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方詩銘氏の劉備論「『争盟淮隅』的失敗」

方詩銘「『争盟淮隅』的失敗」(『論三国人物』)を翻訳します。
わりにストイックに訳しますが、もとが面白いので、読んでいただけるはず。

ほんとうは、4節あるのだが、後半の2つだけ訳します。省くのは「『梟雄』劉備」と、「劉備と公孫瓚」です。後半を選んだ理由は、袁術と絡むから。以上!


劉備が徐州牧に推戴される

陶謙が統治した徐州は、複雑で矛盾にみちた地区だ。徐州は、土地が豊かだ。いまの山東省西南部だ。
北は、曹操の兗州に面する。東は、袁術の淮南に隣接する。曹操は、一貫して徐州をうかがう。曹操は、陶謙に戦争をしかけた。このとき袁術は、「徐州伯」を称する。袁術は、徐州を得る野心を顕示した。これらが、徐州が外部にかかえる矛盾だ。

内部の矛盾は、陶謙と徐州豪族のあいだの闘争に反映された。
『三国志』陶謙伝はいう。陶謙は、道にそむき、情にまかす。広陵太守する琅邪の趙昱は、徐方の名士だ。趙昱は忠直だから、陶謙にうとまれたと。趙昱は、徐州の琅邪の人だ。 「徐方の名士」とは、この地の豪族を代表する人物である。陶謙伝では、趙昱1人が、陶謙にうとまれたと記す。これは実質として、徐州の豪族が、陶謙に排斥されたことを表す。
趙昱のほか、徐州豪族の代表人物は、麋竺と陳登だ。『三国志』麋竺伝は、東海の麋竺を記す。『三国志』呂布伝は、下邳の陳登を記す。呂布伝注引『先賢行状』も、陳登を記す。陳登の父は陳珪で、沛祖だ。祖父の陳球は、太尉になった。陳氏は「公族の子孫」である。東海と下邳は、どちらも徐州に属す。麋竺と陳登は、どちらも陶謙と対立した

なぜ陶謙は、豪族に反対されながら、徐州を統治できたか。徐州には、陶謙に親近する勢力がいた。陶謙は丹楊の人だ。同郷たる丹楊の人士がいた。中郎将の許耽が、その1人だ。さらに重要なのが、陶謙が丹楊兵をにぎることだ。『三国志』諸葛恪伝と、孫策伝注引『江表伝』は、丹楊兵のつよさを記す。劉備は、都尉の毋丘毅にしたがい、丹楊へ募兵にきた。曹操と夏侯惇、曹洪は、丹楊に募兵にきた。陶謙の下にいる丹楊兵は、数が多い。初めて劉備が徐州に来たとき、陶謙は4千人の丹陽兵をあたえた。現存する史料から、曹豹と許耽の2人が、丹楊を統率したと分かる。ただし、いくら丹楊兵がいても、なぜ陶謙は徐州を統治できたか。説明すべきだ。
劉備はなぜ陶謙につき、なぜ陶謙は劉備をみとめたか。当然、陶謙と劉備は、相互に利用しあった。となれば、劉備は徐州をうかがう第一歩として、陶謙についた。陶謙は、劉備をつかって、外部の敵を討とうとした。

以上から、内部で陶謙に敵対する豪族は、陶謙の統治を動揺させるには、足らなかった。外部では、袁術が淮南で野心をもつが、徐州を攻める実力が足りなかった。もっとも脅威となる曹操に、陶謙は劉備をあてた。陶謙が劉備をみとめた理由は、曹操への対策である。
ただし劉備は、曹操をふせげたか。『三国志』劉備伝によると、劉備は1千余人の幽州烏丸雑胡騎と、飢民数千をひきいた。これは烏合の衆だ。だから陶謙は、丹楊兵4千をおぎなった。劉備では、曹操の相手がつとまらない。ではなぜ陶謙は、劉備で曹操にそなえたか。この問題は、2方面から検討すべきだ。
ひとつめ。いくら陶謙は丹楊兵があっても、これをひきいる「戦将」に欠いた。陶謙の最大の弱点である。曹操が1回目に徐州を攻めたとき、10余城をぬき、彭城で大戦した。数万が死に、泗水が流れない。曹操は、兵糧がつきて退いた。陶謙が惨敗したのは、精兵をひきいる「戦将」がいないからだ。
ふたつめ。劉備は精兵が少ないが、関羽と張飛の2人がいる。曹操の謀士・郭嘉は、かつて言った。「関羽と張飛は、1万人に敵う」と。劉曄、周瑜も、関羽と張飛を脅威とした。当然のこと陶謙は、関羽と張飛を理解した。以上の2点から、劉備、関羽、張飛に丹楊兵をひきいさせるため、陶謙は劉備を受け入れたのだ。

劉備ファンが、もりあがりそうな記述。でも、劉備と、関羽と張飛は、同列の利用価値ということになる。べつに劉備が「君主」である必要は、ないのだから。


興平元年、曹操は2回目に徐州を攻めた。劉備と、陶謙の戦将・曹豹は、曹操をふせぐ。曹操は5城をおとし、東海郡にきた。劉備と曹豹は、郯城で曹操にやぶれた。このとき陶謙は曹操をおそれ、故郷に逃げ帰ろうとした。だが兗州で、張邈が呂布を迎えた。「偶然因素」により、徐州は助かった。

たまたまじゃない。ぜんぶ袁術のしわざ。と、ぼくは言いたい。笑

ただし謎がある。なぜ劉備は、まもなく徐州牧という高位にのぼり、当時の群雄の1人になったのか。

陶謙が病気になり、「遺命」を留めた。「劉備でなければ、徐州を治められない」と。劉備は徐州で曹操に大敗し、陶謙は曹操の威勢をおそれて、逃走しかけた。これは陶謙が、すでに劉備は破滅したと考えたからだ。なぜ徐州牧という高位を、劉備玄徳にゆずるか。なぜ陶謙は、「親信」な人に徐州牧を任せないか。たとえば中郎将の許耽は、丹楊の同郷人だ。また逆に、陶謙と対立した、麋竺のような徐州豪族に、徐州牧を任せないか。ここに1つの問題がある。なぜ陶謙は、劉備に任せよと「遺命」したか。

このあと劉備と麋竺の関係は、特別となる。『三国志』麋竺伝はいう。建安元年、劉備は出て、袁術をふせぐ。呂布が下邳をおそい、劉備の妻子を捕虜とした。劉備は海西に転じた。麋竺の妹は、劉備の夫人だ。麋竺は、奴客2千人、金銀貨幣をおくり、劉備の軍資をたすけたと。のちに劉備が益州を平らげると、麋竺が徐州で軍資をたすけたので、麋竺を安漢将軍とした。地位は、軍師将軍の諸葛亮の上である。劉備が徐州牧となった理由は、推測するしかない。
まず陶謙が示した「遺命」は、真実でない。麋竺が偽造したものだ。麋竺は、陶謙に反対する徐州豪族なのだ。つぎに、もともと劉備は徐州をねらい、徐州でおきる矛盾を了解していた。劉備は、矛盾の一端をになう麋竺を、味方として、陶謙に代わった。麋竺と陳登ら、徐州豪族の支持をもらい、劉備は徐州牧となった。ではなぜ、劉備と麋竺は、密接となったか。私(方詩銘)が思うに、劉備の「梟雄」な性格が、麋竺にあったからだろう。

劉備が徐州牧になるとき、劉備と陳登は、こんな会話をした。陳登は言う。「漢室はかたむいた。劉備が、『彼州』を治めよ」と。劉備は言う。「袁術が、ちかく寿春にいる。袁術に州をあたえよ」と。ここに、校勘のうえでの問題がある。陳登の言った「彼州」は、『三国志集解』では「鄙州」と改められる。盧弼がいう。各本にある「鄙州」を、みな「彼州」とつくる。『華陽国志』は「鄙州」とする。銭大昕はいう。「鄙州」が正しい。陳登は下邳の人だ。下邳は、徐州に属す。ゆえに「鄙州」と言ったのだ。「彼州」は誤りだと。

ぼくは補う。「鄙」は、ひなびた、田舎くさい、だ。「私の州」を謙遜して、そう呼んだのかな。「彼州」だったら、他人の州となる。陳登は、徐州が地元なのに!と。『三国志集解』の言い分は、これだろう。

私(方詩銘)は、校勘だけでなく、徐州の授受について重大な問題があると考える。陳登は、「陶謙が治める州」という意味で、「彼州」と言ったのだ。もし「鄙州」と言えば、一般的な地名としての徐州しか指さない。これは、当時の情勢にあわない。「彼州」のまま、文字を改めないほうが、正しい。陳登は徐州豪族として、完全に陶謙と対立したのだ。

『三国志』劉備伝注引『献帝春秋』はいう。陳登は、袁紹に遣いして、承認をもとめた。袁紹は、劉備の徐州牧をみとめた。陳登は「奸雄に徐州をとられたくない。劉備がよい」と、袁紹に言った。奸雄とは、だれか。「徐州伯」の袁術である。袁紹は関東の「盟主」だが、袁術とだけは、ずっと仲がわるい。だから袁紹は、劉備を徐州におき、袁術を威嚇した。

方詩銘は注釈する。曹操と袁紹は、同一の政治集団である。袁紹のまえで、曹操を「奸雄」とは言わない。だから陳登が言った「奸雄」とは、曹操でなく袁術である。

『三国志』孫策伝注引『呉録』はいう。孫策は手紙のなかで、「袁術と劉備が、淮隅を争盟する」という。孫策から見れば、劉備は州牧となり、袁術と淮水の最下流をあらそった。これが、徐州の争奪戦へと展開した。劉備は、群雄の列にならんだ。袁紹、曹操、劉表、公孫瓚とおなじ列にならんだ。

「争盟淮隅」の大敗

劉備が統治した徐州では、矛盾が継続した。外部では、北は兗州、東は淮南につながる。袁術は、虎視眈々と徐州をねらう。曹操は(劉備が袁紹とおなじ政治集団に入ったので)、もう徐州を攻めない。内部では、徐州豪族が劉備をかついだので、統治する側にまわった。ただし、陶謙に由来する勢力は、依然として存在した。内外の矛盾は、おさまったかに見えて、激化するのは必然である。

ぼくは思う。陶謙に敵対した、外の曹操、内の麋竺と陳登は、劉備をささえる側にまわった。ところで、琅邪の趙昱は、どこに行ったんだ。ニセクロさんは、袁術と琅邪人士の接近を、書いていらっしゃった。琅邪の人は、徐州の内側にあって、袁術の支援に回ったのでは?方詩銘氏は、もう書いてくれないが。


袁紹の支持のもと、劉備は徐州豪族にかつがれた。袁術を激怒させた。袁術は、「生まれてから、天下に劉備がいるなんて聞かない」と言った。四世三公の袁術にとって、劉備は、むしろ織りの小人物である。だから袁術は、劉備を蔑視する発言をした。袁術と劉備が、「淮隅」で戦争することは、避けられない。これが外部の矛盾である。
内部の矛盾もある。『三国志』劉備伝はいう。袁術が攻めると、劉備は盱眙、淮陰でふせいだ。劉備は、月をまたぎ、袁術と対峙した。呂布が、劉備の虚に乗じて、下邳を襲った。下邳の守相・曹豹が、劉備に反した。曹豹は、呂布を迎えたと。この記述はあっさりしているが、劉備の失敗が、徐州の内外にある矛盾が激化した結果だとわかる。分析が必要だ。

『三国志』呂布伝注引『英雄記』はいう。呂布は、水陸から東へくだる。呂布軍は、下邳から40里にきた。劉備の中郎将する丹楊の許耽は夜に、司馬の章誑を呂布に遣わせた。「張飛と下邳相の曹豹は、争った。張飛が曹豹を殺し、下邳の城中は乱れた。丹楊兵は西門にいる。呂布がきたと聞き、生き返ったように喜んだ。西門を開くので、呂布は下邳に入りなさい」と。呂布は、下邳をとった。
呂布と結んで、劉備に反したのは、3人である。許耽、章誑、曹豹である。これには、考察が必要だ。中郎将の許耽は、丹楊の人だ。陶謙と同郷だ。あきらかに許耽は、陶謙に親信された。許耽は「劉備の中郎将」とされるが、一方で劉備に属するが、一方で劉備に属さない。下邳の守将の曹豹は、本来は「陶謙の故将」である。このとき曹豹は、下邳相である。あきらかに陶謙に任命された、下邳相である。かつて曹豹は、劉備とともに曹操をふせいだ。『英雄記』を見れば、曹豹が張飛に殺されたのち、丹楊兵は呂布を迎えいれた。あきらかに丹楊兵は、曹豹の部曲である。章誑は、曹豹の軍中で、司馬をつとめた。章誑も、陶謙に親信された人だ。以上から、許耽、曹豹、章誑の3人は、丹楊兵を統率した人だと、言わなければならない。

ぼくは補う。さっきから「あきらかに」を連発してる。これは原文の「顕然」を訳したもの。
陶謙に「親信」された人が、呂布を迎えた。ってことは、もし呂布が袁術に通じていれば、袁術は陶謙に「親信」された人をつかって、袁紹集団の劉備を、追い落としたという話ができますね。袁術について方詩銘氏は、「能力不足」と断じて、蚊帳のそとに置くのだが。袁術の部将・孫策が、丹楊を抑えたのも、このころ。絶対につながると、ぼくは思う。

1つの問題に、説明がつく。徐州牧が陶謙から劉備に代わったあと、丹楊兵は劉備のしたに入ったのでない。陶謙の「故将」である、許耽や曹豹がひきいた。丹楊兵に背反されたのが、劉備が徐州をうしなった主要な原因だ。

『三国志』劉備伝注引『英雄記』はいう。劉備は袁術と、淮陰の石亭で戦った。勝ったり負けたりした。張飛が曹豹を殺した。呂布は、張飛を敗走させた。劉備は下邳に戻ろうとしたが、兵は潰走した。劉備は兵をあつめ、東へゆき広陵をとった。広陵で、袁術に敗れた。
これは、さきに見た『英雄記』を補うものだ。いくら張飛が「雄壮威猛」でも、1人の戦将にすぎない。張飛に、曹豹との矛盾を処理できようか。『英雄記』を見れば、張飛は粗暴的すぎる。だから下邳を失い、劉備は袁術に敗れた。下邳は、呂布にうばわれた。

ぼくは思う。外の袁術と、内の曹豹と、外から内にきた呂布。おなじ目標にむかう作戦なのに、袁術だけが絡まないというのは、ぎゃくに不自然だと思うのだ。


劉備が徐州を得てから失うまで、1年余にすぎない。ただし劉備の一生のうちで、1つの重大な転機だ。袁術と「争盟淮隅」したことは、劉備の典型的な性格と才能(政治と軍事について)を、反映した。

ぼくは思う。個人の性格と才能が、事件に「反映」するものだ。こう説明するのが、方詩銘氏の特徴です。いいのか、悪いのか、判断する立場にはありません。でも、考察が面白いなあ、と思うのです。論文の参考文献にもなるだろうし。

まず劉備が陶謙から徐州牧をもらったのは、劉備の「梟雄」な性格をあらわす。つぎに劉備は、麋竺や陳登ら、徐州豪族にかつがれた。その一方で、許耽や曹豹には丹楊兵をあずけたままだ。曹豹に下邳を任せたせいで、張飛と衝突した。劉備は、内部の矛盾を促進させ、最悪の結果をまねいた。

『三国志』呂布伝はいう。曹操は、兗州の諸城を、すべて回復した。曹操は、呂布を巨野で撃破した。呂布は、東ににげ、劉備をたよった。劉備は東へゆき、袁術を討った。呂布は下邳を襲いとったと。つまり曹操が兗州を回復したのち、呂布は劉備に投降するため、下邳の西にいた。だが許耽と曹豹は、謀略をあわせ、呂布に下邳を襲わせた。呂布とは、曹操に言わせれば「狼子の野心あり、誠に久しく養いがたし」という人物だ。呂布も「梟雄」な性格をもつ。なぜ劉備は、呂布を下邳のそばに置いたか。なぜ劉備は、袁術と戦うとき、呂布を動員しなかったか。むざむざと劉備は、呂布が下邳を奪うチャンスをつくった。劉備に、政治と軍事の才能が欠乏したとわかる。

ぼくは思う。史料が散らばっているから、呂布の動きが分からない。呂布伝によると、巨野の敗戦をトリガーにして、呂布は兗州を出たようだ。だが、呂布と曹操の泥沼は、なかなか決着しない。これまでの敗戦と、巨野のそれとが、どれほど違うのか。陳留には、まだ呂布の味方・張超ががんばっている。
呂布は、劉備に投降したのか。呂布は、袁紹集団の曹操と、激戦したばかりだ。劉備は、袁紹の「支持」を受けて、徐州牧を務めている。劉備も袁紹集団である。なぜ曹操に敗れた呂布が、劉備に投降できるものか。スジが通らん。
呂布が下邳の西にいたのは、劉備の判断だろうか。方詩銘氏が述べるように、もし呂布が劉備にくだり、劉備が呂布に命じることが可能な状況なら、呂布を袁術との戦いに投入するのが自然だ。しかし劉備は、呂布を使わない。方詩銘氏がいうように、劉備の「才能が欠乏」したというのは、不自然である。劉備は、呂布を使えなかったと考えるのが自然だろう。
きっと劉備がルスにしたあとに、呂布が兗州から(徐州をねらって)移動した。袁術は、劉備を下邳から釣り出しといて、呂布に背後を襲わせた。曹豹ら丹楊兵は、袁術のために、呂布へ内通した。そう考えるのが、自然だろう。どうにも成果があがらない兗州攻めよりも、謀略イッパツで獲得できる徐州のほうが、費用対効果がたかい。


このあと劉備は、呂布に降った。呂布は、劉備を追い出した。劉備の「争盟淮隅」は失敗した。後世に人が、劉備の性格と才能を知ることができる、典型的な事例である。のちに劉備は、諸葛亮のおかげで欠点を補い、荊州と益州を得る。110203

つぎに本は、諸葛亮の章が始まる。うまい構成だ。笑

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