表紙 > 孫呉 > 荊州の名将が、袁術の爪牙となる・孫堅伝

03) 伝国璽を得て、脳をこぼす

『三国志集解』で孫堅伝をやります。
なぜ、今までやらなかったのか、自分でも分からないほど、重要かつ楽しい。

董卓の懐柔をことわる

堅移屯梁東,大為卓軍所攻,堅與數十騎潰圍而出。堅常著赤罽幘,乃脫幘令親近將祖茂著之。卓騎爭逐茂,故堅從間道得免。茂困迫,下馬,以幘冠塚間燒柱,因伏草中。卓騎望見,圍繞數重,定近覺是柱,乃去。堅複相收兵,合戰於陽人,大破卓軍,梟其都督華雄等。是時,或間堅於術,術懷疑,不運軍糧。
江表傳曰:或謂術曰:「堅若得洛,不可複製,此為除狼而得虎也」,故術疑之。

孫堅は、梁県の東にゆく。董卓に攻められた。囲みを突破した。

『後漢書』董卓伝はいう。董卓はさきに、徐栄と李蒙をつかわした。董卓軍は、孫堅を破った。董卓軍は、潁川太守の李旻を煮殺した。これは、初平元年(190)である。
ぼくは思う。李旻の話は、重要な事実だから、強調したい。李旻は、煮殺された。もう一回、書いてみた。方詩銘氏の本でも、読んだなあ。

孫堅は、祖茂に幘をかぶせて逃げた。孫堅は兵を集めなおし、都督の華雄を斬った。このとき、袁術は孫堅をうたがい、軍糧をはこばず
『江表伝』はいう。ある人は袁術に「孫堅はこわいよ」と教えた。

きました!名場面。
さっきから孫堅は、ひとりで「軍糧が足りない!くれ!くれ!」と言っている。荊州の刺史や太守を周り、兵糧を集める。袁術にせびる。きっと『孫子』が言うように、軍事行動には恐ろしくコストがかかり、孫堅はこれをまかない切れないのだろう。袁紹に連なる人々は、進軍するコストの大きさをアタマで理解しているから、けっきょく動かない。極めて現実的な計算で、足を止めたのかもしれない。
袁術だって、個人的な性格がケチだから、軍糧をとめたのでは、なかろう。「孫堅は、軍糧をハイペースで使いすぎだ」と、驚いているにちがいない。だから、補給と消費のバランスがくずれた。孫堅の機動力は、良し悪しだなあ。


陽人去魯陽百餘裏,堅夜馳見術,畫地計校,曰:「所以出身不顧,上為國家討賊,下慰將軍家門之私讎。堅與卓非有骨肉之怨也,而將軍受譖潤之言,還相嫌疑!」 江表傳載堅語曰:「大勳垂捷而軍糧不繼,此吳起所以歎泣於西河,樂毅所以遺恨於垂成也。原將軍深思之。」
術踧唶,即調發軍糧。堅還屯。

陽人は、魯陽から100余里だ。孫堅は、袁術に軍糧をくれと訴えた。袁術は、しぶしぶ孫堅に軍糧をあたえた。『江表伝』は、孫堅のセリフを載せる。「私は、呉起や樂毅のように失敗したくない」と。

『三国志集解』は、呉起と樂毅について教えてくれる。はぶく。
ところで、いったい今は、いつだろう。袁術と合流したのは、初平元年(190)春でよかろうが。孫堅のセリフで、「袁術さんの仇討のために、私は董卓と戦っている」がある。袁隗が殺されるのは、『後漢書』献帝紀では、初平元年(190)3月戊午だ。下のほうで、董卓は洛陽に放火するが、これが『後漢書』董卓伝で、初平元年2月だ。放火の記事は、リアルタイムでないのか。時系列が、いまいち合わないなあ。


卓憚堅猛壯,乃遣將軍李傕等來求和親,今堅列疏子弟任刺史、郡守者,許表用之。堅曰:「卓逆天無道,蕩覆王室,今不夷汝三族,縣示四海,則吾死不瞑目,豈將與乃和親邪?」複進軍大穀,拒雒九十裏。

董卓は孫堅をおそれた。李傕をつかわし、「孫堅の子弟を、刺史や太守にする」と懐柔した。孫堅は、ことわった。大谷にすすむ。洛陽まで、90里。

大谷は、霊帝がおいた八関のひとつ。「魏志」武帝紀の初平元年にある。
ぼくは思う。董卓による懐柔のセリフに、後漢の利害が濃縮されているような気がする。後漢の人にとって、「権力を握る」とは、子弟を地方官にすること。宦官がそうしたし、董卓もそうした。孫堅にも、おなじ蜜を差し出した。


山陽公載記曰:卓謂長史劉艾曰:「關東軍敗數矣,皆畏孤,無能為也。惟孫堅小戇,頗能用人,當語諸將,使知忌之。孤昔與周慎西征,慎圍邊、韓於金城。(中略)但殺二袁、劉表、孫堅,天下自服從孤耳。」

『山陽公載記』はいう。董卓は長史の劉艾に言った。「むかし周慎ととも西方を攻めたとき、孫堅は侮れなかった。二袁と劉表、孫堅を殺せば、天下は私に服する」と。

はでに省略しました。董卓が、むかし話をしている。『後漢書』董卓伝と比べれば、董卓、張温、孫堅がいっしょに戦った話を、再現できるようです。
ぼくは思う。『山陽公載記』では、劉表は董卓の敵なんですね。なんで任命した?


董卓が洛陽を焼き、孫堅が伝国璽を得る

卓尋徙都西入關,焚燒雒邑。堅乃前入至雒,脩諸陵,平塞卓所發掘。

董卓は洛陽を焼く。孫堅は、諸陵を修復した。

「魏志」董卓伝はいう。初平元年(190)2月、董卓は天子を長安にうつした。洛陽を焼き、諸陵をあばいた。董卓は孫堅から逃げて、メン池にいる。孫堅は洛陽にすすみ、呂布を撃つ。孫堅は呂布を撃ち、宗廟を清掃した。諸陵をふさいだ。兵を函谷関から出し、新安、メン池にいたる。ある人が言った。韓馥のようなやつなら、睨むだけで殺せるのに。?


江表傳曰:舊京空虛,數百里中無煙火。堅前入城,惆悵流涕。
吳書曰:堅入洛,掃除漢宗廟,祠乙太牢。堅軍城南甄官井上,旦有五色氣,舉軍驚怪,莫有敢汲。堅令人入井,探得漢傳國璽,文曰「受命於天,既壽永昌」,方圜四寸,上紐交五龍,上一角缺。初,黃門張讓等作亂,劫天子出奔,左右分散,掌璽者以投井中。

『江表伝』はいう。洛陽が廃墟だから、孫堅は泣いた。
『呉書』はいう。井上に五色の気がある。伝国璽だった。

伝国璽は、すでに研究があるので、細かく書きません。裴注もはぶく。
栗原朋信「帝室の璽印」(『秦漢史の研究』吉川弘文館、一九六〇)


訖,引軍還,住魯陽。

諸陵の修復をおえ、孫堅は魯陽にもどる。

吳錄曰:是時關東州郡,務相兼併以自強大。袁紹遣會稽周喁為豫州刺史,來襲取州。堅慨然歎曰:「同舉義兵,將救社稷。逆賊垂破而各若此,吾當誰與戮力乎!」言發涕下。喁字仁明,周昕之弟也。
會稽典錄曰:初曹公興義兵,遣人 要喁,喁即收合兵眾,得二千人,從公征伐,以為軍師。後與堅爭豫州,屢戰失利。會次兄九江太守昂為袁術所攻,喁往助之。軍敗,還鄉里,為許貢所害。

『呉録』はいう。関東の州郡で、みな勢力の拡大につとめる。袁紹は、会稽の周喁を豫州刺史とした。孫堅は、なげいた。周喁は、周昕の弟だ。

周氏の兄弟が混乱することは、こちらのページ真ん中あたり。
公孫瓚03) 袁紹と袁術を開戦させる

『会稽典録』はいう。曹操が義兵をおこすと、周喁は2千人で曹操にあわさり、軍師となった。のちに周喁は、孫堅と豫州をあらそう。孫堅に勝てず。たまたま次兄の九江太守する周昂が、袁術に攻められた。周喁は、周昂を助けにゆく。袁術にやぶれて、郷里(会稽)にもどる。周喁は、許貢に殺された

『資治通鑑』初平二年(191)、袁紹は会稽の周昂を、豫州刺史とした。孫堅の陽城を襲わせた。銭大昕と趙一清は、周昂を誤りという。丹楊太守の周昕は、曹操の兵あつめを助けた。武帝紀の初平元年にある。袁術は、呉景を丹楊太守として、周昕を追いはらった。「呉志」妃ヒン伝にある。王朗は、もと太守の周昕をつかわし、周昕と孫策とを戦わせた。孫策は、周昕を斬った。「呉志」孫静伝と、注釈の『会稽典録』にある。これが、周昕の始終である。
袁術は孫堅を陽城におき、董卓をこばんだ。袁紹は周昂をつかわし、陽城を奪おうとした。「魏志」公孫瓚伝にある。袁紹は、会稽の周昂を九江太守とした。袁術は、孫賁に周昂を攻撃させた。孫賁は、陰陵で周昂を破り、豫州刺史となった。「呉志」孫賁伝にある。これが周昂の始終である。孫賁が周昂を攻めたのは、孫堅が死んだあとである。
周喁のことは、この孫堅伝と、注釈にひく『呉録』、『会稽典録』にあることで、すべてである。3人の兄弟のことは、ゴチャゴチャになる。
ぼくは思う。上にリンクした公孫瓚伝でやったのに、ふたたび孫堅伝で、やるハメになった。ただし盧弼のおかげで、何が正解か、ハッキリしている。これは、ありがたいことです。


191年、孫堅の死、孫策伝へのつなぎ

初平三年,術使堅征荊州,擊劉表。表遣黃祖逆於樊、鄧之間。堅擊破之,追渡漢水,遂圍襄陽,單馬行峴山,為祖軍士所射殺。

初平三年、袁術は孫堅に、荊州の劉表を攻めさせる。劉表は黄祖に命じ、樊鄧の間で防がせる。孫堅は黄祖をやぶる。漢水をわたり、襄陽をかこむ。孫堅は、峴山で刺殺された。

樊鄧とは、湖北である。南陽郡である。
孫堅の死去は、陳寿の誤りで、初平二年(191)が正しい。『通鑑考異』はいう。『後漢書』は、初平三年(192)春、孫堅が死んだとする。「呉志」孫堅伝とおなじだ。
『英雄記』は、初平四年(193)5月7日とする。えー!
袁宏『後漢紀』はいう。初平三年(192)5月に死んだ。『山陽公載記』は孫策の上表を載せる。「私が17歳のとき、孫堅は死んだ」と。裴松之は考える。孫策は、建安五年に26歳で死んだ。すると孫堅は、191年に死なないとおかしい
張璠『漢紀』、胡沖、呉麻?は、孫堅が初平二年(191)に死んだとする。これが正しい。盧弼は考える。周瑜伝の建安三(198)年、周瑜は24歳だ。周瑜と孫策は、おない歳だ。さきの『山陽公載記』がのせる孫策の上表と、計算があう。孫堅は、初平二年(191)年に死ぬ。これで決定である。


典略曰;堅悉其眾攻表,表閉門,夜遣將黃祖潛出發兵。祖將兵欲還,堅逆與戰。祖敗走,竄峴山中。堅乘勝夜追祖,祖部兵從竹木間暗射堅,殺之。吳錄曰:堅時年三十七。
英雄記曰:堅以初平四年正月七日死。又雲:劉表將呂公將兵緣山向堅,堅輕騎尋山討公。公兵下石。中堅頭,應時腦出物故。其不同如此也。

『典略』はいう。暗闇から、孫堅を射た。『呉録』はいう。孫堅は37歳で死んだ。

「魏志」桓階伝はいう。桓階は劉表にたのみ、孫堅の死体をもらった。
孫堅が初平二年(191)に死んだならば。孫堅は、桓帝の永寿元年に生まれた。このとき、孫策は17歳、孫権は11歳である。2人は、6歳ちがう。

『英雄記』はいう。孫堅は、脳をたれながした。

盧弼はいう。「魏志」劉表伝で、孫堅は流矢で死んだ。史料によって、死にザマがちがう。ぼくは思う。みな孫堅の死を、描きたくて仕方がない。だから、諸説出てくるんですね。


兄子賁,帥將士眾就術,術複表賁為豫州刺史。堅四子:策、權、翊、匡。權既稱尊號,諡堅曰武烈皇帝。
吳錄曰:尊堅廟曰始祖,墓曰高陵。 志林曰:堅有五子:策、權、翊、匡,吳氏所生;少子朗,庶生也,一名仁。

孫堅の兄の子は、孫賁である。袁術をたよる。袁術は上表し、孫賁を豫州刺史とする。孫堅には、4子がいる。孫策、孫権、孫翊、孫匡だ。孫権が皇帝になってから、孫堅に追諡して、武烈皇帝とした。
『呉録』はいう。孫堅の廟を「始祖」とよび、墓を「高陵」とした。
『志林』はいう。孫朗は呉氏の子でなく、仁ともいう。

つぎは孫策伝ですね。日曜日に着手する予定です。おわり。
いちばんの収穫は、孫堅の没年を191年と、固められたことかな。
これで、だいぶ、話を作りやすくなった。110409

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