。徐詳は、胡綜伝にある。何焯はいう。曹操に降伏し、孫権は本気で、荊州を取りにいった。曹氏と孫氏の婚姻は、孫策のときからある。この歳、魯粛が死に、呂蒙が代わった。

建安二三年(218)10月、孫権は虎狩した。危なかった。

次回、ちょっと史料を中断して、
魯粛の死と、孫権の方針転換について、考察します。110415

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